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日光御成道餐歩記~#2
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 2009.12.06(日) 日光御成道#2 赤羽駅西口~東川口駅 11.5km

スタート

 9:33集合予定だったが全員早めに集まり、JR赤羽駅の西口に出て、JR線路で寸断された街道をやや迂回するように駅北側のガードを潜り、線路東側に出て300m程北進する。

宝幢院(ほうどういん)(9:37)・・・北区赤羽3-4-2

 その突き当たりにある真言宗智山派の「宝幢院」は、曾ては浮間の西野にあり、その跡は宝幢院屋敷と呼ばれていた。

 宝幢院は寛正2年(1461)創建で宥鎭和尚の開基による。慶安2年10月、徳川3代将軍家光公から寺領として赤羽根村内に10石余を賜った。明治維新後の神仏分離まで線路を隔てた西北にある「八幡神社」の別当寺だった。

 本尊は薬師如来で、豊島八十八ヶ所霊場の第四十五番札所になっており、境内には六地蔵も安置されている。

               
宝 幢 院
宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正二年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約百五十年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。『新編武蔵国風土記稿』には、慶安二年(1649)に三代将軍家光から赤羽根村内に十石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間四丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。
 境内には、区内最古の寛永十六年(1639)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔(あみだにょらいせんこくこうしんとう)があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところが二猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて造立されたようです。
 その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
               平成十五年七月
                                東京都北区教育委員会


 また、院前には江戸中期に造られた道標や解説板があり、この地が交通の要衝であったことを物語っている。

              
 宝幢院前の道標
 門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文五年(1740)一二月に了運という僧侶によって造立されたものです。
 宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国冨士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ケ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から冨士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていました。
 道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。
                平成三年三月
                                北区教育委員会


岩淵宿

 宝幢院前を右折すると、環八を越えるが、そこに「赤羽岩淵」という地下鉄南北線の駅がある。
 岩淵宿は、鎌倉時代から宿場が設けられていたらしいが、今ではまったく面影がない。

 日本橋から三里八町、宿の長さは四町二十一間、道幅四間である。旅籠屋は若松屋・大黒屋が有名で、本陣は代々小田切氏が務めていた。この先の川口と共に合宿として、月の前半・後半で宿場の役目を交代していたそうだが、実際には殆どが日光街道の千住宿を利用していたため、あまり活気はなかったと言われているようだ。

 史跡としても宝幢院前の道標と、新荒川大橋の渡船場跡の解説板程度しか残っていない。

岩淵宿問屋場跡(9:52)・・・北区岩渕町24-14

 街道右手に、造り酒屋の「小山酒店」があり、その隣のマンションのエントランスに「史蹟 岩槻街道岩淵宿問屋場阯之碑」がある。
 岩淵宿は荒川を挟んで荒川の向こう川の川口宿と併せて一宿だった。問屋場は、岩淵宿にあり、半月毎に伝馬継ぎ立てを行っていた。そしてその先右手の奥まった場所に昔ながらの小山酒造の工場が辛うじて残っていた。

荒川渡船場跡

川越から流れてきた「新河岸川」、続いて、以前は荒川放水路と称していた人口河川の「荒川」を「新荒川大橋」で渡る。右手の岩淵水門から先の旧河川を隅田川と称している。江戸時代、荒川は通常、舟渡しだったが、将軍の日光社参時には幅3間(約5.4m)長さ65間(約117m)の舟橋が架橋されたそうだ。

 この橋の上では、新河岸川と荒川に挟まれた「赤羽桜堤緑地」の中程が都県境で、そこから愈々埼玉県に入る。橋の歩道は狭く、自転車が頻繁に通るため、一列でしか歩けない。

 「荒川の堤防」を右に寄り道すると「岩淵渡船場跡」の説明板が建てられているそうだが、割愛した。「旧岩淵水門」近くにある「荒川知水資料館」に「岩淵と川口を結んでいた舟橋」の絵が展示されているそうだが、その舟橋は、明治38年(1905)に架橋され、昭和3年(1928) 9月の新荒川大橋開通まで舟橋通行料一人1銭で利用できた由。その川は新河岸川で、現在の荒川は大正時代から昭和5年まで20年掛けて新たに掘削したものである。

(参考)川口善光寺・・・川口市舟戸町1-29

 後述の鎌倉橋跡へ行く前に立ち寄ろうと土手沿いに300m程西へ行くと、左側に緑の三角屋根をした平等山阿弥陀院と号する真言宗智山派の古刹、「善光寺」が見えるが南側からでないと行けないことが判り、立ち寄りは諦めたが、「足立坂東観音霊場第24番札所」になっている寺である。

 尾張熱田生まれの定尊が6歳で出家し、常に法華経及び弥陀の名号を唱念して信州善光寺如来の模鋳を発願。建久6年(1195)に完成し、これを奉持して諸国を巡化中当地に一宇を建立して安置・開創したのが起源である。

 このため、信濃の善光寺同様の御利益があると信じられ、江戸市民は近郊で手軽に善光寺参りが可能と挙って参詣した。特に本尊のお顔が拝める「ご開帳」日は参詣客が大挙して押し掛け大変に賑わったという。しかし、江戸市民の信仰を集めた当寺も昭和43年3月23日に災禍で焼失し、三尊のうち勢至菩薩だけが残った。

 定尊は承元4年(1210)7月16日85歳で入寂。善光寺の名の由来については、曾て「川口寺」と称していたものが、信州善光寺に似ている処から、いつしか川口の善光寺と呼ばれるようになったとの説である。

 中興開山は一容で、元文2年(1737)入寂。本尊一光三尊阿弥陀如来は、この一容の作と伝えられる。当寺は当初は天台宗だったが後に浄土宗に転じ、元禄8年(1695)一容が本堂を再建して真言宗に改宗している。
江戸名所図会の「善光寺」のところに載っている文は次の通り。

川口善光寺 川口村渡し場の北にあり。天台宗にして平等山阿弥陀院と号す。本堂には阿弥陀如来・観音・勢至一光三尊を安ず。寺伝に日く、往古定尊(鎌倉初期の僧)といへる沙門あり。法華経を誦するの外他なし。建久五年(1194)の夏、一時(あるとき)睡眠のうちに信州善光寺如来の霊告を得ることあって、ただちにかしこにまうで、正しく如来の聖容を拝す。示現によって、十方に勧進し財施を集め、金銅をもって中尊阿弥陀仏を鋳奉る。時に建久六年己卯(1195)五月十五日なり(仏の御胸中には、三寸五分の水晶の宝塔をこめ、うちに仏舎利四十八顆を収めたてまつる)。同六月二十八日・二十九日に脇士(きょうじ)観音・勢至の二尊を鋳奉る。つひに堂字を建立して善光寺と号す(御告げによって、四十八首の間四十八度の開眼供養を修行しけるに、本師如来降臨あって、当仏の頂を摩(な)でて、ともに開眼したまふよし、当寺縁に詳らかなり)。
二王門の額に「平等山」とあるは、黄檗木庵(おうばくもくあん)(木庵性滔、1611~84。帰化僧〕の筆なり。

 荒川土手のスーパー堤防工事により、墓地の大改葬なども行われているという。

<広重「川口の渡し善光寺」>

 広重「江戸百景めぐり」に登場する「川口のわたし善光寺」は、荒川を挟んで赤羽側から向こう岸を望んだ絵として有名で、その「江戸百景めぐり」は浮間図書館にある。

 この広重の「江戸百景めぐり」には北区では王子近辺が5枚書かれており、以北となると唯一「川口のわたし善光寺」の1枚のみである。広重の絵には筏(いかだ)が描かれているが、昭和20年代でも見られた光景で、荒川の水運を利用して秩父の材木が千住の材木問屋まで運ばれた。

 絵では、善光寺は上部黄色の四角の左にある、右下の「渡し船」1艘の他はすべて「筏」である。

<渡船場跡>

 荒川(現在の新河岸川)の渡船場は、新荒川大橋のすぐ上流にあり、今は次のような解説板が建てられているらしい。

                
岩淵の渡船場跡      岩渕町41番先
 このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場がありました。江戸時代、ここは川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。
 渡船場は、奥州との交流上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また、室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍用と一般用に別れており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ六五間(約117m)、幅三間(約5.4m)です。
 一般の渡船場は、人用の船と馬用の船一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどでした。
 渡船場は、明治以降も利用され、明治38年(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年(1928)9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割をおえ、船橋は撤去されました。
                平成7年3月       東京都北区教育委員会


                
江戸名所図会
川口の渡し(往古は、こかはぐちといへり)。『義経記』に、九郎御曹子(源義経、1432~86)奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、「室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡こかはぐちに着きたまふ。御曹子の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋にはせ附きて、『兵衛佐殿(源頼朝、1147~99)は』と問ひたまへば、『おととひ、ここを立たせたまひて候』と申す。武蔵の国府の六所町につきて、『佐殿は』と仰せければ、『おととひ通らせたまひて候。相模の平塚に』とこそ申しける」と云々。按ずるに、渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標あり。これ往古の奥州街道なり。これより板橋にかかり、府中の六所町より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。


<タイ国の釈迦像・涅槃像 >

 平成5年に安置された遊行像と台座に刻まれている。タイ国で造られたもので、国外へ持ち出すのが大変だったという。タイのお釈迦様は日本のと顔かたちが違っているが、川口の周辺にはタイ人も多いそうで参詣に訪れて親しみがあるらしい。飾りはタイ式にしてあるという。

 涅槃釈迦像もタイ国製だろう。沙羅双樹のもとで,多くの弟子や動物たちの深い悲しみの中,釈迦は身を横たえ80歳で入滅(2月15日・釈迦涅槃会)したそうだが、この姿を「涅槃像」・「寝釈迦」と呼んでいる由。像は頭が北向き、顔が西向き、横臥の姿勢で右手で手枕をしているが、この涅槃像の作法を取り入れたのが死人の北枕で、善光寺の涅槃像は仮安置で南枕になっている。

鎌倉橋の碑(10:19)

 荒川を渡り終えた左先にある「南中学校」は、「キューポラのある街」で吉永小百合演じるジュンが通っていた中学だとか。その北側の正門より一段低くなった前の小公園(「鎌倉橋記念緑地」)に「鎌倉橋の碑」がある。昭和15年に建てられた碑だが、碑文は風化のため判読至難である

 曾て荒川の傍「舟戸が原」を流れる小川に架かっていた橋だった由。中世の鎌倉街道中道であった頃の橋で、当時この地は奥州への街道の要衝であったそうだ。

 この碑の南約120m(現在の南中学校校庭)にその礎石が残されているそうだが、「鎌倉橋」と呼ばれたのは、ここから奥州へ向かう枢要な鎌倉街道に敷設されていたからで、「義経記」には治承4年(1180)に義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を出発し、川口を過ぎる時に従った軍勢は85騎であった旨記されているそうだ。

川口宿

 「鎌倉橋の碑」のある所から、街道はほぼ北方向に続き、県道89号(産業道路)を越えて、「錫杖寺」に突き当たっている。途中、右手の古い建物・浜田接骨院とその裏の「蔵」(こけし人形やアジアの古布のコレクションなどがイベント時に公開)、薬局、銅板の看板建築が2軒並ぶ江島屋・福田屋など古い建物が散見され、川口宿の情緒を彷彿とさせる。

 宿としての成立は寛永乃至元禄頃と言われている。荒川の対岸、岩淵宿と合宿として月の前半・後半で宿場の役目を交代制で分担していた。主要業務は江戸と鳩ヶ谷宿への人馬の継立で、千住宿や草加宿などへも継立を行い、常に馬役と歩行役(人足役)の用意が必要とされた。宿役人問屋は宇田川家、永瀬家、増田家などが交替で務めていた。本陣1・脇本陣1・旅籠10の規模だった。

 現在の川口市は「鋳物」の街として有名だが、御成道の右手を並進する国道122号沿いにある中央公民館横の川口市社会教育課分室が「鋳物資料室」になっていて、市所有の鋳物関連歴史資料が保存・展示されているが、残念ながら日・祭日は休館で残念である。
なお、下記サイトで「川口歴史WALK-歩いて楽しむ日光御成街道と鋳物蔵屋敷-」と題する解説付きマップが閲覧(印刷)できる。
http://www.tashiro3.com/kawaguchi/20030710k-walkmap/20030710k-walkmap.htm

旧本陣跡(10:25)

 130m程進んだ左手に、現在は川口市の元市長の永瀬氏の居宅になっている元本陣の門が残っている。

川口宿絵図と川口町道路元標(10:29)

 街道を直進し、左手にあるJR川口駅から東進してくる「産業道路」真ん中の小公園に「川口宿絵図」や「鍋屋の井」の解説板などが建っている。それによると、川口宿は、地下水脈が大変豊富で各地に「吹き井戸」なるものがあったそうだ。

                
鍋屋の井
「遊歴雑記」(釈敬順)の中の記。
此の釜屋どもの庭中に悉く井あり、化粧側の高さは九尺、又は八尺、低きというも五尺より低きはなし。この側の上より清泉吹き溢れ迸り流る。此の土地の家々の井みなかくの如くというにあらず。釜屋のみに限ってかかる名水あり。依て釜屋の井戸とて名高し、蓋し、長流の川添は水の湧出するものにや


 
川口は浦和水脈という地下水脈の豊富に集中する地域でそのため各地にこのような「吹き井戸」があった。大正十二年、ユニオンビールが川口に進出したのも、この水に據ったものと考えられようが、この会社の進出がやがて次第にこの吹き井戸の水勢を弱めていったのは皮肉である。写真は江戸名所図絵に描かれた「鍋屋の井」である。

凱旋橋跡(10:33)

 産業道路をこえた次の右角に、日清・日露戦争出征兵士を迎えた「凱旋橋」の欄干がある。明治三十九年一月に架設された旨記されているが、現在では川は無くなり、石の欄干だけが残っている。
突き当たりが錫杖寺である。

錫杖寺(10:35)・・・川口市本町2-4-37

 正式名を「宝珠山地蔵院錫杖寺」と号する真言宗智山派の名刹で、往時は末寺53ヶ寺を有していたという。本尊は「地蔵菩薩」である。

風格ある山門に掛かる看板には「関東八十八霊場 第七十六番札所」とある。また、特徴的なのは、塀に白い横線が5本入っているが、これは「筋塀」と言い、筋は「定規筋」と言われて寺の格の高さを表すものだそうで、五本線が最高の由。京都の御所、門跡寺院、高家の家の塀にはつけられている由。

                
錫杖寺
 養老元年(717)に行基が本堂を建立、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられています。のち、北条時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、寛正元年(1460)には、室町幕府8代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三宝院直末関東七ヶ寺の一つ、十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。
 元和8年(1622)には江戸幕府2代将軍徳川秀忠の日光参社の際の休息所となり、以降歴代将軍により利用されました。また、3代将軍家光からは金子・材木を拝領し、御成門を建立するとともに、御朱印20石を賜るなど、“川口宿”の中核寺院として繁栄しました。
                埼玉新聞社刊行「埼玉県宗教名鑑」を一部改編


 また、これが吉例となって徳川家と深い関わりをもつことになり、4代将軍家綱からは疱瘡治癒祈願を仰せつかり、5代将軍綱吉の時には年頭挨拶の折の上殿を許されたりしている。

 天保9年(1838)に本堂を焼失したが、同12年(1841)に再建。嘉永5年(1852)には川口の大火によって堂宇が類焼したが、安政2年(1855)に家定から江戸城の別館である「品川御殿」を賜り、本堂・庫裡として使用したという。現在の本堂は昭和50年(1975)に新築された。

 そんな深い関係から、本堂の屋根の頂上には寺紋で徳川家の三つ葉葵、その上は十六菊の紋章があり、境内にも葵紋がある。一対の石燈籠(右のは、東叡山 有徳院殿 尊前 寛延四年(1751)辛未年六月二十日 志摩国鳥羽城主 従五位下摂津守稲垣氏源昭賢と刻まれている)や、賽銭箱・雨受け用水桶・燈台・賽銭箱等にも葵紋があるので、ほかにもまだあるかも知れない。なお、川口市東本郷の「全棟寺」も徳川家縁の寺で三つ葉葵の紋章である。

 興味深いのは、大奥最後の御年寄り「瀧山」がこの錫杖寺に葬られているというので、本堂裏手で確認した。子孫の墓の右前に3基並んでおり、中央が「御年寄瀧山局」、その向かって右が「叔母の染島」、左が「次女の仲野」と説明書きも建てられている。

 瀧山は16歳で大奥へ上がり、御年寄に昇進。今でいう総取締役で大奥第一の重役。13代家定、14代家茂、15代慶喜の三代に渡って御年寄を勤め、大政奉還の時、瀧山は250人の奥女中に拝領物を与え、江戸城大奥の最後を締めくくっている。江戸城から「瀧山の駕籠」で川口市朝日へ、その駕籠も錫杖寺に保存されているそうだ。

 何故、川口かと言えば、瀧山に仕えていた侍女の生家を頼って来たらしく、晩年には婿養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせているという。瀧山は、明治9年(1876)に死去したが、その墓碑には
「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」と刻まれ、背面の銘は、「東京府士族 東京南伊賀町(現・新宿区若葉) 七代目主 大岡権左衛門長女 徳川家大奥老女俗稱 瀧山 行年七十一歳」とある。

 境内右手には、元和4年(1618)良栄法印によって開山された「地蔵尊院」があるが、これは元々門前にあったもので、錫杖寺が将軍の御休憩所になったために、門前を拡張する必要に迫られ、現在の川口神社(川口の総鎮守)に移築させた処、夜な夜な読経の声が聞こえたりし、明治維新後の神仏分離令発布と共に元の現在場所に戻された。その後、錫杖寺の塔頭寺院として住職不在の侭歳月を重ねたが、平成6年に現住職が再興し現在に至っている。本尊は、石仏の延命地蔵菩薩で、地域の人たちから錫杖寺の「地蔵堂」と親しまれ、医療の未発達時代には、万病を治癒させてくれる霊験あらたかなる地蔵様として参詣が絶えなかったという。

 境内左手には、奥から順に、弘法大師修行像・鐘楼・福禄寿(川口七福神)・川口天満宮・地蔵がある。

旧田中徳兵衛邸(11:03)・・・川口市末広1-7-2

 街道に戻り、埼玉高速鉄道の「川口元郷駅」から国道122号線(岩槻街道)を北進し、「十二月田(しわすだ)」という珍しい名前の交差点を越える。
 十二月に田の神様のお使いの狐が杉の葉で田植えの真似事をしたという伝承に因んだ地名の由。その先には、何の痕跡も表示もないが曾ては一里塚があったという。

 信号から130m程先のリンガーハットの向かい(右手)に、国登録有形文化財に指定されている「田中徳兵衛邸(旧田中家住宅)」がある。田中家では代々、長男が家督を継ぎ「徳兵衛」を襲名しているが、初代徳兵衛(寛政7年=1795生まれ)は農家として身を立て、2代目徳兵衛(文政11年=1828生まれ)が明治4年(1871)から麦味噌の醸造および材木商を営み始め、この頃から巨額な富を築いていく。

 この田中徳兵衛邸は、明治8年(1875)生まれで19歳で家督を相続した4代目が大正12年に自宅兼迎賓館として建てた。彼は材木業に力を入れ財を築き、さらに所有地を拡張していき、総面積99万㎡を有する大地主となり、更に家業のほか、埼玉味噌醸造組合長に就任したり、その後政界には明治40年(1907)村会議員をふりだしに大正15年(1926)に県議会議員を務め、昭和7年(1932)には貴族院多額納税者議員になっている。(昭和22年4代目死去)

 現当主だった徳兵衛氏が2005年2月に死去したが、生前から邸の公共的活用を希望され、川口市が敷地共々買い取って洋館、和館、味噌蔵、庭園などを一体的に残市、一般公開することになったものである。(入場有料)

 洋館が大正10年(1921)築、県内唯一の3階建木造煉瓦造で「チューダーゴシック」様式の和室併用の建物で、和館は木造一部2階建の寄せ棟屋根を載せた数寄屋造りの建物である。それに躑躅の植えられた庭園、離れの茶室など、見所が多い。

(参考)昌國利器工匠具博物館・・・川口市朝日1-5-26

 刃物博物館という珍しい資料館があった。残念ながら、土・日・祭日は休館日で見学できないが、この博物館は、我が国初の盆栽専用鋏の創始者である初代昌國の後を継ぎ、同じ刃物業界に生きる者の義務として、予てより刃物類の保存と公開の方法を計画してきた館長の川澄昌國氏が、平成5年に鋏類の研究に関して科学技術庁長官賞を受賞し、続く平成6年には黄綬褒章を受賞したのを記念して、先人達の苦心の結晶である作品と現在の匠の作品を、出来るだけ多く公開し、永く後世に伝えることを目的に開館したものである。

薬林寺(11:11)・・・川口市朝日1-4-33

 その先、「末広」交差点の150m弱先左手の薬林寺入口に元禄15年(1702)銘の庚申塔が建っており、そこを左に入って行くと薬林寺がある。薬林寺は、山号を「瑠璃山」と号する真言宗智山派の寺院で、無量寿阿弥陀如来を本尊としている。

 室町時代の開基で、寛正元年(1460)5月に第一世法印宥淳和尚による開山とされており、中興開山は、大永5年(1525)6月、第四世法印了高和尚によると伝えられる。

 当寺は、元々は現在地ではなく、樋の爪村(現朝日)の西を流れる野川(現芝川)畔に大伽藍を有していたが、天正年間(1573~91)における北条氏との戦に敗れた岩槻太田の落人が、樋の爪村にあった薬林寺に逃れて来た折、集まった村民が堂を壊し、後の再建時に現在地に移ってきたと伝えられている。

<岡の薬師>

 境内に、「安行慈林の薬師」、「領家光音寺の薬師」と共に「川口三薬師」の一つである「岡の薬師」と呼ばれる薬師堂がある。お堂の中央に薬師瑠璃光如来(岡の薬師)が安置され、左右に日光・月光両菩薩が配され、十二神将と娑子が護法神として並んでいる。

 この薬師堂は、天文8年(1539)4月に造立され、天正13年(1585)に北条氏の家臣立川山城守、代官大久保内蔵助らが再建したとされている。平成元年、岡の薬師450年大祭記念として老朽化した堂宇が再建され、現在も広く信仰されているという。

<観音堂>

 安置されている十一面観世音菩薩立像の胎内には、元禄15年(1702)の古文書が納められているそうだが、こんな伝承があるという。

 文化年間(1804~17)初期、この観音像が何者かに盗まれ、江戸駒込の古物商に売払われた。すると、古物商の妻が高熱にうなされ、「樋の爪村の薬林寺に帰リたい、帰りたい」と何度も譫言を言うようになり、これを恐れた古物商がこの像を寺に返したという。この像を住職が村入達と懇ろに供養したところ、観音像は満足そうに首を振って頷いたので、以後誰言うとなく「薬林寺の首振り観音」と呼ばれるようになり、人々による願い事成就の信仰が一層広まった由。

<薬林寺と鎌倉街道・日光御成街道>

 日光御成道は、概ね中世の鎌倉街道を前身として整備されたが、部分的には後に道筋が変更したと思われる部分もある。川口・鳩ヶ谷両宿間の御成道も一部はそうだったと考えらている。即ち、古くは芝川の堤防上を通る鎌倉街道(現薬林寺の西側道路)を利用していた箇所があったという。
  しかるに、当地の伝承によれば、将軍が日光社参の折、薬林寺から旧前田村にかかる辺りで、美しい村娘を見初め側室にしたいと言い出し、家臣たちが計って帰路はそこを通らぬよう、急遽現在の御成道(国道122号)に変更してしまったと言われ、その新街道を土地の古老たちは「しんけいどう(新街道)」と呼んでいる由。

昼食

 埼玉高速鉄道南鳩ヶ谷駅の先の交差点を右折200m弱の、実正寺近くの蕎麦屋に入店し、昼食タイムとした。時間がかかったが、きょうから新蕎麦ですと言われた。

実正寺(12:32)・・・鳩ヶ谷市南3-15-11

 「光照山無量寿院」と号する真言宗智山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。境内に板碑が3基あり、紀年は1333年・1362年・1371年と刻まれ、いずれも南北朝期のもので、市指定有形文化財になっている。

 門前に、次のような面白い掲示があった。

<その1>悪口は鏡に向かってどうぞ!
 他人の悪口を言いたかったら鏡に向かって悪口雑言を吐いてみて下さい。そこには卑劣で心汚れた醜い顔の下衆が映っているのです。
 心を入れ替え他人の長所を考え言葉にして誉めてみて下さい。そこには笑顔が浮かび優しく心豊かな美しい顔の人が映っているはずです。
<その2>怒るは無知 泣くが修行 笑うが悟り
 ただ自己中心で勝手な心では苦労や不幸を他人のせいにして怒り暴言を吐く。相手の心や人生を知ることが無い。苦労が続くのが人生であり泣きたい時も多い。その時は泣けばいい。涙は心を洗ってくれる。その修行の先はただ生きていることが嬉しく有難く感じる。悟りに達した同士は楽しく笑い合える。


 実正寺の開山年は不詳だが、中興第1世の僧・宥賢が弘治2年(1556)入寂と伝わることから、それ以前の開創とされている。本尊の阿弥陀如来の傍らには弘法大師作の地蔵菩薩が安置されている。この像の左手虧を失ったので、度々仏師に命じて補修したが、たちまち失って元の欠けた状態に戻ってしまったという。恐らく高僧の作を凡下の者が補修したためと考え、その後は修造しないことになったと言われ、「手かけ地蔵」として伝わっている由。

 また、厨子の背後に高野山萱堂成就院宥栄、寛永十八年(1641)泰求之と記されている。寺伝によると、先住良賢が高野山に遊学して下山の折、師の僧から譲り請けたと伝えられている。ほかに、天竺から持渡したと伝わる文殊の銅像が安置されているが、面相以下、普通の像と異なっている。

 また、薬師堂があり、本尊の傍らに日光菩薩・月光菩薩・十二神将などが安置されている。新四国八十八ヶ所の内、讃岐国金倉寺(76番札所)に擬したものである。当時の過去帳に第6世法印宥海の時、貞亨5年(1684)客殿一宇、薬師堂を造営し免田を寄進したとあるので、それが開堂時期と思われる。境内の鎮守として、愛宕社、渡唐天神、疱瘡神等を相殿にしている。

 また、寛文5年(1665)銘の三猿が刻まれた古い庚申塔や、寛延2年(1749)銘の登都路稲荷社の社号の石標、元禄年間の庚申塔などの石塔群が、山門を入った塀沿いの左奥にあり、落ち着いた佇まいの中に歴史を感じさせる。

                
鳩ヶ谷市指定有形文化財       鳩ヶ谷市南三-十五-十四 実正寺
                板碑      考古資料 昭和四十六年五月二十四日指定
 板碑とは、鎌倉から江戸時代初期にかけて盛んに行われた死者追善と生前の逆修供養のための板石の卒塔婆です。関東地方では秩父産の緑泥片岩を用いたので、青石塔婆ともいいます。おもに板状の石の上部は山形に作り、碑面には梵字の仏号、年号、供養者名、願文などを刻みます。
 当寺所蔵のものは高さ一・一四メートルの大型で、南北朝時代初期のものです。碑面には連座の上に月輪に阿弥陀を示す梵字が、その下に元弘三年十一月の年記銘、右に比丘尼、左に妙鏡の人名、さらに左右に光明真言の四文字がそれぞれ刻まれています。

                阿弥陀庚申塔 有形民俗文化財 昭和五十八年四月一日指定
 庚申塔とは、庶民に広まった庚申信仰のもと、講を結んだ人々により、現世未来の安楽祈願や永代供養などのために建立された塔です。
 これは、江戸時代前期の寛文五年(1665)十月八日に建立されました。形は舟形で、主尊は非常に珍しい図像の阿弥陀如来、下部に庚申供養の刻字とともに見ざる、聞かざる、言わざるの三猿と二羽のにわとりが彫り出されています。刻字には、中居村の中村姓五人と鈴木姓一人の建立者名がみられます。
                平成二十一年二月一日      鳩ヶ谷市教育委員会


松原青嵐碑(12:51)・・・鳩ヶ谷市南7丁目東京電力鳩ヶ谷変電所前

 街道に戻り、その先の「新芝川」を「鳩ヶ谷大橋」で渡ると、200m程先左手の「鳩ヶ谷変電所」前に小さな「松原青嵐碑」がある。殆ど消えたような文字で、「鳩ヶ谷八景」の解説があり、昔は松並木や杉並木があって一幅の絵のようだった旨記されていると言うが、全く読み取れない。。

 この「変電所前」交差点で、先の道はY字に分岐しており、日光御成道は国道122号(岩槻街道)を左に分けて右の旧道(県道105号)に入って行く。

古民家の保坂家

 旧街道に入り、左の方に並進する水路を見ながら「三ツ和T字路」や県道58号を過ぎると、坂下町三丁目の商店街の右手に、「保坂家の古民家」がある。古い格子造りの商家建築で、瓦葺ではあるが情緒はなかなかのものだ。

とんぼ橋遺構(13:05)

 数分先の右手向こう角に「とんぼ橋遺構」の石材が置かれており、鳩ヶ谷市指定有形文化財となっている。

      
鳩ヶ谷市指定有形文化財 歴史資料 とんぼ橋   鳩ヶ谷市坂下町三-一-十六
                              昭和五十五年八月七日指定
 昭和五十三年三月四日に見沼代用水の分流である平柳領用水堀の蓋掛け工事の際に、この場所で大きな石材五本が発見されました。そのうちの一本の側面に次の文字が刻まれています。
     丁延寶五年
    武州下足立郡鳩ヶ谷町とんぼ橋
     巳三月吉日
 この刻字の延宝五年・丁巳(一六七七)は見沼代用水完成の五十一年前で、すでに開削され流れていた用水(平柳用水の前身)に架けられていた石橋だということがわかりました。
 この橋に関する記述として、江戸時代後期の文政十一年(1828)に幕府によって編纂された『新編武蔵風土記稿』に「橋二ヶ所、一ハ三沼(見沼)代用水堀ニ架ス。長五間幅二間半。吹上橋ト号ス。一ハ蜻蛉橋ト呼ベル石橋ニテ。三沼代用水ノ分水平柳領用水堀ニアリ」とあります。
 石材は、相州(神奈川県)系の安山岩とみられます。
                平成十年九月三十日      鳩ヶ谷市教育委員会

見沼代用水(みぬまだいようすい)(13:09)

 その先、「吹上橋」で「見沼代用水東縁」(毛長川)を渡るが、欄干に子供の像がちょこんと乗っている。この用水は八代将軍吉宗の頃に大宮、浦和の東側にあった「見沼」に代わる用水として、建設重機も無い時代に、利根川から延々80kmに亘って造られたもので、見沼通船堀とともに農業用水以外に船運としても使われた。その大変な難工事の苦労が偲ばれる。

 見沼代用水は、8代将軍吉宗の時代、享保の改革の一環として享保7年(1722)に新田開発奨励策が打ち出され、新田開発が活発化した。同10年(1725)、元紀州藩士で幕臣・勘定吟味役格の職にあった井沢弥惣兵衛為永が「見沼溜井」の干拓の検討を命じられ、同13年(1728)武蔵国に普請した灌漑用の農業用水が「見沼代用水」で、灌漑用溜池である見沼溜井の代替用水路だった。
 用水のルートは、現在の埼玉県行田市付近の利根川で取水し、「東縁代用水路」は東京都足立区、「西縁代用水路」は埼玉県さいたま市南区に至った。

 この水路は、「見沼通船堀」と共に農業用水路としてのみならず、船運のルートとしても利用され、鳩ヶ谷に物資が集積し、「市」が起こっている。この「市」はやがて三と八の日に定期的に開かれる「三八の市」になっていった。

鳩ヶ谷宿

 この橋が、「鳩ヶ谷宿」の江戸側からの入口の由。
 鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町、日光御成道の3番目の宿である。この宿から街道は台地上へ出るため、この付近から北に向かっては昇り坂になっている。

 鳩ヶ谷は中世は鎌倉街道中道が通り、江戸時代以前から奥州との交通の要衝として栄えていたが、江戸期になると、御成道の宿駅が設けられ、また三・八市の開催など、物資の集散地としても賑わう宿場になった。

 明治以後も鉄道駅から距離が離れていたため、往時の町並みが比較的残る宿場になっている。宿は下、中、上の三宿でなり、本陣は中宿にあった。本陣1・脇本陣1・旅籠16の規模だった。

御成坂公園(13:10)・・・鳩ヶ谷市本町1丁目1

 「吹上橋」を渡ると、緩やかな上り坂の途中のすぐ左手に「御成坂公園」がある。

 「日光御成道のみちすじ」と題する地図・カラー絵付き解説板(下記)があるほか、高さ4m程で小坊主が鐘を打ち、奴っこが毛槍を振るレトロ感覚の「からくり時計台」がある。文字盤は数字でなく「子・丑・寅・・・」と昔風の数え方の漢字が刻まれて、月曜日~土曜日は10時・12時・15時・17時・19時の1日5回(日曜日は10〜20時迄の1時間おき)時計上部の小坊主の人形が鐘を撞いて時を知らせる仕組みになっている。

                
日光御成道のみちすじ
 日光御成道は、中世の鎌倉街道中道と重複、あるいは沿って通っています。徳川家康が久能山より日光山へ改葬され、東照宮が造営されてから、江戸幕府将軍の日光社参への街道となったのがこの道です。
 日光道中の脇往還として、江戸日本橋を起点に本郷追分で中山道とわかれ、岩淵宿(現、東京都北区岩淵町)・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿を経て、幸手宿まで五宿十二里の街道で、埼玉県内の日光御成道は、四宿をもつ総延長九里の道、いわば将軍専用の道路でありました。

 それと並んで、将軍の日光社参時の行列風景を絵にしたタイル絵が壁画よろしく塀に彩られ、「日光御成道」としての雰囲気をアピールしている。

船津家(13:13)

 御成坂公園の向かい側(街道右手)には古い2階建の洋館の船津家がある。

本陣跡

 緩やかな坂を登って行くと、信号の少し手前右側に今は「藤屋」という洋品店に変わっている所に「本陣」があったという。実は往時の「本陣建物」は、少々離れるが別場所に移築され現存している。

 歩けば20分程度かかるが、鳩ヶ谷駅の西方にある「真光寺」に移築され、その本堂として使われているという。当然修理はされているのだが、往時の形が残っているそうだ。距離もあり、見学するのは割愛したが、この先で模型で見ることにした。(市立郷土資料館の項参照)

鳩ヶ谷氷川神社(13:18)・・・鳩ヶ谷市本町1-6-2

 「北西本店」の先の露地を左折して100m程行くと、鳩ヶ谷総鎮守の「氷川神社」がある。この辺りは旧鳩ヶ谷宿の中心地で、応永元年(1394)の創建と伝えらる武蔵国足立郡舎人・戸田・平柳の鎮守社である。

 御祭神として須佐之男命ほか18柱(合祀)を祀っているが、神社統合令により明治45年に、浦寺・里・辻にあった近隣18社が合祀されたためである。
 このほか、境内摂社・末社として、須賀神社・天満宮・浅間社・稲荷社・八幡社・三峰社・古峰社・熊野社・弁天社・猿田彦碑など、多数お祀りしている。

 慶長5年(1600)7月、徳川家康が奥州出陣の途中に境内で休息しており、以来「東照宮御床机御跡」として、休息した杉木は大切に見守られている由。
 本殿は元禄年間(1688~1704)に再築され、昭和52年には拝殿屋根の葺き替え等、平成5年には御鎮座600年を記念して神門・回廊の造営等、社頭の面目を一新し、600年式年祭を斎行している。
 境内右手に文化2年(1805)の「富士仙元道」の道標がある。

 境内で「小連れ狛犬」を発見したが、岩淵宿でも「小連れ狛犬」を見ており、この街道筋の特徴なのだろうかと思う・・・

                
鳩ヶ谷絵図          鳩ヶ谷市本町一-六-二
                               昭和五十五年八月七日指定
 表題に「御宮地絵図」とある巻物で、市内最古の絵図です。日光御成道を中心に鳩ヶ谷宿の町割と用水、宿内の神社や寺院などが描かれています。
 絵図の内容は、中央に日光御成道があり、江戸方向から小渕村と辻村、一方、岩槻方向には浦寺村までの範囲が描かれています。御成道の両側には、一軒ずつ屋敷地の間口と奥行の寸法が、さらにその居住者名などの宿内の屋敷六十九軒分が細かく記録されています。また、御成道が渕江用水(現在の見沼代用水)を渡ったたもとから氷川神社へ至る参道、八郎兵衛(鳩ヶ谷宿本陣船戸家)を抜けて入る源性寺通、十右衛門(現在の竹屋晝間家)手前から入る横道などの様子も詳細に見られます。
 製作年代については不詳ですが、絵図中にある「渕江用水」・「氷川大明神禰宜七右衛門」・「天神町中抱」・「熊野見捨地」の記載の他、屋敷地の人名や並び順などから、元禄十年(1697)に作製された「鳩ヶ谷町検地野帳」と合致するので、おそらくその頃に描かれたものと推定されます。
                平成十二年 九月三十日    鳩ヶ谷市教育委員会


 このほか、本陣家の威光を示したものとして、境内社の須賀神社の神輿に関する解説板記載内容が面白い。

               
幡ヶ谷市指定有形民俗文化財 須賀神社神輿    鳩ヶ谷市本町一-六-二 氷川神社
                           昭和五十八年四月二日指定
 この神輿には、『江戸時代後期に鳩ヶ谷宿の有志が、鳩ヶ谷宿本陣船戸家に承諾を得ずに購入したため、怒りを買い、宿内へ運び込むことができなくなり、一時、里の法性寺に預けられていた。その後、嘉永五年(1852)に三田辰五郎という人物が、本陣に詫びを入れて許されたことから、宿内に運び込むことができた。』という伝承があります。
 神輿は、一メートル四方の台輪と間口四十八センチメートルの神祠(しんし)からなり、彫刻は全体に華やかで、彩色は漆塗りの上に金箔を貼り、台及び屋根は、黒漆で仕上げられています。神祠は、太い角柱で支えられ、その中には三田辰五郎の遺髪が納められていました。明治二十七年(1894)と昭和二十六年(1951)の二度の修繕を経てはいるものの基本的意匠は、江戸時代後期の特徴をよく残しています。
 この神輿には、「百貫みこし」の俗称の他、七月の祭りには、荒々しく担ぎ出されることから、「けんかみこし」といった異名も付けられています。
                平成十二年 九月三十日    鳩ヶ谷市教育委員会


市立郷土資料館(13:26)・・・鳩ヶ谷市本町2-1-22

 「本町2」交差点に戻って、逆に街道右手に入ったすぐ左手に、「鳩ヶ谷市立郷土資料館」があり、立ち寄る。
 館内では、鳩ヶ谷の歴史や民俗に関する資料を公開しており、江戸時代末期の鳩ヶ谷宿の「町並み」の復元模型や鳩ヶ谷宿「本陣」建物の模型のほか、「農家のくらし」や「商家のようす」などを再現している。

 その模型によると、鳩ヶ谷宿の本陣は、鳩ヶ谷宿のほぼ中央、氷川神社よりやや手前の右手にあり、昭和初期に鳩ヶ谷駅西側(直線距離で約400m西)にある「真光寺」に移設されている。移設後の本陣建物は内部が一部改造されているが、概ね旧状の侭だそうだ。

 ちょうど「測る 量る 計る」をテーマとした特別展期間で、「はかる道具とその歴史」について1時半から館長による解説があったが、時間の関係もあって中途で失敬したが、各種解説文なども持ち帰れるように用意されており、市の姿勢に好感が持てる。

市神社(13:46)・・・鳩ヶ谷市本町2-2-2

 その先の「本町二」バス停のある所、街道右手に天保9年(1838)に奉られたいう「市神社(いちがみしゃ)」という小さな神社があるが、先に「見沼代用水」の項でふれた「三八の市」の祭神で、その名もずばりの「商売の神様」である。その三八の市は、昭和30年代に衰退したという。

           
幡ヶ谷市指定有形民俗文化財 市神社    鳩ヶ谷市本町二-二-二
                                平成三年四月一日指定
 江戸時代に、江戸を中心に街道が整備されて、日光御成道ができました。
 日光御成道は、徳川将軍が日光参詣のための専用道として、江戸の本郷追分(東京都文京区)で中山道とわかれ、岩渕(北区)・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻をへて、日光街道に合流するまでの道です。
 鳩ヶ谷は、御成道の宿場町として栄え、享保十六年(1731)に市が開かれました。毎月三と八の日に、市が開かれたことから、「三・八市」と呼ばれて繁盛しました。その市の祭神が市神です。
 現在の市神社は、納められている鏡に「奉納天保九年」(1838)と年代が刻まれており、また、天保十五年に作られた「日光御成道分間延絵図」の中に、社殿が描かれています。
 江戸時代の鳩ヶ谷が、経済流通の中心地であったことを立証する貴重な文化遺産です。
                平成3年7月31日
                                鳩ヶ谷市教育委員会

小谷三志旧宅跡

 街道に戻ってその先の信号を渡った先左手に「小谷三志旧宅跡」がある。特に立ち寄りはしなかったのだが、先刻立ち寄った郷土資料館でも小谷三志に関するリーフレットが置かれていたのでゲットしたが、小谷三志は、明和2年(1765)12月25日、鳩ケ谷宿の裕福な商家(麹屋、屋号は河内屋)で小谷太兵衛の長男として出生。幼少期から賢く、父太兵衛も子供扱いせず、大人同様に接したという。

 父太兵衛は鳩ヶ谷宿の組頭や名主代を勤めていて、若き日の三志は、家業に束縛されず、近所の子ども達に読み書きを教えながら、読書や思索にふける毎日を送っていた。幸い当時の鳩ヶ谷宿は地域の経済・文化の中心地で、宿内の旧家や寺社には多くの書物が所蔵されており、また、宿を通過する学者・文人との交流も、若き三志を刺激したと思われる。

 三志と宗教との関わりについては、26歳の年の元旦から鳩ヶ谷浅間神社に裸参りを始めたとする記録があり、やがて富士講に入り、30歳代半ばには、鳩ヶ谷を中心とする富士講の一派・丸鳩講の先達となっている。しかし、当時の富士講に心が充分満たされなかったのか、他派の行者とも交流を深めて新たな信仰の行方を模索し、43歳の時、江戸山谷に参行禄王という行者を訪ね、後に「不二道」として結実することになる新たな信仰の手がかりをつかんでいる。

 これを機に、江戸時代の後期に成立した「不二道(富士山信仰の一つ)」を通して、社会教育の実践を進めていく。不二行者名を禄行三志と称した。

(参考)法性寺・・・鳩ケ谷市桜町1-11-51

 その先左手、大宮台地の南西端の斜面に位置する「玉龍山法性寺」は、江戸城を築いた太田道灌により文明8年(1476)に寺領等を寄附され開基した由緒ある古刹である。街道からの参道は、一度斜面の下に降り、また山門へ昇り返すことになるそうで、立ち寄りは略したが、先述の須賀神社神輿が一時預けられていた寺である。その山門は何と室町時代末期の築の由である。

 武蔵風土記によると、法性寺は曹洞宗遠江國石雲院末で、寺領十石の御朱印は天正19年(1591)に賜ったもので、鳩ヶ谷では唯一法性寺が賜ったものである。その時迄は寺号は「保正寺」だったが、御朱印に法性寺と記されたため改めたという。本尊は釋迦牟尼佛で、安阿弥の造った千手観音立像(長6寸)を安じている。

 その頃は天台宗だったが、のち、両上杉氏牟楯の時、住僧が兵乱を恐れて遁れ去り、寺領を失い堂宇も悉く荒廃した。その後、明應7年(1498)僧・震龍が再建して曹洞宗とし玉龍山と改号、同8年3月遠江國から季雲永獄という僧を請待して開山とし、震龍は第二世になる。

 永正17年(1520)村山伯耆守行秀が寺領を寄附し、行秀を中興大檀那としている。この行秀寄附の寺領は、北條氏の時没収されたが、天正2年(1574)に至って、氏直から一貫二百文の地を寄附されたという。墓地には、その村山伯耆守行秀の墓や、鳩ヶ谷宿本陣船戸家歴代の墓がある。

 また、法性寺には山の斜面を利用して設けられた七百坪にも及ぶ庭園もあり、藤、サツキ、紅葉と四季折々の風情をもち、木々のみならず、池もあり、絶え間なく湧き出る清らかな水を湛え、その水は涸れたことがないという。

地蔵院の良縁地蔵尊(縁切り地蔵)(13:54)・・・鳩ヶ谷市桜町5-5-39

 その先右手の「筥崎山錫杖寺地蔵院」と称するわが真言宗の古刹に立ち寄る。聖武天皇の御代以来千百年の歴史を有する寺院で、奈良時代の僧行基の作と伝わる平安期の「地蔵菩薩」を本尊に祀っている。また、木造不動明王立像が埼玉県指定有形文化財となっている。

 開山は了雅で寂年は不詳。中興開山は尊蓮で慶安元年(1648)正月入寂。草創は鎌倉時代ないしはそれ以前である。新編武蔵風土記縞には、入間郡喜多院にかかる古鍾の銘に、「武蔵国足立郡鳩井郷筥崎山依悲母命奉鋳之、正安二年(1300)庚子三月十八日大工沙弥慶源景恒と彫せり云々」とある。

 明治5年から明治13年までに地蔵院を仮校舎として鳩ケ谷小学校が開校しており、石碑がある。
 門の左手に正徳六年(1716)銘の庚申塔がある。 地蔵院の入口には古い「道標」が建てられているが、傍らの新しい標柱に「道標 文政五年(1822)]と記されている。境内の「鳩ヶ谷八景之其一 地蔵院晩鐘」もいい佇まいを見せている。

<仏教美術館>

 境内左手にある仏教美術館は、仏像・仏画・曼荼羅図・各種硯と墨等のコレクションを展示している。うまい具合に毎週日曜日の1時~4時開館なので係の勧めに応じて2階・3階を見学させて貰ったが、見学料無料なのに大変見応えがあり、大変感動的である。

<観音堂>

 境内の「観音堂」に、弘法大師作と伝えられる「十一面観世音」が安置されている。この観音堂は江戸時代には浦寺の北方、日光街道の西側にあったが、明治4年の法性寺火災で飛び火し、堂宇を焼失したので地蔵院境内に移された。

<小谷三志の墓><小谷三志遺品保存館>

 墓地は本堂の北側にあり、1600年代の五輪塔・宝筐印塔等が並び建っている。当寺を菩提寺とした郷土の偉人・江戸時代の社会教育者として有名な小谷三志の墓がある。

 先述のとおり不二道を開いた人で、二宮尊徳も一時は三志に教えを乞うたこともあり、後に孔子と三志を並べて話した程で、三志の偉大さを物語っている。この墓は三志遺品保存館のすぐ裏に自然石二個を重ねただけの質素なもので建てられている。(市指定文化財)

<良縁地蔵尊>

 山門を入った右側に「良縁地蔵尊」と書かれた祠の中に、正徳元年(1711)造立のお地蔵さまが祀られ、すぐ脇の解説板に次のように記されている。

                
良縁地蔵の昔話
 ある日、村のお大尽のおかみさんがお寺に相談にきました。「息子に良い縁談があるのに、村の娘と仲良くなって、その娘を嫁に欲しいというので、どうか別れさせて欲しい」というのです。
 和尚さんの「境内のお地蔵さまにお願いしてみなさい」という答えに、おかみさんは地蔵院へ通って、息子が悪い夢から覚めるよう祈りしましたが、息子はますます娘への愛を強めるばかりです。
 満願の日、和尚さんは「悪い縁ならお地蔵さまが切ってくださるはず。今日一日よくお願いをしなさい」と申されました。おかみさんは熱心に祈りました。ところが拝んでいるうちに、村娘のよく働く姿や、素直なこと、優しい笑顔がつぎつぎと心に浮かんできて息子が最もよい人を選んでいたと思えてきました。
 顔をあげると、石のお地蔵さんがにっこりと微笑まれ、「ようやく分かったね。良い縁を切ってはいけないよ」という声がおかみさんの心に響いたのでした。


<タブノキ>

 裏庭には樹齢100年のタブノキ(市天然記念物)があり、これも係の人に案内して戴いたが、圧倒されるような大木である。このほか、シラカシ、シイ、ムクエノキなどの古木も保存樹林として雄姿を見せている。

子日宮神社(子日大権現)(14:22)・・・川口市新井宿155

 鳩ヶ谷市新井宿に入る。新井宿という宿場ではなく、地名である。埼玉高速鉄道の「新井宿駅」西側を過ぎると、右手に「子日宮神社」、左手に「氷川神社」「宝蔵寺」がある。

 「鎮守・子日宮神社(子日大権現)」は道路から木の(両部)鳥居、石の鳥居という順に潜っていくが、この後に訪ねた「西新井宿・氷川神社」は石の鳥居、木の鳥居の順になっていた。また、その奥にある狛犬が、珍しいことに火山岩のような岩の上に乗っている。また、幟石台は嘉永5年(1852)に奉納されたものである。拝殿は質素でなぜか藁草履が6足ほど奉納されている。

 文化13年(1816)9月に東新井村の飯塚武右衛門が奉納した算額があるそうだが、締め切られた社殿内にあるのか確認できない。
は文化二年(1805)の伊勢参宮記念碑などがある。子日宮神社の隣は多宝院、向かい側、街道左手には氷川神社と宝蔵寺が並ぶ。宝蔵寺には身がわり地蔵がある。

西新井宿・氷川神社(14:23)・・・川口市西新井宿352

 街道を隔てた左手にある。子日宮神社とは逆に、こちらの神社は石の鳥居の奥に木の(両部)鳥居が建っている。灯篭は文化二年(1805)に奉納されたものである。本殿は外側が石、内側が木製と二重の玉垣に囲まれている。水滴

 神社の左奥には「雲井神社」、「天満宮」が祀られた別の社があり、裏には「稲荷神社」が祀られている。

(参考)宝蔵寺・・・川口市大字西新井宿355

 真言宗豊山派の寺院で、本殿は質素な造りである。天保12年(184))に奉納された燈籠がある。
石碑に曰く
   凡人の心は合蓮花の如く、
   仏の心は満月の如し
     弘法大師 秘蔵宝編より
「大師の言葉は私達の不完全・未完成を言うと同時に、仏と同じ清らかな心を本来持っていることを暗示している。日々の生活の中でこれを開花させなければならない」とあった。

(参考)源長寺・・・川口市赤山1285

 その先東方首都高速川口線の手前、街道を離れて右手の細い道を入って行った所に、「周光山」と号する浄土宗の寺院、「源長寺」があるが、立ち寄りは省略した。本尊は、阿弥陀如来坐像で、境内には元徳二年(1330)の板碑がある。

               
源 長 寺
 源長寺は、伊奈氏の菩提寺として、4代忠克以後の代々の墓があり、5代忠常建立の頒徳碑には忠次、忠政、忠治の業績が刻まれている。赤山城址は北方に隣接する。
 伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領一万石を給され。熊蔵忠次以後12代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。3代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永六年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来10代163年間伊奈氏が居城したものである。                                                         埼玉県教育委員会

               源長寺の由緒と沿革
 當、源長寺は関東郡代伊奈半左衛門忠次が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提樹として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を特請し、開山として迎えた。ときに元和4年(1618)であった。
 二代住職、玉蓮社日譽源底上人は忠次の次男で寺運の伸展と興隆につとめた。寄進をうけた50石の広大な寺領の外に寺域を整え諸堂をたて寺観を一新して江戸初期から中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とし、近隣に数ヶ寺の末寺を持ち、木曽呂の阿弥陀堂もその一つであった。 源底は後に迎えられて壇林勝願寺の六世となり、さらには鎌倉の大本山光明寺三十八世の座に就き、遂には京都の知恩院に晋董した高僧であった。しかし、広大な寺領をもち権勢を誇り続けてきた源長寺にも漸く濃い翳りが出始めた。大檀那・伊奈氏の十代忠尊のときに失意の退陣を余儀なくされ、代々の所領は没収され赤山の館は解体を強いられて伊奈氏の経済的失調が決定的となった。
 この頃から源長寺の斜陽化衰退は始まった。中興源底の建てた諸堂にも朽廃が目立ち営繕の期を迎えても伊奈氏の経済不如意から放任され、大伽藍の維持に困難を生じ段階的に規模を縮小して難局を越えてきた。そのころ、寺運を回復する器量の住職おらず苦境は深刻化した。江戸中期以降明治にかけて源長寺は重大な時期を迎えたときに二十一世忻譽大念は寺外で没した(明治18年)。この頃、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者があって窮状は加速して源長寺の暗黒時代となった。広大な寺領も一部の者に次第に蚕食され、境内に隣接した土地を残して多くの寺領を失ってしまった。僅かに残った二町歩余の農地も終戦後の農地解放の政令に従いすべてを手放し、境内墓地の寺域約一町歩(1ha)が残ったに過ぎなかった。
 この未曾有の難局に陥っても本尊仏に異常がなかったことは洵に幸いであった。當山に安置する阿弥陀如来は秩父より招来された火難除けの仏様と伝承があり、相好円満の温顔、均整の取れた藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、先の伊奈家の頌徳碑(昭和48年指定)に続いて市文化財としての指定(昭和53年)をうけたことはあり難いことであった。
 現住廣譽定海、仏縁をもって昭和13年(1938)二十四代の法灯を継いでも当時は十数戸の檀家、正に少祿微檀。僅かに残った茅葺き一棟も十坪余に過ぎず、寺としての外観体裁はなく、辛うじて雨露を凌ぐのみで廣譽が常駐して本尊に給仕するには大きな決意が求められた。廣譽は土地の古老に伝承を聞き古書から盛時を偲びつつ教壇生活を続けて密かに時機の到来を待った。
 昭和47年退職入寺した廣譽は寺運の再興、伽藍の再建を発願決意した。荒蕪地同然の寺域を墓地として造成分譲し広く有縁の檀越を募り大方の効力を得ることを方策として樹てる。幸いにして機運円熟し仏天の加護をうけて着工し、父祖以来の宿願、本堂、庫裡の新築、境内の植栽整備も同時に進行して昭和63年(1988)5月15日全檀信徒参集して浄土宗三上人の遠忌正当の記念法要に併せ落慶のおつとめが盛大に厳修され住職廣譽の生涯の大吉祥日となり、永年の悲願成就を泉下の諸霊に慶びの報告をした。
                              源長寺


赤山城跡(参考)

 その先、東京外郭環状道路沿いに植木の里、安行の台地に赤山城跡があるが、これまた遠いので立ち寄りは省略した。現在、城跡は一面の植木・苗木畑に変わり、僅かに残る堀や土塁に雑草が茂り、往時の面影が忍ばれるという。

 実はここは、江戸初期から末期にかけて関東郡代を務めた伊奈氏の陣屋敷跡で、赤山7千余石を領した伊奈氏3代「半十郎忠治」が寛永6年(1629)に構築したもの。

 それによると、伊奈氏は、徳川家康の関東入国と共に鴻巣・小室領一万石を給され、熊蔵忠次以後12代に亘って関東郡代職を務め、関八州の幕府直轄領を管轄し、貢税・水利・新田開発等にあたった。
 中でも、野火止用水・葛西用水・見沼代用水等の開削・土木事業に多くの実績を残したことで知られている。

 3代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永6年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。これが赤山城で、以来10代忠尊が天明の大災害(1783~87年)の事後対策の過失により郡代職から失脚、領地を幕府に没収される寛政4年(1792)まで、163年間伊奈氏が居城した。

 現在では、東側に一部残る堀と土塁が伊奈家の栄枯盛衰を物語っている。街道歩きの過程で、各地で伊奈氏の功績を見、中山道は鴻巣の「勝願寺」において伊奈忠次・忠治父子の墓を見たが、その子孫がここに陣屋を構えていたとは知らなかった。民衆に慕われた伊奈氏の失脚についても、水戸街道を歩いた時に知ったが、天明の大災害が絡んでいたこともここを調べていて初めて知った。

真乗院(14:41)・・・川口市石神1253

 街道に戻り、「石神南」で「東京外郭自動車道」を潜るった右手に「真乗院」がある。樹高18m、目通り幹周14.05mという市の指定文化財になっているコウヤマキをはじめとした緑に囲まれている。
 元文2年(1737)銘の道標を兼ねた小さなお地蔵がある。刻まれている文字は風化で判読が難しいが「江戸ほんごう道 江戸あさくさ道 いわつき道」と記されているらしい。

 その先は、見るべきものも無く、延々と歩いてJR武蔵野線の「東川口駅」を右手に見ながら線路を越える。

妙延寺(14:59)・・・川口市石神967

 その先新町交差点を、街道を離れて右に行くと、左手に妙延寺がある。寛政2年(1790)石井伝右衛門によって開基されたと言われており、寺には土地に関する資料として伊奈氏の実施した「検地帳」などが残されている由。

 「妙延寺地蔵堂」は通称「御女郎仏」と呼ばれ、暴雨風の翌日、由緒ある家の出の女郎が行き倒れ、介抱の甲斐なく息を引き取ったのでその菩提を弔うために建立されたという言い伝えがある寺である。「女郎絵馬」が奉納されていたが、可憐な女性にはとても見えないようだ。

               
女郎仏の由来
 女郎仏は、この近在ではだれ一人として知らぬ者のないほど知られた仏であり、昔から下の病に霊験あらたかであると人々の信仰を集めている。
 由来については、資料がなく、昔からの言い伝えのみであるが、最も信ずべき石井栄助氏の書き残した記録によると、寛政二年(1790)三月一日暴風雨があり、某日村役人が土手山という官林を見回りに行ったところ、山の中から若い女のすすり泣く声が聞こえてくるので、行ってみると、十八・九歳位の気品卑しからぬ女性が病に倒れ、苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが、病重く、言葉も絶え絶えで手掛かりとなる所持品もなく、どこの者ともわからぬため、仮小屋を造り、手当てをしたが、その効果もなく、五日後に息を引きとってしまった。この女の人を葬ったのが女郎仏である。
 女郎仏とは、その女性があまりにも美しく、可憐な乙女であり、身分を明かさなかったので、もしや女郎ではなかったかとのことからいわれるようになったと思われる。

 この妙延寺は、春には桜が咲き乱れ、その時期の桜祭は、石神地区の人たちの楽しみで、夏祭と合わせ地域の人たちの親交を深める場になっている由。

一里塚跡と馬頭観音像(15:15)・・・川口市戸塚4-20

 「北原台」信号の先右手にある「一里塚ポケットパーク」の端の方の目立たない所に、宝暦八年(1758)銘の「馬頭観音」がある。この「一里塚ポケットパーク」は、日光御成道の鳩ヶ谷宿と大門宿間の「一里塚跡」に造られた小公園で、往時の遺構も面影も残っていないが、我々街道ウォーカーにとっては、疲れを癒す憩いのスポットである。

 東川口駅の西側で、東西に走る武蔵野線線路を越えると、街道は大きく左カーブし、北西方向に向かう。

ゴール

 その先、武蔵野線踏切の手前で右折すると150m程でJR武蔵野線及び埼玉高速鉄道の「東川口駅」があるので、ここをゴールとし、恒例の軽い打ち上げを近くの赤ちょうちんで行ってから帰途についた。
 武蔵野線経由での自宅帰着は18時過ぎだった。