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大山街道餐歩記 その4
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 2008年7月21日(月・祝)大山街道餐歩第4回目

【歩行起点】 東急田園都市線江田駅 9:23発
【歩行終点】 東急田園都市線長津田駅 約13:00着 (昼食時間・途中休憩・旧跡等の立ち寄り時間を総て含む)
【歩行距離】 7.8km
【歩行行程】 江田駅〜市ヶ尾竹下地蔵堂〜医薬神社〜粕屋家の宝筐印塔〜片町地蔵堂〜大林寺〜長津田駅
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  熱射病予防のため、途中で中断した前回の残り部分を歩くべく、前回同様、9:30江田駅改札口で村谷氏と待ち合わせるべく自宅を出発。
  せっかち人間の欠点顕わに、9:07には到着。これまた早めが信条の村谷氏と9:20には江田駅北口をスタート。東急田園都市線のガードを潜り線路向こう側の国道246号(以下R246という)に出る。100m程で再びガードを潜り返し線路北側の緩い登り坂の道を500m弱進み、二差路を右に入って行く。元々はR246の南東側をふくらむような弧を描いて通っていたが、その旧道が無くなった今日、やむを得ない。

  緩やかな坂を登り、旧道に気づいて20mばかり右後方へ引き返すと「長谷第一公園」、その先の「市ヶ尾小南側」信号で二差路を右にとると、右手高台に江戸中期建立の立派な「市ヶ尾竹下地蔵堂」があり、本日の一枚目をパチリ。建物自体が想像していた規模を遙かに超える立派なものだったが、千日の托鉢で建立したので「千日堂」とも呼ばれているそうだ。石段下には「庚申塔」・「地蔵尊」ほかの石造物が林立し、地蔵前にはそれぞれ供物がおかれる等、地元の人々の尊崇ぶりが窺える。地蔵堂右手には赤鳥居の神社があり、その前にも石仏群が並んでいる。

  「地蔵堂下」信号から100m位進むと駐車場の傍を左に曲がり、「猿田坂」という名の坂を緩やかに下る。「猿」は「去る」に通じるため嫁入り行列はこの坂の通行を避けたという。坂を下った右手に、200年ほど前に先ほどの罹病した地蔵堂の統誉上人が他人への伝染を恐れて崖に掘った穴で入定したと伝えられる「入定怐vと呼ばれる碑があるということだったが、道標なき旧道のこととて一本先の道を曲がったらしく、発見できなかった。

  坂を下ると日野往還との交差点があり、左手に2階建の旧旅籠の「綿屋」が昔ながらの姿で佇んでいる。明治15年頃の建物で明治末期まで営業していたという。斜め向かいの角には茶屋兼旅籠の「石橋屋」と「小石橋屋」(明治15年消失)というのももあったそうだ。この辺りは「竹の下下宿」という小さな宿場だった。

  青葉区の「総合庁舎入口」を左折した先で谷本川(鶴見川)を渡る。ここに架かる意外に小さな「川間橋」は、昔はもう少し下流にあり、利用者から三文の渡り賃を取った処から「三文橋」とも呼ばれていたそうだ。渡邊崋山の「游相日記」にも「橋あり銭とりて渡す。もののふはあつからす。」とある由。旧街道歩きで知った各地の渡船料などもそうだったが、武士は概ねこの種の料金は無料だったようで、現代感覚では納得できない感じがする。この橋は、葛飾北斎の浮世絵「大山道」にも描かれている。橋の渡り賃が有料だった理由は、江戸期末頃「川間吉兵衛」なる人物が私費で架橋した橋だったからだそうだ。

  川間橋の先、左手は「大難の辻」と呼ばれた急坂道で、昔は大雨毎に崖崩れが起き、田畑も土砂でに没したそうだが、今や、見た限りでは信じられない変わり様で、どこがそうだったのやら確認し逃した感じで、その先の十字路右手の民家の庭にあるという「一里榎」(昭和47年に区画整理で移植された樹齢600年以上の木の由)も、右に分岐するところを通り過ぎてしまったため、確認できなかったが、明治3(1870)年の火災で、幹の一部に空洞部分がある由。つい甲州道中歩きの時に見た笹子峠の「矢立の杉」を思い出してしまう。

  そんな訳で、三角形の二辺を行くべき処、ダイレクトに「医薬神社」という変わった名の神社に着いた。この医薬神社は柿で有名な王禅寺の末寺だった東光寺を明治初年に合併している。社殿は一見お寺風で、神社とはやや違うイメージがするが、瓦葺き屋根のせいだろうか。祭神は、国造りをしたと古事記にも記されている「大国主神(オオクニヌシノカミ)」と「少名毘古那神(スクナビコナノカミ)」で、共に病気を治した神として信仰を集めているようだ。

 神社に向かって左手の民家から老婦人が見え、挨拶をしたところ、神社右手に「双体道祖神」や「地神塔」・「大師座像」・「五輪塔」などが祀られ、地神塔側面には「左リ大山道」、また左の石仏台座側面にも「左大山道」とある場所を教えてくれる。そのご婦人によると、これらの石造物は区画整理後、このご婦人宅で石仏群を収納する木造の屋根付きのお堂を神社裏手横に自費で建てることを条件にここに移すことを許可されたものだと説明してくれる。何ともしみったれた地元教育委員会かなと笑ってしまったが、地元のこうした人たちの心で、何とか昔ながらの歴史的遺産が護られていることにあらためて感じ入った次第である。このご婦人は「わたしも大山街道を歩きました」と生き生きと語ってくれた。

  「医薬神社前」を左折し、更にその先を右折すると左手にミニゴルフ場がある。ゴルフ場の角から旧道になり、まっすぐの上り坂、やがて下り坂を進むと道路突き当たりに和菓子屋がある。ナントカ大賞受賞などの看板が大きい。そこを左折し50m程でまた右折するが、昔の大山道は菓子屋から今とは違って斜め方向にあった。現代の道はその和菓子屋の50m左先の「藤ヶ丘消防出張所前」信号を右折し、緩やかな登り道を一直線に進み、やや右に曲がってから左折し、さらに左折した先でR246を越える。「再勝橋」といい、下に国道と東急田園都市線が交差する三重立体交差になっている。本来の旧道は、この付近では、東急田園都市線の線路沿いを通っていたのだが、やむを得ない。

  その橋の先を右折し、今度は下って、さらに右に曲がって道なりに緩やかに左に曲がり、その先を右折する。左手には「つつじヶ丘第二公園」がある。R246下を今度は潜って、「青葉台」信号に突き当たる。ここを右折すれば「青葉台駅」だが、我々は左折してR246手前でまた右折し、長津田宿方向への旧道を進む。

  ここからは、少しの間、旧道が残っている。しらとり川に架かる榎田橋を渡り、榎が丘地区の登り坂を進むと正面に「コジマ」がある。旧道はここを左折しR246を左右に渡り変える湾曲道を進んで、「しらとり台」信号の北に通じていたようだが、21世紀の我々はコジマを右折して左折、坂を登って、日本料理店「青柿」先の角を左折して、「しらとり台」信号の北の「宮川酒店」に出る。この先も、宮川酒店の角の信号を左折、すぐ先の角を右折して行くしかない。この途中の登り坂は、街道としては結構きついものがあった。

  道はやや下り坂になる。ブックオフやラブホテルを過ぎ、その先二又分岐を左手高台への石段で墓地へと進む。元亀四(1573)年の銘のある古い「宝筐印塔」がある。墓地の中にあり見付けにくかったが、ガイド本の写真を手がかりに何とか見付ける。2基の宝筐印塔は、北条氏所縁の武士、糠屋清印が父母の13回忌供養に建立したもので、元々は廃寺になった寿光院の墓地にあったものだそうだ。

  墓地角を左折し、石塔坂と呼ばれる短い下り坂を行く。この区間も旧道である。すぐR246に突き当たるが、手前右に文化5(1808)年の「道祖神」がある。風化した文字だが「上リ江戸江 下リ大山江」と刻まれている。道は、国道を横切ってその先にある「神鳥前川神社」方向へ続いているが、R246は、交通量激しく信号もなく、やや神社までの距離もあるので省略し、R246の右歩道を暫く進む。本来の旧道は、このR246を左右に渡り返すように蛇行していたが、今や最短直線路になっている。恩田川に架かる「恩田大橋」を渡ると、横浜市も青葉区から緑区へと変わるが、「片町」信号までは、このR246を歩く以外にない。

  「片町」信号で、漸く国道と別れ、右斜め前方へと入って行く。「遂にここまで来たか」と言いつつJR横浜線のガードを潜ると登り坂になり、右に緩くカーブしている。坂を殆ど登り切った交差点の左角に片町の「地蔵堂」がある。三体の地蔵が祀られ、カラフルな帽子や服を着せられているが、地元の人ごとの厚志だろう。台石には「向テ右かな川 左みぞノ口」とあり、もう一体には「南つる間 東江戸道」と道標をも兼ねている。

  その地蔵堂の道路向かい側には大きな「道路改修記念碑」が立っていた。元々は地蔵堂の傍にも長津田から恩田への道を開いた「加藤外記の碑」があったそうだが、無許可で道を造った故をもって処刑され、その碑が戦後の米軍大型車通行時に壊された由で、その道が拡幅・改修されたということなのだろうか。

  地蔵堂から先は登り坂になるが、すぐ右手に石造物群が見えてくる筈なのに撤去されてしまったのか、どうしても発見できなかった。文献によれば、片町の石造物群とか、長津田宿下宿の石造物と呼ばれていたものがあり、文化14(1817)年の常夜燈、地神塔、庚申塔、馬頭観音、地蔵尊、弁財天などがあったようだ。開発の波は、こうした遺跡を逐次襲い、元々の位置とは無関係な場所に追いやっているようだ。

  長津田の「駅南口入口」信号まできた。今日の予定は「すずかけ台駅」までだったが、酷暑その他の事情もあり、「長津田駅」をゴールと決め、ゴールイン前に、左手に200mばかり入り込んだ「慈雲山大林寺」と、更にちょっと先の「お七稲荷」に立ち寄ることにした。大林寺は最近全面的に建て替えられており、白木の香りがまだしそうだ。ここには、長津田の領主だった旗本・岡野氏の墓所や初代引田天功の墓があるという。境内には、各菩薩像や、かの良寛さんの漢詩?碑、中国の寺院にありそうな不思議な像のセット、大きな「板碑」などがあった。

  寺を出て更に街道の逆方向に南下、一つ目を右折した左側にある「お七稲荷」は元駐車場だった所に立ったマンションの片隅にあり、あの「八百屋お七」を祀っているが、うら寂しい感じで、地元からも忘れられた存在になりかかっているように見受けられた。

  後は、一路長津田駅前へ向かい、食事処を捜したところ、折良く駅近くで中華店が見つかり入店。早速瓶ビールと激うまの肉野菜炒め、冷やし中華を注文。ビール、一品料理、冷麺ともに超一級品のめちゃ旨もので、また行きたい所だ。帰途は東急田園都市線溝の口駅まで村谷氏と同乗し、別れて南武線経由で帰路についた。

  きょうは、酷暑下での街道歩きの新兵器その1として、晴雨兼用の携帯日傘(京王デパートで購入)、その2として帽子の額部分内側装着用の熱中対策「帽子汗取りシート(注)」(京王ストアで購入)を使ったが、使い心地はいずれも合格点。真夏の街道歩き必携品として我が輩においては完全定着しそうである。

 (注)発売元:桐灰化学(株)・・・06-6392-0331 http://www.kiribai.co.jp/ ひと箱5枚入り(購入価格\546)、1枚で1日中使用可能