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旧東海道餐歩記−3
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2004.09.12(日) 京急神奈川新町駅入口〜JR戸塚駅入口
おなじみの 五人男が 勢揃い   相模路を 旅は道連れ 徒歩々旅

 待ち合わせ場所「神奈川新町駅」改札口では、既に村谷氏はじめ滝澤・田幸・清水の4氏がお待ちかね。結局この東海道シリーズでは最多の5人男の勢揃いとなる。9月も中旬だというのに天気晴朗、日射し弱からず。村谷氏は前回だったか買い求めた麦わら帽。自分は9月だからと思ってメッシュ帽にしたが、村谷氏の判断が的確だったようだ。

 いつぞやの山歩以来、久しぶりに逢った田幸氏は釣り用とかの風通しのいいユニーク帽?姿で、聞けば体調もすっかり快復の由でめでたい。きょうの打ち上げは、距離的・地勢的に考えて戸塚宿か頑張っても藤沢宿辺りだろうが、その双方迄の概略距離を説明すると「戸塚までにしましょう」の声が大勢で、藤沢までという声はない。いずれにしても前回の清水氏の復帰祝に続いての田幸氏の快気祝パーティということになるのは確実といった雰囲気だが、「戸塚にいい打ち上げ場所はあるんだろうね?」と聞くと大きな声で「あります」と即答が帰ってくるあたりが頼もしい。そんな他愛ない冗談とも本気ともつかぬ会話をしながら、早速、前回の続きとなる国道15号の日影側を歩きはじめる。

 もうここは「神奈川宿」である。「神奈川歴史の道」のイベントが近々あるらしく、案内の幟などが道筋にちらほら見える中、随所に設けられた「神奈川歴史の道」の案内看板を見ながら国道と別れ、やがて宮前商店街へと右折。源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祀ったと伝わる「州崎大神」は残念ながらお扉が閉ざされたままである。やむを得ず、外から参拝して京急とJRの線路を渡り、登り坂を進むと有名な台町。某社長の就任祝が催されたらしい料亭や、某氏が御愛用だったという料亭など、由緒ある料亭が数軒残っているが、かつては神奈川の台と言われ、神奈川湊を見下ろす景勝の地だった様で、東海道中膝栗毛の弥治さん喜多さんもこの台町の茶屋で休んだ由。ご存じ池波正太郎の小説「仕掛人・藤枝梅安」でもお馴染みの街だ。

 神奈川台関門跡碑とか、袖ヶ浦見晴所碑などというのがあるが、ここ高台にある台町の崖下には神奈川湊が広がっていたらしい。

途中6人連れだったか、初老の男性集団がハイキング姿で向こうからやってくる。挨拶を交わした後、田幸氏が「京都からですか?」と冗談っぽく茶化すと「歩きはじめたばかりです」と真面目に返され、苦笑する一幕もあった。

 高速道路、新横浜通りを越え、人穴伝説のある浅間神社を探すが、どうやら右上の台地らしく諦める。源頼朝の命を受けて仁田四郎忠常が探検したという穴だが、残念。

 右大山道の分岐から先が松原商店街で、もう「保土ヶ谷宿」に入っている。昔を思い出させる風情たっぷりの懐かしい店が道の両側で威勢良く営業している。国道16号を越え相模鉄道天王町駅へ向かう途中、右手の橘樹(たちばな)神社に参拝。昔からの地域の氏神さまで、境内には保土ヶ谷で一番古い庚申塔が立っている。

 続いて『タマちゃん』で一躍有名となった帷子川の帷子橋を渡るが、タマちゃんのお出迎えはない。時に10時55分だが、腹の虫はとっくの昔から鳴いている。弘法大師像を祀った香象院に立ち寄り、南無大師遍照金剛と真言を7回唱えるが、真言は舌がもつれそうで全員大苦戦。

 やがて、さつき商店街から国道1号線に出た所が、保土ヶ谷宿本陣跡。当時の通用門が残っている。更にJR線と平行しながら進むと今も当時を偲ばせる豪壮なたたずまいが感じられる脇本陣跡。江戸時代後期の建物が現存している。

 その先、上方見附跡を過ぎると国道1号線と別れ右手旧道に入ると、元町橋への途中に手打ち蕎麦処「きむら」があり、ラッキーとばかり入店したのが11時40分。早速讃岐手打饂飩と手打蕎麦、茶蕎麦のセットと瓶ビール3本で、渇いた喉と腹の虫に応えてやる。実に旨い。いいタイミングに、いい店があったものだと互いの幸運を喜び合う。因みにこの先の食事処は相当先だった。ここで、両足太股部分のジッパーを外して長ズボンから半ズボンに変身すると、とたんに気持ちいい。「午後はこれに限る」とひとり悦に入る。腹と喉が満足したところで12時12分再出発。

 元町橋の先で2体しかない「石仏6体」を見てからいよいよ有名な権太坂を登り始める。権太坂の石碑をバックに写真撮影するが、なんでも権太坂のいわれには2説あるらしい。正月恒例の東京箱根間大学駅伝で有名な権太坂は左手を走っている国道1号の方だろうが、何だか通って得した気になる坂であるというのは我1人か。この旧道権太坂は新道開通後も昔ながらの侭だったが、昭和30年に時の平沼横浜市長が1500坪の道路用地を寄贈し、拡幅と切り通しにより改修された由、往時はかなりの難所だったようだ。

 やがて道は下りに入り、相模国と武蔵国の境界だったという境木地蔵尊に参拝して、雑木林の続く下り坂からゆるい登り坂にかかると神奈川県内でほぼ完全な形で残っている唯一の、道両側に大きな土居の残る「品濃一里塚」を通る。ここは日本橋から9番目の一里塚の由で、残り距離から前途遙かなることを思い起こす。

 品濃町の果樹園が続く中、右手に名古木シラカシを見て環状2号線の歩道橋を渡った所で通りがかりの青年に進路を確認。品濃坂を坂下へと下り、バイパス下を抜け、桜並木の柏尾川沿いに進んだあと、国道1号線に合流。そろそろトイレ休憩を兼ねて王子神社を目指すが入口を通り過ぎたらしい。仕方なく、順路に従って1号線から分岐した先のコンビニに立ち寄る。

 冷たい冷菓類をそれぞれ買い求めると村谷氏がザックから冷凍持参の冷たいおしぼりを渡してくれ、謝々。チョー気持言い。「あともう少しだ、頑張ろう」と再び国道に合流し、戸塚宿の江戸方見付跡・戸塚一里塚(10番目)を越え、戸塚駅東口信号から本日の終着点戸塚駅へと進む。

 その前に、恒例の本日打ち上げと田幸氏の快気祝を兼ね、駅前の「ラピス戸塚2」の4F「はなの舞」に到着。時に14時10分。我らの来店を待ち14時開店とは気が利いているばかりか、おネェちゃまも愛想良くかわいらしい。早速生ビールで乾杯の後、銘酒・名酎で疲れを癒す。新鮮サンマ・鰹・マグロの刺身から好みの数品を所狭しと卓上に並べ、歓談尽きやまず。

 本日の徒歩々は略々23,000歩の由で、見どころの多かった割にはそこそこ歩けたかと自己満足ならぬ集団満足してトイレに立ち寄ると、四国遍路の時に足摺で昼食に立ち寄った店の湯飲みで見た「健康十訓」が掲額してあったので思わずカメラのシャッターを押してしまった。因みに内容は以下の如し。

少肉多菜 少塩多酢 少糖多果 少食多噛 少衣多浴
少言多行 少欲多施 少憂多眠 少車多歩 少憤多笑

 地下鉄一本で帰れると言う滝澤氏を見送り、JR戸塚駅で東京方面への村谷・田幸両氏と別れを告げ、清水氏と藤沢経由小田急線で帰路につく。新百合ヶ丘で多摩センター行に乗り換えた所で別用でこちら方面に来ている筈の妻から携帯に電話。今、車で新百合ヶ丘を出たばかりだという。遅かりし由良之助とはこのことか。きょうが初回という趣味の体験入学は楽しかったらしく、夫婦共に楽しい一日になったようだ。

 高幡不動駅で書店に立ち寄り、仲間から聞いた岩波新書の「日本縦断 徒歩の旅」を買い、帰宅後、きょうの仲間にデジカメで撮った写真をメール送信したら、田幸氏宛が不着。別アドレスに再送したら非公開アドレスには不着になる由。

 それにしても「首筋が真っ赤になっているわね」と妻に言われ、一瞬ひやっとしたが、「ああ、きょうは日射しがきつかったからね」と応えたものの、打ち上げ過ぎを見破られたかと冷や水もので、もう一本缶ビールを飲み始めるあたり、我ながら気が小さいと言うかカワイイ?と言うか、恐妻家というか、それにしても喉はまだ渇いているらしく更にもう一本飲みたい程の旨さだったが、調子に乗りすぎないことにした。