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青梅街道餐歩~第1回
 2009.01.15(木) 青梅街道第1回餐歩は、内藤新宿から堀ノ内のお祖師様まで

「内藤新宿」概史

 江戸時代、五街道整備に伴い設けられた「江戸四宿(品川宿・板橋宿・千住宿・内藤新宿)」の一つで、飯盛女の名目で遊女も置いた旅籠経営を主たる収益源として宿駅経費を賄っている。
 もともと、甲州街道(甲州道中)の第一宿は「高井戸」だった。新宿には、寛永2(1625)年に現・新宿御苑の北側、「太宗寺」の東側に公認の町屋ができたのが発祥とされるが、本格的宿場になるのは元禄11年(1698)6月の宿場開設による。既設の「内藤宿」に対して、内藤家の土地の一部が収公されて新たにできたため「内藤新宿」と称したが、宿運営に関わる理由から幕府は享保3年(1718)閉鎖命令を発し、以後54年間廃駅状態が続いた。明和9年(1772)に交通繁多を理由に再開設、西から上宿・中宿・下宿と構成され、追分(現・新宿三丁目交差点)から四谷大木戸の手前までがその範囲となった。
 「青梅街道」は、「内藤新宿」の上宿西端の「新宿追分」で甲州街道から分岐して造られた街道である。

先ずは、内藤新宿の旧蹟探訪のため、JR新宿駅東口を9:25にスタート、「靖国通」を行き、「新宿北一」信号手前右手の第一訪問先に立ち寄る。

正受院(しょうじゅいん)(9:36)

 順路的には「成覚寺」へ先に立ち寄るはずが、通り過ごして「正受院」へ先に行く。

 正受院は、正式名を「明了山正受院願光寺」と言い、浄土宗の寺院である。文禄3年(1594)、正受乘蓮和尚が開山・創建した寺院で、戊辰戦争で幕府軍の主役だった幕末の会津藩主・松平容保が葬られた寺院でもあるが、後に会津若松市の松平家院内御廟へ移転・改葬されたため、現在は、正受院には墓石も記念碑も残っていない。

 ◇綿のおばば

 門を入ってすぐ右手に「子育て婆尊」の幟が両脇に立った「正受院の奪衣婆像」を安置した「奪衣婆尊」がある。
               
新宿区指定有形民俗文化財
                         正受院の奪衣婆像
 木像で像髙七十センチ。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため、「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永二年(1849年)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっているという。当時、綿は咳止めのお礼参りに奉納したと伝えられる。
 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄十四辛巳年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。
                              平成九年三月
                                   新宿区教育委員会

 幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」、「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。

 ◇平和の鐘

 境内奥にある正受院の「梵鐘」は、宝永8年(1711)江戸神田の鋳物師河合兵部藤原周徳により鋳造された銅造の梵鐘で、総高135cm、口径72.8cmである。正受院第五世住職の覚誉上人が発願したものを万人講の助力を得て第八世住職の仰誉が完成させた者で、新宿区登録有形文化財(工芸品)に指定されているが、昭和17年(1942)に太平洋戦争による金属供出のため失われた筈だった。ところが、アメリカ合衆国アイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることが戦後に判明し、昭和37年(1962)12月にに正受院へ返還されたという数奇な来歴をもっている。このため、正受院の梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれ、現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせている。

 ◇針塚

 また、境内に「針塚」がある。毎年2月8日には、針仕事に用いた針への労いと、同時に裁縫技術上達を祈願する儀式である針供養大法要が行われる。当日には経を読み上げ、特大の豆腐に針を刺して供養する光景が見られ、古い針を納めに来る参拝客などで賑わう由。

成覚寺(9:46)---正受院に向かって右隣---

 地図で再確認したら、正受院の西隣りに「成覚寺」の寺名札を見つける。正式名を『十劫山無量寿院成覚寺』と言い、浄土宗の寺院だが、別名「内藤新宿の投げ込み寺」と呼ばれる。

 ◇投げ込み寺
               
新宿区指定有形文化財歴史資料 子供合埋碑
 江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年期中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。
 もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。
 宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。
                         平成五年十一月  東京都新宿区教育委員会

 吉原の「浄閑寺」、品川宿の「海蔵寺」、千住宿の「金蔵寺」、板橋宿の「文殊院」らもここ同様、苦界に身を落として死んでいった遊女達の投げ込み寺である。

 ◇旭地蔵~境内に入って左手前にある
               
新宿区指定有形文化財歴史資料 旭地蔵
 三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(1800)から文化十年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
 明治十二年(1879)七月道路拡張に伴いここに移設された。宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。
                         平成五年十一月  東京都新宿区教育委員会


 なお、ここで言う不慮の死とは、道ならぬ恋に絶望し、上水に投身した新宿区教育委員会言い、それらを供養した「比翼塚」に情死者18人の戒名が刻まれているのだが、「脱愛信市-離欲信女、念浄信士-離念信女」などという???な感じの戒名も見られる。その脇に建つ、地蔵移転供養協力者名が刻された石碑は、往時の新宿の有力商人名を知る史料でもある。

 ◇白糸塚

 その隣にある塚で、「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と刻まれ、歌舞伎で市村座が演じ大当たりした遊女白糸と、権田原に住む御留守居番百人組・下級武士鈴木主水との比翼塚である。白糸は権田原の古道具屋の娘だったが吉原に身売りされ、後に内藤新宿の橋本屋に転売されてきた。舞台となった橋本屋は脇本陣で、新宿二丁目の新宿美術学院の地である。

 ◇その他

 成覚寺の境内には、「六地蔵尊」や、幕末の戯作者で「金々先生栄花夢」や「鸚鵡返文武二道」など、当時の世相や人情を風刺したベストセラー作家「恋川春町」の墓もある。

太宗寺(9:57)---正受院のある「新宿一北」信号を西進し、右折---

 ◇創建と内藤家

 浄土宗の太宗寺は、慶長元(1596)年頃、僧・太宗が建てた草庵「太宗庵」が前身である。僧・太宗は、開庵以来次第に近在住民の信仰を集め、現・新宿御苑一体を下屋敷としていた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去時には葬儀一切を取り仕切った。同家が墓所もこの庵に置いたのが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進を受け、現在の太宗寺が建立された。内藤家の七代清枚以後は、歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、内藤家の墓は墓地の奥中央部にある。
 なお、当寺の山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝したもの。

 ◇銅造地蔵菩薩座像・・・門を入ってすぐ右手。東京都指定有形文化財・彫刻

 宝永5年(1708)年9月、江戸深川の僧・地蔵坊正元が15歳の時に罹った病が地蔵祈祷により根治したため建立を志願、浄財を集め、江戸から地方に出る六街道の出入口に旅人の安全を祈願して造立した「江戸六地蔵」の一つである。像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ寄進者名簿などが納入されていた。
 元は甲州街道沿いにあったが、戦後の区画整理時に当寺に遷座した。座高267cmで、正徳2年(1712)、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀の作である。
 なお、江戸六地蔵は、一番・品川寺(東海道)、二番・太宗寺(甲州街道)、三番・真性寺(中山道)、四番・東禅寺(奥州街道)、五番・霊巌寺(千葉街道)、六番・永代寺(廃仏毀釈で廃寺・地蔵尊も現存せず。深川公園内に永代寺跡の標識あり)である。一般に、「江戸六地蔵」とは宝永年間のものとそれより以前の元禄年間のものとがあり、現在いう一般的な六地蔵は宝永年間のものを指す。

 ◇閻魔像・・・境内右手の堂内に奪衣婆像と共に安置。新宿区指定有形民俗文化財

 豊島区西巣鴨の「善養寺」や杉並区松の木の「華徳院」と共に「江戸三大閻魔」の寺としても有名。江戸時代、陰暦正月及び7月の16日を閻魔王の斎日と称し、地獄の釜の蓋が開く日と伝えて、閻魔堂に参詣する閻魔詣でが盛んに信仰されたが、何故この三体が三大閻魔と称されるかは不明である。
 木造彩色、総高550cmの巨像で文化11年(1814)安置。数度の火災で当初の部分は頭部のみ。焔魔堂正面の額「閻王殿」は中国清朝の官吏秋氏が嘉永3年(1850)に奉納したもの。像横の提灯には「閻魔大王」とある。

 「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた「閻魔」と「奪衣婆」の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わった。現在も、毎年盆の7月15日・16日には、盆踊りと共に閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われている。

 ◇奪衣婆像・・・新宿区指定有形民俗文化財

 閻魔堂内左手に安置されている座像で、木造彩色、総高240cm。明治3(1870)年の作と伝えられ、昭和8年改作の可能性もある。「奪衣婆」は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服を剝ぎ取り罪の軽量を計るとされ、この像でも右手には亡者から剝ぎ取った衣が握られている。また、衣を剝ぐところから、内藤新宿の妓楼や宿場女郎達の商売神として「葬頭河(しょうづか)のばあさん」と呼ばれ信仰された。

 ◇切支丹灯籠・・・新宿区登録有形文化財 歴史資料

 昭和27(1952)年太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠火袋部分も復元し補われている。石質は白御影石で江戸中期の製作と推定されている。切支丹灯籠は江戸幕府のキリスト教弾圧策に対して隠れ切支丹が密かに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代~江戸初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものと解釈され、マリア観音とも呼ばれている。
 そんな訳で、太宗寺は「四谷南蛮寺説」がある。内藤清成自身が切支丹との説があり、国元に自身が建立した宗仲寺の紋や清成の墓の紋はそれぞれ「左十字紋」で、記録によると千駄ヶ谷と牛込に切支丹が多く住んでいたようで、慶長17(1612)年に家康が切支丹禁止令布告後は、隠れ切支丹の密かな礼拝所になっていた模様である。

 ◇三日月不動尊像・・・境内左手。七福神と並立。新宿区指定有形民俗文化財 彫刻

 額上に銀製の三日月をもつため、通称「三日月不動」と呼ばれる不動明王の立像。銅製で像髙194cm、江戸期の作だが制作年や作者などは不明。寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納のため甲州街道を運搬中、休息のため立ち寄った太宗寺境内で盤石の如く動かなくなったため、不動堂を建立して安置したものと伝えられる。また、額上の三日月は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の額に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれ、像の上の屋根には窓が取り付けられ、空をのぞむことができる。

 ◇新宿山の手七福神 布袋尊像・・・境内左手。

 三日月不動像と共に、その手前に安置されており、昭和初期、有志により創設されたもの。布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像とされ、金屏風の前に安置されている。

 ◇塩かけ地蔵尊・お稲荷さん・・・七福神の左手

 門を入って左手に「塩かけ地蔵」のお堂がある。塩を戴いて帰り、願いが叶った時に倍返しするそうで、塩に埋もれた地蔵の姿は見た目に痛々しい。隣には稲荷があるが、由来など詳細は不明である。

---太宗寺を出て、新宿通りに出、「新宿三」交差点に出る---

新宿追分の標識(10:11)

 「追分」とは、むろん「街道の分岐点」のこと。日本橋から甲州街道を来て、その新宿通と明治通が交差する新宿三丁目交差点で、西に直進すれば「青梅街道」の起点、左折すれば引き続き「甲州街道」であるY字形旧街道分岐点(現在は十字路の交差点)であり、新宿伊勢丹の斜め向かい側、三丁目の追分交番と道を隔てた南東側の角(JTB)の路上に円形の「新宿追分標識」が埋め込まれているのを確認し、カメラに収める。

 この追分には、曾ては「高札場」や、一本榎の下に「追分地蔵」・「男女の双体道祖神」・「馬頭観音」などがずらりと並んでいて、西へ急ぐ旅人は菅笠を傾け旅路の平安を祈ったそうだが、「追分地蔵」のみ健在で、今は先述の「成覚寺」に移っているものの、他は全て行方知れずの由である。この辺りの旧宿場通りは、拡幅工事等で次第に旧態を失ない、今や皆無に近いと言ってよい。なお「追分」という往時の名称は、バス停名や交番名(四谷警察署追分交番・現地点の北向角)などに僅かに残ってはいるのみのようだ。

---「新宿三」の国道20号(甲州街道)を渡り少し行った左手---

天龍寺 (10:16)・・・新宿区文化財

 江戸城の表鬼門鎮護の上野寛永寺に対し、裏鬼門鎮護の寺とされた曹洞宗の寺院で、山号を護本山と称する。家康の側室で二代将軍秀忠の生母・西郷の局のために建立された寺院である。常陸笠間城主・牧野家の菩提寺で、元、牛込納戸町にあったが大火で焼失したため、天和3(1683)年に現在地に移転して再建された。

 ◇時の鐘---境内右手

 天龍寺の鐘は、元禄13(1700)年牧野備後守成貞の寄進によるもので、内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」である。現在の鐘は、銘文により、元禄13(1700)年の初鋳、寛保2(1742)年の改鋳に続く3代目のもので明治4(1767)年の鋳造である。総高155cm、口径85.5cmで多摩郡谷保村の関孫兵衛の鋳造による。

 この鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を追出す合図であり「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここだけが府外であり、武士の登城遅延防止の配慮から半刻ばかり早く時刻を告げたというが、遊女屋の客には恨めしい追い出しの鐘だった。当初「時の鐘」は7ヶ所だったが江戸市街拡張で天龍寺ほかの追加で9ヶ所になったが、天龍寺の鐘は、上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。

 この鐘の鐘楼は、木造瓦葺、四脚吹貫造で、大正4年の建立。現位置に移築したのは最近だが、基壇の石組も上部の建物も、建立当時のままの姿を残している。基壇は4m60cm四方で、高さ1m、鐘楼は柱の間隔2m80cmで高さ4mあり、均整の取れた区内屈指の鐘楼である。

 ◇天龍寺のやぐら時計

時の鐘と共に牧野備後守成貞が寄進したもりで、この時計をもとにして鐘を撞いたという。文字盤は明治以後二十四時間制に取り替えられているが、中央に牧野家の三つ柏の紋がついている由で、新宿区の指定有形文化財になっている。

---「新宿三」に戻り明治通を北進し「新宿五」を左折した右手、正門は直進して左手---

花園神社(10:28)

 徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていた。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に大和国吉野山より勧請した稲荷社で、寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近(新宿3丁目交差点付近)にあったが、寛永年間(1624~44年)に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまう。そこで幕府に訴えた処、現場所を拝領し移転している。

 その場所は、徳川御三家筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れており、その美しい花園跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされている。初めて史料に花園神社の名が登場するのは、享和3年(1803)のこと。屡々火災で焼失し、大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿町より奉納された額面に「花園社」と記されていたが、「花園」という名称が正式名になるのは後のことで、復興資金集めの芝居小屋を境内に設け、「三光院芝居」として賑わいを見せていたことから三光院稲荷または稲荷神社とも呼ばれ、さらに江戸時代には地名に因んで四谷追分稲荷とも呼ばれていたようである。

 更に言うと、三光院稲荷と呼ばれたのは、明治維新以前には神仏習合により神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったためであるといわれている。
 しかし、その三光院は明治元年 (1868)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布し、廃仏毀釈が進む中で花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となる。明治に入り「村社稲荷神社」が正式名称とされたが、これは神名帳提出の際、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだとか。
 ところが、江戸時代から当神社は「花園社」と呼ばれており、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいことから、大正5年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し社号の改名願を提出。この社号改名願は同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」になったという経緯がある。更に昭和40年に、それまで末社だった大鳥神社を御社殿建替えと共に本社に合祀したことから、ようやく「花園神社」が正式名称となった。

 そんな関係からか、境内には本殿以外に赤鳥居が林立する「威徳稲荷大明神」がある。戦災による資料焼失で詳細は不明らしいが、昭和3年4月頃の築と伝えられ、女性参拝者に人気の高い神社だそうだが、正しく女性参拝者がいた。その前の奉納された赤い鳥居は、異界へのトンネルに足を踏み入れたような不思議な感覚にとらわれる。
 また、本殿に向かって右手前には「雷電稲荷神社」もある。
 更には、平成8年築造の正門の鉄製大鳥居を入った右手には「芸能浅間神社」がある。祭神は木花之佐久夜毘売で、江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで有名で、宇多田ヒカルの母親として知られる藤圭子の“♪赤く咲くのはけしの花・・・”で始まる「圭子の夢は夜ひらく」歌詞碑がこのお社の傍に建っている。

 拝殿は素木造り檜板葺で、千木を掲げた拝殿と土蔵造りの本社だったが、第2次大戦末期に戦災で全焼しており、現拝殿は昭和40年6月建立の鉄筋コンクリート造りである。某企業の幹部数十人が厳かに正座し、新年年頭の不況克服?祈願の真っ最中だったが、一般参詣人も少なくない。社殿正面の扁額は3つあり、右から「大鳥神社」「花園神社」「雷電神社」の金文字が輝いていた。

---「新宿三」に戻り、新宿追分から愈々「青梅街道」を西へスタート---

西条八十のモニュメント(10:48)

 新宿駅方向に向かい、東口広場への信号を渡ると左手に、ライオンズクラブの手で建てられた「西条八十のモニュメント」がある。
     むさし野なりしこの里の
     昔のすがた偲ばせて
     小畦の花のむれと咲く
     ビルのネオンの赤き花
             西条八十
の詩がはめ込まれている。西條八十は、牛込区(現・新宿区)払方町で生まれ、早大英文科に入学し、坪内逍遙、島村抱月に師事。住所も、小石川区駕町(文京区本駒込)、文京区池袋など転々としている。現在の新宿駅周辺が京王線や小田急線乗り入れの頃から、新興盛り場として急速に発展し、この頃に西条八十が作ったのが
      「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか。変る新宿、あの武蔵野の、月もデパートの上に出る・・・」の「東京行進曲」だった。

馬水槽(10:50)---JR新宿駅の東口広場で、モニュメントの先左手---

 何度も前を通っているにも拘わらず、「意識無き者何も見ず」で、全く知らなかった。赤大理石製で、元々、明治39(1906)年に有楽町の東京市庁舎前に設置されていたものを昭和39年に移したものの由。
 馬に水を飲ませるためのもので、馬の首に合うように中央に水槽がついている。下の方は犬・猫用で、裏側が人間様の水飲み場になっている。これは、村山・山口貯水池建設に際し、設計に当たった中島鋭司博士が水道事業視察のために欧米諸国を視察した折の約束で、ロンドン水槽協会から記念として東京市に寄贈されたものである。
 この場所自体が、江戸時代、青梅を夜中に出発し、江戸市中に売り捌く薪炭を馬の背に積んで青梅街道を運んできた村人が休憩した場所で、馬水槽の設置場所としては誠に相応しい所と言えるが、当時は無かった。

---新宿駅ガード下の細い道が旧道で、小田急ハルクの先「エルタワー」南東側に進む---

策(ムチ)の井の碑(11:02)

 繁みの中に三角形のモニュメントのようなものが見え、その横に解説板がある。
               
都旧跡  策 の 井
 ビルの茂みに隠れるようにして「策(むち)の井の碑」がある。これは、江戸時代から名井として知られ、天和年間(1681~83)出版の戸田茂睡の「紫の一木」に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上がられ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所でり、また、享保年間(1716~35)に出版された「江戸砂子」という本にも同趣旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。
                         平成元年六月 建設    東京都教育委員会


淀橋浄水場趾の碑(11:03)

 その西側(青梅街道寄り)に赤い自然石の石碑があり、薄れかけた白文字が刻まれている。
               
淀橋浄水場趾
この地は明治31年東京水道の創設時から昭和40年までの67年間首都給水施設の中心であった淀橋浄水場の正門あとです
 浄水場の総面積は34万500平方メートルでいまは新宿中央公園と11の近代的街区に生まれかわっています
                         昭和45年3月  東京都水道局


 明治31(1898)年12月から昭和40(1965)年まで、玉川上水から水を引き入れた「淀橋浄水場」がここから西に向かった一帯にあり、閉鎖後はその機能を東村山浄水場に譲った。その跡地再開発として新宿副都心計画がスタートし、今日の近代的高層ビル街となったが、現在は新宿中央公園の一角に淀橋給水所がひっそりと佇むのみとなった。その正門のあった場所がこのエルタワー辺りだということである。

---北へ進み、青梅街道に掛かる立体歩道橋を経て、青梅街道右手(北側)歩道へ---

常圓寺(11:07)

 福聚山常圓寺、通称「鳴子の常圓寺」と呼ばれる日蓮宗の寺で、総本山は山梨県身延町の身延山久遠寺。近年あじさい寺で有名な松戸氏の本山平賀本土寺の筆頭末寺として触頭を務めてきた。開創年月は不詳だが、渋谷区幡ヶ谷から天正13(1585)年9月13日に現在地に移転し、移転以前の幡ヶ谷には180年間堂宇があった記録を参入すると約600年の歴史を有していることになる。
 本堂には、徳川光圀公寄進の三宝諸尊を安置し、祖師堂には11代将軍家斉公が江戸城中で御守護佛とした「感応胎蔵の祖師蔵」を奉安している。戦災で諸堂悉く消失したが逐次再建し今日に至っている。

 ◇狂歌碑

 入口の右手には、親交の深かった太田南畝(蜀山人)筆で、茶人・狂歌師の便々館湖鯉鮒の作「三度たく米さえこわしやはらかし、思うままにはならぬ世の中」の狂歌碑(文政2(1819)年建碑)がある。また、日露和親条約締結時の全権代表の一人、筒井政憲や東京駅設計の辰野金吾らの墓もある。淀橋七地蔵は、昭和5年の乳幼児殺しの霊を慰めるものだ。

 ◇淀橋七地蔵

 日蓮宗に属する寺に地蔵尊が安置されているのは都内では珍しい。七地蔵は常円寺の墓地に西面して七基並び立ち、全て合掌姿で、立高60cm程である。七地蔵は、昭和初め惨酷を極めた大久保町の貰子殺し夫婦の手により哀れな死を遂げた男女七児の霊を弔うため、当時の淀橋警察署長や同町長等が相談の上常円寺住職の及川真能師が施主となって、昭和5年6月7日同寺に葬り「弔男女七児之墓」の墓標と「弔生年月日死亡年月日不明男女子之霊」と記された七本の卒塔婆を建てて懇ろに供養した。これを伝え聞いた青山の石勝さんが地蔵尊七体を刻んで寄附したという。

常泉院(11:12)

隣にあるので立ち寄る。常圓寺と同じく日蓮宗の寺で、4代将軍家綱の頃、日俊が創建している。入って左手にある鬼子母神像の顔だちが一般とちがっておだやかである。また、観音像のような浄行菩薩像が立つ「浄行堂」もある。

成子天神社(11:26)

 右の歩道でに参道があったのに見過ごして先を右折し、若干回り道をしてしまったが右に向かう成子天神社への長い参道がある。およそ100m位あろうか。その長さと奥の緑に包まれた境内はその左手の再開発中の一帯と好対照である。

創立は延喜3年(903)。当時、菅原道真が死去し嘆き悲しんだ家臣が道真の像を大宰府から持ち帰り祀ったのが始まりでだとか。その後鎌倉時代、源頼朝により社殿が造営された。江戸時代に入り寛文年間に起きた火災によりそれまでの記録や社宝などが焼失してまい、現在地に移転。その後第二次世界大戦中にも空襲により社殿が焼失している。1966年に鉄筋コンクリート製の社殿になり現在に至っている。付近が新宿新都心の高層ビル街に変わった現在でも周辺の人々から信仰を得ている。従って、祭神は菅原道真公である。

 ◇富士塚

 神社境内にある富士塚は、別称を成子富士とも言う。高さ約12mで大正9年(1920)に造られ、新宿区内では最大規模の塚。山頂には木花咲耶姫の像がある。また道の途中には七福神が祀られている。普段は非公開で正月7日間のみ開放されている。新宿区指定有形民俗文化財。

 ◇鳴子ウリ・・・(注)この解説板では、全て「鳴子」の字が使われている

 鳥居奥に「鳴子ウリ」の解説板があり、此の地一帯がウリの産地だったことを示している。鳴子ウリは江戸初期の元和年間(1615~1624)に幕府が美濃国(岐阜県)真桑村から農民を呼び、成子と府中でマクワウリを栽培させた。解説板を見るまで、マクワウリの名が、美濃の真桑村に由来するとはつゆ知らなかった。内藤新宿開設後は「四谷ウリ」「鳴子ウリ」と呼ばれる特産物になったそうである。

 ◇成子天神社の力石

 社殿に向かって左手前には、新宿区指定有形民俗文化財に指定されている七つの力石がある。昭和初期まで、毎年九月二十五日の大祭で村の若者達が力比べに使ったもので、卵形自然石は40~58貫(約150~218kg)の重量があり、喜太郎・虎松など持ち上げた男の名が刻まれている。

成子子育地蔵尊(11:32) ---街道左手「新宿オークシティ」ビルの下---

 街道に戻って、反対側のビルの下にぽつりと佇んでいる祠の中に「成子子育地蔵尊」があるが、享保12年(1727)に成子坂に北面して建立され、その後天保年間に再建、以来二百数十年霊験あらたかにその名も高く、近郷近在の崇敬の対象となっていたが、昭和20年の戦災のため壊滅の悲運に襲われる。昭和26年(1951)有志により再建され、子宝祈願や家内安全祈願の近隣庶民の拠り所となっている。その後、平成14年に不燃か造りに立て替えられている。

熊野神社(11:46) ---成子坂下信号左折で寄り道700m---

 十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野若一王子権現を勧請し、この神社を建てたと伝えらる(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州からこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいう)。
 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄だったが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになった。九郎は、この地域の開拓にあたると共に、自身の産土神である熊野三山から若一王子宮を祠った。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったという。
 江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。また、享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れた。明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在に至っている。新宿の総鎮守である。

 ◇十二社の池

 十二社の池は、慶長11(1606)年に伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社の西側、十二社通を隔てて建つ三省堂ビル・後楽園ビルの辺りにあった。
 大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8~26間とされ、水源は湧水だった模様である。池の周囲には享保年間(1716~35)から多数の茶屋ができ、景勝地として頗る賑わった。明治時代以後は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われたが、昭和43(1968)年7月に埋め立てられた。
 大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7~16間あった。昭和の初期から一部の埋め立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋め立てられた。

 ◇十二社の滝

 十二社には、記録や古老の話からいくつかの滝があったと伝えられている。そのうち十二社の大滝は、『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられている。この滝は寛文7(1667)年に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向けて作られた神田上水助水堀が、熊野神社の東端から落ちるところにできたものである。
 前掲の池とともに景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させている。ただ、滝の多くは明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられてしまった。

 このほか、「太田南畝の水鉢」が右手奥にある。


---元の街道に戻って---

淀橋(12:08)・・・下を流れる神田川が、新宿区から中野区への境界

 神田川に架かる「淀橋」には不吉な伝説がある。約600年ほど前、紀州の落武者鈴木九郎が当地に来て、開発・開墾に取り組んで大富豪にのしあがり、中野長者とあがめられたが、十二社の熊野神社近辺に密かに財宝を隠した帰途、その秘密を知る下僕を殺し神田川に遺棄したことから「姿見ず橋」と呼ばれていた。祟り覿面、長者の一人娘の婚礼の夜、娘は蛇と化し十二社池に飛び込んだという。鈴木九郎は小田原関本の最乗寺禅僧に懺悔し救いを求め、その禅僧が池の端で祈祷すると娘は元の姿となり水中から現れ昇天したという。三代将軍家光が通りかかったとき、「姿見ず橋」の名前は不吉とされ、京の淀川に似ている理由で淀橋と名づけたという。

---淀橋を渡ったすぐの所は中野坂下。ここから中野区に入り中野坂と呼ばれる登り道---

中野宿

 中野坂の頂上である中野坂上から中央三丁目の宝泉寺一帯が往年の中野宿で、上・中・下の三宿から成り、街道筋には問屋場が置かれていた。成木石灰の継ぎ立て宿として栄えた後も、薪炭や雑穀の集散地として栄え、街道筋には肥料・雑穀を扱う店の外、味噌・醤油製造元など活気ある地域だった。現在の中野坂上交差点には、高い近代的ビルが建ち並んで、交差点の四隅に地下鉄丸ノ内線の出入口がある。

---交差点を渡って山手通りを左に200m程行き不二ハイツ右折して100m先右手---

象小屋跡(12:24)

 住宅街の一角にある「朝日ヶ丘公園」に「象小屋(象厩)跡」の解説板がある。これがなければ全く判らない所だ。享保13(1728)年、交趾国(ベトナム)から鄭大威という男がつがいの象を我が国に献上すべく、長崎から京都に入り、「広南従四位白象」の称号を得て、東海道を通り江戸に着いた。牝象は途中で死んだが、絵でしか見た事のない牡象を見た大の動物好きの将軍吉宗は大層喜び、上覧後、暫く浜御殿(浜離宮)で飼われていたが、この象の大食漢ぶりに将軍家もとうとう音をあげた。

 なにしろ一日の餌の量たるや、新菜 200斤、篠の葉150斤、青草100斤、芭蕉2株、徳用米8斤、餡なし饅頭50個、ダイダイ50個、九年母30個をペロリというから堪らない(1斤=600g)。倹約家として知られ、幕府財政の立て直しを図った「 享保の改革 」を行った程の吉宗にとって、見世物となる以外役に立たない象など到底飼っていられない。翌年にはとうとう払い下げることにしたが、引き取り手がおらず、その後10年間飼育することになったという。結局、この象の餌を運んでいた中野に住む百姓の源助が引き取ることになり、自宅至近の成願寺の裏手にあたる場所に象小屋を建てて飼育した。その小屋があった所が現在の朝日ヶ丘公園である。

 それにしても従四位とは大層なもので、象を何と呼んだのだろうかと思う。長崎街道では象をひと目見たい沿道の人が絶えなかったというが、当時の人々はさぞ驚いたことだろう。寛保2(1742)年に病死、牙は、宝仙寺に残るという。しかしこの源助、商才にも長けていたようで、見世物の象を一目見ようと押すな押すなの見物客相手に饅頭を売りまくったり、疱瘡に効くと称して象の糞から作った象酪(ぞうらく)なるインチキ商品を売りまくってボロ儲けをしたそうだ。
 象は寛保2(1742)年死亡後、象皮はお上に献上、象骨は護国寺や湯島天神で見世物に、明和六年(1769)には 25両でレンタルされて両国広小路で見世物となり、死後 37年も経った安永8年(1779)には中野の宝仙寺に17両で売り渡されたという。文字通り「骨までしゃぶりつくされた」感があるが、それらは戦災でほとんどが焼失してしまったそうだ。

---山手通りに戻り、更に南へ100m行った右手---

成願寺(じょうがんじ)(12:28)

 成願寺は、中野長者伝説の鈴木九郎が熊野から中野本郷に住み着き、その屋敷跡に建てた寺と言われ、山号を多宝山と称する曹洞宗の寺院である。長者の墓もここにあり、境内には長者に関する長い絵物語の掲示がある。先述の「淀橋」の項で触れた殺人と改心によりここに寺を建立したが、娘の法号「真空正観禅女」より「正観寺」と名づけ、後に永禄年間(1560年頃)現在の「成願寺」に改められている。

 木材部分が華麗な朱塗りの白い竜宮門の手前左手に「女子美術大学大学院生卒業作品展示中 五十に見学下さい」の立て看板がある。その左には円柱状の道標があり、「明治一九年八月本郷村」、「右堀の内 向淀ばし」とあり、ここが堀之内厄除祖師、妙法寺への道の起点だった。
山門を入って左手の鉄柵囲いの中の標石が鈴木九郎の長者塚がある。

 また、この成願寺には、大名で蓮池(佐賀県東部)鍋島家の墓所がある。「開運 百體観世音安置」の石碑、「六地蔵」「長者閣」なども境内にある。圧巻は本堂に向かって左手の「観音堂」で、左右に金色に輝く日本百観音(西国・坂東・秩父)の各観音像100体がが整然と安置されていることである。

 本堂に向かうと入口脇に若い女性がおり、話しかけてくる。入口の立て看板にあった女子美術大学生で、相模大野から来たという。実父が曹洞宗寺院の僧侶である縁から、当寺本堂を借り受けて個展?を開いているので見て欲しいという。本堂奥はカーテンで閉じられ、手前畳敷きの広間一面に2000枚の長方形の白紙が整然と敷かれ、その上に、2000人の知友人に依頼して1~2週間使って貰ったという中古の石けんが1個ずつ置かれている。「無常」をテーマとしたものだというが、この時期で未だ就職先も決まっておらず、できれば博物館などの仕事をしたいと希望している卒業目前の若い女性としては、真剣さと裏腹に世の無常~無情をかいま見た気がしないでもない。

---激励の声を掛け、成願寺を出て山手通りを青梅街道「中野坂上」交差点に戻る---

宝仙寺三重塔跡

 環六(山手通)右手(東側)の中野区立十中に宝仙寺の飛び地があり、ここに三重塔が建っていた。池上本門寺五重塔、上野寛永寺五重塔、浅草寺五重塔と並んで、江戸時代初期の典型的な建造物で、江戸近郊では唯一の三重塔だったが、惜しくも、昭和20年5月の大空襲で焼失。高さ24m。ほぼ同じ高さの三重塔が、平成4年宝仙寺境内に再建された。

宝仙寺(12:58)

 真言宗豊山派、御府内八十八ヶ所第12番札所、関東三十六不動霊場第15番札所で、街道右手にある。折しも某社幹部の告別式の真っ最中で、本堂前まで車が駐車していた。

 ◇縁起・由来

 『武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起』によると、宝仙寺は 平安後期の寛治年間(1087~94)源義家により創建。このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた不動明王像を安置するために一寺を建立した由。その地は父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現し義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言いおわるや白狐となって去ったという。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられている。当地には永享元(1429)年移転しており、天正19(1591)年御朱印15石、慶安元(1648)年に加増で23石6斗余となった。
 また、鎌倉時代には相模国大山寺の高僧願行上人が当寺を訪ね、本尊の不動明王像をご覧になりその霊貌の凡常でないことに驚き、過って尊像を穢してはいけないと厨子の奥深くに秘蔵せられ、平素の拝礼には別の不動明王像を刻してこれに当てさせた。その後、室町時代には当寺中興第一世聖永が現在の地に寺基を遷した。
 江戸初期の寛永13年(1636)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名だった。宝仙寺の大伽藍は昭和20年の戦禍で焼失。現在の伽藍は昭和23年より順次復旧したものである。

 ◇寺号標と山門

 入口左に立派な石造の寺号標がある。以前、誰かの告別式か通夜かで来たことがあるのを思い出す。山門(仁王門)は仁王像が厳めしい。仁王は金剛力士とも言い、仏法守護者として寺の入口たる山門に配して寺を守護する役目を持つ。阿形・吽形の二体一対だが、阿・吽とはサンスクリット語のアルファベットの最初「ア」と最後「ウン」の文字を表しており、一切の初めから終わりを意味する。この山門は、戦前は現在地より青梅街道寄りにあったが、戦後の再建時に現在地に移された。先ほどの成願寺の一見場違いとも思える竜宮門とは異なり、仁王像に睨まれながら通る方が厳かさがある。とは言え、先ほどの成願寺の山門も、中国伝来の由緒ある様式だろうから、見る人が見れば納得するということなのだろう。

 ◇中野町役場跡碑

 右手に大師堂、左手に「中野町役場跡碑」が立ち、明治28年から昭和初期まで中野町役場(その後、区役所)が境内に置かれていたことを示す。

 ◇石臼塚

 その右に「石臼塚」がある。説明板によれば、かつて中野を流れる神田川には水車が設けられ、主にそば粉の製粉に使われていた。中野は次第にそばの生産・流通拠点になり、ここから東京中に供給されたそばは「中野そば」と呼ばれる程だったという。当時は石臼でそば粉を挽いたが、機械化進行と共に使われなくなった石臼は路上に放置され、これを嘆いた当時の宝仙寺住職が「人の食のために貢献した石臼は大切に供養すべき」と臼を集めて供養したのが始まりと言われている。

 ◇墓地

 その先左が墓地への入口だが、五輪塔が立ち並ぶ宝仙寺歴代住職の墓所と、代々宝仙寺の檀家総代だった堀江家の墓所が中央にある。堀江家は歴代の当主が中野村の名主を務め、中野及び近在一帯の指導者として活躍し、その事績は明治以後まで続いて、現・中野区の繁栄の礎となったと言われているが、第十六代堀江恭一氏を最後に堀江家は途絶えてしまった由。

 ◇三重塔と大日如来像

 墓地入口の右にある。江戸初期の寛永13(1636)年建立で、廣重の浮世絵「江戸名勝図会」に描かれたほど有名だったが、昭和20年の戦火で一切焼失し、現在の三重塔は平成4年秋に再建されたもの。奈良の法起寺の塔に範をとった飛鳥様式の純木造建築で、大きさは焼失した塔とほぼ同じ約20mある。塔内には大日如来と宝幢、無量寿、開敷華王、天鼓雷音の五智如来の彩色された木像が安置されている由。

 ◇引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)

 三重塔の裏に安置されている石仏。当寺36世祐厳師が自らの墓標と弟子祐雅・卍瑞の墓標を兼ね、明和9年(1772)の夏に予修(生前にあらかじめ造立)したもの。高野山の延命寺にある引導地蔵尊を模刻したものといわれ、光背裏の銘文に引導地蔵尊の縁起が記されている。これによると弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定の前々日の承和2年(835)3月19日に刻まれた尊像であるとされている。

 ◇御影堂と弘法大師像

 その先にある「御影堂」も三重塔と同じ平成4年の建立で、屋根を宝形造りに外壁を蔀戸にしている。堂内には背丈2.4mの弘法大師像を安置している。この像は、奈良・天平期に盛んだった脱活乾漆技法により完成したが、興福寺の阿修羅像や唐招提寺の鑑真和上像等と同じ技法である。高価な漆を大量使用するこの技法での大きな造像は、天平期以来のことだといわれている。

 ◇日輪弘法大師標柱

 御影堂前に安置されている日輪弘法大師の標柱。元は大師堂付近にあったが、平成4(1992)年の御影堂建立に際し現在地に移動した。石柱正面には「日輪弘法大師」と刻まれているが、日輪の「輪」の字は車偏でなく、あえて車を横向きの冠としており非常に興味深いものである。石柱左面の銘文から文化11(1814)年4月に常眞言堂(大師堂の別称)三世祐峯和南師によって造立されたことが判る。

 ◇本堂内三重塔

 本堂外陣畳の間の左側に安置されている三重塔。当寺52世住職道師・飯塚元三氏・飯塚浩吉氏の発願により、関頑亭(保壽)氏によって製作された。高さ2.8m。昭和42年(1967)に完成した。大きさこそ小さいが模型ではなく、瓦一枚一枚を個別に焼いて組み合わせるなど、木組み・構造に大変な手間をかけて完成されたものだ。

 ◇大壇宝塔

 本堂大壇中央に安置されている宝塔で、舎利塔とも言う。舎利とは仏陀(お釈迦様)の身骨で仏陀生涯における徳の集結とされている。真言密教においてはこの大壇の塔を大日如来の徳及びその姿の象徴としている。この宝塔製作の発案は、仏教美術研究の第一人者故藤田青花氏で、平安時代の宝塔を原型として製作されることとなり、製作にあたっては箔押し・鎖製作等すべてが、彫刻家で当寺壇徒の関頑亭氏によって行われた。

 ◇吊瑠璃灯籠 一対

 昭和62年7月に宝仙寺第52世住職道(どうこう)師の夫人富田キヌ氏によって奉納された吊灯籠で、本堂内々陣に荘厳されている。日輪弘法大師像・仁王像吽形等を制作した関頑亭氏(木工は谷春雄氏)の作である。この吊灯籠は、長暦2(1038)年に藤原頼通によって春日大社に奉納されたと伝えられる、木製黒漆塗六角瑠璃灯籠を模したもので、火袋部分(灯籠側面の部分)が碧色(深い青)の瑠璃玉(ガラス玉)を連ねた簾状になっている。元々の瑠璃玉の色を再現し、火袋部分の明るさを一定に保つために玉の粒を揃えることは大変困難で、瑠璃玉を何回も焼き直すという大変な苦労の上、漸く完成した灯籠である。

 ◇大聖不動明王像

 宝仙寺本堂内に安置されている不動王明王像で、澤田政廣氏によって昭和30(1955)年に制作された。高さ2.12m。同年10月の第11回日本美術展覧会(日展)に出品されている。澤田政廣(寅吉・晴廣)氏は、明治27年(1894)熱海に生まれ、19歳で山本瑞雲氏に入門し彫刻の道を進み、以来93歳で亡くなるまで、彫刻・絵画・工芸などの分野で数多くの作品を残した。日本芸術院会員、熱海市名誉市民にも選ばれ、昭和54(1979)年には文化勲章を受章している。また、宝仙寺の檀家として尽力、昭和32(1957)年には宝仙寺本堂内陣の壁画を、昭和50(1975)年には本堂天井画「天人」を完成させている。

 ◇江戸名勝図会 中野宝仙寺

 この浮世絵は2代歌川廣重(1826~69)にる文久2(1862)年頃の作で゜ある。2代廣重は初代と同様に風景画を得意とし、諸国の風景画を数多く残したが、この絵は2代廣重の代表作の一つ「江戸名勝図会」の内の一枚である。絵には、寛永13(1636)年建立の三重塔とそれを参拝する人々の様子が描かれている。この三重塔は現在の中野区立第十中学校付近にあり、そのため塔ノ山という地名がついていたが、現在は中央一丁目になっている。昭和20年の戦火により焼失してしまったため、この絵は江戸時代の三重塔の様子を伝える貴重な資料になっている。現在は平成4年に宝仙寺境内にほぼ同じ大きさの三重塔を再建している。

 ◇本堂の五大明王像

 本堂内陣の壇上には秘仏の本尊(天平期良弁作の不動明王像と伝えられる)に代り、鎌倉時代の作と伝えられる不動明王の立像を中心に、左右の足で大自在天と烏摩妃を踏みつけている降三世明王、蛇を装身具のように巻き付けている軍荼利明王、五鈷杵と金剛鈴を持った金剛夜叉明王、水牛に跨がる大威徳明王の五大明王像が安置されている。なお、堂内の壁画や天蓋は日本画家の故澤田政廣氏によって描かれた。

 ◇象と源助さんの話

 当寺には戦前まで象の頭骨や牙などが保存されていた。これは享保13(1728)年に渡来した象のもので、当時は生きた象を見た者はなく非常に珍しがられた。京都で従四位下の位を戴いて中御門天皇の拝謁も受け、後に江戸の将軍吉宗のもとで飼育された。しかし飼育が非常に大変だったため中野村の農民源助に預けられ、源助は象小屋を建て、大事に飼育して人々に見物させたりしたが、やがて死んで頭骨と牙が当寺に納められ供養されたと伝えられている。この骨と牙も昭和20年の戦禍で一部を残し焼失してしまった。

 ◇その他

 本堂とそれに続く大書院の奥(裏手)には、当寺の寺号の由来となった宝珠を祀った祠「白玉稲荷」と、鎌倉期の作と推定されている「無名五輪塔」が古雅重厚な風格を示している。なお、白玉稲荷神社自体は先に触れた通り、神仏分離令により近くに移転済みである。

---街道に戻らず門前を西へ---

明徳稲荷神社(13:09)

 宝仙寺を出て右手墓地に沿って行くと左手に「区立本町通り公園」(愛称:さんかく公園)があり、その西隣に「明徳稲荷神社」がある。ここは、中野の名主堀江家の敷地(約21,000㎡)の東北隅の鬼門に当たり、屋敷内にこれを祀って鬼門除けにしたものである。大正時代に地元の人達が堀江家から譲り受け現在に至っているという。この辺りが中野宿の中心だった。慶應3(1867)年の手水鉢に僅かながら往時をしのぶことができる。
 この神社には、「明徳稲荷」のほか、火伏せの「秋葉神社」と雨乞いの「榛名神社」とが祀られており、3社の扁額がある。

---青梅街道に戻って更に暫く行った右手---

慈眼寺(13:25)

 真言宗豊山派の寺院で、福王山弥勒院と号し、天文13(1544)年の創建。傷病者救済に身を献げた氷川坊(覚順和尚)が祀られ、以前は、現在地から北東の中央三丁目7番付近にあったが、江戸時代に当地に移転した。境内に入ると金色に輝くタイ様式のパコタ(仏舎利塔)がすぐ目に入る。タイの寺院から寄贈の仏舎利一粒が奉安されており、東南アジアの仏教との信仰を集めている由である。
 境内には沢山の石仏があり、注目は本堂左前の道標を兼ねた馬頭観音である。頭上に馬頭が付けられていて珍しい。角柱部分は道標になっており、文化13(1816)年の銘があり、「右いくさ道」「左あふめ道」と刻されている。ここから200m西にあるパチンコ屋の前、石神井道への追分の三叉路(中央四丁目)にあったのを移設したという。
 境内左奥には、元禄3(1690)年から寛保2(1742)年までの古い庚申塔が6基あり、うち4基は、上宿(中央二丁目付近)、新町(本町六丁目)、西町(中央五丁目)の青梅街道沿道にあったものを、道路拡幅のため、桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設し、さらに昭和30(1955)年に当寺院境内に移された経緯がある。
 また、六地蔵もある。

鍋屋横丁(13:31)

 その先左手に斜めに入っていく道が鍋屋横丁だ。バス停名や信号名でも残っている。かの有名な「妙法寺」への参道になっており、角に「鍋屋」という休み茶屋があったのが名前の由来だそうだ。また、この道は鎌倉街道でもあるそうで、いつかまた通るかも・・・などと思いつつ通り過ぎた。

---地下鉄新中野駅の先の信号を渡った左角---

杉山公園と杉山地蔵尊(13:39)

 小公園だが、北海道開発に尽力した杉山裁吉氏が事業家引退後の宅地後で、今は区立公園になっている。その北端に、三体の地蔵尊を浮き彫りした「杉山地蔵尊」があるが、杉山氏は一人娘の「みさを」を明治41(1908)年に25歳で亡くし、大正14(1925)年に夫人を亡くした。それを機に親子三体の地蔵尊を建立し、土地を児童遊園とするべく旧中野町へ寄附したものである。

---ひたすら西へ向かって歩く---

北野神社(13:48)

 途中、和田三丁目信号の50m程手前右に「北野神社」という小さな神社があり、銀杏の巨木が残っている。この公孫樹は、江戸時代から聳え立つ大木で、近在農家の江戸稼業往還の目安や休息場でもあったという。
 ここで中野区が終わり、ここから先が懐かしの杉並区だ。と言ってもそこには一年弱しか住まなかったが、始めて田舎から東京本社勤務を命じられて入居した社宅(家族寮)が杉並区(西荻窪)だったからだが、池袋の新築家族アパートへ11ヶ月後には引っ越してしまったことを思い出す。期間は僅かだったが、初めての東京暮らしだったためか、印象は強く、42年経った今でも鮮明に当時のことが懐かしく思い出される。

---地下鉄東高円寺駅のすぐ先、左手---

蚕糸の森記念公園(13:57)

 その存在自体は予てより知っていたが、行く機会がなかった場所なので、今日は絶好のチャンスになった。昭和55年の蚕糸試験場筑波移転跡地に造られた防災・福祉一体の公園で、鬱蒼とした樹木が茂っている。幅広の滝があり水量も多いので、街道歩きで疲れた身体を癒せる絶好地だ。ここで暫しの休憩をとる。トイレもある。
 まず正面入口を入ると「つどいの広場」。正面にはシンボルの大滝が幅30mと左右に大きく弧を描き、最大11.5m3/分の水流が涼感を誘う。このほか、いこいの広場、遊びの広場、スポーツ広場など、27,146m2の広大な敷地を区民のために提供している。惜しむらくは、ホームレスっぽい人達が何人か散見されたことで、この寒さの中、風景的にも寒さを増す感がある。サブプライム・ローンに始まった世界的不況で職や住まいを失った人々が増えたと言われているが、ノー天気に街道歩きをしていていいのかと思わなくもないが、せめて今日は昼食も一滴の飲み物も取らずにいることで、勘弁していただこう。

妙法寺参道入口(14:03)

 公園の西端を出ると、古めかしい青銅製の大きな燈籠が歩道上に一対ある。有名な堀ノ内のお祖様「妙法寺」への参道入口に建てられたもので、ここを左に入って行くと約1km先に妙法寺がある。
 今日は、見どころ満載に加えて、都会地特有の信号待ちによる時間ロスもあり、昼食抜きでここまで来たものの、ゴール予定だった田無駅までは到底行けそうにないため、少し先で本日の歩き納めにする代わりに、片道1km程ある妙法寺を参拝往復することにして、その旧参道を歩き始める。

妙法寺(14:15)

 妙法寺は、杉並区堀ノ内にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。「(堀之内)やくよけ祖師」(おそっさん)として殊に厄除けのご利益がある寺院として知られ、江戸時代から人気のある寺院で、現在でも、参拝する人が多い。古典落語「堀之内」の題材にもなるなど、街の顔にもなっている。

 創建は、元和年間(1615~1624年)と伝えられている。元々は真言宗の尼寺だったが、日圓上人により後に日蓮宗に改宗。山号は日圓上人に因み、「日円山」と称する。当寺院の日蓮像が厄除けにご利益があるということで、江戸時代から多くの人々の信仰を集め、現在でも、厄除けなどのご利益を求めて多くの人が参拝に訪れる。 元々は中本山であったが現在は本山(由緒寺院)に昇格している。文政3(1820)年刊行の「武蔵名所図会」に「参詣群集すること浅草観音に並べり」と繁盛ぶりが紹介されている。

 到着すると、駐車場も広いが、境内は流石に広大かつ重量感・荘重感たっぷりで、参拝者の数も本日探訪の神社仏閣中、ダントツである。11代将軍家斉や12代家慶が当書院に立ち寄り休息したことから一層有名になったという。

---その暫く先が「五日市街道」の起点---

 当初、この青梅街道餐歩とほぼ同時進行を計画していたのが「五日市街道」で、地下鉄丸ノ内線新高円寺駅のある「五日市街道入口」(こちらの新道は平成11年完成)信号の一つ先の信号のある交差点(入口の東側は梅里1丁目6番、西側は同2丁目1番)を左折するのが旧五日市街道の東起点であり、改めてその決意を新たにしながら分岐点を実地に確認して先へ進む。この辺りは古くは「馬橋おんだし」と呼ばれていたそうだ。

 14:55、本日は、この地下鉄丸ノ内線新高円寺駅をもって歩き納めとし、新宿経由で帰路についた。