旧東海道餐歩記−2
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2004.07.10(土) 京急大森駅入口〜京急神奈川新町駅入口
炎天下、川崎の宿を抜け、神奈川宿手前まで。生麦事件の後は生麦酒事件!

 午前9時18分、前回の打切り場所、京急大森町駅改札に集合したのは、第1回目の滝澤・村谷両氏および小生に、新たに清水氏を加えた4名。当初の予報より天気が好転し、炎暑を予想しての半袖・半パン・麦わら帽が威力を発揮しそうである。清水氏も半パン姿での参加だ。

 歩き始めてすぐに、日本橋から14kmの標識を発見。プラタナスの並木とさわやかな海風に後押しされ、梅屋敷跡の聖蹟梅屋敷公園に到着。

■ 梅屋敷公園

 明治天皇も9回行幸され、聖蹟の名を冠した公園となったが、その割には面積が狭く、時代の変遷を痛感する。竹柵で仕切られた園内に入ると豆砂利の小径が左右に走り、すぐ目の前に岸辺を石で縁どった池があり、緑の樹木の影を映している。園内の大きな木陰下の土俵では、若者達がまわしを締め熱心に四股踏みの稽古をしていた。

 1820年頃(文政年間初期)、東海道筋で”和中散”という有名な道中薬を商っていた山本忠左衛門の息子久三郎が、梅栽培の盛んだった近在から集めた梅の木や椿などを植え、庭園と休み茶屋を造り、酒肴を出したりした処、文人や行楽客、東海道の旅人らで賑わうようになり、”蒲田の梅屋敷”として江戸の名所になり、梅の開花期には大変な人出になったという。

 安藤広重の江戸名所百景にも描かれており、徳川12代将軍家慶が鷹狩りの際に立ち寄ったり、幕末には木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、伊藤博文らが度々会合を持ったとも言われている。明治以後も、明治天皇がこの庭園を格別に好まれ、九回も行幸されて自らも梅の木を植えたり、大正天皇や皇族方も立ち寄っている。

 残念なことに、1918(大正7)年の第一京浜国道拡幅工事と京浜急行電鉄の開通で庭園の大部分が削り取られ、庭園としての往時の姿を失ってしまったという。残された部分は、昭和になって当時の東京市に寄付され、昭和28年以降大田区立公園(梅屋敷公園)となった。園内にはまだ梅林の一部や幾つかの石碑(復元したものを含む)が残っており、いささかではあるが往時の名残に触れることはできる。第一京浜国道に面した正面入口付近には、根元にササダケをあしらったシイノキの古木が立ち並び、歴史を感じさせる。

----以下大田区教育委員会設置案内板より引用-------
     大田区文化財・梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散は、食あたり、暑気あたり等に効く、道中常備薬として作られ、旅人に珍重され元禄から正徳にかけて(1688年〜1716年)大森村中原、谷戸(やと)、南原に3店が開業しました。このうち南原にあった店がのちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したといわれています。文政年間(1818年〜1830年)の初め、忠左衛門の子の久三郎の代に庭園に梅の名木を集めて休み茶屋が開かれ亀戸の梅林とともに梅の名所「梅屋敷」として有名になり、広重の浮世絵にも描かれました。」

呑川の夫婦橋の親柱

 道路拡幅工事で移転された呑川の夫婦橋の親柱を川沿いの小公園で見つける。

              
旧夫婦橋と共同荷揚場跡
 夫婦橋は、第一京浜国道(かつての東海道)が呑川を渡る場所に架かる橋です。昔は橋のすぐ上流に堰があり、呑川の水を分けた小さな川(農業用水として使用された六郷用水)が脇を流れていました。呑川と用水に架かる二つの橋が並んでいたことから夫婦橋と呼ばれ、江戸時代からその名が知られていました。
 呑川河口付近は、かつて海苔採取業者が生活し、てんま(ベガ)と呼ばれる舟が行き来していました。水害対策のために新呑川ができた昭和14年、共同舟揚場がつくられたが、その後付近の発展にともない種々の荷揚げにも利用されました。
 その跡地が、この夫婦橋親水公園のある場所です。
                             平成12年2月
                             大田区土木部公園課


 夫婦橋親水公園に保存されている旧夫婦橋の親柱

    
旧夫婦橋親柱

 夫婦橋は、江戸時代初期に書かれた、「東海道分間絵図」という書物にも出てくる、歴史の古い橋です。
 この親柱は、第一京浜国道整備のため、大正十三年に完成した夫婦橋のもので、昭和五十八年に橋の拡幅、呑川護岸工事にともない、取りはずされました。
 長い間交通の大動脈を支え、地域の変化を見つづけてきた橋を記念し、親柱を保存することになりました。
                             昭和六十一年
                             大田区土木部公園課


 そこから歩くこと暫し、10:18六郷神社に到着。思いのほか境内が広く、全員賽銭を入れ参拝。昔の六郷橋の親柱や梶原景時寄贈の橋桁の一部も発見する。

■ 六郷神社

神社のホームページから要旨を抜粋すると、

 社伝では、天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられている。  
 文治五年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて 戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。社宝の雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が 奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものである。
 天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長、5年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にある。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いている所以はここにある。 
 江戸時代には、東海道を隔てた西側の宝朱院(御幡山建長寺)が別当寺だったが、明治維新により廃され、明治5年(1872)東京府郷社に列格し、明治9年より六郷神社と称して今日に至っている。

 総本社ともいうべきお宮は、九州の宇佐八幡宮で、奈良時代には早くも皇室の厚い信仰を 得ていた。 その後、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮が建てられたが、 六郷神社は今から950年余の昔、石清水八幡宮の分霊をお祀りした神社である。
 一般に八幡様の御祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、 比売大神(ひめおおかみ)の三柱の神様で、 六郷神社でも昔はこの三神をお祀りしていたが、ある曳船祭で一座の神輿が上総(かずさ)の国に流されてしまい、もう一座の神輿はことのほかの荒神で、しばしば祟りを受けたので土中に埋めた、と江戸時代の本に書かれている。
 現在の御本殿は、享保4年(1719)に建てられ、 三柱の神様をおまつりする建築様式になっているので、応神天皇一柱をお祀りするようになったのは、それ以後のことと思われる。


 第一京浜の高架下をくぐり、多摩川沿いの「六郷渡し場跡」の傍に「北野天神」を見る。

■ 北野天神

 土手下にある立派な社殿の「北野天神」は、別名を「止め天神」とも呼ばれる。その由来は、徳川八代将軍吉宗の騎乗していた馬が暴走した際、北野天神のご加護によって暴れ馬を鎮め、落馬を止めたというもので、祀られているのは、学問の神、菅原道真公。そこで、「落馬止め」を「落ちない」に結びつけて、受験生や選挙立候補者・乗馬関係者などがよく参拝に訪れるそうである。

■ 六郷の渡し

 この辺りでは六郷川とも称される多摩川は、江戸を出て最初に渡る大河である。元禄の頃までは六郷橋が架かっていたが、氾濫がひどく何度も崩壊した。具体的には、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせたが、相次ぐ河川の氾濫で流出し、慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)と数度架け替えられ、貞享元年のものが江戸期最後の橋となった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡し(舟)による渡河となった。

 これは、川崎宿本陣の当主田中丘隅が、流失した六郷橋の代わりに渡し場を設けることを幕府に願い出て、聞き入れられたもので、以後は舟渡しでの河往来となり、その渡し賃収入(一人十文、武士は無料の由)をもって困窮していた川崎宿の財政を潤し、宿場再建・運営に大きく寄与したというから、往時の旅人の数の多さが窺われるというものだ。1874年(明治7年)1月、鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋(通行料徴収)を架ける迄舟渡しが続いたが、この橋もまた1878年(明治11年)洪水で流されている。

 現・新六郷橋の中程が東京・神奈川の都県境で、橋の上から右手に六郷パブリックゴルフ練習場での打ちっぱなし風景が見える。土曜日で、中年男性達が休日を楽しんでいるようだ。橋の上に、当時の渡し船の模型があり、これをバックに記念撮影する。風に帽子を飛ばされないよう抑えながら橋を渡ると、そこはもう川崎宿だ。話にしか知らないが、お好きな人もいるであろう堀の内の例の通りの一本北側だそうで、無事に旧東海道の標識を見つけ一安心するも、呼び込みの兄さん達は時間のせいか全く見かけない。

■ 明治天皇六郷舟渡御碑

 橋を渡って歩行者用階段を降りると、明治元年東下り途上の明治天皇の、舟23隻を連ねた舟渡りを記念した碑が左手にある。なお、この辺りは1893年に川崎区の農家で誕生した長十郎梨の故郷と言われている。

■ 万年屋跡

 宿場入口に万年屋跡の案内板が立っている。往時、川崎宿の名物として名を馳せた「奈良茶飯」の茶店跡だという。大豆・小豆・栗・粟などと茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、これに多摩川で獲れた蜆の味噌汁が付いた由。

■ 川崎宿

 川崎宿は、他の宿より遅れ、元和九年(1623)に設けられたが、厄除けで有名な川崎大師信仰の広がりと共に後発のハンディを挽回して栄え、旅人のみならず大勢の参詣客でも賑わったという。幕末には、下田から江戸へ向かうアメリカ総領事のハリスもこの宿で泊まったそうだ。余談だが、川崎大師(1128年建立)は1813年に厄年を迎えた11代将軍徳川家斉が公式参拝してから、庶民の間で厄除け大師詣でが流行し始めたそうで、そんなことも宿繁栄を加速させたと思われる。

 川崎宿は、都市化や戦災のために往時の面影は全く残っていないという解説を事前に読んでいたが、実際には、街道400年を期してか、旧街道の復元・保存に熱心に取り組んでいると見え、感ずる雰囲気は品川宿にひけをとらない。東海道の表示がそこかしこに見える街中で、「川崎・砂子の里資料館」という海鼠塀の建物に飛び込むと、百人一首をパロディー化した浮世絵を飾った珍品「小倉擬百人一首 後期」展にめぐり合い、クーラーの涼風に癒されながら小休憩できた。

 そんな通りを、田中本陣跡、宗三寺、中の本陣跡、問屋場跡、佐藤本陣跡等を確認して、京側の宿入口を出た辺りで空腹を覚え、超庶民的中華店に飛び込む。時に11時半。全員、半チャン餃子&ビール半本で疲れを癒し、芭蕉句碑を見て八丁畷へと歩を進める。

■ 八丁畷

 京急本線の右側に出て八丁畷駅前に出ると、ここに八丁畷の由来書きや、横に墓石があり、合掌。八丁畷というのは、八丁(約870m)ほど田畑の中を畦道が真っ直ぐ伸びていた所という意味のようで、この付近で発掘された人骨が鑑定の結果江戸期の人々のものと判り、疫病や災害の犠牲者として埋葬されていた。

■ 市場一里塚

 その先左手に江戸から五里目の一里塚で、片側だけ残っている。

 12:30、鶴見川の先の鶴見橋関門旧橋の先の図書館の傍で暫しの休憩をとる。きょうはどこまで行けそうか等と話しながら、魚河岸が道の両側にずらりと並ぶ「生麦魚河岸通り」を過ぎ、「蛇も蚊も祭り」で名高いという「生麦神明社」や「生麦事件跡」を見ているうちに、「キリンビール生麦工場」に13時30分到着した。

■ キリンビール工場見学

 このメンバーだから、喉の渇き具合も丁度良しと、早速見学ツアーに申込み、14時の部に間に合う。ガイドに従って製造工程を見学し、14時30分過ぎには無料の中ジョッキ2杯プラスおつまみ&試食チョコレート&チーズを得て、ラッキーとなる。ガイド嬢が見事な手つきで、缶ビールを中ジョッキに3回に分けて泡を盛り上げるデモンストレーションは、一見の価値ありだった。

 心身ともにすっかりリフレッシュした処で「神奈川宿まで行くか」、「いや、京急神奈川新町迄行って、清水氏のアルコール解禁祝いだ」と店を探しつつ進むと、近くの街道沿いで焼肉屋を発見。16時の開店前だったが店を開けてもらい、清水氏の参加復帰を祝して鯨飲馬食するが、値段大いに安く、味もまずまずで、大いに足の疲れを癒すことができた。

 元気を付けた処でさらに横浜を目指すべく店を出たら、幸か不幸か雨。「ならばやむなし、本日はこれまで」と、京急の特急停車駅、神奈川新町駅にてゴールとし、次回はここから第三弾を始めるべく再会を約して散会した。