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2008年1月19日(土)
藤枝宿〜島田宿〜金谷宿〜日坂宿〜掛川宿・・・・・旧東海道餐歩旅・今次第二日目

 前日の疲れはほとんど無い。足のマメも出来ていない。予め気合いを入れておくとやはり違うのは四国遍路での1日最長44km歩行でも経験済みだ。日頃の3/4発芽玄米食から白米に変わったためにやや心配していた自然の摂理にもスムーズに対応でき、用意万端7時の朝食会場に赴くと、仲間は誰も来ていない。お定まりの旅館朝食だが、日頃の抗メタボ食と異なり、ご飯は普段の3倍量を食し、今日のエネルギーを備蓄する。

 旅篭代の精算・本日以降の地図コピーなど必要な準備その他を終え、7:51富岡屋旅館を出発。紛らわしい名前の本陣八百屋とかご当地の名士「岡野繁蔵碑」など左右に見ながら朝の街並みを行くと、地元の女子中学生たちが自転車に乗って次々と行き交う。きょうは土曜日だが登校日なのか。

 8:23「田中藩領傍示石跡」、8:32「東海道追分碑」、8:39「瀬戸の染飯茶屋跡」、9:01「上青島一里塚跡(51番目)」通過。9:07国道1号に合流したところで左手に「東海道歩きの皆様 ちょっとお休みいかがですか。 静岡産の美味しいお茶 試飲できます。 リュック姿でお気軽にお立ち寄り下さいね」の看板を発見。気分を良くして立ち寄ったが、「お茶の丸七」さん、まだ時間前でザンネン!

 しばらく国道歩きの後、左に入った所にあるJR六合駅に立ち寄り駅員にお願いしてトイレを拝借。時に9:24。再び阿知ヶ谷交差点に戻り右手の旧道に入ったり左手の旧道に入ったりしながら、10:03「島田一里塚(52番目)」通過。金谷宿境から24町歩いて来て、いよいよ「島田宿」だ。左手の「問屋場跡」に「島田刀鍛冶の由来碑」があった。

 10:14「芭蕉遺跡」で小休止。その先の「芭蕉句碑」には、“するがじゃ 花たちばなも 茶の匂い”とある。10:24から14分間、その先の「大井神社」で大休憩。広大な境内で、「島田宿の産土神」とのこと。「飛脚が寄進したという常夜灯」や「大井川の石で作ったという石垣」ほか見所たっぷりの神社だ。道に戻って歩き始めたとたんに、進路前方に見える山並みの一つに、大文字山の「大」の字ならぬ「茶」の文字が大きく見えるのには驚いた。流石は茶所静岡だ。おそらく茶畑で「茶」文字を模っているのだろう。

 その先、大井川に至るところでどうやら本来の道を違えたのか、ガイド地図に表示されている川止め時に重宝な宿の跡が見つからなかったが、一同狐に化かされたらしい? 11:10東海道最大の難所「大井川」東岸に到着。“箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川”と詠われたこの難所は、おそらく東海道最大の難所であったろう。現代の我らは大井川橋を渡るのだが、その長さは1026mとか。あまり広くもない人道を急ぎ足で渡ったけれども、たっぷり15分間かかり、二度びっくりだ。

 ようやく渡り終え、堤防沿いの道を左折し、再び右折して行くと大井川鉄道新金谷駅のちょっと手前にある金谷橋傍の「東町水上公園」で15分間休止。八軒屋橋を渡って左300mに「日本左右衛門の墓」があるらしいが何ら義理無き我らは昼飯処を探す方に関心が集中。漸く、「よし善」なる食事処に辿り着いたが予約客で満席と断られ、新金谷駅前にUターン。

 大井川鉄道新金谷駅では折良く通りかかったSLの写真を一瞬の差で撮り逃がしたが、傍にある大鉄センターで風情のある「東海道金谷宿辨当」などを買い、センター内の畳敷き休憩スポットで昼食となる。カップラーメンにした人、お握り弁当にした人、冷酒で英気を養う人などさまざまだが、約35分の食事休憩で12:32再出発。

 12:46「佐恂{陣跡」(今、書店)、「柏屋本陣跡」を見て、12:53「金谷一里塚跡」(53番目)。JR線路を左に渡って右折すると、登り坂が始まる。金谷駅を右眼下に見ながら登っていくと、13:01「金谷の旧東海道石畳道」の入口だ。そこから距離にして430mというが、丸い石畳の上を捻挫しないように足元を見ながら歩くのは、登りと相まって楽ではない。約1名はアルコールの助けを借りなくても登りにはめっぽう強いが、きょうはなお強い感じでひとり先行し、われら3人がそれに続く。自分がアルコールを昼飲まなかった訳が判ったと言われたが、登っても登っても峠に達しない坂だった。

 坂の途中、「すべらず地蔵尊」というのが右手にあって、受験生たちが祈願の跡を残していたが、この石畳は30mを残してコンクリート舗装されていたのを石畳に復元した由である。なんでも、街道の石畳で残っているのは、箱根旧街道と、中山道十曲峠を含め3箇所だけというが本当だろうか。

 13:15登り切った峠に「明治天皇駐輦跡碑」というのがあったが、輦に乗ってとは羨ましくなる坂だが、それを担がないで登れただけよしとせねばなるまいか。そのちょっと先に行くと、13:22今度は「菊川の下り坂」と来た。また石畳だ。風情があるとは言え、金谷坂の登りを上回る急坂で、反対側から来なくてよかったと思わず得心する。

 ようやく下りきると、13:42菊川に架かる高麗橋。5分後、「菊川の里会館」で小休止。「日野俊基卿」らの歌碑がある。実は、この「下りきった」というのが恐ろしい意味を含んでいたのだ。すなわち、せっかく登った金谷坂から降りてまた「小夜(サヤ)の中山」へと急登しなければならないのだ。四群橋を渡った先の辻を左折した「青木坂」からその苦行が始まるのである。ガイド地図には「急な登り坂」と言う箇所が4箇所あり、あまりの苦しさに一服がてら振り返ると先ほどの峠から一面茶畑の海で、坂の左右にある茶畑の形も刈り取る機械のメーカーの違いが歴然で、みな形が違うのが判る。

 ようやく登り切ると、14:06「小夜の中山歌碑」。小夜と書いて「さや」とよむのだ。14:16「明治天皇御休所跡」碑の立つ「扇屋」前。名物子育て飴をしゃぶっている仲間を横目に三度目の「茶」の字の山などを眺める。「小夜の中山公園」も広そうだ。

 14:23再出発。左右一面茶畑の台地を約20分歩き、14:45松尾芭蕉も涼んだという「涼み松広場」あたりから下り坂が始まる。広重の「日坂」の画あたりから勾配が急角度になり、急激なつづら折りの下降道が始まり、太ももの緊張が高まるのが判る。またまた逆コースでなかったことを感謝する。

ここらあたりから「日坂」か。これまで通ってきた各宿でも何度か感じたが、地元の旧東海道文化遺産への思い 入れの温度差が非常に格差があり、ここ「日坂宿」では力の入れ込みようが凄い。15:02、国道1号を横切って旧道を行くと屋号の付いた家が現れ、左手にある旧旅籠「川坂屋」が街道歩きの旅人へのサービス拠点になっている。ボランティアの年配者が「日坂宿」に関するガイドをいろいろやっており、スタンプや旧旅籠の間取り図やパンフレット類があったりと、この宿の力の入れようが感じられる。地元の教育委員会とボランティアたち一体の街おこしだろう。

 15:20再出発。先頭を歩きながら意識的に歩行スピードを上げる。冬至からほぼ一ヶ月とは言え冬の日は短い。午前中はなにやら昨日の疲れが出てきたのか、やや足が重かったが、急坂登りが終わったという安心感と、早く宿について休みたいという気持と、本来のせっかちさが入り交じっての早歩きになったようだ。

 どんどん歩いて15:47、「伊達方一里恊ユ」(57番目)を通過。飛ばしに飛ばし歩いて約1時間、58番目の「葛川一里塚」を16:42通過し、ここから「新町七曲がり」と称せられる「掛川宿」の戦略的城下空間を進む。16:53「掛川宿東番所跡・これより掛川宿」道標を通過して、右折掛川城、左折掛川駅の交差点に出る。この辺り、とても金融機関とは思えない古風かつおしゃれな銀行店舗が目立ち、街ぐるみで街の雰囲気を大切にしょうという意思が感じられる。

 ホテルに着くまで、今宵の夕食兼懇親場所をどこにしょうかと鵜の目鷹の目できょろきょろしながら歩いたのだが、何と本日予定の「ターミナルホテル掛川」のすぐ横に焼き肉の「牛角」を発見し衆議一決。

 掛川駅前のこのホテルはビジネスホテルだけに夕食無しだが、土日は千円引きの上に、朝は希望者に500円の缶入りお茶付き弁当を半額でルームサービスしてくれ、大浴場・サウナ・有料マッサージ付き、チェックイン時には当籤しなかったけれどもくじ引きがあり、缶コーヒーにケーキ風のパンも付くという大勉強ホテルで、ここを予約したことで皆に感謝される。

 部屋に荷物を置き、すぐフロントに集合して繰り出した「牛角」では、時間もまだ早く、空いていたが、飲み放題コースにセットのコース料理を注文して、あとはお好みのワイン・チューハイ・ウイスキーなど、我々流の節度ある?飲み方できょう一日の疲れを吹き飛ばし、追加料理も楽しんで存分の90分の楽しむ。店を出る時には数組のアベックが順番待ちしていたが、ホテルに帰ってからは即ニューヨークに直行し、ジエットバスで足の疲れを雲散させ、メモの記録もそこそこにバタンキューと相成る。

 天気予報によれば、三日間とも晴れだった筈が、明日は西から段々怪しくなり、午後遅くには雨ないし雪になるとの予報なので、早立ち早仕上げの方針で7時半出発を約して夢路についた。二次会もご遠慮したが、翌朝訊いてみると皆「牛角」大満足の侭静かに夢路へと直行したらしい。

旧東海道餐歩記−10-2 藤枝宿〜掛川宿
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