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旧東海道餐歩記−14-2 石薬師宿〜関宿
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 2008.10.26(日)近鉄内部線・内部駅前〜石薬師宿〜庄野宿〜亀山宿〜関宿〜JR関西本線・関駅

 7:00朝食、7:40ロビー集合、近鉄内部線で四日市駅から内部駅まで移動し、内部駅前を8:10にスタートする。

元「采女橋」跡を新道で渡る

 旧道を進み、「内部川」にぶつかると左折し、国道1号で「内部橋」を渡る。昔はぶつかった所から対岸へと「采女橋」というのが架かっていたそうだが、今はない。左手の国道の「内部橋」を渡り、左前方の旧道に入るために、一旦右下の「旧采女橋」の延長線上にある小公園に降りて行く。小公園には「内部川」と書かれた解説板に万葉集などに詠まれた歌も紹介されている。旧名を三重川と言ったという。

采女町・杖衝坂

 道は、ここで国道一号線下を潜り国道左手を暫く行って左の旧道へと入って行く。「采女町」である。右・左折しながら登り坂にさしかかる。途中に「町かど博物館」というのが右手にあったが、早朝でもあるし、イマイチの感もあり通り過ごす。
 8:29、左側で「金刀比羅宮」を見ながら坂を登って行くと、左手に「史跡杖衝坂」碑、「永代常夜灯」、屋根付きの「芭蕉句碑」がある。
               
杖衝坂と血怐A二つの井戸
 杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、稍に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(古事記)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血怩フ祠もある。
 この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。


 また、杖衝坂伝説に関しては、古事記によれば、その時、日本武尊が「我が足は三重の勾(まがり)の如くして甚(いと)疲れたり」と仰せられたので、この土地を「三重」と言うことになったとか。
              
芭蕉の句碑について
 俳聖松尾芭蕉が貞享四年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのときに時詠んだ季語のない有名な句である。
宝暦六年(1756)村田鵤州が、杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。明治の初期、坂の下采女西町 永田精一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者斉藤茶話一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。
               昭和五十一年三月吉日

血恷ミ(8:32)左手

采女一里塚碑(8:42)−−−8:40右からの国道一号に合流し、右手、出光のスタンド前−−−

 道の向こう側にあり、車の通行が激しいので、望遠で写真を撮り通過する。101番目である。8:43左手に「豊富神社」という珍名の神社前を通過し、しばらく国道歩きし、8:56国分町の信号で鈴鹿市に入り、旧道はここで国道一号を右に分け左へと入って行く。すぐの所に延命地蔵尊(8:57)がある。

北町の地蔵堂=石薬師宿入口(9:12〜9:19)

 暫く先、地下道で国道を右に渡り、浪瀬川の先で右の旧道に入る。左手に北町の地蔵堂がある。「・・・石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのだろう。・・・」等と書かれた「石薬師魅力再発見委員会」の解説板がある。

 また、佐佐木信綱顕彰会による「信綱かるた道」の看板があり、「信綱かるた」から選んだ三十六首の歌がここから南一.八キロの間に掲示されている旨書かれている。

 また、「歴史と文化のまち石薬師」と題したカラー地図・写真入りの大きな観光案内図ほかも立ち、宿興しに熱心な地元の熱意が早くも読みとれ、街道ウォーカーとして嬉しくなる。だが、石薬師の町並みは、あくまでも静かで人の気配も殆どない。

大木神社

 右手に延喜式内社「大木神社」がある。神殿はやはり神明造り、そしてここにも神宮遥拝所があり、伊勢神宮に近いことを感じさせる。

石薬師宿の町並み

 9:26、左手に「東海道石薬師宿」と書かれた表札、広重の「石薬師宿」の画、江戸時代・弘化2年(1845)当時の「石薬師宿の軒並図」等が掲示されている。

石薬師宿小沢本陣跡(9:27)右手−−−連子格子の旧家−−−
               
小沢本陣跡
 東海道石薬師宿は元和二年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。大名の泊まる宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者萱生由章(1717〜75)もこの家の出である。

                                 鈴鹿市

佐佐木信綱記念館

 石薬師小学校の前から、天野記念館(9:28)に始まり、唱歌でお馴染みの「夏は来ぬ」の作詞者佐佐木信綱が寄贈の石薬師文庫(9:29)・信綱生家・佐佐木信綱資料館が右手に続く。信綱の生家は連子格子の古い二階建で、資料館前には石薬師宿の解説板がある。
               
佐佐木信綱記念館
佐佐木信綱記念館は、「佐佐木信綱資料館」「生家」「土蔵」「石薬師文庫」から成り立っています。
 佐佐木信綱は明治五年六月三日、この地に生まれ、六歳まで石薬師で過ごしました。その後一家は松阪へ移り、信綱が十一歳の時に東京へ移ります。この時、「生家」は他家の所有となり、鈴鹿市和泉町に移築されました。昭和七年には信綱は還暦を記念して「石薬師文庫」を贈り、地域の図書館として現在でも多くの人々に親しまれています。そして、信綱は七十三歳から熱海へ移り、昭和三十八年十二月二日、九十二歳でこの世を去りました。
 信綱の没後、昭和四十五年十二月十二日、「生家」を再び現在の場所に移築し、佐佐木信綱記念館が誕生しました。その後、昭和六十一年五月二十八日には、展示施設等を備えた「佐佐木信綱資料館」が開館し、今日に至っています。
               平成十七年九月
                         鈴  鹿  市


          
佐佐木信綱と卯の花の里 石薬師宿
 石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
 弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約一八〇軒のうち旅籠屋が約三十軒、百姓は約百三十軒で全戸数の約七割を占めており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣がありその向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872〜1963)の生家で、一家が松阪へ移住する明治一〇年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。
 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
 石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六三年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。
初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。


古い道標(9:30)右手

 「距津市元標へ九里四町十七間」の字が辛うじて読み取れる古くて大きな道標がその先に立っている。

浄福寺(9:32)−−−県道115号を越えた左手−−−
               
浄 福 寺
 宗派は真宗高田派、本尊は阿弥陀如来である。開基(創建)は室町時代の永正年中(1504〜1520)と伝えられている。山門入り口の左側には佐々木弘綱翁(信綱の父)の記念碑がある。それは佐々木家累代の菩提寺だからである。碑に刻まれている歌は次のとおりである。
わかの浦に 老を屋しなふ 阿し堂徒盤(あしたずは)
            雲の宇辺越(うえを)も よそに見類か難(みるかな)
               平成十八年十二月
                         石薬師地区明るいまちづくり推進協議会


「蒲冠者範頼之社」道標(9:39)

石薬師寺(9:39〜9:47)−−−瑠璃光橋で国道1号を渡った先右手−−−

 「鈴鹿のやくよけ寺」と言われ、「三重四国番外霊場」でもある。流石に境内が広く、由緒ある寺院である。
               
石薬師寺
 江戸から百一里三十四丁七間、元和二年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。
 御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永六年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹子社がある。その御曹子社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにした。それが芽をふいて育ったと伝えられている。地元では「逆さ桜」と呼んでいる。

          高富山 石薬師寺由来
 聖武天皇の御宇神亀年間「726年」高僧泰澄大徳が森の中に霊光を放つ巨石あるを認め これ金輪際より御出現の霊彿なりと一宇の草堂を覆い置き給う
 その後 弘仁三年「八一二年」弘法大師自ら薬師尊像を彫刻し開眼供養せられしより 霊験いよいよあらたかにし時の帝嵯峨天皇の叡聞に達し勅願所となし寺領を寄せられ西福寺と称せられしだが天正年間「一五七五」の頃兵乱に会い悉く焼失した 因より本尊は光明赫赫として灰燼の中に立たれた 慶長年間「一六〇一年」神戸城主一柳監物直盛公深く霊験を感じ本堂再建され今日に及べり 當地は高富の郷と称せられしを駅立の際「一六一六年」尊號に因みて石薬師駅東海道五十三次の内四十四と呼んだので高富山石薬師寺と改称せらる 名匠一立斎宏重の画に當寺の全景を以て写す寿永年間「一一八五年」蒲の冠者源範頼ここに戦勝を祈願 馬鞭倒に芽ざし蒲桜の名を今に留める
 又西行法師 一休禅師 上島鬼貫 澤庵禅師 林 羅山 深草元政 烏丸光広郷 松尾芭蕉 
李 渓 佐佐木信綱 があり いずれも佛徳を賛嘆し霊光に随喜し若しくは景致を賞揚している
    文化財 本堂薬師堂 県指定有形文化財
        本尊石仏  市指定有形文化財
    法の恵うけてや瑠璃の壺薫 李 渓
    蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも 佐佐木 信綱

御曹子社 蒲神社−−−先ほどの「蒲冠者範頼之社」道標を左折した先−−−

 立ち寄りは省略したが、蒲冠者範頼を祀った神社で、範頼が武道・学問共に優れていた処からそれらの願望成就の神様として崇められている。

「石薬師の一里塚址」碑(9:51)−−−蒲川に架かる蒲川橋を渡って左折する角右手−−−
               
石薬師の一里塚
 信長記には、天文九年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたという。[一町は約109メートル]
家忠日記には、慶長九年二月(1604)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を三十六町に改めたという。
  くたびれたやつが見つける一里塚 (江戸時代の川柳)
                    平成四年十月  石薬師魅力再発見委員会
                              [鈴鹿市市制五十周年記念事業]

−−−ガイド地図は、この一里塚のある地点を直進するようになっていたが、地元の道標に従って左折し、jr関西本線のガードを潜って国道1号を更に潜り、左折・右折のたんぼの中の道を行き、10:04にシェルのスタンドがある国道1号に合流する。暫く向かい風を受け、出逢う街道ウォーカーとすれ違いつつ、「庄野町北」交差点を右折。10:21庄野宿の町並に入る−−−

「東海道庄野宿」の標柱と解説板

 石薬師宿〜庄野宿間は、東海道の中でも御油宿〜赤坂宿間に次いで2番目に短く、また、庄野宿は東海道で最後に出来た宿場である。
               
庄 野 宿
 庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く寛永元年(1624)といわれている。この宿は「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせ七十戸で宿立てをした。南北八丁で宿入口の加茂町中町上町からなる。
 安藤広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作と言われ、世界的にも高い評価を、得ている。

善照寺(10:24)−−−静かで落ち着いた佇まいの宿中を進んだ左手−−−

庄野宿資料館(10:27〜10:42)左手−−−旧小林家住宅−−−

 連子格子があり、二階にはうだつの上がる品格ある古家である。担当の女性が親切に案内してくれる。その話によれば、建物は江戸期油屋だった由で150年前のものだそうである。主屋・離れ・蔵・納屋の四棟から成り、主屋だけで210.84u、敷地面積1011.57uである。鈴鹿市では、庄野町に残る膨大な宿場関係資料の活用と、この旧小林家(市指定文化財)の建物保存のため、主屋の一部を創建当時の姿に復元し、平成10年4月に「庄野宿資料館」として開館している。館内には、庄野宿本陣・脇本陣の文書、宿駅関係資料を始め、日本画壇で活躍の故小林彦三郎氏の絵画や文書ほか、地域に残る民具・農具・日用品などを展示している。
 また、外(前)には、広重の名作「庄野 白雨」の画が架かり、街道のその先も連子格子にうだつの上がる家並みが続いている。

庄野宿本陣跡碑(10:45)−−−右手庄野集会所の前−−−

 庄野宿の本陣は沢田家だった。この碑の立つ集会所がその場所で、文久三年の間取図では間口14間1尺、奥行21間1尺、面積229坪7合、畳数197畳半・板敷44畳半だった。傍に「距津市元標九里拾九町」と書かれた石標がある。
 また、脇本陣は楠与兵衛家で、問屋場跡・本陣・高札場・脇本陣・郷会所の順で南にあった。また、街道の一本東側の道に面した「妙法寺」の山門はこの脇本陣の門を移築したものの由である。
 本陣のすぐ先右手角に高札場跡の解説板があり、その隣に脇本陣跡「楠与兵衛家」、その先右手美容室が郷会所跡である。
 往時、高札場にあったという三枚の大高札は、天和二年(1682)のもので、先ほどの資料館で実物を見ることが出来たが、実に圧巻だった。

−−−その先は、右手に「常楽寺」、更にその先に延喜式内の「川俣神社」と続く。その先、国道一号とバイパスを横切る手前に「庄野宿」の標柱があるので、ここまでが庄野宿と思われる。国道の左側の旧道に入って少し行くと、「領界石」と「女人堰跡碑」がある−−−

領界石(11:02)

 左右に「従是東神戸領」の石標がある。亀山藩と神戸藩の境で、昔から近年まで地域住民達の交流もここが境になっていたという。

女人堤防碑(11:02)

 左手に女人堤防の由来を記した大きな碑がある。安楽川と鈴鹿川の合流点となるこの辺りは、江戸時代に水害が多く家屋田畑の被害の多い所だった。そこで村人たちが神戸藩に堤防構築を願ったが、南岸の城下に水害の恐れありとの理由で許可されず、たまりかねた村の女たち二百余人が役人の目を盗んで堤防を築いた。女たちは一旦は捕らえられたが、藩では処罰を取りやめたとか。

富田一里塚(11:09)

 少し先の左手に「川俣神社」があり、「中富田一里塚」解説板がある。
               
中富田一里塚
 (前略)享和三年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も東百里屋(ともりや)という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約100キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。
               平成十三年十月
                         中富田一里塚保存会

               中富田一里塚
 中富田村は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。享和三年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中富田村川俣神社の東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。大きな木の繁みのある大規模な怩ナあり、榎木の大木があったといわれている。
               平成十三年十月
                         中富田一里塚保存会

領界石(11:09)−−−川俣神社境内に「従是西亀山領」の石碑−−−

常念寺(11.12)右手、福萬寺(11:17)、式内「川俣神社(11:19)」

 川俣神社これで3つ目になる。この辺りは安楽川と鈴鹿川の合流点になるのがその由来かとも考えられそうだが・・・
 鳥居右手には「庚申塔」群、「北緯34度52分14秒東経136度30分25秒」の石柱、境内には「無上冷水井跡」と刻まれた石標があるが、神戸城主の織田信孝が愛飲した水だそうな。

−−−川俣神社を囲むようにUターンしたら、今度はその先の「安楽川」に架かる長い「和泉橋」を渡る(11:25)。渡って右折し、暫く行くと左手に地蔵堂(11:30)がある。
 暫らく行くと右手に「地福寺」(11:33)「観音堂跡」がある。その先の通りを越え、案内標識どおりに細い道を行き、右手に見える踏切を渡って左へ行くとJR関西本線「井田川駅」に出る。時刻は11:43なので、国道1号に出て昼食場所を探す。折良く進行方向にあった「彦兵衛」なる店に入店し、昼食タイム(11:48〜12:18)とする−−−

−−−12:19国道を横断陸橋で渡り、国道右手並行な旧道に入る−−−

和田の道標(12:33)

 その先右手に和田公民館と「和田の道標」がある。高さ1.37Mの花崗岩製の角柱で、東海道と神戸道の分岐に建てられた、市内に残存する最古の道標である。
               
和田の道標
 道標は東海道から旧神戸道に分かれる所に立つ。「従是神戸 白子 若松」「元禄三庚午年(1690)正月吉辰 施主渡会益保と刻まれている。
 東海道分間延絵図には「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。
 市内に残る道標の中でも最も古いものである。
               平成三年三月
                              亀山市教育委員会

石上寺

 12:38、左手に幸福寺、右手に福善寺という縁起の良い名の寺があり、その先右手にはエスカレーターのような石段を有する「石上寺」(せきじょうじ)がある。登り口には「遊歌詠浄土」と刻した石塔があり、古文書も多く残されている。
               石上寺古文書 (三重県指定文化財)
 石上寺は、延暦15年(796)に勧請された熊野権現の神宮寺(筆者注)で、朱雀天皇の勅願寺になったと伝えられる古刹である。
 建久3年(1192)源頼朝から寺領社殿の寄進をうけ、同5年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉から室町時代を通して手厚い保護をうけていたが、織田信長の兵火によって灰燼に帰した。
 しかし、後村上天皇綸旨や足利尊氏制札などの古文書20点が遺され、その栄華を今に伝えている。
 これらの古文書は、昭和38年三重県文化財に指定された。(非公開)

(注)「神宮寺」とは・・・
 我が国に仏教が伝来した当時(飛鳥時代)は、神道と仏教はもちろん未統合だったが、平安期に入って仏教が一般にも広がり始めると、わが国古来の神道との間に軋轢が生じ、そこから神が仏の仮の姿であるとする神仏習合思想が生まれる。この結果、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が出現するようになってきた。鎌倉・室町・江戸期には、武家の守護神としての八幡神自体が「八幡大菩薩」と称される如く神仏習合によるものだったので、幕府や地方領主達の保護のもと、祈祷寺として栄えていく。その名も、神宮院、宮寺、神願寺、神護寺、神供寺などの別称がある。しかし反面、檀家を持っていたなかったため、明治の廃仏毀釈で、殆どのそれら寺院が神社に転向もしくは廃絶となり、急速に数を減らしていった。

和田一里塚跡(12:45)右手−−−104番目の一里塚−−−
               
和田一里塚跡
 野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。
 かつてはエノキが植えられており、昭和五九年の道路拡幅までは怩フ一部が遺されていた。現在の怩ヘ、恊ユ地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。
               平成十三年十月
                         亀山市教育委員会

いよいよ亀山宿(12:49)

 四つ角右手に能褒野神社への鳥居がある。傍に「従是西亀山宿」の案内板や、「露心庵跡」の案内板がある。天承12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲の折、城を守っていた関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退したそうだ。関氏一族の露心が戦死者を供養した場所で、「この庵から西が亀山宿となる」と書かれている。

亀山のローソク工場(12:53)左手

 遠くから見えていた亀山のローソク工場がある。社名は「カメヤマ株式会社」、前には「亀山ローソク前」というバス停もある。ただ、日曜日のせいか静まりかえっている。
 同社は、1927年にここ亀山で谷川兵三郎が創業、1946年に法人組織となり、現在大阪市に本社を置く蝋燭専門企業である。亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、蝋燭の国内シェアは約5割、社名は創業地の名称に由来する。スパイラルキャンドルを生み出した国内最大手メーカーであり、かつ、世界有数のキャンドルメーカーでもある。
 創業地・亀山市を中心に本社工場を設け、ローソク及びキャンドルの専門ショールームを併設。1995年にキャンドルを中心とした生活雑貨を扱う専門部署をキャンドルハウス事業部として設立。東京・青山に事業本部を置き、全国7箇所にショールームを設けアロマキャンドルから、様々なキャンドルそして、メッシュ製品などのインテリアアイテムまで幅広いアイテムを取り扱うようになった。
 結婚式で定番となったキャンドルサービスを1970年代初旬に生み出し、2002年からパーティースタイルウエディングを提唱、その後も様々なウエディングスタイルを発表し続けている。

屋号の連なる亀山の街並み

 古い家並みの亀山宿には、様々な屋号を墨書した木の屋号札が各家に掲示されている。これに関する掲示をこの先の街道筋で見つけた(13:13)ので、旧街道ウォーカーとしてその趣旨に大賛同し、ここで紹介する。
               
屋号札の掲示
                  −−宿場の賑わい復活プロジェクト−−
 亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道四六番目の宿場町として栄えたまちです。
 そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。
 かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。
 屋号で呼び合ったまちの人たちの暮しには、なぜか親しみを感じます。そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。
このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。
 今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。
  注記 屋号は文久三年(1863)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。史実とやや異なるか所もあることをご了知下さい。
               平成十三年十月
                         きらめき亀山21 町並み保存分科会

城のような建物(13:02)右手

 そんな中でひときわ目立つのが、遠くから右手に見える城のような建物で、近寄ると、何と「衣城しもむら」いう大阪商人ばりの大看板付きアピールだった。二階建ての蔵造り風の建物の上に三層の城を模した建物が重なる建物で、「宿」に似合うと言えば似合うし野暮ったいと言えば野暮ったい複雑な感じのする建物である。

江戸口門跡(13:06)

 右直角に曲がる左角に、曾てあった「江戸口門」の跡に関する解説板がある。
               
江戸口門跡
 延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。
 東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。
 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
               平成十五年三月
                         亀山市教育委員会

見逃した本陣・脇本陣跡

 活況ある「東町商店街」の右歩道を行き、右手に鯱を冠した屋根をもつ寛政7年(1795)築造の「福泉寺」の重厚な楼門(亀山市指定文化財)や、その隣には「法因寺」(本堂裏に樹齢300年の左巻榧あり)があるが、素通りして13:12「大手門跡」「江ヶ室交番」のある交差点に着く。実は、この交差点手前の反対側歩道に面して「椿屋脇本陣跡跡」「本陣樋口家跡」があったことに後刻気づいたが遅かった。

遍照寺(13:16)

 「江ヶ室交番」を左折し、次を右折した左角に「遍照寺」がある。本堂は旧亀山城二之丸御殿の式台・書院を移築したものだ。来合わせた父娘組に続いて解説板にカメラを向ける。県指定文化財の「木造阿弥陀如来立像」や「木造観音菩薩座像」「木造勢至菩薩立像」ほかについて解説されている。

亀山城

 その先右手が池の先の変速四叉路は、右=亀山城、左=JR亀山駅で、亀山城の遠景をカメラに収め、もって良しとすることにしたが、亀山城について概説しておく。

 ここ伊勢の亀山城は、文永2年(1265)に伊勢平氏の後裔、関実忠が伊勢国鈴鹿郡若山に築城した。神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなす。その後(関氏の時代)現在地に遷され、永禄10年(1567年)の信長の伊勢進攻以降、度々戦場になる。天正18年(1590)豊臣秀吉に従う岡本宗憲が入城し、天守・本丸・二の丸・三の丸等、その後の亀山城の母体となる城が完成していく。
 江戸時代に入ると、伊勢亀山藩の藩主居城となるが、江戸時代初頭、丹波亀山城の天守解体を命じられた堀尾忠晴が間違えて当城の天守を取り壊してしまった。またこの当時の亀山城は、上洛時の家康・秀忠・家光らが本丸に泊まる等、幕府の宿泊所として利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていたという。寛永13年(1636)に城主になった本多俊次が大改修を行い、天守を失った天守台に多聞櫓を築造している。
 明治以降は、明治6年(1873)のいわゆる廃城令により、殆どの建造物が取り壊され、現在は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁等の一部が残るのみである。なお、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として県下唯一の遺存例であり、現存多聞櫓としても全国で数少ない存在であるため、本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せ、三重県指定文化財「旧亀山城多聞櫓」に指定されている。二の丸御殿玄関は、先述のとおり、西町の「遍照寺」本堂に移築されている。また、城主は初代岡本宗憲から始まり、24代石川成之で明治維新を迎えている。

西町問屋場跡(13:22)

 先ほどからちらつき始めた小雨の中を、我らと同じく街道ウォーカーと覚しき名古屋から来たという元ギャル2人組に道を聞かれる。下半身が体型にピッタリのナントカパンツ姿で駆け足で通り過ぎていくが、我らのような詳しい地図も携行していないように見受けられた。我らと同じく関駅を今日のゴールにして一時間に一本しかない列車に乗るべく先を急いでいるとのことだった。
 「西町問屋場跡」は、坂を登り切った所にあり、見晴らしか゜すこぶる上等。亀山城も下の石垣から始まって良く見える。ちょっとした休憩所が設けられていたので、我らは小休止する。
               
西町問屋場跡
 問屋場とは、・・・(略)
 東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程の期間で定期的に交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
 現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和三年(1803)の「亀山領内東海道分間絵図」(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化四年(1807)の「伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図」(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
 なお、元治二年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。
               平成十五年十月
                         亀山市教育委員会

飯沼慾斎宅跡碑(13:26)−−−右手「青木門跡」入口の先、左手−−−
               
飯沼慾斎生家跡
 飯沼慾斎(1783〜1865)は、西町西村家に生まれる。十二歳で美濃大垣に移り、飯沼家を継いだ。わが国植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然科学者である。


亀山城京口門跡(13:31)−−−その先右折、また左折した先の右手−−−
               
京口門跡
 亀山城の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に気づかれた門である。『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文一二年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置付けられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
 京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
 大正三年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると、門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、「亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われるほどであった。
歌川広重「東海道五十三次」のうち『雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。
               平成二十年三月       亀山市教育委員会

照光寺(13:33)−−−交差点右先、盛り土された道より下になっている−−−

 日蓮宗の寺院。
歌川広重の『雪晴』の画が架けられている。また、大きな石塔があり、「西国三十三所観世音菩薩安置」「柳谷十一面千手千眼観世音菩薩」と刻まれている。
 この付近では、1週間後に控えた街道祭りのために手作りの短歌を書いた絵札を左右の家の前に貼って歩いていたボランティア数名と出合い、言葉を交わす。

慈恩寺(13:38)−−−古い町並みの左右「心光寺」「永信寺」「光明寺」「三宝寺」の先左手−−−

 浄土宗。亀鶴山無量院慈恩寺という。当寺の本尊「阿弥陀如来立像」は亀山市はもとより三重県を代表するもので、平安初期の重厚かつ緊張感溢れる作風の由である。
               
慈恩寺阿弥陀如来立像 (国重要文化財)
 慈恩寺は、忍山神宮の宮寺として神福寺と呼ばれ、神亀5年(728)の創建と伝えられる古刹で、かつては七堂伽藍を備えた大寺であった。文明年間に兵火によって焼失し、その後再興されたが天正11年(1583)豊臣秀吉の軍によって灰燼に帰したが、本尊のみは災禍を逃れた。
 本尊は、行基の作と伝えられ、もとは薬師如来であったが、後世の修理で阿弥陀如来にされたと言う。桧材一木造で、像高162cm、全身に木屎漆が塗られている。
 面相、左袖の一部に補修があり、左手首、右肘より先、足先は後補で、貞観彫刻の特徴をよく表しており、昭和12年国重要文化財に指定された。

「天照皇大神御鎮座跡 忍山神社参道」石碑(13:41)左手

野村一里塚休憩所(13:42〜13:45)左手

野村一里塚(13:47)右手
               
野村一里塚 (国史跡)
 慶長9年(1604)徳川家康の命により、当寺の亀山藩主関一政によって築造されたと伝えられる。本来は道の両側に怩ェあったが、大正年間(筆者(注):大正3年)に南側の怩ヘ取り払われ、現在は北側のみが遺されている。恟繧フ樹木は椋(筆者(注):目通り幹周5m、高さ20m)で、南側の怩ノは榎が三本植えられていたと言う。かつては南北両方の怩ノ巨樹が繁り、その遠望は楼門のようであったと伝えられる。
 県下12ヵ所(筆者(注):桑名宿〜坂の下宿)の一里塚のうち唯一現存するもので我が国交通史上貴重な遺構として、昭和9年国史跡に指定された。

史跡 大庄屋 打田権四郎昌克宅跡(九々五集)標柱(13:53)左手

 打田家17代当主で、亀山藩領を中心にした見聞記「九々五集」を著した人物である。

布気皇館太(ふけこうたつだい)神社(13:56)左手

 緑陰の長い参道に古色蒼然たる石燈籠が整然と並ぶ、荘重な雰囲気の神社である。神殿はここも神明造りである。狛犬が獅子ではなく犬のような形をしているのが面白い。
               
布気皇館太神社 由緒
 延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」とあり、垂仁天皇十八年の 創始にかかる式内社です。
 社名の皇館とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御還幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻・落針・大岡寺・山下・木下・小野・鷲山の七ヵ村を神戸郷といいました。
 九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「館殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇館多賀ノ宮は皇受皇太神宮の荒魂の御神なり 夫レ神戸と申侍るは 人王十代崇~天皇七かのへ寅歳奉勅命て 諸国所々に御館を改め 其郡の宗廟として荒魂の御神を社の神戸なり」とあります。
 布気皇館太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治四十一年近郷の小社・小祠を合祀し、現在の社名となりました。

太岡寺畷跡(14:10)左手
               
太岡寺畷
 鈴鹿川の北堤を1946間(3.5km)約18丁に及ぶ東海道一の長縄手でありました。江戸時代は松並木でしたが、明治になって枯松の跡へ桜を植えましたが、その桜もほとんど枯れてしまいました。芭蕉もこの長い畷を旅して「から風の太岡寺縄手ふき通し、連もちからもみな坐頭なり」と詠んでいます。

関宿へ(14:25)−−−名阪国道亀山大橋、JR関西本線を潜って国道1号に出、その先右手−−−

 いよいよ「関宿」の大看板に迎えられ、待望の宿場(旧街道)へと入る。右手に大きな地図看板「関宿総合観光案内図」があり、分岐左には「関の小萬のもたれ松」の解説板がある。
               
関の小萬のもたれ松
 江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
 この場所には、当寺亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから、「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。
 関の小萬の亀山がよい 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)
               平成六年二月吉日
                         関町教育委員会

東の追分

 伊勢神宮の大鳥居がある「東の追分」には、次のような墨書き看板がある。
          
亀山市(関町を訂正か?)関宿重要伝統的建造物群保存地区
                              昭和59年12月10日選定
               東の追分
 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。
 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を越えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
 ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。

 関西方面からのお伊勢参り一行は、この追分から伊勢に向かったことになる。

落ち着いた街並みの「関宿」

 鈴鹿颪のせいか、小雨は引き続き降っており、曇天の中で黒っぽい古民家が左右に続く関宿の佇まいは、これまで見たどの宿よりも落ち着いた雰囲気がある。最も古い町屋は18世紀中頃の建造で、半数以上が明治時代中頃までのものだと言うから驚異的である。町並みを大切にする地元の努力は、道端に置かれたゴミ収集箱一つとってみても、家並みと統一的な焦げ茶色の塗料を塗った木製連子格子風の前姿をしており、“さすが!”と感じさせてくれる。「有松」の町並みも大変良かったが、比較すれば「関宿」の方がより上だろう。

 そういえば、電柱も見えない。正面に夕闇迫る鈴鹿山脈がほんのり見え、まるで江戸時代にタイムスリップした感がある。さすがに「伝統的建造物群保存地区」というだけのことはある。先行きで予定している中山道の妻籠や馬籠辺りもこんな風情だろうかと今から楽しみである。

 関宿は、イラスト案内図で見ると、東の追分から西の追分まで、大きく「木崎の町並み」「中町の町並み」「新所の町並み」で構成されており、その中心「中町」に宿機能を果たす諸施設が集中していたようだ。道は、前方(京側)に向かって僅かな勾配ながら登り道になっている感じだ。道はJR関西本線が一番左側で、その右に国道一号線、そして今我らの歩いている旧東海道(関宿の町並み)という位置関係にある。今日のゴールはJR関駅で、所要で大阪方面に向かう清水氏は、列車の時刻との関係から先行して行き、残る三人でゆっくりと左右の町並みを楽しみながら進む。

御馳走場(14:38)右手

 関宿を往来する大名行列の一行を宿役人が衣服を改めて出迎えたり、見送ったりした場所で、関宿には合計4ヵ所の御馳走場があったという。岡崎宿でも御馳走屋敷というのがあったことを思い出す。

開雲楼と松鶴楼(すぐその左手)

 関を代表する芸妓置屋だった由。表の立繁格子やべにがらぬりの柱や鴨居にその面影を残している。

百五銀行の建物(14:40)右手)

 町並みに配慮した衣装の銀行建物で、平成九年度、三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞している。

JR関駅(14:52着)

 町並み見物に見とれているうちに、駅への左折ポイントを見落とし先の方へ行ってしまったが、これまで通った宿場町の中で観光客が一番多く、バスで来たらしい女性観光客等が道一杯にそぞろ歩きしているのには驚いた。曾て四国霊場1200kmを歩き遍路した時の松山市の石手寺を思い出して、思わず苦笑する。引き返して、約400m程街道から離れたJR関駅へ向かい、14:52に到着した。駅の建物もそれなりに関宿の町並みにマッチした外観になっている。ある意味では、鉄道線路や国道1号が離れた場所に敷設されたが故に、この宿の素晴らしい町並みが開発の波から守られてきたと言えよう。

 駅では、一時間に一本しかない亀山行きの電車を待ち、売店で民芸品風の素敵な柄の布製携帯電話入れを妻と娘にと二つ、孫には菓子をそれぞれ土産に買ったが、妻には前回の有松絞りのハンカチ同様大変喜ばれ、日頃愛用してくれているのが嬉しい。

−−−帰路は、15:29発列車で亀山で名古屋行きに乗換るが、関・名古屋間の所要時間が、名古屋・東京間のそれとニア・イコールなのが可笑しい−−−