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旧東海道餐歩記−11-1 見附宿〜舞坂宿
2008年4月18日(金)
見附宿〜浜松宿〜舞坂宿 25.1km

 このところ天候不順である。このため、6日前の甲州道中歩き(甲府〜韮崎)以来、殆ど歩いていないのに、遂に4日間計109km(一日平均27.2km)もの歩行を予定している旧東海道餐歩日が来た。脚力鍛錬不足の懸念濃厚だが、足指などにテーピングし、用意万端自宅を出発、京王線・中央線で東京駅へと向かう。小雨が降っているが、早い上がりを期待したいものだ。

 6:56発こだま533号新大阪行きに乗り込む。早起きだったせいか、いつの間にかうとうとしていたようだったが、小田原目前でふと外を見ると空が明るくなり、何と雨が上がっているので嬉しくなる。掛川駅で下車、今次餐歩同行の常連メンバー(滝澤・清水・村谷各氏)にも乗換口で合流し、在来線浜松行きに乗り換える。

 9:07磐田駅着。舗装路面は濡れているが、我々晴れ男達のために「今上がりました」という感じだ。駅前コンビニで、小生持参の歩行用地図を仲間たちに供するべくコピーしたかったが、女子大生たちの順番待ち状態を見て諦め、他のコンビニに期待して前回の歩行終着点(今回の歩行起点)へと向かう。(この後、次のコンビニはなかなか見つからなかった)

 その前に、駅前広場で目立つ存在の「善導寺の大楠」を見る。ここは、もと善導寺のあった場所で、樹齢700年という圧巻の巨木だ。傍には、「文化財の道しるべ」という解説板があり、ここ「中泉地区」の歴史的解説がなされている。

                        
文化財の道しるべ

 磐田原大地の南縁部にあたる中泉地区は、東海道線の開通により、磐田市の玄関口として役割を果たしています。この地区は江戸時代の中泉村、久保村、二之宮村、梅原村からなりたち、南には古代の入江「大之浦」の名残り「大池」があり、東にはその一部であった「今之浦」を臨むことができます。
 この地区は、古代から遠江国の中心地として栄え、多くの文化財や遺跡が残されています。奈良時代には古代遠江国の役所である遠江国府や、国立寺院である遠江国分寺が置かれました。戦国時代の終わり頃に徳川家康の勢力がこの地に及ぶと、東海道の往来のため家康の休息所「中泉御殿」が造られました。江戸時代には、遠江一円の幕府直轄領(天領)を治めた中泉代官もこの地に陣屋を置きました。東海道は見附宿から中泉を通り、天竜川の渡しに向かいます。中泉の街道筋には商家が並び、多くの人々が行き来しました。

                                    平成17年10月  磐田市教育委員会


 9:12、今日の起点となる交差点に出て左折し、前回の続きの東海道歩きが始まる。緩やかな下り坂から逆に登り坂に転ずると、9:24、右手に「中泉公民館」。その前に、江戸時代と大正時代の中泉の絵図が並んで立っていた。前回終盤で見た「国分寺跡」や「府八幡宮」辺りから、この辺までが「旧中泉村」だったことが判る。磐田駅も、前身軽便鉄道時代は、「中泉駅」と称していたようだ。

 「旧中泉村」は、江戸時代には三百三軒の家があったというが、曾て農村だった面影は当然ない。中泉公民館も、立派な現代風建物で、道側には、「夢舞台東海道 中泉」の道標もある。

 ここを通り過ぎ、西新町橋を渡ると、江戸時代には「立場」だった旧大乗院村に入る。大正時代には、「中泉軌道(軽便鉄道)」がこのあたりを通っていたようで、磐田駅(当時は中泉駅)から北上し、現在の県道261号線に出て、左折していたようだ。その先が旧大乗院村のはずれ(今の西新町)で、右後方から県道261号線が合流してくる。すぐ先が旧豊田町(磐田市に編入合併)で、小さな川に架かる「一言橋」を渡る。橋名の由来は何だろうかと思うネーミングだが、昔、この近くであった「一言坂の戦い」と大いに関係ありそうだ。

 
元亀3(1572)年甲斐国から攻め込んできた武田信玄と、ここ遠江国の領主だった徳川家康との間に戦いが起こり、袋井市の三箇野川の戦いで敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走したが、その一言坂で追いつかれ、再び合戦となる。これが「一言坂の戦い」で、この時に敗走する徳川軍を救ったのが、家康の重臣「本多平八郎忠勝」であった。平八郎は「とんぼ切り」といわれた大槍を振り回しながら一人奮戦し、枯草に火をかけ、その煙の中、見事に見方の軍を退却させたと伝えられ、敵の武田軍もこの時の忠勝の武勇を讃え、「家康に過ぎたるものがふたつある、唐の頭(兜)に本多平八」と書いた札を磐田市国府台に立てたといわれている。

 この「国府台(こうのだい)」とか「一言(ひとこと)」いう地名は、地図で調べてみると、今も現存しており、旧東海道の北部を並行して走る国道一号線沿いの地名である。社団法人中部建設協会企画・編集の「東海道さんさくマップ」(見付・浜松)によれば、何のことはない。この一言橋の由来は当時の「一言村」がここだったと判り、氷解といったところ。

 9:42、その先右手に「宮之一色一里塚跡」が立派な石標で復元されている。日本橋から63番目のもので、西に「間の宿(あいのしゅく)」と言われた「池田宿」と「天竜川の渡船場」を、東に「見附宿」を控えていた訳だ。南側にも同じ怩ェあったそうだ。

 この辺りには旧東海道らしく松並木が続いている。左手には「秋葉山常夜燈」。文政11年(1828年)建立で、竜の彫り物があり大変貴重なものらしい。灯籠の周りを板囲みして風よけをし、上部は明かりが漏れるように格子にしたもので、今まで見てきた多くの常夜灯とは趣が大変異なっている。この後見た各地の常夜灯は殆どこの形式であり、この地方の特色として挙げられよう。

 しばらく行って森田羽田橋先右手に、「森下高札場跡」。その先にミニ公園と郷社「若宮八幡宮」。若宮八幡宮は、仁徳天皇・応神天皇・神功皇后を祭神とし、明治七年、近隣28ヵ村の神社を合祀して郷社となった。毎年10月15〜16日の例祭では、力士を招いての奉納相撲が行われる。

 その横に地元の豪農が設立に尽力したという「西之島学校跡」、更に左手には、「旧庄屋宅跡」に字も読み取りづらい「明治天皇駐輦碑」と続く。

 その先旧長森村だが、「長森立場・長森かうやく」の立看板。「立場」は、旅人や人足・駕篭かき・伝馬などの休憩所で、明治期以降は、人力車や馬車の発着所兼乗客・従業員の休憩所として機能していたものだ。「長森かうやく」は、右折点の手前右手に案内板があり、江戸時代前期、山田家で作り始め、あかぎれや切り傷に抜群の効能があるとして旅人達の土産品として大変な人気を博したという。京都の宮様から贈られた座敷看板と軒下の看板が現存している由である。

 右折した先の公園に、10:17「天竜橋跡碑」。明治7年、まず天竜川に船橋ができ、明治9年から昭和8年まで、ここから対岸まで幅3.6m、全長は何と1163mの木橋が架かっていたそうだ。その「天龍橋親柱」もここに残っていたそうだが見あたらなかった。「船橋」の意味がよくわからないが、小舟を繋いで舟伝いに渡る橋とでも言うのだろうか。

 さて、その天竜川を渡るのだが、昔はこの1kmほど北の池田の渡船場から船で渡っていた。その時の水量によって、上流から順に上之渡船(高水位の時)・中之渡船(中程度の水位の時)・下之渡船(平常水位の時)と三つの渡船ルートがあったようだ。今は、天竜川橋と、新天竜川橋二本の橋が架かっており、車の往来は新旧双方とも極めて激しいが、ちょっと以前まではいずれも歩道がなく大変危険だった。このため、国道1号線にある長森バス停から対岸の中ノ町バス停までバスを利用するよう、「東海道さんさくまっぷ」などでは勧めているが、我々が行った時は、旧の橋入口近辺は工事中で、新の橋左側には2007年1月竣工の歩道が出来ていたので、そちらを渡る。橋の真ん中で、豊田町から浜松市域へと入る。

 土手の向うに天竜川の広大な眺めが広がる。天竜川は、中山道と甲州道中の合流点である諏訪湖を水源とする川である。暴れ川だったそうだ。本来なら、その渡船場跡まで行くべき処だが、4日間の強行軍の初日として、そんな余裕もなく新たに出来た歩道を渡る。急ぎ足でたっぷり12分かかったが、15分かかった大井川の橋と遜色ない大河であった。
 橋の上から西の空を見ると、一部分だが明らかに雨が降っていると思われる鉛色の空の固まりが見え、不吉な予感におそわれる。風に乗って我らの進路を避けて過ぎ去って欲しいものだ。

 新の橋を渡ったら左下に降り、旧橋先から土手道を降りるのだが、ちょっと早く一般道に降りすぎたようで、本来の旧道回帰に手間取るが、正に旧東海道らしい古い街並みを程なく見付け、OKとなる。

 その先右手に「軽便鉄道軌道跡」の標識があり、左手には「かやんば高札場跡」の標柱がある。かやんばとは何かと思えば、昔のここが「萱場村」だったことが判れば、即納得だ。丸い木の一部を平に削り、そこに文字を書いただけの低コストな標柱であり、教育委員会の予算潤沢ならずといったところか。

 10:54、右手に豪壮な「松井禅寺」。更に「中ノ町・和田村境杭」があり、その先に、地元出身の実業家「金原明善翁の生家」(道右側)と「明善記念館」(道左側)が向き合っている。まず記念館入場。トイレを借り、説明資料を戴いたり簡単な説明をうかがう。生家の方も見学可能とのことで広大な由緒ある邸宅跡を見学。ただ、現在は使われておらず、座敷などに上がるのは危険につき云々と注意書きがある。「きんぱらめいぜん」といい、1832年生まれ(1923年没)の明治時代の実業家。1832年(天保3年)遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した実業家である。生家は、名主の家柄で建物は慶応2年に修復したものの由。

 11:07、「安間一里塚跡」。右後方からの道合流点の金網の中にぽつんと白棒に書いた超低コストなものだ。そのちょっと右手に「姫街道」の道標があるとのことだが見学は省略。左手に見事な松の木があった。ここから、道の左側に往時の「旧東海道松並木」が始まる。

 国道1号バイパスをくぐった辺りからバラッバラッと小雨の粒を頬に感じ始める。11:18、左手に漸くコンビニが見つかったので、地図をコピーし再出発。国道152号を行くうちに、段々と本降りになってきた頃、丁度左手に、居食処「美園」を発見し、神の恵みと飛び込む。ビール二本に各自ランチを注文し、日頃の行いの良さをあらためて実感。しかし、降られ始めたのは、通りかかった神社などできちんと賽銭を入れてお参りせず、通りすがりに合掌一礼だけで済ませた罰ではないかという説も現れ、爾後、賽銭をはじめ参拝の仕方が丁寧になったのは、か弱き善男たちであることの証明か?

 30分の昼食タイムを終え、12:06外に出ると、雨は大分小やみになっている。右手に「六所神社」を見て県道312号をひたすら歩く。12:21、「浜松アリーナ」の先の子安交差点に広重の絵「浜松宿 冬枯ノ図」発見。12:29、国道152号に合流。雨が段々強くなってきたので、12:35〜12:40布団屋横のガレージの屋根下を借りて休憩兼雨宿りする。

 左手の浜松東警察署先に「馬込一里塚跡」。65番目だ。その先の小川にかかると川沿い左手に綺麗な藤の花群生地があり、そぼ降る小雨にぴったり合う景色だ。 

 馬込橋の手前右手には「外木戸跡」、馬込橋を渡るとそこが浜松宿の「東番所跡」のはずだが、雨のために見過ごしたのか見あたらない。市の中心部に入ってきているので賑やかだが、相変わらずの雨で気分はイマイチ。13:08板屋町信号を渡り、遠州鉄道の高架を潜って、13:14右手斜め向こう方向に「浜松城」があるのを承知で、順路に従って左折。大きな交差点で、渡るなら地下道だ。徳川家康縁の浜松城は、順路から外れるし、天気も良くないし・・・ということで、帰宅後インターネット見学することに全員同意して、先に進む。

 東海道は、ここから南へ続いている。右手に「高札場跡」、左手に「佐藤本陣跡」がある辺りから歩道右手に移り、13:20、浜松信金の角に「杉浦本陣跡碑」、その先に「川口本陣跡」(東海銀行)、ここで伝馬町交差点を地下道で潜って先に進むと左手に「梅屋本陣跡」だが、いずれも案内板(石碑)のみしか残っていない。はましん前の「杉浦本陣」が浜松の6ヶ所の本陣の中で一番古く、左手の「梅屋本陣」はかの「賀茂真淵」が養子になった家だそうである。

 「浜納豆屋」のある成子坂の交差点を右折。西へ少し行って「子育て地蔵尊」のある菅原町交差点を左折していくと、右手に堀留ポッポ公園があり、トイレがあったので立ち寄る。しかしベンチは青天井で濡れているので、その先の東海道線高架下でザックを下ろし、5分間休憩。(13:42〜13:47)。更に新幹線高架を潜っていくと、右手に「八丁畷」の碑。よく見かける地名だ。

 「八丁畷」の先、左手に「若林一里塚跡」の案内板。昔は土手のある松並木があったらしい。14:05、その先右手に「二つ御堂」。奥州平泉の「藤原秀郷」が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀郷死去との誤報を聞き、その菩提を弔うために「北のお堂」を建立。一方、京の秀郷は、病が回復し帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝をこめて「南のお堂」を建てたという。北のお堂前には、「高札場跡」、「馬頭観音」、「秀郷の松」があり、南のお堂前には「明治天皇御野立所記念碑」がある。

 その先左手には松並木が続き、右手の可美市民サービスセンター前で「可美小学校跡」碑と「天皇皇后両陛下行幸啓記念」石碑。更に、右手に14:30「諏訪神社」、「秋葉常夜燈」、「熊野神社」、「高札場跡」と続き、その先に「従是東濱松領」と書かれた傍示杭や、「堀江領境界石」と書かれた木の標柱があった。

 高塚駅への分岐点の手前には「秋葉常夜灯」や民家の庭に「高札場跡」の標柱がある。信号を越えると右手に「麦飯長者跡」の標柱がある。この辺りに曾て「小野田五郎平衛」という長者がいて旅人に麦飯を喜捨し、麦飯長者と呼ばれた。息子夫婦が早逝し、残された幼い孫娘に法華経の写経を教えたところ平仮名で書かれた写経を見た当時の名僧「白隠」が感動し「八重葎」を著したと言われる。

 14:57、篠原で旧道は右手斜め前に入っていく。15:07、右手に「篠原一里塚跡」の案内板。江戸から67里とある。その先右手に「高札場跡」がある。その先も随所に「秋葉燈籠」が見られる。いずれも板で囲ってある。この辺りの特徴のようだ。

 15:51、右手に「史蹟引佐山大非院観音堂聖跡」。16:08「春日神社」で参拝。その先で舞阪駅への分岐を過ぎると、いよいよ本日のお楽しみ、見事な「舞坂の松並木」へと入る。右手には干支で時刻を表す石像が続き、左手には「東海道五十三次の銅板」が続く。右手には「舞坂宿」と書かれた大きな石碑、「舞坂橋跡」の木の標識がある。それにしても約700mにわたって続く松並木の旧街道風情は壮観だ。

 16:29、やがて松並木も途絶えると、5差路があり、左手にトイレ完備のミニ公園。5差路を直進して行くと風情ある旧宿場町で、道の両側に「石垣」があり、「見附跡」もある。昔はここまで松並木が続いていたらしいが、石垣はセメントで補修されていて歴史的遺物には見えづらい。ここが「舞坂宿」の入口で、その先左手に「舞坂一里塚跡」と「常夜燈」。舞坂宿は、江戸時代よく火災に見舞われ、文化6年(1809)宿場の大半を焼く大きな火事があったそうだ。宿内にある常夜燈はその大火の後、火伏せの願いから建立されたものだ。本日の東海道歩きはここ迄で、その先「養泉寺」左折で今夜の宿「民宿たなべ荘」へと向かう。16:50、投宿。7時間40分の歩行で、万歩計はルート外も含めて41,316歩を示していた。

 ここ舞坂は観光地でホテル・旅館の料金は安くない。インターネットでやっと見つけた我々向きの宿なのだ。予想以上に立派な所で一安心。早速入浴し、18:30からジョッキー生&ボトル焼酎付きの夕食でご機嫌となり、小生はいびき小さめ同士という互いのふれこみで清水氏と同部屋、滝澤・・村谷の両氏がダイナミック派なるご縁で相部屋という図式での部屋割りとなって、心地よい熟睡の世界へ直行した。

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