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旧東海道餐歩記-12-1 吉田宿~赤坂宿
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 2008年12月19日(金)  吉田宿~御油宿~赤坂宿 12.7km

 2004.06.20(日)、お江戸・日本橋から始めた「旧東海道餐歩」は、2008.11.17(月)の京・三条大橋到着を以て完歩したかの如き外見にはなったが、実は、吉田宿から岡崎宿までの一部区間が中抜けになっている。

 具体的には、吉田宿「札木西」信号~御油宿~赤坂宿~藤川宿~岡崎宿「伝馬通」信号迄の約29.2kmである。何とか年内にケリをつけたいとの予てよりの計画に従い、今日~明日の二日間でこの穴を埋めるべく、新幹線豊橋駅に11:59 到着。早速、街道歩き中断地点(吉田宿本陣跡近くの札木西交差点)に向かう。

8ヵ月ぶりの復帰(12:16)

 その「札木西」交差点は、ちょうど中断時点から8ヵ月ぶりだ。一人旅ながら勇躍きょうのゴール予定地である「御油宿」へのスタートを切る。時刻は正午を回っているというのに風が強く、晴れてはいても体感温度は冷たい。
 きょう初日のメインディッシュは、かの有名な「御油の松並木」と、その先「赤坂宿」の「大橋屋」宿泊である。歴史と伝統に輝くその「旅籠・大橋屋」を旅枕とした松尾芭蕉に倣い、我も享保元年(1716)創業の老舗旅館に泊まり、明日、岡崎宿へと繋ぐ今回の行程である。

 すぐ左手に往時の吉田宿名物「菜飯田楽」(菜飯+豆腐田楽)を今でも食べられるという、文政年間(1818~1830)創業の「きく宗」があるが、昼食は新幹線車中で済ませてあるのでパスし、その先の「松葉公園」信号を右折する。

吉田宿西惣門跡(12:21)右手

 「上伝馬」信号で、桜並木が風情を醸し出す県道23号(蒲郡街道)を越えると、右角に「吉田宿西惣門跡」がある。「門」だけが二分の一大に復元されたもので、当然ながらその分厳めしさには欠ける。平成15年に造られ、台座にはレリーフ付解説板がある。延宝2年(1674)常霊山本興寺[法華宗](湖西市鷲津)の山門として移設された吉田城大手門を参考に造られたものだ。江戸時代には門の左側に番所があり、12畳の「上番所」、8畳の「下番所」、4坪(13.2平方m)の「勝手」、「駒寄せ」の空地17坪(56平方m)等があったという。

豊橋湊町神明社と芭蕉句碑(12:26)右手

 西惣門跡を過ぎると「豊川」に向かってゆるやかな下り坂になる。12:21に二つ目の信号を左折すると、江戸時代には坂下町と言っていたのが明治11年(1878)にその先の田町と一緒に「湊町」となった「湊町公園」があり、「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」の芭蕉句碑がある。
 そのすぐ先に「豊橋湊町神明社」がある。白鳳年間(661-85)の創建と伝えられており、江戸時代は「田町神明社」と呼ばれていた。

船町と高札場(12:30)右手

 12:28、その先で県道496号に出て右折すると、「豊川」に架かる「豊橋」の手前右手に「船町と高札場」の解説板がある。「豊橋市」の市名の由来になった橋名だとか。
 この辺りは、曾て「四ツ家」と言い、河原同様の荒れ地だった。浅井長政の一族、浅井与次右衛門ら約80名がこの地に入り、村を開いたのが起こりで、天正18年(1590)に池田輝政が吉田城主になり、城下町を拡張整備した際に「船町」となった。この時、浅井一族を庄屋に任じるなど、吉田宿24ヵ町の中で「船町」のみが独自の立場で船役を務めたとのことである。
 また、幕命で設けられた高札場には、河川の取り締まりや橋の保護などに関する重要事項が定められていた。

 吉田宿をスタートしてから、旧東海道は豊橋市内を右に左に曲がりながら、現「豊橋市」命名の由来となった橋「豊橋(とよばし)」へ向かうが、要所には「東海道」と書かれた案内板があるものの、持参の手許地図や昭文社の地図コピーがいつも通り威力を発揮してくれる。

豊橋(12:31)

 「豊川」に架かる「豊橋」は、正式名の「豊橋」としては旧:吉田大橋の位置に明治12年(1879)幅7.3mの木橋として架けられたのが最初で、大正5年(1916)には、現在地に3連アーチ式鉄橋(長さ147.3m幅7.4m)として架け替えられた。現在の橋は、昭和58年に下流側の2車線が完成し、旧鉄橋を撤去、昭和61年3月に上流側2車線が完成し、計4車線になっている。豊橋手前の「とよばし南詰」交差点を左折して川越えするのが往時の東海道だが、現代の旅人は、橋を渡って土手道の向こう側の「とよばし北」信号を左折して、県道496号線(白鳥豊橋線)を北西へと進んで行く。
 なお、橋の右側600m先には国道1号が通る昭和34年竣工の現:「吉田大橋」が見えている。豊川を流れる水は満水で、橋の上は風が強く冷たい。

「聖霊山聖眼寺[真宗高田派]」(12:40)右手---「下地郵便局」の先---

 平安時代、慈覚大師が八名井郷吉祥山麓(現:新城市)に天台宗寺院として創建。嘉禎元年(1235)に住職行円が親鸞に逢い、真宗に改宗して現在地に移転している。本尊は阿弥陀如来。真宗高田派本山の専修寺の末寺。
 永禄7年(1564)、今川家の城代小原鎮実が守備する吉田城攻めの折、当寺を本陣にした家康は、太子堂に奉納の2本の金扇のうちの1本を住職から献上され、後に徳川家の馬印に採用している。
 昭和20年の空襲で全焼したが、昭和25年に本堂、昭和43年に庫裏を再建した。山門前右に「親鸞聖人御舊跡」石柱、左に寺内に「松葉塚」があることを示す宝暦4年(1754)建立の小さな標石と解説板がある。
               
松 葉 塚
聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。
「松葉(ご)を焚いて 手拭あふる 寒さ哉」(注:ごをたいて てぬぐいあぶる さむさかな)
古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。
 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。
 再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。
 また、山門前の標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」とあります。
                         豊橋市教育委員会

下地河川緑地(12:41)左手

 聖眼寺の斜め向かい側。江戸時代に築かれた堤防が昭和60年の新堤防完成により役目を終えたため、一部を緑地として整備したもので、石段上に四阿があり、「下地堤防改修記念」碑や近辺地図入り解説板が建っている。
 豊川の上流には吉田城下への洪水防止のため、9箇所の霞提が設けられていた。武田信玄が考案したとされる霞堤は、鎧堤とも呼ばれ、増水時には遊水地へ水が逃げるように造られた堤防のことである。昭和40年のこの先での「豊川放水路」完成に伴い、右岸5箇所(東上、二葉、三上、当古、大村)は閉鎖され、左岸4箇所(金沢、賀茂、下条、牛川)が今も残されている。

下地一里塚跡(12:45)右手(74)

 「下地交差点」手前の歩道に、平成元年二月建立の石柱「下地一里塚跡」がある。74番目の一里塚だ。側面には「江戸日本橋より七四里」とあり、奇しくも「74」が出揃った。

 交差点を渡って暫く行くと、12:47左手の高台に遊具とベンチのみがある「豊岸公園」を過ぎ、やがて古い町並みが左右に連なって来る。僅かだが松並木も残っている。12:55「←下地五井地区体育館」の道路標識を頭上で見る。

「史跡境界」石碑・「瓜郷遺跡」案内標(12:57) 右手角

 「瓜郷遺跡 復元住居 120M→」とか「史跡境界」の石碑がある。古代遺跡にはやや関心薄のきらい無しとしない身として寄り道は省略したが、帰宅後念のため調べてみたら、反省材料になってしまった。

 この旧東海道の通りから右一帯が、弥生時代中期から古墳時代前期にかけての集落遺跡にあたるのだそうである。昭和11年(1936)の貝塚発見以来、昭和22~27年の5回の発掘調査で、住居跡・土器・石器・骨角器・木製農具等が多数出土しており、西大和の「唐古・鍵遺跡(奈良県)」や「登呂遺跡(静岡県)」と共に、弥生期の3大低湿地遺跡の1つとして有名だというのである。
 これで、「史跡境界」の石柱の意味も氷解した。なお、出土品は、豊橋公園内の豊橋市美術博物館に収蔵されている由。

子だが橋碑(13:16)右手

 しばらく進み、12:59「江川」に架かる「鹿菅(しかすが)橋」や、13:00「鹿菅橋北」信号を越えた左手に「秋葉山常夜灯」がある筈だが見つからない。 13:07「豊橋魚市場」の先の登り坂で、大きな堤に両側でしっかりと護られた、川幅120~160mもある「豊川(とよがわ)放水路」に架かる「高橋」と、同じ陸橋で坂を下って渡る「善光寺川」の「万力橋」の先右手に、自然石で建てられた「子だが橋」の碑と解説板が建っている。通算289km地点だ。

 この先にある「菟足(うたり)神社」には、千年前には春の祭礼初日に、その日最初に通りかかった若い娘を生贄にする風習があり、偶々故郷の祭礼と両親に逢うべく暁の道を急ぐ我が娘が最初に橋を通りかかり、「子だがやむをえん」と生け贄にせざるを得なかったという昔々の地元の悲話がある橋だそうだ。その先の国道151号を越えた先の「才ノ木」信号から100m程先右手にある「縣社式台莬足神社」がその悲話の生贄場所で、今では12羽の雀を生贄にしているとのことである。

莬足(うたり)神社(13:21)

 雄略天皇の頃(456-79)創建され、白鳳15年(675-86)頃現在地に移された。祭神は菟上足尼命。入口の灯籠は文化元年(1804)の造立で、参道を進むと左に大正10年(1921)建立の鳥居がある。右に境内社の八幡社があり、その右には「山住」、「金刀比羅」、「津島社」の小祠などがある。境内や周囲には貝塚があり、縄文から古墳時代の土器も出土しているという。

幾つかの秋葉山常夜灯

 少し登り、13:25にJR飯田線踏切を越えて暫く行くと、右、左に秋葉山常夜灯が次々と現れる。その右の常夜灯の先の「宿西(しゅくにし)」交差点を左に200m程行けば「小坂井町郷土資料館」だが、見学には事前申込が必要らしいのでパスする。

明光寺ほか(13:33)左手

 山号は「諏訪山」、浄土宗の寺院で、門前傍に秋葉山常夜灯(左)、牛頭天王(中央)、秋葉山常夜灯(右)と三基並んでいるが、いずれも「全安中村」と刻してある。現在の「小坂井町」のことらしい。本堂左には四国88ヶ所霊場の弘法大師と観音の石仏が1番から88番まで並ぶ。

伊奈村立場茶屋跡(1:47)左手

 トイレを借りた「スーパーアツミ」の先左手に「伊奈村立場茶屋 加藤家跡」の木柱や金属柵内に二基の自然石碑と解説板がある。以下はその解説板全文である。
               
伊奈村立場茶屋 加藤家跡 (俗称 茶屋本陣跡)
一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたるため、立場茶屋が設けられ、茶屋の地名ができた。
二 加藤家と良香散
 茶屋のうち、格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
 東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家でご休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野真一氏宅に保存されている。加藤家由である。
四 俳人烏巣
 鳥巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六鳥巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」
                              小坂井町教育委員会


迦具土(かぐつち)神社(13:49)

 その先右手斜め前に、「迦具土神社」という珍しい名の神社がある。祭礼時の手筒花火で有名な神社の由。慶応元年(1865)の大火災の火元だった現在地に遠江国周智郡の秋葉神社から鎮火の神である「火之迦具土大神」を勧請して祀ったものである。鳥居を入って左の秋葉山常夜燈は文化6年(1809)の建立。境内左に石仏を安置した新しい祠、昭和15年(1940)の大楠公之碑などがある。

伊奈一里塚跡碑(13:53)右手

 その先十字路を渡った先右手で75番目の「伊奈一里塚跡」碑がある。慶応年間(1865-68)創業の「山本太鼓店」前にある平成3年建立の石柱である。伊奈村は永享年間(1429-41)本多定忠が平定以降、家康の関東移封まで伊奈本多氏の支配下にあった。居城の伊奈城は徳川家の葵紋発祥地として知られ、享禄2年(1529)5代城主本多正忠の加勢で吉田城攻めに勝利した松平清康(家康の祖父)が伊奈城での戦勝祝の際、本多氏の「立葵の紋」を松平家の家紋とすることを決め、家康の時代になって三つ葉葵紋になったという。
 この辺りの東海道は歩道がなく連子格子の家が所々にある。

速須佐之男神社(13:55)右手

 古くは「土公神」と称し、この地が開かれた当初からあり、明和年間(1764-71)に尾張の津島神社を勧請し、牛頭天王社と改めた。明治初期に速須佐之男社となり、昭和4年(1929)の村社昇格とともに速須佐之男神社となった。祭神は速須佐之男命。
 鳥居前に常夜灯と並んで「村社 速須佐之男神社」の石柱があり、その側面に「昇格記念」と刻してあるのが非常に印象的である。

 その先、左に長屋門がある民家を過ぎると、14:01「佐奈橋」で水の少ない「佐奈川」を渡る。歩道が無く、左に平成19年竣工の歩行者用佐奈橋側道橋があるので、そこを渡っていると、川堤に一匹の山羊が繫がれていて、こちらを見てタイミング良く「め~えっ」と挨拶してくれた。

 150mぐらい進むと、左手に塚のようなものがあり、大きな木が植わっていたが、まるで往時の一里塚のようだ。その先で「豊川市域」に入る。豊川と言えば「豊川稲荷」だが、遙か昔の名古屋勤務時代(昭和56年頃だったか)に参拝済みであり、距離的にも3.5km程東北方向に離れているので、立ち寄る予定はない。確か、日本三大稲荷の一つで、格は「大社」だった気がする。

冷泉為村郷の歌碑・若宮白鳥神社遥拝所(14:05)右手

 右手に、遠目にも判る矢印付き案内標識がフェンスに取り付けられており、「冷泉為村郷の歌碑 この奥にあります→」とある。フェンス囲いの奥に入ると、高い石碑、歌碑(石版)、解説板(木板墨書)がある。
 平成19年3月建立の歌碑は「散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ 為村」で後ろには説明立札もある。藤原定家を祖にもつ公家・歌人である為村が、9代家重の将軍就任に際し、桜町天皇からの祝賀の勅使の一員として、延享3年(1746)に生涯一度だけの江戸往復時にこの付近で詠んだものである。
高い石碑には、「若宮白鳥神社遙拝所」と刻してある。
               
冷泉為村郷の歌碑について
 冷泉家は六百年代に始まる藤原家の直流で鎌倉時代に始まります。天皇家や将軍家の和歌の指導を八百年間にわたって続けてきた貴族で平安時代の王朝文化を今に伝え、国文学史上でもほかには比べることの出来ない国宝や文化財も多く持つ貴重な存在です。
 為村は、冷泉家の第十五代当主で、冷泉家の中興の祖と言われる重要な人物で、江戸時代の中期(約二百五十年前)に活躍した和歌の名人と言われている人です。
 京都の御所のすぐ北に今もある屋敷に住んだ為村は一度だけ江戸に行ったことがあります。それは延享三年(1746)のことです。桜町天皇が徳川第九代将軍家重の将軍就任のお祝いに勅使(天皇のお使い)として送った貴族たちの一員として、旧暦四月三日の午前十時頃、ここ桜町を通りました。その頃、今の桜町(小田淵も含む)は桜の名所でした。和歌の意味は「京都を出発する時は桜の名所の桜町にはたくさんの桜が咲いているので、散らないで残っている花もあるだろうと、楽しみにして来てみたけれど、桜の花は散ってしまっていた。青葉の木かげで駕籠からおりて、お休みをしていることですよ」というものです。
 この和歌は「東(あずま)の紀行」という歌集に書かれているもので、愛知県では為村はこの一首しか詠んでいないこともわかってきました。二百五十年もの昔に詠まれた、たった一首の和歌から、当時の様子がはっきりと浮かんでくるのはとてもめずらしいことで、この歌碑はふるさと桜町校区の宝となりましょう。
                         平成十九年三月十八日   (文責 夏目勝弘)


無味乾燥な道・失われた道

 14:08稲荷大明神(左)入口、14:10名鉄本線小田渕駅(左)入口、14:13 五六橋(白川)、14:17西古瀬橋(西古瀬川)、14:23「山桃」信号を通過し、広い県道31号(上がバイパス)に行き止まる。その先で右後方から左前方へ横切っていく国道1号との交差点「京次西」まで迂回すべき所だが、少々柵の隙間から14:27県道の向こう側へ渡り、街道延長線上に戻ると、間もなくその先の「白鳥五丁目西」信号で右後方からの国道1号と交錯する。信号を渡り、9割方消滅した旧道の右手を迂回して工事中の旧道延長線で復帰し、その先で国道から分岐してきた別の道と合流して、14:38名鉄豊川線の踏切を越える。
 ここまで、白川の五六橋を越えてから25分間の左右風景は、生コン・ガスほか土木建設資材関係やメーカー等ばかり、およそ無味乾燥にして、旧街道の雰囲気とは無縁のつまらない区間だった。恐らく、往時は一面田畑林野地帯だったのだろう。

 踏切を越えると直ぐ線路沿いの農道に左折し、田畑の中で左折して名鉄線路際まで行き、手前を右折して、14:45に行き止まりを左折して踏切を渡ると国道に出る。渡って右折し、14:49すぐ先の国府交番を左前方への旧道(県道374)に入っていくが、この道順・曲がり方は、名鉄本線・同豊川線・国道1号によって旧東海道が失われた部分と推定した。

半僧坊大権現(14:52)右手

 旧道に入って程なく、コンクリート製角柱(下太上細型)の上の台座の上に小祠が乗り、角柱に「半僧坊大権現」と刻まれた塔が現れる。「半僧坊大権現」はここから東方30km程にある臨済宗方広寺派の大本山・方広寺(浜松市北区)の鎮守の神で、中国から帰国する無文元選禅師(円明大師)が海上で嵐に遭った際、出現し助けたと伝えられている。大男で半ば僧に似た姿をしていたので、後に方広寺を開山した禅師が半僧坊と名付けたらしい。明治14年(1881)の山林大火で寺の多くの建物が焼失したのに、半僧坊殿だけは焼け残ったため、厄除・火防の神として全国に信仰が広まった由。

大きな秋葉山常夜灯(14:54)右手

 寛政12年(1800)の造立である。昔、越後の蔵王山から白狐に乗って遠江の秋葉山に飛来したという秋葉三尺坊大権現は、火防の神として上は朝廷・大名から下は庶民に至るまで幅広い信仰を集めたが、これまでも静岡県・愛知県あたりの街道を歩いていて秋葉山常夜灯を見なかった日は無かったろう。往時、火災というものが人々にどれほど大きな厄災だったかが窺われる。

薬師如来堂(14:56)右手

 「薬師如来」と白地に赤字を染め抜いた幟が入口左右に計30基ほど立ち、堂には「瑠璃殿」の扁額、堂柱には「薬師瑠璃光如来」の札が懸かった堂宇がある。堂の向かって右上に「縁起」が墨書掲示されている。
               
三河国府中二子寺 薬師如来略縁記
そもそも薬師瑠璃光如来の其の由来をたづね奉るに往昔尾州熱田の何某主君のため亡命す二女有り當国に来りこの国府の郷に居住したるがほどなく母世を去りしかば二女悲嘆のあまり双親菩提のため佛像を建立せんと欲す時に行基菩薩熊野山へ参詣ましますとて彼の二女の家に止宿給ひおれば夜もすがら件を語りけるに菩薩も不憫(筆者注:原文は「不便」)とおぼし召さばや東雲とおぼしき頃西の方を眺むれば岩砂理山の西露喰山の東切通しと云う所に古木の杉の末葉に紫の光をなし菩薩も不思議とおぼして彼の木を取りよせ佛像をきざみ奉りて二女給いければ有難く朝暮礼拝供養し奉りて當山を建立し安置し奉る所の肖像なり よって寺号を双子寺と云い傳う事疑なし又切通しを薬師山と古今云い傳うなり峯に登り西の方を眺むれば漫々たる青海原伊勢のあまてらします御神の御鎮座まで拝せられその殊勝なる事言語に述べがたく峯のあらしと法の声本覚眞如の月輪は生死長病の闇をてらし給う事これまことに菩薩の衆生化益なりと云々
                              昭和五十六年十一月


御油一里塚跡碑

 15:01「新栄町二丁目」信号を過ぎ、次の交差点を渡った右手に、その名の如く大きな神社「大社神社」を見る。その先で、逆方向から歩いてくる同年配の2人ずれウォーカーと挨拶してすれ違ったが、そのせいかどうか、左手にあると言われる76番目の「御油一里塚跡」碑を見落としてしまう。もうそろそろ「赤坂宿」に入った感じがする。

姫街道本坂道と合流(15:12)

 その少し先の「行力」信号手前左手で小さな「御津賀神社」を見る。渡った右角に下記三基が建っている。
  右端 常夜灯 左ほうらいじ道」「右ごゆ」           安永3年(1774)建立
  中央 石塔道標 秋葉山三尺坊大権現道         明治16年建立
  左端 石塔道標 國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ凡壱里卅町   明治13年建立

 また、その横には、木製立札「三州御油宿 これより姫街道 遠州見付宿まで」がある。
 この情報は、小生にとっては欣喜雀躍する嬉しい情報である。これは、何本かある「姫街道」の主要道の別名「本坂道」のことであり、近い将来、ここも歩こうと村谷氏ともほぼ相談済みの街道だからである。「姫街道(本坂道)」というのは、距離約60km程の東海道脇往還である。以前、磐田駅をゴールとした東海道歩き(2008.01.20)の際、見付宿で右(西)への姫街道への分岐点を確認した記憶が鮮明にあり、その後いろいろ研究したが、浜名湖の北側を迂回した姫街道がここ「行力」で東海道に合流している訳で、見送ったお姫様に再会したような非常に懐かしい心地がする。名鉄名古屋本線の「御油」駅もしくは「国府」駅が連絡拠点になりそうだ。

御油橋(15:17)

 「行力」を過ぎると左右に古風な建物が現れ始め、旧街道としての雰囲気がぐ~んと盛り上がってくる。「音羽川」に架かる長い風情ある石橋が「御油橋」で、いよいよ御油宿に入ったことがはっきり判る。河畔は桜の木が植えられ、とても素晴らしい。左手には小さな「若宮八幡宮」がある。

高札場跡(15:21)・ベルツ博士夫人実家跡(15:22)

 街道両側の古民家が建ち並ぶ中を気分良く歩いていく。やがて旧家の続く風情たっぷりの旧道は、左先が「高札場跡」の立つ小公園の四叉路で右折するが、右手前角に、「ベルツ博士」の妻「荒井花子」さんの実家跡の解説板が立っている。
               
ベルツ花夫人ゆかりの地
 ベルツ花夫人は、東京の神田で一八六四年に荒井熊吉とそでとの間に生まれ、江戸・明治・昭和の時代を生きた、御油とはゆかりの深い女性です。
 明治政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。
 一九〇五年に任期を終えた博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため一九二二年に日本に帰国し、一九三六年七四歳で亡くなりました。父親の熊吉の生家が御油宿で戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所です。


 ベルツ博士(エルヴィン・フォン・ベルツ<Erwin von Bälz, 1849年1月13日 - 1913年8月31日>)はドイツ人医師で、ライプチヒ大学講師の職をなげうって明治9年に来日、現・東大医学部の前身・東京医学校で生理学・病理学・内科学・産婦人科学等の教鞭をとり、多くの日本人医学者を育てると共に、公衆衛生面でも日本の防疫事業の基礎固めに尽力。近代日本の黎明期、27年に亘って西洋医学を導入した指導者の一人である。また草津・箱根を湯泉治療地として開発した人でもあり、1905年には旭日大綬章を受賞している。

問屋場跡・人馬継立所跡・本陣跡

 その角を右折すると、広重の画「御油 旅人留女」が右手にあり、客引きしている遊女達の姿が描かれている。浮世絵の下に書いてある解説によれば、「東海道宿村大概帳」記で、御油宿は町並み9町32間に戸数316、本陣4、脇本陣0、旅籠62、人口1298[天保14年(1843)]というから、旅籠数は多い。
 その先には、15:23「問屋場跡」「人馬継立所跡」があり、御油宿の中心部接近を感じさせる。

御油宿

 宿名の由来は、持統天皇が近くに行幸された折に油を献上したことからとか。江戸時代の文献には「五位」、「五井」といった記述も見られるそうだ。
 次の赤坂宿とは僅かに16町(1.7km)しか離れておらず、後述の「大橋屋旅館」にはそれを評した句が掛軸に懸けられていた。
 また、慶長6年(1601)の宿場を定めた朱印状には、御油と赤坂が併記されていて、当初は2宿で1宿の扱いで後に独立し、ために明治期に入っての鉄道(JR)敷設時には、御油・赤坂・藤川・岡崎・知立の旧5宿の反対により、海岸沿いの蒲郡を通る経路になり、御油には戦火の災いもなく昔の町並が比較的多く残っている。この結果、これらの町を後に近代的に結んだのは旧東海道沿いの「国道1号」と「名古屋鉄道名古屋本線」である。

■味噌・醤油「いがや」(15:25)右手

 交通量の多い県道374号に出て左折し、間もなく右手に「資料展示」の古風にしてこじんまりした「いがや」が目に入る。外から覗いただけだが、なにやら陳列してあり、蝋人形のようなものも見えたが、老婆が一人日向ぼっこをしながら書類整理らしきことをしていた。

鈴木家本陣跡(15:26)左手

 左手に「御油宿本陣跡」の碑。横の解説板には
「・・・御油宿には二軒の本陣があった・・・」(豊川市教育委員会)とあり、先ほどの浮世絵の下の表現とは異なっている。時期により変動することもあるので、その故か? 御油宿の中心地だった所だが、今は碑が残るのみである。
 本陣跡を過ぎると、五基の遊女の墓が並ぶという「東林寺」の入口(左手15:28)の先の「本町集会所」(右手)辺りから、左右に連子格子に竹矢来の古い家並が続いていく。

十王堂(15:32)左手

 宿場の町並を過ぎ、御油の松並木が始まる境に十王堂がある。堂内には冥府で死者を裁く十王が安置されている。十王堂は西方浄土との関係で西の境に設置されることが多く、ここが御油宿の西の境になる。堂の右前には石仏1基、左前には宝永8年(1711)浮彫石像付き西国巡礼碑、天明2年(1780)西国33観音巡礼文字碑、天明9年馬頭観音文字碑、大正15年(1926)十王堂再建記念碑など石仏石塔8基がある。

御油の松並木道(15:33)

 いよいよ本日のメインディッシュ「御油の松並木」である。右手に石標・解説板・解説プレートなどがある。
 昭和19年に国の天然記念物の指定を受け、「日本の名松百選」にも選ばれている。赤坂宿の東端まで約600mに、計何本残っているのだろうか。よく見ると、右手の木には「9」番から順に番号札が紐で掛けられ、一番先で「185」になり、左手は一番先が「187」で、手前が「345」だった。中には切り株のみだったり、それも無かったりするが、何年か前に残存している木に通し番号を付けたのだろうから、番号を付けた当時から減っての正確な現在残存本数は不明だが300本程度が現存しているのだろうか?

 この松並木は、天正3年(1575)、織田信長の家臣である篠岡八右衛門が植樹し、慶長9年(1604)に徳川家康が大久保長安に命じて整備させたものだそうで、当初は600本以上あったという。枯れたり倒れた際は役人が検分し、御林帳(松並木台帳)に記載しており、宝暦2年(1752)には498本、文久3年(1863)には276本に減少。終戦直後には200本、昭和30年には167本、昭和34年伊勢湾台風を経て昭和39年には151本に減った。昭和50年に219本の幼木が植えられた。平成11年時点で600mに渡って約340本で、うち古木は70本というのが実態だそうだ。

 確実に虫害や排ガスにやられているようで残念だが、約700mに340本あるという「舞坂の松並木」にも充分比肩する、東海道屈指の松並木であることは間違いない。現在は車の往来による排ガスで枯れた松も目立つが、多くの旅人達を慰めてきた松並木だけに、遊歩道にするとか、何か保護の方法は無かったものかと悔やまれる。車は歩く旅人にのみならず、松並木にとっても有害な敵になっている。これ以上減らぬよう、地元の踏ん張りを期待したい。
 松並木中程まで歩くと、左手に「弥次郎兵衛、喜多八も歩いた御油の松並木」と題する昭和59年3月掲示の木板墨書書き解説板もあった。その伊勢参り姿を想像しつつ、美しい松並木を抜け、赤坂宿へと向かう。

見附跡(15:45)右手
               
見 附 跡
 見附(みつけ)とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところである。
 赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、西は八幡社入り口付近の片側にあった。
 『赤坂旧事記』によれば、寛政八年(1796)代官辻甚太郎のとき、東側の見附を関川神社の前に移築したとされている。明治七年(1874)に取り壊された。
                              豊川市教育委員会

 (注)「赤坂旧事記」は平成15年市指定文化財の古文書(個人蔵)

赤坂宿---本陣3、脇本陣1、旅籠62、家数349、人口1304 [天保14年(1843)]

 御油宿との問屋場間の距離は16町(1.7km)で、東海道では宿駅間最短、御油宿出口から赤坂宿入口の間は僅かに900m。御油と同様歓楽街で、旅籠では三味線の音の絶えることがなかったとか。
 宝永6年(1709)の大火で360戸のうち280戸が焼失、幕府の援助で復興され、享保18年(1733)には家数400軒、うち旅籠83軒だったという。明治27年(1894)町制施行で宝飯(ほい)郡赤坂町、昭和30年旧長沢村、旧萩村と合併して音羽町になり、平成20年豊川市に合併編入されて豊川市赤坂町となった。なお、赤坂の地名は赤土の坂があったからとも、花街から来ているとも言われているようだ。

関川神社(15:49)左手---芭蕉句碑・見付跡

 松並木を抜け、「天王川」を「一ノ橋」で越えると、豊川市御油町から豊川市赤坂町に入る。旧家がところどころ残る町並みの先に、境内に巨木の楠が聳え、芭蕉句碑の建つ関川神社がある。
 長保3年(1001)三河国司大江定基の命により、赤坂長者の宮道弥太次郎長富が関川の楠の元に市杵島姫命を祀ったのが起こりで、弁財天として崇敬された。

 狭い境内の右には芭蕉句碑がある。
『夏の月 御油より出でて 赤坂や』という、芭蕉36歳の帰郷時に短い御油・赤坂間を詠んだ句であり、この後泊まった「大橋屋旅館」の部屋にも表装掛軸になって懸かっていた。宝暦元年(1751)建立の最初の句碑が破損後、芭蕉200年祭記念に明治26年(1893)再建されたものである。

 社殿左に昭和56年市指定天然記念物の楠(目通幹周7.29m高さ25.7m推定樹齢800年)があり、解説板がある。それによれば、古老の説によると、木の根元からえぐれている部分は慶長14年(1609)赤坂十王堂付近(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約三十戸が焼失しており、その時に火の粉が飛び焼けたものと伝わる。

問屋場跡(15:53)右手

 左手の「長福寺」入口の少し先、民家に吊り下げられている小さな解説板を発見。問屋場は間口6間(10.9m)・奥行30間(56.4m)・瓦葺の建物で人足30人・馬10頭を用意していた。問屋役は本陣の彦十郎が兼務していたが、文化年間(1804-17)より弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の2人が務めていたという。

彦十郎本陣跡(15:54)左手

 斜め向かいに新しい門と解説板がある。門の表札には平松とあるが塀に囲まれた内側は更地で建物はない。赤坂宿で最初から最後まで本陣をつとめた彦十郎本陣跡で、解説板には「松平彦十郎家」とある。宝永8年(1711)の町並図によると、赤坂宿の本陣は四軒あった。そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。同年の間取り図によると、間口17間半(32m)、奥行28間(51m)、座敷通り422畳で門・玄関付きだった。
 赤坂宿の本陣は初め彦十郎本陣1軒だったが、宝永8年の間取図には東の向かいに弥兵衛本陣、又左衛門本陣、西に1軒おいて庄左衛門本陣があり4本陣があった。天保14年(1843)には彦十郎本陣、弥一左衛門本陣、伊藤本陣の3本陣、慶応4年(1868)町並図では彦十郎本陣、長崎屋、桜屋の3本陣と輪違屋の1脇本陣とある。

赤坂宿公園(15:55)右手---「赤坂紅里」交差点の右手前と信号先の右向こう

 「赤坂紅里」という風流な名前の信号付き交差点がある。旧地名「宝飯郡音羽町大字赤坂字紅里」、新地名「豊川市赤坂町紅里」の略である。右手前と信号を渡った先の両角にある小広場が休憩ポイントになっている。空地になった角地の民家2軒分合わせて200㎡を旧:音羽町が買い入れ、平成19年完成したものである。交差点手前には復元された高札場、木製常夜燈、宝永8年(1711)赤坂宿町並図の高札風掲示板があり、渡った所には瓦屋根の四阿、「藤川宿←赤坂宿→御油宿」と刻した石の台座に乗った小さな駕籠モニュメント、赤坂地区のまつり「大名行列」「雨乞い祭り」を地図・カラー写真入りで紹介した大きな掲示板、座石がある。

 ここを右に行けば、音羽川・国道1号を挟んで約6分で名鉄名古屋本線赤坂駅の由。

尾崎屋(15:57)右手

 赤坂宿公園のすぐ隣にある連子格子の古い建物。明治元年(1868)の創業で、現在は民芸品を製造・直売するおみやげ屋さんである。軒先には行灯型の看板があり、正面に「曲輪 民芸品 製造卸問屋」、側面には「東海道五十三次 赤坂宿」とある。
 曲輪(まげわっぱ)とは檜・杉などの薄い板を円形に曲げ、底を取り付けた食物容器や盆などのことで、桧を使った曲輪は40年以上も持つとも言われている。

旅籠「大橋屋」(15:58着)左手

 今宵の宿『旅籠「大橋屋」』は突然現れた。実はもう少し先だと先入観で思っていたのだが、左手に古い家があるのでカメラを向けてよく見たら「大橋屋旅館」だったという訳である。

 「御油の松並木」に続き、本日二つ目のメインディッシュである「大橋屋」は、江戸時代の風情を今に伝える貴重な建物で、かの松尾芭蕉や明治天皇も泊まられた由緒ある旅籠である。引き戸を開け、暖簾をくぐると、そこは江戸時代そのままの世界。土間、高床。黒光りする時代物の階段・・・。瞳孔の調節が出来るまではよく見えない別世界で、ここを予約してきて本当によかったと思う。これまで見てきた古い旅籠は、見学はできても、宿泊や食事は当然不可能だったが、大橋屋は今も旅館として営業しているので、この街道餐歩旅のこよなきクライマックスシーンと言える。

 慶安2年(1649年)創業で、現建物は正徳6年(1716年)の築、旧屋号は「伊右衛門鯉屋」。明治4年まで女郎置屋を営んでいたとも言われる大旅籠である。
 明治期に酒を販売するようになって「大橋屋」の屋号に変わったが、東海道で唯一、江戸時代の建物を残し今も続く旅館である。

 昭和52年市指定文化財の建物は、間口9間(16m)・奥行23間(42m)で、奥の方は新改築されているが、街道側の外観と入口の見世間、黒光りした階段、通りに面し襖で仕切られた2階の3部屋は、正徳6年(1716)頃に建てられた時の様子を留めており、街道から見て左の部屋には芭蕉も泊まったという。

 1階奥の中庭には、高さ168cm、三河最古と言われ、京都大徳寺高桐院のものと同形式の南北朝時代の花崗岩製六角柱の石灯籠がある。京都大手前女子大学・古美術主幹・川勝政太郎博士の考証では奈良地方の製作ではないかということである。明治11年(1878)10月23日には明治天皇が東海道・北陸道御巡幸の砌、御駐輦のあった地でもある。

 現代の旅人は、1泊2食で10,500円。18:00からの夕食メニューは自然薯芋のたっぷりのとろろと八丁味噌を実にうまく活かした、特徴のある健康メニューが特色のようで、風呂は檜の円形風呂・・・と旅館の歴史・外観にピッタリである。お孫さんをあやしながら迎えてくれたご主人にお聞きすると、何と当代は19代目にあたるそうで、これまたびっくりである。

 1階の食事を摂った部屋は、大きな襖一枚に一文字という大きな墨痕鮮やかな墨字で「宿の坂赤」と右起左行で書いてあった。また、「秋の暮れ いまも旅籠の 大橋屋」の墨書き額もあった。
 泊まった部屋には前述の通り、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」の芭蕉の句が掛軸で垂らされているほか、四国の遍路宿のように宿泊者の感想文などを自由に書けるノートが置いてあり、暇つぶしに読ませていただいたが、いろいろな旅行案内やテレビ番組(和風総本家)等でも取り上げられたのをきっかけに、女性グループ・男性グループ・夫婦ずれ・一人連れ・外人など、多くの旅人が江戸時代の一夜の夢見に旅枕し、また多くの人たちが東から西から東海道を歩いていることに、あらためて認識を新たにもし、感銘も受けた次第である。