2008.11.16(日)甲西アートホテル~石部宿~草津宿~瀬田唐橋~アーブ滋賀 |
3日目の朝食は7:00からのホテルの無料サービスを利用し、7:45出発。再び、昨日の街道筋に戻り、昨日立ち寄り済みの「北島酒造」前を北西の石部宿へと向かう。空からは、ほんの僅かだが小雨がぱらついている。 ■石部への道 すぐ先で家棟川を渡ると、右手に、「両宮常夜燈」が立っている。石部への道は、狭い道の割には車が多い。8:01浄休寺(右)、8:10愍念寺(右)、8:10光林寺(右)、8:11地蔵堂(左)の先で、小さく左折しすぐ右折する枡形の左手に8:14式内の上葦穂神社の道標を見る。 ■石部 落合川橋を渡ると、8:18「石部東」交差点で漸く「石部」の文字を目にする。ここを左折すると「石部歴史資料館」へ行けるようだがパスする。すぐ「石部宿」の案内板があり、石部宿の東の入口である。その先左の「吉姫神社」入口で雨具を脱ぐ。8:28左手で「西福寺」を見ると、ちらほら古い家が目に入り始める。 ■道の辺広場(8:33~8:37)---「石部中央」交差点の左手前角--- 芝生敷きの小公園風の広場に、漆喰塗りの背の低い塀が鍵型にあり、そこに三枚の大石版が飾られている。右から ★「西寺 常楽寺 千手観音菩薩を本尊とする常楽寺は、金粛菩薩の開基といわれ、本堂と三重塔が国宝建造物です。」 の文言横に寺院の墨絵が描かれている。 ★「東寺 長壽寺 長壽寺は僧良弁によって建立されたといわれ、聖武天皇の御子降誕により子安地蔵尊を安置する国宝寺院です。」 の文言横に寺院の墨絵が描かれている。 ★「東海道五十三次「石部」田楽茶屋にて 歌川(安藤)広重」の文言横に、その墨絵。 その左端には「都つじいけて その陰に 干鱈さく女 芭蕉」の句が併掲されている。 このほか、「御高札場」の大きな木札や、常夜灯風の時計台、築地に石灯籠などもあり、休憩できる。 ■「いしべ宿驛」~休み所(8:40)左手 その前に「←水口宿三里半 草津宿三里→」と書いた木標が立っている。中は囲炉裏や座布団がおかれ、休憩可能である。 ■石部本陣跡(8:46) 大きな「明治天皇聖蹟」の石碑や「東海道石部宿 石部本陣跡」と刻した小さな石標がある。木板に墨書で風化し、一部読みとりづらい解説板には、次のように記されている。 石部宿小島本陣跡 小島本陣は、慶安三年(1650)吉川代官の屋敷あとに創建され、承応元年(1652)に膳所藩主本多俊次公、康将公に忠勤の功により本陣職を拝命された。 この本陣は、間口四十五間、奥行三十一間、敷地二八四五坪、建坪七七五坪、表門、裏門二、番所などがあり、□、刺股、突□、道具を飾り立てその奥に玄明、大広間等二十六部屋がみられた。 小島本陣は、東海道にあった豪壮鮮麗な建物であったと道中記事に記されている。こうした壮麗な本陣も老朽化により昭和四十三年に取り壊され、現在に至っている。 その間、天皇、皇族、大名、幕府の高官が宿泊し、その記録を宿帳に残されており、明治元年京(京都)より江戸(東京)に都が遷されるにあたり、明治天皇が御宿泊され、それらの貴重な資料も現存している。 小島本陣古文書一式 石部町 平成九年三月 石部町教育委員会 ■真明寺の芭蕉句碑(8:50)左手 石が古くて読みにくいが、縦書きで左起右行になっている。 「つゝじいけて その蔭に干鱈 さく女」 何と、先ほどの「道の辺広場」で見た 「都つじいけて その陰に干鱈 さく女 」と同一の句だった。「野ざらし紀行」の旅の途中、琵琶湖付近で詠んだ句だとか。 ■石部一里塚跡 8:51街道は、派手な「石部宿」の幟の立つ「田楽茶屋」(時間前なので未開店)の角を右折し、枡形にその先を左折すると、その先右手にある。大きな木札に墨字で「一里塚」と書かれただけのものだが、116番目の一里塚跡である。 ■西縄手・東海道五十三次図(9:00) 左手のミニ公園に、「東海道石部宿」の石版を基台埋め込んだ真新しい常夜灯が立ち、横の解説板に「江戸時代、ここは宿内に入る前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木がありました。」と木板に墨書されている。そして、町制100周年記念事業で平成15年に石部町が設置した若い松並木が植えられている。 また、その奥(街道左手の「宮川」寄り)には、大きな横長の「東海道五十三次図」があり、日本橋から三条大橋までの街道地図に宿場名や、廻りに広重の画を16枚配して見事である。 ■上道と下道 JR石部駅(右手)も過ぎ、「村井川」を渡ると街道は左右二手に分かれる。左が「天和三年(1683)の野洲川氾濫で新たに出来た“上道(うわみち)”」で、右が、それ以前の“下道”である。上道は、地図で見ると南側に大きく回りこむ迂回路になっており、従って、遠回りになる上、草ぼうぼうの道を車の轍跡を頼りに通る部分もあるらしく、昨日の雨後として懸念無しとしないことを理由に、衆議一決、右の下道を行くことにする。 左手には削られて地肌の露出した鋭い三角形の灰山が見える。石部金山として知られ、古くは聖武天皇の御代に銅の採掘が行われた記録があるそうだ。また、「石部金吉」という言葉はそこからきているそうだ。 ■「湖南市」から「栗東市」へ 9:20、名神高速道路下を潜った先で、左からの上道を合わせ、「湖南市」から「栗東市」へと入っていく。「伊勢落(いせうち)」集落である。白い漆喰に連子格子の古い家が多く、しっとり落ち着いた町並を形成している。 ■近江富士 右手に見えるのが「近江富士」と呼ばれる「三上山」で、きれいな円錐形が見える。 ■生涯学習都市の宣言町栗東市「ここは伊勢落」(9:29)右角 栗東市の若々しい気合いがこの「看板」に感じられ、やや身が引き締まる感じがする。少し先で林集落に入る。 ■領界石・長徳寺山門(9:41) 林集落の右手の長徳寺の前に「従是東膳所領」と刻まれた膳所藩領傍示石がある。その先の民家に「東海道林村」という往時の地名札が架かっている。これ以外にも幾つか見た。 ■六地蔵堂 六地蔵集落には、両側に古い家が多く残っている。江戸時代、ここは石部宿と草津宿との間宿(あいのしゅく)だった所である。9:47右手の「六地蔵堂」に立ち寄る。 重要文化財 木造地蔵菩薩立像 明治33年4月7日指定 福正寺(法界寺) 法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼・閉口し、衲衣の端を右肩に懸け、偏衫と裳を着けて直立する。現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。座高96.5cmヒノキ一木造。平安時代(10世紀)ころの作とみられる。ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵尊の一躯であると伝わる。 平成16年3月 栗東市教育委員会 隣の福正寺境内には栗東市指定文化財鎌倉時代末期の石造り多層塔がある。 ■史跡旧和中散本舗(9:48) その先左手に、「和中散本舗大角弥右衛門家」の古風重厚な建物がある。 「和中散」は、徳川家康が腹痛の折、この薬を飲んで直ちに治ったので、有名になり、腹の中を和らげるという意味で名付けられた、と伝えられる腹痛の漢方薬である。 前には、「史跡旧和中散本舗」や、建物に付属する日本庭園は、国の名勝に指定されている。大角家は、同時にまた、六地蔵間宿の茶屋本陣でもあった。 ■国重要文化財大角家住居隠居所(9:49) 旧和中散本舗向かいにある旧家が「大角家住宅隠居所」である。大角家の家長が、隠居したとき住むために建てられた建物だが、大名が本陣として使用している間は、家族も一時的に居住したそうで、江戸時代を代表する豪華な建物として、国の重要文化財に指定されている。 現在、和中散は製造されていないが、街道に面したこれらの建物は当時の賑わいを偲ばせる。 ■六地蔵一里塚(9:53)左手 大角家西側の小公園の先の二股を右手を行った先の左手で、117番目の一里塚跡を見つける。石碑は新しい。手前側面には「和中散のまち・六地蔵/東へ至石部の宿」とある。また、傍らには次のような大石版がある。 ★東海道名所図会「梅の木」・・・大きな石版に絵入りガイド 江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)がおかれ、梅木(うめのき)立場と称された。「ぜさい」を名のる道中役、「和中散」を商う店がることで、京・大坂・江戸にまで知れ渡っていた。 ★六地蔵古絵図 「六地蔵村」・「梅の木」についての解説と、六地蔵所在地の古絵図が石版に記されている。 しばらく歩くと、小野集落(旧小野村)に入る。 ■五葉の松(10:05)右手 暫く先、右手に一本の軸木に左右前後横向きに枝の伸びた松の木がある。芸術的な形である。その先左手に、白漆喰の家に倉がある家があり、酒屋清右衛門と表示されていた ■栗東ハーフマラソン・ランナーを応援(10:12~10:20) 手原集落に入り、先導カーや大会役員達の予告に従って高速道路下で待っていると、向こうからマラソンランナーが大勢走ってくる。立ち止まって、全選手が通過するまで、拍手と激励の言葉を大声で発し、男女ランナー達に声援を送った。そのうちに気づいたのは、当然と言えば当然なのだが、やはり反応が人様々で、手を振り笑顔で応えながら走り去る人から、無表情・無言で走りすぎる人まで、十人十色である。ランナーの表情を遠目で見て、傍を走りすぎる時の反応・表情を予測し、実際の表情や反応と対比してみると、結構人間研究というか、にかなか興味深いものがあり、結構当たるものでもあると思った。 ■手原赤坂会館・手原稲荷神社・明治天皇聖蹟・里中大明神(10:22~10:27)v 左手の手原赤坂会館にてトイレ借用。近くにいろいろ見所がある。 赤坂山記念碑 抑 赤坂山六町七反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し 明治二十二年の頃 当時の現住民七十二名の共有山として区長管理の下に 玉梅社等の協力を得て その保安に努めて来たのである この間明治四十二年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当 その後植栽を行い幸山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として 区の財政に多大の寄与をなして来た。 然るに名神高速道路の開通に伴い 仝付近の開発頓に進み 昭和四十三年開発事業団の要請に応ずるの止むなきに至り 永年の愛着を捨て譲渡に決する 即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し 区民の福利増進施設として 手原赤坂会館と命名 之を建設する 昭和四十四年九月二十三日 その先左に手原稲荷神社がある。朱塗りの囲い木柵の前に「明治天皇手原御小休所」と刻んだ石碑が建つ。 (境内にも「明治天皇御聖蹟」の碑あり) その先が神社入口で、左脇に立派な由緒書きの石版(解説板)がある。 稲荷神社由緒 里中大明神 木造男神座像 <明応九年(1500)開眼>室町時代 当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。寛元三年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明三年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文四年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。慶弔十七年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享三年(1686)と享保八年(1723)に社殿の再建あり、明治二年改築、明治九年十月村社に列す、昭和六十一年修復工事を施行。 当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。 東海道名所記に「左の方に稲荷の祠在り、老松ありて傘の如しなり、笠松と言う」と記され、江戸時代は笠松が有名であった。 ■子午線(10:31) 神社角を右折すれば「毛原駅」だが、直進すると程なく「東経136度 子午線」の石柱を発見する。横面には、「太陽南中時刻 午前11時56分 05年11月建立」とある。 ■すずめ茶屋跡地(10:33) 「東海道 すずめ茶屋跡地」の石標と、「東海道毛原村 田楽茶屋 すずめ茶屋 葉山東街道まちづくり」の木製看板が駐車場の前に建っているが、一体何なんだろう。この先の「目川立場」が、田楽で名物だったそうなので、この辺りにもあったのだろうか。 ■足利義尚公鈎陣所ゆかりの地(10:37)左手 ゆるやかに左に曲がって行ったた先の、左の堤の間中腹に、「九代将軍足利義尚公鈎陣所ゆかりの地」の石碑が建っている。 応仁の乱後、室町幕府は勢力が衰え、九代将軍足利義尚は、文明19年(1487)、当地に陣を張り、幕府への抵抗勢力、近江守護・佐々木氏を攻める。佐々木陣営と小競り合いを繰り返し乍ら、二年後の延徳元年(1489)、陣中において、弱冠25歳で病没している。本陣は、西方300m程の「永正寺」近辺に置かれたとのこと。傍に歌碑が数基あるほか、花時計や花壇のある小公園になっている。 ■善性寺とシーボルト(10:50)左手 シーボルトと善性寺 その先、「葉山川橋」を渡り、右手一面の畑を見ながら進むと、先方に草津の町が見えてくる。「川辺」交差点の先左に「善性寺」がある。残念ながら立ち入れないが、文政九年(1826)四月二十五日、オランダの医師で博物学者やシーボルトが、江戸からの帰途、善性寺を訪ねている。その時の見聞が「シーボルト江戸参府紀行」に次のように記されてある。 「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学せり。」云々とある。 治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会 ■延命山地蔵院(10:53)右手---浄土宗の寺院--- その先「金勝川」の堤にぶつかるT字路に「坊袋バス停」があり、そこを右折した先の右手にある。 皇太神宮の碑 ここ目川地蔵院の境内には天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神という銘のある碑があり、側面には「元禄年間亥年」の刻印がある。神仏混交の時代の名残であろうが由来は明らかでない。 治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会 (注)元禄年間亥年=元禄八年(1695) ■目川一里塚跡(10:56)左手---石柱と解説板--- 118番目にあたる目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅と旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があったという。案内板の反対側、街道右手には「東海道一里塚 草津宿まで半里」の新しい道標もある。 ■專光寺(10:58)右手 真宗大谷派、山号は久遠山という寺院の境内に、「槇」と「銀杏」の大木がある。大きすぎて、とてもカメラに収まりきれない。 ■田楽発祥の地(11:05)右手 「目川立場田楽茶屋元伊勢屋跡」の解説板、「田楽発祥の地 滋賀県栗東市岡三八四番地」の石標がある。 「(前略)ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。(後略)」と書かれている。 天明時代の当家の主人岡野五左衛門は与謝蕪村に師事した文人画家で「岡瘡山」と号した由。 江戸時代には、この元伊勢屋(岡野家)と、この先右手にあった(11:07)古志ま屋(寺田家)、(11:09)京伊勢屋(西岡家)の三軒の茶屋が並んでいたそうだ。この数軒先の寺田家前に「名代田楽茶屋古志まや跡」 と刻まれた石柱がある。 ■史蹟老牛馬養生所跡(11:19)右手 草津川の堤に突き当たって右折し、11:14東海道新幹線のガード下を潜る。たまたま上をあっという間に通り過ぎていく早さにあらためてびっくり。11:19その先で変わった名前の解説板と石碑に出逢う。なお、「打はぎ」というのは、殴り殺して皮を剥ぐことをいう 史蹟 老牛馬養生所跡 栗太郡志等に「この施設は和称村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和称村の牛場で老廃牛馬の打はぎ(筆者注)をしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎにすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。 治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会 ■天井川「草津川」越え(11:27) その先の二又路を左にとると、「草津市」に入る。天井川になっている左の「草津川」沿いのの堤防道に登って行き、その先で国道一号線を眼下にして越える。その先で左の草津川を渡って右折するのだが、その草津川は干涸らびている。天井川なので、江戸時代には、渇水期には川に降りて渡っていたようだ。今は上流を堰き止めて新たに川を造り、そちらへ水を流すようになったために、現在では上流からの流れは無くなったのだが、形状としては往時の侭である。 ■草津宿江戸側入口・・・高野地蔵尊・道標付き常夜灯 この草津川にかかる橋を渡ると、そこは、草津宿の江戸方の入口にあたる場所で、右手の土手と土手沿いの下り道との間に「高野地蔵尊」のお堂、そして、左側には火袋付石造道標(左 東海道いせ道、右 金勝寺志がらき道)がある。台座の上に石柱が立ちその上に火袋部分が乗っているものである。 総高は約4mあり、日野の豪商中井氏の寄進で文化3年(1816)3月に建てられており、往時は道を挟んで北側にあった由。 ■中山道と合流(中山道との追分)11:34 道は斜めに堤防から降り、記念ポイントへ入っていく。即ち、T字路に突き当たって右手角が「中山道」との追分だ。右折すれば中山道、左折すれば中山道と東海道共通となる京・三条大橋への道であるからだ。 その突き当たり右手を見ると、いろいろな解説板やら石塔らしきものが立っていて、そのすぐ先には天井橋「草津川」が高架線路が道路のように横切っている。 市指定文化財 道標「右東海道いせみち」「左中仙道美のじ」一基 ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、、火袋以上は、たびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残の少ない中にあって、常夜灯だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。む 昭和四十八年十月十五日指定 草津市教育委員会 昭和五十一年贈 草津ライオンズクラブ また、最近建てられた解説板もある。また、明治4年の郵便創業当時と同型の「書状集箱」とか、「東海道」の解説板などもある。 ■史跡草津宿本陣(田中七左衛門本陣・見学有料)11:36 草津宿は本陣が2軒あったそうだが、「追分」から少し行ったところ右手に、「田中七左衛門本陣」がある。全国に残る本陣の中でもひときわ大きな規模を有し、国史跡に指定されている。延4726㎡の敷地内には多くの建造物がある。享保3年(1718)草津宿大火の後、急遽大津瓦ヶ浜御殿を移築したと伝えられているが、現存する本陣の平面形態が本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態に合致したため、現存本陣遺構はその絵図が描かれた弘化3年から文久3年頃(1846~1863)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになっている。 本陣の表には、「松平出羽守宿」の宿札とその解説板がある。 関札(宿札)について 関札は別名、宿札とも言い、江戸時代に大名や公卿、門跡、旗本や幕府役人などが本陣に宿泊する標識として、休泊する者の氏名や官職、休泊の別(宿・泊・休など)を記し、尺廻り(約30センチ、高さ3間(約5.5メートル)の青竹に取り付け、本陣の前や宿場の出入り口に立てられたものです。 これらの関札は、休泊する前日から数日前に本陣に届けられましたが、その実際については各宿場の問屋場で作成され届けられたという説や、大名の家臣である関札役人が、それを兼ねた宿割役人が持参したなど諸説があります。 また関札には、木製と紙製の2種類があります。ここ田中七左衛門本陣(現・草津宿本陣)には、木製のものが約460枚、紙製の者が約2,900枚余と、他に類をみない膨大な数の関札が保存逸れています。しかしこの関札の多くが、利用年月日が記入されておらず、また国名の記載のない場合も含めると、それぞれの関札が一体誰のものかを特定することは、大変難しいのが現状です。 なお、出雲国(島根県)松江藩主で、文政13年閏3月15日をはじめ、度々にわたって草津宿本陣に宿泊した、田中七左衛門本陣のいわばお得意様です。 ■仙台屋茂八脇本陣跡(11:38) 本陣の先左手に「仙台屋茂八脇本陣跡」があり、現在は往時を想起させるような雰囲気をも多建物で、土産店兼食事処になっている。向かって右脇に「草津宿脇本陣跡」の石碑が建っている。 ■田中九蔵本陣家跡 その先左手にもう一つの本陣「田中九蔵家跡」があるが、石碑と、地面に広重の何故か東海道関宿の浮世絵があるのみである。 ■柏屋十右衛門脇本陣跡 その先の右手には、月に三度東海道を往復したという「三度飛脚取次処」の「柏屋十右衛門脇本陣跡」の碑もある。 ■街道交流館(11:44) アーケードの商店街へ入ると、左手に「街道交流館」があり、入館してトイレを借用する。ジオラマやクイズ、昔の旅人の衣装などもあって楽しい。面白かったのは、「梅雨明け待つ白すだれ」と題した水口名産の干瓢(かんぴょう)に関するカラー写真入り新聞切り抜きのコピーと、その横に大きな干瓢の玉があったことである。 ■常善寺(11:46) 交流館の向かいにある「常善寺」は、天平7(735)良弁上人開基と伝えられる古刹だそうだが、今はその面影が全く感じられない。草津宿太田家の絵巻によれば、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は八幡(近江八幡市)から近江路を上り九月十九日にこの常善寺に宿陣。在陣は僅かであったが、敵将石田三成らが家康の前に引き出され、ここで首実検をされている。喜んだ家康は住僧一秀を召し田畑五十石を与え、ここ草津が東海道や中山道の要衝である処から草津の発展に注力するよう住僧秀一や傍らに控えていた太田家に申し伝えた由である。そんないわれのある常善寺が今やその面影も無く、二重の驚きである。 ■草津政所跡(11:47) その先の右手に「問屋場・貫目改所跡」の表示がある。全国で5箇所、東海道でも3箇所しかなかったと言われる貫目改所がその向かい、現在の太田酒蔵である。太田酒蔵は太田道灌の末裔と伝えられ、「草津政所跡」の表示がある。公用荷物を伝馬で運ぶため、重量を測って運賃を決めたり、役所馬に積む荷物の重量を計って、規定の重量を超えていないかどうかを調べたところである。先述の家康から僧一秀とともに指示された太田家というのが、どうやらこの太田家らしい。「草津街並み博物館 草津の蔵」「道灌蔵」などの立て札や看板と共に、薦被りの「道灌」の酒樽が入口脇に積まれている。 ■滋賀県内最古の道標 11:50「伯母川」に架かる「宮川土橋」を渡ると右手に「立木神社」が見え、その右手に中山道と東海道との追分にあった古い道標が移設されている。延宝8年(1680)の銘が刻まれ滋賀県下で最古のもので、「みぎハたうかいとういせ三ち ひだりは中せんたうをた加みち 万宝院 京みぶ村 あしだの行者」と刻まれている。草津宿もこの辺りまでのようだ。 ■遠見遮断 立木神社の先は、ゆるやかに曲がりくねった道になっており、「遠見遮断」と呼ばれる軍事上の配慮がなされている。 ■矢橋(やばせ)道道標(11:59) 11:53道は「新草津川」に架かる「矢倉橋」を越え、少し行くと左手に「光傳寺」があり、更に少し先右手に「矢橋(やばせ)道道標」がある。寛政10年(1798)建立で「右やばせ道 これより二十五丁」と刻され、東海道を往来する旅人を矢橋の渡しに導くためのものだったという。 矢橋道は、ここから矢橋港まで通じ、矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていた。矢橋港から大津の石場までの渡しは湖上50町(5.4km)の距離、陸路の瀬田の大橋経由は三里なので、江戸時代の旅人は東海道をひたすら歩いたと思っていたが、近江路では、船便利用で時間短縮や疲労防止を図ったようである。 ■昼食(12:05~12:32) その先で国道1号を横切る手前右手にタイミング良く「ラーメン名門」があり入店し昼食。 ■野路一里塚跡(12:34) 「矢倉南」信号で国道を渡ると、すぐ先に「上北池公園」があり、119番目の野路一里塚が復元されている。明治14年頃民有地に払い下げられ消滅していたものを再建している。この公園を通り抜けその先で交差する道を右手の信号まで迂回して先へ進む。 ■遠藤権兵衛家(12:38) 左手の教善寺(12:37)のすぐ先右手に「平清宗」「清宗塚」の解説板二枚を見る。 平清宗 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 遠藤権兵衛家 当主 遠藤 勉 清宗塚 文治元年三月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。 清宗は父宗盛(三九歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年六月二十一日の事、清宗時に十七歳であった。首は京都六条河原にて晒される。 平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三一歳で殺される。夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。 ■教善寺(12:37)・新宮神社(12:41)・願林寺(12:42) この近辺には社寺が多い。遠藤家手前左には「浄土宗本誓山教善寺」、その先には「新宮神社」がある。本殿は、一間社流造、大永3年(1523)建立の国指定重要文化財で、鳥居左の建物は膳所城水門が移されたものの由。その先右手には「願林寺」があり、見事な松が横に枝を張っている。 ■野路萩の玉川跡(12:49) 県道43号を越えた先右手に「野路 萩の玉川」という名泉の跡が昭和51年に復元されている。 古き宿駅 野路駅の名残 野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。 「千載和歌集」 の源俊頼の歌に あすもこむ 野路の玉川萩こえて 色なる波に 月やどりけり と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には、「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。 付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。 その先は道がカーブし、南笠東に入る。江戸時代には、松並木があったようだが、今はない。 ■弁天池・弁財天(12:56)右手 浄財弁財天参道の石碑が入口に立つ橋を渡って池の中央にある弁財天に参拝する。地形的に立ち寄らずにはいられない雰囲気を持っている。 ■大津宿へ(13:03) 狼川を渡ると、左手に「旧東海道大亀川の渡し」木標と木造常夜灯があり、常夜灯の正面や側面には「東海道狼川 江戸日本橋から四百六十九・八km」などと表示されている。「ここから大津 東海道草津宿 ←4.6km瀬田唐橋 →草津本陣4km」というのもある。 狼川を渡ると、道は緩やかな登り下りをくり返しながら続いていく。 ■月輪立場跡(13:19) 左手の「月輪寺」の先に「月の輪池」の端が広がっている。 ■120番目の月ノ輪一里塚跡(13:30) 「一里山三丁目」信号、「一里山橋」(13:25)、を過ぎ、「一里山二丁目」信号左手前に「月の輪一里塚跡」がある。一里塚は明治末期まで残っていたそうだが、今はそれを記す解説板のみがある。月輪池一里塚とも呼ぶらしい。 ■瀬田の唐橋近づく 信号を越え、下り坂を進む。13:35「大江四丁目」信号の先から登り坂に転じ、「瀬田小学校」を右に見て左折する。13:44二つ目の四差路を右折し国道一号線に出るべきところを一本手前を右折したために大回りをして思わぬ時間つぶしをしてしまった。 14:02建部公園でトイレ休憩し、14:08その先の建部神社の末社「桧山神社」を過ぎ、県道2号線に出ると、「官幣大社建部神社」の石柱がある。 ■瀬田の唐橋(14:13) あとは300m弱進むと、いよいよ琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」である。想像していたより地味で、朱塗りでもなければ、これ見よがしの派手な擬宝珠がついているという訳でもない。奈良時代にはあり、鎌倉時代に架け替えの時、唐様のデザインを取り入れたため唐橋と呼ばれれるようになったという。 現在の橋は、大正13年(1924)建造のコンクリート橋で、大小34本の擬宝珠があり、川中の島を介して二つの橋になっている。 古より、東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝であったため、「唐橋を制する者は天下を制す」とまで言われ、壬申の乱ほか、承久の乱・建武の戦いなど、幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、そのたびに、橋は破壊と再建を繰り返してきたようである。 瀬田の唐橋の手前を左に入っていくと「日本三大名橋 瀬田の唐橋」碑があり、その裏には、俵藤太(藤原秀郷)が承平年間(931~938)瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁(竜神)の願いを聞き入れ、瀬田橋から三上山に住む大百足を弓で見事に退治したという伝承が書かれている。三上山というのは我々が歩いてきた野洲川の手前にあった山である。また、「浄土宗龍光山雲住寺」石標や「跋難陀竜王宮」道標、「俵藤太秀郷むかで胎児」解説板、常夜灯や歌碑などがあり、見どころ満艦飾である。 ■ホテルへ 『瀬田唐橋』を渡ると、瀬田川にある島に着く。右手に「多分あれがそうだろう」と思える今宵の宿「アーブ滋賀」(滋賀県青年会館)の偉容がみえる。川辺を歩きつつ向かうと、ボートに乗った若者達が川面を滑るように楽しんでいる。 14:30 に到着したが、チェックイン時刻を大分早まっていたにも拘わらず特別に入室させて貰え、窓からみえる川辺の夕景を楽しんだ。近江八景「瀬田の夕照」そのままの美しさは格別だ。その絶景を楽しむ人たちが乗った観光船も見える。 |