2009.02.12(木) 第2回は、北政所のお供旅

 昨日、北政所から、“明日はわらわも少々歩いてみたいほどに、供をしてくりゃれ”とのお声が掛かり、きょうは、急遽旧街道餐歩シリーズ初の道行きとなる。当初は昨11日の催行予定だったのだが、西~北西向かいの街道特性から天候状況を勘案し、三月並みの陽気が期待される今日に一日延期した次第である。
 新宿経由で、地下鉄丸ノ内線「新高円寺駅」で降り立ち、第二回目を9:47にスタートする。北の政所様のお供となれば、当初予定の青梅橋・東大和市駅までの「中野以西の原野開拓史探求の旅」はまず100%不可能と諦め、帰宅時刻にも厳守すべき必然性から、田無駅辺りまで、否それ以前程度の小餐歩がリミットかと内心思いつつのスタートである。

清見寺(9:53)---駅から250m程先の陸橋の先左---

 街道に面した右手の寺名石柱には、「鍼灸科清見寺」とか「瑞雲山製薬所」などと珍しい言葉が刻され、灸寺の片鱗を残している。
 また、入口左手には、やはり「瑞雲山」「清見寺」の真新しい石塔が両サイドに建つ奥に「地蔵願王尊」が堂宇に安置され、これが横に立つ解説文中にある地蔵石像のことと推察する。
               
清 見 寺
 馬橋の灸寺で知られる瑞雲山清見寺は、曹洞宗の寺です。本尊は千手観音像で、中野区の成願寺の末寺です。
 寺伝によれば開創は寛永初年(1624~35)で、開山は成願寺六世鉄叟雄鷟和尚と伝えます。当寺は開山後しばらくの間、檀家の数も多くはなく、しばしば無住の時もあったといわれ、その詳細はあきらかでありません。
 当寺は元禄年間(1688~1703)火災にあい、現本堂は昭和十一年に改築されたものです。
 文化財としては、馬橋村・阿佐谷村の村民の奉納した地蔵石像があり、ほかに江戸期に造られた風鐸(青銅鐘形の風鈴)が保存されています。
 寺前の青梅街道は、江戸初期に開かれた杉並地域の幹線道路で、近世のみならず現代でも生活上・産業上、重要な役割を担っています。
 なお、当寺には明治八年から同十七年まで、現在の杉並区立第一小学校の前身である桃園小学校第一番分校(同九年桃野学校として独立)が置かれており、杉並近代教育発祥の地の一つです。
     昭和五十六年二月十五日
                                    杉並区教育委員会


天桂寺(10:12)---街道のさらに先を左手に250m程入った所---

 門柱前の左手に、寺名を刻した自然石の巨岩がある。右手には解説板が建っている。
               
天 桂 寺
 月光山天桂寺は曹洞宗の寺で、聖観音像を本尊とし、正徳三年(1713)銘の地蔵菩薩像も安置されています。
 開創は慶長年間(1596~1614)と伝えられ、小田原北条氏の家臣岡部忠吉が氏祖岡部六弥太忠澄を勧請開基として一庵を建てたのが始まりといわれています。その後、寛永十年(1633)頃、忠吉の子で旧田端村の領主となった旗本岡部吉正が、中野成願寺六世鉄叟雄鷟和尚を請し、開山して再開基となり、伽藍を整え、当寺の基を開きました。また、延宝三年(1675)吉正の孫岡部忠豊が葬られて以来、岡部家の葬地となりました。
杉並の地名は、この岡部氏が青梅街道沿いに植えた杉並区に由来するといわれ、墓地には岡部家歴代の墓があります。また、浮世絵師嶺斎泉里が描いた「岡部六弥太忠澄武者絵」は当寺の寺宝となっています。
 境内にある寛文四年(1664)銘の聖観音石像は俗に「庚申観音」と呼ばれる珍しい石仏です。
 当寺は安政三年(1856)大暴風にあって建物はすべて倒壊し、記録什宝類も破損腐朽してしまいました。現本堂は約六十年後の大正十二年に建立したものです。
     昭和五十六年二月十五日
                                    杉並区教育委員会


 なお、境内右手には、前掲の「庚申観音」(寛文四年七月銘)のほか、その右には寛政七年銘の「地蔵大菩薩像」や新しい大師像のような石像もある。

---この辺で、街道は西向き方向から北西方向へと変わる---

さいかちの木(10:27)---杉並区役所前(地下鉄南阿佐ヶ谷駅)---

 街道の一里塚道標に因んでいるそうだが、区役所建物の右手に一際大きく聳えており、杉並区保護樹木に指定されている。

オーロラの碑(10:47)---旧道の左裏通りの荻久保体育館前---

 荻窪駅の直前、天沼陸橋信号から旧道は左へ入る。直進する新道は中央線を跨ぐ後から造られた道である。すぐ左側の裏通りに南向きの区立荻窪体育館(前身は区立公民館)があり、その右前に「オーロラの碑」が立つ。その足下に解説プレートがある。
 原水協運動発祥の地が何とこの杉並区だったとは知らなかった。ここでトイレを拝借したが、体育館では大勢の少女達がバトンガールの練習をしていた。
               
記念碑の由来
 昭和二十八年十一月に開設した杉並区立公民館に於いては、区民の教養向上や文化振興を図るため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主的活動が行われてきました。
 これらの活動のなかでも、特筆されるものは、昭和二十九年三月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆禁止署名運動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
 その公民館も老朽化により平成元年三月末日をもって廃館されましたが、その役割は杉並区立社会教育センター(セシオン杉並)に発展的に継承されております。
 ここに公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して祈念碑を建立したものであります。
     平成三年三月
                                   杉並区教育委員会


馬屋門と明治天皇荻窪御小休所(11:00)---17F建の藤沢ビルディングの先から左手に目を向けると長屋門が見え、そのビル端の敷地内を左(南側)へ入る---

 場違いな古い「馬屋門」があり、門を通って向こう側に行くと、そちら側の通りが正面になる。その右前には「明治天皇荻窪御小休所」と刻した碑がある。左側面には「昭和十一年十一月建設」、右側面には「史跡名勝天然記念物保存法ニ依リ史跡トシテ昭和九年十一月文部大臣指定」とある。

四面道(11:22) ---11:10JR荻窪駅南口から地下道で北口経由「四面道」へ進む---

 環八と交差する「四面道(シメントウ)」信号を越える。四面道という地名の由来は、光明院(後出)所有の四堂が街道に面していたからとの説と、交差点先左手にあった「秋葉堂」境内の常夜灯が、天沼・下井草・上&下荻窪四か村を照らし「四面燈」と呼ばれていたからという説とがある。荻窪八幡神社(後出)境内の末社秋葉神社(後出)にある嘉永7年(1854)の四面燈と宝永6年(1709)の法華六十六部塔は、もと四面道の南西端にあり、昭和44年の道路拡張時にお宮ごと移された由。

昼食(11:30~11:54)

 「八丁」交差点の手前右手で、粋そうな蕎麦屋を見つけ入店。「桃蕎庵こばやし」という店だが、味もさることながら、器がこれまた雰囲気満点ときては、北政所のご表情を窺い見るまでもなくご満悦なること掌を指すがごとし・・・となる。柚子胡椒もまた粋なるかな!である。

観泉寺薬師堂(元・薬王院)(11:59)---「八丁」交差点を渡り、荻窪郵便局の先、右手---

 門扉は閉まり、脇の通用門を開けて境内に入る。
               
観泉寺薬師堂(薬王院)
 この薬師堂は、かつては薬師如来像を本尊とする寺で、玉王山薬王院と呼ばれていました。開創は元禄時代以前といわれ、開山は海山和尚と伝えられています。
 薬王院は開山当初より今川氏の保護をうけ、元禄十三年(1700)に今川範高から土地を寄進され、享保四年(1719)に至って今川 氏の祈祷所となりました。ついで延享四年(1747)頃に今川氏の菩提寺である観泉寺の末寺となり、明治維新の際、観泉寺に合併され、以後同寺の境外仏堂として今日にいたっています。
 『新編武蔵風土記稿』は、江戸時代の薬王院について「地頭除七段、小名寺分にあり、玉光山と号す、前寺の末、客殿七間に四間半南向、本尊は坐像の薬師にて長さ八寸五分」と記しています。
 明治十五年境内の一隅に不動明王を祀った不動堂が設けられました。本尊は寄木造りの坐像で、近在の人々は「お不動様」と呼んで信仰し、三年後の同十八年には信徒によって成田山開講がつくられました。そして、近年まで行者の道場として栄えていたといわれています。
 また、境内には寛文九年(1669)念仏講中によって奉納された地蔵菩薩、寛政五年(1793)銘の庚申塔などがあります。
 なお、薬師堂には明治八年四月に現在の区立桃井第一小学校の前身である桃園学校第二番分校がおかれ、杉並近代教育の歴史に記念すべき足跡をしるしています。
     昭和五十七年二月十日
                                   杉並区教育委員会

 このほか、前掲の庚申塔の右横には、薬師瑠璃光如来像・敷石碑・石橋供養塔などが安置され、その斜め前には、正面金剛2基・寛文七年九月及び享保五年銘の石仏2基ほかがある。

荻窪八幡神社(12:06)---その先、荻窪警察署前信号を挟んで斜め向かい側---
               
荻窪八幡神社
 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約千八十年前の寛平年間(注:889~897)に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。
 永承六年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平五年(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。
 また文明九年(1477)四月、江戸城主太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、五百年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。
 なお、当社には、永仁二年(1294)、嘉慶二年(1388)、応永二十九年(1422)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。
 祭日は九月十五日です。
     昭和五十四年二月一日                    杉並区教育委員会


 境内参道右手には、猿田彦神社や末社である御嶽・稲荷・須賀・琴平・祓戸の各社が祀られ、神門を入ると本殿に向かって左手に「道灌槇」が威風堂々聳えている。
               
道 灌 槇
 関東管領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
 之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
道灌は文明九年(注:1477)四月十三日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃遷都して江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢いをもって石神井城に迫った。
 文明九年(注:1477)四月十六日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行い、槇樹一株を献植した。
 これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが、昭和九年の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢五百年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
 昭和六十一年三月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
                                   荻窪八幡神社社務所

               
荻窪八幡神社のコウヤマキ 一本
 当社本殿前のコウヤマキは、幹周囲(目通り)二m、樹高二十m、樹齢は三〇〇年以上と推定される巨樹です。コウヤマキは日本特産の常緑高木で、天然生育地は限られていますが、日吉社、権現社あるいはこれらに属する系統の社頭には、神木として植栽されることもあります。当社のコウヤマキもこの例と思われ、太田道灌が石神井城攻撃に際し戦勝祈願の為献植したとも伝えられています。三〇〇年を越える樹齢にもかかわらず樹勢も優れ、都内でも有数なコウヤマキ貴重なものです。
                                   杉並区教育委員会


井草八幡宮(12:27)---善福寺川沿いの往年の東京初住居(旧家族寮)での生活を街道左手に思い出しつつ善福寺一丁目信号先の左へ---

 荻窪八幡宮の規模もなかなかのものだと感心していたのだが、こちらはもっと凄い。どこかの国の一之宮にでも来たようなスケールの大きさである。広くて永い参道入口左には境内案内図付きの詳細解説板が建っている。
               
井草八幡宮 由緒
     主祭神 八幡大神
 当社は、古代より人々の生活の場であった遅野井(上井草村)の地に鎮まり、付近から縄文時代の住居跡や多くの土器・石器類が発掘されています。中でも文華殿(宝物殿)に収蔵する顔面把手付釣手形土器(重要文化財)は火を灯した痕跡があり、何らかの祭祀儀礼に用いたと想像され、この辺りが神聖な地であったことが窺えます。
 鎌倉時代に入り、文治五年(1189)に源頼朝公が奥州征伐の途次、戦勝を祈願しました。その願いが叶って頼朝公自ら松樹を手植えしましたが、現在は枯れてしまい、その末流に当たる松が境内で育っています。
 室町時代には太田道灌が石神井城の豪族豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。
 江戸時代になると三代将軍家光より朱印領六石が寄進され、こののち歴代将軍何れも朱印地を寄進して萬延元年(注:1860)にまで及んでいます。この地域の地頭であった今川氏も当社を深く崇敬し調度品などを奉納し興隆に努め、寛文四年(1664)に寺社奉行の命により改築した本殿は、現在杉並区内で最も古い木造建築物です。
 明治以降も氏子崇敬者の助力により境内を整備拡充し、社宝や郷土の民俗資料の保存のため文華殿、民俗資料館を設置し、教化活動の一環として幼稚園教育を行っています。
昭和四十一年には旧官国幣社に準ずる神社本庁別表神社に加列され今日に至っています。


 朱塗りの豪華な楼門がある。脇で若い神官らしき人が自転車旅の外人観光客にカメラのシャッター押しを依頼されている横を通って楼門を潜ると、そこにも解説板がある。
               
井草八幡宮
 この神社は旧上、下井草村の鎮守です。御祭神は八幡大神で明治時代までこの付近の古い地名から、遅野井八幡宮とも呼ばれていました。
 境内東側付近からは縄文時代中期(約四千年前)の住居址が発見され、多くの土器が発見されました。その中の顔面把手付釣手形土器は、国の重要文化財に指定されております。このように当社周辺は太古の昔から森もあり水も豊かで、生活に適した景勝の地であったと思われます。
 当社は九百余年の歴史をもつと伝えられ、社前には頼朝公が文治二年(1186)奥州藤原泰衡征討の際、戦勝を祈願して手植寄進したという天然記念物の大きな松がありましたが、残念ながら昭和四十八年枯れてしまいました。また、江戸時代の慶安二年(1649)徳川家光は、社殿を造営させ朱印領六石を寄進しております。
 祭日は十月一日を中心に、三年ごとに神輿の渡御、五年ごとに鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬の神事が行われています。
     昭和五十四年二月一日                     杉並区教育委員会

 また、境内には祓戸神社や三宮神社も祀られている

 ◇流鏑馬神事
 この流鏑馬行事は、直線距離約200mの東参道で5年に一度行われる。先ほど通った際、左手にその痕跡を発見していたので、この解説板を見て「納得」だ。流鏑馬神事を行える馬場(参道利用)を持つ神社は都内では珍しい由。
また、「江戸・東京の農業 井荻ウド」と題した解説板もあり、第一回目の青梅街道餐歩で立ち寄った「成子天神社」の「鳴子ウリ」を思い出した。(後記参照)・・・(http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~sanpoing-world/ohme-kaido-1.html)

 ◇頼朝公お手植えの松
 楼門内左手(文華殿前)にある「頼朝公お手植えの松」は、雌雄二本植えられていた内の一本、雌松(赤松)が明治初年に枯れ、都の天然記念物だった雄松(黒松)は昭和47年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまったとかで、二代目の松が植わっていたが、実は右手の門を潜って社殿に向かう門内左手の回廊内に、初代の松の樹根部分(スライス)の現物が衝立として解説板と共に展示されていて、その幹周の太さに歳月を刻んだ偉大さを改めて痛感させられた。目通り5m、高さ40mだったと付記されている。

 ◇楼門
 朱塗りの鉄筋コンクリート造りの豪華門で、昭和46年築、随神一対が納められ、また左右両側は各町会の神輿庫になっている。

 ◇遅野井の地名由来
 その昔、源頼朝公が28万4千の大軍を率いて奥州藤原氏征伐に向かう途中、当地に立ち寄った。折悪しく旱魃のため将兵の飲水に困り、源頼朝公自ら弓の本筈で地面に穴を穿ち、水を求め、七度目で漸く水が湧き出したが、水の出があまりに遅かったので「遅の井」と名付けたと言われている。この井水が善福寺池の源泉になり、当地を遅野井と呼ぶようになったと伝えられており、当社も古地名を冠し遅野井八幡宮と呼ばれていた。

---参拝・見学後は、楼門横の北参道から「井草八幡宮前」交差点の街道筋へ---

伊勢橋跡・千川上水(12:49)---見事なケヤキ並木道を行き「関町一丁目」交差点の左右---

 交差点右手に橋の欄干跡が見える。元「伊勢橋」で、街道左前方からきた千川上水が青梅街道を暗渠で跨ぎ、右後方へと流れている右側の橋跡である。交差点を通り過ぎた左手に、せせらぎの上水路が見え、確かに暗渠になって右手へ地下水路として続いている。
 千川上水は、元禄9(1696)年、本郷・下谷・浅草方面への飲料水供給目的で五日市街道の境橋で玉川上水から分水したもの。昭和43年の都営地下鉄工事で水路が中断され、歴史的使命を終えて暗渠化されたが、世論の高まりで伊勢橋まで清流を復活させた。

稲荷神社(12:55)・・・「上石神井駅入口」信号の先左側
               
青梅街道と稲荷神社
 青梅街道は新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道です。慶長十一年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸府内に搬入するために開かれたと伝えられています。
 石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。
 この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。稲荷神社もその頃の創建と考えられ、「新編武蔵風土記稿」には村民持と記されています。大正二年(1913)以降は旧竹下新田の鎮守となりました。
     平成七年十二月
                                   練馬区教育委員会

青梅街道の解説板(13:10)

 交差点を渡った右先が工事中だったので撤去されたと錯覚してしまったが、その先の小学校正門前に「青梅街道」の石標と解説板が建っていた。
               
青梅街道
 青梅街道は慶長十一年(1606)江戸城の大改修に当って青梅付近の成木村・小木曽村などから江戸城修理に必要な石灰を搬送するために開かれた道で、別名成木街道とも石灰街道とも呼ばれました。青梅から先は間道となって大菩薩峠を越え、甲州塩山付近で講習会道に結ばれていることから甲州裏街道ともいわれ、またこのような産業道路としての役割のほかに武州御嶽詣の人々の参詣路でもありました。
 この路は甲州街道の内藤新宿から分岐して中野宿・田無宿・箱根ヶ崎宿を経由して青梅村へ至るのですが、区内では竹下新田・上石神井村・関村を通過しています。
     昭和五十九年三月
                                   練馬区教育委員会


ゴールへ

 要帰宅時刻が迫ってきたため、「関町南三丁目」信号を13:17に右折し、西武新宿線武蔵関駅から小平・玉川上水・高幡不動経由で帰宅した。
 北政所に本日の感想をお伺いした処、「いと楽しかったぞえ」とのお言葉で、以後このシリーズはやんごとなきお方との道行きが続きそうである。

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青梅街道餐歩~第2回