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大山街道餐歩記 その8
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 2008年09月23日(火・祝) 大山街道餐歩第8回目

 【歩行起点】 (小田急線愛甲石田駅)愛甲石田駅南口9:05発
 【歩行終点】 神奈川中央交通「大山ケーブル駅」バス停13:58
 【歩行距離】 10.9km+1km
 【歩行行程】 愛甲石田駅南口~小金塚~普済寺~大悲寺~髙部屋神社・丸山城趾~道灌墓所~石倉橋~這子坂~三の鳥居~
       阿夫利神社社務所~開山堂・良弁滝~「大山ケーブル駅」バス停
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 天候上の理由で昨日から一日延引した『一応、最終回のつもりの、大山街道餐歩』のきょう、お馴染みの清水・村谷両氏と共に小田急線「愛甲石田駅」南口を9:05にスタートする。小田急線踏切を右に越えると「愛甲石田」の信号で国道246号(以下「R246」という)に合流する。R246はここから伊勢原市までほぼ一直線だが、旧道(大山街道)は途中から別れることになる。

 200m程で「子安神社」信号、続いて200m先右手の「浄心寺」に参拝する。浄心寺は、天正2(1574)年、相誉上人周貞によって開山された寺で、茅葺き屋根の素朴な山門が印象的、しかも国道の喧騒さとは対照的な雰囲気で、ご本尊は、南北朝期作の阿弥陀如来を中尊とする三尊像が祀られている。残念ながら賽銭箱が無く、合掌黙祷してきょうの三人旅の無事を祈願する。

 その先の「石田」信号で9:19にR246と別れ、左斜め前方へ入って行く。明治15年測量の地図では大山街道はもう少し先から右に回った後、現R246を左に越えているが、明治42年地形図では「石田」交差点を左折するルートに変わっている。当然、後者の道に入り、すぐ小川に架かる「土橋割地橋」を渡るが、今は何の変哲もない所である。街道はこの先「谷戸入口」バス停付近で小田急線に接近したあと登り坂になり、下った先でもう一度線路に接近すると、今度は離れながら登っていき、JA成瀬のある辺りで明治15年測量地図に載っている旧道の大山道に合流するが、我々は「谷戸入口」バス停手前左手にある「コーポセト」の直ぐ先を左折し、先ほどとは逆に小田急線を左に渡り返した先の小高い台地方向へと向かう予定である。

 その台地には、高さ36m程の所に直径45m、高さ6m程の円墳「小金塚」がある。その周溝からは4世紀末頃の朝顔形埴輪が出土しているそうで、山頂には金物を鋳る術の神様と言われる「金山彦命」を祭神としてお祀りする「小金塚神社」が建っている。

 そこで、「コーポセト」先を左折、踏切を越え、二つ目の四つ角を右折して、まず浄土真宗本願寺派の「金林山長龍寺」に立ち寄って参拝後、同寺に向かって左に回り込んで坂を登っていき、右に前日の雨で湿り気のある所を登っていくと「小金塚神社」に着く。

 「小金塚」「小金塚神社」のあとは線路方向に回り、長い石の階段を少し降りて小田急線路沿いの細道を行き、次の踏切の高架を潜って右に渡り、先述の坂を降りてきた大山道に復帰する。

 そこには、小金塚バス停の傍に古い「道標」があったが、風化が甚だしく、判読不可能だった。ここは往時「船着場」と呼ばれていたそうで、昔は海か、あるいは湖だったらしい。この辺りは相模川に続く低地で、標高は14mちょっとだそうな。そこから大山道を引き返す形で少しバック(登り)して、大山への進路に対して右手の雑木林の茂みにひっそりと佇む「道祖神」を探し回ったあげく漸く発見。古来、多くの旅人を見守ってきたことだろう。

 先ほどの「道標」に戻ってから先は逆に緩やかな登りになり、400m程で左側に「成瀬小学校」が見えてくる。更に学校の際を端まで進むと、ここで先述の北側から来た古道大山道が合流してくる。小学校端の角、右手には「不動尊」と「白金地蔵」があるとのことだったが、不動尊は見つからず、赤いおべべを着た三体の白銀地蔵に合掌する。ここが大山街道と萩野道との三叉路に当たる所で、万延元(1860)年、子宝に恵まれなかった地元の茂田半左エ門が「子育て地蔵」として建立したものだそうで、3回の移築を経て、平成8年の台風17号による倒壊後に再建された新しい地蔵尊である旨の解説板「白金地蔵縁起」が立っていた。。

 三叉路のJAいせはら成瀬支所前はT字路になっていて、右が大山街道の抜け道、左が江戸時代からの大山道で、案内書には左コース中心で載っているし、そちらの方が見所も多く、極力途中で右折・左折の立ち寄りをしたい我らは、250m程距離も短いそうなので、左コースを行くことにする。

 ガス工事と道路工事が行われている横を過ぎ、9:55に緩い坂を下り「歌川」を「歌川橋」で渡ると今度は緩い登り坂になる。「成瀬小学校入口」信号を過ぎると、登り坂の左手に古い石仏群や真新しい円形の仏取りのほほえましい「双体道祖神」が立っている。横には、時節柄彼岸花が咲き誇り、雰囲気は満点である。登り詰めると、左から来る柏尾通り大山道に突き当たり、ここを右折して「下糟屋宿」へと入って行く。厚木宿と異なり、ここでは江戸寄りが「下宿」になっている。右折直後の右手「粕屋下宿」バス停前の家は、門構えや黒板塀の立派な家がある。「糟屋宿」は、江戸から15里、柏尾通り大山道と大山道が合流する下糟屋にあり、人馬の継立が行われていた。“糟屋”は、時代によって“粕屋”とも表記され、バス停名では“粕”の字が使われている。「中宿」は無く、この先が「上宿」となる。

 バス停から100m余り先の右手、コーポ夢有樹の先を右に150m程行くと、臨済宗「千秋山普済寺」がある。開基は室町時代に関東管領だった上杉氏で、最盛期には多くの塔頭があったが今は衰退している。この寺で有名なのが本堂前庭にある高さ6m(一部欠けているが復元高7m)超という市内最大の石造物「多宝塔」である。その台座には、寄進者名がずらりと刻銘されていて、“喜捨 松前家諸士庶人一統名簿”と読める。市指定重要文化財にもなっている。これは、文化8(1811)年11代徳川家斉の時代に、幕府の命により北方防備のため東蝦夷に三官寺(伊達市の有珠善光寺・様似の等樹院・厚岸の国泰寺)が建てられたが、この塔は、その一つ、厚岸に建てられた国泰寺の五代目住職だった文道玄栄が7年間の任期を終えて糟屋の「高部屋神社」内の「神宮寺」に帰山後、北辺の地の安泰を祈願して、天保9年(1838)に建立したものである旨の解説板がある。そして、この多宝塔は、「神宮寺」が明治期の廃仏毀釈で廃寺になったため、ここ「普済寺」に移されたという経緯があるそうだ。「塔」には、「クナシリ、エトロフ、ネモロ、アツケシ、クスリ、トカチ」等の地名が刻まれ、北方領土が我が国固有の領土であることの証明ともなっている。また、この寺には、平賀源内の妻の墓もあるそうだ。多宝塔のバックには霊峰「大山」の雄姿が頂上に雲を頂きながらも勇壮に見え、「いよいよ」の感が深くなる。

 街道に戻って120~130m程先にある信号(この辺りは往時の「下糟屋宿」)を左折して、また寄り道する。坂をやはり120~130m程下って「道灌橋」で「渋田川」を渡ると、すぐ左に「大慈寺」がある。道灌の叔父が鎌倉にあった大慈寺を当地に移して住んでいた。境内にある筈の「供養塔」は、後述のとおり、非業の死を遂げた道灌の霊を慰めるべく建てられたものだそうが、残念ながら見あたらない。太田道灌といえば、江戸城築城者とか、例の“・・・みのひとつだに無きぞ悲しき”の逸話程度しか知らなかった身としては、非業の死云々とは青天の霹靂だった。

 橋の右手側には、川沿いに「太田道灌の墓(首塚)」があるので立ち寄る。広い敷地に柵に囲まれた墓地がある。「太田道灌(1432~1486)」は、扇谷上杉氏の家宰で、長禄元(1457)年、26歳で江戸城を築城している。上杉宗家の山内上杉顕定に疎まれ、主君上杉定正の居館である糟屋館(現在の伊勢原市内にあって場所は不明)で顕定の讒言を信じた定正に暗殺されたということをここで知った。こうした街道餐歩が刺激になって、帰宅後に調べてみるといろいろ勉強になることが多い。この後訪れた「上粕屋」の方にも、「道灌さんの墓」と呼ばれるものがあるほか、それ以外にも、数カ所あるとのことで、この先が楽しみである。きょうは休日でお彼岸のお中日のせいか、立ち寄る寺院やその墓地は、家族ずれの参拝者が多く、彼岸花とともにその時節を強く感じさせる。

 道灌は、幼名を鶴千代、成人後資長(または持資)と言い、仏門に帰依してから道灌と号した。本姓は源氏。室町時代の武将で武蔵国守護代。家系は清和源氏を氏祖とする摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子源広綱の子孫にあたる太田氏である。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱や長尾景春の乱で活躍した。この結果、主家扇谷上杉家は大きく勢力が増し、道灌の威望も大きくなっていく。『永享記』は道灌が人心の離れた山内家へ謀反を企てたとある。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ定正に讒言したともある。これら中傷に対し、道灌は一切弁明しなかったが、『太田道灌状』で道灌は主家の冷遇への不満を吐露し、また、万一に備え、嫡男資康を和議の人質を名目に足利成氏に預けている。文明18年7月26日(1486年8月25日)定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌はここで暗殺された。享年55歳。『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残し、自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いという、一種の予言をしたとされている。道灌の暗殺で、道灌の息・資康ほじめ扇谷上杉家に付いていた国人、地侍の多くが山内家へ走り、定正はたちまち苦境に陥り、翌長享元年(1487年)顕定と定正は決裂、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになる。やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになる・・・という具合である。

 元の街道に戻って、すぐ右手の高部屋神社に立ち寄る。元々は、現在地の西方約700mの所「弥杉」にあつたらしく、創建年代は不詳で、祭神は、住吉神→大住大明神→八幡神 大住大明神→神倭伊波禮彦命と変遷してきたようだ。鎌倉時代、源頼朝に仕え、吾妻鏡や源平盛衰記等に功名を記された地頭・糟屋有季が社殿を造営しており、天文20(1551)年に地頭・渡邊石見守が社殿を再興、天正19(1591)年に徳川家康から朱印十石の寄進を得ている。鬱蒼とした森の中に佇む拝殿は、茅葺総欅造りでなかなかの風格である。慶応元(1865)年に社殿を再興しており、現幣殿と拝殿はその時の侭だが、本殿は関東大震災で倒壊し、昭和4(1929)年に再建しているが、五間流造という珍しい造りである。また、鐘楼の銅鐘は、至徳3年(1386)製という超年代物で、流石に延喜式内社・糟屋庄27ヶ村の総鎮守として崇敬されてきただけのことはありそうだ。

 街道に戻らず、神社の奥へ歩を進め、茂った草むらをかき分けて恐る恐る道を捜し、R246に架かる橋を渡った先の「丸山城跡」に脚を伸ばす。丸山城は、平安末期から鎌倉期にかけての当地支配者で、武蔵七党の一つ「横山党」の一族である前記・糟谷有季の居館跡と言われている。別名を糟屋城とか糟屋氏館等とも言われ、鎌倉期に築城された平城で、高台だが木立で囲まれているため展望はきかない。広場の一角には、土塁跡と思われる土盛りだけが残っているそうだが、工事用の柵で広場の中には立ち入れない。立ち入った先の高台には、古い墓が林立している。高部屋神社との間を国道246号線が貫いているが、往時は神社とこことが舌状台地として地続きだったようで、架橋上から見ると、切通をR246が通っていることが一目瞭然だ。
糟屋有季は、妻が比企能員の娘だった関係で比企の乱に際して比企勢に味方して破れ、自害しており、子孫たちは後年駿河(静岡県)に移り、城は廃された。その後は上杉氏の館に近いことから、修築使用されたとも考えられているようだ。というのは、昭和60年の周辺発掘調査の結果、室町期後半の資料が多く発見され「上杉氏の城」説も有力になっているそうで、もしそうなら、先述の上杉定正による太田道灌暗殺場所だった可能性も考えられるが???

 ショートカットして滑りやすい坂道をR246に降り、10:42、その先の「下糟谷」信号(こちらの信号名=交差点名は「糟」の字)を渡って大山街道に戻る。「糟谷宿」も終わりである。この先、三叉路に「庚申塔」があり、約1km先の「咳止地蔵」まで、左手の渋田川と並行して歩くことになるのだが、庚申塔は撤去されたのか見つからなかった。右手奥に「東海大学付属病院」が大きく見えて来、途中で交差する道を右へ曲がれば同病院だ。この辺りから先は、漸くR246沿線ともおさらばで、道幅が狭くなったり、土道だったり、田舎道風だったりと、雰囲気が変わる。

 その先で、先述の「大山道の抜け道」が「東海大学付属病院」の向こう側を通って、北から大山街道に合流してくる。その先で渋田川を越えるが、ここに架かる「市米橋」の手前右に「咳止地蔵」がある。曾てこの辺りで渋田川を堰き止めて新田開発を行ったが、「堰き止め」が「咳止め」信仰に転化し、「咳止地蔵」として敬われてきたという。お地蔵への願掛けは泥で造った団子を、快癒後のお礼には本物の団子をお供えしたそうだ。

 さて、ここで渋田川を「市米橋」で渡らず、咳止地蔵横の旧道を進んだが左の県道への道が閉鎖されたのか見つからず、往復1km程余分に歩いて引き返し、先ほどの「市米橋」を渡って県道63号を右折する。先ほどは、渋田川沿いに咲き乱れる彼岸花の鮮やかな色が川面に映り、緋鯉が沢山泳いでいるように見えた。また、随所でキンモクセイの芳香が鼻腔をくすぐり、実に心地よい旧街道餐歩である。

 右手のヤマト運輸の宅急便の幟が林立する前から左斜めに入る道が見え、果樹園に囲まれた未舗装の狭い道をしばらく進んで行くと、やがて左後方からの道と合流した少し先で「峰岸団地入口」信号に出、これを渡る。ここで交差する道は「八王子大山通り」と言い、左の伊勢原宿に向かっている。

 170m程進んで給水塔の見える分岐路を左に入り、更に600m弱進むと東名高速道路と交差する。道は既に緩やかながら登り一途の道に変わっており、「大山近し」の感が濃厚だ。高速道手前の直ぐ左手の「厚木18」のプレートを貼ったトンネルを潜ると、草むらの中に「東〆引の道標」があり、「右 いヽやまみち 左 ひなたみち 七五三引村、明和九年(注:1772年)」と刻まれている。但し、「左」の字は消えてしまっている。「七五三引」は「しめひき」と読み、地名のみ成らず姓名にもなっている。ずーっと以前、「七五三松さん」という名前で「しめ」の読み方を覚えたのを思い出す。
 余談だが、この「明和9年」というのは目黒行人坂の大火等があり、語呂合わせにもなる「迷惑年」と嫌われて「安永」に改元した年である。即ち、同年2月29日昼過ぎ、江戸は目黒・行人坂の大円寺から出火した火は、強い風に煽られ、またたく間に、麻布・芝から京橋へと広がり、日本橋・神田・本郷・浅草・千住までの広範囲を全て焼失させた。加えて、午後には本郷丸山町から再び出火し、駒込・谷中・根岸など、町屋や橋、大名屋敷や神社・仏閣等も被災し、約14,700人の死者を出している。この目黒行人坂の火事は、明暦3(1657)年の「明暦の大火(振袖火事)」と、文化3(1806)年の「文化の大火(芝車坂の火事)」と共に江戸三大火の一つ「明和の大火」と呼ばれている。

 この道標を過ぎ、しばらく進むと、右が渋田川に流入する「千石堰用水」に沿った道になるが、今や外見はどぶ川に近い。上杉定正の屋敷がこの先にあった頃、有事の備えとして館の空堀に引水するための用水で、「道灌堀」とも呼ばれている由。この用水沿いにしばらく進むと、11:27に「三所石橋供養塔」に着く。これは千石堰用水に架かる三つの橋(台久保の石橋・石倉の石橋・川上の石橋)の内の、「台久保の石橋」である。この石橋を右折し、次の三叉路を左に曲がった少し先に太田道灌が開き、関東管領上杉氏の祈願寺だった曹洞宗の「洞昌院」(蟠龍山公所寺)がある。大勢のお彼岸参りの善男善女が来ている。本堂右手には見事なしだれ桜がある。その入口の「道標」には、「西 かなひ いせはら 道」「南大ひそ」等と刻まれている。その先隣りに「太田道灌の墓」がある。先刻道灌橋の架かる渋田川沿いで見たのは首塚だが、こちらは胴塚だとか。規模はなかなかのもので、暫し全員で見て回り、黙祷を捧げた。
 墓の北側にある三叉路を左折すると、道の左側に太田道灌に殉じた七人の従者を葬った「七つ塚」がある。彼ら七人の家臣は誰一人江戸城に帰らなかったそうだ。「碑」には「七人塚」とあるが地元では「七つ塚」と呼ばれているそうだ。シャクナゲ・マツ・マユミ・モミジ・ツゲ・ボケ・マキの七種類の記が得られているが、これは偶然の数の一致なのかどうか、解説文は見あたらなかった。

 その少し先「山王原公民館」の直ぐ先右手には「上粕屋神社」がある。この社は上杉館の鎮守で、天平年間(729~749)に良弁僧正が大山寺を開いた時に勧請した神社で、その古さは、樹齢600余年の大木が両側に聳える参道が如実に物語っている。元禄年間(1688~1704)には山王権現、明治初期には日枝神社になり、その後、周辺の神社を合祀して上粕屋神社になっているそうだ。境内は、大木・古木の他、各種の木々があり、いずれも記の名札が付けられ、その荘厳さ、手入れ・管理の良さは秀逸だった。ここでびっくりしたのは、「関東ふれあいの道」の道標が有ったことだ。村谷氏が特に神奈川の関東ふれあいの道はよく歩いているはずなので尋ねてみたが記憶にはないようだった。帰宅後に調べてみた処、「10番コース 太田道灌・日向薬師のみち」で、日向薬師バス停からここを経由してR246の坪ノ内バス停に至る8.5kmのルートであることが判った。

 神社から、両サイドに古木茂れる参道を通って南進し、大山街道に戻った所の街道南側(大山に向かって左手)に、「台の道標」というのがあり、「上り大山道 下り戸田道」などと刻まれ、寛政11(1799)年の銘があり、石の蛙や達磨も置かれている。

 ここで、地図に「太田神社」という刷り文字がみえたので、「台の道標」からちょっと街道を東へ戻り「太田神社」に立ち寄ったが、太田道灌とは無縁の新興宗教っぽい看板だったのでもとに引き返し、350m程行くと、道は南北の道に突き当たると同時に右後方からの道(上粕屋神社からの近道)とも合流する変速四差路に出、ここを左折(南進)して県道611号に突き当たって右折すると、直ぐに二の鳥居からくる「田村通り大山道」(「田村」は平塚市)と交差する。ここが「石倉橋」交差点で、「小田急線伊勢原駅」からバスで「大山ケーブル駅バス停」(終点)に向かうバス路線の停留所も傍にある。過去に何度かバスで通った道だが、歩いて通るのはもちろん最初で最後だろう。ここから先、歩道のない道になり、次の「石倉」交差点までは分離白線は引かれているものの交通量が多く、注意が肝要だ。ライトアップもあるらしい紅葉シーズンには、この道は車の数珠つなぎになる道だそうだ。

 その石倉橋交差点のちょっと手前左手に「山蕎麦」の大看板の架かった蕎麦・手打ち饂飩の店があったので、漸く空きっ腹を癒せるとばかり喜んで入店。まずは「麦酒二本」と注文すると、ドライバーと間違えられたのかどうか、「歩き」であることを厳しくチェックされたのには驚いた。ウリと見える「山そば」を注文すると、小鉢三つにたっぷり蕎麦を入れ、トロロ・大根おろし・山菜の三種乗せの器を山形の△に置いた蕎麦と判ったのにも驚いたが、その量たるや特大盛りもいいところで、他の客が注文した天ざるや冷やしたぬきそばも半端な量じゃない特大もので、我ら一同二度びっくり。清水・村谷両氏は何とか食べきったようだが、ダイエット心掛け中の小生は無理しても食べきれなかった。味は・・・、麦酒が渇いた喉に秀逸だった。

 12:32再出発。「石倉橋」信号の先右手に大きな「石倉橋の道標」がある。「右 い世原 田むら 江乃島道」「左 戸田 あつぎ 青山道」「此方はたの道」「此方ひらつか道」と刻まれ、ここで蓑毛・日向越えの大山道を除いた各地からの大山道がここで合流するポイント箇所だ。他にも「地蔵尊」や「庚申塔」等が数基ある。また、以前は不動堂もあり、木像「腰掛不動尊」が祀られていた由である。

 大山街道のルートは,当然各地のから参詣したのでいくつもルートがあって当然だが、主な大山道だけでも20コースぐらいある。その中のメインが、今歩いている江戸城赤坂御門からスタートする「青山通大山道(矢倉沢往還)」だが、そのほかには、「田村通大山道」「柏尾通大山道」「八王子通大山道」「府中通大山道」「ふじ大山道」「武蔵秩父日高・飯能道」「武蔵秩父大宮道」「津久井大山道」「甲州街道浅川口大山道」「甲州街道吉野宿からの大山道」「粕屋通大山道」「中原豊田通大山道」「矢崎通大山道」「伊勢原通大山道」「六本松通大山道」「羽根尾通大山道」「二ノ宮通大山道」「蓑毛通大山道」ほかがある。

 前方に大山が見える狭い車道を緩やかに登って行くと、三叉路の「石倉」交差点に出、右折する道は旧日向村(現伊勢原市)に通ずる新道なので、大半の車はここを右折し、この先急に歩きやすくなるそうだが、たまたまかどうか、後方からの車は皆直進して行く。小易集落に入ると右手駐車場裏に「石倉神社」がある。

 そのまま直進し、標高100m程になってきた右手の「上粕屋比々多神社」に参拝。境内の古木が天平年間(729~49)創建の歴史を物語っている。安産守護の神「子易明神」とも言われて崇められている由であるが、その祈願方法というのが一風変わっていて、拝殿前の柱を削って飲むと安産できると信じられていたそうで、今は、削らないようにとの注意書きと同時に鉄骨と針金を柱に巻き付けて保護してあり、安産祈願の必死さを物語っている。。歌川国経の美人図絵馬が拝殿に飾られ、拝殿外側(軒下)には、大山講中が奉納のお札が沢山掲げられている。

 比々多神社のすぐ先右手に古い茅葺き屋根の家があり手前を右に100m程入ると急坂になり、坂を曲がった右手に「地蔵堂」、その直ぐ先に「宗源寺」があるが、相談の結果、急坂かつ遠方につき省略することにして街道へ引き返す。行けば、境内は高台なので見晴らしが良いらしいが・・・

 その先の千歳橋から更に進むと、変則な十字路の右手に「一道山地蔵院易往寺」がある。気をつけていないと通り過ぎてしまいそうだ。元慶3(879)年の大地震で大山寺の殆どの堂宇が潰滅し、早急な再興が困難と判断した当時の大山寺別当四世弁真上人が、やむなく当地にこの寺を建立し、ここに移ったそうだ。

 道は寺の前を直進しているが、大山街道は「地蔵院易往寺」の手前を左に入って行く旧道に進んで行く。漸く車への気遣いから解放される。右に曲がる左角に児童館や先ほどと同名の閑散とした「比々多神社」がある。

 ここを右折すると、その先、「這子坂」という急な登り坂になる。昭和初期に県道が整備される迄の大山道の旧道で、這って登るほど急な坂だったという処から付けられた名前だが、時代が変わった故か、それほどでも無い。昔は赤ん坊が這っている時に鷲にさらわれたという言い伝えも残っているそうで、昔は恐れられた所のようだ。

 坂の中腹過ぎ左側に「地蔵尊」と「水神」が祀られている。車の心配が無い「這子坂」の旧道も300m程で終わり、再び車の通る道に出ると、「菊屋前」バス停、右手に「JAいせはら大山支所」と続き、その隣には「大山農民具館」などがある。家族連れがバス待ちしている「子易」バス停の先に左折可能な三叉路があり、車は大体ここで左折して新道に入るようで、我らは大分歩きやすくなるが、バス停は旧道なので路線バスのみは狭くて急な坂道を運転技術を駆使して通っていく。

 この辺りから勾配が急になり、村谷氏が先頭にたつようになる。両側の山もどんどん接近してくる。両側の落ち着いた民家の間を高度を上げながら登っていくと左手に「諏訪神社」があり、大きなご神木がある。

 間もなく、標高180m地点にある「三の鳥居」にさしかかる。裏側に解説板が貼り付けられている。

  大山参道三の鳥居

天保十五年武州所沢の阿波屋善兵衛が創建し、大正十年江戸消防せ組が再建したが老朽化のため、日本鋼管(株)の開発した耐候性鋼板で建立

                      昭和六十一年十二月吉日
                                 宮司 目黒修一


 江戸の火消しとくれば、「下鶴間宿」の「まんじゅうや(土屋家)」に天保11年の「大山く組」という看板が残っていて、江戸の町火消し「く組」が大山参詣の定宿になっていたと書かれていた筈だ。

 「三の鳥居」から先が門前町になり、いろいろな名前の「坊」・「宿坊」・「先導師」の看板が掲げられているが、「先導師」という名称は初めて知った。奥多摩の御岳山では「御師(おし)」と称していたが・・・。大山先導師会旅館組合青年部発行の「大山を知ってください」によれば、先導師とは先導する御師のことだそうだから、当地特有の呼び方と思われる。左右には、そういった先導師旅館が結構目立つようになる。「三の鳥居」の直ぐ先にある「二つ橋」には往時「高札場」があったそうだ。

 「三の鳥居」から300m程先で、左に曲がる「新玉橋」で「鈴川」を渡ると、左からの道と合流し、すぐ右折する。合流前・合流後、共に県道611号である。この角にあった店でアイス休憩後、右折して200m程先で再び右折し、「加寿美橋」で「鈴川」を渡って左カーブして行く。「加寿美橋」は大変立派な橋で上流側は立派な滝が見える。やがて右手に「阿夫利神社社務局」(標高220m)があり、大楠の木や能舞台がある。毎年8月27~29日、阿夫利神社の本社から祭神の大山祗大神を迎え、「秋季例大祭」が行われたり、10月には「火祭薪能」が開催される。通りにはそのポスターが大々的に貼られている。

 13:45、右に「愛宕滝」を見ると、再び「愛宕橋」を渡って鈴川の左側の道に出る。元滝、良弁滝、大滝と並ぶ「禊滝」の一つである。400m程で「良弁滝前」バス停に達するが、この間、右側には「大山豆腐」で名高い豆腐屋や旅館など観光業が並んでいる。とある一軒の店前で観光客らしいご婦人が2人ペットボトルに流れ落ちる清水を汲んでいるので、われらも立ち寄り冷水を口にしたり、ペットボトルに入れたりする。バス停から右の新道に入り「日の出橋」を渡って「開山堂」に出る。

 「開山堂」は、大山を開いた「良弁僧正」縁の御堂で、堂内正面に43歳当時の「良弁僧正坐像」、右に「赤子を抱く猿像」、左に「姥大日如来像」が安置されている。「良弁僧正」は相模國生まれで、奈良東大寺の初代別当だった人物である。
「開山堂」の奥には、「良弁滝」(標高280m)がある。良弁僧正が天平勝宝7(755)年に入山後、最初に水行を行った場所だとか。

 開山堂前を右に少し入り込むと「権田公園」があり、大山復興に尽力した「権田直助」の墓があるらしいが省略し、更に急坂を登っていく。坂の傾斜は、例えば高尾山の一号路よりも緩やかではあるが、延々とした坂であり、一日の後半でもあり、加えて鍛錬不足の身にとっては楽とは強がれない。

 我らの曾ての「大山阿夫利神社上社」参拝登山の出発点であり、伊勢原駅からのバスの終点である「大山ケーブル駅」バス停に漸く13:58に到着。思いの外早かったが、14:02発のバス便があるので乗車し、今「大山街道」餐歩を「ひとまず」完了させることとした。昨今山歩が遠くなってからはバス共通券を使う機会が減り、カード残高は一向に減らないが、京はそのカードを有効活用できる。はるか昔、5000円で5850円分買った残高が、伊勢原駅まで乗ってまだ1980円残っているとは嬉しいような、寂しいような複雑な心境ではある。伊勢原駅到着後は、東急の上にある「そば酒房 蕎麦の華」で打ち上げ、10月から開始予定の「中山道歩き」、11月から開始予定の「日光街道歩き」、あるいは目前に迫った「東海道歩き続編」などについて花を咲かせた。

 なお、先ほど「良弁滝前」バス停から右の「日の出橋」を渡ったが、バス停から左の旧道を進めば「豆腐坂」になる。江戸時代から真夏の暑いさなか、大山参詣の講中が奴豆腐を掌に載せ、歩きながら食べて喉を潤したことから「豆腐坂」と言われるようになったとか。この坂を行けば、左手に縁結びと学問の神様を祀る「諏訪神社」がある。帰途、バスの車窓からその豆腐坂からの合流点を覗き見たが、凄い急坂だった。

 ところで、大山街道歩きを「ひとまず完了」としたのは、ホームページの大山街道の「はじめに」でも書いたとおり、過去、大山(上社=山頂=標高1251.7m)には、山仲間と3回ほど登頂参拝済みであり、それ以前にも、下社まで妻と1回行っていることを理由に、要するに「重複回避」することにした。その山仲間との3回とは、「はじめに」の項で既述のとおり、下記ルートでだった。

(1) H.15.07.27(日)伊勢原駅BT==(バス)==大山ケーブル駅BS(H=310m)---ケーブル追分駅脇(H=400m)---大山阿夫利神社下社(H=700m)---同上社(山頂・H=1252m)---蓑毛越---蓑毛BS(310m)===秦野駅BT

(2) H.15.12.27(土)秦野駅==(バス)==ヤビツ峠BS(H=761m)---大山阿夫利神社上社(H=1252m)~見晴台(H=770m)--九十九曲入口--白髭神社--日向薬師BS(H=150m)==(バス)==伊勢原駅北口BT

(3) H.16.04.18(日) (1)と同ルート

 ただ、山仲間と登った「山歩」時と、今回の「餐歩」時とは根本的に歩く上での「眼」・「視点」・「スタンス」といったものがかなり異なっているので、自分のキャラからして“今シリーズ”における最終区間としてきっちり歩き直しておきたくなる予感もしている。従って、その時は大山ケーブル駅バス停から山頂(上社)まで歩くことになろう。

 なお、ここで前々から不思議に思っていることが一つある。
 ケーブルの下側の駅「追分駅」は距離にしてまだ500m以上、標高でも90m程も山頂方向なのに、なぜここが「大山ケーブル駅」バス停と称するのか? また、通り過ぎし麓方向にも「大山駅」バス停があったが、なぜ「大山駅」なる名前なのか? この辺が、実は以前から自分の中で不思議でならない疑問なのだが・・・バス会社(神奈川中央交通)に訊けば氷解するのだろうか? もしかして往時のケーブル路線の敷設距離が現在と異なっていたのだろうか? そうだとすれば、ケーブルカーの運行会社(大山観光電鉄)に訊けば良いのだろうか?・・・等と。

 なお、営業キロ数0.8km、高低差278mを6分で結んでいる大山ケーブルの駅名(下から順に、追分・不動前・下社)は、2008.10.1から3駅全てが「下から順に、大山ケーブル・大山寺・阿夫利神社」と改称予定になっているのをホームページで知った。

             (大山街道 ひとまず 「完」 ということに・・・)