旧東海道餐歩記−15-2 土山宿〜水口宿〜湖南市中央
 2008.11.15(土)土山宿〜水口宿〜湖南市中央

 7:00朝食、7:44に出発し、水口宿の先、湖南市中央のJR草津線甲西駅付近まで20余キロの旅立ちである。きのう知った“♪坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る・・・”を地で行くように、小雨がそぼ降る中、携帯傘を広げてスタートする。この歌詞どおりなら、土山を過ぎれば雨は上がるのだが・・・と期待しつつ、山並みや行く手を見渡すが、目下の処、これからの運命は見通せない。

「大黒屋本陣跡」「土山宿問屋場跡」(7:47)

 昨日の終点にした「一の松通り」と「旧東海道」の交差地点に戻ると、右角:大黒屋公園に、「大黒屋本陣跡」「土山宿問屋場跡」の石碑や解説板がある。
                    
大黒屋本陣
 土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
 土山本陣は、寛永十一年(1634)三代将軍家光が上洛の際設けたのがその始まりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。
 大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となている。古地図によると、当本陣の規模は、土山宿本陣のように、門、玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。
                              土山の町並みを愛する会
                              甲賀市教育委員会

大黒橋(7:49)

 昨日見た「来見橋」と同様に白壁・屋根瓦付きの橋で、両サイドとも3枚ずつの「画」や「鈴鹿馬子唄の歌詞」で飾られている。当橋の馬子唄の歌詞は         
“坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る” と
          
“鈴鹿山には 霞がかゝる 可愛いゝ娘にや 目がかかる” である。

 「来見(くるみ)川」に架かる「来見橋」は、欄干相当部分が瓦屋根付き白壁の古風な和風調に造られ、茶所土山をアピールした「土山茶もみ唄」の歌詞が墨書・掲示され、反対側の橋壁には、広重調の画が3枚掛けられていた。

陣屋跡(7:49)左手

 の手前には、「陣屋跡」碑があった。当地は幕府直轄地だったため、代官がここに詰めて宿場を治めていた。宿場の町並みはまだまだ続いている。

土山宿追分(7:53)

 漸く、右後方からの国道1号に合流するが、その右角に「東海道土山宿」の石碑と解説板、基石に「万人講」と彫った常夜灯などが、木々と共に立っている。
                    
東海道土山宿
 土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。
 源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉を結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しばじめた。
 宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣・脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。
                         平成七年三月
                                   土山町教育委員会


「御代参道起点」道標(注)

 国道を信号で右に渡ったすぐ先右手にある道標で、ここから琵琶湖に近い中山道沿いの「多賀大社(多賀神社)」に通ずる入口(起点)である。

(
注)「御代参(街)道」という意味について
 伊勢神宮は天照大神を祀り、皇室の祖先神として敬まわれ、皇室や公家自身あるいは代参の使者が定期的に歩いて訪れた処から御代参(街)道の名が付いた。室町期に入って皇室の力は衰えるが、江戸期に入ると庶民による伊勢神宮参拝が行われるようになる。滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座する「多賀大社」は天照大神の親神の伊邪那岐と伊邪那美の二神が祀られていることから、伊勢参りの往きか帰りには必ず多賀大社へ参るものとされていた。「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」と謳われたのはこのことである。

(参考)平岩弓枝の「はやぶさ新八御用旅(二)中山道六十九次」に次のような一節がある。
俗に「伊勢へ七度 熊野へ三度 お多賀さんへは月参り」などと謡われているように、多賀大社に対する庶民の信仰は厚く、この社に所属する坊人と呼ばれる人々が諸国を歩いて配る延命長寿の御札でも有名であった。


 その先をほんの少々右の旧道を経て国道に戻ると、今度は横断して国道左側歩道に移り、8:01「鈴木製作所手前を左旧道に入って行く。」

野洲川の紅葉

 8:18野洲川に架かる「うたごえ橋」がある。人・自転車専用橋で、おしゃれなアーチ方の透明屋根付きである。自転車乗りの女子高生2人と朝の挨拶を交わす。渓谷左右の紅葉が見事だ。

土山茶の茶畑

 橋を渡ると、左右は一面茶畑である。こういう風景を見ると、ここには坂こそ無いが、つい「小夜(さや)の中山」辺りを通った時の一面茶畑だった情景を思い出す。その先の集落は、江戸時代、頓宮村と言ったらしく、民家の木札にそう表示されている。

瀧樹神社道標(8:18)左手

 「是ヨリ四町」とある。4分後には同じく左手に同神社への道標があり、鳥居や標柱もある。瀧樹神社は、「たぎじんじゃ」と読む。この神社には「瀧樹大明神宮」と「天満宮」という二つの宮が祭祀されており、「天満宮」にはもちろん菅原道真公をお祀りしている。この神社には国の選択文化財に指定されている「ケンケト踊り」が古くからある由。

地安寺(8:25)右手

 石柱に「地安禅寺」とある。立派な鐘楼門を潜って入ると、 後水尾法皇の御影・御位牌安置所があり、皇室縁の寺院であることが判る。

垂水頓宮御殿跡(8:33)左手

 
伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
 土山町頓宮には淳子討ちのひとつである「甲可日運宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
                         平成十六年三月
                                  土山の町並みを愛する会


大野市場一里塚跡(8:40)右手

 旧市場村に入る。「諏訪神社」前を過ぎ、8:35右側に、「延命地蔵尊」が祀られている「長泉寺」を見る。到着した「市場の一里塚」は、道の右角に、一里塚跡の石柱があるだけだが、111番目の一里塚跡である。

大日川掘削碑(8:41)右手

 一里塚の100mぐらい先にある「大日川(堀切川)」は、江戸時代、市場村と大野村の境だった。頓宮山を源流にした川が平坦部で広がり、大雨で旧市場村や旧大野村の被害が多かったそうだ。川の手前右手に「大日川掘割」の碑がある。川を渡った左手に大日川掘割の解説板があり、江戸時代、水害を防ぐために野洲川に流す掘割を掘った旨記されている。その先見事な旧東海道松並木が続き、向こうから水口高校サッカー部の合宿生たちがランニングですれ違う。300m程行くと、松並木が途切れる辺り左手に、またもや「東海道反野畷」の石柱と、「従是東淀領」の石標があった。

−−−あいの土山まだ小雨。右手空地の工事現場でトイレ借用・小休止(8:45〜8:52)−−−

鴨長明歌碑(9:12)

 その先の左手「三軒茶屋集会所」先休憩所で雨宿り(9:00〜9:15)しつつ、道路右手の鴨長明歌碑見学。傍に「布引山」に関する解説板が立っている。
     “あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る 布引の山”

土山町から水口町へ

 暫く行った先で、9:19「自転車用信号」という面白い信号を、自転車に乗ったつもりになって国道を渡る。ここが土山町と水口町の境。国道若王子バス停とか、若王子入口碑とか、「○○子」といった関西特有の地名が出てくる。
 すぐ右手旧道に入り、9:39再び左後方からの国道を越え、国道左へ分岐の県道549号に入る。ここが、甲賀市水口への入り口だ。

 9:44県道から更に右に分岐する旧東海道へと入ると、漸く「あいの土山」を抜けたと見え、歴史的・馬子唄的公約?どおり、9:47 今郷一里塚跡で雨具解除の晴れ男四人組に戻る。本当に不思議である。甲賀市土山から甲賀市水口に入った瞬間だから、小説を地で行く感じである。

今郷一里塚跡(9:47〜9:50)左手

 明治維新後に撤去されてしまったそうで、残念ながら現在特に何も残っていないが、解説板が僅かにその名残を留めている。112番目の一里塚跡である。
 思い出したついでに、ここで旧東海道の一里塚を一覧してみると以下の通りである。

1里 - 芝、金杉橋 (東京都港区芝大門二丁目付近) 江戸中期には既になかった。
                        当初からなかった可能性も高い
2里 - 品川、八ツ山 (東京都品川区北品川一丁目付近) 江戸中期にはすでになかった
3里 - 大森  (東京都大田区大森東一丁目付近)
4里 - 六郷  (東京都大田区東六郷三丁目12付近)
5里 - 市場  (神奈川県横浜市鶴見区市場下町4) 横浜市史跡
6里 - 東子安 (神奈川県横浜市神奈川区子安通三丁目)
7里 - 神奈川 (神奈川県横浜市神奈川区台町)
8里 - 保土ヶ谷(神奈川県横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷二丁目)
9里 - 品濃 (神奈川県横浜市戸塚区平戸四丁目16、品濃町) 神奈川県史跡
10里 - 戸塚、吉田 (神奈川県横浜市戸塚区吉田町)
11里 - 原宿 (神奈川県横浜市戸塚区原宿二丁目31)
12里 - 藤沢、遊行寺坂 (神奈川県藤沢市西富一丁目)
13里 - 辻堂、四ツ谷 (神奈川県藤沢市城南一丁目)
14里 - 茅ヶ崎 (神奈川県茅ヶ崎市元町6) 茅ヶ崎市史跡
15里 - 馬入  (神奈川県平塚市馬入本町付近)
16里 - 大磯、化粧坂 (神奈川県中郡大磯町大磯)
17里 - 国府本郷(神奈川県中郡大磯町国府本郷)
18里 - 押切坂 (神奈川県中郡二宮町山西)
19里 - 小八幡 (神奈川県小田原市小八幡三丁目)
20里 - 小田原、山王原 (神奈川県小田原市浜町四丁目)
21里 - 風祭  (神奈川県小田原市風祭)
22里 - 湯本茶屋 (神奈川県足柄下郡箱根町湯本茶屋)
23里 - 畑宿  (神奈川県足柄下郡箱根町畑宿)
24里 - 葭原久保(神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)
25里 - なし
26里 - 山中新田、接待茶屋 (静岡県田方郡函南町桑原)
27里 - 笹原  (静岡県三島市笹原新田)
28里 - 錦田  (静岡県三島市三恵台40、谷田) 国史跡
29里 - 伏見  (静岡県駿東郡清水町伏見) 清水町史跡
30里 - 沼津、日枝 (静岡県沼津市平町19)
31里 - 大諏訪、松永(静岡県沼津市大諏訪)
32里 - 原、一本松 (静岡県沼津市原)
33里 - 沼田新田(静岡県富士市沼田新田)
34里 - 依田橋 (静岡県富士市依田橋町付近)
35里 - 本市場 (静岡県富士市本市場)
36里 - なし
37里 - 岩淵  (静岡県静岡市岩淵) 静岡県史跡
38里 - 蒲原  (静岡県静岡市清水区蒲原一丁目)
39里 - 由比  (静岡県静岡市清水区由比)
40里 - 西倉沢 (静岡県静岡市清水区由比西倉澤)
41里 - 興津  (静岡県静岡市清水区興津中町)
42里 - 江尻、辻 (静岡県静岡市清水区辻二丁目)
43里 - 草薙  (静岡県静岡市清水区草薙一里山4)
44里 - 長沼  (静岡県静岡市葵区長沼)
45里 - 府中  (静岡県静岡市葵区本通八丁目)
46里 - 丸子  (静岡県静岡市駿河区丸子六丁目)
47里 - 宇津ノ谷(静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷付近)
48里 - 岡部  (静岡県志太郡岡部町岡部付近)
49里 - 鬼島  (静岡県藤枝市鬼島)
50里 - 志太  (静岡県藤枝市志太三丁目)
51里 - 上青島 (静岡県藤枝市上青島)
52里 - 島田  (静岡県島田市本通七丁目)
53里 - 金谷  (静岡県島田市金谷)
54里 - なし  (金谷城下?)
55里 - なし
56里 - 佐夜鹿 (静岡県掛川市佐夜鹿)
57里 - 伊達方 (静岡県掛川市伊達方)
58里 - 葛川  (静岡県掛川市葛川)
59里 - 大池  (静岡県掛川市大池)
60里 - 久津部 (静岡県袋井市広岡)
61里 - 木原  (静岡県袋井市木原)
62里 - 阿多古山 (静岡県磐田市見付) 磐田市史跡
63里 - 宮之一色 (静岡県磐田市宮之一色)
64里 - 安間 (静岡県浜松市安間町)
65里 - 馬込、向宿 (静岡県浜松市相生町)
66里 - 若林  (静岡県浜松市東若林町)
67里 - 篠原  (静岡県浜松市篠原町)
68里 - 舞坂  (静岡県浜松市舞阪町舞阪2664) 浜松市史跡
69里 - 新居  (静岡県浜名郡新居町新居)
70里 - 白須賀、元町 (静岡県湖西市白須賀)
71里 - 細谷、豊橋一里山 (愛知県豊橋市東細谷町字一里山30-1) 豊橋市史跡
72里 - 二川  (愛知県豊橋市二川町字東町)
73里 - 飯村  (愛知県豊橋市三ノ輪町)
74里 - 下地  (愛知県豊橋市下地町四丁目)
75里 - 伊ノ奈 (愛知県宝飯郡小坂井町伊奈)
76里 - 御油  (愛知県豊川市国府町)
77里 - 長沢  (愛知県豊川市長沢町)
78里 - 本宿  (愛知県岡崎市本宿町)
79里 - 藤川  (愛知県岡崎市藤川町)
80里 - 大平  (愛知県岡崎市大平町岡田) 国史跡
81里 - なし  (岡崎宿内?)
82里 - 矢作  (愛知県岡崎市矢作町付近)
83里 - 尾崎  (愛知県安城市尾崎町)
84里 - 来迎寺 (愛知県知立市来迎寺町古城24-1) 愛知県史跡
85里 - 一ツ木、刈谷一里山 (愛知県刈谷市一里山町深田)
86里 - 阿野 (愛知県豊明市阿野町池下114、阿野町長根4) 国史跡
87里 - 有松、鎌研橋 (愛知県名古屋市緑区鳴海町鎌研付近)
88里 - 笠寺 (愛知県名古屋市南区白雲町)
89里 - 伝馬町(愛知県名古屋市熱田区伝馬二丁目4付近)
90里 - なし (海上七里)
91里 - なし (海上七里)
92里 - なし (海上七里)
93里 - なし (海上七里)
94里 - なし (海上七里)
95里 - なし (海上七里)
96里 - なし (海上七里)
97里 - 縄生  (三重県三重郡朝日町縄生)
98里 - 富田  (三重県四日市市富田三丁目343-2) 三重県史跡
99里 - 三ツ谷 (三重県四日市市三ツ谷町)
100里 - 日永  (三重県四日市市日永五丁目3)
101里 - 采女  (三重県四日市市采女町)
102里 - 石薬師 (三重県鈴鹿市上野町)
103里 - 中冨田 (三重県鈴鹿市中冨田町)
104里 - 和田  (三重県亀山市和田町)
105里 - 野村  (三重県亀山市野村三丁目27) 国史跡
106里 - 関   (三重県亀山市関町木崎)
107里 - 坂下一ノ瀬 (三重県亀山市関町市瀬)
108里 - 元坂下、荒井谷 (三重県亀山市関町坂下)
109里 - 山中  (滋賀県甲賀市土山町山中)
110里 - 土山  (滋賀県甲賀市土山町北土山)
111里 - 市場  (滋賀県甲賀市土山町市場)
112里 - 今郷  (滋賀県甲賀市水口町今郷)
113里 - 林口  (滋賀県甲賀市水口町東林口2)
114里 - 泉   (滋賀県甲賀市水口町泉)
115里 - 夏見  (滋賀県湖南市夏見)
116里 - 石部  (滋賀県湖南市石部西一丁目11)
117里 - 六地蔵 (滋賀県栗東市六地蔵付近)
118里 - 目川  (滋賀県栗東市目川)
119里 - 野路  (滋賀県草津市野路町)
120里 - 月輪池 (滋賀県大津市一里山二丁目18)
121里 - 粟津  (滋賀県大津市晴嵐一丁目付近)
122里 - 石場  (滋賀県大津市松本一丁目付近)
123里 - 走井  (滋賀県大津市大谷町付近)
124里 - 御陵  (京都府京都市山科区御陵岡町付近)

「街道を行く」石碑

 その先で、左手の県道に合流するが、合流地点に「街道を行く」の石碑がある。司馬遼太郎を一瞬思い起こし、期待して読むが、無関係かつ碑文にもアピールするもの。すぐ先でまた県道から右に離れ、また合流し、またその先で10:02に右旧道に入る。

岩神(10:02)右手

 その入口に、「岩神のいわれ」と題する解説板が自然石に絵入りで掲示されている。
                    
岩神のいわれ
かつてこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政九年(1797)に刊行された「伊勢参宮名所図会」には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。
それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣があったことを記しています。


八幡神社・馬頭観音堂(10:12〜10:28)

 10:05、道幅が狭くなる。10:09に日照山永福寺を左手に見た少し先で、右に50m位入り込んだ所に巨木が見え、八幡神社があるので立ち寄る。「水口町の古木・名木」と題する解説板の横に、杉の巨木が立ち、その横に「馬頭観音堂」がある。但し、老朽化していて、周囲から鉄骨の支え柱が斜めに入っている。
                    
新城観音堂の小絵馬
 八幡神社境内に建つ観音堂は、本尊に馬頭観音をまつり、古くから交通関係者の信仰を集めたと伝えられる。
 堂内には、200まりの素朴な小絵馬が奉納され、特に水口宿の旅篭や宿役人など、東海道の往来によって生計を立てた人々から奉納されたものが目立つ。
 奉納の盛期も、東海道利用の消長と重なることから、江戸時代の交通に関わる民俗資料として貴重である。
                                   水口町教育委員会

 折良く、車で来た同年配の男性が、今年の観音堂の当番になっていて、昨夜はここで徹夜した由で、我らが東海道ウォーカーであることを知ると「中を是非観て欲しい」と、車で自宅まで鍵を取りに帰ったので、八幡神社参拝などして休憩がてら時間待ちする。
 案内して戴いた観音堂内は、なるほど上部に絵馬が無数に懸けられていて、この男性のお世話ぶりと言い、地元に愛されている観音様であるとの印象が強い。我ら一人一人に「お札」まで頂戴したので大切に持ち帰って奉掲した。

秋葉神社

 登り下りの街道は、やがて国道307号や野洲川に注ぎ込む山川に架かる山川橋を過ぎ、少し行くと、右手に秋元寺、その奥高台に秋葉神社がある。水口宿は江戸時代3度の大火で被害を受けており、火防のため、明和七年(1770)秋葉大権現から分霊を勧請している。

東海道水口宿東見付(江戸口)跡(10:43)

 更に少し登って三叉路右角で「水口宿東見付(江戸口)跡」に着く。立派な冠木門があり、左右の柱には共に「東海道水口宿」の木看板が架かっている。傍には石の解説碑や観光パンフレット類も置かれている。
               
東見付(江戸口)跡
 見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。
 この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿っていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長一〇年(1605)遺構のことである。
 特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716〜36)作成の「水口宿絵図」によると、枡形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。
なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。

 ここで戴いた「宿場とお城のある町 水口がひとめでわかる お散歩マップ」という地図が判りやすくて良い。

水口宿の本陣・脇本陣と町並み(10:48))

 見付跡三叉路で左に進み、県道549号線を越えると、古風な家々が左右に展開される古い町並みに入り、左手に水口本陣跡があった。面影はないが奥まった所に「明治天皇行在所御旧跡」の石碑がある。明治元年9月(御中食)、12月(御小休)、明治2年3月(御宿泊)の三回も立ち寄られている由。、少し手前の左手には西村家脇本陣跡がある筈だったが、気づかなかった。
                    
東海道水口宿
水口は道によって開け、道によって発展した所です。
 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来があつたようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているようように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。
 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(1585)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。
 関ヶ原合戦翌年の慶長六年(1601)、交通体制の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。
 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客の通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。このうち東部市街の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。
 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(1843)の記録によれば、家数六九二(うち旅籠屋四十一)を数え、この他に小規模ながらも水口宿に武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を確立した。
(以下略)

高札場跡(10:49)−−−その先の二股を左に行くが、その分岐−−−

 正徳元年(1711)宿東部の作坂町の辻に幕府道中奉行が発した高札の札場が設けられ、明治維新で撤去されるまで続いた。近年まで、この場所は「札の辻」と呼ばれていた由。

問屋場跡(10:53) −−−御菓子処一味屋の向かい側(左手)−−−

 「東海道水口宿 菓匠 一味屋」の家紋入り大暖簾で目立つこの菓子舗は、江戸時代から170年続く老舗だが、その向かい側に、こじんまりとした「問屋場跡」の標石(解説板)がある。
                    
問屋場跡(といやばあと)
問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と人足を用意しました。水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。

からくり人形・曳山の由来(10:55〜11:08)−−−その先の右角(休憩所)あり−−−

 トイレ付きの休憩所で暫しの休息タイムとしたが、傍に「からくり人形」付きの時計台がある。その右横には、半月型の石版に「曳山の由来」が刻まれている。
                    
曳山の由来
 江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治・経済・文化のちゅうしんとして発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。
 曳山の登場は享保二十年(1735)のことで、このとき九基の曳山が巡行し藩邸にもぐりこんで賑わいました。その後1町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。
 当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精緻な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組み上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。
 「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみになっています。


 この交差点を右に寄り道すれば、かの「方丈記」を書いた鴨長明の発心地とされる「大岡寺(だいこうじ)」に通じるが、立ち寄りは省略。

昼食(11:13〜11:52)

 その先、平町商店街を抜け、「石橋」という文字どおり石の橋とそれに続く近江鉄道線路の間右手に「Poem」という店を見つけたので入店し、缶ビールで喉を潤しつつ昼食を摂る。街道左手には「水口石橋駅」のプラット・ホームが見える。

山車倉(11:53)−−−その先右手に背の高い曳山蔵、その前にも曳山の解説板−−−

広重の画「水口」−−−その先左手(湖東信金前)−−−

力石(水口石)(12:10)

 ここで道は右に曲がり、更に左に曲がる。いわゆる枡形になっている。12:05「心光寺」を左手に見て更に進み、再び左折・右折の枡形右折地点に、丸い自然石の「水口石」がある。
                    
水 口 石
 東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。


真徳寺表門(12:13)

 その角を右折して暫らく行くと、右手に「真徳寺」があり、その表門に謂われがある。
                   
真徳寺表門
 この門は、もと水口城内に所在した家臣屋敷の長屋門を移したものである。
石高80〜60石程度の中士の格式をあらわすもので、一部に改造の跡が見られるものの、旧城下に残る数少ない遺構である。


林口一里塚跡(12:16)

 その先左折する角の右手に五十鈴神社があり、113番目となる「林口一里塚跡」の碑がある。五十鈴神社境内のヒノキは、水口町の名木・古木に指定されている。
                     
一里塚跡
(前略)
水口町域では、今郷・林口・泉の三ヵ所に設けられている。(中略)林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。(後略)

水口宿西見付跡

 ここを左折して右折する角が「水口宿西見付跡」であるが、現在は何も残っていない。

柏木神社(12:21)−−− その先は右手の「髭題目碑」「妙沾寺」の先−−−

 柏木神社西側に「姫塚」(長束正家正室の墓)がある。関ヶ原の戦で落城・自刃した水口城主長束正家の正室が、城を脱出して子を生むも産後の肥立ちが悪く、この地で没したという。

北脇縄手(12:25)左手−−−「北脇縄手と松並木」と題した解説板あり−−−
                    
北脇縄手と松並木
 東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲がりくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
 江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。


 現在では、僅かの短い区間に松並木が残るのみである。

五基の庚申塔(12:29)

 その先右手。煉瓦ブロックの台石に囲まれて、屋根付きでなかよく五基並んでいるのが微笑ましい。

からくり時計(12:32〜12:45)−−−右手「柏木公民館」前−−−

 時の鐘の中、下部に「からくり」がある。中を覗いたが、何やら農家の庭先で女達が作業をしている風景のように見受けられた。公民館でトイレを借り小休止する。

一直線の道終わる

 感心する程一直線だった道も、右手の「大法寺」の先辺りでおわりる。13:03泉公民館前通過、13:05泉口交差点を通過すると、左手に綺麗な松並木があり、その先で二又を左に入って「泉川」に架かる「舞込橋」を渡っていくと、右手に怩築いた上に一里塚の大木が見えてくる。

泉一里塚跡(13:10〜13:18)右手〜小休止

 往時の一里塚は、現在地よりやや野洲川寄り(南寄り)にあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである旨、水口町教育委員会の名で解説されている。

東海道横田渡(13:22)

<横田常夜燈>

 その先で街道が野洲川に突き当たると、ちょっとした公園の中に「横田常夜燈」がある。ここは、往時「横田川」と呼ばれていた「野洲川」を3月から9月まで船渡し、10月から2月まで土橋で通行したという。往来が頻繁で夜中に及び危険を伴うので、村人が文政5年(1808)燈台を造ったそうだが、高さが10.5mという巨大燈台で驚かされる。

<横田橋の歴史>

 
横田橋の名は、寛正二年(1461)五月二十四日の室町幕府奉行家書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。
 江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の直轄下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
 明治二十四年、泉・三雲間を結ぶ長大な橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。
 その後、昭和四年には下流に橋が移され、同二十七年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。


<金刀比羅宮>

 旧幕時代、横田川の渡しは年中橋を架けることは許されなかった。そこで、河水の少ない十月から二月までは水の流れている所に土橋をかけ、三月から九月までの七ヶ月は四艘の小舟で通行していた。しかし暗夜には方向が定まらず危険であった。
 当社は渡しの安全のために村人が文政二年「常夜灯」の建立を発起し義金を募り文政五年八月に竣工すると同寺に水上交通安全の神様である金刀比羅宮をこの場所に勧請し、渡しの安全を祈念したものと推察される。
                              平成七年三月吉日 大字 泉


現代の旅人は迂回

 その先は野洲川なので、川に向かってかなり右手に離れた「横田橋」を渡るのだが、これがなかすなか複雑だった。少し行くと、平成16年10月に甲西(こうせい)町と石部町が合併して出来た湖南市へと入る。

 横田橋の右川に並行する「人・自転車専用道」で川を渡り、正面のJR三雲駅の手前を右折すると、13:41右手角に「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」、別面に「妙感寺 從是二十二丁」と刻した大きな道標がある。その先は工事中で若干左手の細い道を「逆コの字型」に迂回する。

「明治天皇聖蹟」碑(13:42)右手

 何本かの石柱・鎖囲いの中に、自然石を彫った碑が二基の「献灯」の間に堂々と建っている。

三基の道標(13:51)−−−「荒川橋」で「荒川」を渡ると、すぐ先左手−−−

 「立志神社」、「妙感寺」、「田川ふどう道(昭和十四年十二月建立)」の名が刻まれたている。
 「妙感寺」の道標には、三雲駅前にあった道標と同様に「萬里小路藤房卿古跡(寛政九年丁巳三月)」「(別面)雲照山・妙感寺 從是十四丁」と刻まれている。萬里小路藤房は、後醍醐天皇に諫奏して容れられず、出家して妙感寺に入寺した人である。

天井川(その1大沙川)と弘法杉(14:03〜14:08)

 県道四号に出て左折、JR草津線の先をまた右折し、暫らく行くと、本日最初の天井川を「大沙」と書かれたタイルが貼られたトンネルで潜る。トンネルの上を横切る川が道路より上なので、人も車も川の下のトンネルを潜って向こう側に行く仕組みになっている。このような天井川は、滋賀県東部には多いらしい。運ばれた土砂等が堆積し、川底がいつしか家や田畑よりも高くなったもので、川の氾濫を防ぐため、土手を高く築き直した結果、川の方が、このように高いところを流れるようになったものである。江戸時代迄は、土手を登り、川を渡って向こう岸の土手を下って行ったそうだが、明治以後は、現在のようにトンネルを造り、その下を潜るようになったという。

 潜った先左側に「弘法大師錫杖跡 お手植えの杉」と刻した石碑と「弘法杉」と題した解説板があり、横の斜面を登って行くと、天井川になった大沙川隧道の上辺りに巨大古木「弘法杉」が聳えている。天井川は、両脇をコンクリートで固め、幅約1m程度の水道のような外観である。
               
町指定文化財  弘 法 杉  昭和52年10月4日指定
 旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m樹令750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。
 伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地方の子どもが左手で箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。
 一説によれば、弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、にほんの木を植えたとも、また弘法大師が食事のあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。その後、台風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773)の台風でそのうちの1本が倒れたともいわれている。
                         平成6年3月
                                    甲西町教育委員会


夏見一里塚

 夏見地区は古そうな家が多い。14:18左手の盛福寺、十一面観世音菩薩の道標、右手の了安寺などを経て、115番目の夏見一里塚跡が左手「夏見神社」辺りからその先の由良谷川辺りにかけてあったらしいが、見あたらない。

天井川(その2由良谷川)14:30

 二つ目の天井川が、その先前方に現れた。やはり下側がトンネルになった天井川である。「由良谷川」だ。その手前に「新田道」と書かれた道標がある。

北島酒造で銘酒をゲット(14:40〜14:51)

 「針」地区に入る。 14:35左手に「子育て地蔵尊」の碑。「針」バス停、「針公民館」(右手)の先の辻がきょうの歩行ゴール起点で、今宵の宿は、ここを右折していった国道一号線沿いの「甲西アートホテル」だが、「式内飯道神社入口」道標の立つ交差点のすぐ先左手に、文化二年(1805)創業という、造り酒屋「北島酒造」が見えたので、立ち寄る。

 丁重に迎え入れてくれ、店内で湧く実に旨い鈴鹿山系の伏流水(これを使って酒を仕込んでいるという)で口をクリーンにした後、720ml入り4,000円強の銘酒など三品程試飲させて戴いた。清水氏は宅配も頼んだようだが、今宵の二次会用に銘酒を仕入れ、宿へ向かう。

甲西アートホテ

 街道から右手方向へ約500m位あるが、途中JR草津線を越え、国道1号を渡って右に少し行った所にあるいいホテルだった。16時からチェックインのところ15時過ぎに到着したので、ロビーで少々待ち、早めに入室・入浴の後は、近くのレストランで夕食を済ませ、ホテルの部屋で先刻買い求めた「銘酒」賞味の会を開いた。