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2008年4月19日(土)
舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿〜吉田宿 24.2km

 熟睡できた朝は気持ちが良い。期待通り静かに寝た我ら二人は、相手の睡眠を些かも妨げることなく、自分としてはきのうの疲労はほとんど残っていない。七時からの朝食を済ませた小生は、夕べのうちに新聞紙を濡れた靴に丸め入れての乾燥作業を忘れていたので、浴室からドライヤーを借り出して玄関脇で乾燥作業だ。四国歩き遍路後間もない村谷氏は夕べのうちから、バッチリと新聞紙を丸め入れておいたので、靴は完璧な乾燥状態のようだ。

 7:31、女将に見送られて宿を出発し、7:35に昨日の街道へと戻る。舞坂宿には風情ある雰囲気の家も多く、宿としての雰囲気を多分に残している。左手に「仲町常夜灯」、右手に「宮崎伝左衛門本陣跡」がある。その前には天保9年(1838)建築の「堀江清兵衛脇本陣茗荷屋の書院」がある。東海道で唯一残された脇本陣の遺構だそうだ。二階は連子格子にうだつが上がっている。残念ながら開館時刻前なので入館できないが無料らしい。表から風情ある屋内の様子などをカメラに収める。その先左手には「西町常夜灯」があるが、宿場の街道左右を見学しながら行くと、自転車に乗ったおばちゃまがこの先の浜名湖のよく見えるルートを教えてくれる。

 道は、やがて浜名湖に突き当たる。右に折れて少し行くと、7:45、「北雁木(きたがんげ)跡」がある。新居までの「今切の渡し」で使用した「渡船場跡」で、石垣が階段状に積まれていた。「雁木(がんげ)」というのは、階段状になっている船着き場のことで、本来は「がんぎ」と言うが、ここでは「がんげ」と発音したようだ。東西15間、南北20間の石段が街道から岸まで坂になって築かれていたとのことである。舞坂には北から身分の高い武家・公家用の北雁木、旅人に最も利用された本雁木、荷物の積み降ろしを主とする渡荷場(とうかば)と三箇所造られた由。

 7:45,その先で浜名湖にかかる「弁天橋」を渡り始める。5分ほどで「弁天島」に着き、先ず「弁天神社」に参拝して、今日の旅の安全を祈願する。弁天神社は、1709年、今切渡海安全のために建てられたものである。国道1号の右手に渡って弁天島駅前を通過。浜名湖は、もとは淡水湖で、室町時代に、大地震と津波で砂浜が流されるまで、陸続きだったとのことである。当時は海に通じる川があり、その上に架かる橋を渡れば舞阪から新居まで歩けて行けたのに、地震以降は、陸づたいに行くことができなくなり、舞阪から新居までの一里半(約6km)を約二時間の舟便に頼った。これを「今切(いまぎり)の渡し」と言っていたのである。

 さて、渡るべき橋はあと二つ、短い「中浜名橋」と長い「西浜名橋」とである。今日は土曜日で、途中、釣りを楽しんでいる中年男性が何人かいる。橋下を覗いてみると、上から見えるのはクラゲばかりだった。8:36、新居町駅でトイレを借り、栄養ドリンクを飲んで8:44まで小休止する。それではと立ち上がって歩き出し、ステッキ代わりに持ち歩いている傘を忘れたことに気づき、駅まで引き返す。ここまでもそうだが、退屈な国道歩きとは言っても、車道とは隔絶された感のある歩道なので、比較的のんびり歩きができる。8:49、「山頭火の句碑」を見る。例によって、韻のないというか、形にとらわれないフリーな句で、四国遍路途上でもよく見かけたものだ。

   
浜名街道 水まんなかの 道がまっすぐ   山頭火 

 国道1号と別れ、国道301号の「浜名橋」を渡ると、歩道脇に石碑に組み込まれた「廣重の絵」が六つばかり並んでいる。いずれも「荒井宿」の絵だ。新居宿は荒井宿とか荒堰宿とも書いたようである。

 8:55、「新居側渡船場跡」と復元された「新居関所(別名:今切の関所)跡」に到着。「新居関所」は東海道随一の厳しい関所だったことで有名だが、元々は、場所はここではなかった。江戸時代の初期、新居関所や渡船場は現在地の東、遠州灘に近い場所にあった。つまり、我々の通ってきた国道301号の新居弁天入口信号を左折・南進して東門橋を渡った先辺りにあり、ここを「大元屋敷跡」と称している。

 しかし、元禄12年(1699)に大風雨で被害を受け、その西方で現・新居高校付近に移転。この移転した関所跡を「中屋敷跡」と呼び、案内板のみが残されているらしい。だが、ここも宝永4年(1707)の大地震で被災し、関所や新居側の渡船場・宿場は現在の新居関所を中心とする地区に移転した。渡船場は、大正時代の埋め立てで今はその面影もなく、僅かに碑として往時の場所を示しているに過ぎない。我々は、これらの元の場所には立ち寄らず、最終場所としての新居関所跡やその近辺に立ち寄った訳だ。隣接して「関所資料館」もあるが立ち寄らず、外から関所跡をカメラで撮りに撮った。

 9:03、街道に戻り、少し歩くと、関所の左側に、江戸時代、享保4年から元文4年までの二十一年間無人島の鳥島で生き、なんとか生還できた新居出身の船乗りの「石碑」があったが、言わば日本版ロビンソン・クルーソーの存在を知って驚くのみである。

 「新居宿」は、脇本陣がなく、本陣が三軒あったが、そのいずれもその跡が明確に判っている。関所跡を過ぎ、街道を少し歩くと、泉町交差点(T字路)に突き当たり、 正面が「飯田武兵衛本陣跡」である。ここは、小浜、桑名、岸和田など、70を数える大名たちが利用し、明治天皇も明治元年の巡幸、還巡幸など、合わせて四回利用されているそうだ。建物は当時のものではなく、家の前に、それを示す石碑と案内板があるだけである。

 東海道は、ここで左折するが、「飯田武兵衛本陣」の左隣は、「伊勢屋」という旅籠で、その隣に、「疋田八郎兵衛本陣」がある。疋田八郎兵衛は、庄屋や年寄役を務め、本陣には、吉田藩の他、御三家など、120の大名が利用したという。門構えと玄関のある建坪193坪の屋敷だったが、この場所は空き地になり、それを示す石碑が建っていた。なお、もう一軒の「疋田弥五郎本陣」は、道が突き当たる手前右側にある疋田医院のところにあった。

 その先には、「寄馬跡」と書かれた石碑があった。各宿場には、公用の旅人や荷駄のための人馬提供義務があり、東海道では、人足百人、馬百疋と決められ、その数の人馬が用意されていた。また、不足する場合は、「助郷制度」と言って、近在の村々から集められたが、集められた人馬のたまり場を「寄馬」と称していた。「寄せ場」とは書かないようだ。 

 9:13、左手に「池田社」。小牧・長久手の戦で戦死した「池田信輝」の首を、徳川方の武将、長田伝八郎が、首実検の後、ここに首塚を築いたもので、享保二十年(1735)に池田社になった。右側の「若宮八幡宮」の先に、西町公民館があり、その向かいの民家の一角に69番目となる「新居一里塚跡」の案内板があり、左(ひがし)に榎(えのき)、右(西)に松の木が植えられていた、とある。

 その先の二又で右にカーブし、その先で更に左にカーブする手前に、「棒鼻跡」の石標がある。ここは、新居宿の西の入口で、一度に多くの人が通行できないように、土塁が突き出て、枡形をなしていたところである。「棒鼻」とは駕籠の棒先の意味。大名行列が宿場に入るとき、先頭(棒先)を整えたので、そう呼ぶようになった、といわれる。今は土塁は崩されて跡形もなく、また、道も増やされているので、枡形といわれてもピンとこない。ここで、新居宿は終わり、まっすぐ行くとその先が橋本交差点で、国道1号線にぶつかる。ここにあった東海道夢舞台という道標には、「橋本ー新居宿加宿」とある。当時は新居宿に加えた宿場という間の宿的位置づけだったのだろうか。 

 9:23、国道1号線を左に行くと、すぐ左側の尾崎家の敷地の一角に、「風炉の井」という古い井戸がある。説明板によれば、建久元年(1190)、「源頼朝」が上洛に際して橋本宿に宿泊したとき、この井戸の水を使って茶の湯を味わったのだそうな。

 その先右手の交差点は三叉路になっていて、ここでまた国道1号と分かれて右の旧道に入る。その手前に「教恩寺」があるが、正安弐年(1300)創建の寺院だそうで、江戸時代後期に建造された楼門が印象的だ。

 旧道にはいると左側は田畑で家は一軒もなく、やがて本格的な松並木が現れる。村谷氏は左の歩道、滝澤・清水両氏は右の歩道、小生は車道左側(左歩道の右の松並木の右=車道左端)の日陰を歩く。とにかく暑いのだ。右側の松並木はおそらく道路拡幅で撤去されたのだろうが、左の松並木もマツクイ虫で全滅したために、昭和六十二年に植え直したものの由である。

 右側に別れていく道端に「検校ヶ谷」と書かれた石碑があった。 江戸時代、盲目の座頭が、最高位の検校の地位を得るため、東国から京に上る途中、このあたりで道に迷い、倒れてしまい、その後、検校ヶ谷と呼ばれるようになった、と説明にあった。 

 また、左側の松並木の下に、「藤原為家」と「阿仏尼」の歌碑がある。

  
風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣り舟 (藤原為家) 
  わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで (阿仏尼)


 藤原為家は藤原定家の二男で、母は内大臣藤原実宗女。子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)ほかがいる。宇都宮頼綱の娘である阿仏尼を妻としたが、彼の没後出家したそうだ。

 9:47、松並木が終わると大倉戸集落に入る。その手前の木の繁みの下に、「立場跡」の説明板があり、暫し小休止。この「立場茶屋」は代々加藤家が務めていた、とある。 新居・白須賀の両宿の中間だから茶屋が置かれていたのだろう。その向かいの家の横の僅かな空きスペースに一台の小型車が駐車しているが、家と電柱の間で各2〜3cmずつしか隙間がないという超ウルトラテクニックの車庫入れに一同唖然、いや大感心した。その先右手に秋葉常夜灯、更に左手に、「明治天皇御野立所趾」の石碑が建っており、丁度10:00。

 道は山裾を縫って行く。いよいよ湖西市に入る。もう268km地点だ。新町に入ると、右側に「火鎮(ほずめ)神社」があった。火災で記録消失のため由来不明の由だが古いことは間違いない、というような意味のことが記されていた。その先に「白須賀マップ」が右手に掲示されていて、面白い。

 少し先の町名は元町。道端に県設置の「夢舞台東海道」の道標に、「白須賀宿」とあるが、最初に白須賀宿があった場所だ。実は、約300年前の宝永四年(1707)の地震とそれに伴う津波で白須賀宿は大被害を受け、この先の「潮見坂」の上に移転したので、元宿といわれている訳だ。道は上り坂になり、家は両脇にあるが道より少し高くなっている。

 少し先に四差路があり、この辺りが、移転前の元白須賀宿の中心だった。70番目の「元町一里塚跡」の石柱が民家の前に建つだけで、今は寂れた感じだ。一里塚跡碑に並んで、「高札建場跡」もある。この先から人家が少なくなる。道も上ったり下ったりするが、傾斜はたいしたことはない。右手の山の上に見える浜名湖カントリークラブの風力発電のプロペラが大きく見える。両脇に家並がふえ、道は左右に曲がりながら進むと、10:20、右に「神明神社」の鳥居があり、奥は木が茂っていて威厳ある雰囲気でだ。その先隣の家は長屋門付きの大変立派な家(内藤家)がある。不思議に思うのだが、甲州街道歩きでも記憶にあるだけで二軒、内藤家という豪華な門の家があったが、内藤家というのは全国的に名家なのかとすら想うほど、豪華な門の家が「内藤家」なのだ。

 その先また家が少なくなるが、左側の遠くには潮見バイパスを走る車の姿が、更にその先に遠州灘の潮見海岸らしきものがちらほら見えてくる。更に行くと、奈良時代末から平安時代の創建とされる「蔵法寺」の山門。現在の寺は、慶長三年(1598)曹洞宗の寺として開山され、徳川家康から二十三石賜ったという寺だ。

 その先の三叉路右折で、10:29、いよいよ潮見坂にさしかかる。三叉路の家の前に小さな石柱があり、右旧道、左新道とある。ということは、どちらも坂の上へ行けるということだが、右折する細い道の方が古い道であり、当然我々は旧道の急坂を選ぶ。車も通れるが、車がすれ違うには不十分な幅しかなく、どの程度の距離を登るのかもよく判らないが、高尾山で言えば1号路並の勾配である。 

 一番登りに強い村谷氏が先頭、続いて清水氏、そして小生と滝澤氏が続く。歳の順だ。道は左に右にとカーブして登って行くと、右手に潮見坂を説明した案内板があった。

 潮見坂は街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されている。西国から江戸への道程では始めて太平洋の大海原や富士山が見ることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれる。浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には感心をいだいたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いている。

 苦しい登り坂を何とか登り切ると、10:37、漸く左に、「おんやど白須賀」 という休憩所兼宿場案内所があり、入場。滴る汗をぬぐいつつ、洗面所を借りようと入ったら、清水氏が冷水で洗顔し、すっきりしたと言っている。先着の村谷氏はもう無料接待のお茶など戴いている。小生も各氏も靴を脱いで畳敷きの休憩所で一服頂きながら汗をぬぐう。白須賀宿関連のパンフレットなども置いてあり、ボランティアか嘱託の年配男性が説明してくれたりする。「一体、この坂は長さ何メートルで標高差何メートルを登っているんですか?」と質問を投げかけたら、約600mで70m登っているとの返事だったが、実感はもっともっときつかった。

 10:54出発。少し歩くと、右に白須賀中学校、白須賀小学校と続くが、左手には、「潮見坂公園跡」という石碑が建っている。大正時代に造った公園が中学校に変った、との説明がある。また、織田信長が武田勝頼を滅ぼして、尾張に帰る時、徳川家康がここに「茶亭」を新築して、もてなした所である。また、明治天皇が明治元年十月一日に江戸へ行幸の途中、この潮見坂で小休止され、景色を愛でた旨の記念碑が建っていた。
その他、白須賀出身の「国学者夏目甕麿と息子の加納諸平」、その他のいろいろな石碑があり、「潮見坂上の石碑群」と呼ばれている。小学校を過ぎたこの辺りの標高は758mと高い。登りが苦しかった訳だ。 

 やがて道が緩い下り坂になり、下っていくと、東町に入る。ここは宿場のあったところではないが、連子格子の古い家並みが、昔の宿場の面影を残している。趣のある街である。道を更に下って行くと、枡形に曲がっている場所に出る。白須賀宿の東の入口にあたる、「曲尺手(かねんて)」と呼ばれる所である。曲尺手と言うのは、直角に曲げられた道のことを言い、軍事的観点からは敵のスピーディな進撃を阻むほか、大名行列同士が、道中でかち合わないようにする役割も持っていたという。

 このように、宿場には外部の侵入に備えたこのような工夫が施され、当地やこれから行く吉田宿(愛知県豊橋市)では「曲尺手(かねんて)」と呼んでいるらしい。曲尺手手前右角に、「鷲津停車場往還」と、刻まれた道標があった。写真を撮っていると、傍にいた地元のおばちゃまが、“今は一日一便のバスしかないんよ”と話してくれた。道を右折して狭い道を行くと、東海道線の鷲頭駅へ行けるようだ。明治時代になって、東海道の宿駅制度が廃止された後、開通した東海道線は、潮見坂を避けて北方の鷲津を通ったので、この地区はかなりの影響を受けた筈である。

 曲尺手やこれから抜けて直線道に入った所で、歩く女性3人と「コンニチハ、オハヨーゴザイマス」と挨拶。時に11:11。「白須賀宿」は、遠江(とうとうみ)国の最西端の宿場で、前述した如く最初は潮見坂下にあったが、宝永四年(1707)の地震と津波で、大半の家が流失したため、翌年、潮見坂の上に移転をした経緯がある。宿の中心は、伝馬町で、それほど古い家はないが、新しい家にも、江戸時代の屋号を書いた看板が掲げられていた。 

 左手の郵便局の先のJA(農協)のはす向かいの家の前に、白須賀宿の「本陣跡」がある。美容院と隣の立派な屋敷の間に、本陣だったことを示す説明板があり、本陣は大村庄左衛門が務め、元治元年(1864)の記録に、建坪百八十四坪、畳の間二百三十一畳、板敷き五十一畳の屋敷だったとある。
天保十四年(1843)編纂の「東海道宿村大概帳」によれば、白須賀宿は、東西十四町十九間(約1.5km)で、加宿である隣の境宿村を含めて、人口は約二千七百七十人、家数は六百十三軒で、本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠は二十七軒だった。道を隔てた隣の自動販売機がある家が「脇本陣跡」。家の脇の石柱で、脇本陣だったところと判る。

 その先の交差点を越えた右側の家の前に、地元白須賀出身の国学者「夏目甕麿邸址」、その息子の「加納諸平の生誕地」の石碑と案内板があった。

     
 夏目甕麿邸址
甕麿(みかまろ)は通称嘉右ヱ門、萩園と号した。酒造を業とし傍ら国学を内山真龍に学び、後本居宣長の門に名を連ねた。賀茂真淵の「万葉集」、「遠江歌考」「鈴の屋大人都日記」などを上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜」「家集」等数篇がある。文政五年(一八二二)没。
「諸平」は甕麿の長子「柿園」と号した。若くして紀州和歌山の本居太平の許に寄寓、乞われて加納家の養子となる。後、紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となる。諸平には「当代類題和歌選集」「腹玉集」七巻の外に柿園詠草、柿園詠草拾遺等の家集を始め数多くの著作がある。安政三年(一八五六)没。
               昭和四十七年一月       湖西文化研究協議会

 11:18、火防地跡、と書かれている所にきた。宿場の高台移転で津波の心配はなくなったが、冬は西風が強く、わらぶきの家が多かったため、ひとたび火災が起きると大火事になった。その予防策として考えられたのが火防地で、宿場の三地点、六ヶ所に設けられた。火防地は、間口二間(約3.1m)、奥行四間半(約8.2m)の土地に、常緑樹の槙を十本ほど植えた、とある。

 その先の右手に、西町の「庚申堂」があり、境内のお堂前に、「三猿の像」が並んでいる。境内の「常夜燈」は、文化十三年の銘があり、古い歴史をもつ庚申堂らしい。その先右手にも、「火除地跡」を示す小さな石柱が建っていた。(11:24) そのまま進んだ先は境宿公会堂があり、江戸時代は境村で、白須賀宿の加宿になったが、宿が繋がっていたので、一体で運営されていたようだ。 

 11:27、その先の右手、ブロック塀の下に、「高札建場跡」と書いた小さな石柱。比較的新しい造りだが、ここに、高札場と立場茶屋があったということだろう。その先で、国道41号(旧国道1号線)に合流したが、我々を自転車で追い抜いていった少年が「こんにちは」とさわやかな挨拶をしてくれた。見知らぬ旅人にも礼儀正しい少年は、歩き遍路に対して挨拶してくれる四国の少年・少女たちの眼と同じだった、と嬉しくなる。

 11:30、白須賀宿はずれ、笠子神社手前で、一旦国道42号(旧国道1号線)に合流し、程なく右手の細い旧道に入るが、その先でまた合流。稲荷神社を左に見て先の信号を越えると、小さな川と橋。ここが静岡、愛知の県境で、曾ては、遠江と三河の国境。称して「境川」という。

 思えば、箱根宿、箱根峠を越えて三島宿に入って以降、曾ての三国(伊豆、駿河、遠江)の旅を漸く終えた訳である。昔日の旅人は、箱根宿から遠江の白須賀宿迄の約45里(180km)を5〜8日、川止めがあれば更に数日加わるという、多くの日数を要した訳だ。

 その先で国道1号に合流する。旧東海道は、ここから二川南信号まで国道を歩く。日差しがきついが幸いにして風があり助かる。 一里山の交差点を越え右側の歩道を進むが、すれ違う車の量は半端じゃない。対向する大型車が風と共に迫ってくるのでそれに逆らって歩かねばならない。カロリー消費にはもってこいだが、やや疲れ気味かつ足指やかかとがやや痛くなっていて、しかもしばらくは見所もないひたすらの国道歩きなので、負担が大きい。ひたすら無になって、黙々と歩くのみだ。

 少し歩くと、右手のあぜ道で同じ街道歩きと思しきザック姿の男が休憩していたが、どうやらその向きから察するに我々とは逆コースの人のように感じられた。途中、コンビニその他で休憩しながらひたすら歩くが、実に遠く感じられる。時刻は既に正午を過ぎているが、左右は一面きゃべつ畑で民家も殆ど皆無に等しく、正に旧国境近くの両国文化隔絶分離地帯の感が強い。

 途中、幾つかのバス停を通り過ぎたが、例えば、唯一運行している豊鉄バスの豊清停留所の時刻表を見ると、正に現代版「陸の孤島」であることが確認できる。何とバスは先ほど通過した一里山行きの便が月から金は15:58発の一日一本のみ、土日休日は運休、しかも料金は最低160円だが、1km先以上のバス停までは240円、という信じられない様だった。

12:34、漸く二川南交差点で国道と別れて右折し、新幹線のガードを潜り、梅田川に架かる筋違橋を渡り、東海道線の踏切を越え、すぐ左折すると、「二川宿」の入口である。

 町に入ると、右手角に、72番目となる「二川一里塚跡」の石柱。12:41、その先に「二川宿案内所」があり、立ち寄るが、ちらっと屋内を一瞥しただけで終わり、その先の食事処「取付屋本店」と看板の出ている和洋食店に12:42入店。全員腹ぺこ且つ喉カラカラなので、先ずはジョッキ生で喉を潤す。食事は大盛りラーメン、カツ丼定食、焼き肉定食と様々だが、わが注文の焼き肉定食は肉のボリューム多く、空腹にも拘わらず完食不可能だった。

 13:17再出発。街道歩きも、慣れてくると宿に入った瞬間に、その管轄自治体の宿場保存(旧道保存)に対する力の入れ具合が判る。この宿場はとびっきりの優等生だ。地元教育委員会の力の入れ具合や地元住民の総意がよく判るのである。

 先ほど昼食を摂った店の横に日蓮宗の「妙泉寺」がある。立ち寄らなかったが、ここには紫陽花塚と呼ばれる「芭蕉の句碑」があるとのことである。句碑には「阿ちさゐや藪を小庭の別座敷」という句が刻まれているとのこと。 

 街道を行くと、道の両脇に間口は狭いが奥行のある古い建物が、結構残っている。すぐ先の「二川八幡神社」に参拝。この二川八幡神社は、 永仁三年(1195)、鎌倉の「鶴岡八幡宮」から勧請により創建されたと伝えられる由緒ある神社で、毎年八月十日に行われる湯立神事には、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ、多くの人々が集まって賑わった言いわれている。境内の「秋葉山常夜燈」は、二川新橋の枡形南にあったものをここに移したものだそうで、文化六年(1809)建立のものの由。

 「二川宿」は、慶長六年(1601)、東海道開設当初からの宿場であるが、元々が小さな村だった。このため、問屋(人馬継立業)の荷役業務を負担しきれなくなくなり、幕府は正保元年(1644)に二川村を西に、1.3km程西にあった大岩村を東に移動させ、両村接近による、共同での問屋運営を行うよう定めた。

 新橋という小さな橋を越えて行くと、宿場の江戸側の入口である鉤型の右手に、歴史を感じる建物が続くが、当時から、味噌やたまり醤油を造ってきて、今も赤味噌を製造販売している「東駒屋」がある。その辺りから、屋号の付いた家々が古い街並みを形成していて、どの家にも○の中に「二」の字と「二川宿」の文字を藍地に白抜きした、揃いの暖簾を玄関に架け、旧街道の街並み保存に協力している姿勢が強く窺われ、街道歩きをする我々には心強い限りである。

 その先の交叉点の先右手に「東問屋場跡」の小さな石柱が建っていたが、これに対する「西の問屋場」が二川宿の加宿とされた大岩村の西の問屋で、先の方のやはり右手に碑が残っていた。

 13:24、東問屋場の先の民家の庭に、「脇本陣跡」の案内板があった。 脇本陣の建物は間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)で、畳数は九十三畳あった、といい、脇本陣の仕事を松坂家が務めていたが、それ以前は、本陣がここにあったとのこと。本陣と脇本陣の位置が変った経緯については、解説板に詳しく掲示されていたが、要するに以下の如き経緯があったとのことだ。 

宿場開設当初は、二川宿の本陣が幕末に脇本陣を務めた松坂家の場所にあった。本陣の職は、後藤五左衛門が務めていたが、再三の火災に遭った結果、寛政五年(1793)に没落してしまった。跡を継いだ紅林権左衛門も、文化三年(1806)12月の火災で再起することができず、役を辞した。
文化四年(1807)、本陣職が紅林から親戚の馬場家に代わったが、当主の馬場彦十郎は、本陣経営は儲からないので乗り気でなかったが、代官からの指示で引き受けることになった。この時、本陣は馬場家の建物を増築する形で行うことになり、隣が松坂家が営む脇本陣であったため、その土地を譲り受け、代わりに、脇本陣は火災で焼けた本陣跡地に移転することになったのである。従って、元本陣跡ということにもなる。

 13:25、「二川宿本陣資料館」到着。入場はしなかったが、周囲にも各種掲示がある。この辺りが、二川宿と加宿・大岩村のほぼ中央に位置し、天保十四年(1843)、旅籠は三十八軒、多くは本陣の周りにあったようだ。
公家や大名、幕府役人らが、旅の途中で宿泊休憩した専用施設が本陣だが、現存するものは少なく、東海道ではここと草津宿のみの由。二川宿本陣は、馬場彦十郎が文化四年(1807)から明治三年(1870)の本陣廃止まで現在地で務めた。持ち主の馬場家から市が寄贈を受け、現存部分の改修と明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を行い、江戸時代の姿を復活したもので、文化年間の間取図によると、間口十七間半(約32m)、敷地は五百二十五坪(約1733u)、建坪は百八十一坪余(約598u)と、門、玄関、上段の間を備えた堂々たる建物。その後も増改築が行われ、安政弐年(1855)には、総坪数二百三十三坪半となり、最も整備された状態になった。

 その手前、旅籠の「清明屋」は、寛文年間(1789〜1801)頃開業し、代々八郎兵衛と名乗っていた。本陣の隣だったことから、大名行列の際、家老や上級武士が泊まったようで、現存する建物は、文化十四年(1817)築。中には、右側の板の間の前で、旅人が草鞋を脱ぐところを再現していた。

 少し先の右手に「高札場跡」の石碑があった。この場所がへこんでいるのは、鉤型のなごりである。ここから、加宿に入る。先述の「西問屋場跡」を過ぎたその先の四差路の左、交番前に、「郷倉跡」の石碑、右に入って行くと、「大岩神明宮」がある。更に先の左手に、「立場茶屋跡」の石碑があった。本陣とさほど離れていないのに茶屋があったとは不思議な気もするが、逆コースの旅人もいたかと納得。

 13:46、左手のJR二川駅でトイレ休憩。二川駅は、二川宿と離れた大岩村側に置かれたため、二川宿周辺の開発は進まず、古い街並みが残ったものと思われる。駅前広場には、「是より岩屋八丁」の道標があった。 13:50再出発。二川駅を出た左手には、正面に「伊良湖阿志両神社」、右面には「右東海道豊橋一里半」、と書かれた道標があった。伊良湖阿志両神社は、渥美半島突端にある伊良湖神社と田原市芦町柿ノ木 にある式内社の阿志神社のことだ。

 13:56火打坂という信号に三叉路に出る。直進し火打坂を上っていくのが東海道で、左折すると、「岩屋観音」へ行く道である。約10分で大岩町北信号で左折、緩い下り坂を行き、日本橋から280km地点に着くと14:20で、曾ては古木だったろう大きな松の切り株が左手にあり小休止。この松は「高師口の旧東海道のクロマツ」と言われていたもので、樹齢は数百年以上、高さは十一メートル五十センチ、幹周りは二メートル三十四センチもあった。曾ては他にも沢山あったろうが、最後に残ったその一本も松食い虫にやられ、遂には切り株となってしまった次第である。

 歩いていくと、左後方から国道1号と分かれたやや太い道と合流する三叉路になる。左に豊橋岩屋郵便局があり、この道は国道1号と平行して続いている。14:30、東京庵という看板の蕎麦屋前を通過。 そのまま進み、殿田橋を渡った先で左手からの国道1号に合流する。「飯村一里塚跡」がその一角にあった。14:44だ。

 東海道は国道1号線に合流し、しばらくの間国道左手の歩道を行く。14:54、七富士大明神、14:58〜15:08の間、サークルKでトイレ借用がてら小休止。段々、市の中心部に近くなっていっていることが判る。15:31東八街で立体歩道橋を渡ると、その先の左手の餅屋と薬屋の間を左折し、寿司屋に突き当たって右折する。しばらく行くと、15:39、交わる広いくすのき通りの一段高くなった中央分離帯に「史跡曲尺手門跡」があり、「旧吉田城の巽の方位にあり城門の跡にして曲尺手町発展の基なり」とある。

 通り過ぎて、左手床屋と蕎麦屋の間をまた左折し、突き当たりの大通りを右折すると電柱の見あたらない、開放感のある近代的な街並みの通りに出た。

 吉田宿は、二川宿からは6km、次の御油宿へは10km余の距離にある。豊川に架かったけ橋名に因んで今橋と呼ばれていたのを、「池田輝政」が城主となった頃、縁起のよい吉の文字を取り入れて、吉田へと変えられたとか。戦災で古い建物は殆ど残っていないようだ。「吉田城」も、当初は「今橋城」と呼ばれ、今川方の牧野古白が築城したが、今川義元の桶狭間での戦死後、徳川家康が酒井忠次を城代として入れ、天正十八年(1590)の家康の関東転出にで徳川氏の代わりに、豊臣秀吉配下の池田輝正が十五万二千石で入封したという経緯がある。

 吉田は、豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町であると同時に、東海道の中では、大きな宿場の一つだったのである。宿内人口は五千二百七十七人、家数は千二百九十三軒で、本陣は二軒、脇本陣は一軒、旅籠は六十五軒だった。市電札木駅傍に「本陣跡」、その斜め向に「脇本陣跡」があった。

 ここで、本日の街道歩きは予定のルートを終わり、今夜の宿「豊橋ビジネスホテル」へと向い、16時丁度にチェックイン。各自自室でシャワーなどで汗を流し、夕方全員で市内に繰り出していい店を見つけ、夕食を兼ねて今日の疲れ癒しの宴をささやかに行った。

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ホテルに帰って足裏を見ると、長距離早足歩行に絶えきれなかったのか踵や小指に水が溜まっており、治療用具を持参していなかった上、残り距離も昨日・今日以上のタフな行程なので、この二日間で一旦切り上げることとした。翌朝、仲間に事情説明をしてホテル前で別れを告げたが、仲間たちも翌日のコースがきつかったらしく、3日目の最後の岡崎宿迄とし、4日目の歩きは取りやめた旨、後刻連絡を受けた次第である。このため、先の行程については改めて再検討の上継続実施することとした。

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旧東海道餐歩記−11-2 舞坂宿〜吉田宿
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