日光御成道餐歩記~#4
Top Page
Back
 2010.02.07(日) 日光御成道 #4 岩槻駅 ~ 幸手駅 15.2km

■スタート

 9:30集合の案内だったが、全員早めに集合し、9:24には岩槻駅をスタートする。
 きょうは、日光御成道シリーズの最終回だが、1月18日の「たつみ会(会社時代の同期会)」参加時に声掛けしておいた地元の野呂氏が参加してくれ、常連の小川・村谷・長塚の各氏と共に5名での街道歩きとなった。

芳林寺(9:29)・・・さいたま市岩槻区本町1-7-10

 まず、駅から南進し、最初の信号を右に入り、直ぐ左折、また直ぐ右折して、前回立ち寄り漏れになっていた「芳林寺」に向かうと、右手に広い境内を有する曹洞宗の「太平山芳林寺」があり、「芳林寺領」と刻まれた、大きく古い石柱が建ち、真っ先に目立つのが鉄扉の内側にある「太田道灌公の像」やその前の解説板である。

 また、真新しい六地蔵の横には、古い石の道標「右 日光御成街道」の道標が建っている。
 門内に入ると、右手には「正一位寶聚稲荷大明神」「金地蔵大権現」、左手には「地蔵堂位牌堂」「弁天堂」がある。
 
               
岩槻城・太田道灌・芳林寺
 岩槻城は、室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457)太田道真・道灌父子が築城したと伝えられる。
 文明十八年(1486)、太田道灌が神奈川県の伊勢原にあった主君・上杉定正の館で暗殺された時、父の道真と道灌の養子・太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受けてきたと言われている。
 そして、それらは埼玉県越生町の龍穏寺とここ芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。

 また、芳林寺は太田三楽斎資正が、東松山城(埼玉県東松山市)の城代難波田正直の娘婿として活躍していた頃に、同地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したと伝えられ、資正の嫡男・太田氏資(岩槻城主)の時代に名前を地蔵堂から「芳林寺」と改めて、母・芳林妙春尼の御霊をはじめ、多くの合戦で亡くなった将兵や町内外の檀家の方々のご先祖の御霊を供養して、現代まで続いている由緒ある禅寺である。

               太田道灌公の像
 この太田道灌公の騎馬武者像は、東京都葛飾区柴又在住の世界的に著名な彫刻家である冨田憲二・山本明良両先生(彫刻工房、十方舎)の作品です。

               曹洞宗太平山芳林寺由緒
 当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。
 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(1486年)七月二十六日道灌公が主君扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿春苑道灌大居士と諡したのであった。
 しかし、永正十七年(1520年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎弾正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
 なお、道灌公が相州伊勢原の上杉定正の館で暗殺された時、父の太田道真公と道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(1567年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。
 また、氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
 天正十八年(1590年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。
 そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(1599年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。
 それ以来年月を歴てまたも文化八年(1811年)二月十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(1841年)五月再建したものといわれる。
 明治四年(1871年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。
               昭和五十三年十月            太平山芳林寺
                                   岩槻市観光協会
          石碑建立志納金寄付者御芳名(略)
               平成二十年八月盂蘭盆 再建


 墓地内には、黒御影石による事蹟碑付きで、文明18年(1486)扇谷上杉氏に討たれた太田道灌の慰霊碑があるほか、永禄10年(1567)里見氏と戦って討死した5代目岩槻城主太田氏資の宝筐印塔、徳川家康の腹心で「仏の高力」と呼ばれた岩槻城主高力清長の長男・高力正長の墓もある。

遷喬館(9:48)・・・さいたま市岩槻区本町4-8-9

 山門から南下して街道に出て左折し、「駅入口」信号の先の信号を右に入って直ぐ左折し、暫く行った右手にある茅葺屋根の「岩槻藩遷喬館」に立ち寄る。ここは、平成15年度から3ヵ年かけて解体修理復原工事をし、平成18年5月1日から一般公開されている。

 道路に面した入口角に「裏小路」の石柱があり、側面に「岩槻城内侍屋敷の路名。横町との境・裏小路口から渋江小路に至る江戸時代の終わり頃、この小路に面する一画に児玉南柯が藩校遷喬館を開いた。 平成元年七月一日 岩槻市教育委員会」と記してある。この後も、街中を歩くとこの種の標柱が各所に建てられており、教育委員会のきめ細かな配慮の跡が見られる。

 「遷喬館」の名は、「詩経(中国最古の詩集)」の「出自幽谷 遷于喬木」に由来しているそうで、学問を欲し友を求めることを、鳥が明るい場所を求めて暗い谷から高い木に飛び移るのに例えた内容で、学ぶ者に高い志を持つことを促している由。

 遷喬館は、岩槻藩士の儒学者「児玉南柯(1746~1830)」が寛政11年(1799)54歳の時に開いた私塾で、約20年後の文政3年(1820)に藩主大岡忠孝がその功績を讃えて藩校として藩士の子弟の教育施設となった。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に、武芸稽古所、菅原道真を祀る菅神廟(天神社)、南柯の自宅「梅亭」、築山・池泉・展望台などが設けられていた。現存する建物は、遷喬館の学舎として使用されていたもので、15畳と9畳からなる2間続きの教場を備えており、県文化財に指定されている。

 児玉南柯は、延享3年(1746)に甲府の豊島家で生まれ、11歳で岩槻藩士の児玉親繁の養子となり、16歳で藩主大岡忠喜に仕えた。23歳で江戸藩邸に勤務し、以後様々な要職を歴任し、34歳の安永9年(1780)南京船漂着事件の処理で名声を挙げ、43歳の時に部下の不正の責任を取って職を辞し、53歳の寛政11年(1799)に家塾遷喬館を開設して、岩槻藩の子弟教育に情熱を注いだ人物である。

 生徒数は40人で、5,6歳から遅くも20歳まで。四書五経を教え、春・秋2回の試験で成績優秀な者は江戸の昌平校等に藩費で留学させ、戻ると藩の重職に登用した。「岩槻に過ぎたるもの 児玉南柯に時の鐘」と言われて尊敬されている児玉南柯の82歳の自画像もある由。

 5代の藩主に仕え、85歳で亡くなったというから当時としては稀な長寿ぶりである。永世百石取りだったそうだが、内25石を藩校に援助したという。先述の通り甲府の豊島家の生まれだが、江戸城大奥の江島(絵島)・生島事件(正徳4年=1714)の江島が、祖父の姉にあたる由で、その事件の時は、祖父は旗本だったが、京都に放浪、その時京都の女性との間にできたのが父で、その後甲府に行って、地元の女性との間に南柯が生まれたという。

 教室には、和綴じの本を横にして置く押入、長机を収納する押入、私物を置く部屋などが工夫されている。柱には、刀傷らしき跡もある。平成15年から17年度に復原解体工事を行い、現在は、公開施設として利用している。

 岩槻城は、次々と藩主が替わったが、幕末の藩主大岡氏は南町奉行だった大岡忠相の分家筋にあたる由。

願生寺(9:58)・・・さいたま市岩槻区本町3-15-12

 その先から地元の人しか通らないような細い露地に入って街道に戻り、街道左手の「浄土宗・願生寺」に立ち寄る。

 当寺は大永年中(1521~1528)寂譽門入和尚が開山した古刹で、寄せ棟造の本堂は素晴らしい茅葺屋根で、その厚さと風格に暫しうっとりする。実に美しく、佇まいの良い寺である。
 また、狭いながらも参道両脇の境内には手入れの行き届いた枯山水の庭が配置され、本堂の風格と相俟って佇まいの良さを弥が上にも高めている。

 墓地内迄は遠慮してしまったが、市指定有形文化財の「阿弥陀三尊図象月待供養板碑」があり、門前に詳細な解説板が建てられている。

          
さいたま市指定有形文化財(考古資料)
               阿弥陀三尊図象月待供養板碑 一基 平成十七年三月二日指定
 板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて墓塔、供養塔などとして建てられたもので、板石塔婆、青石塔婆ともいわれます。秩父に産する綠泥片岩など、石材に恵まれている埼玉県付近には特に多く見られます。
 現存高七十センチメートル、幅三十三センチメートル、線彫りした阿弥陀如来像しか残っていませんが、欠損した下部の一部に月輪が見えることから、観音菩薩と勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像を図像で表現したことがうかがえます。また、残っている銘文から室町時代から盛んに行われるようになった「月待供養」の板碑であったと考えられます。月待供養とは、二十三日などの月の出を待つ民間信仰で、月宮殿におわす月天子を拝み無病息災を願ったもので、さいたま市は、県内でも月待信仰が盛んな地域であったといわれており、この板碑も、当時の民間信仰を知る上で貴重な資料です。
               平成十九年三月
                              宗教法人 願生寺
                              さいたま市教育委員会

愛宕神社の大構え(10:05)・・・さいたま市岩槻区本町3-21-25

 次の信号を左折し、N生命の手前を入っていくと、左正面に30段弱の石段があり、高台に鎮座する「愛宕神社」に立ち寄る。

 愛宕神社の創建年代は不詳だが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記載されている。伝承によれば、太田氏が岩槻城を築城した際、小さな祠を見付け、それを土塁上に移して祀ったと言われている。その日が現在の7月24日だったので、現在でもその日に祭礼が行われて境内では朝顔市も開かれているという。

               
岩槻市指定文化財 岩槻城大構
                         指定年月日 昭和四十九年九月二十六日
戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さは約八kmに及んだという。
 この大構は、天正年間(1580年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭とするため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
 廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。


久保宿町の一里塚跡(10:13)・・・さいたま市岩槻区本町6-1-1

 その先、右手にある岩槻区役所(元市役所)前南東角に、江戸から9里目の「一里塚跡」碑が建てられている。現在はさいたま市岩槻区役所だが、その前身:岩槻市役所建設時に往時の一里塚を撤去してしまったと言うから驚きだ。せめて片側のここだけでも塚などを残せなかったのかと残念に思う。現在は真新しい解説板付きの標柱のみである。

               
日光御成道一里塚跡
 (前略)日光御成道が通っていた岩槻でも、笹久保、岩槻城下久保宿町、相野原(現存、県指定史跡)の三か所に一里塚が設けられていました。その内の岩槻城下久保宿町の一里塚は、現在の岩槻市役所前のあたりに設けられていました。(以下略)


時の鐘(10:18)・・・さいたま市岩槻区本町6-229-1

 街道を東進し、ここを左折して北進していくのが日光御成道なのだが、寄り道のため右折して次の露地を左折すると「岩槻に過ぎたるもの 児玉南柯に時の鐘」と言われた「時の鐘」がある。日光御成道の解説と絵図もあり、本陣の場所が街道左手、さっき見た願生寺の南西であったことなどもよくわかった。

               
岩槻市指定文化財 時の鐘
                         指定年月日 昭和四十九年九月二十六日
 岩槻城下の時の鐘は、寛文十一年(1671)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。五〇年後の享保五年(1720)、鐘にひびが入ったため、時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。鐘は、一日三回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、一日十二回撞かれていたようです。(『新編武蔵国風土記稿』他)。
 鐘楼は、嘉永六年(1853)に岩槻藩により改建されており(棟札銘)、方十三.一m、高さ二.一mの塚の上に建っています。
                              岩槻市教育委員会


 埼玉県では川越の時の鐘が有名で、以前見学したことがあるが、ここ岩槻の時の鐘は今でも午前6時と午後6時に、市民に時を知らせているそうで、江戸時代にはその鐘の音が9里離れた江戸まで聞こえたという。

 城下に時を知らせるこの鐘には、 鐘撞き役として足軽2名、中間2名が任命され、1刻(今の2時間)毎に昼夜を徹して12回時を告げていた。 その後、鐘がひびが入り、音色が悪くなったために享保5年(1720)に時の城主永井直陳が改鋳し、それが現在残っている鐘である。鐘楼は天保時代に焼失し約150年前の嘉永6年(1853=ペリーの黒船来航の年)に建て替えられた。時の城主は大岡忠恕である。

 明治維新による大政奉還や廃藩、太陽暦の採用等により「刻」から24時間制に変わり、 毎日24回鐘を撞く負担や時計普及に伴う時の鐘の必要性減少などの理由で衰退していった。しかし、歴史的文化的観点から大正頃に復活し、朝夕6時と正午の3回鐘を撞くようになり、戦後は朝夕の2回になっていた。

 撞き手は、当初は士族会の人たちが輪番で勤めていたが、鐘楼のすぐ側に住む倉持氏が当時は職業柄いつも自宅にいて適任ということで頼まれ、爾来、2000年末日まで代々撞き継いできた。2001年元旦以降機械化され、朝夕6時に自動的に鐘が撞かれているという。打数は毎回6打。間隔は24秒、所要時間2分の由。 鐘楼は老朽化し、平成5年に鐘楼袴部の板張りの張り替え、屋根瓦の葺き替え等の改修を行っているが、鐘楼の躯体は150年前の侭である。

 寛延3年(1750)には10ヶ所あったと言われる幕府公認の江戸の時の鐘と近郊藩の岩槻、川越の時の鐘の中で、 現在も日に複数回の時を知らせ続けているのは、上野寛永寺の鐘、岩槻のこの鐘、川越の鐘の3ヶ所だけになり、その中で、現存する鐘としては岩槻の鐘が一番古いというから、頭記の「岩槻に過ぎたるもの 児玉南柯に時の鐘」も頷けるというものだ。
  1 岩槻の鐘  1720年制作   2001年(平成13年)以降機械で撞く
 2 上野の鐘  1787年     現在でも人が撞く
 3 川越の鐘  1894年     1975年(昭和50年)以降機械で撞く

 余談だが、鐘の撞き方は、まず、捨て鐘を三つ(○-○○)、間をおいて、それから規定の鐘を撞く。例えば○---○--○-○(四つの場合)。なお、明け六、暮れ六を季節に合わせて調整する「不定時制」だったことは衆知のとおりである。

 鐘楼のある広場の端に、次のような解説板も建っている。

               
城下町岩槻
 鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる幹線道が元荒川(当時の荒川の本流)を渡る地点にあたっていました。奥大道は鎌倉街道の一つで、関東の政治の中心・鎌倉から北関東・東北方面へと通じる街道です。幹線道と水上交通路でもある大河が交差する岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性があります。
 15世紀の後半以降、戦国の動乱が恒常化すると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、岩槻城を中心とする都市形成が本格化しました。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献史料に現れ、市町などの町場の形成が進んでいました。城下町岩槻の成立です。そして、戦国時代の末、天正15年(1587)頃には、城下町の周囲に大構と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻城と一体化し、岩槻城主の領域支配の核であり象徴でもある城下町が確立しました。
 江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、岩槻城大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いに町家(商工業ゾーン)が配置されました。また、旧来の街道は将軍の日光参詣路でもある日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなりました。
 武家地は諏訪小路、裏小路などの街路名で呼ばれ、生け垣や板塀で区画された広大な武家住宅が形成されました。大構の出入り口と、武家地・町家の出入り口は口と呼ばれ、門・木戸が設けられていました。城下町に由来する文化財の一つ、時の鐘は、寛文11年(1671)、岩槻城主阿部正春が、そうした口の一つ、渋江口に設置したものです。
 町家では、「うなぎの寝床」などといわれる細長い区画に区分され、さまざまな業種の商家などが通りに面して店を構えていました。町家の商家は岩槻城主や家臣の需要にこたえるばかりではなく、周辺農村に必要物資を供給する役割も果たしていました。町場の中心である市宿町では、戦国時代以来の六斎市(毎月六回開かれる定期市。市宿では一と六の付く日に開かれた)も開かれ、特産の岩槻木綿の取引などでにぎわいました。


岩槻城跡(現岩槻城址公園)・・・さいたま市岩槻区太田3丁目4番ほか

 街道筋からは大分逆方向になるが、将軍の日光御成街道の岩槻宿を通って岩槻城跡に立ち寄らない訳にはいかないので、予て中山道歩き時に入手済みの「岩槻区ガイドマップ」を片手に訪ねていく。

 すぐ先で左折し、「大手口」の標石が民家のブロック塀の凹部に建っているのを10:24に確認し、その角を南進していく。360mばかり南進した左手に「諏訪神社」が左手にあるので参拝し、その脇を抜けて東進し、突き当たりを右折する。その右折箇所に往時の岩槻城郭の図入り解説板が建っている。現在はその曽ての広大な岩槻城の一部分が「岩槻公園」として右手の方に残っている。

               
岩 槻 城
 岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。
 16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。
 北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。
 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。
 室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。
 岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地を挟んだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構が造られていました。
 城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。
 現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。


 岩槻城は、武蔵国埼玉郡岩槻(現在のさいたま市岩槻区・合併前は岩槻市)にあった岩槻藩の藩庁。岩槻の地名の由来は「巌(いわお)をもって築けるがごとき城」という意味から起こり、古くは「岩付」や「岩築」の文字が用いられ、「岩槻」となったのは宝暦・明和の頃からである。

 別名を「白鶴城」とも言われ、長禄元年(1457)足利成氏(古河公方)の執事・扇谷上杉持朝が太田道灌の父・資清(一説には道灌)に命じて築城させたと伝えられ、最近の研究では成田正等による築城ともされているらしい。

 いずれにしても、道灌以後の太田氏居城となったが、大永四年(1524)には小田原後北条氏の手により一旦は落城するが、この時は、道灌の養子の嫡男・資頼が直ぐ奪い返している。戦国時代の剛勇で名高い資頼の子・資正(三楽斎)も岩槻城を橋頭堡として後北条氏と徹底抗戦をしたが、永禄7年(1564)、家督相続に伴うお家騒動に乗じられ、岩槻城は攻略されてしまう。

 以後、後北条氏一族が太田氏を名乗り、岩槻城主になった。資正は、近隣の成田氏や常陸国の小田氏・佐竹氏と手を結び、岩槻城の奪回に執念を燃やすが果たせず、やがて戦国時代の末期・天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻略の際に浅野長政の火攻めで岩槻城は落城してしまった。

 徳川家康の江戸入府後は高力清長が城主になったが、その後、青山-阿部-岩倉-戸田-小笠原-永井-大岡と明治4年の廃城まで、有力譜代大名が入れ替わりつつ配置された。江戸時代には、現埼玉県には藩が4つ(川越・岩槻・忍・岡部)しかなく、殆どは天領や旗本知行地で、「川越城」・「忍城」と共に県内三名城の一つに数えられていた。

 城の北東から南東部にかけては、元荒川の流れを自然の外堀とし、台地と低地を巧みに組み合わせ、西側は高さ2~3mの土塁が城下町を包むように巡らされていたが、廃城後は、本丸周辺部は宅地化され、殆ど遺構らしきものが残っておらず、南側にあたる鍛冶曲輪と新曲輪は岩槻公園として整備され、僅かに新曲輪と部分的に残る空堀・土塁が往時の遺構として面影をを残している。

 公園としてはシンボルである菖蒲池を中心に広い芝生広場が広がり、約800本ある桜の名所としても有名であるほか、池には朱塗りの八ツ橋が架けられている。からくり時計、平成8年にカナダ・ナナイモ市と友好都市提携をしたことを記念するトーテムポール、ロマンスカー「きぬ」号なども園内に配置され、家族連れで寛げるスペースになっている。

<堀障子(ほりしょうじ)>

 所在地は新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀である。発掘調査の結果、掘底まで3m程度埋まっており、掘底には堀障子のあることが確認された。 堀障子は畝とも言い、城の堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵の移動を妨げたり、飛び道具の命中率を高めることなどを目的に築かれたと思われ、小田原の後北条氏の城である小田原城、山中城(静岡県)や埼玉県内の伊奈屋敷跡(伊奈町)などからも見つかっており 後北条氏特有の築城技術と見られている。

 岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており 底からの高さ約90cm、幅は上が90cm、下で150cmあり、その間隔は約9mあった。 この遺構の発見で、堀が戦国時代の終り頃に後北条氏によって造られたことなどが判明している。

<岩槻城城門(黒門)>

               
岩槻市指定文化財 岩槻城城門
                         指定年月日 昭和三十三年二月二十一日
 この門は岩槻城の城門と伝えられる門である。岩槻城内での位置は明らかではないが、木材部分が黒く塗られていることから、「黒門」の名で親しまれている。
 門扉の両側に小部屋を付属させた長屋門形式の門で、桁行(幅)約十三メートル、梁間(奥行)約三.七メートルである。屋根は寄棟造で瓦葺。
 廃藩置県に伴う岩槻城廃止により城内より撤去されたが、昭和四十五年(1970)城跡のこの地に移築された。この間、浦和の埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などとして、移転・利用された。
 修理・改修の跡が著しいが、柱や組材、飾り金具などに、重厚な城郭建築の面影を伝えている。岩槻城関係の数少ない現存遺構として貴重な物である。

 昭和29年に岩槻市に移管され、昭和45年に現在地に移設されている。

<裏門>

 裏門は江戸時代後期の明和7年(1770)、大岡氏の治世に建立された。薬医門形式で指定文化財。昭和55年に現在地に移築された。

<鍛冶曲輪>

 岩槻公園の南端部は鍛冶曲輪があった所で、周囲を巨大な空堀と土塁が取り巻いている。空堀を渡るために土で造った橋(土橋)が欠けられている。この鍛冶曲輪の入口(虎口:こぐち)には馬出(うまだし)と呼ばれる出撃時の護身用小曲輪が設けられており、その北側には枡形と呼ばれる敵を攻撃するのに適した工夫の虎口が見られる。

<からくり時計>

 童人形が、毎10時、12時、3時、5時時を告げる。

<公園内で行われる行事>

 *桜祭り(4月上旬)
 *岩槻流し雛(毎年4月29日)
  子供の災厄を、桟俵に載せた人形に託し、川や海に流して祓い清めたと言い伝えられている。
 *人形供養祭(11月3日)
  「人形塚」前で行われる人形供養祭は、県外からも古い人形を持った人々が集まるという。

<人形塚>

 岩槻人形連合協会が昭和46年10月に建設したもので、その斬新なデザインは岩槻在住の日本画家・関根将雄画伯の手になるものの由。 塚の前では毎年秋の11月3日には「人形供養祭」が行われると同時に、岩槻人形のために心血を注ぎ、研究製作に携わった人々の冥福も祈り、法要が行われている。

 なお、市内各所に「本丸」「三の丸」「新正寺曲輪」「新曲輪」「大手口」ほか、○○小路、○○町などの石碑が建っている。

(参考)浄安寺(10:57)・・・さいたま市岩槻区本町5-11-46

 大幅な寄り道をした関係で、当初立ち寄り予定の「浄安寺」をカットし、「岩槻本丸公民館」がある交差点に10:52に出て、大きな「郷社久伊豆神社」の石柱の左横を直進して久伊豆神社に向かったが、参考までに「浄安寺」について調べておいたことを掲載しておきたい。

 「浄安寺」は、京都東山の知恩院の末寺で、「快楽山微妙院(けらくさん みみょういん)」と号し、岩槻に所縁の深い著名人が眠る寺院であり、本尊として阿弥陀如来を安置している。

 石畳の参道の奥の、山号「快楽山」を額を掲げた「檜返しの門」と呼ばれる風変わりな形の山門(岩槻城の門を移したと伝えられる)を潜ると、落ち着いた雰囲気が漂う境内に入れる。

 正面に本堂、左手に閻魔堂、抱き揚げ地蔵尊などが並び、その奥に墓地が広がっている。古刹にふさわしく数多くの寺宝や文化財が伝えられてる。

 墓地には岩槻に纏わる有名人の墓地が多く、文政13年(1830)85歳で死去した「児玉南柯」、徳川家康の家臣で近世初期の岩槻藩主・高力清長、徳川家康の六男で伊達政宗の息女五郎八姫を妻としたが、粗暴な振る舞い多く、大御所家康や秀忠の勘気に触れ、改易蟄居を命じられた越後少将忠輝の嫡子「徳松丸」と、忠輝の側室(徳松丸の母)「竹の局」の墓などがある。徳松丸は、父忠輝の改易に伴い母竹の局と共に、岩槻城主阿部重次に預けられたが、寛永9年(1633)母子は相次いで没している。

 児玉南柯は、「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯に時の鐘」と言われた「遷喬館」創始者で、既述のとおりである。

 浄安寺は、以前は真言宗の寺院であったらしく、『新編武蔵風土記稿』には、「当寺往昔ハ真言宗ナリシカイツノ頃ニカ廃セシヲ永正二年(1505)天誉了聞再ヒ開キテ今ノ宗ニ改メタリ 故ニ了聞ヲ以テ開山トナセリ」と記されている。

 了聞上人は信濃国伊那郡高遠生まれで、当初禅宗に入ったが、浄土宗隆誉光冏の説法に感動してその門下となり、やがて明応元年(1492)、増上寺大五世の住持となっている。

 当時、関東における浄土宗の布教の中心は、増上寺と弘経寺で、その一方の中心の頂点を極めたことは、その勉学の熱心さが偲ばれる。上人は増上寺住持を弟子に譲った後、この浄安寺を開いたほか、足立郡花又村に「実相寺」を開いている。

久伊豆神社 ・・・さいたま市岩槻区宮町2-6-55

 旧本丸にあたる道筋を北進し、東武野田線の踏切を渡ると「久伊豆神社」の長い参道に至る。
 久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社で、その分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しているという。北埼玉郡騎西町の玉敷神社は、曾て「久伊豆明神」と称しており、久伊豆神社の総本社とされているという。
 本殿の右手には「北野天満宮」が祀られている。

 曾て、日光道中歩きの途中、越谷の久伊豆神社に立ち寄った時の印象が強いが、「越谷の久伊豆神社」よりこちらの方が200年も古いのには恐れ入る。

               
岩槻市総鎮守 久伊豆神社由緒
                            御祭神 大国主命  
                            御例祭 四月十九日 十月十九日
 久伊豆神社は、今を去る千三百年前(注:誤謬あり)、欽明天皇の御代(注:539~571年)、出雲族土師(はじ)氏が、東国移動の際に当地に勧請したのが始まりとされ、平安時代中頃には武蔵野に有力な豪族の崇敬を集めていたと伝えられている。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代岩槻城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除として祈願せられた。
 神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
 明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として広く人々の崇敬をあつめている。
附記
 ●旧社格  県社
 ●境内地面積三町歩余(県指定「社叢ふるさとの森」埼玉自然百選)
 ●主な文化財
  一、県指定有形文化財(螺鈿鞍)
  二、高力高長奉納太刀
  三、城主小笠原長重公奉納宗源宣旨
  四、九城主阿部家奉納太刀
  五、県指定天然記念物(大サカキ)
  六、岩槻市指定保存樹木(モッコウ)
神社関係機関  岩槻保育園
                              岩槻観光協会

               埼玉県指定工芸品 螺鈿の鞍
 螺鈿(ラデン)は、オウムガイ・ヤコウガイなどの貝殻の内側の薄紅色紫緑色を帯びている美しい光沢を帯びた部分を、種々の形に切り、うるし塗りの表面にはめ込んで飾りとする工芸品で、太刀・巻柱・鞍・箱・櫛などがある。
 久伊豆神社の社宝「螺鈿の鞍」は、岩槻城主戸田山城守忠昌公が貞享三年(1686)佐倉城へ転封に際し寄進したものである。
               昭和三十七年三月二十日指定
                              岩槻市教育委員会


 県の「ふるさとの森」や「自然百選」にも選ばれた境内は、殆どが樹木で覆われ、参道は椎の木により緑のトンネルと化しており、参道から境内へと拡がる1万坪もの緑豊かな杜と情緒溢れる静寂感が、神徳を弥が上にも感じさせてくれる。境内右手には、神苑や昭和初期に皇室より奉納された孔雀の末裔を飼育している金網張りの小屋があり、数匹の孔雀が飼われていたが、羽を広げた姿は見せてくれなかった。本殿奥には「県天然記念物指定の樹齢約300年の大榊」もある。

 名前が「くいず」とも読めることから「クイズ神社」とも呼ばれ、岩槻久伊豆神社が第11回アメリカ横断ウルトラクイズ(1987年)の国内第二次予選会場として選ばれた関係で、岩槻久伊豆神社の知名度が高まり、近年クイズ番組での優勝祈願に訪れる者も増えているそうだ。

出口町(11:19)

 久伊豆神社からはショートカットして西へ行き、「渋江」交差点から北進してきた街道筋に出る。そこに「出口」バス停があり、「出口町」という地名標石が建っている。この辺りが岩槻宿の出口だったらしい。

 時刻は既に11時を過ぎており、これからきょうの街道歩きが始まるようなものだが、これまでの3回とは異なり、きょうは距離が少々長いので、ピッチを上げて歩かなければならないのだが、折からの寒風に逆らう形での進行方向になるので一層の気合い入れが必要だ。

龍門寺(11:21)・・・さいたま市岩槻区日の出町9-67

 道はその先右カーブするが、すぐ先左手に「龍門寺」がある。山号は「玉峰山」、宗派は曹洞宗。元禄12年(1699)の古い庚申塔や新しい七福神が迎えてくれる。

               
龍 門 寺
                            所在地 岩槻市日の出町九-六七
 龍門寺は、岩槻市街の東北に位置し、日光御成道に面している。宗派は曹洞宗に属し、大里郡寄居町藤田正龍寺の末寺である。
 天文十九年(1550)斉田(注)若狭守の開基で、山号は若狭守の法号「玉峰道全上座」に因んで玉峰山という。開山は柊叟寅越大和尚で、本尊は釈迦如来を安置している。
 境内には、白山堂、弁天堂、稲荷堂、不動堂がある。不動明王木像は、慈覚大師の作といわれ、手なし不動の伝承がある。
 なお、時の城主大岡出雲守が寄進したと伝えられる備前の国福岡一文字派の刀工助真の作品である刀一振り(国指定重要文化財・工芸品)が所蔵され、また、岩槻藩主大岡忠光の墓(昭和三十五年市指定文化財・史跡)や、岩槻藩士山県大貳筆の大岡忠光行状記(昭和五十三年市指定文化財・古文書)などがある。
               昭和五十九年三月
                              岩 槻 市

(注) 別の石碑には、「佐枝若狭守」と表記されている。

 龍門寺は、江戸時代後期には岩槻藩初代高力家から9番目の城主大岡忠光の菩提寺として岩槻藩の手厚い保護を受けたが、大岡家は8代続き、明治維新を迎えている。境内左に立派な墓がある。

 また、手無し不動の伝説を持つ「不動明王」のほか、伝徳川吉宗・家重の坐像、香時計、大般若経六百巻(区指定文化財)など、開基佐枝氏関係、大岡家・大岡忠光廟関係、不動尊関係、龍門寺経営関係・・・と多種多様な文化財・歴史資料が伝えられており、これらの所蔵資料は、昭和53年 3月29日市(のち区)有形文化財(歴史資料)に指定され、現在は大半が県立文書館(浦和区高砂4-3-18)に寄託されている。

<大岡忠光の墓>

 大岡忠光は、1500石の旗本・大岡忠利の子として宝永6年(1709)に生まれ、享保9年(1724)、吉宗の世子家重の小姓になる。言語不明瞭で諸人には聞き取れない家重の発言を唯一理解し得たため重用され、同12年(1737)に従五位下出雲守に叙任され、諸役歴任の後、延享2年(1745)、家重の将軍就任に伴い小姓組番頭並、翌年御側御用取次となっている。

 宝暦元年(1751)には上総勝浦城主1万石の大名となり、同4年(1754)には若年寄、更に同6年(1756)には側用人と異例の昇進で従四位下に昇り、岩槻城主2万石に封ぜられている。
 このように、徳川9代将軍家重に殊の外寵愛されたが、奢ることがなかったと言われている。宝暦10年4月26日(西暦1760.6.9)江戸で逝去。有名な、大岡忠相は本家筋に当たる同族で、家紋も同じ大岡七宝(輪違紋)である。

 また、自由民権運動の後藤富哉の墓もある。

地蔵尊・庚申塔・馬頭観音

 11:34、その先「南辻」の右手に、「地蔵尊」と元禄8年(1695)銘の庚申塔が建っている。

 更にその先の右手には、明治23年の馬頭観世音や長い板塀の風格のあるお屋敷がある。

元荒川と慈恩寺橋

 暫く先で、「慈恩寺橋」で往時は荒川の本流だったが江戸期に入間川に付け替えられた「元荒川」を渡る。「慈恩寺」というのは、この先北東方面に「慈恩寺」「表慈恩寺」「裏慈恩寺」という地名があり、古刹「慈恩寺」にその名の由来を持っているようだ。

猿田彦大神(11:42)

 その「慈恩寺橋」を渡ると、その左袂に昭和3年銘の「猿田彦大神」の祠がある。道標を兼ねており、右側面に「北 幸手町ニ至ル 約一五〇〇〇米 凡四里 東 大戸ニ至ル 約四〇〇〇米 凡一里」、裏面に「昭和三年十一月建之 御大典紀年」と刻まれている。

 これを見た我らは、きょうのゴール地点である幸手まで未だ15kmあるんだとの覚悟を噛み締める。

石橋供養塔

 「岩槻工業団地入口」信号の右手の角に天明元年(1781)銘の「石橋供養塔」があるが、一体どこの石橋に関するものだろう?

慈恩寺道

 「岩槻工業団地入口」信号の先の信号を越えた先で右前方に入る道の分岐点に「是より右慈恩寺道」という道標がある。街道は直進だが、当初予定では、寄り道のため右斜め前方への慈恩寺道を進んでいく予定だった。
 しかし、砂っ埃混じりの向かい風に抵抗して歩くのに必至になり、直進して暫くしてから気づいた。でも、経過時間と現在時刻・天候・残り距離などを考え、迷うことなく慈恩寺への立ち寄りを断念して直進を続ける。

(参考)慈恩寺・・・さいたま市岩槻区慈恩寺139

 正式には「華林山最上院慈恩寺」と称し、天長元年(824)天台宗山門派の祖として名高い慈覚大師(794~864)が開山した天台宗の古刹である。本尊は千手観世音菩薩(坐像)で、寛永年間(1624~1643)に天海僧正が比叡山から招来したものである。

 慈覚大師の出身は下野国(栃木県下都賀郡)の豪族壬生氏であると言われ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった。

 その後、承和5年(838)遣唐船で唐に渡り、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行し、承和14年(847)に帰国するや、日記「入唐求法巡礼行記」全4巻に纏め、当時の唐の様子を克明に伝えた。

 61歳で延暦寺第三世座主となり、71歳で亡くなる迄、幅広い宗教活動を行っている。逝去して2年後の貞観8年(866)、生前の業績が称えられ、日本初の大師号・慈覚大師の諡号が授けられている。

 ところで、関東北部から奥羽一帯には、大師と所縁ある寺社が多く存するが、当慈恩寺は早くから天台宗の有力寺院として栄えたため、大師との関わりが深く、慈恩寺の寺名も大師が学んだ唐の長安(現西安)にある大慈恩寺に因んで命名されたという。

 中世、慈恩寺領には、本坊42坊・新坊24坊の併せて66坊もの塔頭があったが、岩付周辺に古くから勢力を有していた渋江氏らの在地土豪層や破戒僧らに支配され、慈恩寺領内はかなり入り乱れていた。この状態を纏め、慈恩寺領を明確にしたのが、岩付太田氏で、天文20年(1551)の判物では、過去慈恩寺66坊の内、渋江氏等により支配されていた18坊を、太田資正の代をもって慈恩寺に寄附し、以後慈恩寺領を66坊とすると記されているそうだ。
 その後、慈恩寺領は太田氏の支配から北条氏の支配に移り、天正17年(1589)に北条氏房の家臣、伊達房実によって寄進された南蛮鉄灯篭が現在も境内に安置されている。

 天正18年(1590)徳川家康の関東入府による関八州支配が始まりし、民心懐柔策の一環として、有力寺院に寺社領の寄進を実施したが、慈恩寺にも朱印状が家康から天正19年(1591)に下付され、その石高は100石と当時の寺領としてはかなり高いものだった。江戸幕府成立後は、全国の各宗派本山格の寺院に「寺院法度」が発せられ、慶長18年(1613)に慈恩寺に対しても「武蔵国太田庄慈恩寺法度」として発せられている。

 その内容は、
 第一条 学頭が法度を下地すること
 第二条 公用の造営をはじめ、寺内の家屋の管理は学頭の指示に従うこと
 第三条 寺院に対して中世以来与えられてきた特権である山林竹木等の課役免許に関すること
が述べられており、この法度は各宗派の本山格の寺院に与えられた後に、その配下の本末関係寺院に伝達されたという。

 日光社参の際の将軍の宿泊地の一つに往復とも岩付城があたっていたが、将軍が慈恩寺に立ち寄られることもあり、「徳川実記」にも寛永17年(1640)に三代将軍家光が慈恩寺で昼餉を摂ったことが記されている。また、慈恩寺には上野東叡山寛永寺門跡を兼務していた日光御門跡が、往復の際にしばしば訪れて宿泊している。

 江戸時代も、天和2年(1682)になると、寺領は三分割され、慈恩寺村・表慈恩寺・裏慈恩寺とされた。66坊の塔頭も多くが農地になり、文化・文政時代(1804~1892)には9坊を残すのみになっている。

 また「坂東三十三ヶ所観音霊場」第十二番札所でもあることから、今も境内は参拝や観光に訪れる人々で賑わっている。「坂東三十三ヶ所観音霊場」というのは、交通機関未発達の昔、旅人にしって越えにくかった足柄山や箱根の坂の東一帯は坂東と呼ばれていた。その坂東の武者たちは、源平の合戦に九州まで歩を進めたが、源平の合戦の後、敵味方を問わない供養や永い平和への祈願が盛んに行われるようになる。そうした社会のうねりと、源頼朝の厚い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した観音霊場巡拝への思いが結びつき、今から800年ほど前の鎌倉初期に坂東三十三ケ所観音霊場が開設されている。埼玉県下には慈恩寺を含めて4ヵ寺が同札所になっている。

 現在の本堂は、天保7年(1836)の焼失を受け、天保14年に建立した寄棟造りで、昭和12年(1937)に改修している。七福神の彫刻がなされている。
 このほか、昭和62年完成の本坊、元・池の端にあった行堂を移し、慈覚大師像を安置している開山堂、鐘楼、先述の玄奘塔などがある。

<南蛮鉄灯篭>・・・市指定文化財

 天正17年(1589)岩付城主北条(太田)氏房の家臣伊達房実が寄進した鉄灯籠。「天下太平万民豊楽」の文字が願いを込めて刻まれている。

<金銅製阿弥陀如来坐像>

 天和2年(1682)の江戸の大火、通称「八百屋お七の火事」で亡くなった人々のために造られたと言われている。

<その他の寺宝・文化財>

* 幡ヶ崎坊の僧侶が越後国から伝え、関東ささら獅子舞の元祖と言われる「獅子頭」。
* 本尊千手観世音菩薩の従者である眷属で、天保年間(1830~44)の作と言われる「木造二十八部衆」。
* 千手観世音菩薩立像。江戸時代中期頃の作品で、家康を描いたものの中では優品と言われる「絹本着色徳川家康画像」。
* 弘化4年(1847)に奉納された「絹本着色総鎮守十二天尊像(双幅)」。
* 室町時代の作の「木造地蔵菩薩立像」。
* 貞享5年(1688)の墨書銘のある仏師小玉左近作の「木造閻魔大王」。
* 元禄8年(1695)作の「木造奪衣婆」。
* 絵師狩野寿信が本堂天井に描いた巨大な龍図。
* 元禄7年(1694)に描かれた「慈恩寺境内総絵図(見取り図)」。
* 二代将軍秀忠(台徳院)から11代将軍家斉(文恭院)迄の将軍家と天皇の名を連ねた「今上皇帝御代々尊儀」。
* 戦国時代の太田資正をはじめ、徳川家康寄進状、慈恩寺法度など中世~近代にわたる古文書総点数518点(区指定文化財)・・・など。

昼食(12:02~12:32)

 街道左手に「山田うどん」があったので入店し、エネルギーを摂取する。

相野原の一里塚

 岩槻区内には3ヵ所に一里塚が設けられていたが、その3つ目、江戸日本橋から10里目の「相野原の一里塚」は、五間四方の大きさで、榎や松などを植えた塚が道の両側に設けられ、ていたが、往時のものは壊され、現在は東側だけ小さな塚として残されているそうだが、解説板などは設置されていないとのことで、そのせいかどうか誰もそれと気づかず見過ごしてしまった。

 帰宅後、悔しいので見た人のホームページに掲載されていた写真を見て、気づかなかった理由が判ったが、そこにあると知ってみなければ到底一里塚跡とは気づかない風景だった。

日光御成道の杉並木

 街道の両側に多少の並木道がある。右手に「岩槻市御成道ふるさとの並木道」解説板もあるらしいとのことだったが左側歩道を一貫して歩いていたためかどうか、これは気づかなかった。

 家光の御代に整備され、御成道の全行程で唯一残る並木道とのことである。しかし、幹周は太くなく、東海道の箱根や日光道中の圧倒されるような太さと高さの杉並木を見てきた我らの目には、代替わりしているとしか思えない。     

 「鹿室(かなむろ)」集落にはいると、右手に祠があり、扉を開けると、「青面金剛」と記されている。

宝国寺(12:57)・・・さいたま市岩槻区大字鹿室288

 暫く先の左手に「龍澤山宝国寺」がある。前のバス停名は「鹿室宿」と、「宿」の字が使われている。将軍のお休み所となったことと関係があるのだろう。

 参道を進んだ正面に「子育て安産延命地蔵尊」の朱塗りの御堂があり、左手に往時の山門、右手に本堂があるが、本堂の雰囲気は立ち寄った者にはお参りを拒否しているような雰囲気に感じられる。

               
曹洞宗 宝国寺
大本山は腹囲の永平寺(道元禅師さま)と鶴見の総持寺(瑩山禅師さま)である。
當寺は下総国葛飾郡山王山村(五霞町)東昌寺の末寺で龍澤山宝国寺と云う。
開山は本寺二世の僧、能山聚芸大和尚で、永正九年(1512年)十一月二十六日、七十一歳で没している。
江戸文久年間(1861~1863年)に火災にあい本堂、古記類は残らず焼失する。当時の名残として鹿室上耕地に、今も寺原という地名が残っている。
現本堂は焼失後に現在地に建立、再興したものである。
御本尊の釈迦牟尼佛は創建当時のものを修復し、今も檀信徒信仰の拠りどころとなっている。
昭和二十九年、本堂の破損甚だしく大改築を行う。(十五世誓鎧代)
昭和五十一年庫裡新築、さらに平成八年客殿を新築し現在に至る。(十六世道淳代)
*徳川家実記によると、徳川家歴代将軍が日光社参の折門外富士見どころで茶屋を設け休息したと記されている。
               平成二十一年七月吉日
                              宝国寺十七世俊雄合掌


 「子育て安産延命地蔵尊」の右後ろにカラフルな建物があり、「ほうこくじ幼稚園」があるが、
街道筋に面した入口の左脇には送迎バス・セダン・軽トラックなどが数多く駐車しており、その4桁番号が何と、て77-11、さ77-22、?77-33、あ77-44、は77-55、さ77-66、せ77-77、に77-88、そして幼稚園の看板記載の電話番号が794-7711というのには一同驚いた。
 また、次のような掲示もあった。

               
鹿室学校(公立小学校)在此地
明治六年五月十日に設置し、村の中央宝国寺を鹿室学校とした。当時の生徒数は男子六十七人、女子三人であった。現在の慈恩寺小学校発祥の地である。
                              埼玉県郡村誌より


日光御成道の沿道における応対

 「隼人堀川」に架かる「往還橋」を渡る。
 昔、将軍が日光社参のため通行の際には、町屋では主や男共が軒下で土下座し、女子供は店先に座ってお辞儀をするのが決りだったというが、庶民にとっては迷惑この上ないことで、中には表戸を閉めて貸家の札を貼って出かけたりした者もいたとのことである。

 ここ岡泉村の「隼人堀川」に架かる「往還橋」のすぐ西北に「義理橋」と呼ばれる橋があるが、将軍社参時には、岡泉村の村人たちが岩槻との境迄将軍一行を出迎え、その足で裏道を通ってこの義理橋まで来て一行を見送った処から、この様に「義理橋」なる呼称になったと言われている。
 街道筋の「往還橋」からは150m程度なので、念のため「義理橋」まで行ってみたいとは思うが、今は平凡な小橋らしいのでパスする。

湾曲した街道筋

 「彦兵衛」交差点を過ぎ、「下野田」集落に入ると道はその先で大きく左に回り込むように湾曲し、今度は東武伊勢崎線和戸駅方向へ右カーブしている。本来、直進すべき所なのに地図で見ると、その迂回した部分には「姫宮落川」「高岩落用水」「笠原用水」「中須用水」「現東武動物公園の池」などが集中している感があり、元々は低地・沼地だった所を避けて迂回した街道敷設を行ったものではないかと推定する。

姫宮落川

 「東武動物公園入口」交差点の手前で「姫宮落川」を渡った左手に「不動明王社」がある。なお、「姫宮」は宮代町にある姫宮神社が名前の由来で、「落」は「おとし」と読み、悪水路のことを一般にこう言うらしい。

下野田の一里塚(13:44)

 「下野田」や「東武動物公園入口」交差点を過ぎた先の右手にある「北東京変電所」の所に「下野田の一里塚」がある。珍しく、この一里塚は両側に塚が残っており、珍しい。場所は「東武動物公園入口」交差点から約300m程の所で、江戸日本橋から数えて11番目にあたる。
 街道を挟んで2基の塚が現存しているのは埼玉県内ではここだけで、埼玉県指定史跡になっている。

               
埼玉県指定史跡「一里塚」
                              南埼玉郡白岡町下野田
 一里塚は中国で榎樹(エンジュ)を植え銅表(ドウヒョウ)を立てて里数を記した堠塊(コウカイ)の制に起源をもつ。日本では一般に徳川氏が制度化したといわれている。
 慶長九年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点にして榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及させた。一里塚の造築は、大久保長安が総督として司どり、幕領は代官に、私領は領主に命じて行わせた。
 榎を一里毎に採用したのは、榎の根が広く張って塚を固め、塚が崩れにくくするためであった。しかし、榎の代わりに松などを植えた地方もあった。
 この一里塚は日光御成道に設けられたもので日本橋から十一番目にあたる。日光御成道は将軍が日光東照宮に参詣するための専用の道で、鎌倉街道と称される古道を整備して利用したものと思われる。
                              埼玉県教育委員会
                              白岡町教育委員会

屋根と鳥居付きの庚申塔(13:54)

 その先の左手に貞享3年(1686)銘の「庚申塔」がある。屋根がついており、その下に大きな庚申塔があり、しかも、前には鳥居があるという珍しい庚申塔である。余程地元の人たちから大切にされているのだろう。側面に刻まれた文字は読みづらいが、「・・ふし・・・」と読め、道標を兼ねているようだ。

西粂原鷲宮神社(14:05)・・・南埼玉郡宮代町西粂原660

 左手に小さな「西粂原鷲宮神社」があり、立派な石の碑には「邨社鷲宮神社」とある。
 久米原村は、元は一つの村だったが、1800年頃に東粂原と西粂原に領地の関係で分かれたと言われる。久米原村には、二つの鷲宮神社がある所から、それぞれ東粂原鷲宮神社、西粂原鷲宮神社と呼んでいる。先に出てきたのが東粂原鷲宮神社、こちらは西粂原鷲宮神社と呼ばれている。

               
西粂原鷲宮神社・御成街道
                              宮代町大字西粂原字立野
 西粂原鷲宮神社は、北から南に江戸時代中期につくられた黒沼笠原用水が流れる台地上にあり、社前には御成街道(日光御成道)が通っている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵国風土記稿』には、この神社は村の鎮守で明智寺持とある。明治時代には村社となり、毎年三月十日、九月九日に祭礼を行っている。また、明治四十年には、愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社の六社が合わせ祀られている。
 (中略)
 また、天保一四年(1843)四月、十二代将軍家慶の社参の記録(旗本 稲生家文書)によれば、西粂原鷲宮神社にて将軍が小休止したとある。
                              宮 代 町


 小さな神社だが、日光御成道絵巻には「鷲明神」と書かれた社殿が描かれている。なお、境内左手に元文5年(1740)銘の庚申塔などがある。

庚申塔と石塔

 その先、「備前掘川」に架かる「国納橋」の手前左手に、「庚申塔」があり、その右には「血神(歴史の道調査報告書には「地神」の音通か)と記された小さな「石塔」がある。「備前堀川」の名の由来は、関東各地の土木工事で著名な関東郡代伊奈備前守に由来しているそうだ。

道標兼庚申塔

 東武伊勢崎線の線路に続き、「和戸小橋」・「和戸橋」を渡った右手のブロック塀の凹み箇所に、宝暦7年(1757)銘の道標を兼ねた「庚申塔」があり、側面に「右すぎと道」「左さって道」と刻まれている。

下高野の一里塚(14:44)

 更に少し行くと、右手に東塚のみだが「下高野の一里塚」が現存している。規模は約10m四方あり、江戸日本橋から12里目の一里塚である。東塚上には「昭和二年一月 史蹟 日光御成街道一里塚 高野村大字下高野」と刻まれた自然石の石碑が建っている。

               
日光御成街道一里塚
                              埼玉県指定史跡 大正一五年二月十九日指定
 (前略)この一里塚は、下野田(南埼玉郡白岡町大字下野田)の一里塚より北東一里の地点に位置している。
 ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の両側に五間(九メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代の初期、道路拡幅工事により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。(以下略)
                              埼玉県教育委員会
                              杉戸町教育委員会

松並木の名残?

 その先右手に見事な松が一本だけ聳えている。江戸時代の街道の松並木の名残と思われる。

八幡神社(14:55)

 暫く先の左手に「八幡神社」がある。境内右手にある三基の石塔の真ん中に元禄7年(1694)銘の庚申塔があり、側面には「右江戸かい道」等道標を兼ねており、庚申塔は飾りがなかなか豪華である。

               
八幡神社
  祭神 誉田別命(応神天皇)
  祭儀 九月十五日
 当社は、江戸期の『新編武蔵国風土記稿』によれば、下野村の鎮守の一つで村民持ちとある。
 明治五年四月の社格制定にともない村社になった。大正十二年の関東大震災で本殿が全壊し、同十四年に再建されたが、のち平成十三年四月火災に見舞われ全焼した。現在の本殿は、同年十二月に再建されたものである。
 境内には、震災復興記念碑のほか、力石(二基)、馬頭観音、地蔵像がある。
                              杉戸町教育委員会


御成街道の松並木(15:02)

 その先の左手にも、松並木の名残と思われる松が2本残っており、今なお生き生きとしている。その傍らには「御成街道の松並木」と記された解説板まで建てられている。先刻見た松と合わせても3本しか残っていないのが残念だが、往時の街道であったことを今なおアピールしている。

南側用水

 その先で、道路右手に「南側用水」等の地図と解説を記した看板がある。この辺りを街道沿いに流れているのが「南側用水路」で、先で「葛西用水路」に流れ込んでいる。「葛西用水路」は、万治3年(1660)、郡代の伊奈忠克によって開削されたものである。伊奈忠克は、伊奈忠次以来続いた関東郡代で、関東各地で治山治水工事を行っているので懐かしい思いである。

史跡御成街道道しるべ(15:14)

 その先、十字路の左角に文化14年(1817)の「馬頭観世音菩薩」の石塔があるが、道標を兼ねたもので、左側面に「右日光 左いわつき 道」、右側面に「西 くき 志よう婦 かず 道」とある。右横に白い標柱が建てられ、「史跡 御成街道道しるべ」として文化財に指定されているようだ。

琵琶溜井堰跡(15:16)・・・幸手市南2-7

 左手にある「琵琶溜井堰跡」は、「葛西用水路」の水が現在も滔々と流れ込んでいる。解説板が「庚申塔」と共にある。

               
御成街道と琵琶溜井
                              幸手市南二-七
 江戸から川口・岩槻を通るこの道を御成街道といい、千住から越谷・粕壁を通る日光街道と幸手で合流します。(中略)
 琵琶溜井は江戸時代に、関東郡代伊奈忠克が古利根川を開発して琵琶形のダムと各地への水門を造り、水田へ水を流すためと、江戸を水害から守るために利用したもので、土地の人は「桶の上」と呼んでいます。
                              幸手市教育委員会


日光御成道完歩、日光道中合流(15:20)

 やがて、右手に曾て村谷氏と歩いた「日光道中」の旧街道が右手後方から近づいて来るのが見えてくる。その日光道中との追分は、「ベルク」という今はスーパーマーケットが前にある交差点だが、曾てここで、日光道中に日光御成街道が合流していることを記憶に刻みつけたのは、2009年2月8日の13時55分のことだった。きょうは2010年2月7日だから丁度一年ぶりのことで、大変懐かしく感じる。

 あとは、日光道中を歩いたときも印象深かったが、町の各所に残っている昭和22年のカスリーン台風時の洪水による浸水水位を示す電柱に貼られた水位表示の横線を幾つも見ながら幸手宿内を通って幸手駅に向かった。

 途中、折良く営業開始済みの飲食店があったので、ささやかに日光御成道完歩の打ち上げを行った。その前に、自分だけはその先左手にあるお馴染みの菓子舗に立ち寄り、前回買った時に好評だった和菓子をきょうの土産として買い求めた。

 帰路は、東武日光線・武蔵野線・南武線・京王線経由でスムーズに帰れたが、強風の影響で武蔵野線に少々の遅れがあった旨の駅構内放送だった。

                   (日光御成道 完)