旧東海道餐歩記-12-2 赤坂宿~藤川宿~岡崎宿
 2008年12月20日(土)赤坂宿~藤川宿~岡崎宿

 目を覚ましたら、江戸時代だった・・・
 そんな昔年の旅人気分で朝を迎えた旅籠「大橋屋」で、7:30から朝食、7:55には満足感たっぷりで出立し、今次餐歩旅2日目へと入る。今夕には、本日のメインである「岡崎の27曲」で有名な岡崎宿に入り、曾て泊まった「岡崎サンホテル」前の「伝馬通」交差点到達を以て残余区間完歩となる。街道区間は昨日半日の12.7kmに対し、きょうは16.5km程度なので、午後2時頃にはゴールイン出来そうな気がする。ただ、昨日は一人旅でせっかち丸出しに歩いたので後半は少々疲れ気味だった反省を踏まえ、きょうはゆっくり旅を心掛けることにした。
 ただ、早朝でもあり、天気の心配は皆無だが、かなり気温は低く寒い。朝の東海道は未だ静かで、車も殆どなく寒さを別にすれば気持ちよく歩ける。この寒さも歩いている内に苦にならなくなるだろう。

見真大師・聖徳太子御𦾔跡(7:58)左手

 大橋屋を出てすぐ先左手に石碑がある。ここを左折した先に真宗大谷派の「太子山正法寺」があり、推古天皇の時代(592-628)に聖徳太子を祀ったのが起源とされている。境内には茶の木と椿を交配させてできたツバキ科の常緑樹である「ワビスケ」(樹齢400年)があるが、かの織田有楽斎が茶席の花として愛好したことから「有楽椿」と呼ばれる由である。

高札場跡(7:58)右手

 民家塀際の塀と水路の間に挟まるように「高札場跡」の標柱が立っているのが確認できる。上面には高札を見る庶民の絵が付いている。江戸時代初期に建てられ、明治元年(1868)に廃止になった間口・高さ共に2間(3.6m)・奥行1間(1.8m)の瓦葺の高札場があった場所。平成19年に復元された高札が昨日通った「赤坂梅里」交差点の「赤坂宿公園」にあるという次第。

御休処(7:59)左手

 9:00開館なので閉まっているが、「御休処 よらまいかん」とあり、意味不明だが、我が故郷では「お寄りなさい」を方言で「よりまい」というので、推定だが「かん」は「館」で『立ち寄り館』のような意味かと推定する。無料の憩いの場のようだが、時間前なので素通りする。おそらく東海道400年祭の時のものだろう。道は緩やかに登っていく。

赤坂陣屋跡(7:59)右手
               
赤坂陣屋跡(三河県役所跡)
陣屋とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大藪地内に設けられたが元禄二年(1689)神木屋敷(現赤坂保育所附近)に移された。幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治二年(1869)再び大藪地内へ新築移転された。廃藩置県後、明治五年に廃止となった。
                              豊川市教育委員会

 郡代役所の敷地内には役人の住居、稲荷などもあり説明板には敷地図も掲載されている。

八幡宮(8:06)右手

 「郷社八幡宮」の石塔側面には、「東京角力 錦戸春吉」とある。錦戸春吉は少年の頃から運送屋で働きながら祭での相撲に飛び入り参加し、押しや高無双を得意として活躍した。明治22年10月、静岡県の土地相撲で年寄を務める平の松の組合に加入し、若桜と名乗って活躍した後、23年に角界に入門した。若左倉→招猫→小左倉→錦戸と改名、本名は大場→吉澤春吉。明治42年 6月入幕し、幕内は西前頭15枚目で3勝7敗の1場所のみ。年寄名も錦戸。おそらく錦戸関の寄進で完成した石塔と思われる。

赤坂十王堂跡(8:06)左手

 「十王堂跡」の茶色の標柱がある。上面には向称寺に移された地蔵菩薩の写真が付いている。標柱の後ろには「宮路山周辺案内」のオレンジ色の地図付き説明板があり、ここから左に分岐する道は宮路山(標高362m)に通じる。

赤坂宿西見附跡(8:06)右手

 右斜め向かいに「見附跡」茶色標柱がある。上面には東見附跡の説明板にもあった広重の狂歌入り東海道の画が付いている。ここまでが赤坂宿ということになる。風景的にも宿の終わりは実感できる。「江戸側の見附跡」には解説板があったが、こちらは一本の標柱のみである。
 朝の冷気は相変わらず厳しく、手袋不携帯がやや悔やまれる。

開運毘沙門天王尊(8:13)右手

 右に分岐する細道角に、昭和8年(1933)、開山300年記念に建立された石柱がある。毘沙門堂は右折した奥なので立ち寄りは省略する。

栄善寺道標(8:20)左手

 大永山栄善寺(榮善寺)という浄土宗の寺院への入口だが、弘法大師ご自作の大日如来像があるらしい。文永9年(1272)円空立信上人創建の寺院で、享禄3年(1530)山崩れで埋もれた。その昔、弘法大師がこの村に立寄られ、大日仏を刻んで村の盲目の男を治したと伝わり、山崩れ後に発する光の指す跡地を掘ると大日如来像が出たため、再建した寺に安置したと伝えられている。

コミュニティバス

 きょうは土曜日で朝練に通う小中学生達が徒歩や自転車ですれ違うが、バス停の時刻表を覗いてみたら、一日6~7便だった。小型マイクロバスで10人程度客が乗れば満席になりそうな、省エネ・効率型の車輌だ。

八王子神社入口(8:26)左手

 暫く行くと、寛政12年(1800)11月の「秋葉山常夜燈」と「善光寺分身如来道」の道標がある。神社は全く見えないのでパスしたが、少し行って左を見ると山の斜面に鳥居が見えた。

■下の方が土中に埋まった道標(8:30)左手

 「八王子橋」で8:31「音羽川」を渡る手前のガードレール前にある。昭和3年(1928)建立の小さな石柱で「一里山庚申道是ヨ」と刻まれており、下部は土中に埋まっているので読めない。

 碑の先で八王子橋を渡ると、右手に「音羽蒲郡IC」に出入りする「三河湾オレンジロード」の下を潜る。この辺り、歩いている旧東海道の右手に国道1号、その右に名鉄名古屋本線、その右に東名高速と並進している箇所である。左手は相変わらず低い山である。

長沢一里塚跡(8:35)左手

 その先で77番目となる「長沢一里塚跡」地点に、平成17年建立の「一里塚跡」という茶色の標柱が田の前に侘びしく立っているのに出逢う。上面には東海道分間延絵図が付いている。享和2年(1802)の長沢村明細書上帳には「左の方の塚は松一本、右の方の塚は榎二本、松一本」とある。付近の街道には昭和50年頃までは90本近くの松があった由。

兒子神社道標(8:43)右手

 しばらく進むと右に「兒子神社」石柱があり、側面には「御大典記念」とあるが、神社はその奥の国道1号、名鉄名古屋本線、東名高速のさらに北300mの山麓にあり、ここは単なる入口に過ぎないと判る。それにしても、参道が斯くもずたずた状態では神様も面食らっておられよう。

正面衝突

 その先で道の右端を歩いていたが、突然眼前に自転車に乗った少年が真っ正面から迫ってくるのに遅まきながら気づき、避ける暇もなく両手で身構えて支えた処、何とか互いに転倒しないで済んだが、本当に危なかった。朝練に通う中一ぐらいの小柄な少年で、体重的にこちらの方が勝っていたのが幸いしたようだが、「ぼうーっとしていました」と言われ、厳重注意にとどめる。準メタボのわが体重が幸いしたようだが、それからは、更に慎重に歩くようになったので、不幸中の幸いでいい教訓になったようだ。

誓林寺(8:46)右手

 少し先の道が右カーブする左に石仏があり、カーブ後の右手にこの寺がある。山号は乙葉山。浄土真宗本願寺派の寺院である。親鸞聖人が嘉禎元年(1235)に矢作の柳堂(のちの勝蓮寺)に立寄られた時に、弟子になった誓海坊が建てた草庵が起こりで、応仁年間(1467-69)に信海が寺として創建した。

巓神社(8:50)右手

 しばらく進むと、寛政10年(1798)11月建立の「秋葉山常夜燈」と大正2年(1913)建立の「村社巓神社」石柱がある。巓神社自体は、先ほどの兒子神社と同様に、国道1号、名鉄名古屋本線、東名高速のさらに北400mの山の中にある。これまた、参拝のファイト喪失だ。

磯丸「みほとけ」歌碑(観音堂跡)(8:58)右手

 少し道が左、そして右とカーブする辺り、道が細くなり左手に落ち着いた佇まいの古い家並みが続く。その先で右手に行くとこの歌碑がある。
 石垣の上左に「磯丸「みほとけ」歌碑」と書かれた白いコンクリート柱、「観世音菩薩」と刻まれた自然石の石碑、更に右に馬頭観音石像があり、その後ろに磯丸歌碑がある。敷地の奥には観世音菩薩石像もある。歌碑は弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の供養のため糟谷磯丸に歌を依頼し造立したもので、裏には「一百萬遍供養塔」とある。

 磯丸は明和元年(1764)伊良湖村に生まれた漁師で、伊良湖神社(田原市日出町)に奉納された古歌を人が読むのを聞くうちに、読み書きが出来ないまま歌を詠むようになり、「無筆の歌詠み」「漁夫歌人」と呼ばれるようになった。後に読み書きを覚え、大垣新田藩の郡奉行で国学者の井本彦馬常蔭から「糟谷磯丸」と名付けられ、多くの歌を残し、嘉永元年(1848)に没したという。

秋葉山常夜灯と観音菩薩像(8:59)右手

 その先の右折三叉路の手前と向こう側にある。手前の常夜灯は安政年間造立のもので、直ぐ横に小さな地蔵堂のような小祠、道の向こう側にも同様の観音堂があるが、内容は確認できなかった。

暫しの国道歩き

 9:01に「唯心寺橋」で「大榎川」を渡り、9:03に左手の「長寛山慶忠院道標」を過ぎると右カーブし、9:04に「千両橋」の先で国道一号線の左側の側道に入り、左折する。9:06に「村社明石神社道標」を左手に見た先で、9:07に右の国道に合流する。国道の直ぐ右手には名電の赤い車体の電車が走っている。
 それまでの静けさから一転して喧噪の世界へのタイムスリップだ。しばらく何も遺跡のなく、閉鎖されたガソリンスタンド跡や無味乾燥な工場などを横目に「長沢町西千束」信号を過ぎ、「本宿町深田」信号手前で9:25に「ここより岡崎市」の道標を見ると、すぐ先左手に松の木や東海道案内石碑があり、一息つく。あれ程冷たかった早朝の寒気は完全に消え、今は汗ばんできている。

本宿村入口~石標と解説板(9:27)

 「自然と歴史を育むまち 本宿」と刻まれた横長の真新しい石標と松の木が一本ある。少し先には平成6年設置の「これより西 本宿村 藤川宿へ壱里」と題した詳細な解説板がある。
               
これより西 本宿村 藤川宿へ壱里
 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並みが形成された。鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢地から宮路山中へと続いていた。
 近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。
 享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ屋)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。(以下略)


 赤坂宿は元々ここにあったが、宿が現在地に移動するとここは「本宿村」になり、現在「岡崎市本宿」になっている。御油宿と移動後の赤坂宿との間の距離が短かい理由が判るというものだ。この先左に「東海道ルネッサンス“本宿の歴史と文化をたずねて”」の解説板があり、法蔵寺・六角堂・東照宮・七里役所跡・本宿陣屋跡・一里塚跡・その他の史跡についての写真入り詳細解説がある。

冠木門(9:31)

 国道沿いの歩道を進むと、平成6年築の「冠木門」があり、手前左と潜った先右手に角柱型の新しい「常夜燈」が建ち、「東海道ルネッサンス」と刻まれている。冠木門を潜って緩やかな下り道を行くと国道の左に平行する車道と合流し、9:34蒲郡方面への国道473号分岐(新箱根入口)を越え、その侭進む。
 9:36、旧東海道は、その先の三叉路で「東海道ルネッサンス本宿道標」を見て、国道1号沿いから離れ、左の旧道に入る。

法蔵寺(9:38~9:41)左手

 大きい。浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ、「二村山」と号し、本尊は阿弥陀如来である。「岡崎観光文化百選」にも選ばれている法蔵寺は、701年、僧行基開山の古刹で、松平家初代親氏が深く帰依し、1387年に堂宇を建立、寺号を法蔵寺とした。家康も幼少の頃手習いや漢籍を学び、数々の遺品も現存しているという。桶狭間の合戦以後、法蔵寺には家康が守護不入の特権を与えて優遇したほか、境内には新撰組の近藤勇の首塚も祀られている。
 また、法蔵寺門前の茶屋で往時売られていたという「法蔵寺団子」の由来書や、家康が幼少時に手習いの草紙を掛けたという「御草紙掛松」解説板などが門前に掲示されている。

くらかけ不動院(9:42)右手

 9:41、大正9年(1920)竣工の「法蔵寺橋」で「鉢地川」を渡って少し行った先右手にある。建物は「本宿町中集会所」になっている。建物左に石仏が3体(立像、座像、地蔵)あり、西国三十三観音巡礼碑などの石仏、石塔群もある。

本宿陣屋跡と代官屋敷跡(9:44)左手

 その先の三叉路の左先にある。簡単な地図付解説板がある。ここを左折し坂道を登った所に見える「冨田病院」が本宿陣屋跡である。元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が関東から三河へ知行替えになったが、江戸在勤のためここ本宿村に代官陣屋を設置。陣屋代官職は冨田家が世襲した。旧陣屋は明治まで存続し、現在は富田病院になっており、、陣屋に向かって右隣の文政10年(1827)築の旧代官屋敷は現在も駐車場の一角に居宅として現存している。とにかく豪邸である

本宿道路元標と秋葉山常夜灯(9:50)---右手の火の見櫓前---

 「本宿村道路元標」の石柱が建ち、左横の解説プレートには、
「旧道路法(大正九年四月一日施行)によって、各市町村一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました。」とある。隣には寛政13年(1801)造立の「秋葉山常夜燈」がある。

本宿一里塚跡(9:53)右手

 9:50「欣浄寺」入口(左手)通過。9:52「名鉄本宿駅」入口(右手)通過で、78番目の「本宿一里塚跡」がある。昔は左右とも榎が植えられ、左塚は明治初期に取り壊されたが右塚は昭和20年頃まであった由。

薬師如来(9:55)左手

 紫色の暖簾のようなもので飾られた薬師如来の小堂があり、その斜め後ろに「薬王山揚珠院」の石標がある。

国道合流(10:01)

 「本宿町沢渡」信号で再び右手後方からの国道1号に合流し、信号で国道右側歩道へと移る。合流点に「是より東 本宿村 赤坂宿へ壱里九丁」と題した解説板がある。

 10:08「東海中学校入口」を過ぎ、10:10閉鎖された元重量検査場の空き地に表示された横断路の白線に従い右手の細道に入る。10:13途中で国道下を通って右手に来た車道が見えたので、その道に降りたが、これが我が歩くべき東海道だった。最初はここで降りるべきかどうか迷ったが、その先で「東海道」の道標を見て安心する。

 左手に並走する国道の「山中小学校東」信号を旧道の交差点から見た次の交差点が、右手の「名電山中駅」への入口にあたる。

延命地蔵など(10:22)右手

 延命地蔵の左側には七福神2体、右側には真っ赤な幟付きの「相馬稲荷大明神」が並んでいる。

休憩スポットと解説板(10:26)左手

 屋根付きの休憩所があり、その後ろに「是より西、藤川宿へ 是より東、赤坂宿へ」と題する、「東海道」と「舞木町の由来」についての解説板がある。

専稱山永證寺入口(10:23)右手

 「山鋼川」に架かる「舞木橋」の手前右に、昭和60年建立の寺名石柱と、古い「額田郡新四國第三拾八番」石柱がある。ここを右折して道なりに行った先に浄土宗の「永證寺」があるが、例によって名電の線路などを越えて行かなければならないので、寄り道は割愛する。明和2年(1765)創建で本尊は阿弥陀如来とか。

暫し国道歩き

 左手に石垣囲いの堤があり、松が数本植わっているのがとても良い。新しい東海道の石標もある。その先「舞木町西」信号で10:32に再び左後方からの国道1号に合流する。10:38左手の「山中八幡神社」入口を過ぎ、10:42に「市場町」信号先で旧道はまた左側に分岐し、「藤川宿」へと入って行く。

藤川宿入口(10:44)

 「東棒鼻」「東棒鼻跡」解説板、東海道道標、「藤川宿」の幟、観光案内板などが建っており、次々デジカメに収める。広重の藤川宿棒鼻の版画は、「毎年八月幕府から朝廷への献上馬一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである」旨解説している。。

枡形道路

 この一帯は「枡形」地帯になっている。軍事上の防衛目的や、大名行列の鉢合わせ防止、行列の整列等の目的で宿場入口に設けられたもので、ここ藤川宿にもここ江戸側の入口に枡形が残されている。その先右折の左曲がり角には、「市場改耕碑」(10:50)があるが由来等の説明書きはない。。

高札場跡(10:09)右手

 枡形を抜けて街道直線に戻ると、右手には先ほど別れた国道との間に名電線路が入って並走している。10:54にその鉄道と国道に参道を分断された「津島神社」入口を過ぎ、車の少ない落ち着いた通りを進んでいくと、右手に「高札場跡」がある。往時8枚あった内の6枚の高札が現在資料館に掲示してある由。その先左手にはお城のような建物「人形処」がある。

問屋場跡(10:01)右手---別名「御伝馬所」---

 記録によると、当問屋場には下記人数がいた。(計29人)
    問屋二人、年寄五人、帳付四人、飛脚番六人、人馬差六人、小使六人

森川本陣跡(11:04)右手

 ここ藤川宿は、昔東海道が鎌倉街道と呼ばれていた鎌倉時代からあった宿を、五街道整備の際にあらためて整備したものである。藤川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠36軒があった。本陣は元々は二軒あったが退転を繰り返し、江戸時代後期には「森川久左衛門」が務めていた。
 本陣の森川家は、もと御油に住み、当主森川孫八が家康の家臣で、当主喜太郎のとき、藤川に住み宿の本陣役を拝した。本陣の建物は現存していないが、敷地が1反程あり、裏の石垣が往時の規模を物語っている。跡は石碑と解説板のみだが、民家の敷地内に建っていてもの悲しい。現在、土地・建物を森川家から借り受け、「藤川宿第二資料館」として利用されているが、入り易い雰囲気ではない。

大西脇本陣跡(11:06)右手

 その先にある立派な佇まいの「資料館」が脇本陣のあった場所で、現存しているのは立派な門だけだが、現在「藤川宿資料館」になっている。現存する門は、関ヶ原の戦の後に藤川へ移住してきた大西三家の内の大西喜太夫(橘家)のもので、「橘屋」と呼ばれていた。明治になって宿場制度が廃止になり「藤川村役場」として使われ、現在は「藤川宿資料館」になっている。一部修理されたが往時の名残をよく留めているようだ。

関山神社入口(11:08)右手

 ここも、線路や国道で参道が分断され、もの悲しい。

西棒鼻(10:14)右手

 「宿場橋」で「百田川」を渡ると、その先右手の藤川小学校の前(正門先)に藤川宿の「西棒鼻」がある。京側からの入口であり、江戸側からは宿場の出口にあたり、ここまでが藤川宿である。

藤川の十王堂と芭蕉句碑(11:17)左手

 「十王堂」は十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは、冥土にいて亡者の罪を裁く十人の判官をいう。創建年代は不明だが、十王を祀る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の紀年がある由。境内にある自然石の芭蕉句碑には、
    『爰も三河 むらさき麦の かきつはた  はせを』 とある。

藤川一里塚跡(11:20)左手

 79番目の一里塚跡で、民家の生け垣の間に木碑と解説板が建っている。記録によれば、天保年間(1830~1844)頃には南側の塚は既に無くなっており、北側の榎は昭和初期に枯れた由。

吉良道分岐(11:26)左手

 11:23街道右手に小高くなった堤に植わった松並木が始まり、その先の分岐中央に石柱型の小型常夜灯、「吉良道」石標、解説板が建っている。ここを左へ行けば吉良道になり、東海道は直進する。
 名鉄線路を越えても、街道左右は松並木で、これを「藤川の松並木」というのだそうだ。なかなか素晴らしい。

昼食

 11:32右後方からの国道1号に合流する。暫く左側の歩道を歩き、11:42左手にある「阿弥陀寺」を過ぎ、11:45道標に従い再び左斜めへの旧道に入る。「坂下橋」で「竜泉寺川」を越え、県道326号手前左手のベンチで小休止小と思ったら、県道の先に中華店を発見。時計を見るともう11:48なので、県道を渡って右手直ぐの国道1号沿い(「美合新町北」交差点)に出ると、左折直ぐの左手に「山小屋」という筑豊ラーメンの店があり入店。「黒ラーメン」なる極細麺で空腹を癒し、12:09出店で街道に戻る。

今回の歩き旅最終日の追い込みへ再出発

 12:11歩きを再開したが、左手のガソリンスタンドではレギュラー100円の看板が目に入り、一体あの原油高騰は何だったのかと思う。サブプライムローンに端を発した世界不況で原油需要が激減したのだろうが、この「前時代的スロー旅」と「世界経済変動スピード」とは好対照だ。

 再びクロマツなどの松並木道になり心地よい。12:14「美合新町」、12:17「美合町南屋敷」信号を越え、12:21次の交差点に行くと、交差する道路は交通量が激しいのに信号がない。サーカス渡りをして左右の自動車解体工場を抜けると「山鋼川」に架かる「高橋」に差し掛かる。川が左前方でカーブして先の「乙川(大平川)」に注ぎ込むのだが、「生田蛍保存会」や「乙川を美しくする会」の名前で『川を美しく』の看板が橋手前右にある。この辺りは「天然記念物・岡崎源氏蛍発祥地碑」がある筈だが、撤去されたのか見あたらない。

大岡越前守その1

 12:27道は乙川に突き当たると、右手の国道1号へ迂回させられる。12:28国道に出て左折し、乙川とそれに続く田圃を陸橋で渡ると直ぐ細い左への道に入り旧道復帰を図る。
 旧道に出て、進行方向は右折だが、左折して乙川の岸辺方向に戻ると右手高台に「大平川水神社(祠)」と、向かってすぐ左手に「大岡越前守縁の堰跡」の石碑がある。自然石に細かく彫られた文字は残念ながら全文字を判ずるのが難く、ここに紹介できないのが残念である。

大岡越前守その2

 元に戻って、12:38右後方からの国道1号と「大平町東」信号で斜めに交差し、国道右側へと旧道が斜め交差する。12:39東光山薬師寺を右手に見て、12:40大平消防団前で常夜灯、12:43「男川小学校西」信号の右手前角に「東海道」「つくて道」と刻した道標を発見する。「つくて」は愛知県北東部の南設楽郡作手村(現:新城市)のことで、作手藩があったが慶長15年(1610)に廃藩になっている。

 次の三叉路の岡崎大平郵便局前に、「ようこそ東海道 西大平藩陣屋跡」とか、「西大平藩陣屋跡 大岡稲荷社 この先90m」の案内板や石柱を見て、右手へ寄り道する。すると、右手に豪壮な塀囲いの二面が見える「大岡越前守陣屋跡」が現れ、期待以上のものなので驚嘆する。
                    
大岡越前守陣屋跡
 「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところです。陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復活しました。


 現在では、近年再築の陣屋門、別の側には冠木門とそこから入った所に大岡稲荷社があるのみで、敷地内は広場状態でそのほかには何もない。

                    西大平藩
 西大平藩の領地は大部分が三河に置かれていました。西大平村のある額田組12か村、豊川稲荷のある宝飯組5か村、加茂・碧海組7か村が領地とされていました。それぞれの組には、割元と呼ばれる徒士格の陣屋役人がおかれ、年貢の徴収のとりまとめや村々の取り締まりを行っていました。

                    西大平藩陣屋
 西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地が最も多かったことが考えられます。
 しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
 大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。


上野山専光寺(12:53)右手

 陣屋へ行く途中左にも入口があったが、大平郵便局の先の東海道沿いにも入口がある大きな寺院である。大治2年(1127)大平の領主・本多治部少輔吉信が先祖伝来の薬師如来を安置して建立し、出家した第2子・信順を住職としたのが起こりである。当初は天台宗で長福寺と称したが建暦2年(1212)禅宗に改宗、その後12世專光が浄土真宗に改宗して願了となり、大永元年(1521)寺名も改称した。本尊は阿弥陀如来。

大平一里塚(12:56)左手

 左右の塚のうち左のみ現存している。「東海道」石柱、昭和15年(1940)11月建立の「史跡大平一里塚」碑、昭和12年と13年設置の説明板がある。国史跡にも指定されている。高さ2.4m、底部は縦7.3m横8.5mの菱形で塚の中央には目通3mの巨木の榎があったが、昭和28年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。

常夜灯と石仏3体(12:57)右手

 その斜め向かいには、昭和9年の大きな秋葉山常夜燈と小さな祠に石仏3体(馬頭観音、子安地蔵、風化した石像)が安置されている。ここは、昭和3年の道路改修時に撤去された対面の一里塚があった場所である。

三度ほど国道1号と合流・分岐を繰り返

 13:01村社大平八幡宮が右手にある地点で左後方からの国道1号に合流すると、13:03少し先右手の「ダイソー&アオヤマ100YEN PLAZA岡崎インター店」横で国道から右に分岐する。その先は東名高速の岡崎ICのために旧東海道は複雑な道をたどる。すぐ先のラブホテル「伍萬石」前で下り坂に入り、地下道でICの高架を計3つ潜り、やがて13:08に左手の国道1号に合流する。 13:10県道26号の立体道路下を潜ると、右手に分岐する旧道が現れる。

一澤山法光寺

 ベンチや松並木があり公園風の道を進むと、また左の国道に接し、直ぐ右への上り坂を行くと、13:16右手「一澤山法光寺」を見る。享禄年間(1528-31)に近くの一ノ澤で創建され、後に移転した。江戸時代中期に豊根山法蔵寺(真宗大谷派)の義照が中興した後に焼失。天保5年(1834)に再建するも明治初期に再び焼失し、その後また再建されている。本尊は阿弥陀如来立像で享禄5年(1529)の銘がある。

遂に始まった「岡崎の27曲」

 13:21前方に大きな榎がある緑地帯にコンクリート製冠木門が見えてくる。岡崎宿の東の入口であり江戸時代にも冠木門があったそうだ。門の下には「岡崎城下二十七曲り」の石碑や地図入り解説石版がある。
                  
岡崎城下二十七曲り
岡崎城下を通る東海道はその曲折の多さで知られ、通称27曲と呼ばれていた。享和元年当地を見聞した太田南甫も「町数54町、27曲がりありとぞ」と、改元紀行に書いている。27曲は田中吉政が城主だった時、城下に東海道を導き入れたことに始まり、のちた本多康重が伝馬町を慶長14年創設して以降、道筋がほぼ決定したと思われる。そのねらいは城内を防衛する為のものと言われるがこれにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町として繁栄することになった。27曲がりの一部は戦災後の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどる事は可能だ。この歴史の道と言うべき27曲がりを後世に伝える為に、城下27曲がりの東口だった当所に記念碑を建て、道標とする。


 岡崎城下を抜ける東海道は、防衛目的のため曲折が多く作られ、通称二十七曲りと呼ばれた。投町、両町、伝馬通から籠田町、連尺町、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋へと至る道筋で、現在では一部が戦災復興の道路整備などで失われていて、27曲がりの全てを見ることは出来ないが、その規模たるや他の城下町に比して群を抜いている。
 冠木門を左に見て、その先の正面を13:23に右折する。ここは江戸時代は緩いカーブだったので往時の曲がり角ではない由。

岡崎宿・・・本陣3、脇本陣3、旅籠112、家数1565、人口6594(天保14年(1843))

 古くから街道の宿場として栄えていたが、江戸時代に入ると征夷大将軍徳川家康の生誕地として、岡崎城には譜代大名が配されるなど別格扱いで、城下町と宿場町の両機能を持って繁栄した。矢作川と支流の乙川が合流する物資の輸送路の要として商業的にも発達し「その賑わいは駿府に次ぐべし」とも言われた。
 鍛冶物、木綿が名物で、石製品や三河花火、八丁味噌は現在も有名。二十七曲りと呼ばれる曲折した宿内は約4kmあり、大平一里塚と勝蓮寺前にあった矢作一里塚の間の81里目の一里塚が宿内にあったとされるが、特定されていない。昭和20年7月20日の大空襲で市街の大半が焼失し、宿場の遺稿はほとんど残されていないという。

若宮町二丁目交差点(13:26)左折ポイント

 記念すべき一曲り目には、角にいろいろな石造物や解説板が所狭しと並ぶ。
*石標・・・「岡崎城下二十七曲 欠町より投町 岡崎城東入口」

*解説プレート・・・「岡崎城下二十七曲」

江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数一一七軒とあり、綿内商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店が軒を並べていましたが、なかでも茶屋が多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞賛されました。

*道標・・・「これより次の両町角まで 650m」

根石寺(旧根石原観音堂)(13:30)右手

 岡崎西国第十番札所、曹洞宗。天平宝字2年(758)圓珍が創建した菅生妙音寺が焼け、本尊は若宮八幡宮に移され観音堂となったが、神仏分離で現在地に移転。本尊は行基が和銅元年(708)彫った聖観世音像6体のうちの2体で、天正元年(1573)に家康の嫡子信康が天正元年(1573)の初陣時に観音像に祈願し軍功をあげて以来開運の守り本尊として崇められるようになったという。
 入口左に「岡崎西國第十番札所」石塔、由来説明碑、昭和42年「太神宮」献燈。入口右の小祠には延命地蔵・水子地蔵・延命地蔵の3体が安置され、岡崎36地蔵尊第4番札所になっている。

法圓寺(13:33)右手

 真宗大谷派の寺院である。付近の住人中根甚之助(箱柳城主中根氏の子孫)が出家して了圓となり、宝暦年間(1751-63)に道場を建立したのが起こりで開基とされる。安政4年(1857)法圓寺となった。本尊は阿弥陀如来立像で慈覚大師の作。

両町より伝馬町角(13:39)・・・右折

「両町二丁目」の先、信号のない十字路手前右に「岡崎城下二十七曲」の石柱と、「両町より伝馬町角」の木標があり右折する。ここが2曲り目で、次の伝馬町角まで80mとある。
 少し先の右手、両町公民館前に昭和47年10月設置の「常夜燈の由緒」と題した解説板と小祠があり、祠の中には、寛政2年(1790)建立の秋葉山常夜燈(仏式)の一部がある。昭和20年7月20日未明の空襲で破損したものの、昭和47年10月22日まで原型はとどめていたが、破損が激しく危険になったため取り壊し、宝珠部分のみを祠に安置保存している。祠の中には取り壊し時の写真もある。

3つ目の曲がり角(13:41)からゴールへ(13:48)

 すぐ先の「伝馬通」に出た角を左折する。この角左にも「東海道岡崎城下二十七曲り」の木標(別面に「これより次の伝馬通り一丁目角まで660m」)がある。ここが3曲り目。ここから先の伝馬町通りが宿場の中心地で「伝馬町」となる。
 その先は、太陽緑道と交わる「伝馬通五丁目」(13:42)、「同四丁目」(13:44)、「同四丁目西」(13:46)の各交差点を経て、岡崎宿の中心部に辿り着き、「伝馬通」信号を越えた右手にある「岡崎サンホテル」が今回のゴール地点である。時に13:48で、今朝「大橋屋旅館」をスタートして5時間53分である。

帰路へ、そして明日へ

 以前、この地点(「伝馬通」交差点)を起点に熱田の宮宿へ向かった折、「岡崎サンホテル」に前泊しているので、既にお馴染みのホテル向かいの御菓子処「備前屋」に立ち寄り、ふるさと讃岐の「和三盆」や、ご当地名産「八丁味噌」製品各種を買い込む。味噌製品が重いが何とかザック上部に詰め込み、東岡崎駅へと向かう。
 後は順調に「東岡崎」発14:17のノンストップ快速特急で14:37「豊橋」着。指定券を買って「豊橋」発15:00のこだま号で17:17「東京」着と順調に家路に向かえた。

 これで、空白区間も好天気のもと無事完歩し、東海道餐歩を総仕上げすることが出来た。 これを支えてくれた家族や、同行してくれた友人達に心から謝意を表したい。また、無事に五十三次を歩き通せたことを、お大師さまに合掌する次第である。

 あとは、目下「ing」の「中原街道(あと2回)」、開始後間もない「日光街道」、「中山道」、「古代東海道(相模国府以東)」に加えて、新年新たに歩き始めるべく準備進行中の「姫街道(本坂通)」、「水戸街道」、「青梅街道」、「五日市街道」、「日光御成道」、「日光壬生道」・・・と、勝手に夢はふくらむ一方だ。