Top Page
大山街道餐歩記 その5
Back
Next
 2008年8月7日(木)大山街道餐歩第5回目

【歩行起点】 東急田園都市線長津田駅 9:15発
【歩行終点】 (大和市)大和斎場入口信号(→相鉄線相模大塚駅)
【歩行距離】 9.6km
【歩行行程】 長津田駅〜駅南口入口信号〜大石神社〜陸軍殉職の碑〜馬の背〜こうま公園〜町田市辻〜日枝神社〜五貫目道祖神〜阿夫利神社御分霊社〜下鶴間ふるさと館〜山王神社〜鶴間駅〜大和斎場入口信号〜(以下進路間違い)〜相鉄線相模大塚駅
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 長津田駅で村谷氏と9:30の待ち合わせで、9:07頃到着。村谷氏も既に到着済みで、早速資料に基づき打ち合わせの上、9:15スタートする。前回の街道終点だった「駅南口入口」信号に出る迄の左手に火伏観音のある「随流院」があるが、保育園兼営の関係でか、警備上の理由で参拝手続が面倒らしいので、立ち寄らずに先へ進み、駅南口入口信号を右折すると、すぐ登り坂が始まる。この道は旧の国道246号で、商店や民家が散在している。

 250m程先で二差路になるが、右道の右手コンビニ(ファミリーマート)の先の右の細い山坂道へ入っていく。段々急傾斜になるが、朝一番で元気な2人にはどうと言うこともないし、すぐに頂上にある神社が上の方に見え始め、半分ほっとし、半分物足りない感もするが、これが「大石神社」への女坂だと言うから、男坂が楽しみ?だ。

 途中、9:37、社殿手前の左に「長津田宿常夜燈(二基)−上宿」がある。天保14(1843)年に宿中秋葉山講中が建立したもので、総高240cmだ。この常夜灯は、最初は女坂麓右側の小高い所に設置され、昭和29年大山街道拡幅・整備の際に旧道・新道が分岐する長津田町2760番地に移され、昭和62年現在地(長津田町2322-1)に移転してきた由。隣立する「地神塔」は常夜灯の翌年建立のもので、春分・秋分に近い戊(つちのえ)の日に作物の神様である地神様を祀る講をもって豊作祈願したもので、明治期に盛んになったそうだ。また、案内板によれば、もう一基が同じ緑区長津田町5丁目1652-1にある由で、こちらの方は総高210cm、文化14(1817)年に宿中の大山講中が建立の由である。

 閑静な坂を登り切ると辺りが開けてきて、二本の大きな古木の奥に長津田の鎮守「大石神社」がある。9:40、本日一番の参拝で賽銭を入れ、2礼2拍手1礼の上、本日の歩き旅の無事を祈願する。祭神には大石神・神明神等を祀り、在原業平が祭神との言い伝えもある由で、御神体は楕円形の自然石だと案内板に書かれている。その由来にまつわる話として、次のような伝説がある。

 業平とその恋人が恋敵から逃れるべく東国へ来、今の大石神社辺りに立ち寄ったところ、追ってきた恋敵が放った火で辺り一面火の海となり、焼け野ヶ原と化した。焼け跡には二人の遺体はなく、ただ大きな石が残っていて、これが大石神社のご神体であり業平の化身であるとされている、というものだ。この神社境内からは、縄文土器や石器が出土していて、一万年以上昔から長津田に人が住んでいたことを示しているという。

 大石神社から、まっすぐ下の道へと石段が続いており、これが先ほどの坂(女坂)に対する「男坂」のようだが、距離は全く大したことはない。この石段は下を横切る自動車道が昭和29年拡幅整備された際に出来た新道へ繋がっているが、旧道は更にその下を通っていたことは詳細地図で見れば明らかで、本来はもっともっと下の方へ延々と続いていた故の「男坂」なるネーミングと推察される。。

 石段下の「小学校入口」信号からは再び右前方の旧道へと登って行く。長津田小学校前方面へ行き、間もなく分岐を左の砂利道に進むと、右手が小学校の行程を支える石壁、左は竹林・雑木林になっている。小さな石段で下の道に出、右へ行ってまた石段を下る。いつもそうだが、こういった昔ながらの道が一番ほっとする。旧道信号機付きの十字路に出たら、再び元の拡幅された自動車道で、右の下鶴間方面へと進む。その先左の高台には横浜田園都市病院が見える。

 さて、「長津田」信号で国道246号(以下R246という)に合流し、横断陸橋で広い幹線道路の左側に出る。緩い登りから今度は下り坂になる。その先の「つくし野」信号の手前、左手マクドナルドの店の裏側に旧道があり、ドライブスルーの入口から左に道が通じている。すぐR246に出る。面白いことに、この迂回部分は東京都町田市域である。その先の駅「すずかけ台」も町田市だ。
 二又を少し左に入った植え込みに隠れるように「陸軍殉難の碑」がある筈だが見落として、200m位奥の林道の方まで入り込んだが、こんな筈はないと思い直し、バックしてきたら漸くひっそりと草場の中に立つ碑を発見した。公用中事故に遭った同僚を、自己を犠牲にして助けた小川勝美陸軍輜重兵曹長を弔うべく、旧陸軍士官学校有志が昭和14(1939)年に建てた供養碑であるが、かなり風化していて、石碑の文字もかなり読み取りづらい。

 旧道はここから右に曲がって国道246号を渡り、その先左に曲がった所にある馬の背に向うべきところだが、横断歩道がないので少し長津田方面に戻り、横断陸橋で渡って馬の背へと向かえと案内書にはあるが、われら2人はまだ血の気たっぷりで左右の車の合間を見てショートカット横断してしまう。
 R246の反対側に出て、「馬の背」と呼ばれる急坂を登って行く。左折すると右手に視界が広がる。地形が馬の背に似ていて、左右に低くなっている尾根を大山道が通っていたことから「馬の背」という地名になったそうだ。右下には東急田園都市線が走り、西北の町田方面の景色がよく見える。

 その先から下り坂になり、再びR246に合流すると程なく右へ下る道があり、田園都市線に跨る「馬の背橋」方面へと進む。橋を渡れば、その下が東急田園都市線「すずかけ台」駅だが、直進して坂をひと登りすると、すぐ右手に「南つくし野こうま公園」がある。三頭の白馬の親仔の可愛らしい像がほほえましい。その先で、R246号に合流すると、歩道橋で道の左側に渡る。R246は緩やかな下り坂だ。

 400m程先の立体交差の左にある「ふか草」という旅館の看板を左折し、更にすぐ左折すると駐車場横に古い「地蔵堂」があり、隣には「道祖神」がある。地蔵堂の扉を開け、お地蔵様の写真を撮らせて戴いた上謹んで合掌する。説明板によれば元文5(1740)年の建立で、「願いを何でも聞いてくださる」というので崇敬されてきた由。昭和28年にR246拡幅に伴い100m東側のこの地に移された由で、平成5年12月に祠が改修されている。

 元の街道に戻って道路の反対側の郵便局前にも「町田道祖神」と呼ばれるものがあるそうだが、すぐ先の「町田市辻」信号で、R246が町田街道と立体交差する関係で道の向こう側が見えないためパスすることにした。この北東からのR246と「町田市辻」信号で交わる南東への町田街道の東側が横浜市緑区、その反対側が東京都町田市である。

 次の「東名入口」を右折すると東急田園都市線の南町田駅だが、その100m位手前の長津田辻バス停辺りから左前方への旧道に入る。「大和バイパス」や「横浜水道道路」を越えていくと、右後方から来る鎌倉街道との交差点に(10:59)「大ヶ谷戸庚申塔」がある。庚申塔の字は読めるが、「つるま」と書かれているという文字は読み切れない。文久3(1863)年の銘があり、左右には一基ずつの石灯籠がある。鎌倉街道は、別名「戸塚道」とも言い、ここから左前方へと延びている。その昔「大ヶ谷宿」と呼ばれていた宿兼営の地域だったらしい。

 緩い下り坂を降りていくと、セブンイレブンの斜め前、左手、火の見櫓の立つ町田市消防団第二分団の傍に「日枝神社」があり、その少し先には右手に「圓成寺」がある。日枝神社は鳥居は目立つが奥の社殿は消防の建物の後ろに半分隠れるような感じで、木々もなく、殺風景で全くかまわれていない感じだ。参拝者もいないのではないかと思われるような、厳粛さ皆無の外見の神社だった。

 一方、圓成寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、16世紀後半の天正年代には創立していたといわれ、木造聖徳太子像は、室町時代後期の作で町田市指定文化財だ。境内に入ると大きな鐘楼と、見事な桜の木(推定樹齢560年)が出迎えてくれる。圓成寺は、天正年間(1573〜1592)の創立と伝えられ、元小田原北条家の侍だった了雲の開基だと伝えられている。座高52.2cmの聖徳太子立像写真入りの説明板もある。

 目黒信号手前左手に「五貫目道祖神」がある。案内板には「五貫目道祖神は、徳川中期に旧青山街道(旧国道246号・別名大山街道)の現所在地より約300m西方境川鶴瀬橋手前に祀られ、北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方分離点として旅人の道標としての役を果たした道祖神です。」と書かれ、安政3(1856)年丙辰8月と印され、2代目道祖神と言い伝えられている。側面に「天下泰平 五穀成就」と刻まれているが、五貫目地区住民の無事息災・五穀豊穣の願いの表れだ。国道246号大和バイパス開通に伴い現在地に移転している。「右大山道 左江戸道」と書かれている。

 ここから右手に移り、右斜め前方への旧道に入り、「境川」を鶴瀬橋で渡る。境川は、その名のとおり、武蔵国と相模国の国境で、現在も都県境だ。

 境川を渡ると右手に「観音寺」がある。観音寺は、高野山真言宗のお寺で、「武相卯歳観音」第1番札所、拝殿にある厨子は大和市指定文化財だ。境内の銀杏の大木が見事だ。
 「武相観音霊場」というのは、武蔵・相模両国に広がる歴史のある観音霊場で、江戸時代の宝暦9(1759)年卯歳に創設されたので武相卯歳観音霊場と呼ばれている。武蔵国と相模国では、古くから観音信仰が広まっており、観音さまが沢山祀られている。中でも、霊験あらたかな観音さまが札所に定められ、江戸時代から地域の人々の信仰を集めてきたという。該当する観音様は、神奈川県大和市・横浜市緑区・相模原市・津久井郡城山町・東京都町田市・多摩市・日野市・八王子市に分布している。わが多摩市内にも、自宅マンション近くに「せきど観音」がある。

鶴間山観音寺縁起 (観音寺内案内石板)
 当山は高野山真言宗で、中興開山頼満和尚は慶長13年(1608)に入寂、その昔金亀坊をいわれたが、開山・開祖は不詳である。市指定重要文化財の厨子は天文13年(1544)造で、室町時代の様式を伝える貴重なものであるが、創建を知る手掛かりになるのであろうか。
 本尊11面観世音菩薩は寺伝によると、宝暦年間(1751〜63)住職宥仁和尚と同様、瀬谷村中屋敷高橋是右衛門にも、この家に伝わる11面観世音菩薩霊夢に立たれ、当山に奉安せよとのお告げがあった。深見村の小林九兵衛はこの勧請を扶け、又下鶴間村領主で旗本の江原公の協力も得て観音堂を新築し安置された。後大火により地域一帯が焼失したが、観音堂だけが難を免れた。村人はその奇瑞に驚き、以後この11面観世音菩薩を本尊と仰ぎ、寺号を今の観音寺に改めたといわれる。しかし宝暦より前に観音寺の記述が古文書に見られる。古老の話では以前は、地蔵菩薩が本尊で真言院といわれたという。
 建武5年と延文2年の板碑があるが、新編相模風土記稿に履歴を伝えずと記されている。辨天堂に江原公奉納の辨財天や15童子などまつられ、当時の堂宇も江原公や村内巳待講中が施主であった。
宝暦9年(1759)武蔵・相模に武相観音札所が創設され、その第1番となり以来卯歳には御開扉供養一斉に厳修される。

 八王子街道を越えて直ぐのコンビニで涼をとり、その先の右手で漸く「赤い鳥居の大山阿夫利神社御分霊社」に着く。大山詣の我々にとって、とても大事なポイント地点である。心理的には、“大山近し”の思いが感じられるが、街道に面した「相洲鶴間村宿」の石標には「是より西大山七里」「是より東江戸十里」とある。
 境内には、「金運・長命 大國主大神、出世 太閤豊臣秀吉公霊」が祀られ、「お金に困らない財布なぜ清めの大黒天金運生の由来として、江戸方面の旅人等は当地に一夜を明かし、又は休み、わらじを取り替えて身を清め関東の霊山大山阿夫利神社の参拝路の行にはかならず財布をなぜ清めて金運にあやかるように祈願していた」とある。

 また、境内には「南朝忠臣新田氏縁の家」高下宗家の説明碑や、「新田義貞軍鎌倉進撃路」の説明板もある。高下宗家は、鎌倉時代以前から在住した鶴間村最古の歴史を誇ると書かれている一方で鎌倉末期の元弘3年(1333)鎌倉攻めを行った新田義貞公の流れを汲む当地の豪族だったと書かれている。新田義貞軍鎌倉進撃路の地図看板で、「鎌倉街道上の道」が北から一直線に鎌倉につながっていたのが一目瞭然だ。

 目黒川を渡ると登り坂がきつくなる。すぐ先の左手には、下鶴間宿の十字路角の旧家「小倉家」の前に高札場跡が復元されている。三本の考察が復元されているが、高札は奈良時代から江戸時代まで布告・禁令告知手段として利用され、明治6年迄続いたが、明治政府は慶応4(1868)年に旧幕府の高札を撤去し、新政府の定めた「五榜の掲示」を掲げた。ここには、
<右>慶応4年の太政官高札・・・徒党・強訴・逃散の禁止と、その発見通報者への褒美
<中>慶応4年の太政官高札・・・切支丹の禁止
<左>明治3年の太政官高札・・・火付・盗賊・人殺・贋札作り者の通報
についてものである。

 高札場跡の路地を左に入っていくと旧家小倉家を利用した「下鶴間ふるさと館」の入口がある。その前に明治4年頃の下鶴間宿の写真があり、その古風さに一昔前の田舎風景も「あっ」と驚きそうな古風さが感じられ、思わず感動してしまう。安政3(1856)年築の旧小倉家母屋(商家建築)、大正7(1918)年再建(前身建物の古材利用)の旧小倉家土蔵(一般的に袖蔵と呼ばれる商品保管庫)、管理棟からなっており、「下鶴間ふるさと館」には男女各一人の管理員が常駐して、われら旅人に諸サービスを提供してくれる。戴いた冷たい麦茶の味は炎天下を歩く旅人には誠に甘露だった。

 街道に戻った先の右手に石段があり、脇に「下鶴間不動尊」の大きな看板塔が立ち、石段反対側に「不動明王像」が見えるが、かなり傷んでいる感じだ。石段上の「鶴林寺」への参拝は失敬したが、村谷氏共々四国霊場の「お鶴さん」こと20番鶴林寺を思い出し、次の21番太龍寺とセットで、12番焼山寺に続く二つ目の「遍路転がし」と呼ばれる難所だったことを懐かしむ。

その先、坂を登った右手角に「まんじゅう屋跡」があり、今はその説明板が立っているのみだが、弟子の高木梧庵と共に渡辺崋山が天保2(1831)年、崋山39歳の秋に投宿し、その時の様子が「游相日記」に記述されているそうだ。

 やがて、右手に「坂上厄除地蔵尊」がある。道標をも兼ねており、「左大山道 右ざまみち」とある

 滝山街道との交差点の右手には「日枝神社」がある。かなり古い庚申塔や青面金剛立像が殺風景な境内に安置されている。また、「東西 矢倉沢往還 南北 滝山街道」の真新しい立派な石標もあり、矢倉沢往還の説明文が側面に刻まれている。滝山街道は、青梅市の友田交差点から八王子市の左入町交差点までだと思っていたが、古道はこの地点も通っていたらしい。鎌倉期からのものらしい。

 左手に山王原公園を見ながら、緩やかな登り道を進んでいくが、この辺りは何も見るべきものがない。小田急江ノ島線の鶴間駅の手前右手に、大山街道の説明板を見て、延々暑さに耐えながら歩く。暑さボケのせいか、集中力が2人とも途切れていたと見え、その先の「大和斎場入口」交差点で右に行くべきなのに直進してしまった。(帰宅後判明)

 その結果は、R246にぶつかって右手の「ひばりが丘高校前」信号まで迂回して横断しければならないのに、最近出来た信号と横断歩道だと錯覚して難なく渡り、相鉄線の踏切を渡った所で、「どうもおかしい」と気づいたが、この踏切が実際には「相模大塚駅」東側の旧246号の踏切なのに、「さがみ野駅」東側の大山街道と勘違いしてしまい、「とにかく、さがみ野駅へ行こう」と引き返して途中から駅への近道を通ったつもりで「相模大塚駅」(実際にはさがみ野駅に着いたと錯覚)に着き、駅名も確かめずに電車で「海老名駅」へと向かった。というのは、実は餐歩&山歩仲間の清水氏が海老名在住で、予定を早めて海老名駅で合流する予定だったのである。

 ところが、発車した電車の最初に着いた駅名が、乗車した駅名の筈の「さがみ野駅」との車内放送に2人共々一瞬「あっ?」と放心状態になる。狐か狸に化かされたような感じで道間違い=駅間違いをしていたことにまだ気づかず、???状態での海老名駅到着&清水氏との再会となった。

 帰宅後、地図で調べてみて漸く前記地点で進路を誤ったことに気づいたという、お粗末の一席となった次第である。清水氏とは、3人で久方ぶりに冷たい麦酒から始まって焼酎ロックをダイエットつまみで楽しみつつ歓談し、次回は3人での大山街道歩きを楽しむことを約して清水氏と別れ、登戸駅で村谷氏と別れてわが家に向かった。