旧東海道餐歩記-14-1 桑名宿~四日市宿
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 2008.10.25(土)桑名宿・七里の渡~四日市宿~近鉄内部線・内部駅前

 午前3時起床、3:50に自宅から妻の運転でJR立川駅へ向かう。朝一番の6:00東京発のぞみ号乗車のためには、京王線の自宅最寄駅始発電車では間に合わず、立川4:25発の中央線で東京駅へ向かうしかないのだ。
清水・村谷両氏は桑名で前泊し、滝澤氏と小生が当日組である。何しろ、a.m.8:12桑名駅改札口集合に決めてあるからだが、滝澤氏とは名古屋駅からの快速みえ51号車中で逢い、予定時刻8:08に桑名駅に到着。数えてみると、26年ぶりぐらいの当駅下車になる。

 駅前からタクシー相乗り(\710)で今回の歩行出発点である桑名の「七里の渡跡」へ向かう。車中の話題は、前泊組2名の桑名市内探訪や、地元のハマグリ漁師との会話内容など。佃煮で有名な貝新本店や、美濃・伊勢・尾張3州計329ヵ村への宝暦治水工事(木曽三川改修工事)で犠牲になった薩摩義士(屠腹50名・病死202名)を祀った「海蔵寺前」を通って、8:16七里の渡跡~九華公園(桑名城跡)に到着。この宝暦治水工事については、吉川英治唯一の門下生と言われた杉本苑子の著書「湖岸の岸」を、後日夜を徹して読み泪したものだ。また、その後、牛嶋正著「宝暦治水-歴史を動かしたプロジェクト」も読み、その事業の凄さと影響について感動した。

七里の渡し跡(8:16)

 先ずは旅の出発点・七里の渡跡で、記念撮影。伊勢国の東入口を表す伊勢神宮一の鳥居が存在感を示している。
               
七里の渡し跡
 桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)あることから、七里の渡と呼ばれました。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口に当たるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781~1789)に建てられました。
 七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大坂本陣が、七里の渡の南側には舟会所、人馬問屋や丹羽本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えました。
 昭和三三年(1958)、七里の渡跡は三重県指定史跡となりました。昭和三四年(1959)には伊勢湾台風によって、この付近は甚大な被害を受けました。現在では七里の渡跡の前に堤防が築かれたため、七里の渡跡の風景は、江戸時代とは異なる表情を見せています。
                         桑名市・桑名市教育委員会

九華公園(桑名城跡)

 「九華→くはな→くわな→桑名」ということで、「九華=桑名」とは気づかなかったが、長良川と揖斐川の合流地点に当たる桑名城跡の本丸・二の丸一帯を整備して公園化した桑名公園は、七里の渡跡のやや南側一帯である。昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後百年記念に、桑名町(当時)が桑名城跡の本丸・二の丸一帯を整備し公園にしたもので、園内には、辰巳櫓跡・神戸櫓跡が残っている。

桑名宿

 長良川・揖斐川・木曽川の3河口に位置する湊町として江戸期以前から栄えていた。渡船場であるため、天候待ちのための旅籠が必要で、東海道では宮宿に次ぐ多さだった。七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通って町屋橋を渡り、東海道が続いていた。
 天保14年(1843)の宿内人口は8,848人、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠140軒だったという。

大塚本陣跡(船津屋)8:19

 七里の渡跡から100m程西にあり、現在は高級料亭になっている。ここは泉鏡花の「歌行燈」にも「湊屋」の名で登場した所で、板塀に「歌行灯句碑」がある。そこには、「かはをそに火をぬすまれてあけやすき」の久保田万太郎の句も記されている。
写真のような東海道の道標が随所に矢印付きで整備されているので、間違えずにたどれ ます。

脇本陣駿河屋跡(山月)8:20

 本陣の向かって右隣に「山月」という明治38年創業の老舗料理旅館が往時の脇本陣駿河屋跡である。門前には自然石に彫られた歌碑があり、裏面には、太平洋戦争時の爆風で桑名城壕の一石が墜移し、故川喜多半泥子翁の遺筆を彫した旨、刻してある。

---東海道を歩き始めると、解説板「舟会所」、「問屋場跡」、「通り井跡」等がある---

左 舟会所跡  問屋場跡 右 (8:25)左手

 
舟会所は宮および佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの舟会所に乗船の申込をして料金を支払い、乗船した。現在は跡地は定かでない。

 問屋場は東海道を旅する旅人のために人足や馬を手配する事務所で人馬継問屋場とも人馬会所とも言う。宿場町には必ず設けられていた。現在は跡地は定かでない。


通り井跡(8:27)左手

 
桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言う。昭和37年(1962)工事のため道路を掘っていて、「通り井」跡の一つが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめこまれている。

春日神社(8:33)右手

 街道沿いに「青銅の大鳥居」とその横に「しるべいし」(志類べ以志)が建っている。ここは「桑名宗社」で、「桑名神社(旧三崎大明神)」と「中臣神社(旧春日大明神)」の両神社がある。

<青銅鳥居> 県重要文化財(昭和40年指定)
 慶長7年(1602)、初代桑名藩主本多忠勝が寄進した木造鳥居が大風で倒壊し、寛文7年(1667)に桑名藩主松平定重が、慶長金250両を投じて再建した日本有数の青銅製大鳥居である。

<しるべいし>
 「しるべいし」は別名「迷い児石」とも言われ、大勢人が集まる所に立てられ、東京の浅草観音や一石橋のしるべいしが有名である。子供が迷子になると、左側面の「たずぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いて貼り、その子供に心当たりのある人が右側面の「おしへるかた」へ子供の居た場所などを書いて貼る仕組みになっている。

---その先で左折し堀に架かる「多聞橋」手前から右手「五十三次公園」を通る---

五十三次公園

 北側に日本橋が架かり、各宿や富士山横を通って京・三条大橋に至るロマンチック公園である。この公園の進行方向左側は、七里の渡跡から続く壕で、対岸には桑名城城壁が残っている。
               
歴史を語る公園
 桑名は、東海道四十二番目の宿駅であり、桑名半の城下町であり、また木曾三川の河川交通、伊勢湾の海上交通をになう港町でもあった。その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口として、賑わいをみせていた。このような史実に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である。

道標 (10:47)左手

 「歴史を語る公園」が終って道路に出、右折して行くと左手の桑名市立博物館先左手に「道標」と解説板が立っており、「右京いせ道」「左江戸道」とあるが、移設されたもので元の場所は不詳とのこと。概して、宿内の曲がり角には道標があり、道順は判りやすい。

京町見附跡---左折点右先角にある筈が見当たらず、仏具店の多いよつや通りへ左折---

吉津屋見附跡(8:54)右手

 江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、吉津屋見附と言った。のち鍛冶町として独立したので、鍛冶町門(または小字名の七つ屋門)と言う。ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路になっていた。この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。

               吉津屋見付跡
 慶長六年(1601)、江戸と京都との間に東海道の制度が設置された後に、桑名城下を通る東海道の見附として吉津屋門が建てられ、門の南側に桑名藩の役人が詰めている番所が建てられました。この付近は江戸時代以前は七ッ屋と称されていましたが、江戸時代初期には吉津屋町に属することになりました。しかし、鍛冶を業とする人が多く住むようになったため、吉津屋町から分離して鍛冶町を称するようになりました。そのため吉津屋門は、別名を七ッ屋とも鍛冶町門とも呼ばれます。東海道はこの門をめぐり、四角形の三辺をまわり、いわゆる升形道路となっていました。諸大名の行列は、この門の前後から本行列に整えて、桑名城下を通りました。
                         桑名市教育委員会


泡洲崎八幡社(9:01)右手
               泡洲崎八幡社の由来
 江戸時代以前、桑野の町中は、町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し、當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。慶長年中(1596~1614)町割の時旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守を神主として奉仕されていた。明治41年に合祀令が下り桑名宗社に合祀されていたが、昭和二十五年十月十日、新町の産土神として現在地に分祀遷御された。境内に天保十三年(1842)新町北端に建立された導石「右きやういせみち」「左ふなばみち」がある。

光徳寺(9:01)右手
               光徳寺
 浄土宗。古くは泡洲崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山(1718~77)は桑名船馬町の商人で、万古焼の創始者である。また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(1644~1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888~1937)の墓がある。


十念寺(9:02)右手
               十 念 寺
 浄土宗。古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割の際に現在地に移る。県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)市指定文化財として当麻曼茶羅図、仏涅槃図、森陳明之墓がある。森陳明(1826~69)は明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して切腹した。


 この「森陳明之墓」については、平成20年3月に桑名市教育委員会が解説板を立てている。

             
桑名七福神 浄土宗十念寺
 人皇四十代、天智天皇の勅願寺として、朝明郡切畑村に創建され、行基菩薩により興隆す。
 嘉禄元年(1225)、開山誉阿弥陀佛上人、浄土宗第三祖記主良忠上人と師弟の約を結び浄土宗となる。大永元年(1521)桑名城本丸の地にあり、天正十四年(1586)築城の為、請により泡洲崎八幡宮の東に移り同宮別当を兼ね、慶長の町割に際し、現在地に移る。寛永十七年(1640)七堂伽藍が完成、寛文年中、松平定重公御夫人より書院一棟の寄進あり、塔頭三院と共に、北勢地方中本山と稱せられた。
 昭和二十年七月、戦災により伽藍焼失、昭和四十三年十一月二十三日、信州善光寺一条智光上人御親修の大法要を修し、寛文以来の伝統行事、七福神まつりを復活し七福堂の建立、二千躰佛の造塔、納骨堂、書院、鐘楼堂、山門などを檀信徒協力して再建す。

寿量寺(9:04)右手
               寿量寺
 日蓮宗。元は今一色付近にあったが、慶長町割の際に現在地に移る。市指定文化財として狩野光信墓、銅磬、日蓮聖人御本尊がある。狩野光信は江戸城の障壁画を描いて、京都へ帰る途中、慶長13年(1608)6月桑名で没した。参道入口すぐ南側の小さな五輪塔が狩野光信の墓である。境内には明治2年(1869)銘の仏足石がある。

長圓寺(9:05)右手
               長円寺
 浄土真宗本願寺派。古くは江場村にあったが、慶長町割の際に現在地へ移る。市指定文化財として、桑名名勝志、久波奈名所図会、桑名の千羽鶴がある。これらは当寺第11代住職魯縞庵義道(1834没)の作品である。桑名の千羽鶴は1枚の紙で連続した鶴を折る、珍しい手法である。境内に大阪相撲の千田川善太郎の(1804没)墓がある。

 ---日進小学校前の広い道に出て、次の信号を右折した先の右側---

広瀬鋳物工場跡(9:09)右手---立派な塀の豪邸に、鋳物工場跡の解説板---
               広瀬鋳物工場跡
 江戸時代のはじめ、城の建設などのため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑名の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。


 現在は個人の住宅となっている。

天武天皇社(9:10)右手---天武天皇を祭祀する全国唯一の神社とか---
               
天武天皇社由来
   御祭神  天武天皇 持統天皇 高市皇子
 当社ハ壬申ノ乱ニ天武天皇皇后ト共ニ吉野ヨリ潜幸 桑名郡家ニ御宿泊アリシ深キ由緒ニヨリ創立セラル
明治天皇御東幸ノ際 当社ノコトヲ聞召サレ特別ノ思召ヲ以テ明治二年六月十四日左ノ如キ御沙汰アリ
 伊勢国桑名郡本願寺村地内鎮座天武天皇社ハ御旧跡ノ義ニツキ永世湮滅無之様ナサレタキ思召ニ付同所取締中其藩ニ於テ取計ルベキ旨御沙汰候事       
                          行政官

一目連神社(9:15)右手
               一目連神社の由来
御祭神は天目一箇命にして大津彦根命の御子神であって天照大神の御孫神にあたらせらる一目連神社は我が国金属工業の祖神である鋳物及鉄工に関する御利益殊に顕たかな神として知られ御神徳のお高い御神であらせらる 鍋屋町は町名の如く鍋屋の多き所にして一目連神社の新興篤く ある日町民が一目連神社に商賣繁盛の祈願をせるに祈祷も終り賽銭をあげたるに不思議にも供酒皿の中に飛びこみたるを見て町内繁盛の御印しなりと深く感激し守護神として神社を建立し御祀りすることになったと伝えらる(今より約百五拾年前) 以来商賣益々繁盛し非常に発展せり 又一目連神社は天変地異ある毎に現に御霊を現はし諸難を救い給ひ時に竜神となりて天翔り干天に慈雨を恵み給うことは廣く世人の知るところにして農業水産の神としての信仰者も多くあり其他不思議なる御利益の伝説も少なからず
     月並祭 毎月一日
     例 祭 五月五日
     例大祭 十月十六日
                         當  社


矢田立場・福江町(9:25)右角

 途中、右側に釣鐘が置いてある中川梵鐘店の前を通り、国道1号線を越えた突き当たりに立場があります。
               
矢田立場・福江町
 江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所)であった。「久波奈名所図会」には、「比立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とある。福江町八曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成三年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。
 福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、宿屋の人たちが集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。
                         桑名市教育委員会


 街道は、ここを左折し、しばらく左手の国道1号に並行して進む。

江場松原跡(9:33)右手

 左手に、浄土真宗本願寺派の「了順寺」の先の右手に「江場松原跡」の解説板があるが、松原は残念ながら残っていない。
               
江場松原跡
 七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、一本の松も残っていない。


城南神社(9:36)右手

 木板に墨字書きの立て札があるが、風化していて文字が読めない。御祭神は天照大御神らしい。
               
由  緒
 当神社は垂仁天皇の御代(皇女)倭姫命、天照大御神の御杖代として暫時御停座の御旧地(と)伝承されており伊勢の神宮とは御■■殊の外深い御社であります」
 古来神宮式年御■■宮ごと(く)皇大神宮一ノ鳥居■■古殿舎の一部を拝戴御改築の慣例になっております

安永ふじの里(左手)---大きな藤棚があり、解説板がある---
               安永ふじの里
 ここ安永の里のふじは樹齢約二百十数年を経ており、春は近在の人々の花見で賑わい、根の張ったふじの幹は地震の時、住民の集結場所であったと伝えられる。この地は東海道の往還にあるので、人馬の休息所とされていた。当時使用された「御馬口御洗水」の高札が向かいの母屋に残されている。江戸時代の東海道筋の地面は現在より低い位置にあり、この母屋を見れば推測される。母屋は文政元年(1818)の建物で、玉田屋喜輔による墨跡も保存されており、昭和18年頃まで使用され「名物安永餅」を作った「かまど」と「看板」が今も唯一現存する。
     旅人を茶屋の暖簾に招かせて のぼりくだりをまち屋川かな

 桑名七里の渡しから、ここ安永の里へ至る旅人の憩いの場所として、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にもこの街道が紹介されている。

安永の常夜灯(9:45)右手

 この「安永常夜灯」前の道路は旧東海道筋にあたり七里の渡しから約一里弱、戦災まで堤から町屋橋(木橋)が架かり川向う縄生には「一里塚」があった。このところは町屋川の清流に臨み上流からの舟運や筏と旅人の小憩する茶店などで賑わったという。常夜灯は昔の灯標であり、伊勢神宮への祈願を兼ねたもので寄進人は材木商の連名になっている。

 常夜灯前から本来の東海道は直進だが、現在この先橋が昭和8年に廃止されたために左側に迂回しなければならない。その前に、前方川岸に数十人の街道ウォーカーたちが屯している川岸まで行くと、いろいろな解説板が設置されている。

               
町屋橋跡
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集まっている所)であり、また町屋川の舟運の船着場でもあったので、大いに賑わい、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
 この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永十二年(1635)にはじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本のいたばしであったり、しばしば変わっている。下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が待避できるように橋がやや広くなっていた。
 昭和八年(1933)、国道1号の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。

古い橋桁と文学碑

 左に迂回して橋を渡っていると、右手の川の中に往時の橋桁跡が見え、感動させられた。橋を渡り終わった右手に「文学のなかの町屋川と橋」と題する解説板がある。
     元禄二(1689)年刊「一目玉鉾」井原西鶴
     寛政九(1797)年刊「東海道名所図会」秋里籬島
     寛政九(1797)年刊「伊勢参宮名所図会」蔀関(?)月
     享和二(1802~文化六(1809)年「東海道中膝栗毛」十返舎一九
     中村小松の9に詠まれた町屋橋
などについて詳述されている。

十一面観世音菩薩(9:57)右手、一里塚跡(10:00)左手

 町屋橋を迂回して、川の反対側の元の道正面に続く道を数分行くと、9:57右手に「十一面観世音菩薩」の石塔があり、更に少し進むと、左側に97番目になる縄生の「一里塚跡」の石塔が建っている。

近鉄名古屋線「伊勢朝日」駅

 駅でトイレを借用し小休止。踏切を渡った右手に朝日町の史跡案内板がある。
               
古萬古発祥の地 朝日町
 三重県でも北部に位置する朝日町は、北は町屋川(員弁川)を挟んで桑名市へ、南は朝明川を隔てて四日市市へ、東は川越町を経て伊勢湾に達します。西には標高50m前後の朝日丘陵があり、その東麓には旧東海道がほぼ南北にはしり、それを境に丘陵地帯と田園地帯に分かれる5.99㎢の小さな町です。
 朝日町には弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在しています。なかでも、昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになった縄生廃寺跡は、白鳳時代創建と考えられる寺院跡で、全国的に注目を集めました。塔心礎から一括出土した舎利容器は、平成元年に国重要文化財に指定されました。
 この町は、日本書紀に「朝明駅」(縄生付近と考えられている)と記述され、壬申の乱(672年)の時には、大海人皇子らが美濃国へたどった道筋にあたります。
 また、江戸時代には東海道筋として栄えたところでもあります。
 この町からは、著名な国語学者橘守部、萬古焼を再興した森有節、日本画家栗田真秀・水谷立仙らが生まれました。

旧東海道の榎(10:12)左手

 左手の家の前に塚があり、榎の古木が1本立っている。解説板もある
             

           推定年齢 約300余
 この木は東海道の並木として植えられていたものです。並木には、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、676
こうした雑木に類するものも混じっていました。
 松は、太平洋戦争末期、松根油をとるために痛めつけられたり、その後の松くい虫の被害などによって、あとかたもなくなくなってしましました。
 もしこの木が話せたならば、私たちに、この街道や村で起こったことをたくさん語ってくれことでしょう。

橘守部誕生地遺跡(10:20)左手------
               <三重県指定史跡>橘守部誕生地遺跡
 橘守部(1781~1849)は、江戸時代後期に活躍した国学者です。守部は、伊勢国朝日郡小向村(現朝日町小向)の大庄屋格であった飯田長十郎元親の長男として生まれ、十七歳で江戸へ下り学問を志しました。二十九歳の時、武蔵国葛飾郡内国府間村(現埼玉県幸手市)へ転居し、四十九歳で再び江戸へ戻り、地庵と号しています。当時、国学者の多くが本居宣長の門下生であった中で、ほとんど独学で国学を学び、独自の学説を展開した守部は異色の存在であり、平田篤胤、香川景樹、伴信友とともに天保の国学四大家に数えられています。『稜威道別』『稜威言別』など多数の著書があり、嘉永二年(1849)六十九歳で没しました。お墓は、東京都台東区向島の長命寺にあります。 

浄泉坊(10:20)右手
               
浄 泉 坊
 浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正冶寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。嘉永十五年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。
 徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。

西光寺(10:25)右手
               
西 光 寺
 真宗大谷派、朝明山と号す。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に、「明應五年丙辰年六月二日 願主釋念正 本願寺釋実如(第九世)判」とあり、この時(1496年)をもって開基とし、その後貞享二年(1685)大谷派に転じ現在に至る。
 現在の建物は、明治10年~23年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え、松並木の面影をとどめている。

---その先、三叉路を左方向へ行き、右手にベンチがあり休憩(10:35~10:40)---

常夜灯---朝明川(あさけがわ・昔は朝餉川と称した)の少し手前の右手---

蓮證寺(右手)
               松栄山蓮證寺
 当山は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺である。松寺三丁目に建立されていて、阿弥陀如来が安置されている。
口伝によれば、四百年位前に、現在地にお堂があり、本堂も二百年位前に建てられたと伝えられる古い寺である。
 昔の太平洋戦争中に供出された凡(梵)鐘も、地元の篤志家のご尽力により立派に再建された。また、戦争中には学童疎開で寺を利用していただいた時もある。
山号は松栄山といい、<松>栄山蓮證<寺>と町名の松寺とは何か関係が有るのではないかと思われる。尚、鐘楼は平成五年・山門は平成六年に再建された。
 桑名に続く東海道の道すじにある。


待望の食堂発見

 きょうの歩行区間は、昼時に適当な店が見つからないとの経験者の情報だったが、国道26号線を越えた右手に中華食堂を発見。11時数分前だったが「4名」の指サインに「OK」で応えてくれたので早速入店し、やや早めながら昼食タイムとなる。(11:00~11:36)

鏡ヶ池跡(11:37)左手
               
鏡ヶ池(笠取り池)
 『続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平十二年(740)に伊勢国を行幸になり十一月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、二十三日に朝明郡の頓宮に着かれたとる。
 その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。明くる朝、旅立ちの日は風もなし、曽良は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。

---三岐鉄道とJR関西本線の高架を潜り、四叉路左折、再び近鉄と三岐鉄道高架を潜った先の右手---

富田一里塚(11:50)右手

 98番目の一里塚であり、いよいよ100が近くなってきた。
           
    史跡 富田の一里塚跡
                     県指定 昭和十二年十一月
 昔、街道の両側に一里(約四キロメートル)ごとに土を盛り上げえのき等の樹木を植えて旅人の目印にしたものが一里塚である。すでに戦国末期に存在していたが江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。
 しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においても、その面影をみることができなくなった。古地図や文献によると四日市には、富田・三ツ谷・日永・采女の四ヶ所にその跡が判明されており、これはそのうちの一つで日永の一里塚とともに県の史跡に指定されている。


八幡神社(11:52)左手
               
八幡神社
       祭神 応神天皇
 「富田六郷氏神記」に「八幡大菩薩は弘安二年(1279)二月十五日、富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請される」と記されている。これが、富田西町の八幡神社の起こりである。更に「氏神記」には「社地東十六間二尺、南北八間、面積百四十五坪、本村の元標より北の方、字茶屋町に鎮座す」とあり、かつてはこのあたりの地を八幡と呼んだと伝えられている。
 明治四十二年(1909)鳥出神社に合祀され、社殿址に「八幡神社址」の石碑が建立された。昭和四十年(1965)頃現在の社殿が再建され西町の産土神として戻された。
 昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。
 現在では当時をしのぶ面影はないが社殿西に数百年を経た椋木の古木が名残をとどめている。また、境内には力石も残されている。
                         富田地区文化財保存会

               八幡神社の力石
 「力石」は、鎌倉の頃より、江戸、明治、大正と時代を超えて若者たちに愛され継承されてきた。
 「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。
 「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。
 しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置される存在となってしまった。
 昔日の人々のこの思を引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
   重量 およそ百キログラム
 「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。
                         富田地区文化財保存会

               行啓記念道路
 この碑は、大正天皇が皇太子時代にこの道路を通られたことを記念して建てられたものである。(現在の石柱は昭和二年<1927>一月に再建されたものである)
 明治四十三年(1910)十一月十六日、第三師団と第十五師団の対抗演習を見学のため西下された皇太子殿下は当時三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)にお立ち寄りになられた。当日、小雨降る関西線富田駅に降り立たれた殿下は、二十一発の祝火のとどろく中を中学校へと向かわれた。全校生徒お迎えのなか御座所に入られ、授業を参観し成績品陳列室を回られ、最後に校庭において四・五年生の中隊分列行進をご覧になってお帰りになられた。
 創立まもない田舎の中学校に皇太子殿下をお迎えするなどということはまさに破天荒の出来事であり、職員・生徒はもちろん富田の住民の感激は大変なものであったと伝えられている。
                         富田地区文化財保存会


道標(津市元標へ拾里)右手(11:58) 

 その少し先で「右東海道→」の道標に従い右折すると右側に「津市元標へ拾里」道標が立っており、この辺りからは、東海道の道しるべが随所に掲げられている。高すぎて分かりにくかったり、肝心な曲がり角に無かったりするが大いに助かる。道標の先を右折すると、約200mで近鉄富田駅だが、我々は直進する。

明治天皇富田御小憩所跡(12:01)右手

 市民センター前に「東海道総合案内図」、富田小学校の前に「明治天皇御駐輦跡」の解説板と「史跡 明治天皇富田御小憩所跡」碑がある。

           
明治天皇御駐輦跡
 維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。
 明治元年(1868)九月二十日、車駕にて京都を出発し東京へと向かわれた。二十四日には四日市に御駐輦、翌二十五日富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞味になられ、十月十三日東京に入られた。
 その年の十二月八日、京都へ帰られる途中、十九日に再度五郎兵衛方に御少憩になられた。
 翌明治二年三月七日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都されるとき、三月十五日、またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。
 明治十三年陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸になると、七月三日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。
 広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてであった。
 明治天皇御駐輦跡の碑は、公爵近衛文麿の筆である。
                         富田地区文化財保存会


十四川堤の桜並木(12:05)
               
十四川堤の桜並木
 富田の町を西から東へ流れる十四川堤の両岸一.二キロメートルにわたってソメイヨシノが約八百本植えられています。
 毎年見事な桜並木となり、満開のあとは桜吹雪となって散る姿にも味わいがあり、花見客で大変賑わいます。
 この桜の歴史は大正十二年に地元製鋼業を営んでいた伊藤勘作氏ほか有志により植樹したのが始まりで、昭和五十三年には開花ぶりが良いと「日本さくらの会」より全国表彰を受賞しております。
現在は桜の名所を守り育て後世に伝えていこうという願いから、富田地区住民により大切に管理しております。
                         富田地区社会福祉協議会
                         富田地区文化財保存会


善教寺(12.06)左手
               
成徳山善教寺
昔、このあたりを海戸尻と呼んだ。そこに、地域の篤き願いの人々の信仰の場、海戸尻道場があった。成徳山善教寺の前身である。
寛正のころ(1460~66)東海・北陸地方を布教中の真宗高田派十世真慧上人が当道場に名号・野袈裟と御書を授けられたと、伝えられている。残念ながら当時のものは現存しないが、慶長一五年(1610)同高田派十三世尭真上人より新たなる名号・野袈裟が下付され、今も本堂に祀られている。
 元和三年(1617)十一月二十八日本山より「善教」の寺号、正徳元年(1711)八月十二日「成徳」の山号が授与され、明和八年(1771)七月七日釣鐘が許可された。
 本堂は、三代目の堂宇(専修寺如来堂模倣)で、それまでの本堂が築約二百年を経て老朽化した為昭和十年(1935)再建、客殿(書院)を新築した。
 境内西側の収蔵庫には、国指定重要文化財「阿弥陀如来像」が安置されている。
                         富田地区文化財保存会


常夜燈(12:08)右手
               常 夜 燈
 常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味をもっている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。
 碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている。
 この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。
 今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。
                         富田地区文化財保存会

薬師寺(12:09)右手
               薬 師 寺
 五十一代平城天皇の大同年間(806~10)の頃、このあたりに百薬に手を尽くしてもなお治らない疾病が流行し諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。
 諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建てて、この薬師如来を祀ったという。
 その後、茂福(もちふく)城主朝倉下総守盈盛(みつもり)は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄十年(1567)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。
 その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。
 現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。
                         富田地区文化財保存会

常照寺(12:13)右手
               
光明山常照寺
 天文七年(1538)釈法導によって開山された。
 寛文年間(1661~73)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来四百余年今日に至っている。本堂は明治四十二年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。平成七年十一月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われた。
 境内左側小堂に千手観音像が祀られている。明治十八年、住職大忍のころ矯風会(茂福町内会)より預かったものであるが、百余年を経た今も毎年八月十八日のお参りが続けられている。
 鐘楼の鐘は昭和二十七年(1952)三月、四日市大博覧会において「平和の鐘」として展示されたものを答辞譲り受けたものであり、池の間には常口の歌「一筋に世界の平和祈りつつ つくやこの鐘永久にひびけと」が刻まれている。
                         富田地区文化財保存会

新設用水道碑と力石(12:13)---突き当り---

 碑の前面に「新設用水道碑」、横に「水源地是ヨリ七町」と書かれている。その左下に大きな石と解説板がある。
               
力石の由来
 明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
 その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
 その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
 およそ三十二貫(約120kg)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。石に三十二メと刻まれている。下にある小さな石は重さ五貫(約19kg)で子供用であろうか。
               平成五年七月吉日建立
                         茂福地区自治会 茂福地区白寿会
                         富田地区文化財保存会


證圓寺(12:15)---鍵型に左前方にクランクになった先の右手---
               林光山證圓寺
 当寺は、天台宗であったが、天文(1532~55)のころ住職が浄土真宗本願寺の第十世證如上人に帰依して改宗したと伝えられている。
 その後、永禄十年(1567)、茂福掃部輔盈豊が滝川一益に謀殺され、茂福城が落城するや、臣林玄證は盈豊の遺子(当時二歳)を敵より隠しひそかに鍋坂の村中に逃れて養育し、成人の後、我が娘と娶わせて家督を譲った。遺子すなわち林三郎左衛門盈景およびその末葉は茂福證圓寺住職になる。
 境内には、開法蔵があり、一切経を初め多くの経文が収蔵されている。また、仏足跡や親鸞上人像が見られる。
 境内には古木多く、緑の松、黄色の銀杏、紅の紅葉と秋の彩りはみごとである。
                         富田地区文化財保存会

道標(12:17)---證圓寺山門の先の右手角---

 「右いかるが」「左四日市」と刻まれ、ている。

茂福(もちぶく)神社(12:19)---前川橋を渡った先の右手---
               茂福神社
     祭神 建速須佐男命ほか八柱
 応永二十八年(1421)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任すると、建速須佐男命と天照皇大神をお祀りした。祭祀を引き継いだ城主茂福掃部輔盈豊は永禄十年(1567)伊勢長島城で謀殺され
茂福城も落城した。その後、盈豊の遺志は受け継がれ祭祀が続けられてきて茂福の産土神となった。
 明治四十二年(1909)鳥出神社へ合祀となり、従来からの祭の日には御神霊を御輿で奉迎し、現在の茂福神社を御旅所として祭りを行ってきた。昭和二十五年(1590)鳥出神社から分社、正式に茂福神社として再祀、祭神を旧社に奉還して現在に至る。
 境内には、鳥居・石灯籠・狛犬・太鼓橋など、石造物が多く奉納されている。古くは寛文十二年(1672)を始めとして明治・大正・昭和と時を追って奉納されていて、この地の人々の信仰の篤さをのばせている。
                    富田地区文化財保存会


大きな常夜灯(12:27)右手、地蔵尊(12:30)右手、「かわらずの松」(12:34)左手

 我々の身長の三倍は充分ありそうな、大きな常夜灯の前で記念撮影する。

 その先で、立派なお堂に安置された地蔵尊があるが、前に大きな石塔が立っており、「真誉法願上座」と刻してあるが、意味不明である

 更に少し先の左手に「かわらずの松」と解説板がある・
               東海道「かわらずの松」
 この松は、樹齢二百年余りで江戸時代より街道を行き交う旅人をじっと眺めていたことだろう。
昭和十三年国道一号線が出来るまでは幹線道路として往来が激しく賑わった道路であった。戦前まではこの付近の東海道沿いに多くの松が植えられていて、松並木の景観が見られたが、戦後は経済の発展に伴い道路の拡幅と松食い虫の被害等で姿を消し、現在四日市では日永地区と、この羽津地区の二本だけとなった。
 この地域は「かわらづ(河原津)」と呼ばれており、この松を昔の地名を取って“「かわらづ」の松”としていつまでも愛護していきたい。
               平成十九年六月吉日
                    民氐氐八田第二自治会
                    かわらづの松保存会

志氐(しで)神社(12:39)右手

 「氐」は「氏」の下に「一」を書くのが正しく、ワープロでは表現できないと思っていたら、嬉しや出来るのだ。「志氐神社」鳥居を右手で見るが、参道が長く、神社は350m程寄り道になるのでパスする。同神社は四世紀末築造といわれる前方後円墳の前に建てられているそうで、パスはちょっぴり残念。

光明寺(12:43)右手---目立つ「浄土真宗」系寺院---

 12:43その先右手の「光明寺」に立ち寄る。ここも浄土真宗本願寺派の寺院で「初野山摂護殿光明寺」と言うらしい。それにしても、桑名出発以来、寺院は殆どが浄土真宗であり、かの一向一揆がどう影響しているのか、いないのか、よくは知らないが、地域的特性であることは明瞭である。

 寺の前に「八十宮御遺跡」という石碑がある。八十宮(やそのみや)は、吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称で、異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王がいる。 生後一ヵ月で、時の将軍、徳川家継(6歳)と婚約したが、その二年後の家継死去により、史上初の武家への皇女降嫁、関東下向は実現しなかった。その後、出家して法号を浄琳院宮と称し、45歳で逝去したようだが、その八十宮と当光明寺との関係についてはよく判らない。

延命地蔵尊(12:49)左手---突き当たり左折・右カーブで国道1号合流ぐ先---

道標(12:50)右手---「右 桑名  左 四日市」---

「笹井屋支店」---三ツ谷町信号右手に「なが餅」で有名な老舗の支店。本店はまだ先---

多度神社(12:58)---海蔵橋の少し手前を左の旧道に入った左手---

多度神社は、明治42年に海蔵神社に合祀され、大正9年に分祀・再建されている。

三ツ谷一里塚跡(12:59)---海蔵川の土手を登る途中の左側に石碑と解説板---
               
三ツ谷の一里塚
 
(前略)
 東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は昭和二十年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之圖」(元禄三年(1690)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されている。
 そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。
                     平成十三年<二〇〇一>三月吉日  
                          海蔵地区地域社会づくり推進協議会

四日市宿・・・江戸から 99里8丁(389.7KM)、京へ26里12丁 人口約7,100人 

 三滝川(三重川ともいう)に架かる「三滝橋」を渡ると「四日市宿」に入る。宿の名前は、毎月四のつく日に市が立っていたことに由来する。

三滝橋(13:13)
                 
三 滝 橋
 四日市市街の中央部を東流する三滝川に架かる橋。江戸期は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替え、更に大正13年6月、鉄橋橋(長さ72M、幅6.3M)に改めました。近世までに何世紀にもわたって市の文化や生活の中心地でした。
                 平成13年3月


笹井屋本店(13:18~13:25)左手---小休憩---

 先ほど前を通り過ごした支店の本店で、立ち寄る。名物の『なが餅』を買い、各々分け合って賞味したが、上品な甘さで、お茶も入れて貰っていい休憩になる。店構えも倉造り風でなかなか風情のある店である。
 創業は天文19年(1550)というから相当な老舗だ。津藩主藤堂高虎の足軽時代、「吾れ武運の長き餅」を食うは幸先よし」と喜んで食した由。後に大名になって参勤交代の時は必ず立寄ったと伝えられているそうだ。名前の通り、細長い餅の中に小豆の餡を入れて焼いたもので淡い上品な甘みである。7本入りで630円だった。 

道標(13:28)---暫く先の右折箇所---
 石柱の表側に「すぐ江戸道」、裏側に「すぐ京いせ道」、横面に「文化七庚牛冬十二月建」とある。
 旧道はここからこの先の諏訪神社へと斜めに続いていたが、現在は区画整理の影響でこの道標から右折して国道1号線に出て、その先の信号で右の旧道に入り、諏訪神社前を斜め西に向かう。

諏訪神社(13:32)---国道1号線を渡り、ライオン通り商店街に入った入口右手---

 境内入口に広重の東海道「四日市」の絵がある。建仁弐年(1202)、信州諏訪の諏訪大社に勧請し、分祀した神社で、当地の産土社である。 大四日市祭の名で行われている諏訪神社の祭礼が、江戸時代の東海道名所図会に、「祭式の楽車(だんじり)ねりものあり、近隣群集して賑しき神事也」と紹介されている。

---13:37ライオン通りの繁華街を抜け、大通りに出る。右に行けば近鉄四日市駅や、今宵の宿「新四日市ホテル」だが、教の歩程はもっと先の近鉄内部線の内部駅まで行き、電車で引き返して同ホテルに泊まり、明朝また電車で内部駅まで移動して、そこからスタートする予定なのである。---

宗顕精舎(丹羽文雄生誕之地)碑(13:39)左手

 小川を「阿せちばし」と刻まれた、円筒状の石碑が脇に立つ橋で渡り少し行くと、左手に郵便局があり、その隣奥に「崇顕寺」があり、脇に、「佛法山崇顕精舎 丹羽文雄生誕之地」と刻まれた石柱がある。
 丹羽文雄は、この崇顕寺住職の長男として生まれ、戦後は、銀座を描いた風俗小説で一世を風靡、親鸞や蓮如などの宗教小説では人間の深い業を描いく等活躍し、昭和52年(1977)には、第一回文化勲章を受章している。

---近鉄名古屋線のガードを潜る辺りから古い町並みになる。菓子舗も多く見かけ、また、「東海道」の小木札を掲げている店や民家が目に入る---

鈴木薬局(13:53)右手
             
  鈴木薬局(旧鈴木製薬所)
 竹の切り口を示す「丸二つの組合せ」の登録商標に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの軟膏の名前が書かれた古い看板を掲げる鈴木薬局は、二〇〇年以上も製薬業を営む旧家である。
 当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延三年(1750)二月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。
 当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。これは、第六代勘三郎高光が、嘉永五年(1852)に建てたものであることが、家系図によってわかる。玄関には、約六〇Kgの重い木製の上げ下げ戸があり、東海道に面した家の表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある、また、土蔵とともに軟膏をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。

大宮神明社(14:00)右手
               
大宮神明社
 当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。
 昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。垂仁天皇の時代に倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)に遷ってきたのがこのお社である。
 例祭は十月の体育の日である。この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている。
 本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社ニ柱大神社(センキさんとも言う)があり、病気を直す神様として有名である。
 六月三十日には那護志大祓(なごしのおおはらい)があり、一般には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、近在近郷から老若男女が大勢参拝し、夜店がぎっしり並んで大変な賑わいで、有名な祭りとなっている。

興正寺(右手)
               
興 正 寺
 当山は浄土真宗高田派で、創建は貞観6年(864)と言われている。登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗した。
 その後二百年くらいして、本山の第十世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。天文13年(1544)本山第十二世堯慧上人は当寺で「日永千部」という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有名な末寺となった。
 天正2年(1574)現在地に移る。
 堯慧上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などを有している。また、徳川家康もこの寺を保護するようにしたと言うことで、この堤を昔の人は滝川堤と言った。

両聖寺(14:18)右手
               
林光山両聖寺(りょうしょうじ)
 
当山は昔、天台宗林光山西教院と称したが、住職の専阿上人が浄土宗第三祖記主良忠禅師と比叡山で一緒に修行された縁で、宝治二年(1248)記主良忠禅師が当山で大いに浄土教を宣布された。それ以来当山は浄土宗となった。
 このため、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代とした。第三代道阿玄忍上人の時、前記両聖人に因んで寺号を両聖寺と改めた。
 その後寺院は度重なる火災に遭い、本尊の阿弥陀如来も焼失し、幾多の災厄変遷を重ねてきた。
 寛永二年(1625)に第十八世完誉月帚上人は阿弥陀三尊仏を寺に奉納し、開眼法要を営まれた。
 明治四十年(1907)両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀された。今でも中の瀬古の獅子を八幡獅子と言うのはこのためである。また、お盆には境内で市の無形文化財の「つんつく踊り」が披露される。

               市指定無形民族文化財(芸能) 
                    つんつくおどり
                          昭和三十一年二月十八日指定
 司馬江漢が「誠に田舎の踊りなり」(文化12年(1815)刊行「西遊旅談」)と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合わせて円陣をつくってくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。
 その起源は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固めるときに村人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実連寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振付けたものといわれているが、定かでない。
 大正時代末頃までは、8月14日から17日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の四町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、四日とも唄う唄が異なる上、土、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって8月15日、16日に両聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が唄われている。
 なお、同寺には、江戸末期の庭園を代表する「心月池」がある。
                平成十四年三月
                              四日市市教育委員会


日永神社(14:22)右手
               日永神社
 当社は昔は南神明社といい、主祭神として天照大御神を祀る。日永神社という単称が許されたのは明治四十年からである。
 創祀は鎌倉時代の建仁年間(1201~04)といわれているが、天正年間(1573~92)に織田信長の兵火に罹り、創立沿革の記録や神宝類も焼失し、いつ創祀されたか不明である。
以前は拝殿の右側に松の老木があり、国難があると樹皮が変色して人々を驚かせ、神木として崇められていたという言い伝えがあったが、その木は今はない。
 当社は神戸藩本多家の崇敬が篤く、本多家は当社に家紋を献納され、現在も紋章の付いた備品が残っている。
 明治四十年には岡山白髭社・日吉神社・追分神明社を、また明治四十一年には池鯉鮒社・山神社・天満社・事比羅社・土大神社の無格社を、更に明治四十四年には稲荷社を合祀して現在に至っている。
 例祭は十月の体育の日である。

西唱寺(14:26)右手

日永一里塚跡(14:28)右手

 江戸日本橋以来100番目の「日永一里塚」の碑は、何と家と家の隙間にポツンと立っており、往年の面影は皆無である。100里ちょうどの地点だけに惜しい。仲閒と交互にデジカメで記念撮影したが、嬉しさもイマイチというところである。


名残の松(14:35)左手

 先ほど見た羽津地区の「かわらづの松」と共に、今に残るもう一本の松である。曾ては、この辺りの道の両側には、立派な松並木が続いていたという。
               東海道名残りの一本松
むかし、この辺りから泊の集落までは、東海道の両側に低い土手が築かれ、その上に、大きな松の木が並んで植えられていた。
 その間には、家は一軒もなく、縄手(なわて)と呼んでいた。この松は、その縄手に植えられていたものが残った貴重なものであり、往時の東海道や日永の歴史の一端を今に伝えるものとして、大切に維持しなければならない。
 縄手の道の幅は、土手も入れて約5間(9メートル)であった。松の木が無くなった現在の道幅とほぼ一致する。因みに、旧東海道の道幅は3間(約5.5メートル)で、現在も変わっていない。

日永の追分(14:45~14:54)---三重県史跡---

 左後ろからの国道1号線に合流してから間もなく、県道407号(旧国道1号)を右に分ける「日永の追分」に着く。石囲みの広い一角に巨木があり、「伊勢神宮遙拝御鳥居」、「常夜灯」、「左いせ参宮道・右京大坂道」の石道標、「天然水の井戸」等がある。この井戸からは常時水が湧き出し、ペットボトルやポリタンク持参で沢山の人が水汲みに車で来ていた。傍には水質検査表も貼ってあり、飲むと実に旨い。
               
日永の追分
 道が左右に別れているところを追分と言う。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の別れ道である。
 道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。この鳥居は安永三年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。
 また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。
 「日永の追分」は昭和十三年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。

---東海道はこの追分で右の道に入り、追分駅で近鉄内部線の踏切を渡り、小古曽(おごそ)の町に入る

小許曽(おごそ)神社(15:05)右手 

 石柱には「小古曽神社」、解説板には「小許曽神社」とある。
               
小許曽神社
 昔より産土神として地元民に崇拝されており、醍醐天皇の代延喜五年(905)式内神社と、神名帳に記載されているところから、伊勢の国の二百三十五の大・中・小社の一小社として百十年ほどの歴史を有する神社と言えよう。
 特に明治元年(1868)九月二十四日、明治天皇東巡の節、沿道の式内社というところで幣神祗官判事正四位下右近近衛少将、植松雅信氏により幣帛料金帛壱千疋の奉納を賜る栄光に浴したと「東巡日誌」(『明治文化全集第十七巻皇室編』)に記されている。
 その他、当神社の特殊神事として粥試(筒粥)、奉賛、当渡しがあり、これらは正月の中旬に行われ、粥試(かゆだめし)は小豆粥と細い女竹五本を使い、竹筒内に入っている米粒の数で早期・早生・中生・晩生の稲作と畑作の豊凶を占う神事である。

願誓寺(15:08)---小古曽神社の先を右折した突き当たり---
               
米田山願誓寺
 当山の縁起は、米田山珠寶法鎮寺に始まり、同寺の末弟、法柳が現在の地に建立し、米田山願誓寺と号し、真言宗であり、専修寺第十世真慧方主の巡錫化導により浄土真宗に転派したところまでは当町内の米田山大蓮寺と同様である。
 本寺第十世義道(本寺では、中興上人と呼ばれている)の時、火災にあい烏有に帰したが、同人は建築、彫刻にも長じた技量を有した人物で、現在の本堂と庫裡が、寛政四年(1792)に、師の手により再興されたと言われている。
 本寺の本尊である阿弥陀仏は、寺伝では聖徳太子の御作とあり、お顔の部分は後世の補修が伺えるが、頸から下部の部分は古いお姿をとどめている。
 また、山門前の義道師の刻んだ石碑にある黄金仏は、御丈五センチばかりの小仏で、師が感得した二仏と合わせて三尊仏として厨子に祀られている。


---近鉄内部(うつべ)線内部駅に15:16ゴールインして本日の歩きを終了。15:32発四日市行き電車で15:52四日市駅に戻り、16時、予約済みの「新四日市ホテル」にチェックインし、駅近くの居酒屋で夕食を摂り、疲労回復・鋭気涵養充分で一日目を終えた。