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大山街道餐歩記 その7
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 2008年8月31日(日) 大山街道餐歩第7回目

【歩行起点】 (小田急線海老名駅)海老名駅入口交差点 9:00発
【歩行終点】 小田急線・愛甲石田駅 14:08着
【歩行距離】 11.9km
【歩行行程】 海老名駅入口〜一大縄〜川原口〜厚木渡船場跡〜厚木神社〜法運寺〜愛甲石田駅前

 小田急線海老名駅改札口9時集合の案内に対し、8:50着の便で着くと、既に前回同様に村谷氏と地元の清水氏が到着済みで、簡単な打ち合わせの後、3名で、ゴール予定の愛甲石田駅に向かって歩き始める。今日と次回の2回で、以前大山登山のスタートにした「大山ケーブル駅バス停」まで到達し、ひとまず今シリーズをお開きにする予定にしているが、大山ケーブル駅バス停から先は、既に小生だけでも2回は登っており、最多の村谷氏に至っては例年の初詣登山コースでもある関係上、省略するか、続行するかは成り行き次第と言うことになりそうだ。

 9時スタートで、まずは海老名駅入口交差点右折で街道を歩き始め、小田急線の跨線橋を登っていくと、正面に「大山」が雄姿を現すが、頂上には残念ながら雲がかかっている。昨日までの豪雨や連日の雨で空気が澄み渡っており、この時期としてはかなり見通しがよい。だが、天気は曇り予想で夕方からは雨との予報だったにも拘わらず、晴れ男3人の揃い踏みにお天道様も恐れをなしたが、じりじり照りつける朝日が早くも肌を刺す。

 220m位先の右手で、地元清水氏の「ここがいつも通っている市の図書館です」の発言に「はっ」と気づき、ちょっと引き返して「海老名市立図書館」前の「いちおおなわ」と書かれた表示を見る。清水氏も、海老名耕地のことは初耳だったと見え、ここが曾ての条里制の跡が残る地域であることを説明する。実は、前回歩いた「国分坂」を下って旧国道246に合流する「国分坂下」信号から約2kmの道は一直線の道路になっており、この道を「一大縄」と呼んでいる。
 これは、実は「大化改新」で東西南北を6町(約648m)間隔の方形水田に整地し、農民に貸与した条里制の遺構である。この区画の東西の基準線になったのが「一大縄」で、大山街道がここを通る起源にもなっており、地図で見ると、明らかに碁盤の目状の道路が残っているのが判る。事前に予習はしておいたが、ここで条里制の遺構に出逢えるとは、街道ウォーカーにとって望外の喜びである。また、ここで清水氏が、「図書館の外壁外側の一見税金の無駄遣いと思っていたコンクリートの碁盤状の枠や、敷地内の歩道の敷石模様など、全部、条里制の遺構のように碁盤の目になっている」と言い出し、「なるほど、尤もだ」とその見方に感心してしまった。

 小田急線同様、直線道路を斜めに横切るJR相模線の踏切を渡り、「河原口」信号を越えて暫く行くと、旧道は、信号のない左折点のすぐ先のコンビニの先から左折・右折を3回程繰り返す、つづら状の「河原口の七曲り」を経て、河口湖や山中湖の源流から相模湾に注ぐ「相模川」の「(旧)河原口村の渡し場」に至るルートになっており、二回目の左折後、二回目に右折する道は今は無いので、現在の残る路地を回り込んで行くしかない。

 しかし、我々は大山街道の最初の左折点を9:20に逆に右折し、何ヵ所かの古跡を見るべく寄り道することにした。「庚申塔」「総持院」「有鹿神社」「地蔵堂」「宗珪寺」「海老名氏霊堂」「伊能忠敬測量隊渡河地」等である。

 まずは、150m程先左手角の石造物群。うち二基の「庚申塔」のうちの大きい方は寛政6(1794)年の銘があり、下部は土中に埋まって文字の一部が見えないほどだ。

 次にその北側にある「総持院」を訪れる。風情ある木造の山門、赤い涎掛けの六地蔵、その前には池を廻らした小庭園があり、なかなかのものだ。山号を海老山と言い、高野山真言宗の寺院で、後に触れる海老名氏一族の菩提寺だった宝樹寺を併合している。木造の本堂と客殿が並び建ち、その前に奈良東大寺型の八角燈籠が訪れる我々に存在感を示している。これは、東大寺大仏殿前の八角燈籠(国宝・天平時代・日本最大最古の金燈籠)を基に精巧に鋳造、緻密な天女の透かし彫り迄なされたものだ。境内には枯山水風の庭園もあり、山に見立てた盛り砂までしてあるなど、なかなかのものである。また、大鉢に植えられた「蓮」が約10程あり、これも実に見事である。また、境内には高野山真言宗の寺院らしく「弘法大師」の立像や「水子地蔵菩薩像」もある。最後に注目を惹いたのは、寺院前の掲示板に貼られた「高野山真言宗21世紀 心の伝道」と題した二枚の掲示の文言だ。
(その
1)『仲のいい家族は 小さなマンダラ世界です』
(その2)『“仏の眼” 大きい 小さい、速い 遅い、強い 弱い を「優劣」としてみるのが人間の眼。「個性」としてみるのが「仏の眼」』

 さらに北進すると、突き当たりに「有鹿(アリカ)神社」がある。神奈川県のへそ(中心)として、相模国で最古の神社、延喜式内社、相模国五ノ宮と言い伝えられる、子育・厄除大社である。石の鳥居を入ると鐘楼があり、本殿は檜皮葺に覆いがされ、拝殿、神楽殿、立派な社務所が並んで建っている。広い境内には樹木が茂り、その中に稲荷、日枝、諏訪そして有鹿天神社などの末社が配されている。「有鹿天神社」は、河原口の屋島の天神森(鎌倉期の武将:海老名源八屋敷跡)に祀られていた天神社を、当地に社殿造営の上、御神霊を移し祀ったものだそうだ。

(有鹿神社 社頭掲示板)
有鹿神社は相模国の最古の神社であリ、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。
最古の神社 はるか遠い昔、相模湾の海底の隆起により、有鹿郷を中心とする大地が出現し、やがて、そこに人々の農耕生活か始まった。その豊穣と安全を祈り、水引祭が起こリ、有鹿神社はご創建されるに至った。
式内社 奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、海老名に国府かあり、有鹿神社は、官社であった。天智天皇3年(664)初めて神事を行い、また平安の延長5年(927)延喜式の制定により相模国の十三座に列せられた。美麗な社殿と広大な境内を有し、天平勝宝8年(756)郷司藤原広政の寄進により、五百町歩の墾田も神領となった。
正一位の神階 貞観11年(869)、従五位上に昇階し、その後、教次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)、正一位の極位に達した。平安末期、海老名郷の河原口に館を築いた豪族の海老名氏は、有鹿神社を崇敬した。応永23年(1416)海老名備中守持李(宝樹抄弥)は社殿を修理し、宮鐘を奉献した。しかし、室町の二度の兵乱を受け、海老名氏か滅亡するに際し、美麗な社殿を始め、ことごとく灰燼に帰し、広大な神領も失った。
総産土神 江戸期には、海老名郷五ヶ村の総鎮守であり、天正19年(1591)徳川家康より朱印十石の寄進を受けた。天正6年(1578)神殿の修復がなり、元和8年(1622)海老名郷領主(高木主水)の内室により、社殿が再建された。明治6年(1873)に至り、郷社に列せられ、海老名の総鎮守となった。明治40年(1907)神饌幣帛料供進社に指定された。第二次大戦後、宗教法人となり、神社本庁に属する。現在も有鹿神社は、海老名市のシンボルとして篤い崇敬を受けている。
社殿は三棟一宇で、本殿をおおう覆殿・弊殿・拝殿からなる。本殿は春日造、桧板葺5.6uであり、元和8年(1622)を始めとし、数次の修繕を受け、今日に至る。拝殿の天井には、大きな龍の絵が描かれている。万延元年(1860)、藤原隆秀(近藤如水)の作といわれている。本殿と天井絵は、海老名市の重要文化財の指定を受けている。
海老名備中持李の奉献、元禄2年(1689)再鋳の宮鐘は、第二次大戦中に供出を受けたが、昭和53(1978)年の再鋳がなった。続いて、手水舎の再建、天神社の遷座、社務所の新築等、神社の整備が進められている。
由緒地
神社の境内は有鹿の森であり、松なしの森ともいわれる。境内に隣接して、有鹿姫の悲恋伝説に由来する有鹿姫の霊地がある。そこは鐘楼跡でもある。
神社の東方約400mの所に有鹿の井戸(化粧井戸)があり、その北方200m進むと、有鹿の池(影向の池)がある。又、神社の参道を南方約400m進むと、鳥居の跡地の鳥居田がある。そこから、河原口・中新田を通り、社家門沢橋に至る古道は、明神大縄という参道であった。社家は、神社の楽人の居住地であった。
相模原市磯部の勝坂には、有鹿谷の聖地がある。谷の奥には、清水の湧く洞窟(有鹿窟)があり、鳩川に流れ落ちている。この清水は有鹿谷の霊泉といわれ、古代から、海老名耕地を潤すため、水引祭が続けられている。この傍らの鳥居の奥に奥宮が祀られている。
                              海老名総鎮守 延喜式内社 有鹿神社


 先ほどの「庚申塔」の所まで戻り、右折して相模川方向に向かうと、右折箇所右角に「地蔵堂」があり、合掌。掲示板はあるが何の解説もない。
 その先に「ここから先、宗珪寺境内」の表示が門柱と共にあり、右折して北への「宗珪寺」参道に入ると、右手に禅寺らしく「禁葷酒入門」の石塔。その先両サイドには印象に残る燈籠のような石塔がずらり林立する中を真っ直ぐ進むと、鬱蒼とした木々に覆われた赤い山門に到達する。境内は広く、やや荒れた感もある山寺のような雰囲気だ。樹木に隠れるような鐘楼の奥に木造の本堂がある。山号を「大王山」と言い、曹洞宗の寺院で、1428年開山の古刹である。鐘楼前には「馬頭観世音」の石塔があり、本堂の屋根には「葵」の御紋が二つ金色に輝いている。

 この辺り、村谷氏や清水氏は相模川河畔餐歩の時に河畔を歩いたそうだが、この辺の見所は知らなかったので立ち寄っていないそうだ。相模川方向にコンクリートの建設工事中箇所が見えるが、訊くと、東名と外環道のJctになるそうで、完成すれば八王子からダイレクトに通ずる由である。

 その参道から地蔵堂まで引き返す途中、左手の墓地の中を抜け、向こうに見えるに小さな祠へ行く。この地の豪族だった「海老名氏一族の霊堂」である。村上源氏の流れをくむ武蔵横山党の子孫・海老名源四郎親季が相模守として在住したのは康平年間(1058〜1064年)と言われている。一族の菩提寺「宝樹寺」が廃寺になり、先ほど訪れた「総持院」に併合されたが、霊堂だけがこの地に残されており、小さいお堂がポツンとあり、傍に解説板が立っている。先に触れた海老名源八季定は、源四郎親季の孫である。ともあれ、ここに立ち寄った結果、地名の「海老名」は海老名氏からの命名ではなく、地名「海老名」を氏として称したことが判った。

 ここから、先ほど入口を見落としていた街道に出ると、確かに「海老名氏墳墓入口」の石標が立っているが、われわれは左側に見とれて見逃していたことが判った。ここで再び宗珪寺石柱前に行き、通り過ぎて西に150m弱行き、「伊能忠敬測量隊渡河地」に行くが、何の表示も見あたらない。この辺りは本流の相模川と、そこに流れ込む中津川・小鮎川の三川が合流している所だ。伊能忠敬測量隊は宗珪寺などにも参詣したようだ。

 再び、元の庚申塔のあった場所へ引き返し、「河原口の七曲り」の起点で大山街道に戻ると、三回目の右折場所の角に「庚申塔兼道標」がある。「右大山 此方江戸 道」と刻まれている。七曲りは、ややもすれば正当なルートを歩いているのか否か不安になることがあるが、こういった道標が残っているとほっとする。往時の旅人たちにとっても、さぞ心強い存在だったと思われる。

 先ほどから、暑さ除けに「雨傘兼用のUV日傘」を使っている。ここからは、更に曲がり曲がって「厚木の渡し場跡」へ行き、10:13着。往時は一人10〜12文で渡し船に乗れたそうだが、現代の旅人たる我々用の渡し船は当然存在しないので、河畔の「渡し場跡」確認後は、350m程下流の「あゆみ橋」へと土手伝いに向かう。途中にベンチがあり、大勢の近隣老人たちが涼風にあたりながら憩いのひとときを楽しんでいる。10:15、我々もその先の河畔のベンチで、ドリンク休憩をとるが、直ぐ先に「八大龍王」の祠があり、カメラに収める。

 右折して「あゆみ橋」を渡る。橋の両眼には3艘の舟の絵に「あゆみ橋」と書いた石盤がある。橋を渡って右に曲がると、すぐ先右に「じょう橋碑」がある。昔は、相模橋(現在のあゆみ橋)を「じょう橋」と呼んでいた由で、船渡しの後、明治41(1908)年に常設の相模橋が架かり、舟渡しが廃止されるが、その後も水害や関東大震災等で橋が壊れ、臨時的に舟渡が再開されたこともあるそうで、大正5(1916)年には相模大橋改修により完全廃止になり、常にある橋という意味で「じょう橋」と愛称されたらしい。

 そこから少し上流の厚木市側の「渡船場跡」へ行く。堤防沿いの道の左、厚木宿入口の三角地帯に「厚木の渡し」碑ほかがある。
(厚木の渡し跡の由来解説板より)
  市指定史跡 旧厚木村渡船場跡
この地は、矢倉沢往還や藤沢道が相模川を渡る渡船場で、常時五隻の船が備えられ、旅人などに利用されていました。江戸時代に刊行された「新編相模国風土寄稿」の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。この渡船場の厚木側の権利は、厚木の名主溝呂木家が持っていましたが、これは徳川家康から与えられたものと伝えられています。天保二年(1831)九月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡邊崋山は、「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡」(かりやのかんと)は、この場所を描いたものです。明治四十一年(1908)、相模橋の開通によって、この渡船は廃止され、その役目を終えました。
               平成三年三月
                                   厚木市教育委員会

 その横には、風化で消えかかった「旧厚木村渡船場跡」の解説板や、立派な石の「渡邊崋山来遊記念碑」と次の解説板がある。渡邊崋山は、天保2(1831)年9月に、前回の餐歩記で触れた「お銀さま」に逢った後、河原口から渡し船で厚木入りしており、「游相日記」には「相模川を渡る。此川大凡三四丁もありぬらん。清流巴をなして下る。香魚甚多。厚木に到」と書いている。

 
 渡邊崋山来遊記念碑
渡邊崋山は天保二年九月廿二日から数日當地に滞留しその繁盛に驚き厚木の盛んなること都とことならず家のつくりさまは江戸にかわれども女男の風俗かわる事なしと遊相日記にしるしている 崋山三十九歳のときである このおり彼は邑内の風雅を愛する人たちを集めて歓談し需めに應じて厚木六勝を描いた 雨降晴雪 假屋喚渡 相河清流 菅廟驟雨 熊林暁鴉 桐堤賞月がそれで崋山来遊から百三十年 ことの忘れ去られるを慮り大略を記してのちに傳える                             厚木市長 石井忠重識
                                              武藤 實書


 ここからは、南へ相模川右岸沿いに伸びている厚木宿を通る大山街道を歩く。厚木宿は、江戸から13里離れており、北から順に上宿・中宿・下宿と三宿、合計約330戸(天宝期)の宿で、大山道のほか、平塚・八王子を結ぶ八王子道や相模川の水運等で栄えた交通・物流の要衝だったが、慶応3(1867)年と明治15(1882)年の大火で宿は焼失している。途中、右手に「すっとん漬け」の看板を見て聞くと、豚を漬けた物でご当地名物の一つだとか。

 左折すれば「相模大橋」に至る交差点を「東町郵便局前信号」で横切り、少し先を左に入った「厚木神社」に参拝する。脇道から入ってしまったが、厚木神社は、天延年間(973〜976年)創建の古社で、古くは「牛頭天王社」と称し、付近は天王森と呼ばれていたが、明治5(1872)年に「厚木神社」と改名している。社殿の前には「あつぎお大王様の地」碑があり、境内には、「(厚木下流)水神宮」や「厚木稲荷神社」もある厳かな雰囲気が漂っている。

(厚木稲荷神社前の由来解説板より)
  厚木稲荷神社の由来
厚木稲荷神社は安永6年(西暦1777年)牛頭天王社の別当智恩寺住持 法印高観(安永年代寂)が京都伏見稲荷社の分社をここに歓請したことにはじまるという
以降この地が天王町と呼ばれるようになると天王町の有志が「稲荷講中」を結成して祭祀をするようになり毎年2月の初午祭りが盛大に挙行されて来た
稲荷講の書類は講中の人達の家を持廻りとなっていたが慶応3年(1867)11月の厚木宿の大火の際焼失烏有に帰した
明治15年の大火後土蔵造りの建物として内部に社殿を祀り子供達が中に入れるものであった これも関東大震災に破壊焼失した天王町内で稲荷神社再興の議が起り全町を氏子として寄進を得て昭和7年10月30日地鎮祭 翌8年1月13日上棟式 同年2月初午祭を期して19日夜遷宮祭 20日新殿祭 21日に大祭が盛大に開催された 社殿の建築は厚木町松枝町に居住する半原の宮大工棟梁河内福賢氏によるものである
社殿建立50余年を経過してぬれ縁 玉垣等が損傷し大改修工事を施工する必要となり天王町自治会役員が中心となって改築計画を作成し天王町を中心とした有志の寄進を得て昭和59年1月着工し同年2月完成同月6日初午の日を期して遷宮式大祭を行う
社殿の建築は厚木市飯山大工落安義治 石工は当時秋元邦男氏である
以上今日までの由来を記したるものである
                      昭和59年2月初午
                        改築工事寄進者芳名


 その北側には「ある九月一日」と刻された「関東大震災碑」碑(T.12.9.2 am11:58)や「烏山藩厚木役所跡」碑が堤防側にあり、10:51、街道に戻った所には「渡邊崋山滞留の地」碑があるが、厚木神社の二軒隣が、崋山が泊まった旅籠「萬年屋」こと「古郡平兵衛屋敷」の跡である。崋山は、ここで二泊し、著名人や知識人と交流を深めた際の様子を「游相日記」に記すと共に、後に初代厚木町長になった斎藤鐘輔の懇請で厚木の景勝を「厚木六勝絵」として残している。「游相日記」には、「凡厚木の町の長さ十八丁、上三四丁は巨商居並ひ、いとにぎはしく、それより下つかたは、人の行きゝもまれらなり。」と記されている。厚木宿は約2km程あり、上宿約400mは、巨商が並ぶ賑やかさで、中宿・下宿と、寂しくなっていたようだ。

〔厚木六勝(あつぎろくしょう)〕・・・(熊野神社前の「あつぎの文化財案内板」より)
     「雨降晴雪」図 晴天の大山の雪景
     「假屋喚渡」図 呼声が聞こえる渡船場仮屋の景
     「相河清流」図 相模川の清流の景
     「菅廟驟雨」図 夕立にけむる菅公祠の天神森(現厚木中学校付近)の景
     「熊林暁鴉」図 夜明けをつげる鴉(からす)が鳴く熊野神社の森の景
     「桐堤賞月」図 月景色が美しい桐辺(きりべ)の堤の景

 「渡邊崋山滞留の地」碑は、文字は当時の厚木市長足立原茂徳(在任昭和54年2月23日〜平成7年2月22日)の書とあり、道路に向かって右側面には、「天保2年9月23日より24日に至る 旅籠萬年屋 古郡平兵衛の屋敷跡」、左側面には、「昭和60年春 厚木市制施行30周年記念 平塚信用金庫」とある。

 「烏山藩厚木役所跡」は享保13(1728)年頃、相模国内に点在した烏山藩領地統治のための代官所(通称:厚木陣屋)があった所で、維新後は町役場、税務署、市役所などにも使用され、昭和46年の庁舎移転までの250年間、地元行政機関の所在地だった。今は跡地がマンションになっている。宿はこの陣屋を中心に栄えた。また、ここ厚木宿に於いては、上宿・下宿の順が通常の京寄りを「上」とする名づけ方とは逆になっており、江戸に近い方を「上」としている点が興味深い。

 小田急線の高架を潜り、10:50「仲町バス停」先で右に入ると「宝安寺」がある「瑞雲山宝安寺」は、旅籠「萬年屋」や大山詣で栄えた豪商などの檀家が多い寺だったというが、堂塔・境内共にその感が乏しい。民権運動で有名な「黒田黙耳」(1852-1888)の墓碑があるそうだが、明治13(1880)年に厚木で国会開設を要求する自由民権運動が起こり、愛甲郡役所主席書記官だった黒田黙耳は政治学習団体の会長を務め、板垣退助の厚木遊説の折には地域での運動に尽力し、明治21年に37歳で没している。境内には、遠目にも目立つ奇怪な巨大アンテナが立っており、住職の趣味なのか「ハム」用のアンテナだそうだが、寺とハム用アンテナはアンマッチだ。

 「旭町三丁目」信号を右に行けば600m程で小田急線本厚木駅だが、愛甲石田駅を今日のゴール目標とする我々は直進する。100m先右手に木立に囲まれた「最勝寺」がある。最勝寺は、上杉謙信が再建した禅宗の寺で、境内には大きな銅製座像の子安地蔵尊があり、六角堂には閻魔座像が安置されているそうだが、正門は閉じられており、中に入れない。何らかの事情があるのだろうが、自らの存在意義を否定する愚挙と言わざるを得ない。門扉の間から六角堂を遠望してから、次に向かう。

 その先、同じく右手に「熊野神社」がある。熊野神社は、厚木村の総鎮守社だった。寛元年間(1247-1247)に熊野山領だった頃は、熊野信仰の拠り所になっていたという。曾ての境内は広く「熊野の森」と言われ、境内には樹齢450年以上、根本の幹直径3m以上の大銀杏があり、市の天然記念物に指定されている。また、渡邊崋山の「厚木六勝絵」の一つ「熊林暁鴉」は、この「熊野の森」を描いたものである。また、熊野神社の前には「あつぎの文化財獨案内板」が立っており、史跡や、渡邊崋山の「厚木六勝絵」の解説、幕末当時の厚木宿の写真等が掲示されている。ただ、往時の面影や神社特有の厳かさは皆無で「熊野」を冠した名前とは裏腹な様相だ。

 熊野神社から150m程先の白い小さなビル(接骨院・鰻屋など)を右に入ると、100m程先に天正年間(1573〜92)開基の真言宗の古刹「智音寺」がある。・・・筈だったが、暑さボケ?と、昼にはまだ早いが「早め勝負」がモットーの喉カラカラ軍団3名としては、つい昼食処探しが優先してしまい、見どころそっちのけで通り過ごし、いい昼食処が見つからない侭、はっと気づいて引き返す。境内には二基の「五輪塔を祀る祠」や「鬼子母神像を祀るお堂」や「十羅刹女を祀る碑」があるとのことだったが、「五輪塔を祀る祠」や「十羅刹女を祀る碑」は見あたらず、「鬼子母神像を祀るお堂」のみが狭い境内の片隅にあった。鬼子母神はよく見聞きするが、十羅刹女(じゅうらせつにょ)というのは、法華経陀羅尼品に登場する10人の女性の鬼神のことらしいが、自分には不案内でよく判らない。また、室町時代中期には厚木氏の館があった所で、「厚木城」と呼ばれていたというが、荘厳さ皆無で狭い境内かつ、別に高台でもないここが城跡・館跡とは信じられない。

(智音寺境内の鬼子母神横の解説板より)
  鬼子母神堂由来
智音寺境内の鬼子母神の由来を述べますと明治の初め 現在の厚木市東町二の三の所に六代目高部源兵衛という呉服豪商がおり町でも一・二を競う繁盛をしておりました。
ある夜のこと 源兵衛の夢枕に鬼子母神が現れて 十羅刹の元屋敷に鬼子母神を祀るようお告げがありました。
驚いた源兵衛は 土蔵の中にあった仏像が鬼子母神であったことから恐れおののき早速元屋敷(現あさひまち四丁目五の十一)に立派なお堂を建て鬼子母神を祀りこみ盛大に供養祭を行ったという。
その後は毎月の八日を縁日とし沢山の露天商も出て大正末期までは大変賑わったがいつか智音寺の境内に移されてからは訪れる人も少なくなりました。
この鬼子母神堂が風雪と共に破損し今にも朽ち果てようとするその哀れさに厚木南地区文化を考える会が尊像の修復と堂宇を再建のため浄財を募り完成したのがこのお堂です
                            厚木市南地区文化を考える会

 街道に戻って「下宿」バス停の前で道路を左に横切った所にある酒店の前に、「馬頭観世音碑」があるが、見た処、比較的新しい。その先の角から国道を左に入る旧道があり、そちらに入るとまた左手に鉄索に両サイドを囲まれた、先ほどの酒屋前のものより立派に見える「馬頭観世音碑」があり、分岐する二又を右に進んですぐ元の道に合流する。

 「旭町4丁目」信号を渡った右手に、先刻参拝した熊野神社前の「あつぎの文化財獨案内板」でも紹介されていた「きりんと橋」碑がある。「きりんと橋」は、厚木用水に架かっていた橋で、堤に桐が植えられていたことから「桐辺橋」(きりべばし)、のち「聖代橋」(きりんどばし)と呼ばれ、崋山の「厚木六勝」にも選ばれているが、今は用水は埋め立てられ、交差点から左前方に入る河道になっている。

 この先、街道は、「旭町4丁目」信号から左斜め前方へと再び旧道に入るのだが、新道の先に「そば」の幟を見つけ、11:39「長寿庵」に入店し昼食タイムとする。まずは麦酒二本を注文し、注いだ一杯目は一気飲みでカラカラの喉に流し込む。実に旨い。それぞれ好みの食い物を注文したが、蕎麦は細切りの腰のあるメチャ旨もので大満足する。

 12:05再スタートで元の交差点に戻り、そこから斜め左の旧道に再び歩を進める。程なく「富士見町」信号の右角に「旧平塚街道」の石柱があり、この辺りは、矢倉沢往還と八王子・平塚間を結ぶ平塚街道が重なった所らしい。

 12:13、その先、「岡田一本杉」バス停があるので、周りを見回したが、右手に小さな赤い鳥居と「御嶽神社」の祠はあるが、一本杉はない。「岡田一本杉」バス停は大山街道の右手を通っている県道601号線にもある処から推定すると、一本杉はこの中間ぐらいにあったとも考えられる。

 「岡田一本杉」バス停から300m程先の左手角に「南無馬頭観世音」と刻まれた石塔があるとのことだったが、300mを意識しないで歩いている内に、通り過ごしたと見える。「岡田」バス停先、行く手に迫ってきた東名高速道の高架の50m程手前、「矢倉沢往還」の石柱を左に入ると、左手に「岡田三嶋神社」がある。なお、もっと前に街道から左折して通用口から境内に行く道もあったが、自分ひとりだけは鳥居のある正面に回って境内に入る。古社の雰囲気充分で、境内には古木が多く、稲荷社や道祖神ほか30体もの石造物が林立している。

(あつぎの文化財獨(ひとり)案内板より)
 三島神社は岡田村の鎮守、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)である。岡田村は近世後期には上岡田・下岡田村の二村に分かれていたが、もとは一村であった(『新編相模風土記稿』)。戦時中に供出された鐘は、元禄4年(1691)村内の細野久左衛門が奉納したもので、雨乞い祈願のため伊豆国三嶋神社(静岡県三島市)を勧請(かんじょう)したという創建由緒が刻まれていた。例祭は4月第3日曜日(古くは9月29日)である。
境内には近隣に所在した石祀(せきし)が祀られている。
○本殿 一間社流造(いっけんやしろながれづくり)で、桁行(けたゆき)5.4尺の大型社殿。17世紀末から18世紀初頭の建立と推定されている。覆屋(おおいや)がないため彩色は落ちてしまっているが、もとは朱塗りだった。
○扁額(へんがく) 社殿の正面、文面4年(1821)烏山藩主大久保佐渡守忠成書。
○えがら天神社 旧所在地は旧字えがら841番地付近の水田中の塚上であった。銘文は「明治四未 正月廿五日、再建」。江戸初期に山口九兵衛が鎌倉の荏柄(えがら)天神を祀ったという。
○白山神社 「新編相模国風土記稿」に村民持ちとして記されている。銘文は「寛延二(1749)己巳年九月廿九日」。

 東名高速道路の高架の手前を右に100m程寄り道して「岡田山永昌寺」に行く。別名「鰻観音」とも呼ばれているそうで、昔、相模川の洪水の時に濁流から清水を求めて堀を上ってきた鰻がこの永昌寺に集まったというので、それ以来村人達が鰻を水神のお使いとして崇めたと伝えられている。境内には五体の地蔵が並んでいた。ただ、高速道脇で、境内の雰囲気も荘厳さはない。

(あつぎの文化財獨(ひとり)案内板より)
  永昌寺
山号は岡田山、宗派は曹洞宗で功雲寺(相模原市津久井町)の末寺である。縁起によると、当初は観音堂で、貞応(じょうおう)二年(1223)に補陀絡院(ふだらくいん)、元徳元年(1329)に桂林寺、永正17年(1520)に永昌寺に改称したという。本尊の正観音は鰻観音と呼ばれ、これは村内の鰻堀と呼ばれる堀に郡集する鰻は、本尊を礼拝しているように見えることから名付けられたという(『新編相模国風時稿』)。
○五輪塔 境内には16世紀末期頃の一石造り(いっせきづくり)の五輪塔、五輪塔の水輪、宝印篋塔(ほうきょういんとう)の基礎(反花座「かえりばなざ」)


 大山街道に戻り、東名の高架を潜った先右手の「寿永山長徳寺」にも立ち寄る(12:40)。山門を入ると美しい日本庭園が広がり、池を中心に築山や石が配され、別世界のような閑静さである。本堂が正徳元(1711)年の築で、市内の浄土真宗寺院の本堂の中では最も古く規模も大きいそうだ。

 その先、やはり右手に「法徳寺」がある。こちらは境内が狭く、先ほどの長徳寺とは対照的だが、本堂前に椎の木があり、太い蔓が幹に巻き付いていた。

 その先左手に「山口屋」というハイカラな店があり、ソフトクリームの幟が立っていたので入店し、暫しの涼をとって、13:05再出発。

 「下岡田バス停」を過ぎ、「岡田用水堀」の手前左に文化9(1812)年の銘のある供養塔を発見。、「リバーサイド(団地名)前」バス停を過ぎ、100m程で道は二又に別れるが、ここを右直進し、初めての三叉路を右折する。

 その右手角に古い「石塔」があるが、何と彫ってあるのか風化で読めない。

 右折直後、その先の「岡田」という信号のある広い道路と交差する手前の左角を入った右手に入口がわかりにくい「薬師堂(酒井寅薬師)」がある。これは、平安期に相模川の洪水で疫病が流行り、全国行脚中の「恵心僧都」という高僧がこれを知り、流木に薬師像を刻んで悪病退散を祈願して村民を救ったと言われている。その薬師堂前に、「酒井の道標」がある。頂部には「不動尊像」が載っており、前回の海老名でも見た形のものだ。すぐ近くの「酒井バス停」付近にあったのをここに移したものだとか。

 薬師堂の更に奥に「法雲寺」がある。天正年間にこの地を治めていた北条氏の重臣山角氏により再興された。境内には六地蔵や三界萬霊塔ほか多数の石造物がある。

(あつぎの文化財獨(ひとり)案内板より)
  法雲寺
山号は来迎山勝長院、宗派は浄土宗で、元は芝増上寺(東京都)の末寺である。開祖は山角次郎右衛門勝長(慶長19年<1614>卒)で、境内には山角氏代々の墓碑がある。本尊は阿弥陀如来坐像である。
○山角氏の墓 境内南側の江戸時代の宝篋印塔を含む墓地が、酒井村を領した山角の墓である。山角氏は小田原北条氏の家臣で、主家滅亡後に徳川家に仕えた。
○木造不動明王立像(神奈川県指定重要文化財) 飯出明神社の別当一重院(廃寺)の本尊の可能性が指摘されている。寄木造、彫眼(ちょうがん)、莎髻(しゃけい)、弁髪(べんぱつ)歯牙、宝剣、羂索(けんさく)など正統な像で、忿怒の表情や浅めの整然とした衣文(えもん)など藤原様式をよく備えた優品で、製作は12世紀頃とみられている。高さ95.5cm。
○痢病神社 リビョーガミサンと呼ばれ、当り日の7月4日近くの日曜日に祭りが行われている。眼病によいといわれる。
○双盤念仏(厚木市指定無形民族文化財) 双盤念仏は双盤という鉦(かね)を叩きながら、南無阿弥陀仏を念仏を長く伸ばして唱える独特の念仏で法雲寺と伝承され、檀家が講を組織し継承している。毎年お十夜に行う。
○薬師堂 虎薬師と呼ばれ、12年に1度の寅年10月10日頃に開帳され、双盤念仏が奉納される。


 街道に戻り、「岡田」・「酒井前田」両信号を渡り、その先、「新玉川」を「新宿(しんしゅく)橋」で渡ると、13:26、右手角に石仏を発見。五輪塔のようなものが寄せ集めてあり、新しい「双体道祖神」がある。

 その先、右手に「稲荷祠」や、風化で判読不能な「石造物」が二つばかりある。「小田原厚木道路」の高架下を「片平」信号で渡ると、道路は左カーブを描き、小田急線「愛甲石田駅」へと近づいて行く。。

 13:45、「玉川橋」左手前に大山道の新しい「石標」がある。玉川橋の下は暗渠になっていて見えない。玉川橋を渡った右手に愛甲宿の道標である「庚申塔」がある。享保元(1716)年の銘があり、左に「大山道」、右に「あつぎ 江戸青山」と刻まれている。周りには石仏群があり、大きな「玉川改修記念之碑」もある。

 「愛甲宿」は比較的小さな宿だったようで、立場の他、木賃宿・饅頭屋・紺屋などがあったようだ。その先、左カーブした道の右手台地に「中海山大厳寺」がある。大厳寺は、大きな民家の間の細い参道を登り、奥の石標を右に登っていく。突き当たりに「六地蔵」が並んでいて、「お地蔵さまの御真言 オンカァカァ カビサンマエィ ソワカ 七回お唱えしましょう」との張り紙がされている。高台にあるだけに眺望が大変よい。本堂に向かって左手に「秋葉大権現」があり、更に左手の上に「合同供養塔」や「無縁塔」がある。

 一旦街道に降りて、その先の右手の坂を登っていくと、タレントでもある織田無道氏が先代住職だった「西嶺山円光禅寺」がある。現在は子息が第50平次いでいる由。臨済宗建長寺派の古刹で、鎌倉建長寺の末寺。鎌倉時代の弓の名手だった愛甲三郎季隆の墓と伝えられる宝篋印塔がある寺院でもあり、下記の木板2枚が山門下に掲げられている。

西嶺山円光禅寺
宗派 円光寺派(本山)
沿革・縁起
円光寺、西嶺山と号す。
臨済宗。開山仏覚(本寺第20世 建武元年10月18日卒)
中興開山久山長公(寛文8 年2月4日卒)
本尊正観世音、脇に誓至を置(共に愛甲李隆守護仏と云伝う)
愛甲三郎李隆の位牌を安゛(文字剥落して読みがたし)

愛甲三郎李隆の歴史(成年不詳〜1213)
   愛甲三郎李隆は、愛甲庄を領した武将である。
   愛甲庄は厚木市愛甲を中心とした荘園で、その荘域は七沢・小野・愛名・船子・岡田(厚木市)を含む玉川流域に広がっていた。
   愛甲三郎は、平安時代末期武蔵国におこった武士団武蔵七党の一つである横山党の流れをくむ。
   父は山口李兼。三郎李隆は愛甲庄を領したことから、愛甲氏を名乗るようになった。


 このように、愛甲氏も、前掲の海老名氏と同様に、地名をもって氏としていたことが判った。

 また、この寺は「僧兵武術道」の看板を掲げており、道場も持っているようだが、なぜか、当寺にも「葵」の紋が唐風の山門に輝いていた。

 「宿愛甲」信号の手前右角に笠塔婆型の道標を兼ねた「庚申供養搭」があり、「右大山」と刻まれている。信号で県道604号を渡ってすぐ右折し、直ぐ先を左斜めに坂を登っていく行くと、今日のゴール予定地「愛甲石田駅」に14:09に到着する。幸いにして大山街道は駅前を通っているので、次回はこの駅から直ぐに歩き出せる。

 早速打ち上げ場所を探すが、閑散とした駅周辺には何もなく、多少は繁華な駅反対側(北側)に出て高架橋を歩いていて目にとまった「北海道」に入店し、麦酒と焼酎でお馴染みの次回以降の日程打合せも行い、「愛甲石田駅」から帰途の小田急急行列車に乗った。