旧東海道餐歩記−15-1 関宿〜坂下宿〜土山宿
 2008.11.14(金)関宿〜坂下宿〜土山宿

 東京駅6:50発のぞみ5号で、旧東海道終着点である「京・三条大橋」目指しての「東海道歩き4日間」の旅立ちである。歩行起点駅(JR関西本線関駅)に着いたのが10:51と、東京・名古屋間より名古屋・関間の方が乗継ぎ駅(亀山)での乗換を含め、所要時間が長い。関西方面から先着の清水氏が出迎えてくれるが、滝澤氏が若干遅着しそうなので、見どころたっぷりの関宿内見学で調整することにし、先ずは関駅を村谷氏を含めた3人でスタートする。350m強歩いて前回の終着点だった関宿内街道筋に11:06到着。その角で「東江戸←→西京都」の石碑や「↑JR関駅 350m」の埋込み道標を見て、ゆっくりめに歩き始める。

 昼前の観光地関宿内は、もう結構な人出である。「中町の町並み」左手の「関まちなみ資料館」を先ずは見学し乍ら滝澤氏を待つことにし、その先の「関宿旅籠玉屋歴史資料館」との共通入館料300円を払って入館する。

関まちなみ資料館(11:09〜11:23)左手

 係の女性が、間もなく団体さんが見えますので・・・と言っていたが、滋賀県の浄土真宗のお寺さんの奥様方の団体で、普通のおばちゃま団体に比べ遙かにマナーが良く、流石と思わせる「差」を感じる。日本女性はこうでなくっちゃ。
 この建物は、元の持主・別所マサさんから昭和60年に関町が買い取った町屋を、昭和61年度から3年かけて解体修理し、往時の姿に復元した建物だとか。14代将軍家茂(在位1858〜66)上洛時作成の「宿内軒別書上帳」には「別所屋勝次郎、間口四間、畳数廿八畳、二階畳数数拾壱畳」と、現在家屋と一致する記録があるそうで、この家の建築年代は少なくとも文久年間(1861〜64)以前と目される。
 建物は街道沿いから順に、主屋・角屋・土蔵で構成され、主屋の東側(江戸寄り)を土間・西側(京側)に床を張り、表から奥に向けて三列に部屋をとる関宿の町屋の典型的様式である。
 1階は、帳場(受付)、民具展示コーナー、関町・関宿紹介コーナーから成り、抽出付き箱階段で2階に上がると、川北本陣コーナー、まちなみ保存コーナー(関宿の町並みの変遷が、一軒一軒、写真で判る)になっている。また、館内には「今も残るまちなみ」「関宿御茶屋御殿」「関宿年表」なども掲示されている。
 到着した件のご婦人団体の入場でごったがえしている最中に滝澤氏が到着し、間もなく四人揃って出発する。

鶴屋(11:23)右手

 再び街道に戻り、右手に「鶴屋」を見る。二階に千鳥破風のある凝った造りで、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と言われた「脇本陣」であるが、平素は一般庶民も泊まれたらしい。

中町三番町山車(やま)倉(11:24)右手

 中町三番町山車の倉がある。「関の曳山」は関宿で元禄年間(1688〜1703)から伝わる祭で、最盛期には16基もあって華美を競い合ったそうだ。笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒をかすめ、人混みをかき分けて巡行する様から、「この上ない、精一杯である」意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になったという。現在4基の山車が四ヶ所の山車倉に保存され、毎年七月下旬の土・日に催される祭で活躍している。

川北本陣跡(11:24)右手(山車倉の西隣)

 その横に「川北本陣跡」。今は石碑が残るのみである。

百六里庭(11:25)左手

 江戸から106里余にある処から付けられた小公園で、通りに面した「眺関亭」の2階からは宿場の家並みが一望でき、街道で見るそれとはまた異なった感銘を受けた。

伊藤本陣跡(11:30)左手

 川北本陣と共に中心的役割を果たした。間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きだった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。

橋爪家(11:32)右手

 その向かい側に、三角のむくり屋根の特徴ある「橋爪家」の建物。寛文(1661〜73)の頃から両替商を営み、「大阪のこうの池と並び称せられる豪商」だったという。

旅籠玉屋(11:32)右手

 その隣。「鶴屋」「会津屋」と並んで、関宿を代表する大旅籠だった。「関まちなみ資料館」との共通入場券(300円)で入場する。
 玉屋の開業時期は不明だが、寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名の理右衛門の名が記されており、既にその当時にはここで旅籠を営んでいたと考えられる。
 東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)築の木造二階建で、外観は関宿に多い二階を漆喰で塗り籠める形式で、江戸期の建物としては特別軒が高く、屋号に因んでの宝珠を形どった虫籠窓が特徴的と言える。
 入口には大福帳を前にした番頭(蝋人形)が座り、二階には布団を敷き食器を並べた、江戸時代その侭の旅籠風景が再現されており、坪庭もあって奥行きが深い。奥には蔵があり、年4回展示替え(広重の浮世絵など)を行っている由。主屋の他に、離れ・土蔵・納屋の4棟の建物があり、旅籠当時の建築物が一体的に保存されており、貴重である。これは、平成5年3月に旧所有者の村山弘道氏から町が買い取り、平成6年3月に関町有形文化財に指定、平成6年度から8年度迄3ヵ年かけて保存修復工事をして、往時の旅籠の姿を再現したものである。
 平日だというのに団体婦人客でごったがえしており、静かな佇まいの筈の宿場町とは正反対で、早々に退出した。

高札場・郵便局(11:39)右手

 郵便局前が「高札場跡」で、往時の高札場が復元されている。関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にあった。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を果たす施設だったが、関宿に本陣が置かれてからは、亀山藩の番所などが置かれていた。
 「関宿高札場」は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていた。『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などだった。
 明治時代になると、各地の高札場は撤去されるが、関宿の高札場も、明治10年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石・土・瓦等を残らず処分したことが同家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことが明らかである。
 また、町並みにマッチした古風な郵便ポストが設置されており、町があらゆる面で宿場町の景観を大切にしているのが判る。その名も、往時の呼び名「書状集箱」となっている。

いっぷく亭(11:43)左手

 関宿散策拠点施設として設置されたもので、解説文付きの「関宿イラストマップ」掲示やトイレ・休憩コーナーがある。

「停車場道」道標・地蔵院・明治天皇關行在所(11:44)左手

 地蔵院手前左手に「停車場道」の道標がある。明治23年に四日市・草津間に関西鉄道が開通した折、関停車場への道として整備されたものである。また、その右手(地蔵院の手前角)には、「歴史の道百選」に選定されたことを示す大きな石標が立っている。
 「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿取ろ」の俗謡で名高い「地蔵院」は、天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられ、その地蔵菩薩は我が国最古のものだとか。本堂、朱塗りの鐘楼、愛染堂は国の重要文化財の指定を受けている。境内には、明治天皇關行在所の石碑も立っている。
 「新所の町並み」と呼ばれるこの辺りからは、町の風情もやや変化し、観光客も殆どいなくなる。前方には、これから越える鈴鹿峠が見えている。鈴鹿峠は、三子山と高畑山の間の一番低いところを通っているのだそうだ。

会津屋

 地藏院前に、前回の宿入口で知った「小萬」ゆかりの山田屋が前身という「会津屋」がある。小萬は、母親に先立たれた後、この会津屋の前身「山田屋」で育っている。何度も触れているが、「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と言われたこの会津屋は、現在、山菜おこわ等の食事処になっている。

関宿西の追分と休憩施設(11:58〜12:12)左手

 7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたのが地名の由来ともなった関宿は、東西1.8km続いて、この西の追分で終わる。ここは、東海道と大和街道(国道25号)との追分になり、東海道は坂下宿、鈴鹿峠を越えて京都迄19里半(78km)ある。南無妙法蓮華経の大きな題目碑に「ひたりハいが やまとみち」と彫られており、大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至る。
 昔、奈良に都があった頃は、伊賀から加太峠を越えて伊勢へ入る現・大和街道が東海道だったというから面白い。仁和8年(886)近江から鈴鹿峠を越えて伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋になったという経緯があるのだ。

 傍に休憩施設があり、きょうの行程上食事処難を予想してそれぞれ携行していたお握り等の軽食を、お誂え向きの畳敷きテーブル付きの和室で食し、グッドスポット・グッドタイミングの幸運を喜び合う。これ全て、お大師さまのおかげ・・・と。

見逃した転び石

 その先で、道は右左に曲がりながら坂を下り、国道1号に合流する。合流点には関町唯一の宿泊施設「関ロッジ」の看板が架かっている。後日知ったが、この国道右手の駐車場「オークワパーキング」内に、直径2mほどの石で、大昔、付近の山頂から転がり落ち、何度片付けても街道に転がり出てしまうと言われた伝説の石「転び石」なる大石が鎮座しているそうで、見逃してしまった。通りかかった弘法大師が供養して、以来静かになった由である。

 程なく国道に出るが、横断して西願寺がある所から国道の左手の道を行く。再び国道に合流すると、我々はガイド本どおり横断して、国道右側を歩いて行く。沿道には茶畑がある。

狩野元信も筆を捨てた「筆捨山」

 右手に「名勝史跡 筆捨山」の石標がある。鈴鹿川上流の畔に立つ筆捨山(289m)は四季折々に美しく、室町後期の絵師狩野法眼元信がこの山を描こうとしたが、移ろい行く自然の変化を描ききれず、遂には筆を捨てたという伝説の山である。

 その先道は左に曲がる。綺麗な水流の鈴鹿川を右に見つつ「弁天橋」を渡った先を右折すると「沓掛」集落へののどかな道になる。その橋の袂に「国道改良記念碑」がある。国道を隔てた左手には107番目となる「一里塚阯」碑がある。この一里塚は、「弁天一里塚」というようだ。

沓掛の町並み〜鈴鹿馬子唄会館(13:10〜13:20)

 12:52楢木バス停先に東海自然歩道「観音山歩道」の看板があり、鈴鹿峠4.4kとある。沓掛集落は落ち着いた佇まいである。古い家並みがあり、なかなか味がある。12:59沓掛公民館前を通過。脇の道路沿いに東海道五十三次の宿場名の標柱が立ち並ぶ左手にある「鈴鹿馬子唄会館」に13:10到着する。平成7年築の地域文化創造施設として常設展示されている。(入館無料)
 ♪坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る・・・の「鈴鹿馬子唄」の音符や歌詞、坂下宿、鈴鹿峠などに関する展示・解説がある。
 宿場名の標柱は、日本橋から始まり一本に五十三次の一宿ずつの名前を書いた標柱が三条大橋まで55本続く。これを辿って行くと、その途中左側が「鈴鹿馬子唄会館」である。

坂下宿

 河原谷橋を越えると「坂下(坂之下)宿」である。旅籠数は、関宿の42より多く48、全戸数に占める旅籠割合は五十三次中箱根宿に次いで高かった由。街道が拡幅された感のある幅広道の坂下宿には、本陣が3つ(いずれも左手)[順に松屋(13:34)、大竹屋(13:34)、梅屋(13:35]、脇本陣(右手)が1つあり、「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と鈴鹿馬子唄にも歌われた大竹屋は本陣、小竹屋は脇本陣である。残念なのは、これらは全て「跡」の石碑が立つのみで、建物は全くなく、往時の姿をとどめていない。

 元々の坂下宿は、後述「片山神社」の下方一帯にあったが、慶安3年(1650)9月3日の大洪水で埋没し、翌年、宿全体が現在地に移転しており、「古町」の地名や現在見られる平坦地は、曾ての宿の名残と伝えられている由。

法安寺(13:35)右手

 小竹屋脇本陣跡の手前に、松屋本陣の見事な彫刻が施された門や玄関を再移築した山門・庫裏玄関をもつ「法安寺」があるそうだが、立ち寄らなかった。当初は、明治15年に近くの学校の校舎として使われ、昭和13年の新校舎建設時に法安寺に再移築されたもので、現在、坂下に残る唯一の本陣建物の遺構の由。

岩屋観音入口(13:42)右手

 「中乃橋」や「小竹屋脇本陣跡」を過ぎると、同じく右手に「岩屋十一面観世音菩薩」の石塔があり、斜面に分け入れば「岩屋観音(清滝観音)」があるらしいが、ヤバそうなのでパスしたが、後日文献で調べてみたら誤解していたようで、実態は次のようだが、入口を見た限りは表示案内不親切の感が強い。

 高さ18mの巨岩に穿たれた岩窟に、万治年間(1658〜60)に実参和尚によって道中の安全祈願のために阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体の石仏が安置された。堂の隣にある清滝と合わせて「清滝観音」として広く世に知られ、葛飾北斎の「諸国滝めぐり」にも取り上げられる等、霊験あらたかな観音霊場として現在も信仰を集めている。(毎月3日・18日のみ開扉)

鈴鹿峠の登り道へ

 国道1号のすぐ右の旧道を暫く並行歩きし、「片山神社」道標から右カーブして、鬱蒼とした森の中の簡易舗装道を登り始める。左右にカーブしながら登り、正面の突き当たりが「片山神社」への長い石段の登り口で、街道はそこを右に急坂を登っていくことになるが、急に登り始めた心臓は暫しの休憩を要求している。13:54小休止していると、旧街道の上(京側)から我らと同じの街道ウォーカーが降りてきて、互いに情報交換の後、彼は長い石段を神社へ登って行った。後日知ったのだが、片山神社は焼け、今は石段を上に登っても何も無いらしい。原因は国道からトラックが転落し、焼けたとか。

 石段登り口の鳥居に向かって右横に立派な「鈴鹿流薙刀術発祥之地」碑(宮城県知事高橋進太カ書)がある。なぜ宮城県知事なのかというと、仙台藩士北辰一刀流櫻田櫻麿嫡孫の妻鈴鹿流薙刀教士櫻田トミなる人物が建立したとあり、その縁らしい。

 鈴鹿峠についての解説板もある。
                    
鈴 鹿 峠
 鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
 八町ニ十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
                            鈴鹿国定公園     環境省・三重県

 また、片山神社の鳥居左脇には、「孝子万吉顕彰碑」がある。峠越えの荷物運びで、病気の母親を助けた孝行息子を讃えた碑である。

「8丁27曲がり」と言われる鈴鹿峠の登り開始

 右手に常夜灯の並ぶ急坂、苔むした石畳のつづら折り坂をグリコーゲンの燃焼を主燃料に喘ぎながら登っていく。と言っても、高尾山に登る半分程度で、本当は大したことは無いのだが、4日間連続のスタミナ配分を考えると、慎重な登り方になる。長い階段を登り詰めて国道1号と交差すると、「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」と彫られた「芭蕉句碑」、その先に「馬の水飲み鉢」と続く。その手前には環境省・三重県の解説板があり、鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は、「阿須波道」と呼ばれ平安時代の仁和2年(886)に開通した。山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所だったとある。

 「田村神社跡10m 鏡岩150m」の標識に出逢う。田村神社は、先の片山神社に合祀され(焼失)している。鏡岩は、硅岩が断層によってこすられ、露出面につやが出たもので、鏡岩の肌面は縦2.3m・横2mの由。昔この峠に棲む盗賊が山道を通る旅人の姿をこの岩に映して発見し、危害を加えたという伝説から俗に「鬼の姿見」とも言われているそうだ。そこまで登るかどうか相談したが、全員「否」。前途を考えてのスタミナ温存策に決したが、もうほぼ峠のサミットらしい。その先は、早くも平坦になり、左右に茶畑が広がり始め、一同一安心する。

鈴鹿峠頂上付近(14:18)右手

 その先に木製柵に囲まれた「万人講大石燈籠」がある。重さ38t、高さ5.44mの自然石の巨大常夜灯で、休憩所とトイレもある広場の中に建っている。地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。元々は東海道沿いあったものを、鈴鹿トンネル工事の際に現在地に移設したものだという。往時は箱根峠と並んで東海道の難所だった鈴鹿峠に立つこの常夜燈は、近江国側の目印として旅人の心を大いに慰めたと思われる。

甲賀市(こうかし)

 その先は、もう下り坂になる。そして、国道に合流する。現代の旅人は楽である。ここから「甲賀市」に入るが、「こうがし」と思っていたら「こうかし」だった。「甲賀流」は「こうがりゅう」だった筈なのだが・・・

暫しの国道歩きから旧道へ

 14:34国道「山中」信号で右側の歩道に移り、十楽寺バス停先から右の旧道に入ると、左側にパーキングとベンチ、右手に“♪坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る・・・”の自然石の「馬子唄碑」や「常夜灯」等がある小公園があり、14:50〜14:58 小休止する。すると、「加賀万歩の会」と書いた熟年団体を乗せたマイクロバスが止まり、運転士や幹事たちが降りてきて、先刻我々が立ち寄らなかった岩屋観音のこととか、駐車スペースの有無とか鈴鹿峠のことなどを尋ねてくる。「万歩の会」とあるのに「バス旅行」とはこれいかに???と苦笑しつつ情報提供する。

 その先の大平地区の右手に「地蔵堂」を見、やがて第二名神高速道路を潜って、左手の国道に合流し、15:08右手で山中一里塚公園で「山中一里塚跡(109番目)」「櫟野(いちの)観音道解説板」等を見る。
                
檪野観音道(大原道)道標  (土山町山中)
 山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの附近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・檪野村(甲賀町大字檪野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
 当時、道標は東海度との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には檪野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも)世にはえぬきや大悲心」という句が刻まれており、檪野の檪野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
 自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。
                         平成十五年三月
                                   土山町教育委員会


 この先は、旧道を横切り直ぐに戻る旧道があるが、旧道距離がいかにも短く、しかも国道横断が危険なので、大勢に全く影響なしとの判断で、その侭国道右側歩道を進み、15:15「猪鼻」信号を右折して旧道に入る。
 すぐ先を左折し、右手の「淨福寺」「四国大師霊碑」「旅籠中屋跡」大きな「明治天皇聖蹟碑」などを「桝屋」「傘屋」など屋号の掲示された家々と共に進み、清水氏が左手にあった遠戚某家に立ち寄る。少々逡巡気味だったが、「この機会を逃しては・・・」と皆で後押ししてあげたのが、結果的に良かったようだった。
                  
  醫王山淨福寺
 淨福寺は、天正年間(1573〜91)に、僧洞成禅照大禅師が開基し、寺号は醫王山、臨済宗東福場派に属する。
 本尊は、薬師如来像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏と伝わっている。木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち、脇侍には左に日光菩薩、右に月光菩薩。更に拳属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。
 薬師如来は、十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊である。(以下略)
                         平成二十年十二月
(注)
                                     土山町猪鼻区

 (注)この解説板を見た(撮影した)日は、平成20年11月14日で、掲示板日付が先行していた。次の解説板も、同様に先行日付になっていた。

                    
東海道 猪 鼻 村
 猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末に至る。
 村中を東海道が東西に五町三十六間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時五十戸を超え街道を賑わしていた。
 土山宿から坂下宿間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、五十三石余「天正十九年(1591年徳川家康知行目録写」、おもな三業は農業で、製茶や林業も行われた。
 赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山越ろし」の句碑がある。井上士朗の『幣袋』に安永三年(1774年)鈴鹿峠に向う途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ碧らし・・・・」とある。
 寺院は、臨済宗東福場派の淨福寺 、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。(以下略)
                         平成二十年十二月
(注)
                                     
土山町猪鼻区

−−−急坂を登って再び左手の国道に合流し、15:28その先の急坂を右斜めに下ると、右手に2本の大古木がある「白川神社御旅所」がある。その集落が途切れる辺りの下り坂を「蟹坂」と言い、坂を下った右手に蟹坂古戦場跡の碑がある−−−

蟹坂古戦場跡(15:34)右手−−−石柱と案内板−−−
                    
蟹坂古戦場跡
 天文十一年(1542年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹波守および飯岡三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠軍の甲賀への侵入を阻止することができた。
                         平成七年三月
                              土山町教育委員会


ロマンチックな木橋(15:38)

 その先茶畑の間を縫って歩くと、行く手に田村川に架かる真新しい木橋が見えてくる。この木橋は、安永四年(1775)に掛けられた橋を平成17年7月11日竣工で復元・架け替えたもので、「海道橋」と呼ぶようである。往時の橋は、幅2間1尺5寸(約4.1m)、長さ20間3尺(約37.3m)、高さ0.3mの低い欄干が付いた当時としては画期的な橋だったという。広重の画「東海道五拾三次之内・土山『春之雨』」に大名行列が往時のこの橋を渡る風景を東側から描いた場所で、まっすぐ橋を渡って行くと「田村神社」(後述)に通じる。なお、掛け替えられた橋は、欄干の高さが1m程度はある。

 広重の画の下に下記の解説文があった。

 
歌川広重は、多くの道中図や各所図を描いているが、天保4年(1833年)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、情緒豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の社のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。
 土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。東の地点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けかえられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。

高札場跡(15:39)右手−−−墨字崩し字のため一部判読不能。安永四年=1775年−−−
                    

田村川橋歩行渡し之処出水□致差支候ニ付土山宿自普請を以道附替橋掛渡し當壬十二月廿三日より相通し御用の通行武家之往来近村渡世人者除之其外諸旅人(者?)壱人ニ付三文宛荷壱駄ニ付荷主より三文宛永く可取之者也
                       安永四未閏十二月
                                   道中奉行

 この架橋以前は、現在の左手の国道より約50m程下流を徒歩で渡っていたそうである。

田村川士朗の句碑(15:40)

 橋を渡った所に
、『鮎の背に 朝日左すなり 田村川  井上士朗 句  九十一叟薫苑書』の田村川士朗の句碑と解説板があったが、何故かその横に「石部宿 竹内利夫」の木標が立っていた。井上士朗と姓が異なるが、井上家に養子に行ったと解説板にある。

田村神社(15:43)

 郷里の近隣にあった神社と同名なので親近感も一入だが、この田村神社も、鬱蒼とした木立に包まれた広大な境内を持ち、弘仁13年(822)創建の由緒ある神社である。鈴鹿山中の悪鬼(山賊)を退治した坂上田村麻呂を祭る神社の由。社名の由来も坂上田村麻呂と関係ありそうな気がする。
                    
祭神及鎮座由来
 本神社は坂上大宿禰田村麻呂公倭姫命外数神を配祀し奉る。弘仁三年正月嵯峨天皇勅して坂上田村麻呂公由縁の地土山に鎮祭せられ勅願所に列せられる。実に本社の地は江勢の国境鈴鹿参道の咽頭を占め都より参宮の要衝に当る。古伝鈴鹿山中に悪鬼ありて旅人悩ます。勅して公を派して之討伐せしめられ其の害初めて止むと、されば数多の行旅の為め其の障害を除き一路平安を保たしめ給う公の遺徳を仰ぎてこゝに祀らる。誠に御神徳の深遠に亘るものというべきであります。


道の駅「あいの土山」(15:49〜15:56)−−−田村神社参道の外側を通って国道1号に出、立体歩道橋を渡った先−−−

 ここで小休止する。仲間たちが国道を横断する歩道橋を渡っている間に、歩道橋登り口のすぐ先の田村神社表参道入口迄足をのばし、正門の鳥居や参道をカメラに収める。道の駅では、無料の湯茶サービスも用意されている。
 大木を縦に二分した木材断面に、「かにが坂飴の由来を尋ぬれば」と題して、墨字で長々と書いたものが道の駅正面に立て掛けられていたのでカメラに収めておいたが、文面から推察するに、先ほど通った蟹坂古戦場近辺で、昔大蟹が旅人を悩ました伝説があるので、それと関係があるようだ。

土山宿

 道の駅の先で右折、土山宿の大きな案内看板の先は両側が茶畑、道はカラー舗装されている。やがて屋号が掲示された民家が左右に連なる宿場町風景になる。

上島鬼貫句碑

 上島鬼貫(おにつら)は、大阪は伊丹生まれの俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫と並び称せられた人である。
 
“吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風”
 この句は、上島鬼貫が貞享3年(1686)秋、東海道旅を旅する途中、土山で「お六櫛」を買い求め、鈴鹿山へ向かう折詠んだものの由。

閑話休題〜宿場比較

 この先、民家の前に「土山宿 旅籠 大槌屋跡」等と彫られた石柱が左右に数多く立っており、「往時の土山宿は旅籠が多かったのでは?」と思い、天保14年(1843)のデータで前後の宿と対比してみた。結果は、家数という宿場の規模に対し、旅籠の占める割合が群を抜いて多かったことが明らかになった。坂下宿も多く、鈴鹿峠越えが当時はいかに大変だったかの証左と言えよう。
もちろん、「大変だった」の意味には、物理的難所という以外に、生命・財産を脅かす山賊たちへの脅威も多分にあったのだが・・・
       庄野宿  亀山宿   関 宿   坂下宿  土山宿  水口宿   石部宿
  人口    855    1942    1942     564    1505    2692    1606
  家数 a   211      632    632     153     351    692     458
  旅籠数b   15     42     42      48      44     41     32
    b/a   7%      7%     7%      
31%    13%    6%     7%

 では、箱根峠越え前後は?と、暇つぶしをしてみると、宿泊行程の刻み方にも左右されようが、やはり同様傾向が読み取れる。日本橋スタートの場合の往時の常識は、二泊目(足弱は3泊目)が小田原宿、三泊目が三島宿だったことを考え合わせると、小田原・三島の旅籠数の多さはやはり特徴的だ。
       大磯宿 小田原宿 箱根宿  三島宿  沼津宿
  人口    3056   5404    844   4048   5346
  家数 a   676   1542    197   1025   1234
  旅籠数b    66   
95     36    74    55
    b/a  10%    6%     6%    7%    3%

土山一里塚(16:08)右手

 石碑しか残っていないが、「東海道一里塚跡」とある。傍に木板墨字が木の古びた解説板が立っている。
               
東海道一里塚跡
(前略)土山町の設置場所は山中地区、土山地区、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ二.五m、円周十二mの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は土山町北土山大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。


みんなで広めよう あいさつ運動

 一里塚の所で、通りかかった小学生が「こんにちは!」と明るく挨拶してくれた。またすぐ通りがかりのご婦人からも挨拶された。理由は、この先に掛けられていた「あいさつ運動」の横断幕で、この地区でそういう運動が行われていることが判った。「甲賀市青少年育成市民会議土山支部」の名が入った横長幕だったが、四国歩き遍路の時に、通りがかりの小中高校生達から明るい挨拶を数え切れない程貰ったことを思い出した。

風流な来見橋(16:12)

 「来見(くるみ)川」に架かる「来見橋」は、欄干相当部分が瓦屋根付き白壁の古風な和風調に造られ、茶所土山をアピールした「土山茶もみ唄」の歌詞が墨書・掲示され、反対側の橋壁には、広重調の画が3枚掛けられていた。
               
土山茶もみ唄
       『お茶を摘めつめ しっかり摘みゃれ 唄いすぎては 手がお留守』


白川神社(16:13)左手

 時間が段々夕刻になってきた。本殿前には、願かけ神石があり、この神石を撫でると健康長寿・祈願成就が叶うと伝えられているそうだ。てきたので、奥深そうな境内でもあり立ち寄らなかったが、概略紹介すると次のとおりである。
                    
白 川 神 社
 祭神は速須佐之男尊、天照大神御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭大王社・祇園社などと呼ばれていた。寛文五年(1665)二月十一日の火災により延焼し、現在の場所に遷座する。本殿は、文久三年(1863)に改造された。
 七月第三日曜日行われる「土山祇園祭花笠神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山十四組ごとに奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応三年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民族文化財になっている。
 天明七年(1787)に孝明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦九月二十二日、明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内待所奉安所にあてられた。


森鴎外の祖父終焉の地(16:15)左手

 「旅籠井筒屋跡」は、森鴎外の祖父・森白仙の終焉(文久元年(1861)11月7日)の地である。森家は代々津和野藩亀井家の典医だった。参勤交代に従って江戸藩邸から旅を続けるうちこの井筒屋で病のため死去し、この先常明寺に葬られた。後に白仙の妻・清子、一女峰子も同寺に葬られたという。

東海道伝馬館(16:18〜16:35)−−−左手の「二階屋脇本陣跡」の斜め前−−−

 東海道や土山宿の情報発信拠点として、東海道制定400年記念に造られた。原寸大の宿役人や馬子などの問屋場風景(問屋場)、宿場へ向かう大名行列の京人形による再現(蔵)、土山宿の街道模型や東海道に関する映像展示、東海道や土山の名産・特産品展示・販売などが1Fにあり、2F展示室には圧巻「東海道五十三次の広重の画」や、往時旅人衣装による体験コーナーなど、非常に見応えがある。
係の女性はタレントの高畑淳子似の親切な女性で、東海道関連販売書籍横にあった和風爪楊枝入れを了解を得て頂戴した2セット頂戴した。
 時間的に心配になったのか、今夜の宿泊予定先の女将から電話がかかってきたので、伝馬館にいる旨伝える。

問屋宅跡・問屋場跡(16:35)−−−伝馬館を出た所右手−−−
                    
土山宿問屋宅跡
 近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の宿泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。
 土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。
                         平成十四年三月
                                      土山町教育委員会


旧土山本陣(16:36)−−−その先、右手

 土山宿本陣は、寛永11年(1634)、三代将軍家光上洛に際して設けられた。甲賀武士、土山鹿之助の末裔・土山喜左衛門が初代として本陣職を勤めた。
 明治元年9月、明治天皇行幸の折、この本陣で誕生日を迎えられ、土山の住民に対して神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語り継がれているという。「明治天皇聖蹟」と書かれた石碑や、その隣りに「井上圓了の漢詩」の石碑や解説板が並んである。

    漢 詩                    漢詩の読み  (筆者注)「肴」の字の原文は「肴」偏に「攵」
  
鈴鹿山西古駅亭               鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
   秋風一夜鳳輿停               秋風の一夜、鳳輿停(とどま)る。
  維新正是天長節               維新の正に是、天長節なり。
   恩賜酒肴今当賀               恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。
  土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人


                    
解 説
この漢詩は、大正三年、仏教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣に来られた時、第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年九月二十二日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。
                         土山の町並みを愛する会

 また、林羅山の漢詩石碑と解説板もある。

第一日目終了

 本日の歩行は「初日として抑えめの計画」「スタート時刻が遅め」「見所はたっぷり」を理由に約16kmの歩行だったが、宿への到着時刻はこれまでに比べて完全に遅めになった。
 その先、大黒屋公園がある角を本日の街道終点とし、右折して「一の松通り」に入り、予て予約済みの今夜の宿「**旅館」に向かう。16:44国道一号線沿いの宿に到着したが、競争の原理の全く働かざる宿だった。元料理旅館だったそうだが、客商売の素人以下、要求するまで浴衣出ず、丹前無し、風呂最悪、タオルは要求すると使い古しを・・・清川虹子似の女将の翌朝の見送りは無しという、昨日知った地元の「あいさつ運動」や、東海道宿場再生に熱心な地元の姿勢とは裏腹の、逆見本的旅館だった。もう一軒旅館が近くにあることを現地で知ったが、まぁこれも修業のうちか。