旧東海道餐歩記−13-3 池鯉鮒宿〜宮宿
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 2008.10.05(日)池鯉鮒宿〜宮宿

 昨日とは異なり、曇りから午後は雨という天気予報を踏まえ、仲間たちと相談の上、早め勝負を心掛けて7:00から朝食を摂り、7:35にはホテルを出立。ホテルと隣接する名鉄名古屋本線「知立駅」から佐屋行き急行に乗り、途中駅で準急に乗り換え、前日の歩行終着点「中京競馬場前駅」へと電車移動し、7:52には街道ウォークを同駅前から開始する。

桶狭間古戦場跡(国指定史跡)−−−間もなく街道左側に少々寄り道−−−(7:56〜8:00)

 高徳院の看板を左折していくと、現在は公園になっている古戦場跡が左にある。ここは、永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長の急襲を受けての戦死場所と伝えられ、田楽狭間、あるいは桶狭間と呼ばれた。国指定史跡で、入口には昭和16年建立の「史蹟 桶狭間古戦場」の石柱。永禄3年(1560)桶狭間の戦で今川義元が戦死した場所として伝わる。義元と本陣を守って討死した松井宗信らのものとされる7つの塚(土盛)が古くからあり、明和8年(1711)鳴海下郷家の出資で尾張藩校明倫堂の藩士・人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之が碑を塚上に建てて、桶峡七石表ができた。

 園内を右から廻って行くと最初に七石表の一「今川上総介義元戦死所」があり、義元の戦死場所を示す中では最古。後ろには明治9年(1876)有松の住人山口正義らが建てた義元の墓もあり、「今川治部大輔義元墓」とある。公園内には「士隊将塚」「桶狭七石表之一」と刻まれた七石表が他に5つある。

香川景樹歌碑

 公園左角には、佐竹正吉揮毫で昭和60年建立の桂園派の巨匠・香川景樹歌碑
「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松にこたふる 風のかなしさ」がある。己の歌風を広めようと江戸に行ったものの叶わず、失意のまま帰途する文政元年(1818)、桶狭間を通り、自分と引き当て詠んだ歌で「尾張名所図会」にも載っている。

 公園奥には野邨素介揮毫で大正4年(1915)建立「桶狭間古戰場趾 愛知縣」石柱。その左には戦記を記した文化6年(1809)建立「桶峽弔古碑」がある。尾張儒官の秦鼎の撰文、大阪天満邸令中西融の書、石工は河内屋孫右衛門。松井宗信の子孫で津島神社神主の氷室豊長が建てた。豊長は歌人でもあり香川景樹の門人。その左には古戦場伝説地案内図。他に公園内には四阿もある。

徳本名号碑

 公園から道を隔てた反対側の高徳院の斜面に徳本名号碑と小さな石仏が16基が並ぶ。碑は円柱形で徳本上人が戦死者の霊を弔うために建てたという。細い石段を挟んでさらに右の竹林の中には万延元年(1860)今川義元三百忌に建てられ「天沢寺殿前四品礼部待郎秀峰哲公大居士」と義元の法名が刻まれた墓もある。「願主某」と建立者名が伏せられており「今川義元墓(その2)」と題された解説板もある。その奥には嶋田山遍照院[真言宗智山派](東京都墨田区吾妻橋1-3-5)から来て高徳院を高野山から現在地に移転し中興開山した諦念の墓がある。さらに奥には戦死者慰霊のため尾張藩士・伊奈正勝が建てた「おばけ地蔵」と呼ばれる石角柱に乗った立像もある。

−−−国道に戻り、すぐ左手の旧道に入り、また国道に合流した先の「大将ヶ根」信号から、8:08右の旧道沿いの「有松」の古い街並みへ−−−

間(あい)の宿「有松」−−−8:11まつのね橋を渡る−−−

 
有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、合宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名を知られた。有松はこの絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起り全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助を行っている。
                平成7年3月31日   名古屋市教育委員会


有松山車会館の布袋車山車〜市指定有形民俗文化財−−−折良く祭りの当日だった−−−

 何という幸運か。きょうは、たまたま毎年10月第1日曜日の「有松祭」当日にあたり、町の風情が殊の外賑々しい。有松郵便局前には「有松開村四百年」とか、個々の家々には「ありまつ」の絞りの暖簾が掛けられていたり、一番の圧巻は巨大山車を三台も見られたことだ。有松は、東町(橋東町)・中町(清安町)・西町(金龍町)に分かれており、それぞれ「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」と名付けられた一台ずつの「山車」および「山車庫」を祖先から受け継いだ宝として有し、天満社秋期大祭に東海道を引き回される。

右手にある有松山車会館(東町)から引き出された「布袋車」山車は、法被姿の町の人に訊くと25〜30人の人が乗って3トンぐらいの重さになる山車を15人ぐらいの人で引っ張るそうで、大きな車輪がついているとは言え、びっくりものだった。
 この山車は、奥に鎮座する大将人形が、七福神の一人・布袋であるところから「布袋車」と呼ばれているが、明治24年(1891)に玉屋町(現在の中区錦)から有松に譲られたものだそうで、延宝3年(1675)から若宮祭参加の記録はあるものの、製作時期は不明の由。山車には、麾振り人形、布袋人形、文字書き人形、唐子人形の四体のからくり人形が乗っている。大幕四枚(正面=鳳凰、右=蟠龍と亀、左=麒麟)は、文化九年(1812)製作の山本梅逸の下絵をもとに、猩々緋に金糸で刺繍されており、見送り幕には書家の柳沢呉市の筆による詩文が書かれ、水引幕には錦糸・銀糸・色糸で雲に鶴が刺繍されている。更に、この山車に限り夜祭り用に緋に白地で梅鉢と橋東町と五三の桐の門が刺繍された幕が用意されている。

有松鳴海絞会館

 8:18、祭り当日なので職員も早くから出勤し開いていた絞会館に入店できたのが二つ目のラッキー。歴史的・工芸的に価値のある製品の展示や有松絞の実演も行う所である。もちろん販売もしており、高級品は買えないが、妻に絞のハンカチを心ばかりの土産に買ったが、これは帰宅後大感謝され、値段とのバランスから言って恐縮ものだった。開館の建物の外側には、屋根上から四本の絞の大垂れ幕が地上すれすれまで垂らされているのも、ご当地ならではである。少し前にテレビで有松の超著名人となった2人の絞づくりの名人ばあちゃんたちの実演もこの会館で行われる由だが、早朝でもあるし観覧はできなかった。

服部家住宅(8:27)−−−右手−−−

               
 服部家住宅
   県指定有形文化財(昭和三九年)
   店舗並居住部一棟 井戸屋形一棟 客室一棟 土蔵・絞倉・藍倉六棟 門並門長屋二棟
 当住宅は東海道に面する町屋建築の遺稿であり、有松における絞問屋として代表的な建物である。主屋は塗籠造りで卯建を設け、倉は土蔵造りで腰に海鼠壁を用い防火対策を行っている。
 服部家は屋号を井桁屋と言う。
                                 名古屋市教育委員会

中之切唐子車(8:31)

 その右手に、2台目の山車(中町)に出逢う。周囲には、待ちの人たちが法被に鉢巻き姿で多勢いる。
解説板も、ご丁寧に二つ立っている

                
唐子車(からこしゃ)山車
                               市指定有形民俗文化財
 乗せている三体のからくり人形が全て唐子であるところから「唐子車」と呼ばれている。天保年間(1830〜43)に知多の豪商が二十年余りの歳月をかけて製作した山車であると伝えられている。その後、明治八年にここ有松に譲られたものである。
 唐木づくりで、青貝をちりばめた輪掛けや珊瑚の房などがつき、細工に工夫を凝らした造りになっている。高欄下の三方を飾る水引幕には、白羅紗に金糸で、左右それぞれに二匹、後ろに一匹の鯉が波間を跳ねている図が施されている。
 毎年十月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。
                                 名古屋市教育委員会


                
中之切唐子車之由来
中之切は唐子車で竹田製の人形に文字書きのからくりを乗せ大幕は猩々緋で水引は白羅紗に金糸で浪に鯉の縫とり茲に趣向の異った事は後の天井の柱に添って長い毛槍を二本建てそこに冷泉家の書で和文を認めた見送りの帳が掛けてある此車は天保時代の製作で内海の小平治と云う豪家が個人の物好きに廿年もかゝって作りあげた唐木づくめの構造で殊に青貝塗の輪掛など凝りに凝った山車である
                        明治四十三年発行 伊勢門水著「なごやまつり」より
竹田=大坂の人形師竹田近江ともいう


竹田家住宅(8:33)−−−(左手)−−−

       
市指定有形文化財(平成七年)
       主屋一棟、書院棟一棟、茶席一棟、宝蔵一棟、一・二番蔵一棟、縄蔵一棟、
       付随棟西門・長屋門・味噌蔵)三棟

 当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的に大変優れている。
 竹田家は、屋号を笹加と言う。
                         名古屋市教育委員会


岡家住宅(8:35)−−−(左手)−−−

       
市指定有形文化財(昭和六二年) 
       主屋一棟、作業場一棟、東倉一棟、西倉一棟

 当住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。
 主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では、現存する唯一の例で意匠的にも優れている。
                         名古屋市教育委員会


小塚家住宅(8:36)−−−(左手)−−−

       
市指定有形文化財(平成4年) 
       主屋 一棟、表倉一棟、 南倉一棟

 当住宅は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。
 小塚家は屋号を山形屋として明治まで絞問屋を営んでいた。
                         名古屋市教育委員会


三台目の山車(西町)−−−8:36、小塚家前の文章嶺天満宮入口(右手)で発見−−−

       
神功皇后車山車
              市指定有形民俗文化財
 明治六年(1873)に有松で製作された。この山車のからくり人形は、神功皇后が鮎を釣って神意を占った故事によるもので、神功皇后と武内宿禰それに神官の三体のからくり人形が乗っている。人形の縁起が始まると、神功皇后が立ち上がり、武内宿禰と一舞した後、鮎を釣るのである。山車の曳行の時には神官は御幣を左右に振り、目と口を開けたり閉じたりし、さらに口から舌を出す。
 毎年十月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。
                         名古屋市教育委員会

       山車由来

この山車は明治六年に建造され始めは中国の武将関羽の唐人形を飾ったが明治二十七八年の日清戦争の大勝を記念して当時の名工であった土井新七が製作した神功皇后と武内宿禰に置き換えられた大幕は猩々緋の無地水引は渡辺小華の下絵になる芙蓉水仙牡丹杜若の美事な刺繍で飾られている山車の骨格は名古屋市久屋町の大工久七が設計製作をした
この総費用は五百餘両であった
                    昭和三十七年秋     有松町西町


梅屋鶴壽(幕末の狂歌師)の歌碑−−−祇園寺の手前右手−−−

   
あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ

祇園寺(8:38)−−−右手−−−

 曹洞宗の寺院。山門前に例の「不許葷酒入山門」の石柱が立つ。美しい有松の町並みもこの寺で終わり。

有松一里塚(8:39)

 87番目の一里塚があった所だが、大正13年に民地に払い下げられて無くなり、名古屋環状2号線整備に合わせ復元予定の旨の「復元予定地 有松一里塚」の看板が立っている

−−−8:40、名鉄の線路を越え、かまとぎ橋、四本木・平部北の各交差点を歩いていく−−−

平部町常夜灯(8:54)−−−平部北交差点を渡った左手−−−

 鳴海宿の東の入口で、1番品川宿から数えて40番目の宿「鳴海宿」の東の入口になる。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜灯」裏に「文化三丙寅正月」と刻まれている。

 文化3年(1806)設置のもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した、大きく華麗な常夜灯である。道中でも有数のもので、往時の面影が偲ばれる。

−−−9:01中島橋通過−−−

瑞泉寺−−−右手に少し入った所。懸念の小雨模様に変わり、9:07ここで雨具を装備−−−

          
瑞泉寺
 龍蟠山と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋城主安原宗範゛応永三年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失。文亀元年(1501、永正元年等の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。二十世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦五年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている。
                             名古屋市教育委員会

  先ほど有松で、自転車に乗った老人から盛んにこの付近の鎌倉街道歩きを勧められたが、寺の素晴らしい山門前のベンチで雨具を装着していたら、境内から箒を持って出てきて、また話しかけてくるが、雨具を付けながら適当にお相手をして出発。同行者3名は、話が長びくのを嫌がったと見えて先行するが、間もなく追いつく。

鳴海宿−−−江戸から87里(341.7km)、京へ38里21丁 人口約3,650人 

 「有松」と同様、絞で知られた宿場である。

誓願寺(9:17)−−−瑞泉寺先で、突き当りを右へクランク曲がりしたら旧宿場の商店街で、本町信号先の右手−−−

 この付近は、寺が密集し、「東海道鳴海宿十一寺巡り」の看板があった。

 天正元年(1573)、僧・峻空の開山で、西山浄土宗、山号は来迎山。本尊は阿弥陀如来で境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。この供養塔は、元禄7年(1694)10月(芭蕉死去の翌月)の命日に建立された。芭蕉の供養塔としては最古のもので、昭和52年、名古屋市指定文化財になっている。芭蕉堂は、安政年間に永井士前という門人の建立で、芭蕉手植えの杉の古木で彫刻した芭蕉像が安置されている。

 芭蕉の供養塔がある。芭蕉堂南東側に建てられた高さ60cm程の青色の自然石で、表面に「芭蕉翁」、背面に没年月日が刻まれている。芭蕉が没した翌月、当時の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門下下里知足の菩提寺である当寺に移された。なお、その如意寺は、街道の同じく右手で、本陣跡の先にある。

鳴海宿本陣跡(9:17)

          
鳴海宿本陣跡
 鳴海は、江戸時代東海道五十三次の宿駅の一つとして栄えた。宿駅には、一般の旅人用の旅籠屋とは別に、勅使・公家・大小名など身分の高い人が、公的に宿泊する本陣が置かれた。
 鳴海宿の本陣は、ここにあり、幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。
 なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人め旅籠68軒(全体の8%)と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は、二軒あった。
                           名古屋市教育委員会


丹下町常夜灯−−−「作町」のT字路を右折し、暫く行った先右手−−−

          
丹下町常夜灯
 鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。
 表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
 旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
 平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。
                           名古屋市教育委員会

鉾ノ木貝塚(9:34)−−−常夜灯の先の右手杭囲みの草地に解説板があるのみ−−−

          
鉾ノ木貝塚
 縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平部の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の形式をとらえ「鉢ノ木式」と呼称されている。
                           名古屋市教育委員会


−−−暫く歩き、9:49に赤坪町信号先左手のセブンイレブンで休憩−−−

笠寺一里塚(9:57)−−−その少し先右手、巨木の植った立派な一里塚−−−

     
笠寺一里塚(英訳付きの解説石版)
 (前略)ここは江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、東側の怩セけが現存している。



笠覆寺(笠寺観音)(10:03)−−−暫く先のカーブの右手−−−

 一里塚を過ぎ、前方右手に笠寺の多宝塔が見えてくる。雨に濡れた石の太鼓橋を滑らないようゆっくり渡り、山門を潜ると、有名寺院だけあって堂宇が沢山ある。

笠寺観音と玉照姫の歴史
・開基
呼続の浜辺に流れ着いた霊木が、夜な夜な不思議な光を放ち、人々はそれを見ておそれをなした。近くに住んでいた僧・善光(別の名古屋市教育委員会の解説板では「禅光」とある)上人は夢のお告げを受け、その霊木を彫って十一面観世音菩薩の像を作った。上人は寺を建て、そこに観音像をおさめ、その寺を「天林山小松寺」と名付けた。天平八年(736)の事である。

・玉照姫と観音様
その後、約二百年の歳月が流れ、小松寺は荒廃、お堂は崩壊し、観音様は風雨にさらされるようになってしまった。
ここに一人の美しい娘がいた。彼女は鳴海長者・太郎成高の家に仕えており、その器量を妬まれてか、雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。
ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様の姿を見た彼女は、気の毒に感じ、自分が被っていた笠をはずして、その観音様にかぶせたのであった。
その縁か後日、関白・藤原基経公の息子、中将・藤原兼平が下向のおり、長者の家に泊まった際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。
兼平公の妻となった娘は、それから「玉照姫」と呼ばれることとなった。

この観音様の縁によって結ばれた玉照姫・兼平公ご夫妻は、延長八年(930)、この地に大いなる寺を建て、娘が笠をかぶせた観音様を安置した。このとき寺号も小松寺から「笠覆寺」(りゅうふくじ)に改めた。
これが「笠寺観音」「笠寺」の名の由来である。
以来、笠覆寺は縁結びや厄除けの寺として、多くの人々の信仰を集めることとなる。

・興廃の波
さらに年月は経ち、嘉禎四年(1238)に阿願上人が寺を再興したのを始め、幾度か再興を繰り返してきた。現在の堂宇の多くは江戸期(正保〜宝暦年間)の再建になるものである。

・玉照堂の破壊
明治時代に入り、再び笠覆寺は興廃の憂き目に遭い、そのさなか、境内に建っていた玉照姫・兼平公の安置されていた堂は失われてしまった。しかし、玉照姫・兼平公ご夫妻のご本体とご位牌は幸いにも散逸の難をのがれ、変わらず縁結びや開運栄達の信仰を集め、長らく玉照堂の再建を待つこととなる。

・昭和の復興
昭和時代に入って住職となる政識和尚は、荒れ果てた寺を憂い、寺の復興のために各地を托鉢し、また、多くの信者の帰依も受け、真言密教の道場であるこの笠覆寺を復興、かつての壮観を取り戻した。

・玉照堂の再建
玉照堂が失われたまま百余年が経ち、ついに、悲願であった玉照堂再建を果たす事となった。観音様とあわせて、縁結び、交際円満の信仰を集めて来た。玉照姫・兼平公ご夫妻は、現在このお堂に入られて、参拝に来る善男善女を静かに見守っている。

                    平成十五年元旦     天林山 笠覆寺(笠寺観音) http://kasadra.jp


 また、笠覆寺は、これまた著名な「大須観音」と共に「名古屋二十一大師」の一角・第十六番霊場になっているほか、境内には、「仁王門」「西門」「鐘楼」「護摩堂」「大師堂」「笠寺善光寺堂」等が軒を列ね、密教寺院の特色を示しているほか、「宮本武蔵之碑」「千鳥塚(芭蕉碑)」「春雨(芭蕉碑)」「水かけ地蔵」などもある。

−−−西門を出、笠寺観音の門前町は静かな佇まい−−−

富部神社(10:24)−−−そのすぐ先、左手−−−

 元「戸部天王」とも言われ、松平忠吉が病気平癒を祈願し、快復した報恩のため、慶長11年(1606)に本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられる。本殿は慶長当時の形態を今に伝え、特に正面の蟇股、屋根の懸魚・桁隠等に桃山時代の特徴を良く表しており、国の重要文化財に、祭文殿と回廊は名古屋市指定の文化財になっている。

清水稲荷大明神・弘法大師奉安地(10:24)−−−名鉄名古屋線を越え右折後暫く先の左手−−−

宿駅制度制定四百年記念碑(10:25)−−−清水稲荷神社入口の赤鳥居傍(平成13年建立の石碑)

          
宿駅制度制定四百年記念碑
 今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。
 現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。
                    平成十三年吉日
                               名古屋市・呼続学区


 隣には、これを記念してのタイムカプセル埋設の碑もあり、碑面には、
「東海道宿駅制度制定四百年記念タイムカプセル埋設の処」「二〇五二年タイムカプセル開放願者也」と刻んである。

鎌倉街道(10:32)

 広い道を渡った先の右手で東海道と斜めに鎌倉街道の細道が交差する所で石標を発見し、先刻の老人を思い出す。ここを左折すると、万葉集の遺跡「年魚市潟(あゆちがた)景勝」碑のある「白毫寺」だが、我々は直進する。もとより、この現代、そこで海を見ることは不可能なはずだ。

熊野三社(10:36)−−−次の信号の先、右手−−−

 その入口にも「宿駅制度制定四百年」の記念碑がある。
 「呼続(よびつぎ)」一帯は、古くから、四方を川と海に囲まれ、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれる巨松の生い茂る陸の浮島として、尾張の名所だった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったそうだが、こうした地名の謂われを知ることが出来るのも旧街道餐歩の大いなる楽しみの一つである。

裁断橋跡・姥堂・都々逸発祥の地碑(11:05)−−−山崎橋(山崎川)を渡って左折し、高速道を潜って「松田橋」で国道1号に合流。JR東海道線を渡って左の側道(旧道)に入り、新堀川に架かる「熱田橋」、更には名鉄の高架を潜った先左手−−−

・裁断橋
          
裁断橋跡
 宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
 天正十八年(1590)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(1622)に完成させた。この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。
 現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
                          名古屋市教育委員会


また、後記「姥堂」と共に解説してある別の案内板では、次のように書かれている。

          
裁断橋
文献では、永正六年(1509)「熱田講式」に名が見られるのが初見とされている。姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋め立てられ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正十五年出版の「橋と塔」浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
 昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬宝珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。しかし、聖堂の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚だしくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。
宴福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩を昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。


・姥堂
          
姥堂
 延文三年九月(1358)法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所絵図会にも登載されている。
 昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
 尊容から奪衣姿と見る説もあるが、両手に童顔の御像を棒持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。


道標(熱田伝馬町西端)(11:13)−−−左側−−−

 愈々の感がある「伝馬町」の看板を見つつ道は突き当たり、その左角に「道標」、突き当たりには「ほうろく地蔵」がある。

   
道   標
 ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。四面に次のように刻まれている。
   東  北 さやつしま(佐屋津島)
      同 みのち(美濃路)     道
   南  寛政二庚戌年
   西  東 江戸かいとう(街道)
      北 なこやきそ(名古屋木曾)道
   北  南 京いせ(伊勢)七里の渡し
      是より北あつた(熱田)御本社貮丁 道
 なお、この三叉路の東北隅には、これより三二年前(宝暦八年)に建立された道標があった。標示は、「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。戦災で破損したが復元され、十mほど北側にある。
                              名古屋市教育委員会

ほうろく地蔵

 ほうろく地蔵のある突き当りを左折すれば「宮の渡し」、右に行けば「熱田神宮」である。「尾張名所絵図会」(天保12年脱稿)によると、この地蔵は、元・三河国重原村(現・知立市)にあったが、野原に倒れ、捨石のようになっていた。ところが、三河から尾張へ焙烙を売りに来る者が、荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売り尽くした後、石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこれを発見し、安置しようとしたが、動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、皆が不思議なことだと思い、その台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である。

−−−11:15横断歩道橋で国道を渡り、ひつまぶしの臭いを嗅ぎながら宮宿のゴールへ−−−

宮宿 江戸から 88里18丁(347.6km)、京へ36里2丁 人口約10,340人 

 熱田神宮の門前町。慶長6年(1601)宿駅に制定され、海路七里で桑名に向かう玄関口になった「七里の渡し場」は、大勢の旅人で賑わった。また、佐屋路、美濃路などの陸路の分岐点を控えた交通の要衝として、さらに62万石の城下町、名古屋への表口として繁栄を誇った宿であった。

宮の渡し公園(七里の渡し跡ほか)(11:19〜11:38)

 桑名へと向かう旅人たちが集まった「七里の渡し場」は、現在復元された常夜灯や時の鐘等のある公園になっている。現在の七里の海は相当部分が埋め立てられ、桑名まで行く定期船はないため、陸路を国道1号か23号を歩くしか方法はないが、桑名まで約30kmあり、しかも、それは旧東海道ではないので、我々は次なる桑名の七里の渡し跡から歩き繋ぐ予定である。
 この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東・西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所や船会所等を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していたという。
 船着き場跡の建物に行ってみると、他の街道ウォーカーが休憩していて、置いてあるパンフレットを見ると、「堀川まちネット事務局」主催で、来たる11月2日(日)に「桑名→宮」「宮→桑名」の往復舟旅を交えた学習会が催されるとのことで、羨ましい限りである。

七里の渡し
          七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが現在は復元されて往時の名残をとどめている。
安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。
名 古 屋 市

時の鐘−−−宮の渡し公園内−−−
          
時  の  鐘
 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていた。
 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。
 熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。
                    昭和58年3月     名 古 屋 市


熱田湊常夜灯−−−宮の渡し公園内−−−
          
熱田湊常夜灯
 この地は宮(熱田)の神戸(ごうど)の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。
常夜灯は寛永二年(1625)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。その後風害で破損したために、承応三年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和三十年復元した。
                         名古屋市教育委員会


宮の宿とシーボルト−−−宮の渡し公園内−−−
          
宮の宿とシーボルト
 ここ宮(熱田)の宿・神戸(ごうど)の浜から、桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。
 名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが、文政九年(1826)二月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、四月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。
 彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。
                         名古屋市教育委員会


■丹波家住宅−−−宮の渡し公園の前−−− 
          
丹波家住宅
 丹波家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の藩名入りの堤灯箱が遺されている。
 正面の破風付玄関は、かっての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建みである。
 創建は不明であるが、天保十二年(1841)の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。
 昭和59年、市の有形文化財に指定された。
                         名古屋市教育委員会


−−−きょうの当初予定は、桑名まで電車移動し、桑名の七里の渡しから近鉄冨田駅近辺まで歩く予定だったが、天候がイマイチでもあり、相談の結果、ここで今回の旅を終了しすることとした。仲閧フ一人が熱田神宮へ行っていないこともあり、また、名鉄神宮前駅への途中でもあるので軽く立ち寄ることとして、11:38出立する。−−−

宝勝院−−−七里の渡しへの途中右手−−−

 
蓬寿山と号す西山浄土宗の自院である。昭和二十七年近くの高仙寺と合併したが、その際移安された木造阿弥陀如来立像の胎内から、仏や菩薩などを木版刷りした摺仏や写経などが多数発見された。その写経の一部に僧永厳が貞永元年(1232)仏道成就を願って阿弥陀如来の造立を企てた旨の奥書があり、造像はその頃と思われる。昭和五十八年、本尊、納入物とも国の重要文化財に指定された。
 また熱田湊常夜灯は承応三年(1654)から明治二十四年(1891)まで当寺が管理をしてきた。
                         名古屋市教育委員会


熱田神宮−−−約25年ぶりに参拝。桶狭間の合戦での報賽として織田信長が奉納した「信長塀(瓦葺の築地塀)」を見る−−−
          
信長塀
               永禄三年(1560)
織田信長が桶狭間出陣の際、当神宮に願文を奏し大勝したので、その御礼として奉納した塀である。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねている。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び、日本三大塀の一つといわれている。


−−−名鉄神宮前駅へ行き、駅ビル五階「鈴の屋」で、「彩り田楽定食」を肴に生ビールでささやかに打ち上げ、次回以降の行程編成再検討を約して、名古屋駅からの帰路につく−−−