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日光御成道餐歩記~#1
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 2009.11.01(日) 日光御成道#1 江戸城大手門前~赤羽駅西口 13.3km

スタート(9:20)

 東京駅丸の内中央改札口で水戸街道歩きで一緒だった小川・村谷・長塚の各氏と落ち合い、御成街道の始発点=江戸城の正門「大手門」の見える交差点に向かう。
 ここから東進し、「大手町」交差点から「大手門」を一望して「日本橋川」の「神田橋」目指すが、その前に幾つかのポイントに立ち寄る。

心霊スポット「平将門の首塚」・・・千代田区大手町1-2-1

 最初の立ち寄り場所は、「読売新聞社」を右手に見て左折した100m先の右側である。ここは2008.1.11に甲州道中歩きの第1回目に立ち寄った所だが、「日本の三大怨霊」と言われ、崇徳上皇・菅原道真と並び称される「平将門の首塚」があるビルの谷間の心霊スポットである。同時に、そこは「元酒井雅楽頭上屋敷跡」であり、かつ「歌舞伎先代萩の原田甲斐殺害地」でもある。

 平将門の乱は、ほぼ同時期の藤原純友が起こした瀬戸内海での乱と共に「承平天慶の乱」と呼ばれているが、討ち取られた将門の首は京都七条河原で晒され、何ヶ月たっても眼を見開き、歯をむき出していたそうだ。

 ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、
  「躯(からだ)つけて一戦(ひといく)させん。俺の胴はどこだ」
と言う声が毎夜響いたという。そしてある日、首が胴体を求めて関東へ飛んでいったと言う。この将門の首に関して、各地に首塚伝承が出来上がったが、最も著名なのがここ大手町の平将門の首塚であり、確認される中で最古かつ確実な晒し首の例と言われてている。

 しかもこの首塚には、下記のように移転などの企画がある都度事故が起こったとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

[1] 関東大震災で大蔵省庁舎が全焼し、新庁舎建設を前に将門の首塚を発掘調査した結果、盗掘され何も無かったために塚を壊して埋め立て、仮庁舎を建てた処、それから数年後に大蔵大臣早速整爾が病死したのを契機に、建築に携わった人、現職課長を筆頭に十数名の職員が不審死を遂げ、「首塚を荒らしたからだ。」との将門怨念説が大蔵省内で広がった。このため省内の動揺を抑える意味で、昭和2年に「南無阿弥陀仏」と刻んだ鎮魂碑が首塚の前に建立されている。

[2] その後も祟りは続く。終戦後、占領軍がこの場所にGHQ専用の駐車場を造ろうとした処、首塚を壊そうとしたブルドーザーの運転手が転落死する事故が起き、さすがのGHQも駐車場の建設を諦めたという。

[3] 東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなど、広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。また、将門の首塚には、大きなガマが祀られており、海外赴任の官庁職員達が、「無事にカエル」にあやかって赴任前には参拝に来たと言われている。

【都旧跡 将門塚】(昭和46年3月指定)

 
平安時代、天慶の乱(~940年)の中心人物。平将門にまつわる著名な伝説地。 
 通称将門塚は関東大震災後に崩され現存しないが、塚の元に将門の墓と称されてきた石灯篭は現地に保存されている。
 嘉元年間(1303~05)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向し、神田明神に配祀したと伝えられており、この地は神田明神の旧地であった。
 故跡保存碑は明治三十九年五月に建立されたもので、裏面の阪谷芳郎撰文になる碑文は将門塚の由来を記している。 (昭和46年10月 東京都教育委員会)

【将門首塚の由来】

 
今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
 将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚として語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため、徳治二年、時宗二祖真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の骨地をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なくその窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が将門によせた期待と同情とは極めて大きなものであったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。


【将門首塚の碑】

 
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 明治二年(1869)より第二次世界大戦まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。
               平成三年三月         千代田区教育委員会

【将門塚】

 
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(931~946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強気を挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる貴重な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭のときに同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われております。                       江戸総鎮守神田明神

【酒井家上屋敷跡】

 
江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。

読売新聞社前

 正月恒例の必見番組である「東京箱根間大学駅伝」ゆかりの、読売新聞社の曲がり角を感慨深く眺める。

日本歯科大学発祥の地碑(9:33)

 神田橋へ向かう右手歩道に、次のように刻まれた碑が建っているのに始めて気づいた。

               
日本歯科大学発祥の地
中原市五郎は、この地に、明治四十年六月(1907)、公立私立歯科医学校指定規則に基づく、我が国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる」歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため、歯・顎・口腔の医学を教導し、数多くの優れた歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治四十二年に現在の千代田区富士見一丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和二十二年に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を継承し、生命歯学部と新潟生命歯学部の二学部をはじめ、大学院二、付属病院三、短期大学二、博物館一を有する世界最大の歯科大学となった。

神田橋(9:48)

 街道に戻って250m程歩くと、最初に渡る「神田橋」である。慶長年間(1596~1615)には既に架橋されていたそうだが、現在の橋は大正14年(1925)の架橋で、長さ17m、幅34mという長さと幅が逆転した珍しい橋である。渡った右手に「物揚場跡」の小豆色の古い石碑があり、次のように記している。

               
物揚場跡
 日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す。往時をしのぶよすがとして後世に伝える
               昭和五十八年三月
                              千代田区


 ふり返って橋東側の対岸を見ると、高速道路下に隠れるように枡形の名残と思われる石積みの川岸が見えるが、江戸時代はそこから橋が架かっていた「神田橋門」があった跡である。

 近くに建っている「内神田一丁目」の町名由来板も参考になる。

              
 内神田一丁目
 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建設資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。(以下略)     神田橋町会

金銅鎚起豊展観守像(9:51)

 街道左手には、金色に輝く像が建っている。今は亡き鍛金師・彫刻家の山下恒雄氏の作品で、まるで宇宙人か何かのような奇異な像である。

               
金銅鎚起 豊展観守像
 この彫刻は、活気とやすらぎ。教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり、「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より 神田の魅力を記録した写真集 神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。
               平成三年九月
                              千代田区


神田橋

 街道左手の神田橋を渡った所(豊展観守像の左手)には、「神田橋」と題する解説板が建っている。

              
 神田橋
 この橋を神田橋といいます。慶長七年(1602)頃といわれる「別本慶長江戸図」にも橋が描かれ、「芝崎口」と名が記されています。のち、近くに拝領屋敷があった土井大炊頭利勝に因んで、「大炊殿橋」と呼ばれていました。さらに、神田の町へ出入りすることから、「神田口橋」「神田橋」と呼称が変わってきました。
 ここには、かつて江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ神田橋門がありました。橋を渡った大手町側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。
 神田橋門は、寛永六年(1629)に、稲葉丹後守正之によって構築されました。この門を通る道筋は、将軍が菩提寺の一つである上野寛永寺へ参詣する御成道にあたりますので、厳重に警備されていました。鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備され、外様大名で七万石以上の者、あるいは国持大名の分家筋で三万石以上の者が、警備を担当していました。
 江戸時代、白酒で評判だった豊島屋も昭和初期までこの近くにありました。
 現在の橋は、大正十四年(1925)十一月架設、長さ一七・三メートル、幅三四メートルです。
               平成十八年九月
                              千代田区教育委員会

神田美土代町解説板(9:57)

 「神田橋」を渡ると、本郷通りの左手は神田錦町一丁目、右側は内神田一丁目で、「美土代町」交差点を過ぎると右手は「神田美土代町」になる。9:57、右側の歩道に「神田美土代町」周辺の地図入り解説板が建てられているのに気づいたが、「美土代」という変わった町名の由来について触れている。

 それによると、伊勢神宮に捧げる初穂を作る水田「御田代(みとしろ)」があった故事から、明治5年(1872)に付けられた名前だそうだ。因みに、「神田」も同じ故事に由来することを知った。

               
千代田区町名由来板  美土代町
 江戸時代、この地域一帯には、身分の高い武士たちの屋敷が立ち並んでいました。特に元禄年間(1688~1704)には、五代将軍徳川綱吉の側近として活躍した柳沢吉保が屋敷を構えていました。そのほか、老中や若年寄を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたみともはっきりしています。
 一方、この界隈には武家屋敷だけでなく、商人や職人が住む町屋もありました。なかには、商売上手なアイデアマンも少なくなかったようで、湯女を置くことで大繁盛した「丹前風呂」が始まったのも、この周辺からだったのです。江戸時代の美土代町周辺は重要な武家屋敷地であると同時に、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐の深い町だったといえるでしょう。
 そんな町に美土代という名がついたのは明治五年(1872)のことです。かつてこの周辺に伊勢神宮にささげるための稲(初穂)を育てる水田「みとしろ」があった故事にちなんで生まれた名前でした。ちなみに、神田という名前も同じ故事に従ってつけられたとされています。
 明治期の美土代町は、一~四丁目まである広大な町域をもっていましたが、時代が下るにしたがって、その範囲を縮小していきます。現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和二十二年(1947)のことでした。

神田小川町一丁目解説板(10:04)

 その先、同じく右手の神田小川町一丁目にも地図入り解説板が歩道上に建っている。

               
小川町一丁目(南部)
                              小川町一丁目南部町内会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、下鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)の絵図にも見られるとおり、この界隈には旗本で寄合の近藤左京、同じく旗本で寄合の津田英次郎らの屋敷がありました。慶応三年(1867)のころには、武家地のほかに雉子町や四軒町といった町が見られ、職人の町として移り変わっていきました。
 明治五年(1872)、雉子町は周辺の武家地を編入し、西側の四軒町は美土代町四丁目となります。雉子町には俳人正岡子規が勤めていた日本新聞社のほか、書店や印刷所、銭湯などがありました。美土代町四丁目には、新聞雑誌取次所や産婦診療所、踊指南所などがありました。
 大正十二年(1923)の関東大震災後、震災復興都市計画により、町の様子や町名も改変します。昭和八年(1933)、ここに小川町一丁目が誕生しました。さらに昭和二十二年(1947)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町一丁目となりました。


神田青果市場発祥之地・・・千代田区神田須田町1丁目

 「小川町」を右折し、靖国通の右側の歩道を行き、「淡路町」交差点を過ぎた先の立体歩道橋の先を右に入り、靖国通の一本南側の裏通りを左折した右手にある「老川ビル」の前にこの発祥之地碑が建っているというので立ち寄ったが、幾ら探しても判らず、遂に諦めた。

 事前入手情報によれば、台石の上に灰色の細長い珍しい形をした石碑があったという。
 ここ神田須田町付近には、江戸時代初め頃から青物商が集まっていた。その後幕府が各所に散在する青物商を当地域に集め、御用市場として育成した結果、駒込や千住と並んで「江戸三大市場」として栄えたという。

 明治以降も政府公認の市場として引き継がれたが、関東大震災で全滅し、外神田(秋葉原駅北側)に移転。東京市中央卸売市場神田分場として東京の台所を預かる重要な市場になった。そして、戦後は東京の膨張に伴ってその場所も手狭になり、平成元年には 太田区(太田市場)に移転している。

 以下は、見つけられなかった碑に記されている内容を紹介した下記ホームページ掲載内容を転載させて戴いた。
(http://hamadayori.com/hass-col/commerce/KandaIchiba.htm)

              
神田青果市場発祥之地
                   旧 神田青果市場の由来
 この市場は 慶長年間に今の須田町附近, 当時は八辻ヶ原と称していた この地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり 徳川幕府の御用市場として 駒込 千住と並び 江戸三代市場の随一であった ためにこの市場には 他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した そして上総房州方面の荷は 舟で龍閑町河岸へ  葛西  砂村方面のものは 今の柳原稲荷河岸から水揚げされた 当時の記録によると この市場の若い衆達が 白装束に身を固めてかけ声も勇ましく 御用の制札を上に 青物満載の大八車を引いて 徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は 実に「いなせ」なものがあったと云う 巷間江戸の華といわれた  いわゆる神田っ子なる勇肌と 有名な神田祭は この神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた こうして繁栄をきわめたこの市場は 江戸時代から明治, 大正, 昭和へと 漸次その地域を拡大して この地を中心に多町二丁目 通り新石町 連雀町 佐柄木町 雉子町 須田町にわたる一帯のものとなり その坪数は数千坪に及んだ この間大正12年9月関東大震災にあって 市場は全滅したが 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれた 惜しい哉 この由緒ある大市場も 時代の変遷と共にこの地に止まるととができず 昭和3年12月1日を期して 現市場である神田山元町 東京都中央卸売市場神田分場へと移転した 当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった 風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて 江戸以来の名物旧神田青果市場は 地上から永遠にその姿を消した 父祖の代から この愛する市場で生きて来たわれわれは 神田市場がいつまでもなつかしい あたかも生れ故郷のように 尽きない名残りを この記念碑に打ち込んで 旧市場の跡を偲ぶものとしたい

     記念碑建立者
  東京都青果物商業協同組合 理事長(元買出人) 大澤常太郎
  東京青果仲買組合連合会 会長 (元万浦)  江澤仁三郎
  東京丸一青果株式会社   社長 (元万弥)  石塚富三
  東中東京青果株式会社   社長 (元三浜)  深見浜助
  淀橋青果株式会社     専務 (元丸文)   老川為次郎
     昭和32年11月   撰文 (元買出人) 平野仁二良
              書   (元買出人) 中里晴市郎


連雀町・佐柄木町解説板(10:21)

 街道(靖国通)に戻り、「須田町」交差点の400m程手前の陸橋で街道左手に渡ると、左手に少し入った先に町名解説板が見えたので立ち寄る。

               
千代田区町名由来板 連雀町・佐柄木町
 神田川に架かる筋違橋は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門が設けられていました。のちに八ツ小路と呼ばれた地に、連雀(者を背負う時に用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子)をつくる職人が多く住んでいたことから、「連雀町」の名前が付けられました。
 明暦三年(1657)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
 一方、安政三年(注:1856)の地図には、この界隈に土井能登守、青山下野守などの上屋敷がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町に編入され、連雀町から遷座された出世稲荷神社は土井家屋敷内にあった延寿稲荷神社とともに町内の鎮守となりました。
 明治四十五年(1912)、甲武鉄道(のちの中央線)万世橋駅が、現在の交通博物館(注:その後閉鎖)の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝として栄えました。また寄席の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉がその著『別れ霜』において、「神田連雀町とかや、友囀りの喧しきならで、客足しげき・・・・・・」と、その賑わいを記しています。
 大正十二年(1923)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。
               平成16年11月
                              須田町北部町会


「御成道」解説板(10:24)

 右折して「旧中山道」と合流して左折するが、右手の中央線の下のレンガ伝いに歩いていると、そのレンガ造りの壁際に千代田区による「御成道」の解説板が建てられている。

               
御 成 道
 『御府内備考』に“御成道、筋違外広小路の東より上野広小路に至るの道をいう”とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流五十メートルの所あたりに見附橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に墓参のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、この道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。
 江戸時代筋違の橋の北詰に高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また太々餅で売出した有名な店もありました。
               昭和五十一年三月
                              千代田区


 この辺りには、現在は撤去されたが「交通博物館」があった。同館は、1912年開設・1943年廃止の万世橋駅跡で、当初は中央線の始発駅だったそうだが、平成18年5月に閉館になっており、その経緯については下記サイトで知ることができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

昌平橋・筋違御門橋(10:29)

 「神田消防署前」信号を右折し、曾て神田川に架かっていた「筋違橋(現在なし)」跡のすぐ横の「昌平橋」を渡ると、「本郷追分」で分かれる迄の区間、既に歩き済みの「中山道」と重なる。

 先刻、「小川町」を右折し、東に向かったが、そこを曲がらずに直進すれば「聖橋」に出て、神田明神前で中山道に出ることになるが、聖橋は関東大震災後に架けられた橋で、往時の神田川を渡る最寄の橋は「筋違(すじかい)御門橋」か直ぐ傍(150m程下流)の「芋洗橋」だった。

 筋違御門は暮れ六(午後6時)には閉じられ、以降は往来不可能となって不便だったため、「芋洗橋」が設けられたのだが、この橋が後年「昌平橋」と改名される。日光東照宮や上野の寛永寺に参詣する際の将軍は、警備の整った「筋違御門」を通って筋違(御門)橋を渡って行ったが、筋違(御門)橋は現在は撤去されているので最寄りの「昌平橋(元・芋洗橋)」を渡って行く。昌平橋の「昌平」とは、孔子誕生地の村名で、湯島聖堂建設に伴って当地の地名になったという。

               
昌 平 橋
 昌平橋の架設はきわめて古く、寛永年間(1624~44)と伝えられています。この橋は、一口橋(いもあらいばし)(芋洗橋)、相生橋などと呼ばれたこともあります。
 一口橋の名は、この橋の南側を西に向かって坂を登ったところに一口稲荷社(今の太田姫稲荷神社)があり、それにちなんで呼ばれていました。
 『御府内備考』にはこの橋について、「筋違(すじかい)の西の方にて神田川に架す。元禄の江戸図には相生橋とあり、聖堂御建立ののち、魯の昌平郷の名かたどり、かく名付給ひしなり。或人の日記に元禄四年二月二日、筋違橋より西の方の橋を、今より後昌平橋と呼ぶべきよし仰下されけり、是までは相生橋、また芋洗橋など呼びしと云々」とかかれています。
 すなわち、元禄四年(1691)将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたこの橋は、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名させられました。
 明治維新後に相生橋と改められましたが、明治六年(1873)に大洪水で落橋、同三二年(1899)再架してまた昌平橋と復しました。
 現在の橋は、昭和三年(1928)十二月八日に架設されたものです。なお、「万世橋・昌平橋をきれいにする会」の働きかけにより、高欄・橋灯が新しく修復されています。
               平成六年三月
                              千代田区教育委員会


(注)「太田姫稲荷神社」はその後移転して、現在は千代田区神田駿河台一丁目二番地にあるが、元々は太田道灌が、その昔小野篁が太田姫命のお告げにより疱瘡除けのため山城国(京都)一口の里に祀った「一口稲荷神社」の話を知り、疱瘡に罹って明日をも知れぬ最愛の姫君のために急使を派遣し、かの社から一枝と幣を捧げ帰り快癒したため、江戸城本丸に一社を建立したのが始まりで、その後白狐のお告げにより、長禄元年(1457)江戸城内の鬼門に移し、「太田姫稲荷大明神」と奉唱するようになった。
 徳川家康入城後の慶長11年(1606)、江戸城大改築のため西の丸の鬼門に当たる神田駿河台東側の「大坂」に移され、ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか)と呼ばれたが、昭和6年、御茶ノ水駅・両国駅間の総武線建設のため社地の大半を接収され、鉄道省から換地として現在の地(千代田区神田駿河台一丁目二番地)に移転して今日に至っている。

神田旅籠町解説板(10:29)

 昌平橋を渡ると、右手に「神田旅籠町」の解説板がある。中山道兼日光御成道の街道筋として、多くの旅籠が建ち並んでいた旨記されている。

               
千代田区町名由来板 神田旅籠町
 この周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれていました。
 昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口市行くへの街道筋として、旅籠が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道の中でも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした2つの字有用な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
 しかし、天和二年(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎で有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています『諸問屋名前帳』によれば、嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。

湯島聖堂(10:33)・・・文京区湯島1-4-25

 中山道歩きの時、入口を間違えたため見学を諦めたことがあるので、きょうは初めての立ち寄りである。元禄3年(1690)に林羅山が上野忍が岡(現・上野恩賜公園)の私邸内に建てた孔子廟「先聖殿」を、将軍綱吉の命により当地に移築し、「先聖殿」を「大成殿」に、その付属建物を含めて「聖堂」改称した。同時に、林家の学問所も当地に移転してきた。余談だが、本郷通りの神田川を挟んだ南側に「ニコライ堂」があるところから、神田川に架かる橋を「聖橋」と称する。

 話を元に戻して、後に寛政2年(1790)、老中松平定信が寛政の改革で行った学問の統制である「寛政異学の禁」により、寛政9年(1797)林家の私塾も、同家の手を離れて幕府官立の昌平坂学問所(別名:昌平黌)となつている。

 維新後は新政府に引き継がれ、明治4年に閉鎖されたが、幕府天文方を祖とする「開成所」や、種痘所の流れを組む「医学所」など、後の東京大学に連なる系譜に繋がったもののほか、同地に設立の東京師範学校(現・筑波大学)や東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の源流にもなった。なお、この学問所の跡地は、殆どが現在では東京医科歯科大学湯島キャンパスになっている。本郷通を隔てた向う側だから、当時の敷地の広さが容易に想像できる。

 更に、明治以降は湯島聖堂構内に文部省や国立博物館(現・東京国立博物館、国立科学博物館)、東京師範学校(東京教育大学を経た現・筑波大学)及びその附属校(現・筑波大学附属小及び筑波大学附属中・高校)、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)及びその附属校(現・お茶の水女子大附属中・高校)等が一時同居していた。

 これらは、後になって、文部省は霞ヶ関へ、国立博物館は上野へ、東京師範学校は文京区大塚を経て茨城県つくば市へ、東京師範学校の各附属校は文京区大塚へ、東京女子師範学校及びその附属校は文京区大塚へと(当初は湯島一丁目の聖堂内だっので、お茶の水女子大学という)それぞれ移転している。

 関東大震災後、大成殿は昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造で再建されたものである。また、現在、湯島聖堂構内に飾られている世界最大の孔子像は、昭和50年(1975)に中華民国台北ライオンズクラブからの寄贈であり、孔子像のほか、孔子の高弟たち、四賢像(顔子-顔回、曾子、思子-子思、孟子)も安置されている。

神田神社(10:45)・・・千代田区外神田2-16-2

 湯島聖堂の先は、道は「本郷通」と名を変え北東から北北東へと進む。通りの向こう側(湯島聖堂の反対側)には、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内・旧神田市場・築地魚市場など、108町会の総氏神様で、「明神さま」の名で親しまれている「神田明神」がある。

 以前(2008年1月5日の「東京十社巡り」第1日目)参拝済みではあるが、再度立ち寄る。
 祭神として大己貴命(一之宮)・少彦名命(二之宮)・平将門命(三之宮)を祀り、天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣により武蔵国豊島郡芝崎村(現・千代田区大手町・将門塚周辺)において創建された由緒ある神社である。

 その後、天慶の乱で処刑された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたので、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊を慰め、更に延慶2年(1309)当社に奉祀したが、戦国時代に入ると、太田道灌や北条氏綱等、名立たる武将達により手厚く崇敬された。

 慶長5年(1600)の天下分け目の関ヶ原の戦いに臨むに際しては、徳川家康公の戦勝の祈祷も行われ、9月15日の神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たしたため、以降、徳川将軍家より縁起良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられたという。

 江戸幕府が開かれるや、幕府尊崇の神社となり、江戸城増築に伴い元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在地に遷座し、幕府により社殿が造営された。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ庶民に至る迄篤い崇敬を集めた。

 明治時代に入って社名を神田明神から「神田神社」に改め、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められた。明治7年(1874)には、明治天皇も親しく参拝され御幣物を献じられた。

 大正12年(1923)の関東大震災で、江戸時代後期を代表する社殿は焼失したが、昭和9年に鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建され、第二次世界大戦による東京大空襲で多くの建造物が殆ど烏有に帰したが、耐火構造の社殿のみが僅かな損傷のみで戦災を耐え抜いた。以後次々と境内の建造物が再建され、昭和51年に檜木造の隨神門再建により、江戸時代に相応する神社の姿を取り戻した。以後も次々と境内整備が進められ、今日の繁栄に繋がっている。

               
江戸総鎮守神田明神 神田神社御由緒
御祭神
 一の宮 大己貴命 おおなむらのみこと(だいこく様)
 二の宮 少彦名命 すくなひこなのみこと(えびす様)
 三の宮 平将門命 たいらのまさかどのみこと(まさかど様)
 正式名称・神田神社、東京都心一〇八町会の総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の食を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々からもあつく崇敬されております。縁結び、商売繁盛、社運隆昌、除災厄除、病気平癒など数多くのご神徳をお持ちの神様です。
 当社は、天平二年(730)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府から江戸庶民にいたるまて多くの人々の崇敬を受けました。さらに、明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。
 境内には、日本初の本格的な鉄骨鉄筋コンクリート・総漆朱塗造の御社殿(国指定登録文化財)や、総檜造の随神門、神札授与所・参拝者待合室・休憩所を兼ねた鳳凰殿、明神会館・資料館・石造日本一の大きさを誇るだいこく様尊像・えびす様尊像・江戸国学発祥の地碑・銭形平次の碑などがございます。縁結びのご神徳から神前結婚式も多く行われております。
 当社の祭礼・神田祭は二年に一度執り行なわれ、江戸時代には江戸城内に入り徳川将軍が上覧したため、御用祭とも天下祭とも呼ばれました。また日本三大祭、江戸三大祭のひとつにも数えられております。現在は鳳輦・神輿をはじめとする江戸時代さながらの祭礼行列が、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内の広大な氏子一〇八町会を巡行する「神幸祭」と、氏子の町神輿約二〇〇基が町を練り歩き、神社へ迫力ある宮入をする「神輿宮入」を中心に賑やかに行われております。
               平成十九年春
                              神田神社社務所


<江戸国学発祥の地碑>(10:51)・・・千代田区外神田2-16-2 神田神社

 鳥居を潜り、赤く塗られた隋神門の傍に行くと、「江戸国学発祥の地」の標識が建っており、境内に入ると、朱塗りの拝殿右脇に「銭形平次の碑」と並んで「國学発祥之地」碑がある。作家の今東光による撰文が刻まれた石碑があり、京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満(かだのあずままろ)が京から江戸に下り、はじめて国学の教場をこの神田神社の社家芝崎邸内においたことから、神田神社境内が江戸における国学の発祥の地とされた旨、記してある。

               
江戸国学發祥の地
                              今 東光撰
 京都伏見稲荷社家に生る 通商羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中山道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真渕もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に亘れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽瘁し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗徧流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は賀茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して以て後学の為に伝ふ


 国学は江戸中期に生まれた学問で、蘭学と並んで江戸時代を代表する学問となった。旧来の儒教や仏教の研究に対して、それ以前の日本独自の文化・思想、精神を「万葉集」や「古事記」の研究などの古典や古代史の中に見出そうとする学問のことである。

<銭形平次の碑>(10:55)・・・千代田区外神田2-16-2 神田神社

 「國学発祥之地」碑の左傍にある「銭形平次の碑」、その隣の子分「がらっ八」の碑を見て、思わず昔テレビで見た大川橋蔵の平次姿を思い浮かべたが、虚構上の人物が石碑になるとは、サービス精神というか商売根性というか、それともユーモア精神というべきか!?

旧湯島解説板(11:02)

               
旧 湯島          (昭和40年までの町名)
 「和名抄」に、武蔵国豊島郡湯島郷とあり、また由之万(ユシマ)ともある。また、「北国紀行」に由井島(ユイシマ)とある。
 「文政町方書上」には、湯島の名称はむかし温泉がわいたからとあるが、これは疑問である。不忍池は海であったから、湯島は島のようであったことは考えられる。
 旧湯島1丁目から6丁目は、中山道の街道筋として古くから開けた古町である。古町とは寛永年間(1624~44)までに開けた町で、新年には将軍に目通りなどの特典が与えられた。
 旧2丁目には湯島聖堂(現存)、隣の旧3丁目には昌平黌があった。明治になると、師範学校、高等師範学校がおかれ、ここは近代教育の発祥の地となった。

済生学舎と野口英世(11:04)・・・文京区湯島一丁目7

 街道に戻り、本郷の方へ歩き始めて湯島一丁目の右手(東京医科歯科大学向かい辺り)、に「済生学舎と野口英世」と書かれた解説板がある。野口英世は明治29年ここに入学している。

 衆議院議員で医学者だった長谷川泰が、明治9年に創立した民間の西洋医学校で、「済生学舎」というのがあったが、済生学舎に学んだ人々の中には、野口英世、吉岡弥生、小口忠太、須藤憲三、光田健輔等、多くの学者が含まれている。

               
済生学舎と野口英世
 済生学舎は、医学者長谷川泰(1842~1919)が「済生」(広く民衆の病苦を救う)の理念のもと、医術開業試験の予備教育を目的として、明治9年(1876)4月9日に現本郷二丁目5の地に創設された。明治12年学者は火災により焼失したが、仮校舎の時期を経た後、明治15年長谷川泰の自宅を含めたここ東京ガーデンパレスの地に済生学舎は再建された。
 「志を得ざれば、再び此の地をふまず」と野口英世が医学の志をたて故郷会津を後にしたのは明治29年(1896)9月、英世19才の時であった。上京して現湯島一丁目10あたりに下宿し、早くも10月に内務省医術開業試験前期に合格した。
 その後、港区伊皿子にあった高山歯科医学院の学僕となった。明治29年11月医術開業試験後期準備のために済生学舎に入学、下宿先を旧本郷区にあった大成館に移した。明治30年秋の後期試験に打診法の実技が含まれていたため、英世は東京帝国大学の外科教授近藤次繁博士により左手の手術を受けている。晴れて医術開業試験後期に合格した英世は、11月湯島の順天堂医院に入り、同医院医事研究会主事を嘱託された。その後、北里柴三郎博士の伝染病研究所や横浜検疫所勤務を経てアメリカへと旅立った。
 文京は、野口英世が世界に雄飛する原点の地である。
               文京区教育委員会     平成17年3月


旧本郷解説板(11:10)

               
旧 本郷          (昭和40年までの町名)
 「御府内備考」に次の記事がある。
 本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。   湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が産まれた。
 江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(1661~73)には、1丁目から6丁目まで分かれていた。
 中山道(現・本郷通り)の西側に沿って、南から1~6丁目と南北に細長い町域である。
   本郷もかねやすまでは江戸の内(古川柳)


かねやす・・・文京区本郷2-40-11

 「本郷三丁目」交差点左手前にある「かねやす」は、「本郷もかねやすまでは江戸の内」と古川柳に歌われて、ここ迄が江戸の御府内、ここから先が武蔵国という境だったという。現在の店前の煉瓦タイル壁の柱にはその川柳が大書掲示され、下側には次のような解説板もある。

               
かねやす  本郷2-40-11
 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった。(御府内備考による)
 享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は、塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。
 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
   『本郷もかねやすまでは江戸の内』と古川柳にも歌われた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
               文京区教育委員会     昭和61年3月


 現在の「かねやす」は洋品店として営業中のようだが、日曜日のせいかシャッターが降ろされていた。

別れの橋跡・見送り坂と見返り坂(11:17)・・・文京区本郷4-37先

 本郷三丁目交差点を渡ると、その先左手に「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂」と記された文京区の解説板がある。
 江戸を追放された罪人らがここで親類縁者と別れ、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂、追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂というと解説されている。

               
別れの橋跡・見送り坂と見返り坂
                              本郷4-37先本郷通り
 「むかし太田道灌の領地の境目なりしと伝ふ。その頃追放の者なと此処より放せしと・・・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
               文京区教育委員会     昭和59年3月


菊坂

 「別れの橋跡」の20m程先を左前方に下る坂がある。「菊坂」と言い、その先には明治時代の文人・文士たちが多勢住んでいた。坂を下った先の十字路を左に入ると「菊坂界隈文人マップ」(看板)が掲げられ、菊坂の左手には樋口一葉の旧居跡もあるそうだが、立ち寄りは省略した。そのほか、石川啄木・宮沢賢治・坪内逍遙など著名な文人たちが多勢住んでいた所である。

 樋口一葉に関しては、これも立ち寄らなかったが、東大赤門前にある「法真寺」に「一葉塚」、その北に「一葉桜木の宿跡」などもあるようだ。

東大赤門(11:22)

 右手に東京大学、加賀藩前田家の上屋敷だった場所に建つ。赤門は11代将軍家斉の二女・溶姫が前田齋泰に嫁いだ時に建てたもので、国の重文に指定されている。正式名は「旧加賀屋敷御守殿門」というが、「赤門」とは、御守(主)殿門のことを言い、江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女、あるいはその居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を丹塗りにしたために、俗に赤門と呼ばれた。

 この赤門は、火災などで焼失した場合は再建できないという慣習があり、この赤門はそうした災害を免れ現存するので、大変貴重な歴史遺産と言える。建築様式的には、切妻造の薬医門で、左右に唐破風の番所を置いている。

 なお、この赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷に移って以来、明治17年(1884)の他学部の本郷移転迄の間、医学部の門として使われていたこともあり、医学部には赤門をデザインした紋章があるとのことである。

               
旧加賀屋敷御守殿門(赤門)
 東京大学本郷キャンパスの通用門の一つで、一般に「赤門」として周知され、東大を象徴する門として今日まで親しまれている。正式には「旧加賀屋敷御守殿門」である。1903年(明治36)年、医科大学の校舎建設のため、門を本郷通りに向かって15メートルほど移動して、現在地に位置する。同様な朱塗りの門は、震災や戦災の影響などから他に現存していない。1950年(昭和25)年8月、国の「重要文化財」に指定登録された。
 この門は、形式は三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺、左右脇に腰縦羽目板張り(明治以降1961(昭和36)年までは腰海鼠壁)本瓦葺の「繋塀」(左右格十二尺)と、唐破風造本瓦葺の「番所」(左右各桁行三間、梁間二間)がついてある。番所とは、武家屋敷の警備や見張りなどの役目にあたる番人が詰めた施設である。江戸城(現在の皇居)にも警備のため各門に設けられた御門番所が残されている。
 赤門の屋根瓦の大棟には「三つ葉葵」、軒丸瓦等には「梅鉢」、大棟の鬼瓦には「學」の紋様がみられ、徳川家と前田家、そして東京大学の歴史的な関係性が重層的に垣間見える。1877(明治10)年に創立された東京大学は130周年を迎えたが、赤門も建立されて180周年である。

樋口一葉ゆかりの法真寺(11:23)・・・文京区本郷5-27-11

 赤門の真向かい、街道左手の路地を入った所に、浄土宗の「和順山法真寺」がある。慶長元年(1596)知恩院から寺号を附与されているが、開山年は不詳である。立ち寄りは省略した。

 明治の女流作家「樋口一葉」ゆかりの寺で、一葉は明治9年~15年の5年間(4歳~9歳)、この境内のすぐ東隣に住んでいた。この時代が樋口家では最も安定した時だったという。一葉の作品「ゆく雲」の一説に「腰ごろもの観音さま濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」と書かれた「腰衣観音」が本堂の左手にある。一葉は24歳の短い生涯を閉じる直前、雑誌にこの幼少期に過ごした宿を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいる。

森川宿・追分一里塚跡(11:36) ・・・文京区向丘1-1

 東大正門前を過ぎ、「言問通」と交わる「本郷弥生」交差点の手前左手に「森川宿」、交差点を越えた先左手の「SINCE 1751」の高崎屋(酒店)の左奥には「追分一里塚跡」の解説板がそれぞれある。「追分一里塚跡」は、以前、中山道歩きの際に村谷氏とこの先の本郷追分付近で探し回って見つからなかったもので、新発見である。

               
追分一里塚跡(区指定史跡)
                              文京区向丘1-1
 一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
 ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中ごろまで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
 ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。
               文京区教育委員会     平成7年3月


本郷追分

 次の信号(東大農学部前辺り)のY字路が、左斜め前方へと分かれる中山道(国道17号)との「本郷追分」で、「日光御成道」はこの侭直進して行く。

将軍御成道 岩槻街道(11:38)

 直進してすぐ左手に「将軍御成道 岩槻街道」の解説板があり、「将軍がこの街道を通るときの警備は厳重で、沿道に住む人達はたいそう不自由な思いをしたという逸話が残っている。」と記されている。

               
将軍御成道 岩槻街道
 この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから“将軍御成道”といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち・岩槻に通じている道で“岩槻街道”という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子、岩渕を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。
 将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに、古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人達は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は“本郷通り”である。
               東京都文京区教育委員会     平成元年3月

朱瞬水記念碑

 その先右手に、儒学者朱瞬水の記念碑があるということだったが、見当たらずパスした。

 現在の中国が明から清へ移る頃、明の儒学者だった朱瞬水は日本へ逃げてきたが、水戸光圀が目をつけて水戸家へ呼び、儒学を学んだり、海の向こうの話を聞いたりするうちに、さまざまな中華料理を伝授されたという。

 水戸黄門が我が国で最初にラーメンを食べた人物として有名だが、彼から料理まで種々習ってしまい、当時としては珍しい餃子、チーズ、牛乳、牛乳酒、ワイン等を食したという。

正行寺の咳止め唐辛子地蔵尊(11:46)・・・文京区向丘1-13-6

 400m程先左手に入った所に「正行寺」がある。江戸時代、度重なる大火の対策として、寺院を江戸城郊外に移転させたが、この辺りもその一つで、本駒込にかけて寺院が多い地域になっている。
 当寺は山号を「親縁山」と号する浄土宗の寺院だが、参道を50m行った正面に「せきどめのとうがらし地蔵尊」のお堂がある。地蔵尊は元禄15年(1702)に安置されたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、その後再建されたものであるが、咳の病に霊験あらたかと言われている。

 名前の由来は、元禄15年にこの地蔵を刻んだ覚宝院がとうがらし酒を好んだので、人々がとうがらしを供え諸願成就を願ったからという。堂内を見ると赤いエプロン姿で辛そうなお顔のお地蔵が安置され、とうがらしが供えられている。

               
せきどめの とうがらし地蔵
 この寺の境内にまつられている地蔵尊は、「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。・・・・・・仁王座禅の相をあらはすと云へり。」とある。
 寺に伝わる元文三年(1738)の文書によれば、僧の「覚宝院」が元禄十五年(1702)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が“とうがらし酒”を好んだことから、とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。
 尊像は、昭和二十年(1945)五月の空襲に遭い、その後再建されたものである。なお「とうがらし地蔵」とともに名の知られた「とうがらし閻魔」は焼失したままとなっている。
 江戸時代、「旧岩槻街道」の通すじにあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから、「小苗木縄手」それがかわって「うなぎ縄手」と呼ばれていた。
               東京都文京区教育委員会     平成元年十一月

旧駒込蓬莱町解説板(11:51)

 その先で、「旧駒込蓬莱町」と題する解説板を見つける。

               
旧駒込蓬莱町          (昭和40年までの町名)
 元文年間(1736~41)町屋が開かれた。町内向側に寺院4か寺(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い通)といわれた。
 明治5年、浅嘉町の一部と、高林寺門前、浩妙寺、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。
 町名は、中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬莱山の名にあやかって、将来の繁栄を願ってつけられた。
 明治13年、駒込片町、下駒込村の各一部を合併した。
 町内には寺院が多く、戦災で消失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した“お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。

浄心寺の布袋像(11:52)・・・文京区向丘2-17-4

 その先右手にある浄土宗の「浄心寺」は、江戸三十三観音札所、第十番札所で、本堂はコンクリート造り2階建の赤い本堂がある。
 入口に虚空蔵堂天浄庵があり、本堂前に大きな布袋像が建っているが、袋は持たず夏蜜柑を持っているのが珍しい。

 また、参道に「春日のお局さんのご愛祈のお地蔵さん」と台石に刻まれた地蔵立像が建っており、真っ赤なお帽子と涎掛けが印象的である。

昼食

 先刻から空腹を覚え、適当な所は無いかと探しつつ歩いていたら、左手に中華店「馥苑」(Juen)があったので立ち寄り、空腹を癒やす。

大圓寺・ほうろく地蔵・・・文京区向丘1-11-3

 その先左手150m程の所を旧中山道(国道17号線・旧白山通)が並行しており、山号を「金竜山」と号する曹洞宗の寺院があるが、以前中山道歩きの際に立ち寄ったことでもあり、かつ、意外に各所立ち寄りで時間を費やしていることでもあり、ここへの立ち寄りはパスした。

 以前の体験から紹介の意味で記すと、鉄筋コンクリートの赤い山門が目立つ寺で、「ほうろく地蔵尊安置」と看板にあり、山門正面にほうろく地蔵があるが、これは八百屋お七を供養したお地蔵である。火に関係がある故か、やけどや頭痛直し等の霊験で有名らしい。

                 
ほうろく地蔵
                        大円寺(向丘一-十一-三)内
 “八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和二年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた“お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。
 寺の由緒書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保四年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
 その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
 お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。
                    東京都文京区教育委員会    平成元年三月

 曾ての職場における東京消防庁開拓の先駆者として名高い“今仁まき”さんの墓はこの大円寺にある。境内には、高島秋帆や斎藤緑雨の墓もあり、次のような解説板も架かっている。

             
高島秋帆の墓 國指定史跡
 秋帆、1798~1866(寛政10~慶応2)。長崎の人。諱は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行った。
 翌年、鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番・兼講武所砲術師範役を命ぜられた。
             斎藤緑雨の墓
 緑雨、1867~1904年(慶応3~明治37)。三重の人。名は賢(まさる)。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。
 かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外・幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。  墓碑銘は幸田露伴書
                          曹洞宗 金龍山大円寺
                    文京区教育委員会   平成8年3月

天栄寺・駒込土物店跡碑(12:28)・・・文京区本駒込1-6-16

 再出発して600m程先の左手に山号を「地久山」と号する浄土宗の寺院があり、門前に「史跡文化財 駒込土物店(つちものだな)跡」という大きな石標や下記解説板が建っている。

               
駒込土物店跡碑
       文京区指定史跡 天栄寺(文京区本駒込1-6-16門前、本郷通り交差点一帯)
 神田および千住とともに、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。
 起源は、元和年間(1615~24)といわれている。初めは、近郊の農民が、野菜をかついで江戸に出る途中、天栄寺境内の“さいかちの木”の下で毎朝休むことを例とした。すると、付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まったのが起こりといわれている。土地の人々は“駒込辻のやっちゃ場”と呼んで親しんだ。また、富士神社一帯は、駒込なすの生産地として有名であり、なす以外に、大根、人参、ごぼうなど、土のついたままの野菜である“土物”が取引されたので土物店ともいわれた。正式名は“駒込青物市場”で、昭和4年(1929)からは“駒込青果市場”と改称した。
 街道筋に点在していた問屋は、明治34年(1901)に高林寺境内(現駒本小学校の敷地の一部)に集結したが、道路の拡幅などで、昭和12年(1937)豊島区へ移転して、巣鴨の豊島青果市場となって現在に至っている。
                  文京区教育委員会   平成14年3月


旧駒込片町解説板(12:31)

 きょうの街道歩きでは、町名などに関する解説板が多く目につき、大変興味深い。

               
旧駒込片町           (昭和41年までの町名)
 むかし、駒込村の内であった。後、麟祥院(春日局の菩提寺)領の農地となった。
 元文2年(1737)町屋を開き、岩槻街道(将軍日光御成道)をはさんで、吉祥寺の西側の片側町であったので駒込片町と称した。
 明治5年までに、駒込浅嘉町の一部と、南谷寺や養昌寺などの寺地を合併した。
 同24年、元下駒込村の内神明原の内を併せた。
 南谷寺の目赤不動は、もと動坂にあったが、寛永のころ(1624~55)三代将軍徳川家光が鷹狩の途中立寄り、目黒・目白に対して目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。養昌寺に、樋口一葉の思慕の人半井桃水の墓がある。

目赤不動の南谷寺(12:32)・・・文京区本駒込1-20-20

 その先左手に天台宗の「南谷寺」がある。向かって右門柱に 「大聖山南谷寺」、左に「目赤不動尊」とある。これで、目黒不動・目青不動に続いて五色不動の3ヵ所目を参拝することが出来た。なお、院号は「東朝院」である。なお、五色不動とは次の寺院をいう。

 目赤不動尊 天台宗    南谷寺     文京区本駒込1-20-20
 目白不動尊 真言宗豊山派 金乗院     豊島区高田2-12-39
 目黄不動尊 天台宗    永久寺     台東区三輪2-14-5
   同   天台宗    最勝寺     江戸川区平井1-25-32
 目青不動尊 天台宗    数学院     世田谷区太子堂4-15-1
 目黒不動尊 天台宗    滝泉寺     目黒区下目黒3-20-26

 上記は、江戸府内の名ある不動尊を江戸城の東西南北中央の五方角に配し、5色(青、赤、黄、白、黒)で示したものである。不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、密教が盛んになった平安時代に始まり、五色はそれぞれ、地、火、水、風、空を表すとされている。


               江戸五色不動の一つ 目赤不動尊
 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615~24)万行(マンコウ)和尚が<
伊勢国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。
 寛永年間(1624~44)鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。
 不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。
 目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関口二丁目にあった。
               天台宗 南谷寺  文京区本駒込1-20-20
                    文京区教育委員会       平成3年3月


 境内の掲示板で面白いのを発見した。よく見掛ける「つもり違い十条」もあるが、そのほか

   
「口が濁れば愚痴となり徳が濁れば毒となる」

   
<長寿十訓>
   「少肉多菜、少塩多酢、少糖多果、少食多粗、少衣多浴、少車多歩、少煩多眠、
    少念多笑、少言多謡、少欲多興」


旧駒込吉祥寺町解説板(12:39)

               
旧駒込吉祥寺町         (昭和41年までの町名)
 むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。
 明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が移って来た。 そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延享2年(1745)から町奉行支配となった。
 明治2年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。
 江戸時代、吉祥寺には栴檀林といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒澤大学に発展)。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居燿蔵や川上眉山らの墓がある。                              文京区


吉祥寺(12:39)・・・文京区本駒込3-19-17

 更に進むと、右手に重々しい「諏訪山吉祥寺」の山門が現れる。200m程の長い参道奥に本堂が見える曹洞宗の寺院である。

               
曹洞宗 諏訪山吉祥寺  文京区本駒込3-19-17
 長禄2年(1458)太田道灌が江戸築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥庵」と称したのがはじまりという。
 天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
 僧侶の養成機関として栴檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余人の学僧が学び、当寺の幕府の昌平坂学問所と並び称された。
 古い堂塔
  山 門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
  経 蔵 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。
 墓  所
  二宮尊徳(江戸末期の農政家)         (墓地内左手)
  鳥居燿蔵(江戸南町奉行)           (墓地内左手)
  榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家) (墓地内右手)
  川上眉山(小説家)              (墓地内右手)
                    文京区教育委員会       平成6年3月


 余談だが、前記明暦の大火で水道橋辺りの吉祥寺門前の町人達は居を失ってしまい、万治2年(1659年)吉祥寺の浪士、佐藤定右衛門、宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎座衛門と協力して現在の武蔵野市一帯を開墾し、吉祥寺門前の町人達を移住させたのである。
 このため、「吉祥寺」に愛着を持つ住人たちが、現在の中央線沿線の移住先の地を吉祥寺と名付けたことから、武蔵野の現・吉祥寺の地名(駅名)が始まったのである。

 ところで、広い境内には、古い「経蔵」や「二宮尊徳の墓碑」、「川上眉山の墓」のほか、「お七吉三比翼塚」もある。井原西鶴の『好色五人女』では、八百屋お七一家は吉祥寺に避難した。門を潜った参道のすぐ左手に、その比翼塚が建っているが、比翼というのは、二羽の鳥が翼を並べ重ねる様を言い、比翼塚は「情死などをした相思の男女を一緒に葬った塚」をいう。「紀行文愛好家」の有志が、悲劇的結膜を迎えた二人を偲んで、昭和41年のお七生誕300年を記念して造立したものだとか。

               
吉祥寺経蔵一棟        区指定有形文化財(建造物)
 江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所(栴檀林)として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った九強増の礎石をもとに、1804年(文化元)古いきまりによって再建したものと考えられる。
 旧経蔵は、1686年(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に焼失したと伝えられる。1933年(昭和8)に大修復を行った。
 屋根は、棧瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた「二重宝形造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術の水をこらしたみごとなものである。
 蔵内に、経典を収蔵する八角形の輪転蔵がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の唯一の経蔵として貴重である。
               文京区教育委員会         平成8年3月

               川上眉山の墓
 明治二年~明治四十一年(1869~1908)。大阪の生まれ。名は亮。小説家。
 東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。また「文学界」同人とも交わる。
 明治二十八年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。
 後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。
                              東京都文京区教育委員会


駒込富士神社(12:55)・・・文京区本駒込5-7-20

 その先右手に富士神社がある。石造鳥居の社額には「富士社」とある。

               
富士神社          本駒込五-七-二〇
 富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
 寛永六年(1629)加賀藩前田侯が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
 社伝によれば、延文年間(1356~61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
 山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲閒の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士さん」ていわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。
               文京区教育委員会         昭和五十六年三月


 拝殿は富士山に見立てた山上に建ち、江戸期の富士信仰の拠点の一つになって、6月30日から7月1日の山開きには、駒込富士神社でも宵宮に駒込富士講の人々が花万灯を掲げて町内を廻り、その後、花万灯を神社に奉納して山開きをしている。広い境内には露店がたくさん立ち並び、多くの人出で賑わうという。
 古くから「一富士、二鷹、三なすび」と言われるが、この古川柳は、一富士が富士神社、二鷹は付近の鷹匠屋敷、三なすびは良質のなすびが駒込で採れたことによるということを意味していると、この歳になって初めて知った。

 街道沿いに、JAによる次の様な解説板が建っている。

              
江戸・東京の農業  駒込ナス
 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり、タネ屋に卸していました。ここ巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。
                      平成9年度JA東京グループ
                      農業共同組合法施行50周年記念事業


旧駒込上富士前町解説板(13:04)

           
旧駒込上富士前町         (昭和41年までの町名)
 元伝通院領の百姓地であった。元文2年(1737)町屋を開き、延享2年(1745)から町奉行支配となった。
 富士前町(富士神社の前にある町なので名づけられた)の上の方(北方)にあるので、上富士前町と命名された。
 明治維新後、旧柳沢下屋敷、藤堂下屋敷及び武家屋敷地を併せた。
 町内に都立六義園がある。柳沢吉保(5代将軍綱吉の側用人・大老格)が、元禄十五年(1702)、下屋敷に完成した回遊式築山泉水庭園である。江戸大名庭園の代表的な名園である。
 明治11年に、岩崎家の所有となり、昭和13年同家から東京市に寄付され、公園として一般に公開された。
                                 文京区


六義園・・・文京区駒込6-13-3

 その先「不忍通」を「上富士前」信号で越えた一本先の左手に「六義園」正門がある。先の駒込駅側の染井門は普段は閉まっている。ここには昭和42年頃一度行って以来ご無沙汰している所で、今回も時間の関係もありパスしてしまった。

 小石川後楽園と共に江戸の二大名園に数えられる六義園は、5代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保が、元禄8年(1695)に将軍から下屋敷として与えられ、7年の歳月をかけて元禄15年(1702)に「回遊式築山泉水庭園」を造り上げた、江戸の大名庭園中現存する日本屈指の名園と言われている。
 庭造りには、平坦な武蔵野の一角に池を掘り、山を築き、千川上水の水を引いて大泉水にしている。

 庭園の名称は、中国の古い漢詩集「毛詩」に記されている「誌の六義」すなわち風、賦、比、興、雅、頌という六つの分類法の流れを汲んだ和歌の六体に由来する。
 この庭園は、明治に入って三菱の創業者・岩崎弥太郎の所有になり、昭和13年に東京市に寄贈されて一般公開され、昭和28年3月、国の特別名勝に指定されている。

大国神社(だいこくじんじゃ)(13:14)・・・豊島区駒込3-2-11

 JR山手線など駒込駅西横から越えた先左手に、塀に囲まれた大国神社がある。普段は地味な感じの神社だが、春には、境内の桜の古木が見事らしい。

 天明3年(1783)の創建で、明治12年(1879)に元老院幹事の細川潤次郎男爵の尽力で神社になったという。御祭神は大国主命、木彫の七つの大国神があり、大国=大黒の語呂合わせから大黒天の福神信仰と習合し、甲子(きのえね)の日には木彫の大黒天像を授けてくれるそうだ。境内には「甲子祭」の日日を記した立て看板があった。参拝者はその都度小さい像から順次大きい像を受ける由。

 この神社は、徳川家斉が11代将軍になる前に、鷹狩の帰途、当神社に立ち寄っているところから、出世大国や日の出大国とも呼ばれているとか。

(参考)子育地蔵尊

 その先、信号を3つ程過ぎた右手に「妙義坂子育て地蔵尊」のお堂があるが、道の反対側でもあり立ち寄らなかった。寛文8年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を願って祀ったという。

(参考)妙義神社・・・豊島区駒込3-16-16

 そのすぐ先左手に妙義神社への参道がある。白雉2年(651)に白鳥社として創建されたのがスタートだそうだが、日本武尊が東征の折、陣営を構えた所と伝えられ、日本武尊・高皇産霊神・神功皇后・応神天皇の4柱を御祭神とする豊島区最古の神社である。

 また、太田道灌が出陣に際し、文明3年(1471)、同9年、11年にも当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことから、勝負の神として「勝守り」を授与している。旧称を白鳥社という。 境内には、寛永19年(1642)に駒込の農民によって建てられた庚申塔がある由。

 この辺りの街道は先の「霜降橋」に向かって下っており、坂名も「妙義坂」と呼ばれている。

古代東海道

 その先左手に旧古河庭園がある。「西ヶ原」交差点で「古代東海道」に合流するが、2009.07.26に村谷氏と歩いた通りに入るので、ここから暫くは見所も重複するため、立ち寄りは省略することも考えつつ触れておきたい。

(参考)旧古河庭園

 「西ヶ原」交差点を左折した所に正門がある。
 江戸時代の切絵図では「戸川播磨守」の下屋敷だった場所だとか。
 斜面と低地という武蔵野台地の地形を活かし、北側の小高い丘に洋館を建て、斜面に洋風庭園、低地に日本庭園を配している。
 ここは元明治の元勲陸奥宗光の別邸だったが、次男が古河財閥の養子に入った際、古河家所有となったが、その当時の建物は現存していない。
 現在の洋館と洋風庭園は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)の設計で、同博士は当園以外にも、旧岩崎邸庭園洋館、鹿鳴館、ニコライ堂等の設計を手がけ、我が国建築界に多大な影響を与えている。
 日本庭園の作庭は、京都の庭師植治こと小川治兵衛(1860~1933)が手がけ、彼は当園のほか、山県有朋の京都別邸である無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園、南禅寺界隈の財界人の別荘庭園等を作庭し、造園界に大きく貢献している。
 戦後は国有になったが、地元の要望等を取り入れ、東京都が国から無償で借り受け、一般公開された。数少ない大正初期の庭園の原型を留める貴重な存在で、伝統的な手法と近代的な技術の融和により、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な事例であり、また、現存する近代の庭園の中でも、極めて良好に保存されている数少ない重要な事例として、平成18年1月26日に文化財保護法により国の名勝指定を受けている。

<洋館>

 J・コンドル最晩年の作で、大正6年5月に竣工した。躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然ストレート葺き、地上2階・地下1階になっている。
 大正12年9月1日の関東大震災では約2千人の避難者を収容し、虎之助夫妻が引き払った15年7月以降は貴賓の為の別邸になり、昭和14年頃には後に南京政府を樹立する国民党の汪兆銘が滞在し、戦争末期には九州九師団の将校宿舎として接収され、戦後は英国大使館付き武官の宿舎として利用された。なお館内の見学には事前申し込みが必要で、見学は叶わない。

<西洋庭園>

 同じくJ・コンドル設計で、左右対称の幾何学模様の刈込のフランス整形式庭園と、石の欄干や石段・水盤など、立体的なイタリア露壇式庭園の技法を合わせ、バラと洋館と調和した絵画的な景観美を醸し出している。

(参考)城官寺・・・北区上中里1-42-8

 その先右手に「城官寺」がある。明治以前においては、神社の経営には「別当寺」という特定の寺院があたった。この城官寺も直ぐ北隣にある「平塚神社」の別当寺にあたり、城官寺は三代将軍徳川家光の病を治して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、平塚神社共々再興している。徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡になっており、東京都が設置した文化財解説板が建っている。

 ところで、官寺というのは私寺に対する称で、伽藍の造営・維持・管理等を国家が行う寺である。「延喜式」には、大寺・国分寺・有食封(ゆうじきふう)寺・定額(じょうがく)寺の等級がみえ、大寺・国分寺は天皇の発願で建てられた鎮護国家のための正規の官寺で,有食封寺・定額寺は貴族・豪族の建立で寺田・出挙(すいこ)稲・食封が与えられた准官寺であった由。

<紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻>・・・東京都北区指定有形文化財(歴史資料)

 平成3年2月22日に指定されており、原題は「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚大明神の社并別当城官寺縁起絵巻」といい、上・中・下の3巻から構成されている。平塚明神の別当寺だった城官寺の中興住職とされる真惠を中心に製作され、元禄5年(1692)に完成したもの。その絵巻では、江戸時代に山川城官貞久によって平塚明神・城官寺が再興され、寛永17年(1640)に幕府から50石の朱印地が寄進されるまでの経緯を平塚地域に残る伝承や歴史を織り込みながら描かれている。平塚神社が所蔵(非公開)し、複製品が北区飛鳥山博物館にある。

(参考)平塚神社・・・北区上中里1-47-1

 「城官寺」の北隣に「平塚神社」がある。この辺りは古代豊島郡衙跡である。
 「平塚神社」は、後三年の役が終わって、奥州征伐の凱旋途中に当地を訪れた八幡太郎源義家を祀っている。源義家は、平安時代末期以来この地域の領主であった豊島氏代々の居城平塚城があったことから、城主豊島義近に鎧一領を与え、義近がその鎧を埋めて城の鎮守としたのが平塚神社の起こりである。鎧を埋めた塚が平らだったことから平塚になったという。
 平塚城は、文明10年(1478)に太田道灌により落城させられたが、平塚神社には、江戸時代、3代将軍家光も参拝した由である。

<御祭神>

八幡太郎源義家命
 平安後期の武将で、源頼朝・義経や足利将軍家の先祖。岩清水八幡宮で元服したので八幡太郎と号されました。その武威は物の怪ですら退散させたといわれ、義家公の弓矢は魔除け・病除けとして白河上皇に献上されました

賀茂次郎源義綱命
 義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎と号されました。

新羅三郎源義光命
 義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。新羅明神で元服したので新羅三郎と号されました。

<略縁起(平塚明神并城官寺縁起絵巻より)>

 平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
 徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。

<甲冑塚古墳>

 平塚神社の社殿裏に大きな墳丘(径40m、高さ3.5m)が残っており、「甲冑塚」と呼ばれている。源義家が鎧を埋めたという伝承があるためで、墳丘上は普段は立入り禁止になっている。
 源義家が鎧を埋めたという伝承があり、墳丘上は普段は立入り禁止になっているそうたが、金網フェンスが空いていれば立ち入り見学ができる。

<神霊地碑>

 その横にやはり甲冑塚古墳の石碑と同様に自然石に刻まれた碑があり、次の様に記されている。
     
源朝臣義綱命
     源朝臣義家命 神霊地
     源朝臣義光命


(参考)防災センター(地震の科学館)・・・北区西ヶ原2-1-6

 北区防災センターは、国の「防災基地モデル建設事業」の一環として、昭和59年11月に開館された。館内の起震機による地震体験、ポンプ使用による初期消火訓練、煙が充満した通路を歩く煙体験など個別の訓練・体験のほか、防災講演会、自主防災組織のリーダー研修、ボランティア研修なども実施している。

(参考)滝野川公園・御殿前遺跡・豊島郡衙

 本郷通に戻って直ぐ右手にある滝野川公園辺りが、また見所一杯である。「豊島郡衙」や「正倉院」があった「御殿前遺跡」である。滝野川公園入口近くに御殿山遺跡のモニュメントがあり、解説文の横には弥生式土器があしらわれている。

 現在の滝野川公園・滝野川消防署・財務省印刷局付属東京病院・財務省印刷局滝野川工場・滝野川警察署のあるこの地は「御殿山」と呼ばれていた。明治11年の地図によれば、池を中心とする大規模庭園ないしは庭園跡地が記されている。また、ここ御殿山には徳川将軍の鷹狩り時に使用する殿舎も建っていたが、林羅山はその殿舎を舟山茶亭と呼び「舟山茶亭記」と題する一文を撰している。

               
東京都北区指定遺跡 御殿前遺跡
御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。
                              東京都教育委員会


 この御殿前遺跡は、「飛鳥山」を先端とする舌状の台地上に広がっているが、縄文時代頃迄はその下は海だったらしく、近くの遺跡では丸木舟も発掘されているとか。その後、海は低地になり、やがて飛鳥山公園辺りには弥生時代の大環濠集落が形成されていったようである。律令制期に入ると武蔵国府と下総国府を結び、武蔵野台地の東端にあたる交通の要衝としてこの地に郡衙ができたと考えられている。

 近年、発掘した豊島郡衙は大きな建物群で形成され、その場所は、「武蔵国豊島郡衙の発見」(中島広顕「東京低地の古代」崙書房所収)によれば、北区の大蔵省印刷局滝野川工場、北区防災センター、北区滝野川体育館付近にある御殿前遺跡を豊島郡衙として確定している。京浜東北線上中里駅から、王子駅の間の台地縁辺に造営されている。最盛期の9世紀の建物を見ると一辺が約62mの回廊が巡っている。官庁建物、それに付随する20棟の正倉(税を収納する倉庫)群が立っていた。正倉院(建物群)は内部面積が5,500㎡にも及ぶ壮大な郡衙である。豊島駅も豊島郡衙付近と推定されている。

(参考)東京高等蚕糸学校発祥之地碑

 明治19年、現在の財務省印刷局附属東京病院前の地(西ヶ原二丁目)に麹町内山下町から「蚕業試験場」が移転。蚕業試験場は後に大正時代、全国各地に「蚕糸学校」が設置される中で「東京高等蚕糸学校」となり、昭和15年に小金井に移転し、太平洋戦争後「東京農林専門学校」と合併して、現在の「東京農工大学工学部」になっている。

 
東京高等蚕糸学校発祥之地
明治19年10月
  麹町内山下町より移設
  農商務省蚕病試験場
明治29年3月 改称
  農商務省蚕病業講習所
大正3年3月 文部省移管
  東京高等蚕糸学校
昭和15年4月移転
  現東京都小金井市
昭和19年4月 改称
  東京繊維専門学校
昭和24年5月 昇格
  東京農工大学
      平成3年10月
         東京都北区教育委員会
         東京高等蚕糸学校
           記念碑建立協賛会


(参考)七社神社前遺跡

 七社神社前遺跡は西ヶ原二・三丁目に広がる遺跡である。遺跡のある台地上は間断無き遺跡密集地帯で、西ヶ原遺跡群と呼ばれている。七社神社前遺跡はこれまでの発掘で、縄文時代から近代に至る複合遺跡であることが判明している。

(参考)七社神社・・・北区西ケ原2-11-1

 本郷通りに出て「七社神社」に立ち寄る。警察署の左側に鳥居が見えている。これを潜って50mばかり行くと、七社神社の小さな鳥居がある。名称が示すように、伊邪那岐命・伊邪那美命・天児屋根命・伊斯許理度売命・市寸島比売命・応神天皇・仲哀天皇の七神を祭神としている。当神社の創建は、寛成5年(1793)の火災により古文書、古記録等を焼失した為に明らかではない。もとは無量寺の裏山にあった七つの社(高野四社明神・天照大神・春日・八幡)を、明治の神仏分離によって「一本杉神明宮(社殿左にある小祠で、神木の一本杉は高さ約3mの切り株を残す)」の社地に移し現在の神社になった。境内の左脇に疱瘡神の石祠がある。天然痘の神様で、当時は死病で、もし治ったとしても痘痕が残ったそうだ。

 この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏貝塚・七社遺跡として知られ、縄文式土器・弥生式土器・土師器(はじき)等が発見され、先土器時代から古墳時代・歴史時代にわたる古代人の生活の場であった事がうかがえる。

              
 ご 由 緒
当神社は往昔の御創建ながら、寛成五年(1793)の火災により古文書、古記録等を焼失した為に詳ではありません。
しかし、翌年9月23日に御社殿は再建され、故にこの日を当社の大祭日と定め、現在も賑やかなお祭りが執り行われています。
当時は仏宝山無量寺の境内に祀られ、「江戸名所図絵」には無量寺の高台(現・古河庭園内)に「七つの社」として描かれています。
明治時代になり、元年(1868)に神仏分離が行われ翌2年に一本杉神明宮の現在地に御遷座になり西ヶ原・栄町の総鎮守として奉祀されるに至りました。
また、「新編武蔵風土記稿」には、「西ヶ原村七所明神社、村の鎮守とす紀伊国高野山四社明神をおうつし祀り、伊勢・春日・八幡の三座を合祀す故に七所明神と号す。末社に天神・稲荷あり云々」と記してあります。
さらに、この境内から隣地にかけての一郭は七社神社裏貝塚として知られ、縄文式土器・弥生式土器・土師器(はじき)等が発見され古代人の生活の場であった事がうかがわれます。

               旧一本杉神明宮社地
                          北区西ヶ原二-一一-一 七社神社
 現在の七社神社の社地は、かつては神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治四十四年(1911)に地上三、四メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切り株は残っています。
 七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政五年(1793)の火災によって、社殿を初め古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年に現在地である神明社社地に移されました。現在の祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命、天見屋根命、伊斯許度貴命、市寸島比貴族命、品陀別命、帝中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。
               平成五年三月
                              東京都北区教育委員会


西ヶ原一里塚(13:37)・・・北区西ヶ原2-4-2先

 街道に戻って、「一里塚」信号の少し手前に日光御成道の2里目の「西ヶ原一里塚」がある。左右の車の流れを分ける分離帯のようになっているのは実は南の塚で、南行き車線にあたる旧街道の北にもう一つの塚がある。北行き一方通行車線は、旧道をはさむ一里塚を保護するために造られた片側バイパスである。

 この一里塚は、江戸時代に設置された侭の旧位置を留めている都内で希有の一里塚である。大正時代の道路改修工事の際に撤去されそうになったが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動により塚の保存に成功した珍しいケースで、大正11年3月に国史跡に指定されている。
 国指定史跡の一里塚は、中山道の「志村の一里塚」と共に都内では二つしかないし、全国的にも、東海道で四つ、中山道で二つ、日光道中で一つ、奥州道中で一つなど合計17箇所しかないらしい。

               
西ヶ原一里塚    所在地 北区西ヶ原2-4-2地先
 慶長9年(1604)2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都区内唯一の一里塚で貴重な文化財だといえます。南側の塚には「二本榎保存の碑」と題される大正5年6月の記念碑があります。塚と榎は当時、東京市電の軌道延長路線上にあたり、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。                        平成7年3月     東京都北区教育委員会


(参考)ゲーテ記念館・・・北区西ケ原2-30-1

 「一里塚」信号を左折して200m程行って信号を右折すると、すぐ右手に、「財団法人東京ゲーテ記念館」がある。同館ではドイツの詩人・思想家として有名なゲーテの作品や資料を約15万点収集展示しており、内容は世界でもトップクラスで、海外にも広く知られているらしい。

 ゲーテは、日本では「ファウスト」や「若きウェルテルの悩み」などで有名だが、実業家の粉川忠が生涯をかけて収集したゲーテ関連文献が展示されており、ゲーテ研究者やゲーテに憧れる人々にとって貴重な存在になっているという。
 入館料は無料で、開館時間は11:00~17:30(入館は17時まで)だが、日月祝祭日は休館で前回も見学できなかったのできょうも立ち寄りはしない。

飛鳥山公園・北区飛鳥山博物館・・・北区王子1-1-3

 再び元の本郷通り「一里塚」交差点に戻って左折し、王子駅近くにある「飛鳥山公園」に立ち寄り、小休憩する。

 江戸の人口増と共に、上野の山の混雑ぶりは激しさを増していくが、上野は将軍家お膝下として花見時間は日中に限られ、歌舞音曲も禁止される等、十分羽を広げられない窮屈さがあった。そこで徳川吉宗が音無川南岸の丘陵地である当地に目をつけ、上野に代る花見の名所として庶民に開放したのが飛鳥山公園である。

 吉宗の出身地である紀州に因んだ地名が多いのも吉宗のお気に入りだったらしいが、平安時代末頃から当地方を開いた豊島氏が熊野の神を迎え、地名を熊野に模して、飛鳥山とか王子とか音無川とか称するようになったという。飛鳥山の名は紀州出身の吉宗が紀伊新宮の飛鳥明神の分霊を祀ったところからつけられ、王子の地名も熊野王子から来ていることを初めて知った。

 「飛鳥山公園」内には、「紙の博物館」「渋沢資料館」「飛鳥山古墳群」「北区飛鳥山博物館」等があり、飛鳥山博物館内にはこの近くにあった(後出)律令制下の豊島郡衙の正倉が実物大で復元(象徴展示)されているのが圧巻である。正倉というのは、税として集めた米の貯蔵倉のことである。郡衙には正倉が並ぶ「正倉院」がつきものだった(現在、奈良東大寺に「正倉院」があるが、元々は普通名詞)。
 7世紀後半~9世紀後半、西ケ原(現滝野川公園付近)に武蔵国豊島郡衙が創設され、律令制下における地方役所が整備され(御殿前遺跡)、現・東京都の北・板橋・荒川・台東・文京・豊島・練馬区にあたる地域が武蔵国豊島郡として治められた。

 実は、飛鳥山周辺には、
*「飛鳥山遺跡」(飛鳥山公園付近)、
*「七社神社前遺跡」(七社神社付近)、
*「西ヶ原遺跡」(地下鉄南北線西ヶ原駅周辺)、
*「御前山遺跡」(滝野川公園・平塚神社付近)
などがあったのである。また上中里駅北部には「中里遺跡」もあったという。

               
洋紙発祥の碑
日本の洋紙生産は、明治6年(1873)ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一が「抄紙会社」を設立し、ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。田園の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和20年(1945)、戦災によりその歴史を閉じました。この碑は、工場創立80周年を記念し、昭和28年、その跡地に建てられたものです。
                              日本製紙株式会社


 公園内には、難解な碑文があり、その横に、なぜ難解であるかの解説板もある。

               
飛鳥山碑
八代将軍徳川吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保5年(1720)から翌年にかけて、1270本の山桜の苗木を植栽した。元文2年(1737)にはこの地を王子権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の5経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを宣伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(1321~3)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよく知られている。
               平成9年3月31日 建設      東京都教育委員会

(参考)渋沢史料館・・・北区西ヶ原2-16-1

 入館料一般300円、北区飛鳥山博物館・紙の博物館・渋沢史料館の3館共通入場券は一般720円。
 日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一(1840~1931)の生涯と、携わった様々な事業や、多くの人々との交流を示す諸資料を、時代背景の解説と共に展示している。

 渋沢栄一は、日本最初の銀行となる第一国立銀行(現みずほ銀行) をはじめ東京商工会議所や東京証券取引所の前身を設立しているほか、日本郵船・帝国ホテル・王子製紙・札幌ビール・浅野セメント・帝国劇場ほか約500の企業に関わり、近代日本経済の土台作りに貢献した人物であるが、予て村谷氏達と中山道を歩いている時に、渋沢栄一の故郷が深谷であることを知った。なお、解説によれば、渋沢栄一は、水戸街道歩きの時に立ち寄った松戸宿の「戸定邸」で知った最後の水戸藩主徳川昭武と一緒にパリに行っていることも、きょう知ることが出来た。

 また、当初は別荘として、後には本邸として住んだ「曖依村荘(あいいそんそう)」は庭園の一部と共に、「青淵文庫」(渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵への昇格祝いを兼ねて竜門社<渋沢栄一記念財団の前身>が寄贈した鉄筋コンクリート造り建物であり、大正14年の竣工で、栄一の書庫として、また接客の場としても使用された)や「晩香廬」(渋沢栄一の喜寿祝いに現在の清水建設(株)が贈った大正6年竣工の洋風茶室で、内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用された)が昔の面影をとどめている。 民間外交の場として、第18代アメリカ大統領をつとめたユリシーズ・グラントや中国の蒋介石など、 多くの人々が招かれた場所でもある。青淵文庫、晩香廬は国の重要文化財に指定されているが、残念ながら土曜日のみの公開できょうは見学できない。

(参考)紙の博物館・・・北区王子1-1-3

 昭和25年、旧王子製紙(株)の収蔵資料をベースに、わが国洋紙発祥の地である東京北区王子に財団法人として設立され、以来紙に関する古今東西の資料を幅広く収集・保存・展示し、教育普及活動を行っており、紙をテーマにした世界有数の紙専門博物館になっている。

(参考)飛鳥山古墳群

 飛鳥山博物館ほかを見た後は、園内の柵に囲まれ保存されている「飛鳥山1号墳」を見ることができるが、既に見学済みでもあり、きょうは割愛する。
 古墳時代後期の直径31mの円墳で、切石を使用した胴張型横穴式石室が検出されており、昼間なら柵内にも入れる。
 公園内では他に2・3号墳が周溝のみ確認されており、飛鳥山古墳群を形成している。

音無親水公園・・・北区王子本町1-1-1先

 街道は都電に沿って右に曲がり、「飛鳥大坂」を下って行く。JR王子駅の下を潜って、以前立ち寄ったことのある「音無親水公園」の中を通って「王子神社」へと向かう。

 音無親水公園は、石神井川の旧流路に造られた公園で、石神井川は、北区付近では、音無川と呼ばれ、昔から景勝の地として親しまれてきた所である。昭和30年代からの河川改修工事で石神井川の流路が変えられ、 残された旧流路に「かっての渓流を」という趣旨で「音無親水公園」が造られたものである。

 面積約5,500㎡で、「日本の都市公園100選」にも選ばれている。遊歩道が整備され、水・岩・緑に彩られているが、曾てあった「権現の滝」や木橋の「舟串橋」が再現され、水車や行灯も置かれ、東屋、休息用の石などに腰掛けて流れを見やったり、読書したり、春は花見、夏は子供たちの水遊びなど、訪れる人達が絶えない。

               
音無親水公園
 音無川のこのあたりは、古くから名所として知られていました。江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、また、安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。
 「江戸名所花暦」「游歴雑記」などには、一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、谷間の樹木は見事で、実にすぐれていると記されています。
 こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備しました。
  たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影
                      飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より
               昭和六十三年三月            東京都北区


王子神社(14:00)・・・北区王子本町1-1-12

 登った先の「王子神社」は、2008年1月5日に一人で歩いた『元准勅祭神社「東京十社巡り」第一日目』の最後の立ち寄り場所になった神社で、旧郷社である。御祭神は、伊邪那美命・伊邪那岐命・天照大御神・速玉之男命・事解之男命の5柱を祀っている。

 鳥居を潜ると、樹木が鬱蒼と茂り、荘厳な雰囲気を持っている。参道奥に権現造の社殿がある。
 創祀年代は不詳だが、紀州熊野権現の勧請と伝え、元享2年(1322)、当地の領主豊島氏が社殿を再興し、若一王子宮、王子権現と称される神社である。明治以前は禅夷山東光院金輪寺が別当だったが、明治になって仏教色を払拭し、社名を王子神社と改め、准勅祭社に指定されている。

               
王子神社
創建は古くに紀州の熊野権現を勧請し、元亨年中、当地領主豊島氏が「若一王子宮」を改めて奉斎した。「王子」の地名はここに由来し、付近では熊野川に倣い石神井川を特に「音無川」と呼んでいる。豊島氏以後は小田原北条氏も当社を崇敬し、朱印状を寄せ社領を寄進している。
近世徳川氏の代、初代家康公は天正十九年、二百石の朱印地を寄進し、将軍家祈願所と定めた。この後代々将軍の崇拝を受け、「王子権現」の名で江戸名所の一つとなる。
三代家光公は寛永十一年、社殿を造営し、また林羅山に命じて当社縁起「若一王子縁起絵巻」を作らせている。
八代吉宗公は紀州出身で、紀州熊野権現の勧請である当社を崇敬し、元文二年に飛鳥山を寄進。桜を多く植えて、庶民遊楽地とした。これが今日の「花の飛鳥山」となった。
曾て社殿は森深く昼なお暗い幽寂地であり、「太田道灌雨宿の椎」をはじめ、勝海舟の練胆話も伝えられている。現在の社殿は戦後復興したもので、昭和五十七年に、壮大な権現造として竣工した。
八月斎行の例大祭は「槍祭」とも称する。祭礼日、神前の小槍を持ち帰り家に掛け置くと「運を開き、災を除く」といわれる。また伝承では、家光将軍就任を祈願し、乳母春日局も当社に槍を奉納したと伝えられる。
祭礼は三日間続き、故事に基づき、「御槍」の授与があり「大祭式」「御輿渡御」「田楽舞」と諸儀式が行われる。
例大祭に奉納される「王子神社田楽舞」は貴重な儀式を含み、各地の田楽の中で、最も古雅なる一つといわれる。昭和五十八年に四十年ぶりに復興し、昭和六十二年に「北区無形文化財」に指定された。
「王子田楽衆」の手になるもので八人の稚児舞である。儀式は「田楽行列」に始まり「露払」「七度半」と続き、「田楽十二番」奉納となる。一・中門口(ちゅうもんぐち)、二・道行腰筰(みちゆきこしささら)、三・行違腰筰(ゆきちがいこしささら)、四・背摺腰筰(せすりこしささら)、五・仲居腰筰(なかいこしささら)、六・三拍子腰筰(みつびょうしこしささら)、七・黙礼腰筰(もくれいこしささら)、八・捻三度(ひねりさんど)、九・中立腰筰(なかたちこしささら)、十・搗筰腰筰(つきささらこしささら)、十一・筰流(ささらながし)、十二・子魔帰(こまがえし)。
また曾ては、縁起物の田楽花笠争奪が凄まじく、天下御免の「喧嘩祭」として、異名を取っていた。
十二月六日に、当社に市が立ち「熊手市」と呼ばれる。東京最後の「酉の市」であり、多くの熊手露店が立つほか当社からも「熊手守」が授与されて、終日大いに賑わう。-平成祭データ-


 境内左手の駐車場の隅に、「関神社」と「毛塚」がある。社殿前の解説板によると、蝉丸が髪の祖神として祀られているようだが、正確には髪の祖神ではなく、カツラの祖神らしい。また、東海道歩きで立ち寄ったことのある、「関蝉丸神社」がここにあるのも嬉しい限りで懐かしい。

               
「髪の祖神」関神社由緒略記
     蝉丸公  神霊
 御祭神 逆髪姫  神霊
     古屋美女 神霊
 「これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも逢坂の関」の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日これを再建せり。 王子神社宮司


                
毛塚の由来
 釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和三十六年五月二十四日「関神社」境内に毛髪の塔を建立し永く報恩の一助とする。
                                 関神社奉賛会(ほか)

                都天然記念物 王子神社のイチョウ
                      所在 北区王子本町一丁目一番 王子神社
                      指定 昭和十四年三月
 荒川に落ちる支流、音無川の左岸高台に王子権現がある。かなり遠方からでもこのイチョウは見え、付近と異なる風致地区を形成している。
 大正十三年実測によると、目通り幹囲は六・三六メートル、高さは一九・六九メートルであったという。枝はあまり多くないが、うっそうとしており、樹相はきわめて立派である。
 当社は豊島氏の旧跡であり、このイチョウも、その当時植えられたものであると伝えられている。
                昭和四十四年十月一日 建設
                                東京都教育委員会


王子稲荷神社(14:08)・・・北区岸町1-12-26

 街道の道筋は、音無川の手前を右折し、JR線路を越えて直ぐまた戻るし、音無親水公園や王子神社にも立ち寄ったので、ショートカットして王子神社の裏から東進し、「王子稲荷の坂」を登って「王子稲荷神社」に立ち寄る。

               
王子稲荷の坂
 この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道(にっこうおなりみち)があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋(うばがばし)を経て、蓮沼村(はすぬまむら)(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道(なかせんどう)につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。
                              北区教育委員会


 王子稲荷神社は、関東稲荷総社の格式を持ち、昔は地名に因んで「岸神社」と称していたが、元享2年(1322)に豊島氏が王子権現を勧請し、この辺りが王子という地名になってから「王子稲荷」と呼ばれるようになり、江戸時代から特に庶民に親しまれてきた。創建年代は不詳だが、平安時代頃と推定される古社で、現社殿は文政5年(1822)11代将軍家斉の造営である。

 当稲荷神社には、商売繁盛のほか、火防せ(ひぶせ)の神としても信仰を集め、毎年2月の初牛に「火防守護の凧守」が授与されるようになり、境内では縁起の凧を売る凧市が開かれるようになった。何にもまして有名なのは、大晦日に開かれる狐の関東年次総会である。ここに参集する前に、狐達はまず、別の場所で装束を正装に改めた。その場所とは、ちょっと離れているので立ち寄りは諦めたが、大晦日に稲荷の使いである狐が、東方350m程にある「装束稲荷」という稲荷社の榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがある。落語の「王子の狐」の舞台になった有名な所である。


 かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえ立っていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は『装束榎』と呼ばれていました。狐たちが灯す狐火によって地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。 江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、左の広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。 昭和4年(1929)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(19993)からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。                平成9年3月         東京都北区教育委員会


 また、朱塗りの社殿右手奥には、持ち上げて願い事をする「願掛けの石」や、奥の上にある「狐の穴跡」は、実際に狐が住んでいたと言われ、落語で有名な「王子の狐」の舞台にもなっている。
 そして、このため、年末には地元の人達が催す「王子狐の行列」が新しい風物詩になっているほか、毎年2月の午の日に開かれる凧市は、度々大火にみまわれた江戸庶民たちが「凧は風を切る」として火事除けの縁起をかつぎ、今なお親しまれているという。
 所蔵する柴田是真作「額面着色鬼女図」は,国の重要美術品に指定されている。

名主の滝公園(14:14)・・・北区岸町1-15-25

 その先にある「名主の滝公園」にも立ち寄る。村谷氏は都内餐歩で度々訪れているようだが、自分にとっては初めての立ち寄りになる。

                
名主の滝
 名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。
 明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣ある庭園として一般の利用に供しました。
 昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。
 昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。
 昭和三十三年、東京都は、名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十一月から都立公園として公開されるにいたりました。
 正和五十年四月一日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同六十一年から一年半、大規模な改修がなされました。
                昭和六十三年三月
                                東 京 都 北 区


 武蔵野台地の突端である王子近辺には滝が多く、かつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝があったが、この内「名主の滝」だけが現存する唯一の滝になっている。8mもの落差のある「男滝(おだき)」を中心に「女滝(めだき)」や「独鈷(どっこ)の滝」という弘法大師を思い出すような滝と「湧玉(ゆうぎょく)」の滝という、計4つの滝があるのが凄い。当然ながらここは低地で、街道は左手の高台を通っている。街道に戻る坂道の途中に名主の滝が災害時用の給水所になっているという看板があり、なるほどと納得させられる。

 飛鳥山・音無親水公園・そしてここ名主の滝公園と、この辺りは風光明媚な所が多く、人々の心を癒やしてくれる。

(参考)旧陸軍造兵廠跡・・・北区十条台1-5-70

 街道を戻り、少し行った十字路の左手には「陸上自衛隊十条駐屯地」がある。常時一般開放ではなく、見学はできないが簡単に触れると概略次の通りである。

 明治38年(1905)初冬、「東京砲兵工廠銃包製造所」が小石川から当地に移転し、その後、「東京第一陸軍造兵廠」など逐次名前が変わり、旧陸軍兵站機能の中枢的役割を果たしてきた。戦後は米軍の使用を経て、昭和34年(1959)に自衛隊に移管され、武器補給処十条支処を主体に使用されてきた。平成9年度、防衛庁本庁庁舎移転計画により、海上自衛隊、航空自衛隊及び調達実施本部が十条駐屯地に再配置されると共に、平成10年3月陸上自衛隊補給統制本部が新編され、陸上・海上・航空・契約本部が共存する全国でも稀な駐屯地・基地になっている。

 十条駐屯地には、全国の自衛隊が国防、災害派遣、国際貢献等の任務達成のために必要不可欠な物(装備品等)の調達・保管・補給・整備、及びこれらに関する調査研究等の事務処理を行う部隊が所在している。正門等に使用されている赤煉瓦は、曾て工場の壁面に使用されていたものを再利用したものの由。
 曾ては右手を並行して走るJR線路の方に鉄路が引かれていた。また、往時は鎌倉街道がこの駐屯地を横切って通っていた。

(参考)軍都北区の名残り

* 曾ての北区内は、軍用施設の多いエリアだった。その面積は区面積の10%にも相当し、23区中最大の割合だった。こうした軍用施設の敷地を示す「陸軍用地標石」が現在でも区内各所で確認することができるそうだが、王子本町2丁目の王子本町公園付近にも建っている。

* 陸上自衛隊十条駐屯地の東側にある「区立中央図書館(赤レンガ図書館)」は大正8年(1919)築の赤レンガ倉庫の一部を利用しているが、この赤レンガ倉庫は旧陸軍東京砲兵廠銃砲製造所旧275号棟で、曾て北区が軍都だったことを物語る遺産である。
また、自衛隊十条駐屯地内には、陸軍東京第一造兵廠の十条工場旧254号棟がある。

* また、近くにある「中央公園文化センター」の建物も、戦前の陸軍東京第一造兵廠(兵器工場)として昭和5年(1930)に建てられたもので、戦後は米軍施設として利用されたが昭和56年に北区の文化センターとして生まれ変わっている。

地福寺(14:32)・・・北区中十条2-1-20

 暫く行った先の左手に「地福寺」がある。この寺は、将軍の日光社参時の休息所にもなった。

                
地蔵尊縁起
 門前の六地蔵尊の中、左端のお地蔵様が「王子の三地蔵尊」の内の一尊。(かっては鎌倉街道のお地蔵様とも呼ばれていた。)
 台座に三猿を施した庚申地蔵の形式をとり、その造顕し正徳四年・享保五年作の地蔵尊と共に、江戸時代中期のものと推定される。(以下略)
                平成元年六月吉日
                                地 福 寺


 境内には、王子周辺で曾て茶の栽培が盛んだった処から「茶垣の参道」の碑や「王子のお茶」の解説板があり、「茶の栽培に励んだ郷土の歴史を次代に伝えたい」と考えた住職が茶の生け垣をあしらった参道を造ったという。

 かつて王子は都下でも有数の農地で、米や麦のほか、お茶の栽培が盛んで、「茶は特に王子の名物であった」と『王子町誌』に記されている。
 日清・日露戦争以後、わが国は興業国家建設に向け次々と工場を建設、次第に王子から農地がなくなり、お茶の樹が姿を消していった。
 こうした変化を前に、お茶の栽培に励んだ郷土の歴史を次代に伝えたい、と考えた当山中興・第六十九世・三輪照宗住職は、昭和三十一年、戦災により焼失した庫裡を再建した折り、考案したのが茶の生け垣をあしらった参道で、これが後に地福寺の「茶垣の参道」と称されるものである。
 これによりお茶の樹は常時、参拝者の目に触れることとなり、王子とお茶との関わりに気づいてくれる人もいるに違いない、と推測したのである。
 参道に残る数本のお茶の樹は、栽培盛んなりし頃の王子の俤を、わずかに今に偲ばせている。
                平成十五年八月吉日
                                十條山 地 福 寺


富士神社(14:42)・・・ 北区中十条2-14-18

 その先左手に富士神社があるが、何もない広場の片隅に、岩が6m程の高さに積み上げられ頂上には祠があり、現在でも6月30日・7月1日に通称「お冨士さん」という大祭が行われる「十条富士塚」があり、北区指定有形民俗文化財になっている。
 「お冨士さん」の日には、神社北側の道には約200店の露店が並ぶというから凄い。

            
北区指定有形民俗文化財
               十条富士塚
                              北区十条二-一四-一八
 十条富士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、富士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条富士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(1840)十月には富士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(1881)に造立されています。この年は、富士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました。石造物の中に「富士山遙拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遙拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
               平成四年三月
                              北区教育委員会

 冨士山の山開きには、冨士講という大行者の角行が開いた民間信仰の教義により登山者が押し寄せたが、女人禁制の霊山だったし、遠路で老人や子供には無理があったため、誰でも登拝できるように、早稲田の水稲荷境内に小高い人造富士を築いたのが評判となり、各地に富士塚が築かれた。ここ十条でも講中の奉仕で、日光御成道の脇に、富士の溶岩で塚を築き、山開きの日に祭礼を催すようになった。現在は冨士神社と改名してはいるが、御神符には現在も「仙元大菩薩」とある。山上には北区保存樹木に指定のスジダイが聳えている。

真光寺・・・北区中十条3-1-5

 富士神社の東側にある。「隆照山桂徳院」と号する真言宗智山派の寺院で、本尊は勢至菩薩像である。 明治30年(1898)に火災で記録を焼失しており、創建年代や由来などは不明だという。

 平成7年(1995)に本堂を改修しているが、階下が住居のようで、本堂は二階に大きく聳える感じである。石段を昇ることは出来ないようになっていた。植木の手入れが行き届いた小さい境内に六角堂があり、迷いを解き幸せに導くという勢至菩薩が安置されている。

西音寺(14:50)・・・北区中十条3-27-10

 その先右手に、真言宗智山派で、無量山竜谷院と号する「西音寺」がある。門前右手に六角柱の石塔「六面憧(ろくめんどう)」が建っており、宝暦2年(1752)の銘があり、阿弥陀三尊や六地蔵が陽刻されている。延命地蔵尊もある。
 山門を入ると右手に宝篋印塔があり、延享5年(1748)武州豊嶋郡十條村と刻まれているそうだが、「お檀家の方以外は山門内に入らぬ様お願い致します」との掲示が山門前にあり、われらの参拝を拒んでいる。

 当寺は、「豊嶋八十八ヵ所」第三十番の札所だそうだが、理解に苦しむ処である。本尊は不動明王像で、「王子町誌」には、文明2年(1470)玄仲が太田道灌の帰依を受けてこの寺を創建したこと、「下り松」と言う江戸時代に広く知られた名木があり、明治元年落雷に裂かれて枯死したが、3代将軍家光日光社参の折この寺院に休む度、その松の下から辺りを眺望したと言われている旨記されているという。

清水坂

 街道はやがて「清水坂」と呼ばれる細い緩やかな下り坂になる。途中、道路標識があり、清水坂の由来が記されている。かなりの磨耗だが、何とか判読する。

                
清 水 坂
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。


 左手には鬱蒼と樹木が生い茂り、往時の街道の面影も感じられるが、左奥には「清水坂公園」がある。

香取神社(15:07)・・・北区赤羽西2-22-7

 その先で埼京線を潜り、最初の信号を左に100m程入った右手にある。神社の右手が谷になっていて、稲付川が流れていた。谷の向こうは十条台地で、背面側が開けている。

 香取神社は旧稲付村の鎮守社であるが、創建年代は不明、御祭神は経津主大神である。社務所の建物は赤羽八幡神社の社務所が新幹線工事で取り壊されることになり、ここに移築された。伝承によれば、奥殿の中に安置されている朱塗りの本殿は、上野の東照宮を建て替えることになり、その内陣だったお宮が稲付村に下げ渡された、それがこの本堂で、以後、神社近くの岩槻街道を通る大名は、駕籠を降りて敬意を表したという。
 境内には「稲付村の力石」という7個の卵形自然石があり、解説板もある。

               
稲付村の力石
 ここにある7つの石は、その1つに「さし石」と刻まれている力石です。
 江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、力くらべをしたといいます。
 七つある力石のうち、五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも十九貫目(約七十一キログラム)、重いものでは五十五貫目(約二百六キログラム)もあります。また、六つの石には、「小川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋(ねこや)の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治三十九年(1906)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治四十年(1907)六月十三日に五十一歳で亡くなりました。力石は小川家に保管されていましたが、昭和四十年(1965)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
 力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占(いしうら)に用いられ、後には、若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
                平成八年三月
                              東京都北区教育委員会


法真寺(15:09)・・・北区赤羽西2-23-3

 その先の起伏に富んだ所にある。岩槻街道(御成道)からの入口に、元禄11年(1698)銘の題目塔が建っており、正面に「南無妙法蓮華経」の題目、左側には日付が二通りあり、「元禄十六年九月十三日(1703)稲付山八世・・・」、「天保十四年六月吉辰日(1843)稲付山・・・・・・」とある。右側には「傳教大師一刀三礼(筆者注)にて御彫刻 本門薬師如来安置」と刻まれているのがある。

 法真寺の開山・開基は天台宗で始まっているので、寺に伝教大師(最澄=天台宗)作の薬師如来が安置されていても不思議ではないが、日蓮宗の題目塔「南無妙法蓮華経」の横に最澄作の薬師如来像の記述があるのは意外だ。最澄は日蓮上人の師匠筋にあたるから・・・だろうか?

 法真寺は、稲附山法眞寺と号し、日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅である。
天正元年(1573)慈眼大師(天海僧正)の弟・證導院日寿上人の開山で、開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王と伝えられている。
 慶安2年(1649)に三代将軍家光から十三石二斗の御朱印を賜っている。現在でも京都では、門跡寺院の格式で処遇されているそうで、京都の公家寺と同等に、塀に二本の白線を入れる権利を持っている。

(注)一刀三礼:仏像を刻む際、一刀を入れるごとに三度礼拝すること。一刀三拝とも言う。

庚申塔(15:19)と真正寺坂(15:20)・・・北区赤羽西2-19地先

 信号の先左手の角に、明和6年(1769)銘の「道標を兼ねた庚申塔」がある。下記のような解説標柱があり、ここを左に上っていく坂は「真正寺坂」と呼ばれ、曾て真正寺があったが、その後廃寺になって坂名だけ残ったという。庚申塔には、「これよりいたはしみち」と刻まれ、日光御成道と中山道を結ぶ道だったことがわかる旨記されている。

               
真正寺坂
 岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西二-一四-六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登リ口南側にある明和六年(1769)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。
                              北区教育委員会

普門院(15:22)・・・北区赤羽西2-14-20 (道観山正一位稲荷神社内)

 その先の左手高台に、徳治2年(1307)創建と伝えられる真言宗智山派の「妙覚山蓮華寺」と号する「普門院」がある。本尊は聖観音菩薩である。

 入口参道には「稲付の餅搗唄(もちつきうた)」の解説板があり、北区指定無形民俗文化財になっている。普門院は、楼閣を乗せた鐘楼門、納骨堂等に特徴がある。

 正面入口にある中国風の鐘楼門(昭和17~18年頃完成)や、インドブッダガヤの仏塔をモデルにした共同墓地(昭和41年完成)が、異国情緒のある独特の景観を醸し出している。

 また、本堂の屋根の頂点には趣のある宝珠が避雷針を兼ねて、窓上の壁や屋根瓦には北斗七星を象った「九曜星」の紋章が見える。この紋は関東の雄・平将門の家紋と同じ筈だがどういう関係があるのか、無いのか? 静かな境内には納骨堂がある。崩落防止のためか、フェンスで厳重に囲われている。

            
東京都北区指定無形民俗文化財
                稲付の餅搗唄
                      北区赤羽西二-一四-二〇 道観山稲荷社地内
 江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
 餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼のまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗く時にうたったのが稲付千本杵餅搗唄です。唄は、大正十二年(1923)九月の関東大震災の前後まではズシ(-辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(-催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文を取るようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。
 昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
                平成八年三月
                              東京都北区教育委員会


(参考)稲付一里塚・・・北区赤羽西2-8-19

 普門院の近くには曾て「稲付一里塚」があったそうで、解説板に次のように記されていたそうだが、道の反対側だったのか?見過ごしたらしい。

               稲付一里塚
 江戸時代、ここは稲付村と呼ばれて日光御成道の沿道にあたり、一里塚の築かれていた場所です。
 慶長九年(1604)二月、徳川家康は江戸日本橋を起点として全国の主要街道の一里毎に、榎を植えた塚を築かせ、街道の道程の目安としました。稲付一里塚も、こうした政策に沿って築かれた交通施設です。ここまでの道筋は本郷追分の一里塚で中山道と分岐し、西ケ原一里塚を経て稲付村の一里塚にいたります。日本橋を起点とすると本郷追分が一里目、西ケ原が二里目、稲付の塚が三里目(約一一・八キロメートル)にあたり、この塚を過ぎると御成道の最初の宿場である岩淵宿に向かいます。稲付村内の御成道は総延長約六丁半(約七〇九・一メートル)で、幅は二間半(約四・五メートル)から四間(七・二メートル)位と記録されています。また、この一里塚のあった付近の街道上には、壱里塚という字(あざ)から道女喜に渡る幅二間半・長さ四尺(約一・二メートル)の石橋があり、高札も建てられていました。日光御成道は、江戸幕府の将軍が、家康をまつる日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道だったので、このように称されました。また、同時に江戸北郊の城下町である岩槻と江戸とを結ぶ街道でもあったので岩槻街道とも呼ばれていました。一里塚は、旅人にとっては歩いた距離や乗物賃の支払いの目安となり、陽射の強い日には木蔭の休憩所としての役割もはたしました。
                              東京都北区教育委員会


静勝寺(じょうしょうじ)(15:30)=稲付城址(太田道灌砦跡)・・・北区赤羽西1-21-17

 その先左手の高台にある「静勝寺(じょうしょうじ)」の寺域から南へかけての丘陵一帯は、太田道灌の砦跡である「稲付城址」で、東京都指定文化財(旧跡)になっている。

 「静勝寺(じょうしょうじ)」は曹洞宗の寺院で、山号は自得山。本尊は釈迦牟尼如来坐像(40cm)、脇侍として文殊菩薩(右・獅子に乗る)・普賢菩薩(左・六牙の白象に乗る)が安置されている。
 室町中期の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加し、長禄元年(1457)に江戸城を築城したことで名高い武将・太田道灌(1432~1486)が、砦として使用したといわれる稲付城を、道灌の死後、寺にしたのが静勝寺の始まりである。

 旧本堂は元禄7年(1694)の建立で、現在移築され弁天堂となり、現本堂は昭和3年(1928)の建立である。本堂裏手には普門堂があり地下が納骨堂になっている。

 永禄年間(1558~69)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が発掘調査で確認されているが、それ以外には「稲付城址」としての遺構らしき物は何もなく、東側山門正面奥に、北区指定有形文化財の「木造太田道灌坐像」を安置した「道灌堂」がある。また、北区指定有形文化財の「静勝寺除地検地絵図・古文書」を所蔵している。

              
東京都指定文化財(旧跡)
                稲 付 城 跡
                               北区赤羽西一-二一-一七
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正十年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享四年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヵ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
                平成十三年三月
                                東京都北区教育委員会

          木造太田道灌坐像 附 厨子1基東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
                              平成元年1月25日指定
 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年 (1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に製作されました。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧(は)ぎで玉眼を嵌入(かんにゅう)し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
 像は道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました。
 また北区飛鳥山博物館には、木造太田道灌坐像の複製品、関連資料の展示があります。

 このほか、小説「大菩薩峠」の著者である「中里介山」が静勝寺に下宿をしていたことがあり、彼の寄宿の三畳床の間付きの部屋は、旧本堂であった弁天堂に大切に保存されている由である。

 時代が過ぎ、「安岡章太郎」も下宿をしたことがあるそうで、その青春時代に彼の書いた小説「花祭」には、読んだことはないが静勝寺での下宿時代の思い出を語っているという。

ゴール(15:40)

 本日はここまでとし、JR赤羽駅西口にゴールインして帰途についた。