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旧東海道餐歩記−13-1 岡崎公園
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 2008.10.03(金)岡崎宿〜池鯉鮒宿の前泊の前に「岡崎公園」見学

 今回は、今夜の前泊を含めて2泊3日の旅だ。東京発12:33のひかり413号で13:59豊橋着。同駅14:15発の名鉄名古屋本線:特急中部国際空港行きに乗り換えたところで、新横浜乗車の滝澤氏に出会い、一緒に東岡崎駅で下車し、「岡崎公園」へと向かう。
 朴訥がウリの三河武士達が重い刀を腰にさし、この石段を登り降りしたのかと思いつつ、先ず「岡崎城」に入城。webサイトの割引券利用で「岡崎城」「三河武士のやかた家康館」共通券を買い、「ご遠方からのお越し、ありがとうございます」の係嬢?に出迎えられる。

 天守閣は3層5階建で、1階が券売所と休憩所、2〜4階が江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっており、2階=「藩政と支配」、3階=「城下町の文化と産業」、4階=「城と城主」など、各階毎のテーマに沿って往時の貴重な資料が展示されている。5階は展望室になっていて、三河平野を一望することができる。

<岡崎城の沿革>・・・パンフレット抜粋

 岡崎城の起源は15世紀前半、明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城され、その後、享禄4年(1531)に家康の祖父:松平清康が現在地に移し、以来、岡崎城と称された。
 天文11年(1542)12月26日、徳川家康(松平竹千代)が、ここ岡崎城内で誕生している。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、家康19歳の永禄3年(1560)、桶狭間の戦における今川義元の戦死を機に岡崎城に帰り、自立した。
 以来、岡崎城を拠点に天下統一への基礎を固め、江戸時代、岡崎城は『神君出生の城』として神聖視され、家格の高い譜代大名が歴代城主を務めている。石高こそ5万石程度と決して多くはないが、大名は岡崎城主になることを誇りにしていたと伝えられている。
 明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不要とされた城郭の大部分が明治6〜7年(1873〜74)にかけて取り壊されてしまい、残された堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりになったが、岡崎の象徴である天守閣再建への市民の願いが叶い、昭和34年(1959)に、ほぼ往時の外観の天守閣が復元された。

2F 岡崎藩の藩政とその農民支配について
   〜武器・武具・藩領分布図・六手永支配図・藩政史料を展示、岡崎城の歴史を映像紹介
3F 城下町・岡崎の文化と産業について
   〜城下町・宿場町として栄えた岡崎の産業文化や人々の生活
4F 岡崎城の城郭模型と歴代岡崎城主紹介
  〜市内に陣屋を置いた奥殿藩、大岡忠相ゆかりの西大平藩についても展示
5F 岡崎城縮図・城下展望台


 天守閣前には、「家康公の遺訓碑」・「家康公遺言碑」等が立ち、「三河武士のやかた 家康館」に向かう途中には、「家康公銅像」、「岡崎公園時計塔」(毎時0・30分の2回、家康公のからくり人形が照明や音響の演出と共に現れて能を舞う和風からくり時計)、「本多平八郎忠勝公銅像」などがある。

 「三河武士のやかた家康館」では一階と地階が展示コーナーになっている。一階には、一階展示室・特別展示室・映像コーナーがあり、地階の常設展示室では、「三河物語」の著者・大久保彦左衛門を案内役に、松平八代から天下取りまでの道のりを五つのテーマに沿って紹介し、「決戦!関ヶ原」の実演模型は必見ものだった。

 「三河武士のやかた家康館」を出て、先ほどの「からくり時計」前に来ると、今回の餐歩仲間でホテルにチェックインしてから来たと言う清水氏と出逢う。滝澤氏と2人で旧東海道岡崎宿の街道に面したきょうの宿「サンホテル岡崎」に向かい、webサイトからゲットした割引券利用でチェックイン後、17時フロント前集合を申し合わせ、清水・村谷両氏へは伝言方フロントに依頼して入室。シャワーほかで身支度の後、フロントに全4名定刻参集し、夕食に近くの鉄板四季料理が看板の「大翔」に開店時間前に入店。立派な店構えだったが、メニュー豊富で美味かつ手頃な値段なのが嬉しい。ホテルでゲットした5%割引券活用もあり、アルコールもいつになく進み、翌日になって各人若干の反省の弁となる。

 ホテルから「大翔」への途中、ホテル向かいの菓子舗「備前屋」東面の壁やシャッターに、岡崎宿のここ伝馬町の文政九年当時の家並み・各種説明板等がディスプレイされているのを見て感動する。備前屋にその資料が備えられているとのことで店に入り、清水氏が「東海道を歩いている」旨を告げると、何と資料の他に全員が菓子まで頂戴した。

 ここ「伝馬」交差点には、東南側に石の道標があり、「右 江戸扁?」・「左 京みち」、「左 信州道」「世話人・・・」と刻まれている。