旧東海道餐歩記−15-4 瀬田唐橋〜大津宿〜京・三条大橋
 2008.11.17(月)瀬田唐橋〜大津宿〜京・三条大橋

 7時朝食、8時出発で「アーブ滋賀」を後にし、いよいよ「京・三条大橋」へとスタートする。

明治天皇鳥居川御小休所跡

 瀬田川の「アーブ滋賀」などのある島から向こう岸へのもう一つの唐橋を渡って、京阪電車の踏切を越え、鳥居川の交差点を8:07に右折すると、すぐ左手に「明治天皇鳥居川御小休所」の碑がある。

こだわりの旧道経由で「粟津の晴嵐」へ

 国道1号バイパスを潜り、石山駅に向かう京成電鉄踏切を再び越えると、JR琵琶湖線石山駅のガードが正面に見える。本来の道はガード手前の交差点を左折し、JR線路で遮断された旧東海道を左手の石山駅ビル二階通路を経由して線路の向こう側へ渡り、更に「盛越川」を渡った所で元の直進道路に戻る。

鳥居川(粟津)一里塚跡

 「盛越川」手前辺りに121番目の怩ェあったようだが、残念ながら過去の所在を示す碑もない。その先「晴嵐」という風変わりな名前の交差点がある。曾てはこの先の膳所城南総門から鳥居川にかけて松並木が続いていて、近江八景の一つ「粟津の晴嵐」として知られた名所だったという。歌川広重の浮世絵にも登場する名勝だがもはやその面影はない。

膳所城勢多口総門跡(8:32)

 晴嵐交差点を過ぎ、暫らく行くと、左折点の右曲がり角に「膳所城勢多口総門跡」の碑がある。ここは膳所城の南総門があった所で、番所だったという古家の軒丸瓦に膳所城主本多家の立葵(たちあおい)紋が残っていた。

若宮八幡神社(8:35)

 三度目の京阪電車踏切を越えると、右手に若宮八幡神社がある。鳥居奥にある表門は、膳所城の犬走り門を明治3年の膳所城取り壊し時に移築した高麗門で、正面向かって右側には脇門もある大津市指定文化財である。

 祭神は「仁徳天皇」で、壬申の乱(672)の3年後(白鳳4年)に天武天皇が「近江の湖水の辺り粟津に、わが子仁徳を祀り崇敬すべし」との宇佐八幡の御神託により、4年後の白鳳8年(679)に社殿が完成しているが、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古社である。当所は「粟津の森八幡宮」、のち「若宮八幡宮」、明治から「若宮八幡神社」となっている。鳥居横に立つ神社名の石塔は「若宮八幡宮」と刻まれ、江戸期造立と思われる。
 また、社殿は延喜17年(917)雷火で全焼、その後寿永3年(1184)源頼朝と木曾義仲の粟津の合戦でまたも全焼し、勝った頼朝が社殿などを再建したが、応仁の乱(1467)の兵火で三度焼失している。その後も立派に復興され、膳所城築城後の歴代城主・本多公が寄進で鋭意整備・修繕されている。また、境内には、皇太神宮をはじめ数多の摂社・末社が奉祀されている。

篠津神社(8:44)

 道はその先でまた右折し、またまた京阪電車踏切を越える。左手に「篠津神社」があり、膳所城の北大手門を移設した「表門」があり、国の重要文化財に指定されている。以前は「牛頭天王社」と称していたが、明治元年に改称されている。

晴好雨奇亭址(8:45)

 その先を左に曲がる手前右手に、碑があり、側面に次のように解説している。

 
奥村管次寿景(1788〜1840)。膳所の名金工師初代管次は湖東目川出身、湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀胴鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋なども屡々来遊し、山陽は晴好雨奇亭と名付け額を揮毫して与えた。五十三歳で病歿し唯伝寺に葬らる。基誌は海屋の筆。

 左折した次を右折し、8:52「大善寺」を通ると門が閉じられ参拝できない。次の角で左に寄り道し、「膳所神社」に向かう。

膳所神社(8:54〜8:58)

 膳所神社の表門は、膳所城二の丸から本丸への入口にあった城門が、明治3年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されており、大正13年(1924)4月に国重要文化財に指定されている。
                    
膳所神社
     一、祭 神 豊受比売命
     一、例大祭 五月三日
     一、由 緒
 社伝によると天智天皇が大津の宮に遷都の際、この地をご厨所と定められた。天智天皇六年に大和の国から御食津神を奉遷して、大膳職の御厨神とされた。
 慶長年間に至り大政所豊臣秀頼、徳川家康などが当社を厚く尊信されて種々の神器の寄進があり、東山天皇は膳所大明神の宣下をされました。
 また、慶長六年膳所城創始以来、歴代の藩主本多候は崇敬が篤く社領の寄進や社殿の造営がたびたび行われました。
 現在の当社表門は、旧膳所城の城門で重要文化財に指定されています。
                              平成十二年五月吉日


膳所中大手門跡

 元の街道に戻ると、角に「膳所中大手門跡」の碑が立ち、その前のコンビニで9:00〜9:04小休止する。

和田神社

 9:07、その先左手で膳所城主の菩提所である「縁心寺」、その先左手に「和田神社」がある。曾ては「八大竜神社」と称し、明治元年に改称している。本殿は鎌倉時代の建築で国指定重要文化財、表門は膳所藩遵義堂の表門を移築しており、境内には市指定天然記念物樹齢600年の大公孫樹がある。

絶景の琵琶湖

 9:12、その先の二又路で街道は左だが、右に立ち寄り琵琶湖の絶景を楽しむ。交通量の多い道を横切り浜辺まで行く。当然のことながら広く、雄大である。

響忍寺(こうにんじ)

 元の二差路に戻り左折して、9:19に突き当たった所が「響忍寺」である。山門は膳所藩の武家屋敷の長屋門を移設したものだ。このように、廃城となった膳所城の各建物がいろいろな所で生きているのは素晴らしいことであると思う。

石坐(いわい)神社(9:24)

 響忍寺を右折してすぐ左折し、「相模川」を「しんぼり橋」で渡り、左手の「石坐神社」に立ち寄る。本殿は県指定文化財で、ここも江戸時代膳所城主の篤い崇敬を受けている。明治期に一時「高木神社」と改称し、大正6年に旧称石坐神社に復している。
 その斜め向かいに「桃源寺」(9:25)、その先左手には天智天皇所縁の「法傳寺」(9:26)と続く。

膳所城北総門跡(9:28)

 その先でクランクになった曲がり角の右手に「膳所城北総門跡」碑がある。

義仲寺(ぎちゅうじ)(9:35)

 左手にある「義仲寺」は拝観料200円と有料だが、あいにく月曜で休館日である。言うまでも無く、かの木曾義仲を葬った怩ェある処からの寺名だが、解説板によれば、室町時代末に佐々木六角氏が建立したと言われている。かの俳聖松尾芭蕉が元禄7年(1694)大坂で死去し、遺言により当寺に埋葬されており、その墓が木曾義仲の供養塔と並んでいる由である。有名な「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句は、芭蕉の門人で伊勢の俳人又玄(ゆうげん)が元禄4年、ここの無名庵に滞在中の芭蕉を訪ね泊まったときの作だとか。境内には、この句をはじめ芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」等、多くの句碑があるそうだが、巴御前を弔うために祭った「巴地蔵堂」もある由。

平野神社

 9:40、リンリーンリンの踏切音を聞きながら京阪電車の石場駅踏切を越え、二叉路を左に進み緩やかな坂を登っていくと、左手に「平野神社」がある。
蹴鞠の祖神という精大明神を祭神とし、古くから芸能の神として崇められ、江戸時代には蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた由で、毎年8月には境内で優雅な蹴鞠祭が催されるそうである。

俵藤太ゆかりの華階寺(9:54)

 その先、9:44西方寺(左手)、成覚寺(右手)、清源寺(左手9:50)と過ぎ、その先を左に入った所に「俵藤太」ゆかりの寺である「華階寺」がある。「俵藤太夫銀地蔵月見の石」と刻した石碑が前に建っているが、門は木の柵で閉じられているので断念して元の街道に戻る。

   
(大津名勝案内より)
大津浄土宗五大寺の一にて境内に藤原秀郷の館跡あり。往昔秀郷天慶の乱の功ににより鎮守将軍となりしが、晩年仏を信じ、園城寺に入りて顕密の法を学び、居を此に定めて風月を友とす、今尚ほ其遺物たる月見岩及び矢の根地蔵を傳ふ。境内の公孫樹(いちょうの木)二株は何れも周囲一錠一尺あまり、高さ拾参間、樹齢二百三拾年と註せられ、市内第一の大樹なり。


京町通りから札の辻へ

 この辺りは江戸時代に大津百町として賑わった旧大津市街地を東西に貫く三本の通りの一つで、この通りが旧東海道にもなっており、今日への道筋に当たる所から多くの商家が軒を列ねていた由である。左手に「唯泉寺」や津田巡査がロシアの皇太子を切りつけた大津事件の碑「此附近露国皇太子遭難之地碑」などを見ながら、京阪電鉄の走る大通りに出た所が高札場(10:01)のあった「札の辻」である。ここを直進するのが北国街道で、東海道は左折する。

明治天皇聖蹟碑と八町通り由来(10:06)

 真ん中を京阪電車が走る広い通りを進む。道の向こうにも若干見どころはあるが、横断しにくいので先に進むと、京阪電鉄の線路が右に離れた先の左手に自然石を刻した「明治天皇聖蹟碑」と「八町通り由来」木標が並んでいる。
 「八町通り由来」には、
“上関寺町から札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも、その間に八か町あったことによるともいわれています。江戸時代の東海道にあたり、道の両側には多くの旅籠屋がありました。なお碑の立つ場所は大名などの宿泊する本陣跡です”とある。

関蝉丸神社下社(10:12〜10:15)

 JR の線路を渡り、街道右手の関蝉丸神社下社に参拝する。入口に「音曲藝道祖神」の碑がある。右手には百人一首でお馴染みの「これやこのゆくもかへるもわかれては志るもしらぬも逢坂の関 蝉丸」の石碑もある。小さいながらも山を背にした静かな佇まいの神社だ。
 境内に関の清水や国指定重要文化財の石燈籠がある。“時雨燈籠”の名で知られる六角形の鎌倉時代の特色を持った石灯籠で、国の重文指定である。

小町塚

 更に右手で「小町塚」標識を発見。奥に行って少し坂を登ると小野小町の塚がある。こちらも百人一首でお馴染みの「花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」の歌碑がある。近くには小野小町の庵室があったらしい。
 下に戻ると本堂右手の貴舩神社の祠に、森進一・大原麗子寄進の提灯がある。街道との間には鳥居傍に京阪電車踏切があり、何とも微妙なアンマッチ風景である。

逢坂の由来(10:18)

 その先右手の安養寺、「逢坂」の由来の解説板などを見ながら進む。日本書紀によれば、神功皇后の将軍・式内宿彌賀と内で「忍熊王」と出逢ったことに由来するとか。平安期には「逢坂関」が設けられ関を護る関蝉丸神社や関寺が建立され、和歌等も詠まれる名所として有名な所である。
 確かに、道の両側は「山」で、「関」には最適地点と言えるだろう。
 「逢坂一丁目」交差点を過ぎると歩道が左側しかないので、車の流れを見ながら左手に移る。

関蝉丸神社(上社)

 10:26に手押し信号で国道1号の右手に渡り、赤い鳥居を潜って延々70段の幅狭の石段を登り詰めると、歴史を感じさせる重厚な佇まいの「関蝉丸神社上社」に10:30到着、参拝する。特に見所はないが、下社と来れば、上社も石段を理由に回避する我々ではないということである。

■弘法大師堂

 石段を慎重に降りてその先に進むが、道は相変わらず峠に向かっての登り坂が続く。右手に10:33「大師堂」と「逢坂常夜灯」がある。

逢坂山関址

 東京の高尾から始まり、大阪の箕面がゴールになる「東海自然歩道」の歩道橋を潜った先でみぎに分岐する手前右手に「逢坂山関址」がある。時に10:37で、ここが延々と登ってきた道のサミットである。

蝉丸神社(10:40)

 右の旧道に入ると右手にある。石版に「蝉丸神社の由緒」が刻されており、やや読みづらいが、多分以下の通りだったと思う。
               
蝉丸神社の由緒
当社は天慶九年(946)蝉丸を主神として祠られております 蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され当宮の免許により興行したものです その後万治三年(1660)現在の社が建立され街道の守護神猿田彦命と豊玉姫命を合祀してお祠りしてあります
 これやこの ゆくもかへるも わかれては 志るもしらぬも あふさか乃せき  蝉丸


車石の由来(10:47)

 左の石垣の所々に車石や大津絵の説明、蝉丸の歌などが掲げられている。車石は、文化2年(1805)京都の心学者脇坂義堂が発案し、近江商人中井源左衛門が一万両の財を投じて、大津八丁(札の辻)から京三条大橋迄の約3里(12km)の間、物資輸送用の牛馬車の通行を楽にするため、花崗岩に溝を刻んだ切石を敷き詰めた。往時の偉人は大変なことをやったものだ。
 この先でも、何ヵ所かで解説板が立っており、「藤尾学区内の工区は文化二年(1805)六千人の人足と敷石三千枚で車石の道ができた。以後、明治の初めまで三回修理が加えられていた」とあった。

 跨線橋で京阪電鉄の線路と国道1号を一挙に越えて国道左側歩道に出る。少し行くと間もなく左手に「大津算盤の始祖片岡庄兵衛」碑がある。
大津算盤の始祖片岡庄兵衛
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。

月心寺・走井井戸(10:48)

 その先「月心寺」「走井」と書いた軒行灯がある。外見が普通の寺院のようでなく料亭か山荘のような格子戸で、しかも閉じられている。開けて入らせて貰って良いかどうか判断に迷ったので入らなかったが、中にある井戸は「走り井」といい、枕草子第168段に「井はほりかねの井。玉の井。走り井は、逢坂なるがおかしきなり」と書かれた有名な名水が湧き出ている由。この「走り井の名水」と「近江米で撞いた餅は江戸中期頃の創始で、旅人達の疲れを癒したとか。
 明治天皇も立ち寄られたことがあり、庭に「明治天皇駐蹕之處」碑もある由。峠近くの山の斜面を利用した庭のようだった。

山間の道

 この辺り、進行方向に向かって左から「国道1号」「京阪電鉄京津線」「名神高速道路」が狭い山間を並んで並進している地帯で、右は大津市域、左は京都市山科区域であり、道路標識や往時の道標も見分けるのが大変だ。道標も「みきハ京ミち」は読めたが、側面の文字は「ひだリふしミみち」と読んだが自信はない。

閑栖寺

 名神高速道を右に潜ってすぐ左の旧道に入る。11:05に分岐(伏見追分)を右に行くと「閑栖寺」がある。太鼓櫓楼門が有名で元文3年(1738)以来門徒衆に大太鼓で参集を知らせると共に、道中の旅人に時を告げたという。門前には車石やその解説板がある。その先のバイパスを越える横断陸橋箇所が工事中らしいので右から迂回して進む。

 その伏見追分にある道標は風変わりだった。「みぎハ京みち ひたせりハふしみみち 柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」とあり、流石に京が近づくと道標も風流になるものだと思った。

山科地蔵のある徳林庵

 11:20右手の「三井寺観音堂」通過。11:22「ここより京都市」の標識下通過。11:28山科地蔵のある徳林庵。旧東海道沿いに立つこの寺院は、京の東の門番・東海道の守護神で、地蔵尊像は仁寿2年(852)小野篁作で、保元2年(1157)に後白河天皇の勅命により、初めは伏見六地蔵の地にあったが平清盛、西光法師らの手により。京の都の主要街道出入口6箇所に1体ずつ安置された地蔵の内の1体である。尊顔は100年に一度化粧直しされている。以降、今日に入る際の厄除け場所、東海道の門番として今なお多数の人がこの6体の地蔵巡りに訪れるとか。琵琶法師の祖として名高い人康親王、蝉丸縁の寺で供養塔もある。
 そのすぐ先の「十禅寺(六角堂)」には、人康親王の御墓がある。

郷社 諸羽神社(11:30)

 天児屋根命、天太玉命の二大神を祀る処から両羽大明神と称した。貞観4年(862)清和天皇の勅命で当地に社殿を建てたのが始まりとされる古社。後に応神天皇・伊弉諾尊・素戔嗚尊・若宮八幡を合わせ祀るようになり、社号を「諸羽に改めている」

昼食(11:45〜12:03)

 その先山科駅前交差点を過ぎた先左手に「なか卯」があったので、入店し、それぞれの好みで注文。小生は「かま玉」だ。
再出発し、「大津畑橋」で「安祥寺川」を渡る。左右に古い街並みで「旧三条通り」と言い、その先左角に「右ハ三条通 左ハ五条橋」の大きな道標があった。

天智天皇御稜

 左後方からの府道と合流し、府道(三条通り)に入ってJRの高架を12:18に潜った先右手に、天智天皇御陵(山科陵)があり、参道入口左手に日時計がある。

 旧道はその先で府道から離れ、左へと入る。左手の畑に縁石に「車石」が有効活用されていてほほえましい。その先でひとり歩きの東海道ウォーカーと出逢うが、登り坂にかかると我々がすぐに先行する。狭い道の割には車も通り、道端での一時待機も必要だ。

大乗寺入口(12:38)

 坂を登り切った辺りに法華宗「大乗寺」の石碑があり、ここは参道入口で寺は更に山の上へ行く必要があるのだが、「酔芙蓉の寺」として有名らしく、9月中旬から約1ヶ月間、花が見頃らしい。光照院入口から下り坂に転じ、12:45に先刻別れた府道143号線に合流する。

車石広場(12:47)

 すぐ先左手の道端に小ひろばが設けられ、4個の車石の実物や、俵を7俵ばかり乗せた台車と解説板がある。実際に使われたと思われる車輪もある。
 「平成9年10月の京都市営地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通の四車線化及び歩道整備の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛馬道を模した広場を設置する」と解説している。石には車輪の通る箇所が線路上に凹面に刻まれていて、小生が見ても感慨深い。

広い道

 その先の信号で僅かながら残る右手の旧道に入り、12:56再び合流し、広い道の右手歩道を歩く。「九条山」バス停と信号を越えると道は下りに入る。左手に「蹴上浄水場」や「水質試験場」が広大な面積を占め、道路際の躑躅などが美しく、思わずカメラを向ける。

蹴上

 その先で地下鉄東西線の「蹴上駅」や「蹴上」交差点があるのだが、この「蹴上」の名前の由来は次のように伝承されており、蹴鞠とは全く関係がなかった。
 関原與市と従者らがここを馬で通行の折、馬が水を蹴上げ、それが通りかかった牛若丸(後の源義経)にかかってしまう。怒った牛若丸は與市らを切り殺し、それを悼んだ村人達が殺された9人の菩提を弔うべく9体の石仏を造ったことに由来するらしい。

 「蹴上」交差点の手前右手に斜面を潜る風雅な隧道があったので、みんなで通り抜けてみた。
 なかなか緑豊かで景観も良さそうだったが街道に戻る。おそらく「南禅寺」あたりに通ずる道ではなかったかと後でGoogle地図を見ながら想像したのだが・・・

三条大橋へ

 「蹴上」信号を渡ると一直線に伸びる碁盤状の京の街並みだ。行く手に向かってなだらかな下り坂を、一路「三条大橋」へと足取りも軽く進む。
 13:25遂に東海道の西端「三条大橋」に着く。早速東海道ゴールの記念撮影場所をと見渡すがイマイチ。橋の下へ石段を降りてみても同様で、観光都市京都市は東海道ウォーカーには冷淡であると思った。カネを落とさない客は不要と言われているような印象だ。やむなく、橋の袂で記念写真を撮り合う。
                    
三条大橋
 この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡単な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命により増田長盛が大改造を行った。
 また擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、盤石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略・・・)」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。
 元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和二五年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは七四メートル、幅十五.五メートル。なお橋の西詰め北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。
                                           京都市


 道路左手に高山彦九郎の像が目に入る。「高山彦九郎正之」と刻された“皇居望拝の像”と横に「高山彦九郎先生皇居望拝之趾」と刻んだ石版がある。

 また、「駅伝の歴史ここに始まる」と題した掲示石版も立っている。それによれば、
我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正六(1917年四月二十七日、二十八日、二十九日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。

 思えば、2004.06.20に日本橋を出発し、翌2005.03.26三島宿に到着。以来、仲閧フ一部の定年待ちで2007.05.17に再開し、本日2008.11.17三条大橋にてゴールを迎えることができた。ただ、小生のみは吉田宿〜岡崎宿が空白状態なので、この後今年中に予定している。(注)2008.12.19〜20で空白区間を完歩した。

 三条京阪駅から市営地下鉄東西線、烏丸御池で烏丸線を乗り継ぎ、京都駅にて軽く打ち上げる。大阪方面に向かう清水氏や直帰の滝澤氏と別れた後、村谷氏と二人で土産物を買いに散策。京の漬け物セット・佃煮・チリメン山椒などのほか、和菓子数種とご近所への土産を買い、15:16京都発のぞみ28号で帰途についた。東京着は17:33だった。
                        ----------(完)----------