日光御成道餐歩記~#3
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 2010.01.10(日) 日光御成道 #3 東川口駅 ~ 岩槻駅 11.5km

スタート

 本年初の旧街道餐歩のきょうは、前回のゴール地点であるJR武蔵野線「東川口駅」北口からである。
 9:30集合予定にしてあったので最寄り駅を8:15発に乗り、9:14に着くと既に仲間たちは参集済みで、水戸街道以降の定例メンバー4名が新年の挨拶を交わし、早速9:17、尾根筋になっている街道に向けて武蔵野線の線路沿いの緩やかな登り坂を進み、9:21には御成道歩きをスタートする。

諏訪神社(9:28)・・・川口市東川口1-10

 200m強先の右手に、「諏訪神社」があり、早速本日最初の参拝をする。以前は真っ赤な鳥居だったそうだが、今は真新しい鳥居が狛犬の奥に建て替えられており、「諏訪大明神」の扁額が掛かっている。

 本殿裏から見ると、ここは台地になっていて、眼下に市街地が広がり眺めが良い。日光御成道が高台の尾根筋を通っていることが実によく判るビューポイントである。
 この諏訪神社の横には、今は廃寺になっているが曾て「延寿院」という寺があって、将軍の日光社参時の休息所だったというから、この高台なら正に格好の場所だったろうと納得する。

大門宿

 諏訪神社の200m程先で、右手後方の東川口駅方面「一本木坂下」交差点から低地を通って来る道と交差し、暫く先では右手に急坂を降りていく「貝殻坂」が信号で分岐する。この貝殻坂を下って行く道は、日光御成道成立以前の道筋と言われる御成下道への道筋だそうである。

 大門宿は、この分岐(信号)少し手前から始まっていたそうで、約1.3km先右手にある「大興寺」の南側辺り迄とされている。
 この大門宿は、元禄10年(1697)に宿として成立し、将軍は安全上第一泊目を岩槻城に宿泊する関係で、この宿では休憩する程度だった。本陣1・脇本陣1・旅籠6だったが、本陣・脇本陣の表門(後述)が残っており、往時の雰囲気を醸し出している。

 その先の「大門小学校入口」信号で、右手から来る幹線道路と合流し、引き続き北西へと進んでいく。

大門神社(9:48)・・・さいたま市緑区大字大門字東裏2933

 「大門小学校入口」信号から200m程先の右手に「大門神社」の入口がある。参道右手は倉庫や配送センターの高い塀が続き、左側は新しい住宅地になっていて、何れも往時には境内地だったと思われるのだが、長い参道に朱塗りの両部鳥居が3つもあるのが印象的である。

 境内左奥には、愛宕神社・御嶽社・浅間社・天神社・稲荷社などの摂社があり、愛宕神社の本殿には、左甚五郎作と伝える龍の彫刻があるというが・・・

               
大門神社
所在地 浦和市大門字東裏二九三九
創 立 不詳
    明治十三年三月十五日拝殿再建着工
    仝   十一月二十三日   竣工
主祭神 一、天神七代之大神
    一、地神五代之大神を奉斎藤
<境内神社>
    摂社 愛宕神社
       御嶽社・浅間社・天神社・稲荷社
<祭儀> (略)
<行事> (略)
<由来>
 大門神社は往古十二所社と称し旧大門村、下野田村の鎮守の神として下野田に鎮座せしものと伝ふれどその記録又は旧蹟も認められずに古来より現今の神域に鎮座せしものと推考される 明治初年、神仏分離令により明治六年四月大門村村社に列せられる
明治四十年六月十四日大字大門地内下野田地内玄蕃新田地内に鎮座せる神社(十社)を合祀し以って十二所社の社号を十強法人大門神社と改称す
               平成七年七月吉日
                              大門神社総代


大門宿本陣會田家表門(10:00)・・・さいたま市大字大門字東裏2864番地-1

 街道に戻って300m程先の右手に「大門宿本陣會田家」がある。街道から少し引っ込んだ形で茅葺寄棟造りの長屋門(567.64㎡)で、間口が9間、奥行は3間あり、修復されて現存しており、県指定文化財に指定されている。

 正面中央に内開きの大きな板扉が付いていて、番屋を付属しているのが特徴で、見張り番を置いたため、のぞき窓があるのが全国でここだけという珍しい特徴を有している。
 残念ながら、この文化財は常時公開でないため門内の見学はできない。

     
埼玉県指定史跡   大門宿本陣表門
                    所在地 浦和市大字大門字東裏二、八六四番地一
                    昭和四十一年三月八日指定
 大門宿は、日光御成道の宿駅で、ここ会田家が本陣、問屋を勤めていた。
 日光御成道は、徳川将軍が日光山に参詣するときに通行したのでその名があり、大門宿は元禄十年(1697)に正式に発足した。この表門は、かや葺きの長屋門であるが、番所がついているのが特徴である。
 昭和四十四年に解体修理したところ、元禄七年建立、文政七年(1824)修理の銘文が発見された。
 将軍は、岩槻城に宿泊したので、大門宿では休憩する程度であった。安政五年(1776)の徳川家治の日光社参では、ここ本陣に松平定静(松山城主)が、はす向いの脇本陣に酒井忠以(姫路城主)がそれぞれ宿泊した。なお、会田家は紀伊徳川家鷹場の鳥見役や大門町の名主を勤めていた。
 大門宿本陣を正確に伝える史跡として、また古いかや葺き長屋門の一例として、この表門は貴重な遺構と言える。
               昭和五十五年十二月一日
                              埼玉県教育委員会
                              浦和市教育委員会
                              所有者 会田幸紀


 なお、會田家は、豊臣秀頼の重臣木村長門守重成の従弟でやはり豊臣方にいた木村八兵衛俊重が大阪城落城後、この地に落ちて来て、すでにこの地にいた小田原北条氏の遺臣會田外記の女を妻にし、その間に生まれた會田敏明を先祖としているそうだ。

脇本陣會田家表門(10:05)

 そのすぐ先左手には、通称「赤門」と呼ばれる「脇本陣表門」があり、こちらも解説板が建てられている。この脇本陣も、先ほどの本陣と同様に同姓の會田家であり、先刻の本陣の分家にあたり、「西本陣」とも呼ばれていたという。

 江戸時代中期の安永5年(1776)、徳川家治日光社参に際して建立され、その時の往路では姫路藩主酒井忠以が、復路は磐城平藩主安藤信成が泊まっている。建物は寄棟造・茅葺・「立隠れ」のある桁行16m、梁間4.6mの長屋門で、解体修理が行なわれて江戸時代の姿に復元されている。
 日光御成道の宿で、こうした本陣・脇本陣の遺構が残っているのは洵に素晴らしいと言える。

     
さいたま市指定有形文化財(建造物) 大門宿脇本陣表門
                              昭和四十七年四月十九日指定
 大門宿は、日光御成道の宿駅で、本陣一、脇本陣一、旅籠六軒がありました。ここは、脇本陣で、本陣のはす向かいにあります。
 この表門は、寄棟造、茅葺きで、「立隠れ」(門構えが半間引込む)、くぐり戸のある長屋文です。間口一六・○○メートル、奥行き四・六○メートルと、ほぼ本陣表門と同規模ですが、本陣の壁が大壁で縦格子窓付きの番所があるのに対し、ここは、真壁で番所がなく窓は横に菱子が走るなど、本陣と比べるとやや簡略化されています。
 この表門の建立年代は明らかになっていませんが、安永五年(1776)の徳川家治(十代将軍)の日光社参にあわせて建てられたものと考えられています。この時に、しんがりを勤めた姫路藩主酒井忠以が往路ここに宿泊をし、帰路には、磐城平藩主安藤信成がここで休止をしました。
 なお、当時の記録には「西御本陣」「西本陣」などと記されています。
 此の門は、本陣表門とともに、大門宿の往時の姿を伝える遺構として、大変貴重なものです。
               平成十八年三月
                    さいたま市教育委員会


大興寺(だいこうじ)(10:10)・・・さいたま市緑区大字大門2583

 その先の「大門上」交差点辺りで大門宿は終わり、「東北自動車道」と交差する手前右手の「慈眼山大興寺」へ立ち寄る。長い参道の両側には、結構な古木の桜木が寒そうに枝々を冬空にさらけ出しているが、春には美事な景観を呈するであろうと想像しつつ佇まいの良い参道を進む。

 当寺は、天正19年(1591)に徳川家康から寺領30石の寄進を受けている真言宗智山派の古刹で、中興開山は永義(永禄2年=1559年没)、本尊は不動明王立像である。

 三つ葉葵の紋が朝日に輝くのを眺めながら門を入ると、左手に、市指定有形文化財で文化14年(1817)銘の「徳本上人念仏供養塔」や、天保5年(1834)建立の「奉供養高祖弘法大師宝塔一基」があるほか、本堂前の阿弥陀三尊板石塔婆は、金泥が塗られており、南北朝時代の作で市指定有形文化財となっている。
 境内には、宝永7年(1710)銘の「庚申塔」などもあり、特に右手にある鐘楼が茅葺きで大変風格があり、風化した柱の下側がワイヤーで耐震補強されるなど、歴史的建築物であることを物語っている。

     
浦和市指定有形文化財(歴史資料) 徳本上人念仏供養塔 一基
                              昭和五十五年三月二十八日指定
 徳本上人は、江戸時代後期に活躍した浄土宗の僧です。宝暦八年(1758)、紀伊国(現和歌山県)の生まれで、文化十三年(1816)、江戸に下り、小石川一行院を道場に東国各地を巡り、念仏化道を歓めました。その会所の多くは寺院境内ですが、浄土宗以外の寺院も含まれています。また、会所には、このように独特な書体の六字名号と花押を刻んだ供養塔が、講中により建てられました。
 ここの供養塔は、正面に南無阿弥陀仏の六字名号と「徳本」の名、そして花押が、右側面には「五十年 夢のうき世と思ふへし ねても覚めても後世を忘るな」の御詠歌、左側面に「文化十四4歳次丁丑四月朔日留錫化益、当山第十七世法印永津臨終念仏講中敬白」の建立趣旨が刻まれています。台石には世話人、講中名が刻まれていますが、その範囲は、ここ大門宿を中心に、北は岩槻町(現岩槻市)から南は戸塚村(現川口市)にまで及んでいます。
 徳本上人念仏供養塔は、関東地方にも数多く建てられており、市内にも他に二基が現存しています。これらは近世の浄土宗や講の発展を知る上で重要なものです。
 なお、この供養塔は、文政四年(1821)九月に建立されたことが近年、明らかになりました。(駒崎家文書)
               平成七年九月
                              浦和市教育委員会
                              大  興  寺

     浦和市指定有形文化財(歴史資料) 来迎阿弥陀三尊板石塔婆 一基
                              昭和四十二年三月二十五日指定
               規模 高さ102cm、上幅32.7cm、下幅33.5cm、厚さ3cm
 下端を欠いていますが上半分の保存状態は良好です。天蓋の下に阿弥陀三尊来迎図が陰刻してあり、陰刻部には金泥が残っています。
 三尊ともに飛雲にのり、阿弥陀如来は蓮台上で正面を向き、来迎印を結んでいます。その下、向かい合った両脇侍はやや腰を曲げた姿です。また、図像の下には五行にわたって梵字の光明真言が刻まれていたようで、その一部が残っています。記念銘は惜しくも失われていますが、優雅な仕上げであり、南北朝時代の造立と考えられます。
 市内には五百機を超える板石塔婆がありますが、そのうち図像のものは破片を含めても十基ほどしかありません。それらの中で、この板石塔婆は年代的にも古く、美術的価値も極めて高い貴重なものです。
               平成十一年十月
                              宗教法人 大興寺
                              浦和市教育委員会

 また、境内には、古刹に相応しい古木が多く、ヒイラギ、ウメ、ヒヨクヒバは、市指定天然記念物となっている。中でも、本堂前庭の鐘楼の北にあるヒイラギは、高さ10m、根回り3.5m。根元で5本に分枝し、ほぼ円錐状の樹形をしており、巨木で樹勢も良好そうである。

 このほか、ウメは境内東部の植込みの奥にあり、高さ10m、幹回り2.3m、根回り1.95mで、地上75cmの所で幹が分かれ、上へ大きく枝を伸ばしている。台風による被害も受けているらしいが、樹勢も良好で、春先に美事な花を咲かせるという。

埼玉スタジアム(10:18)

 大興寺の前の「大門北」信号で国道122号線と、その間の下を走る東北自動車道を越えるのに2ヵ所の信号待ちで5分ぐらいかかる。陸橋の上から右前方を見ると、埼玉スタジアムの屋根が遠望でき、仲間内で話題になる。

庚申塔(10:31~10:39)

 その先、右手に文化2年(1805)銘(もう1基は造立年代不明)で、青面金剛が邪鬼を踏み下で三猿が支えているお馴染みの像を陽刻した「庚申塔」が2基ある筈だったが見当たらず、あるいは見過ごしたかと思いつつ進む。

 10:31、美園支所入口バス停付近の三叉路左手で、笠付きの同様スタイルの供養庚申塔を見つける。紀年は享保五年子四月である。

 10:39、「浦和大学入口」バス停の先、左手の木立の中に別の笠付き庚申塔があるのを発見する。享保四年(1719)の銘があり、やはりお馴染みのスタイルでの陽刻がなされている。

石塔群(10:41)

 その先右手のブロック塀の一郭が鍵型に凹んだ外側に大小3基の石塔がある。場所は、「南部領辻3696」だ。中央にある庚申塔は元禄一五年(1702)の銘があり、先刻のそれと同様な美事な陽刻がなされているが傘はない。右手にあるのは安永九年(1780)銘の文字庚申供養塔、左手の小さい野仏は、天明四年(1784)のもので、あるいは天明の大飢饉と関係があるのかと思われる。

さぎ山記念公園(11:09)~見沼自然公園(11:17)

 その先、暫く歩き11時頃に左手にラーメン店があったが、昼食には少し早すぎるとの意見が多く、そのまま進む。
 右手に「砂場」蕎麦店を見ながら「代山」バス停や「浦和東高入口」信号を越えた先で、「天久保(あまくぼ)坂」を下っていくと、信号左手に「さぎ山記念公園」がある。
 街道と並進する左手の「見沼代用水東縁」を挟んでその奥にある「見沼自然公園」と一体となっており、かなり広い用地に木立や芝生・池が広がり、緑溢れる素敵な憩い空間になっている。

 「さぎ山記念公園」には、「さぎ山記念館」「青少年野外活動センター(キャンプ場)」「フィールドアスレチックの森」「水とメルヘンの広場」「芝生広場」などがあるが、休日のきょうは、釣りを楽しむ人や、のんびりと芝生でくつろぐ人たちも結構多い。

               
「野田のさぎ山の歴史」

 この付近は、かつて”野田のさぎ山”と呼ばれるサギの集団営巣地でした。
 サギがここに巣を作るようになったのは、享保年間(1716~35)徳川八代将軍吉宗の頃です。当時江戸への食糧供給を目的に行われた見沼干拓事業により、沼が浅い水田となりサギの格好なエサ場がにわかに出現したことが原因の一つであるといわれています。以来、紀伊徳川家より御囲鷺として保護されてきました。
 この地の主要街道である一般国道122号は昔、日光の御成街道と呼ばれ、徳川将軍が日光参詣の途中、このさぎ山に立ち寄り上覧をした記録も残っていいます。
 その後、明治、大正の頃は禁猟区として保護され、昭和13年には野田村鷺繁殖地の名で天然記念物に指定され、続いて昭和27年には特別天然記念物に指定されました。当時の指定面積は1.4haほどで5軒の農家の屋敷林にサギが巣をかけていました(このような状態をさぎ山と呼んだ。)。ここに来たサギは5種類でチュウダイサキ、チュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギがいました。
 昭和32年頃巣の数六千個を数えていたさぎ山もだんだん減りはじめ、昭和47年には0となり、色々の手当をしたにもかかわらず飛来はあるものの営巣はされず、他の場所に移動してしまいました。いなくなった要因はいろいろあると考えられますが、何といっても水田の減少によりエサが少なくなったことが大きな理由と考えられます。
このような状態からサギを野田に人為的に戻し将来にわたって維持していくことは殆んど不可能な状況となり昭和59年に特別天然記念物及び天然記念物の指定解除となり徳川時代から約250年、指定されて以来77年の歴史を閉じることになったものです。
 このさぎ山を記念してその名前が永久に残るよう、また、長く市民に親しまれてきたサギたちを偲ぶ縁として記念館と共に、サギをかたどったモニュメントを配置した公園を設けたものです。(昭和61年5月開園)        (浦和市立さぎ山記念公園のパンフレットから)


 奥にある「見沼自然公園」には、「見沼代用水の開削者 井澤弥惣兵衛為永翁像」(帯刀姿の立像)(11:26)があり、村谷氏も前々から一度見てみたかったと言う。

               
見沼代用水路の開祖 井澤弥惣兵衛為永
 井澤弥惣兵衛為永は、紀州溝ノ口村(現和歌山県海南市)に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが、徳川幕府が寛政年間にまとめた系譜集によると承応三年(1654年)になっています。
 為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に達成された亀池は代表的な施設として現在でもその姿を保っています。
 享保元年(注:1716)、徳川吉宗が八代将軍になった頃の幕府は財政状況が大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は紀州徳川藩主当時、治水事業に能力を発揮していた為永を享保七年(注:1722)、江戸に召し出し、紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に大きく貢献しました。
 為永は享保十年(注:1725)新田開発のため見沼溜池を視察し、干拓後の水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、享保十二年(1727年)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏越・綾瀬川の上を通す掛渡井等を構築し、翌年の春に完成させ、総延長約六十キロに及ぶ見沼代用水路をわずか半年にて完成させました。これにより見沼溜井約一二〇〇ヘクタールの新田開発と八丁堤下流の水源を確保することとなりました。また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼(菖蒲町)等の、数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水、店窪用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。そして開門式運河としての通運施設を開発し、芝川と東縁・西縁用水路を結ぶ通船堀を享保十六年(1731年)完成させています。これは当時のわが国の技術レベルの上でも、世界の通運史上からみても特筆されるものであり、現在通船堀遺跡は国指定史跡となっています。
 為永は晩年、美濃郡代を兼ね、元文三年(1738年)三月にその生涯を閉じたとされています。
                              井澤弥惣兵衛(印)
                                   為永(花押)
なお、「見沼代用水路」の名称については、見沼に代わる水源としての用水路との理由から命名されたものです。


旧坂東家住宅見沼くらしっく館(11:38)・・・さいたま市見沼区片柳1266-2

 公園の北側の歩道があったり無かったりの県道214号線を400m程西へ寄り道すると、道の北側に矢印を向けた標識「旧坂東家住宅見沼くらしっく館→」が道路上にあるのに従って立ち寄る。

 この辺り「加田屋新田」は、320年以上の歴史があるそうで、江戸時代前期、見沼の新田開発に先立つ50年前、江戸の町人、坂東助右衛門が開田した田んぼで、この時52町歩(約52ヘクタール)の新田ができたそうだ。
 江戸時代中期の享保13年(1728)の見沼代用水の完成に合わせて再び新田を開き、坂東家の屋号をとって加田屋新田と名付けられたが、以来、坂東家は、明治期に至るまで見沼の見回り役と名主役を代々務めたという。

 その「坂東家」の旧宅をほぼその侭復元した博物館が「見沼くらしっく館」である。木造平屋建・茅葺で、建坪が87坪。式台を持つ格式の高い建物で、市指定有形文化財になっている。間口がとても広く、前庭を挟んでカメラを構えたが、画面には到底入りきらない。

 この旧坂東家住宅は、3時期に分けて建てられており、床上部分が安政4年(1857)築であることが柱のほぞ穴の墨書により判明している。土間の部分はそれより古く、中二階を持つ建物背面に突出した8畳の部屋が一番新しいとされてはいるが、それほど大きな時期の隔たりはないと考えられている。六間取りという大きな間取りを持ち、この地の名主の屋敷としての規模と格式を備えており、江戸時代末期の豪農の暮らしぶりや雰囲気が伝わってくる家である。

 この「見沼くらしっく館」では、「生きている民家」をテーマに「季節の行事」やそれに因んだ展示・体験教室などを開催している。中でも、向かって右手の展示部分は防虫対策かどうか不明だが、燻されていて煙と匂いが少なくない。左の方の畳の間は上がっての見学が可能である。

 余談だが、向かって左手(入口の正面)に建っている案内所に近郊の「見沼田圃の散歩みち①~⑥」の地図入りウォーキングガイドが備えてあったので、各自一部ずつゲットした。参考までに記すと、以下のとおりである。
 ① 「盆栽村と鉄道の風景」・・・・7.7km 175分
 ② 「芝川土手と斜面林」・・・・・7.6km 145分
 ③ 「田園風景と新都心の眺め」・・8.3km 165分
 ④ 「氷川女体神社と歴史」・・・・7.5km 135分
 ⑤ 「農と見沼代用水の原風景」・・10.5km 195分
 ⑥ 「見沼通船堀と水風景」・・・・6.5km 110分

壮大な桜並木と「平成桜碑」(12:02)

 県道を「締切橋」手前まで戻り、単調な御成街道を避けてすぐ西側を並進する「見沼代用水東縁」沿いに北進(厳密には北西方向)を開始する。

 堤防になっているこの土手の上の道には、かなりな年数の桜木が延々と無数に植えられており、花見時節には絶好のビューポイント、否、ビューゾーンになるだろうと思いつつ行くと、「平成桜 平成11年4月吉日 元大宮市長馬場隆二 筆」と刻んだ黒御影石の碑がある。数十年経った古木が殆どなのになぜ平成桜というのか、イマイチ理解しがたいのだが、何となくこの堤の桜木が大切にされている雰囲気は感じられる。

見沼弁財天(12:09)・・・さいたま市見沼区加田屋1丁目25−1

 見沼田圃や左手を並行する加田屋排水路を眺めながら行くと、「見沼弁財天」がある。

 この地点から西方に見沼たんぼを眺めた景観は素晴らしく、 四季折々の変化が楽しめそうだ。「加田屋新田」とよばれる地域だが、「加田屋」は先述した通り名主だった「坂東家」の屋号である。その広々とした田園風景の中に建つ朱塗りの「見沼弁財天」は、景観にピッタリマッチした佇まいである。

 お参りをして、一休憩をと前のベンチに座ると、小川氏が持参の干し柿を各自にご馳走してくれ、一同の空腹を癒やしてくれる。謝々!

光徳寺(12:23)・・・さいたま市見沼区大字膝子315

 辨財天から少しバックし、右後方の橋を渡って「さぎ山記念公園」方面から来る日光御成道に戻ったのが12:17で、狭い歩道を少し進むと右手に「光徳寺」があるので立ち寄る。

 光徳寺は、「江長山」と号する文禄4年(1595)開創の曹洞宗の寺院で、本尊に薬師如来を安置している。本堂の大屋根に葵の御紋がある寺はよく見掛けるが、この寺の場合は右起左行の「山長江」の山号が金色に輝いている珍しいパターンの寺である。

               
光 徳 寺
 光徳寺は、曹洞宗の寺で江長山と号し、片柳の萬年寺の末寺で、本尊に薬師如来を安置している。
 寺の開創は文禄四年(1595)といい、開山の僧快巌は慶長六年(1601)十一月十九日に亡くなっている。
 当寺は、江戸時代の三代将軍徳川家光以降代々十三石の寺領を賜わり、夫れを証する朱印状が残されている。
 寺の西側を通る日光御成道は、将軍の日光東照宮参拝に際しての専用道として使われ、当寺はその休息所となっていた。休息所の将軍御愛用の品は残念ながら失われ、今では見ることができない。
               昭和五十九年三月
                              さいたま市(注:市名訂正)

               光 徳 寺
 光徳寺は、徳川第3代将軍家光から慶安2年(1649)に寺領13石を賜っています。江戸時代を通して将軍家から寺領を賜っているのは市内では13寺社だけですので、将軍家が光徳寺を重くみていた証といえましょう。9通の朱印状が今も大切に保管されています。
 天保14年(1843)12代将軍家慶の日光社参にあたっては休憩所に定められており、将軍は休憩後、寺から岩槻城下手前の綾瀬川まで歩き、大橋を渡ったのち駕籠に乗り岩槻城へ入っています。なお、日光社参は家慶を最後に再び行われることなく、25年後に明治維新を迎えることとなります。
                              さいたま市教育委員会
                              生涯学習部文化財保護課

膝子の一里塚(12:29) ・・・さいたま市見沼区大字膝子527-1他

 その先右手に、江戸から8 番目の一里塚「膝子の一里塚」がある。道路拡幅工事のために縮小され、塚も無きに等しい程度に東側の塚のみが小さく現存している。旧大宮市内に現存する唯一の一里塚だそうで、市指定文化財になっている。

 塚の上には何代目かの榎が植えられており、その右側に「弘法大師供養塔」と、一石に6像を陽刻した珍しい「六地蔵」があり話題になる。

昼食(12:33~13:03)

 その先右手に、地図では「御成そば」の店があることになっていたが、行ってみると「うどん彩讃」という店に変わっている。彩の国の讃岐うどんという意味だろうか。あつあつぶっかけ玉たまご入り饂飩を注文し、他の3人はあつあつぶっかけ饂飩+炊き込み飯を注文したところ、饂飩の量が大盛り並の量で炊き込みご飯は余分だったと苦笑する一幕もあった。

(参考)満蔵寺・・・さいたま市見沼区大字膝子902

 ようやく腹の虫をいやしたので、再出発する。七里(ナナサト)中学校の手前右手に入り込んだ所に真言宗の寺院「満蔵寺」があるが、片道300m位ありそうなので相談の上立ち寄りをカットする。この寺の見どころとしては、円空仏や石塔婆がある。

<円空仏>

 昭和36年12月 9日指定の市指定有形文化財(彫刻)「円空作阿弥陀像」(通称:円空仏))一躯があるが、市内の大宮区高鼻町4-219 にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に寄託されており、当寺には安置されておらず、解説板のみが建っているらしい。この円空仏は、岩座上に坐する杉材の一木造りで、総高46.5cm、像高27.0cm、像幅19.4cm、像奥11.0cmある由。

 円空(寛永9年=1632~ 元禄8年7月15日=1695.8.24)は、江戸時代前期の天台宗の僧で、「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った仏教彫刻で知られている。その生涯に12万体の仏像を彫ったとされ、飛騨・美濃地方の各地に円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されて、内岐阜県内のみで1,000体を数えるという。多作であるにも拘わらず雑なものはなく、作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもち、ゴツゴツした野性味に溢れながらも不可思議な微笑を浮かべているのが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てている。

<石塔婆>

 また、境内の一角にある「石塔婆」は、嘉暦四年(1329)九月二十三日の銘があり、阿弥陀三尊種子・枠線・蓮座・光明真言等があり、総高110.5cm、最大幅34.9cm、最大厚3.3cmで市指定有形文化財に昭和36年 1月19日に指定されている。

地蔵尊(13:21)

 その先左手の道路が拡幅されており、延宝元年(1673)銘の古い地蔵尊が建っている。周囲には数基の墓もある。「七里中学校」前のY字路で、県道105号を左に分け、御成道は右斜めの県道65号へと入っていく。

道標(13:32)

 それからは暫く歩く。「綾瀬川」の手前の交差点の右手に、正徳3年(1714)造立の道標があり、「江戸道」「岩槻道」「原市道」「慈恩寺道」「川口善光寺道」などの文字が辛うじて読み取れる。解説板らしきものがあるが、字は薄くて判読不可能である。市の教育委員会は活動停止中?

城下町独特の湾曲道

 「深作川」を「古簀子橋」で渡り、更に国道16号を越えた先の「大橋」交差点で県道2号に合流し、右折して「綾瀬川」に架かる「大橋」を渡り、その先右手にセブンイレブンがある所の信号で左折するのだが、地図を見ながら歩いていたら、県道2号に合流直前i段差があったらしく転倒してしまった。幸いにして大事には至らなかったが、歩きながらの地図読みは危ない!危ない!
 往時の街道筋どおりに「東武野田線」の線路を越えて右カーブし、「東北自動車道」や国道122号線と交差した先で右折して途中を左斜めに入っていくと、先刻セブンイレブンで曲がった地点の道筋に戻ってくる。

 この湾曲した部分は、「馬坂」と呼ばれ、昔は坂になっていたようだが、太古はちょうど馬坂の線まで海だったという地形図があるとのことである。
 しかし、要するに岩槻宿は日光御成道第4番目の宿場であると同時に、将軍が日光社参時に宿泊する「岩槻城」の城下町でもあり、そうした地形上の理由と共に、警備戦略上、城下町独特の曲がりくねった道筋になっていたことも否めまい。東海道掛川宿(掛川城下)の7曲りや、岡崎宿(岡崎城下)の27曲りなどを見ている身には、当然のこととして理解できるところである。

加倉観音(13:52)

 本来なら東北自動車道の先をそれに沿って行くべきだが、線路で道が遮断されていたため直近の踏切で渡り返して進むと、左手に事前マークしていなかった「加倉観音」があるのに気づき、立ち寄って参拝する。
 ここには、「晴師観音」という初めて知った名前の観音様が安置されている。

               
加倉観音の由来
 御堂内に安置されている一寸八分の晴師観世音菩薩は中国から佛教を広める為に浅草観音、慈音寺観音と共に渡来された観音であると伝えられている。
 太田道灌公が公用で九州に赴いた折門司の古美術商から購入された観音であり道灌公は出陣の際には髻(タブサ)の中に納めて戦った守護神である。
 道灌公は大願成就のあかつきには岩槻城内の一画に御堂を建立して庶民に信仰を広めたいと願っていたが主君上杉氏に謀殺され約三百年の間、地中に埋もれたままになっていたが、明治二十三年四月二十三日渋江の住人によって掘りあげられ現在地に祭られる。
 御堂は老朽化により平成元年四月に新築されたものである。
                              堂 守


人形の町岩槻

 13:57、先刻の県道2号線の延長である国道122号線に戻ると、愈々人形店の立ち並ぶ岩槻の街中だが、角に平成六年八月造立の「人形のまち いわつき わらべ人形像」が歓迎してくれる。

久伊豆神社

  その先は右も左も人形店が立ち並んでいるが、右手に小さな久伊豆神社の朱塗りの門が見える。曾てこの日光道中歩きの時に立ち寄った越谷の古社「久伊豆神社」を思い出す。

 岩槻市内には、このほか、宮町2丁目・谷下・黒谷・村国・南下新井・柏崎・真福寺の各所に同名の久伊豆神社があり、岩槻区内には合計8社の同名神社があるが、岩槻区宮町2-6-55にある久伊豆神社が岩槻の総鎮守としてその中心のようなので、ご当地の神社は小さな神社でもあり立ち寄らず、宮町の久伊豆神社への立ち寄りをその位置的関係から次回の立ち寄り先として考えることとする。

浄国寺・・・さいたま市岩槻区加倉1-25-1

 その先を左に入った所に古刹「浄国寺」があるので立ち寄る。
 「栴壇林」の扁額を掲げた唐破風門を入ると、棟に金色の葵紋を戴く大きな本堂が現れると期待していたが、大々的な補修工事が行われており、大変な古刹なのに残念である。。

 「仏眼山英隆院浄国寺」と号する浄国寺は、岩槻城主太田氏房の発願によって天正15年(1587)に建立され、同19年に徳川家康から寺領50石の寄進を受けている。山号の由来は釈迦如来の左眼舎利を所有していることから、院号の由来は岩槻城主阿部正次の法号から、夫々名づけられているそうだ。

当寺は、浄土宗の僧侶養成機関である「関東十八檀林」の一つとなった名刹で、江戸時代には浄土宗の触頭であった。また、元和9年(1623)、阿部正次が岩槻藩主になって以降は、同家菩提寺になっている。

 *歴代住職の公務日誌「浄国寺日鑑(77冊)」は、享保元年(1716)~明治6年(1873)迄の158年間に亘っての同寺における法事や寺領経営、本寺や岩槻藩との交渉などの記事を主に記され、埼玉県の指定有形文化財(古文書)に指定されている。

 *同じく埼玉県指定有形文化財(工芸品)指定のお釈迦様の左眼の舎利を内蔵するという「仏眼舎利宝塔(1点)」を安置している。

 *岩槻城主として最高の石高(11万5千石)を戴いた藩主阿部家の墓所がある。平成18年3月さいたま市指定史跡に指定されており、阿部家初代・三代、三代の母(正寿院)、殉死した家臣の墓及び灯籠の計12基で構成されている。殉死は、のち寛文3年(1663)の武家諸法度改正により禁止された。

※参考<歴代岩槻城主>・・・親藩
  年代      城 主 石 高
1457(長禄元)頃 太田氏(資家、資頼、資時、資正、氏資、北条氏房) ?
1590(天正18)  高力氏(清長、忠房) 2万石
1620(元和6)   青山氏(忠俊) 4万5千石
1623(元和9)   阿部氏(正次、正澄、重次、定高、正春、正邦) 5万5千石~11万5千石
1681(天和元)  板倉氏(重種) 6万石
1682(天和2)   戸田氏(忠昌) 5万1千石
1686(貞享3)   松平氏(忠周) 4万8千石
1697(元禄10)  小笠原氏(長重、長熈) 5万石~6万石
1711(正徳元)  永井氏(直敬、尚平、直陳) 3万3千石~3万2千石
1756(宝暦6)   大岡氏(忠光、忠善、忠要、忠烈、忠正、忠固、忠恕、忠貴) 2万石~2万3千石


 また、境内には、将軍の日光社参時に岩槻城で宿泊した際の御用水となった「御茶水井戸」や、元禄元年(1688)銘の岩槻型青面金剛像庚申塔、元禄3年11月(1690)銘の岩槻型青面金剛像庚申塔などがあるらしいが、工事中なので探すのは諦めた。。

洞雲寺(14:18)・・・さいたま市岩槻区加倉4-21-1

 その浄国寺の向かいを少し入った所にある筈の、立派な山門を有する古刹「洞雲寺」を目指したが、道を一本早く入ったため山門に達せず、少しく時間を費やしたが、14:18に辿りつく。

 洞雲寺は、岩槻名所巡りの遊覧コースの一つとして親しまれる由緒ある名刹で、戦国時代の天文5年(1536)岩槻城主太田資頼が創建し、本堂などの諸堂舎はその後の火災で焼失したが、山門だけは焼失を免れたと言われている。

 洞雲寺の山門は幾度か修復されているものの、頭貫の木鼻に古い様相が窺え、昭和37年 9月10日に岩槻市指定有形文化財(建造物)(現在は区指定)になっている戦国時代建立の四脚門形式で、大きさはさほどでもないが実にいい佇まいである。

 境内には古木が多く四季折々の風情を楽しめるほか、元禄7年(1694)9月造立の「庚申塔」がある。この庚申塔の形態は破風付角柱型で、本塔の大きさはH107cm×W52cm×D31cmのもの。

 また、正面に向かって合掌している青面金剛もある。頭上左右に瑞雲と日月が、上方の手に人身と剣、下方の手に弓・矢を持った姿で、金剛の足元に両手で踏ん張った鬼、その両脇に雌鶏と雄鶏がいる。三猿も見え、その下に「根元半右衛門」以下15人の銘が刻まれ、左側面に「元禄七甲戌九月吉日」の銘、背面に「高山善兵衛」以下15人の銘が刻まれ、右側面には「為奉造庚申供養現世安全也」と、「おはま おとめ おはつ おさき おま? こなん おとら おひめ 朧月妙岩禅定尼」の、女性名が刻まれている。

               
洞雲寺と山門
                              所在地 岩槻区加倉一三〇五
 洞雲寺は、曹洞宗に属し、入間郡越生町にある龍穏寺の末寺で、本尊は釈迦如来を安置している。
 言い伝えによると、昔、ここに塚があって毎夜鬼火がもえ、不思議なことが続いた。そこで、城主太田美濃守資頼は、龍穏寺の布州東幡禅師のほまれ高きを聞き、師を招き二十一日間の祈祷をしてしずめた。その功を徳として禅師のために寺を建立し、加倉山洞雲寺を開山した。また資正はこの地に隠棲し二誘導となり三楽斉と号した。時に天文元年(1532)四月のことである。
 宝永年間(1704~11)の大火により当時の本堂は焼失したが、この山門だけは類焼を免れ、いくどかの修理のあとを残しているが大部分は当時のままである。
 昭和三十七年九月十日市指定有形文化財(建造物)となる。
               昭和五十九年三月
                              岩 槻 市


岩槻宿

 岩槻は日光に社参する将軍の最初の宿泊地だった。太田道灌が築いた岩槻城の城下町でもあり、城下町と宿場町双方の顔をもって発展したが、国内有数の人形の産地としても夙に名高く、日光東照宮造営に携わった工匠が岩槻にとどまり、人形造りを始めたのが発端と言われている。本陣1・脇本陣1・旅籠10であった。

 人形の町と言われるだけあって、街道筋には人形店が実に多い。街道左手に人形の製作工程や歴史の解説と展示を中心に、人間国宝平田郷陽作のわらべや日本最古の座り雛、約500体の裃雛などの名品を閲覧できる「東久人形歴史館」(14:24)(入場料500円)もあるが、入館はせずパス。

 「市宿」というバス停があるが、この辺りは岩槻宿の入口で、「市宿口」と呼ばれ、その昔は木戸があり番所が置かれていたそうだ。左手に「市宿通り」の標識があるが、市は中世末から盛んだったもので、慶長6年(1601)には岩槻城主高力清長から「市掟」が出されており、近世を通じて毎月1・6日を市日とする六齋市が開かれていたという。

岩槻郷土資料館(14:30)・・・さいたま市岩槻区本町2-2-34

 その先の右手に岩槻の歴史を紹介している「郷土資料館」があり入館する。昭和5 年(1930)岩槻区内初のコンクリート建築として建てられた岩槻警察署旧庁舎を利用して、昭和57年5月1日に開館した市立博物館の分館にあたり、天井の梁や窓などに見られるアーチ状の造形やアールデコ調の装飾が随所に施され、大正期の建築様式の名残を留めている。
 警察署旧庁舎といえば、曾て中山道を歩いていた時の「旧本庄警察署庁舎」を「本庄市歴史民俗資料館」として使っていたのと同じであることを思い出す。

 ここでは、主に岩槻区内の発掘物、歴史的史料を昔ながらのショーケースにいれて展示するレトロな方式だが、さすが廃藩置県後、一時期、埼玉県の県庁がおかれた岩槻だけあって、展示を見ていても歴史的な奥深さが多分に感じられる。
 館内の常設展示は、「大昔のくらし」、「岩槻のあゆみ」、「くらしの道具」の三本柱で構成し、関東戦国史に大きな役割を果たした岩槻城の資料や、考古学史上著名な真福寺貝塚の出土品などの民俗資料展示のほか、市立博物館での企画展・特別展などの巡回展示も行っている。

高札場跡(14:44)

 郷土資料館の数分先、街道左側に「日光御成道岩槻藩高札場」が復元されている。この高札場は最近造られたもので、江戸時代の高札場はもう少し先に有ったらしいが、「生類憐れみの令」の手作りの高札や、手書きの当寺の宿内分間地図風の絵図などが掲示されているが、街おこし策の一環と思われる。

田中屋本店(14:46)

 高札場の斜め向こうにある「田中屋本店」という嘉永年間(1844~1855)創業の老舗の和菓子店に立ち寄り、名物と言われる「しおがま」ほか、土産を買い求める。「しおがま」は結局我ら夫婦には甘すぎたが、孫が美味しいと言って食べてくれた。

本陣・脇本陣・問屋場

 その先の埼玉信金辺りに「本陣」「脇本陣」が、また、先ほどの高札場辺りに「問屋場」があったことが、先刻の高札場跡に手書きの地図で表示されていたが、現地には何の標識もない。

ゴール(14:55)

 その先の「駅入口」交差点で本日の街道歩きを終え、左折して東武野田線岩槻駅に向かう。時間的に早いため打ち上げ場所が限定されるが、駅前のビルの4Fにあった中華店で15時過ぎから小一時間、生ビールなどで軽く打ち上げ、次回の再会を約して15:56発大宮行き列車で帰路についた。