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旧東海道餐歩記−13-2 岡崎宿〜池鯉鮒宿
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 2008.10.04(土)岡崎宿〜池鯉鮒宿

 6時起床。テレビで天気予報を確認し、まずは本日安心。両足小指にマメ予防のテーピングをする。きょうの歩行は、寄り道スポットへの往復を除き約21kmである。特にこの日のために充分なトレーニングはしていないが、多分この程度の距離なら、先ずは大丈夫と見込んでの楽観である。

 7:00からのモーニングサービスは、パン・スパゲティ・ポテトサラダ・スープ・コーヒー・デザートなど、無料にしてはなかなかのものだが、ダイエット心掛け中の身としては控えめに済ませる。仲間の某氏などは予想通りの健啖ぶりできょうの歩行に備える等、なかなかのものだ。

 8:00ホテル出発。信号で向かい側の「備前屋」前に渡り、そこから旧東海道の左側歩道を西進し始めるが、次の「伝馬町一丁目」信号で左折する迄に、いろいろとユニークな型どりの石造物・用語解説板があるので、そのひとつひとつをカメラに収めながら歩く。以下は、その解説文である。

岡崎城下の二十七曲

★お茶壺道中(8:01)

 寛永九年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壺道中。家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壺に、はなはだしく威勢を持たせた。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壺奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壺は各宿場から大いに恐れられていた。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。

★朝鮮通信使(8:02)

 江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全十二回の使節の派遣をした。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均五百人からなる大使節団であったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の対応は一大行事であった。

★助郷(8:02)

 大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合には、宿内だけでは不足する場合もあった。助郷とは宿場が公用旅行者に継立てする人馬の基準数、人七十人、馬八十匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄七年(1694)に正式に実施されている。人馬を供出するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったもののやがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。

★田中吉政(8:03)

 吉政は豊臣秀吉の名前の一字を賜わるなど重用され、当時尾張の領主となった秀吉の甥秀次の付家老として天正十八年(1590)に岡崎に入城し、以降十年間、新しい城下町づくりを行った。関東の家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。

★人馬継立(8:03)

 旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。公用旅行者は無料、半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約百五十キロ)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつける乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや駕籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。

★三度飛脚(8:04)

 伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった通信書状などを入れた箱をかつぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。こうしたていしん業務を行う人間が何人か住んでいるところはいかにも宿場らしい。飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文三年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。

★塩座(8:04)

 塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し、伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通過させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せ変えられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草座などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。

★御馳走屋敷(8:04)

 現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政九年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。御馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壺、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重に挨拶したという。

★籠田惣門(8:05)

 田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北に曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく。岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。

 ここで、信号待ちをして右側の歩道に渡り、元の出発点=ホテル前(備前屋と道を隔てた正面)に戻り、同様の石造物や案内板をチェックしていく。

★旅籠屋(8:07)

 天保年間(1830-43)の記録によれば岡崎宿には伝馬町を中心に本陣三軒、脇本陣三軒、旅籠屋(現代の旅館)が百十二軒あったとそれ、東海道五三次中三番目の規模を誇る宿場であった。旅籠屋はその規模によって大宿、中宿、小宿と区分され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もあった。正保・慶安の頃(1644-51)からは飯盛女という遊女を置く旅籠も現れ(以降岡崎は岡崎女郎衆で有名な宿場となった)、庶民の旅行が増え始めた江戸中期ごろになると各旅籠とも競争が激しかった。

★市隠亭(8:07)

 伝馬町の塩問屋国分家は代々学問を好み、国分次郎左衛門衡(伯機)は岡崎藩の儒学者、秋本嵎夷
に詩文を学び、屋敷内に「市隠亭」という書斎を作った。ここでは岡崎だけでなく、旅行者など多くの文化人たちの交流が行われ、市隠亭は文化サロン的役割を果たした。その中には民俗学者の先駆者、菅江真澄もいた。主に漢学や漢詩と親しみ、その蔵書も多く、庶民レベルを超える高い文化が身分を問わず広く温められた。他に伝馬の旅籠、柏屋の主人金沢藤右衛門も金沢休と名乗り、文化人として活躍した。

★一里塚(8:07)

 徳川秀忠は家康の発案により、東海道・中山道・北陸道の三街道に一里(約四キロ)ごとに行程の目印となる、一里塚を設けた。岡崎の一里塚は東より本宿、藤川、大平、矢作にあったが、現在、大平に南側の一里塚が残っていて国指定史跡となっている。他に一里塚同様、大平の一里塚にも榎が植えられており、この榎は、家康が総監督大久保長安に「怩ノはええ木を植えよ」と言った言葉を「えのき」と聞き違えたという話が残っている。参勤交代で大名の通過があると藩の使者が送迎の礼をした場所でもあったとされる。

★往来手形(8:08)

 江戸時代、街道、橋、宿場などが公用旅行者向けに整備されたが、物資の流通や庶民の旅行もそれによって発展していった。一般庶民の旅行では通行許可証となる往来(通行)手形を発行してもらわなければならなかったが、進行のための旅ならば往来手形を容易に受けられたので、庶民の間には伊勢まいりなど、娯楽的要素も加えた寺院神社参詣の旅が広まった。斡旋業者も現われ、旅行のための積立をする「講」と呼ばれる組織ができるなど、旅行は徐々に民衆のものになってゆき、観光旅行の原点となった。

★作法触れ(8:08)

 勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくると宿場全体に、町奉行から出迎えのための通達が出た。「作法触れ」とは街道や宿場内での諸注意で、道路に盛り砂を行うこと、手桶・箒を出しておくこと、決められた場所に提灯を出すこと、ほら貝、鐘、太鼓、拍子木など鳴らさないこと、街道では通行の前日から田畑などで下肥を施したり、ごみ焼きをしないこと、通行に際し土下座をすることなど細かい点まで指示された。また、応援接待の作法についての「御馳走触れ」も出され、出迎え支度はたいへんなものであった。

★あわ雪茶屋(8:08)

 江戸時代の岡崎宿の名物といえば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などが挙げられるが、名物の食べ物といえば「淡雪豆腐」が挙げられる。当時、あわ雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、岡崎宿を通行する旅人に親しまれていた。天保十三年の記録に「茶碗壱膳、あハ雪豆ふ・香之物付弐拾文、引下ケ拾八文」とあり、ご飯、おしんこ、淡雪豆腐のセットメニューで十八文であった。現在のあわ雪は江戸時代の淡雪豆腐にちなんでつくられたお菓子である。

★矢作橋(8:08)

 略(光線が入り、撮影失敗。後述)

★二十七曲(8:08)

 東海道の中でも三番目に規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は、「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれ、屈折の多いその町並の長さでも有名であった。天正十八年に岡崎に入城した田中吉政は城下の道を防衛の必要性から外的には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛することができる屈折の多い道として開発した。二十七曲がりは、欠町、両町、伝馬通から籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す碑が現在の町並にもいくつが置かれている。

★駒牽朱印(8:09)

 慶長六年(1601)、徳川家康は以前からあった駅馬・伝馬の制度を踏襲して東海道の宿駅ごとに馬と人足を常置させた。その負担をするのは各宿駅の「伝馬役」である。この岡崎に限らず各地に伝馬の地名が残っているが、それらは江戸時代に伝馬役を務めた町であることが多い。「駒牽朱印(コマビキシュイン)」は徳川幕府が公用に伝馬を使用する時に用いた権威有る印鑑で、この印押された朱印状が公用旅行者の伝馬使用許可証となる。「伝馬」の文字と馬を引く人物がデザインされた趣のある印である。

 伝馬一丁目交差点の北東角のコンビニ前に、
「東海道岡崎宿 西本陣跡」の石碑が建っている。信号を渡った南東角には、「岡崎城下二十七曲 西本陣前角」の碑と、その横に「本陣・脇本陣」と題した次の解説板や石碑がある。

★本陣・脇本陣(8:09)

 
参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。伝馬の本陣は正徳三年(1713)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の二軒であったが、後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の三軒が本陣、脇本陣は鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の三軒と推移している。岡崎東本陣(服部家)は現在の伝馬通り二丁目交差点辺りにあり建坪二百九坪半で部屋は二百畳以上、脇本陣を勤めた桔梗屋は総坪数百二十五坪半のうち建坪百五坪とどちらも玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。

 沢山の石碑や解説板があったが、「伝馬一丁目」交差点を左に入り、次の交差点を右に入ると「惣門通り」に入る。8:11、その南西角に明治二年建立の標石があり、その解説板が歩道に立っている。こちらの方が読みやすいが、
「東 京みち 西 京いせ道 きらみち」と三方への指さし手形と共に示されている。

 その先右手に、大正6年建造のルネッサンス風の貴重な建物がある。当初岡崎信用金庫本館として建てられた「資料館」が戦災を免れて残り、一般開放されているようだが、早朝なのでまだ開いていない。

 8:13、左手前角に郵便局のある交差点でまた右折すると、
「東惣門跡」碑があるが、往時の道筋はこの交差点より手前で右折していて、東総門をくぐってから複雑に曲がりながら現在の「籠田公園」の中を通っていた由だが、区画整理による旧道消滅があり、もはや厳密な意味では27曲がりではなくなっている。大きな石塀に、次のように記されている。

     
       岡崎城下をしのぶ籠田惣門跡
天正十八年(1590)徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き、城下町を形成し、東海道の城内出入口として籠田・松葉惣門を建てた。


 更に、左折・右折を繰り返して「籠田公園北西」信号に出ると、8:18、東南角に標石があり、
「岡崎城下二十七曲 篭田町より連尺町角」の碑と、その碑文解説板がある。次の「連尺町一丁目」信号の先は、通りの左右に屋号の付いた店が多く残っており、いかにも宿場町らしい。

 曲がる度に、
「岡崎城下二十七曲 岡崎城対面所前角」「岡崎城下二十七曲 材木町口木戸前」等の石標が要所・要所に建てられ、城下町保存への地元の熱意が伝わってくる。「木まち通り」に入ると歩道には材木模様のブロックも敷かれ、暖かみが感じられる。

 「伊賀川」沿いに左折する手前右に、崩し字で
「唐弓弦」(8:32)と読むのだろうか、古い看板を掲げた家があった。8:33、その先で左折すると、「岡崎城下二十七曲 材木町角より下肴町角」の標石を見る。川辺を散歩中の老夫婦とすれ違ったその先で、右折して「伊賀川」に架かる「三清橋」を渡る手前で、今度は8:35、「岡崎城下二十七曲 下肴町より田町角」の石標に目が止まる。

 元銭湯の高い煙突を目印に何回か右折・左折を繰り返し、国道1号にぶつかる。右の「八帖」信号を高架で迂回して国道越しの旧道を再び歩き始める。

 やがて、街道は元遊郭街の格子窓や二階の出窓などの残る古い木造建物を左右に数多く見ながら行き、8:47、標石
「岡崎城下二十七曲 板屋町角」を右折して更に元遊郭街を進む。「中岡崎町」信号を越えると、8:50、「東海道岡崎城下西出入口 松葉惣門跡」の真新しい標石がある。側面には、「天正十八年(1590)徳川家康が江戸に移り、田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き、城下町を形成し、東海道の城内出入口としてこの地に松葉総門を建てた」とある。

八丁味噌の郷

 愛知環状線中岡崎駅のガードをくぐると、「城から八丁」とて、かの有名な「八丁味噌」の店や蔵が並ぶ「八丁蔵通り」「八丁往還通り」など“八丁味噌の郷”を通り抜けることになる。

 八丁味噌は、
「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極くよし、焼いて又よし」と歌にも詠まれ、三河武士・農民・町民たちの兵糧・常食として大いに親しまれ、日常不可欠な貴重な食材だった。また、天正18(1590)年の家康関東移封以降、譜代大名や旗本らにより全国的に名が知られ、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴う「三河木綿」運搬との相乗効果もあって、江戸や伊勢を中心に販路が拡充していったという。

 それが、吉田松陰の
「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」の詠歌や、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌 あぶりて喰うも」と斉藤茂吉に詠まれるなど、岡崎城下の名産として賞賛され、今日に至っている。

矢作川(9:00)

 
「右 西京 左 江戸」の道標の立つ三叉路を右折して国道1号にぶつかり左折すると、漸く「矢作川」に架かる「矢作橋」手前の「矢作橋東」信号で、時刻は9時ジャスト。ここで、「岡崎城下二十七曲」も終わりを告げたようだ。
 矢作橋は、東海道最長の橋だったという。広重の絵には、矢矧橋と岡崎城が描かれているが、
「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」と詠われたとおり、岡崎城下の発展には水運が大きく貢献したようだ。

蜂須賀小六と日吉丸出合之像(9:03)

 橋を渡った右手にある筈の、
「蜂須賀小六と日吉丸出合之図」が国道1号拡幅や橋架け替え工事に伴う一時移転で見られず、「お知らせ」看板にある写真でしか見られなかったのが残念だ。蜂須賀小六と出合ったとき12歳だった日吉丸は、橋の上で寝ていたと巷間言われているが、当時はまだこの橋が架かっていなかったそうで、講談・小説の世界の話のようだ。因みに吉川英治の「太閤記」では、日吉丸は川に繋がれた小舟で寝ていたとある。

 矢作川は、中央アルプス南端の「大川入山」に端を発し、長野・岐阜・愛知の三県を跨いで三河湾に注ぐ大河川で、愛知県内では木曽川に次ぐ大河川である。沿岸には、多くの貝塚や遺跡古墳が分布しており、矢作川を中心にして古くから生活が営まれてきたようだ。

柳堂勝蓮寺(9:05)

 「矢作橋西」信号で右前方への旧道に入ると、通称「柳堂勝蓮寺」がある。「河原山勝蓮寺」は真宗大谷派の寺院で、恵堯が師の専信僧都の薬師如来をこの地にあった柳の根元に堂を建てて安置し、「柳堂薬師寺」と称したのが起こりである。元々は天台宗だったが、嘉禎元年(1235)親鸞が立寄った際に住職の舜行が弟子となり、恵眼と称して改宗している。本尊阿弥陀尊像は親鸞より与えられたと言われる。その後は柳堂勝蓮寺と言われ、松平広忠、家康、石川家成などから崇敬された。17世行誓の時には家康の嫡子信康との関係も深く、唯一ある信康画像をはじめ多くの遺品を所蔵している由。

 入口左に宝暦10年(1760)の「親鸞聖人御舊跡柳堂」石柱。山門を入って左には石を安置した祠。その近くに六字名号碑が2基。境内右には井戸と安政6年(1859)の手水石、鐘楼、土蔵がある。寺の前には82里目の「矢作一里塚」があった。

弥五騰神社(9:11)

 その先、火の見櫓の先右手に「弥五騰神社」がある。神仏混淆の名残か、「南無日蓮大菩薩五百五十御遠忌」の髭題目の石塔が立っている。「髭題目」というのは、「南無妙法蓮華経」の七文字の内、「法」以外の六文字の端の部分を髭のように長く伸ばして書いた文字で、万物が“法”の光に照らされ、悉く真理を体得して活動することを表したもので、日蓮宗独特の書体である。
 祭神は手力雄命・配祀保食命・健御名方命・忍穂耳命・菅原道真である。元々は「彌五郎殿」と称し、明治5年(1872)年に「弥五騰社」に改めている。明治初期。近くの八王子社と諏訪社を境内社にし、大正5年(1916)合祀している。大正5年建立の神社名石柱には「弥五騰神社」とあるが愛知県神社庁の登録社名は「弥五騰社」になっている由。

誓願時・十王堂(9:16)

 その先右手には、「誓願時・十王堂」がある。堂内正面には天国の絵、左右の壁には極彩色の地獄絵が描かれている。誓願寺境内には、「浄瑠璃姫とその父・矢作の長者の墓」、芭蕉句碑
「古池や蛙飛込む水のおと」があり、本堂内には「浄瑠璃姫の像」があるそうだ。表に「浄瑠璃姫菩提所」の石塔が立っている。

     <解説板>
 長徳三年三月(九九七)恵心僧都が 溺死した当寺の住僧の慶念の冥福を祈り 堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した
 時代は下り 寿永三年(一一三八)三月 矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり 菅生川に身を投じたので 長者はその遺体を当寺に埋葬し 十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り 義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した

 十王とは 十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である すなわち 秦広王、初江王、宗帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう 死者は冥府に入り 初七日に泰広王の庁に至り 以下順次に 二七日 三七日 四七日 五七日 六七日 七七日 百箇日 一周年 三周年に各王の庁を過ぎて娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け これによって来世の生所が定まるという
 この堂内には これら十王の極彩色の像が安置してあり 壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている
                                  寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団


竊樹神社(9:22)

 更にその先右手に「竊樹神社」。難しい字なので地元のご婦人に尋ねたら「ひそこ神社」と読むそうだ。帰宅後ワープロソフトで調べたら、つくり「うかんむり」・読み方「ひそ」で「竊」の字が出てきた。
 創建時期は不明だが、古くは上加茂大明神、明治時代は加茂社と称し、大正2年(1913)矢作村盗人木の竊樹社を合祀して、大正5年に社名を竊樹社としている。「竊」の字は「盗む」という意味もあり竊樹は「ぬすとぎ」とも読め旧地の地名に通じる。祭神は御気津神。大正11年建立の神社名石柱は「竊樹神社」とあるが愛知県神社庁登録社名は「竊樹社」の由。

薬王寺・刀造跡碑(9:47)

 その先で国道1号に合流し、暫く行くと、右手に「和志王山薬王寺」があり「刀造跡碑」がある。創建時期は不明。長元3年(1030)編纂「本朝文粋」の慶滋保胤の漢文詩に「参河州碧海郡 薬王寺」とあるが、行基創建というこの寺は建武2年(1335)の新田義貞と高師泰の矢作川合戦で焼失している。山門前の石段下に安永4年(1776)文化8年(1811)の灯籠。山門を入って右に天保9年(1838)手水石、左に石仏4体の祠。境内にも灯籠が4つある。山門前左の昭和2年(1927)寺名石柱の左には「新四国第四番弘法大師」石柱と、昭和52年「三河国刀匠鍛刀造跡」碑がある。

 付近には室町後期に刀鍛冶集団の三河薬王寺派刀工が居住していたとされ、寺には刀工のものとされる位牌がある由。境内は推定全長60mの前方後円墳の宇頭大塚古墳でもあり、現在は本堂を頂上とする後円部だけが残っている。

その向かい側には「聖善寺」があるが、地下道で横断する必要があるので、寄らずに先に進む。

松崎の松並木

 9:54、漸く「安城市」に入る。直ぐ先の「柿崎」信号で右の道に入ると、程なく「松崎町の松並木」道になり、国道の喧噪から解放され、一同ほっとする。

予科練碑(10:06)

 右手に「予科練碑」を見る。全国から集まった若人が6ヶ月間の猛訓練に耐え、海軍航空機搭乗員として鍛えられた「元・第一岡崎海軍航空隊跡」である。

熊野神社・鎌倉街道跡(10:10)

 その先に、「熊野神社」がある。ここは鎌倉街道跡になっており、次のような解説板がある。

 
一一九二年(建久三年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅六十三ヵ所が設置された。
 尾崎町では、里町不乗(のらす)の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったので、この神社の森を踏分の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。
 この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されている。
                      昭和五四年十月一日
                                      安城市教育委員会

尾崎一里塚(10:10)

 その直ぐ先に、「一里塚跡」の石碑がある。「尾崎一里塚」で日本橋から83番目だ。

法喜山妙教寺(10:17)

 「宇頭茶屋町」信号先の左手に、法華宗陣門流の「法喜山妙教寺」がある。永年眼病に悩み続けた加藤喜三郎(本妙院日喜)が鎌倉街道沿いに建つ稲荷の祠に籠もり、法華経を読誦すると病が平癒したため仏門に入り、明治33年(1900)喜徳稲荷真天を勧請し、明治36年自宅に志貴教会を設立したのが起こりの由。昭和25年2世日徳が法喜山妙教寺として本堂を新築、書院・庫裡を増改築して寺としての体裁を整えた。

夫婦松

 その前に二本の松がある。向かって左が
「助さん」、右手が「格さん」の札が付けられ、二本の間に「東海道宿場街道 三河路に昔をしのぶ夫婦松」の立て札が立っている。夫婦松と言いながら、何故「助さん・格さん」なのか?そのいわれを知りたいものだ。

神明社

 また、その先斜め向かいには「神明社」がある。祭神は天照大神で創建年代は不明。村の氏神として天照大神を祀るようになった。境内左に大正9年「明治神宮鎮座祭記念梅樹」碑、昭和9年手水石、境内右は鉄棒、すべり台、ブランコがある広場で奥に稲荷の祠がある。

■続いて、10:19、「地蔵」、その後ろに自然石の「南無阿弥陀佛」の六字名号碑がある。

明治天皇御駐蹕之所(10:22)

 左手の「ヤマザキ」の先に「明治天皇御駐蹕之所」の石碑がある。皇紀2600年=昭和15年(1940)の建立で、県知事・田中廣太郎の揮毫。ここは高井善兵衛の茶屋「藤屋」跡で、当初は庭に建てられていた。明治元年(1868)9月と12月、明治2年3月、明治11年10月の4回ご休憩しておられる。明治2年と明治9年には照憲皇太后が、明治10年には英照皇太后もご休憩をされている。藤屋は明治用水工事の際に県の役人や技師の打合せ場所や宿泊所、また完成時の祝賀会の主宴会場にもなった。この辺りは立場茶屋が何軒かあったところで、手前の宇頭村(現:岡崎市宇頭町)から移住した人々が営み、宝暦12年(1662)宇頭茶屋村になった。少し先の十字路で交差する道は大浜から足助に通じる塩の道である浜道(大浜街道)と交差したことから大いに発展したそうだ。

永安寺と雲龍の松(10:25)

 その先右手にあるが、創建時期は不明。貧しい村民のために、延宝5年(1677)助郷役の免除を願い出、不届きとの理由で刑死に至った大浜茶屋村の庄屋柴田助太夫の霊を祀る菩提寺である。何とも悲しい話だが、当寺の圧巻は、境内右に幹が地上1.4mで4つに分かれそれぞれが地を這うように伸びている「雲龍の松」と呼ばれる大樹である。樹高4.5m幹周3.7m枝張東西17m南北24m樹齢300年で昭和60年県天然記念物。松は助太夫屋敷の庭から移したともここが屋敷跡で寺の創建時に植えたとも伝わる。

 10:27、山門手前の左には厄除子安地蔵尊の祠、右には昭和6年(1931)助太夫終焉地石柱。山門入った左にも祠がありその先左には石造33観音が並ぶ。

明治用水記念碑(10:30)

 「明治川神社」信号を渡ると、右手正面に巨大な記念碑が3基建っており、曾ては大きな明治用水が流れていたが、現在は道路の下に暗渠となっている。3基は、右から「明治用水開渠記念碑」、「疏通千里 利澤萬世 聖朝嘉績 良民美挙」碑、昭和54年建立通水百年記念碑「清流保悠久」。

 明治用水は、幕末に矢作川の水を碧海台地に引き入れ、大規模な耕地拡大の開発を行うという考えで、碧海郡和泉村(現:安城市和泉町)の豪農・都築弥厚が文政10年(1827)幕府に嘆願書を出したことに始まる。しかし、農民たちの理解を容易には得られず,弥厚は志半ばで亡くなった。明治になって都築家所有の開拓地の農民・岡本兵松と岡崎の庄屋・伊豫田与八郎が別々に用水計画を立案し、県庁の仲介で共同計画として明治12年(1879)に開削を始め、翌年30kmの用水が完成した。この完成が、後に農業大規模多角経営が生みだされる第一歩となったという。

明治川神社(10:30)左手

 明治用水開発に功績のあった都築弥厚・岡本兵松・伊豫田与八郎らを祀り、開発当時に使われていた測量道具なども所蔵している。明治用水の功労者である都築弥厚を大正4年(1915)に、伊豫田(伊予田)与八郎を昭和17年に、岡本兵松を昭和26年に、豊田市の枝下用水の功労者である西沢真蔵を昭和31年に合祀。参道途中の一段高くなったところには、創建時に熱田神宮から移設した木造鳥居の礎石。境内には神馬の銅像、太鼓橋もある。社殿左奥の伊佐雄社には明治用水の他の発起人や北野用水、鹿乗川の開削改修に功労のあった11人を祀る。また、江戸時代の歴史資料、石川喜平測量具 和算免許状 和算資料(市指定)を有する神社である。

日吉神社(10:31)右手

 明治40年(1907)の灯籠、明治42年の神社名石柱がある。境内は右折して駐車場の先で途中に一本松や赤鳥居、暗渠にかかる平成7年竣工の日吉橋がある。祭神は大山咋命。昭和62年の社殿前灯籠の左には昭和13年の百度石がある。狛犬は大正14年(1925)。社殿右に伊勢神宮と津島神社を祀った境内社があり、社殿左にも小さな祠がある。境内左には浜屋町公民館(老人憩の家)、右には昭和17年陸軍大将荒木貞夫揮毫の忠魂碑。その右はブランコ、すべり台、砂場、ベンチなどがあり、奥には昭和52年建立の県知事仲谷義明揮毫の土地改良碑がある。

−−−10:40、ディリーヤマザキでアイス休憩し、元気を回復して再スタート−−−

地蔵尊(10:48)右手

本元奥州青麻神社(10:58)右手

 鳥居奥に小祠、左側に地蔵の祠がある。明治12年(1879)から明治16年までの相撲取り・濱碇又七の旧宅跡の隣地である。化粧回しを付けた濱碇石像、「大角力協会清見潟代理目代正 濱碇碑」字碑などがある。

東海道の松並木解説板(11:12)右手

        
   市指定天然記念物 東海道のマツ並木
                               昭和四十五年三月十六日指定
 一六〇一年(慶長六)家康は、東海道に宿駅を定め、つづいて一六〇四年(慶長九)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。さらに、一六一二年(慶長一七)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。
 こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った。幕府は、その保護補植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民達の、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理がつづけられ、四世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。
 近年、風害や公害のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢二〇〇年から二五〇年ぐらいと推定される。
                                安城市教育委員会


−−−11:14石田橋、11:18猿渡川橋を渡り、11:20〜11:29来迎寺公園で休憩−−−

来迎寺公園(左手)

 明治天皇、内閣総理大臣(山縣有朋)、海軍大臣(西郷従道)、文部大臣(榎本武揚)、司法大臣(山田顕義)ら政府重鎮及び各国公使・武官たちが、日清戦争に向けた明治23年(1890)の猿渡川での陸海軍合同大演習をここで観閲している。公園中央には、戊辰戦争における東征大総督で、日清戦争では陸海軍総司令官になった有栖川宮熾仁親王の揮毫による明治27年建立の大きな「錦旗千載駐餘光」石碑や解説石碑がある。この演習時、明治天皇は当時この近くにあった来迎寺小学校で昼食を召し上がられた由。

御鍬神社(11:29)右手

 江戸時代に、来迎寺・牛田・八橋・駒場・花園・里・今・大浜茶屋の8ヶ村が合同で伊勢から御鍬神を勧請し、各村が順番で御鍬祭を行って豊作祈願していたが、明和年間(1764-71)来迎寺村を最後に持ち回りが終わる事になり、社殿を造営して来迎寺村の氏神にしたのが始まりである。祭神は豊受比賣命。拝殿は明治6年(1873)築。

元禄の道標(11:33)

 道を挟んで東西に2基の道標がある。以下は、その解説板。

 道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
  従是四丁半北 八橋 業平作観音有
  元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白
と記されており、これは、元禄九年(一六九六)に、在原業平ゆかりの八橋無量寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ500mの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄十二年の道標が残されている。
                                  知立市教育委員会

−−−この道標を右折し10分先にその「無量寿寺」があるが、立ち寄りは商略。無量寿寺への道標には
「天下和順 日月清明」と刻んである。八橋山無量寿寺は、在原業平ゆかりの杜若(カキツバタ)で有名なお寺だが、慶雲年間(704〜708)創建の慶雲寺が、弘仁12年(821)八橋の地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。史跡名勝の地として知られた三河八橋は、古くから文人墨客が多く訪れており、境内には、芭蕉句碑、八橋古碑(亀甲碑)、業平の井戸、杜若姫供養塔、八橋古碑などが多数ある由。−−−

来迎寺一里塚(11:36)−−−すぐ先左手−−−

 左右に塚が残り、左は道路沿い、右は来迎寺公民館裏にある。左塚には愛知県知事桑原幹根揮毫の昭和44年建立「来迎寺一里塚」石碑と説明板、右塚には説明立札がある。江戸時代は両側とも松があり、現在は昭和34年の伊勢湾台風後に植えた松が残る。左塚は直径11m高さ3mで一部削られ、右塚は東西10m南北9m高さ3.5m。なかなか立派な一里塚遺跡である。

               
来迎寺一里塚
                             県指定文化財(史跡)
                             昭和三十六年七月八日指定
 一六〇三年(慶長八年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道・など主要か移動を修理させた。この時一里(約四キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。
 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。
 怩フ上の樹木は主として榎が植えられたがこの怩ヘ代々、松といわれる。この大きさは直径約十一メートル、高さ約三メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。
 この怩フように両怩ニも完全に遺されているのは、大変珍しい。県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。
                                     知立市教育委員会


西教寺(11:43)−−−変形十字路の案内に従って左折すると、すぐ右手−−−

 元・大津市の西教寺の別院だったが、寛正2年(1461)太子山上宮寺(岡崎市上佐々木町)の末寺になり改宗。文明16年(1484)三河巡錫中の本願寺8世蓮如上人に教化し得度した祐可(三井四郎左衛門宣好)が後に中興している。本尊は阿弥陀如来。参勤交代途上の大名の休憩所になることもあったそうだ。

道標(11:47)
 
「見返弘法大師 従是十四丁廻」 別面には「御室御所御直末 重原村遍」とある。

明治用水路と緑道

 その先、整備された遊歩道が東西に続き、曾ての明治用水路が暗渠になっている。明治用水は、前述の通り、明治政府の殖産興業政策推進のため、愛知県の指導のもと、明治13年(1880)に開削された。この政策で開削された安積疎水(福島県)、須賀疏水(栃木県)と共に、「明治時代の三大用水」の一つとして遍く知られている。
 明治用水の開削で、この台地も「日本のデンマーク」と称せられる農業の先進地に発展したが、昭和30年代後半(1960年頃)から工業化、都市化の波が押し寄せ、用水の汚れ、ごみ投棄、水路の安全性、用水管理などにいろいろな障害が生じ、現在は地下に埋められた管水路となり、その上部は水環境整備事業により「緑あふれる用水の道」として整備されている。

池鯉鮒の松並木−−−有料道路下の「新田北」信号を越えると、見事な松並木道に入る−−−

 戦前迄は老樹が昼なお暗い程繁り、牛田町から山町まで1km続いていたと伝わるが、昭和34年の伊勢湾台風で6〜7割が被害を受け、450m程に縮小した。昭和45年には、幼松158本が補植され、松喰虫防除などの整備・保全を強化し、現在では170本弱が残っている由。

道標(11:52)

   正面  
「旧東海道 参拾九番目之宿 池鯉鮒」
   江戸側面
「京都三条 四拾壱里」
   京側面 
「江戸日本橋 八拾四里拾七里」

小林一茶句碑
「はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)」(11:55)

 文化10年(1813)、一茶51歳の折、池鯉鮒の木綿市の繁盛を詠んだ句。池鯉鮒は馬市と共に三河木綿の市も有名で、元禄年間(1688-1703)頃まで大変盛んだった。三河木綿は厚地の白木綿で丈夫なことから印半纏、のれん、足袋底地などに使われ、江戸では「三白木綿」「池付白」と呼ばれ大阪の泉州木綿(和泉木綿)と並び有名だった。芭蕉も元禄5年(1692)江戸深川で
「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」と詠んでいる。

くぐり松(11:56))

 幹が大きく曲がり、大枝が歩道上を覆う松の下の遊歩道は、記念撮影にも絶好のポジションだ。旅人へのインパクトは充分ある。
その先には、「明治用水解説板」(11:57)、があり、その先に白馬の像が見えてくる。

馬の彫像「やすらぎ」、広重の絵(11:58)

 喫茶店ミミ前で明治用水緑道が左へ分れ、その分岐には「やすらぎ」と題した平成10年建立の馬の彫像だ。隣には馬市を描いた広重の池鯉鮒の絵や四阿もある。
 「馬市の跡」と題した来迎寺小学校6年生三名による解説板もある。三河は昔から良馬の産地で、毎年4月25日から5月5日(陰暦)には知立で馬市が開かれ、育った馬がこの辺りから慈眼寺にかけての引馬野に集まった由。4〜500頭の馬が松に繋がれ馬の値を決める所を談合松と言ったが、明治に入って、馬市は慈眼寺の境内に移り、昭和初期までには馬から牛に代わったものの、鯖市も兼ねて賑わったそうだが、昭和18年を最後に幕を閉じた。分岐点の左には明治用水と馬市の跡と山屋敷用水開削碑の解説板もある。

山屋敷用水碑(12:00)

 大きな碑石だが、文字はとても解読意欲の起きない不鮮明さである。大正5年(1916)年建立の山屋敷用水開削を記念した碑だった。

万葉歌碑−−−少し先に石碑2つと間に解説碑がある。車道側にも知立松並木の解説板−−−

 昭和28年建立の万葉歌碑には
「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能知師爾」と刻まれている。大宝2年(701)10月に持統上皇が三河國に行幸の砌、随行の長忌寸奥麻呂が詠んだ歌である旨刻まれている。この付近を引馬野と呼んだことから浜松市・宝飯郡御津町に並ぶ持統上皇行幸の推定地として建立したものである。裏の撰文・書は当時の知立町長加藤玉堂。

馬市之趾(12:02)

 昭和40年建立の「池鯉鮒宿 馬市之趾」碑があり、裏面には、麦人の句が刻まれている。

     
杜若 名に八ツ橋の なつかしく
     蝶乙鳥 馬市たてし あととめて


 横の解説板には次のように刻まれている。

          
馬市句碑
     かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく
     蝶つばめ 馬市たてし あととめて

     
俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。

御林交差点(12:02)−−−その先の御林交差点で松並木が終わる−−−

 この交差点は、国道1号と合流し、その先は右から国道1号・県道51号・旧東海道の3叉路となり、一番左の細い道を行く。横断には地下道を使う。地下道から出て左に「東海道地鯉鮒宿」の石柱があり、ここが地鯉鮒宿の入口である。しばらく先で名鉄三河線の線路を越える。

池鯉鮒宿(知立宿)

 本陣1、脇本陣1、旅籠35、家数292、人口1620・・・天保14年(1843)時点
古くは「知立」と書き、語源は「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味している。御手洗池の鯉と鮒から江戸時代は「池鯉鮒」と書いたが、明治2年(1869)に再び「知立」が正式名になった。知立神社の神主の館である知立古城があったため、古くから城下町的村落で、鎌倉街道の要衡の地としても栄え、開かれていた木綿市や馬市は江戸時代には特に盛んだったようだ。

常夜灯(12:17)左手

−−−12:28〜12:55中町交差点(六ツ角)で街道を離れ、名鉄知立駅前の中華店「栄多楼」で昼食−−−

知立古城趾(13:02)

 知立駅前からほんの少々ショートカットして街道に戻ったため、「問屋場跡」を見逃したが、知立饅頭で有名な「都築屋」を左折し、その先でT字路を右折して少し先が知立古城趾。
 入口に解説板、東海道案内図、城周辺の古絵図がある。知立神社の神主で、豪族の永見氏の居館でもあり13代貞春は保元・平治の乱(1156-59)に従軍。29代貞英の時の永禄3年(1560)に織田信長に攻められて落城している。

 城跡は天正9年(1581)頃、刈谷城主の水野忠重が信長接待のために御殿を建て、江戸初期に子の勝成が増築して将軍や藩主の休息所としたが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊。明治期には碧海郡役場や明治用水事務所などが置かれた。現在は児童公園となっており奥には大楠がある。園内には左に丸い石柱「知立古城址」、右に昭和28年「御殿址」碑、昭和15年「明治天皇御小休所阯」碑。入口右の石垣上には大正2年(1913)「明治天皇驛蹕址」銅柱と横に松がある。

了運寺(13:03)−−−その先、左折した右手−−−
 
 浄土宗の寺で、
「タイ国渡来 釈迦如来像安置」の石塔が立っている。「今の考え次第で、明日が決まる。 だから、静かに考えよう」と黒板にチョーク書きしてあった。

総持寺跡の大イチョウ(13:05)

 国道155号との交差点手前右手に、総持寺跡がある。国道155号を右の地下道で潜る入口の右に「総持寺跡大イチョウ」と題した解説板がある。この先に移転した総持寺の旧地である。右の脇道を奥に進んだ右に旧境内にあったイチョウが残る。樹齢200年以上の雌木で昭和40年1月知立市指定の天然記念物。知立神社の別当寺だった神宮寺が天文16年(1547)焼失したため、その一坊だった玉泉坊を元和2年(1616)に再建し、これを継承させて承応2年(1653)、上野の東叡山寛永寺の末寺になり、貞享3年(1686)に総持寺に改称している。天保年間(1830-43)に住職・神山亮円が開いた寺小屋は明治5年(1872)に廃寺になる迄続いた。廃寺後、境内は民間の手に移り仏像は先ほど訪れた了運寺に保管されていたが、大正15年(1926)西町新川に再建された。

−−−国道155号を超えると、右側に「延喜式内知立神社」への道標があり、その四つ角を越えると「総持寺」である−−−

総持寺(13:10)

 四国遍路で歩いた時、第七番札所「十楽寺」で見たような、中国風の山門に迎えられる。旧・総持寺が廃寺後、了運寺に預けられていた不動明王を本尊として大正初期に不動院が建立され、大正15年(1926)に寺として再建された。本尊の不動明王像は弘法大師作とされ流汗不動と呼ばれ、三河三不動の第1番札所になっている。
 竜宮門の山門を入った左手に不動明王石仏、座像石仏の祠、弘法大師像、観音堂、留翠微笑観音(石造立像)祠、一願出世不動と周りに23石仏、愛染堂(六角堂)がある。境内右には開山堂、微笑地蔵、水子地蔵、水掛け不動。本堂前右には白寿観音があり、三河白寿観音霊場第7番札所。本堂左に地蔵堂があり、三河新四国88ヶ所霊場第1番札所で、堂内手前にはおもかる抱き地蔵、堂左には四国お砂踏霊場がある。敷地は家康の側室・於万の方(長勝院)の誕生地で入口に立札もある。

−−−その先三叉路右折で逢妻橋を渡ると国道1号に合流し、13:18刈谷市に入る−−−
−−−85番目の一里塚跡を過ぎ、13:34国道から左の旧道へ入る−−−

洞隣寺(13:34)左手

 曹洞宗の寺で、天正8年(1580)刈谷城主水野忠重が開基し、清涼山曹源寺3世雪山受盛が開山。本尊は阿弥陀如来。安政3年(1856)混山祐峯が中興開山。入口左に大正2年(1913)「弘法大師御自作 子安観音尊霊場」石碑があり、寛政8年(1796)の常夜燈は村人が交代で火を灯した由。平成14年3月の寺の解説碑もある。
 境内は玉砂利が敷かれ、松が点在し、本堂の右前には石像が3体。本堂の左には地蔵堂や秋葉堂、行者堂が並び、その前には達磨像がある。愛知梅花33観音第6番札所でもある。

旧「芋川」の地=ひもかわうどん発祥地碑(13:42)−−−洞隣寺の前−−−

 素朴な木の碑と共に、石の解説碑がある。

 
江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。
                       平成14年3月
                                  刈谷市教育委員会


 この付近の立場で旅人に出され好評だった平打うどん「いもかわうどん」は三河国芋川(現:一ツ木町芋川、今岡町、今川町)の名産で、天保元年(1830)喜多村信節の「嬉遊笑覧」には江戸の「紐革うどん」は芋川うどんのなまったものであろうと記されている。万治4年(1661)頃の東海道名所記には「伊毛川 うどん そば切あり 道中第一の塩梅よき所也」とあり、他にも東海道中膝栗毛や井原西鶴「好色一代男」にも登場している。名古屋名物のきしめんの源流とも言われる。

乗願寺(13:46)左手

 真宗木辺派というあまり耳にしない宗派の寺院で、しばらく行った左手にある。山門前右に平成14年説明碑。天正15年(1587)の創建で、当時は一向宗への弾圧が厳しかったため「地蔵寺」と言い、表向きは浄土宗になっていたが、木辺派本山の遍照山錦織寺(滋賀県野洲市木部826)14世良慈上人の時代に表向きも真宗の寺になった。本尊は阿弥陀如来。享保9年(1724)から享保11年(1726)まで刈谷藩主だった三浦明喬や延享4年(1747)から明和4年(1767)まで刈谷藩主だった土井利信の位牌が祀られている。

乗蓮寺・シイ(13:53)−−−暫く先の右手−−−

 
真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。今川山と号す。
 境内にあるシイは、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定された。幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられる。
 昭和34年の伊勢湾台風で、大部分に損害を受けたが、現在は樹勢を回復し、今では実も付き始めている。
                       平成14年3月
                                    刈谷市教育委員会


三河国今川村から尾張国東阿野村への国境「境橋」(14:11)

 左・富士松駅への分岐を越え、右後方からの国道1号を斜めに横断して右の道へ入り、境川に架かる境橋に着く。以下がその解説板である。

 
慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立会いで橋が架けられた。この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。

 境川は延長24.2km流域面積264平方kmで三好カントリー倶楽部(西加茂郡三好町黒笹三ヶ峯1271)敷地内の溜池・長田池を水源とし衣浦湾に注ぐ。現在は橋を渡ると刈谷市から豊明市に入る。

烏丸光廣の狂歌歌碑−−−境橋を渡った右手。自然石に刻まれている−−− 

   
うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継ぎ目なるらん    光廣

 狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋、三州側は土橋であった。
 詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸殿と称せられた。
                                        豊明市観光協会


 光廣は公家の京都烏丸に邸宅を持つ烏丸家の当主でもあり、藤原朝臣光廣とも称し、正二位権大納言。号を圓月・烏有子などとも称し、詠歌の他にも書、漢詩文、仮名草子、紀行文、随筆、茶道など多芸多才だった。

−−−14:17国道一号合流。豊明駅前を過ぎ、14:28再び左への旧道へ−−−

阿野一里塚跡(14:32)

         
      国指定史跡 阿野一里塚
慶長9年(1604)2月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに築かせたものである。往時は東海道交通上の目安となっていたが、明治維新以後次第にその価値を失った。
今両塚が現存する例は今では珍しい。       昭和11年12月指定
                                      豊明市教育委員会


 塚は高くはないが、左右一対揃っており、なかなかのものである。

東海道松並木の名残松

 一里塚の先はゆるやかな上り坂になる。左手の豊明小学校前に大きな一本松と説明立札がある。この付近も江戸時代は松並木だった。池鯉鮒宿から間宿である有松までの間では、ここに1本残るのみで、有松から先の鳴海宿の間にも四本木の名残松が1本残るのみである。

−−−その先で「前後駅」前を通過し、15:10頃国道1号に合流。15:13名鉄名古屋本線の中京競馬場前駅に着き、第一日目のきょうの歩きのゴールとした。15:17発の名鉄で知立駅へと5駅引き返し、駅前の「ビジネスホテル知立」に投宿。持ち込みフリーなので、ビール&焼酎を買い込み、恒例の夕食タイムを楽しんだ。−−−