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 2010.02.14(日) 青梅街道#3 武蔵関 〜 新小平駅

スタート

 9:40西武新宿線「武蔵関駅」に到着。前回の第2回目から数えて1年と2日目ぶりの青梅街道歩きだが、前回同様わが北政所のお供をしてのきょう、改札口を出ると正面にパン屋さんがあり、好みのパンがあったのでついつい適当に公園ででも・・・と買い求め、ザックに収め、南口から、前回の徒歩終着点である青梅街道「関町南三丁目」交差点近くに出て右折し、9:56に街道歩きをスタートする。

 懸念された寒さも、さほど感じず、風がないので助かる。まあ絶好の歩き日和と言えそうだ。

供養塔(10:16)−−−約1.1km先の三ッ塚バス停の右手−−−

 暫く歩いて「東伏見四丁目」のY字路で青梅街道は右前方への道を選ぶ。100m程先、右手の保谷氏の屋敷塀の手前の一画を区切って、お堂がある。恐る恐る扉を開けると、中に笠付きの供養塔らしきものがあり、地元の人達からの供花がある。
 豪壮な保谷氏邸の先は、前方の石神井川に向かって道が下り坂になっている。

東伏見稲荷神社(10:24)・・・西東京市東伏見1−5−38

 右手前に「坂下交番」がある「東伏見」交差点を右折すると、石神井川の先右手に「東伏見稲荷神社」がある。広い駐車場があり、創建以来3回目となる昭和47年9月建造の朱塗りの大きな稲荷鳥居が目に入る。境内に入ると、お宮参りの赤ちゃん連れをはじめ参拝客が結構多い。

               
神社名 東伏見稲荷神社
 主祭神名 宇迦之御魂大神
 由緒
 当神社は昭和四年に官幣大社伏見稲荷神社(京都鎮座)の御分祀として創建された神社です。御祭神は衣食住など人間生活のすべてを守り給う大祖神で、皇城の守護・万民豊楽の大恩神と崇められ給う御神霊であります。
 伏見稲荷大神の御分霊を奉斎したいとの関東方面稲荷信仰者の熱心な希望と、稲荷信仰者の参拝の便を計り、また迷信など誤った信仰の是正浄化を計ろうとする伏見稲荷神社の協力によって当神社が創建されました。
 東伏見と云う神社名は、京都伏見から東にお遷しした神社と云う意味です。御霊代が京都から着御と同時に西武線元上保谷駅が東伏見駅と改称され、其の後地名も東伏見となりました。
                              北多摩神道青年会


 なお、御祭神は「宇迦之御魂大神」のほか、「田彦大神」「宮能売大神」を祀っている。
 稲荷社独特お狐さまだが、右側に立つ狐がくわえているのが宝珠、左側に立つ狐がくわえているのは穀物倉の鍵と言われているそうで、お稲荷さんは、狐を祀っているのではなく、狐が稲荷大神のお使いだそうな。

 大鳥居の左には「犠牲者慰霊塔」があり、桜門の左には中島飛行機の寄贈の「掲揚塔」がある。戦前、青梅街道南側に中島飛行機武蔵野製作所があった関係で空襲による犠牲者も多かったのだとか。

 朱塗りの拝殿や奥の本殿を取り囲むように、周囲にお稲荷様独特の赤い幟が林立した参道があり、「お怐vと称される境内各社が祀られている。向かって右から順に記すと、金鷹社・権太夫社・要町稲荷社・太郎稲荷社・三徳社・末広社・宇迦之御魂大神・稲荷社・保食大神・白狐社・佐田彦大神・愛法稲荷大神・十誡徹修・愛徳稲荷大神・八幡大神・綾太郎稲荷社・開照大神・祖霊社・末広社・白狐社である。

柳沢地区の原爆投下訓練と爆弾破片(10:50)

 東伏見信号から西側の左右(南北)が柳沢地区だが、一丁目(北側)の「しじゅうから公園」東側にB29から投下された超大型爆弾は、原爆投下訓練のために全国約50ヶ所で行った原爆模擬爆弾だそうで、長崎投下と同型のかぼちゃ型パンプキン爆弾は重さ1万ポンドに及び、高性能爆薬だったため、爆風も非常に大きかったそうだ。
 ひとつ間違えば・・・と思えば、当時東京住まいではなかったとは言え、空恐ろしい気がする。

 そこで、西部柳沢駅南口の保谷公民館エントランスに、新川改修工事の際に見つかった爆弾の残骸が展示されているとのことなので、やや寄り道にはなるが、怖いもの見たさもあって見に行く。
 エントランスを入った直ぐ右手に、その残骸や当地の当時の航空写真・解説文が展示されている。

               
中島飛行機工場への爆撃
          1944年1945年(昭和19年〜20年)ころのお話です
 日本とアメリカが戦争をしていたころ、ゼロ戦(日本の優秀な戦闘機)などのエンジンを作っていた、中島飛行機という軍需工場が武蔵野市緑町(現在の武蔵野市役所や武蔵野中央公園のある場所)にありました。この工場はアメリカ空軍の東京空襲の第1木標になり、1944年(昭和19年)11月24日から始まったB29や戦闘機による集中爆撃を10数回にわたって受けました。
 工場が保谷市のすぐ南側にあったので、保谷市はそのはずれ弾が落下して被害を受けました。そのため、45年経ったいまでも、建築工事などで掘り下げると不発弾やこのような残骸や破片が出てくるのです。この残骸は1990年(平成2年)10月10日、保谷市役所の北川を流れる新川の改修工事中に掘り出された爆弾の残骸です。


庚申塔(11:06)・・・左手、石神井川の畔

 街道に戻り、中国原産のトウカエデに変わった街路樹下を通って、その先の石神井川を渡った左手(街道右手に東京トヨペット保谷店がある左手露地を入った左手)、川の畔に「宝永五年(1708)」銘の庚申塔が、お堂の中にあり、同年配の男性が丁重に参拝しておられた。

 堂内後方には武者絵のような錦絵があり、供花もあって地元の人々に大切にされている様子が伺われる。西東京市の文化財に指定されている。

六角地蔵石憧(11:17)・・・西東京市保谷町4丁目7番

 西武新宿線のガードを潜る手前の信号で右折し、踏切を渡った先の富士街道との交差箇所左手前角にある「六角地蔵石憧」に直行する。

        
西東京市指定文化財第二十二号 
               六角地蔵石憧
                              寛政七年(1795)建立
 この石憧は、ほぼ正六角形の石柱で、各面の上部に六体の地蔵菩薩立像を浮彫りにし、その下に銘文を施しています。
 「つや」という女性と「光山童子」の菩提を供養するために、野口助右衛門と秋山十右衛門が、江戸市ヶ谷田町の石工角田屋に注文して建立しました。富士街道と深大寺道との交差点が交差するところに立ち、道標を兼ねています。
 西浦地蔵講が毎年七月二十四日に供養しています。
               昭和六十一年三月
                              西東京市教育委員会

富士街道

 ところで、新たに「富士街道」という名称を知ったが、調べてみると次の東京都道の一般名称のようだ。
     * 東京都道441号池袋谷原線(東京都道311号環状八号線交点〜谷原交差点)
     * 東京都道8号千代田練馬田無線(谷原交差点〜東京都道4号東京所沢線交点)
 また、練馬区石神井台には、街道上に西武バスの「富士街道」という停留所があり、江戸時代には、「ふじ大山道」とも呼ばれ、それが名称の由来になっている。東京都道4号東京所沢線交点とはこの三叉路のことである。

弘法大師供養塔(11:21)

 元に戻らず富士街道をその侭東進して青梅街道が西武線の高架を潜ってきた信号に出ると、東南角に「嘉永七年(1854)」銘の「弘法大師」と刻んだ供養塔があり、基壇の左側面に「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と刻まれ、道標を兼ねているが、“青梅までまだ七里か!”と改めて今日の歩きとの関係で残り距離を実感するところだ。

田無神社(11:28)・・・西東京市田無町3−7−4

 その北西160mの「田無町一丁目」交差点(青梅街道と所沢街道との分岐点)は、「御嶽菅笠」にも載っている田丸屋(酒屋)が現存する「秩父道」(現所沢街道)との追分である。そこから西へと左折し、古い街並みを通って、次の信号に出る手前の右手に、風格のある「田無神社」がある。

 本殿・拝殿は、安政6年(1859)、当時江戸彫物御三家と言われた嶋村俊表の彫工で、東京都指定有形文化財になっている。

 この田無神社は谷戸(注:田無北部の水の豊かな地域名)から遷座したものだ。文献によると、田無という地名が記された最古のものは、永禄2年(1559)に書かれた「小田原衆所領役帳」という古文書で、「田無南沢」という地名が記載されている。現在の青梅街道沿いの田無の中心地は、青梅街道の整備とともに慶長年間(1596-1615)北谷戸から強制的に移住させられたもので、水が乏しいため谷戸まで汲みに行っていたそうだ。

               
尉殿大権現
               田無神社由緒記
 田無神社の創立は遠く不祥です。本宮はすでに正応年間(鎌倉期、十三世紀)に谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現(尉殿権現社)と呼ばれていました。時代は下り、徳川家康が江戸幕府を開くにおよび、当神社は元和八年(1622年)に上保谷に分祀し(尉殿神社)、さらに寛文十年(1670年)に現在の地に遷座したのです。当神社は明治五年(1872年)に田無神社と改称し、現在に至っております。
 御祭神の尉殿大権現(級津彦命、級戸辺命)はすべての命の源である水と、萬の災を祓う風を司る豊饒と除災の守護神でその御姿は金龍神として顕現いたします。金龍神は境内の東西南北にお祀りされている青龍神、白龍神、赤龍神、黒龍神の中心となり、御龍神として、その御神威をいや高めに高め、あらゆる災難、悪しき方位の障りを祓い除けて下さいます。
 田無神社には大国主命も主祭神としてお祀りされております。大国主命は、厄除、商売繁盛、学業成就、病気平癒、縁結び、国土開発の神様で、世に福の神と呼ばれ、そのご神徳の高さ、ご慈愛の深さは計り知れません。
 また田無神社本殿には須佐之男命(厄除、病気平癒、子育ての神)、猿田彦命、八街比古命、八街比売命(交通安全の神様)、日本武尊命、大鳥大神(開運、商売繁盛の神様)、応神天皇(外国文化を導く神様)さらに御神徳の高いすべての神様をお祀りしてあります。

「宮山からの遷座」

 大量の石灰(城や町の壁の材料)が青梅から運び出され、青梅街道の往来が盛んになると、幕府直轄領だったこの地の人々は幕府の政策に従い、水の豊かな谷戸周辺から水に恵まれぬ青梅街道沿いに移り住み、宿場町を形成した。

 室町期までは鎌倉街道を中心にした村落形成だったが、江戸期になると青梅街道が主たる導線となり、この地の人々は青梅街道を中心に村落を形成していった。しかし、移住直後は生活用水にさえ困り、人々は谷戸まで水を汲みに行く生活を余儀なくされ、このような状況は、元禄9(1696)年に田無用水が玉川上水から分水されるまで続いた。

 田無神社本殿の正面には湧き水から水を汲む図が彫られており、谷戸から移り住んだ祖先の労への労いと、本体は水の守り神である尉殿大権現への篤い信仰をそこに見ることができる。

 このような歴史の中で、人々は宮山に鎮座する尉殿大権現を、まず正保3年(1646)に宮山から田無(現在の地)に分祀した。その際、上保谷の尉殿大権現から男神の級長津彦命を田無に遷座することで、田無と上保谷の尉殿大権現を夫婦神として位置付けた。

 そして宮山に鋸っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座した。その時(1646年or1670年)建てられた本殿は田無神社境内に残っており、現在は野分初稲荷が祀られている。

「宿場町田無の隆盛と本殿造営」

 江戸後期になると田無は単に宿場としてのみならず、産業、医療、福祉、文化の栄える町として大きく発展した。とりわけ、三代にわたる名主下田半兵衛(富永、富宅、富潤)の貢献は特記すべきものがある。

 下田半兵衛は、徳川御三卿の一橋家に出入りし、製粉、養蚕等の産業を興し、賀陽玄雪(池田藩侍医、書家)玄順(玄雪の子、医師、教育者、書家、俳人)をブレインとして、医療(無医村の解消)福祉(稗倉の設置、養老畑の設営等)事業に大きく貢献するばかりか、文化事業にも力を入れた。このように田無が最大の隆盛を迎えた時期、二代下田半兵衛(富宅)は賀陽玄順の助言を得て、安政5年(1858)に江戸から名工の誉れ高い嶋村俊表を招き本殿を再建した。

総持寺(11:40)・・・西東京市田無町3−8−12

 山号を「田無山」と号する真義真言宗智山派の寺で、寺院の少ない田無地区の代表格の寺である。多摩八十八ヵ所霊場の第三十三番札所でもある。

 開基は不明だが、元々は谷戸にあって法界山西光寺と称されていたが、天保2年(1831)に当地に移転し、明治8年(1875)、上宿観音寺・下宿蜜蔵院と3寺併合で創建された。関東三十六不動霊場の第十番札所に数えられ、新東京百景にも選ばれている。尊は不動明王木像である。

 明治維新の変革期には旧幕臣による騒擾事件が頻発したが、当寺も振武隊(上野の寛永寺を屯所として立て籠もった彰義隊の一分派)の乗り込みで荒らされたが、今やそんなことがあった痕跡は全く留めていない。その首謀者渋沢成一郎は渋沢栄一と同郷の従兄弟であり、後に飯能に逃げ、本営にした能仁寺など4か寺・民家二百余を灰燼に帰せしめる等、壊滅的打撃を与えている。

 立派な山門には見事な仁王像が屹立し、山門を入って左手の「妙見堂」には田無の名主・下田半兵衛富宅(トミイエ)の厨子付き木像(安政6年=1859作)が安置されている。富宅の子息三右衛門富潤が、父富宅58才の時に製作した寄木造り、玉眼の座像で、厨子の扉裏には富宅の功績が漆書きされているという。

 市指定の大きなケヤキのある境内では、だるま市や梅の市などが開かれるようだ。山門前には曾ての田無用水の北部分水跡である「やすらぎのこみち」が横切っている。

下田半兵衛屋敷跡(11:48)・・・西東京市田無町2丁目10番

 総持寺のすぐ先左手のビルの間を左に入る道に、旧田無村名主だった下田半兵衛の屋敷が残っている。安政4年(1857)築の市内最古の民家で、この役宅が建てられた時には、時の老中3人と幕閣重臣25名が立ち寄り、明治16年(1885)4月16日には明治天皇の行幸もあったという。屋根が高く、大きくて風格を感じさせる。

稗倉と養老田碑(11:49)・・・西東京市田無町2丁目12番

 旧田無村名主だった下田家の向かいの駐車場の脇に、飢饉に備えて貯蔵した「稗倉」と「養老田碑」がある。次の解説板の左脇に「文化財を大切にしましょう」とは記してあるものの、「稗倉(文久3年=1863再建)」は壊れかかっており、「養老田碑」(天保9年=1838建)も礎石が傾いている。市の教育委員会は関心がないのか予算がないのかその両方なのか「佛作って魂入れず」を地で行くような有様で、場所を「ここですよ」と案内してくれた地元の人も同意見だった。

    
 西東京市指定文化財第四号   稗  倉
                        天保九年(1838)建立 文久三年(1863)再建
天保四年から7年(1833〜36)にかけての大飢饉は言語を絶するものでした。田無村名主下田半兵衛は村に貯蔵していた稗を残らず拝借して救済に当てましたが、その補充ができないうちに次の凶作に見舞われるというありさまでした。
 天保九年(1838)半兵衛は凶作に備えて稗を蓄える方法を代官に願い出て、自分の庭に五百石入りの稗倉一棟を自費で建てました。貯穀は、半兵衛ほか主な百姓三十九人で百両を出費し、それを貸し付けた利子で年々稗を蓄えるという方法でした。そして倉がいっぱいになったあとは、干支にちなんで十二分の一ずつ年々詰め替え、古穀を貧困者並びに火災・病難等の者に分配するというものでした。
 稗倉は文久三年(1863)に建て替えられ、その一部がここに残っています。また、谷戸町にもこの稗倉の一部が残っています。
 稗倉の外部は厚い板を上から落とし込み、晴雨によって外壁の板が伸縮して湿気を調節する板倉造りです。
               昭和四十二年二月
                              西東京市教育委員会

     西東京市指定文化財第七号   養老田碑
                              安政年間(1854〜59)建立
 この碑には、江戸時代後期の凶作相次ぐ時代に、田無村名主しもだ半兵衛富宅の行った善政を、子孫に伝えるための碑文が刻まれています。名主下田半兵衛富宅の出自、村民を思う人柄が記され、また、安政元年(1854)に養老畑を開き、「惜しみて施さざれば天に報ゆる所以に非ざる也」と、村内の生活困窮人や老人、往来で行き倒れた人らを保護したことや、二十九年間にわたって周辺四十一ヵ村の寄せ場名主を務め、その間、訴訟が頻発する関東の農村で、幕府の法廷を煩わせるようなことがなかったことなどが書かれています。
 碑文は、幕末の著名な儒学者安井息軒によるもので、田無村の学舎賀陽済(カヤワタル)の筆によるものです。安政年間(1854〜59)に建てられたものと推定されています。
               昭和四十五年七月
                              西東京市教育委員会

養老畑碑(12:00)・・・田無町4−5−21(田無小学校内)

 「田無駅北口」信号の次の「田無署」信号左折すると、正面に「田無小学校」があり、正門を入ったすぐ右手に「養老畑碑」が見える。日曜日だが校門は開いており、お母さん方が立ち話をしていたので断りを入れて門内に入れて貰った。

     
西東京市指定文化財第八号    養老畑碑
                              安政元年(1854)建立
 この石碑は、養老畑が設けられた場所(現在の田無神社の裏手付近)に標識として、安政元年(1854)ごろに建てられたものです。
 江戸時代の後期は、相次いで飢饉に見舞われるなどの天候不順で凶作が続いたため、農民の生活は苦しいものでした。これを憂えた田無村名主下田半兵衛富宅は、安政元年、自分の所有地一町歩(約一ヘクタール)を提供し「養老畑」と名づけました。この土地を村民に小作に出し、そこからあがる作徳を村内の七〇歳以上の老人に小遣いとして与えました。この養老畑は、明治元年(1868)に廃止されるまで続けられました。
 養老畑の由来は、養老田碑(西東京市指定文化財第七号)に記録されていますが、現代の福祉行政の先駆と見られる名主による善政でした。
 この碑の筆跡は田無村の学者賀陽玄雪が書いたものと考えられています。
               昭和四十五年七月
                              西東京市教育委員会

上宿・田無町5丁目

 街道に戻って「田無町五丁目」の手前に「上宿」というバス停があるが、柳沢宿(田無宿)の名残であり、旧街道ウォーカーにとっては嬉しい遺産である。

 12:08、すぐ先で南北に走る府中街道との「田無町5丁目」交差点、左手マンションの一画に「祠」があり、「庚申塔」や「百箇所供養塔」がある。供養塔は安永5年(1776)建立のもので、右側面には「是よりふちう道」とある。わが家にある地図には「府中道」と掲載されている。

ふれあいのこみち

 「田無町五丁目」前後には、青梅街道と並行して、南と北に引かれた田無用水跡を暗渠にして整備した「ふれあいのこみち」がある。2本の経路のうち南側を青梅街道と並行しているもので、北側のは、先刻立ち寄った「総持寺」山門前で見た「やすらぎのこみち」と称されている。

久米川街道と「やすらぎのこみち」(12:10)

 「田無町五丁目」交差点の先100m程を右折し、久米川街道を50m程行くと、その「やすらぎのこみち」と交差する。こちらは総持寺門前へと繋がる青梅街道の北側に引かれた田無用水の跡である。



馬頭観音と地蔵尊兼道標(12:10)

 この右手には天保15年(1844)の「馬頭観音」、左手には安永8年(1779)の「地蔵尊」がある。
 いずれも久米川街道と青梅街道との分岐点にあったものが50m程北へ移設されたもので、地蔵尊の側面には「右くめ川 をんだ」「左をめ」と刻まれ、道標を兼ねている。

柳沢宿(田無宿)の西端・橋場

 まもなく「「橋場」交差点にさしかかる。「橋場」の地名由来は田無分水がここで青梅街道を横切るので橋が架かっていた場所だったからである。

 承応3年(1654)に玉川上水が、明暦3年(1657)には小川分水が引かれたが、その小川分水から分水された新堀用水から、元禄9年(1696)に関東管区警察学校南側付近で再分水したのが田無用水であり、柳沢宿(田無宿)の発展はこの田無用水とは不可分の関係にあると言ってよく、その遺構が、暗渠として遊歩道になって残されていることは、旧街道ウォーカーとして誠に喜ばしい。

 ここ「橋場」信号で道は三方に分岐する。直進が「青梅街道」、右斜め方向が萩山から箱根ヶ崎方面への「成木往還」で、昭文社地図には東京街道という名前で載っている。左斜めへの道は「立川道(鈴木街道)」である。

 12:17、この青梅街道と成木往還(東京街道)との分岐には「地蔵尊」と「庚申塔」がそれぞれ「祠」に入って並んでいる。

 そして、この橋場が柳沢宿(田無宿)の西端である。慶安2〜3年(1649〜50)の「武蔵田園簿」に
 「一、中野より田無町迄三里三町 道広四間五間」
 「一、田無町より青梅迄七里三町、但原道此間に原有」
 「一、原の間六里家なし」
とあるように、中野・青梅間には田無があっただけで、中野から三里、青梅まで六里の間に一軒の家もなく、小川村が開拓されるまでは草茫々たる原野だったことが判り、ここ田無を町と言っているので、相当の集落であったことも窺われる。(その開発の一部については後出「円成院」の項)。

昼食(12:19〜12:37)

 時刻は12時を過ぎたのに、折悪しく公園などに行き合わさないが、右手に入り込んだ広場(「橋場」バス停)がバスの待機場になっていて、ベンチもあったので買い求めていたパンで昼食とした。飲み物も先刻コンビニで買っておいたので、暫しの休憩にもなる。

北芝久保庚申塔・地蔵尊(12:57)・・・西東京市芝久保町4−12−48

 元気を取り戻して再出発し、「北芝久保バス停」の先左手の「いずみ幼稚園」の先の右手に佇んでいる庚申塔に立ち寄ると、立派な解説板も建っている。
 そこより70m位手前の街道左手にも「地蔵尊」が建っている。

     
西東京市指定文化財第六号   北芝久保庚申塔
                              延宝二年(1674)建立
 この庚申塔は、延宝二年(1674)に北芝久保に入植した出百姓十八名によって建立されました。この庚申塔は、新田のはずれの標識でもあり、開拓のモニュメントでもありました。多摩地域全体を見わたしても、とくに初期に建立されたものにあたります。
 碑面には、中央に「為奉造立菩提也」の文字が刻まれ、その下に三猿の浮彫りがあるだけで、青面金剛のない古い作風を伝えており、日天・月天・剣先形など神道の信仰が残されています。
 また三猿は、庚申の申(さる)から発展したもので、そのレリーフは、他の庚申塔と比較し、とくに大きく美しいものです。三猿の上方に陰刻されている雄・雌の鶏は、古くは「暁を告げ、悪魔を退散させめ為」という民間信仰でしたが、次第に、「庚申の暁は、鶏が鳴くまで語りあかす」という意味のものとなりました。
               昭和四十二年二月
                              西東京市教育委員会


円成院・・・小平市花小金井1−6−29

  左手に「小平保健所」が見える所から「小平市」に入る。曾ての「野中新田村」である。すぐ先の「(小平)合同庁舎」信号を左折した「(花小金井)駅前通」の右手に「円成院」がある。

               
円 成 院
 この寺の開基矢沢大堅は、江戸中期に中国から渡来した黄檗宗に帰依し、宝永二2年(1705)10月に武蔵国多摩郡上谷保村(現国立市)に円成院という寺を開いていました。
 享保7年(1722)7月、幕府の新田開発の布令が出ると、大堅は、上谷保村の同志と図り開発
願いを出し、同9年(1724)5月、田無境から立川境に至る513町歩(約5.1ku)の開拓が許可されました。
 大堅のこの発願は、渡来してまだ日の浅い黄檗宗をこの地に広めようとする悲願によるもので、その年の9月、無人の荒野にこの地としては最初の草庵を構え、移り来る農民のリーダーとなり、自らも開拓の鍬をふるったのです。
 移り住む農民も増え、開拓の前途に見透しのついた享保12年(1727)、上谷保村から円成院をこの地に引寺し、師僧実山道伝を勧請して開山に仰ぎ、野中山円成院と称しました。
 大堅の当初の悲願であった開拓地全域の農民を自らの檀家とする理想は果されませんでしたが、多数の農民から帰属を得て今日に至っています。
 現在の堂宇は平成3年10月に建設に着手し、平成6年3月に完成しました。あわせて庫裡、鐘楼も新築されました。
 宗派 黄檗宗 大本山万福寺(宇治市)末寺
 本尊 薬師如来
 開山 実山道伝
 開基 矢沢大堅
 本堂 309.88平方メートル
 鐘楼  17.80平方メートル
    鐘には「天保六乙未四月当山八代棹雪江敬識」の銘があります。
               平成21年3月
                              小平市教育委員会
                              小平郷土研究会


<野中新田>

 享保8(1723)年、願地区分のため代官と江戸町奉行の与力が検分に来て杭を打つことになったが、願人の間に重大な問題が起きた。新田開発の権利金と言うべき、冥加金250両を上納できる者がいなかった。そこで当時鈴木新田の開発に出資していた野中屋善左衛門に、新田の村名に善左衛門の苗字をつけ、土地も望み道り願人たちで割合って差し出すと言う条件で出資して貰うことになったという。

 その「野中新田」は、広大な面積を持つ分散した新田だったため、享保17年(1732)に北野中・通野中・南野中の3組に分割され 各組名主には与右衛門、善左衛門、六左衛門が任命された。円成院は与右衛門組で、寺の墓地から西が善左衛門組で善左衛門が延命寺(注:街道1.5km程先右手)の開基となる。新田は昭和37年10月市制施行まで善左衛門組 与右衛門組、六左衛門組(現在国分寺市)に分かれていた。

◇旧山門と旧観音堂

 墓地の横裏(本堂に向かって本堂右後ろ)にかなり古い門と小さなお堂がある。これは 昭和27年の大改築以前に使われていた山門と旧観音堂で、中に祀られていた観音様は谷保の「南養寺」に返還された。

◇結界石

 朱塗りの美しい大きな山門前の向かって左脇に、「不許葷酒入山門」と彫った結界石がある。「結界」とは教団の僧尼の秩序維持のため、特定区域を限ることであり、寺院門前に標語を刻記してある石柱を結界石と称するが、禅宗の寺院に多く見られるものだ。
 文字の由来は、江戸初期日本に黄檗宗を伝え、開祖となった隠元禅師が門弟、修行者を戒めた法語の中の一節「本山及び諸山にて黄檗の法窟と称する者は葷酒を山門に入れ、仏の重戒を破るを許さず」からと言われる。酒を飲み、精の付く物を食べて心乱れている者、不逞の輩は修行道場(寺)内に入る事は許さないという意味で、葷酒の葷とはネギやニラ等、臭気が強く精力の付く
ものをいう。

◇庚申塔

 見事な大銀杏が真ん前にある本殿の左側に3基あり、嘉永元年(1848)造立のもので、多摩郡野中世話人村人・同善蔵とある。

地蔵堂(13:20)・・・小平市花小金井1−27付近

 円成院とは道を隔てた向かい側に小さな御堂があり、地蔵尊が祀られている。

子守地蔵尊(通称秀五郎地蔵、小平の良寛)(13:30)・・・小平市花小金井5−21付近

 右手のバス停「花小金井6丁目」前の駐車場角にある。妻帯もせず、近所の子ども達を遊ばせる無類の子供好きの浅田秀五郎というる人の遺言「死んだら地蔵にしてくれ、子供を数多くの災難から救いたい」に従って、甥の勘兵衛が文久3年(1863)に願主となって地蔵を建立したものと言われている。

 地蔵前では子ども達が交通禍にあってもかすり傷一つない奇跡が再三起こっているそうで、現在も人々の敬慕を集めている様子が、供えられた花などが物語っている。

武蔵野神社(13:36)・・・小平市花小金井5丁目461

 300m程進み、右手「小平武道館」の先にある。

               
武蔵野神社
 武蔵野神社の起源は、の中新田開発のときにさかのぼる。上谷保村(現国立市)の円成院住職大堅と矢沢藤八らは、新田開発に当たり全開墾地を12等分し、その一つを社地と寺地にすることを決めた。そして、新田開発の基礎ができた享保9年(1724)9月3日、上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として之中新田に遷宮したのである。
 以来、円成院(花小金井1丁目、享保12年(1727)上保谷村より引寺)が管理していたが、明治維新の際に分離独立し、末社として祭ってあった猿田彦大神を邨鎮守に祭祀して社号を「武蔵野神社」とした。
 昭和37年9月から11月にわたり、社殿の屋根葺き替えその他の大改修が行われている。
  祭 神 猿田彦命
  祭 礼 10月3日
  境内地 832平方メートル(以下略)
                              小平市教育委員会
                              小平郷土研究会


 神主は府中六所宮神官が奉幣の奉仕をし、以後名主定右衛門と善左衛門組名主後見が隔年に神酒・灯明等の神事を勤めることになった。

 時が止まっているような銀杏並木の立派な長い参道があり、イチョウ・サワラ・ケヤキなどの大木が聳えている。
 社殿左には猿田彦大神の人間大の像がある。猿田彦は道案内の神と言われ、旧街道ウォーカーとしては特段の尊崇対象である。
 また、参道右手には大きな自然石の壁面に6つのくり抜き窓を刻み、七福神像を安置しているのが珍しい

          
サルタヒコノオオカミは「道ひらきの神」
開運・交通安全の神様です。背が高くて目が光っていると日本書紀には記述があり、天狗の原形ともいわれている神様です。
武蔵野神社にあるご神像は、大きな目とがっしりとした体型は穏やかで優しく、なんともあどけない印象の神様です。

 これは青梅街道沿いにある手打ちうどん指田屋の店主が造って寄贈したものだそうだ。

 このほか、
 ◇寛永年間の地蔵尊・供養塔(境内)
 ◇常夜灯(武道館前)・・・文政8年(1825)氏子中建立
 ◇野中新田与右衛門組名主・高橋定右衛門の墓(墓地)・・・明治2年の御門訴事件で獄中死した市内唯一の犠牲者
 
 御門訴事件というのは、武蔵野新田開発統治していた品川県が打ち出した「凶作に備えて農民から穀物を強制的に取り立て備蓄する社倉政策」に対して新田12ヵ村の農民達が猛反対して品川県へ門訴した事件である。名主・組頭各6人ほか計15人が重刑に処せられ、内5人(一説には9人)が獄中死したと言われている。

地蔵尊・地蔵堂供養塔(13:44)

 「平作」の先右手の路地の左右に並んでいる。手前側の供養塔は四角い石柱形で「奉造立地蔵堂供養塔」安永九年(1780)五月、先代名主高橋定右衛門宅で佐渡国の呑海が世話になった折に造ったものの由で、「佐渡國□□郡□□村 願主呑海」などの字が読める。

 もう一基は、赤帽と赤肩掛けを掛けられ、片膝を立てたようなポーズの地蔵尊で、供花やお水が備えられており、地元の人達に大切にされている様が感じられる。基壇に「宝永戊子二月九日」の字が読めるので、宝永五年(1708)造立のものと判る。

多摩湖自転車道と小平ふるさと村

 「西武新宿線」の踏切を越え、すぐ先の緑道(「多摩湖自転車道」)を右に入ると、すぐ右側に「小平ふるさと村」があり、立ち寄ったが、残念ながら改修工事期間中で立ち入れない。

 ここでは、江戸初期から明治時代の建物を移築・復元して展示しており、火の見櫓・消防小屋・旧小川郵便局舎・旧小川家住宅玄関・開拓当時の復元住居・水車小屋・旧神山家住宅母屋・備蓄令により非常用穀物を備蓄した旧鈴木家住宅稗倉(穀櫃)など、往時の新田開拓当時からの人々の生活ぶりが判るそうである。

 復元民家の入口には「小平糧(カテ)うどん」の暖簾がかかっている。江戸時代の農民の主食は粟や稗で、米や小麦は貴重な現金収入源だった。その貴重な小麦を盆や正月等にのみ極少量製粉して饂飩にして食べた。野菜を茹でたものを糧といい、うどんと一緒に食べたので「ふるさと村」では「小平糧(カテ)うどん」と名付けて普及を図っているようだ。青梅街道と並行した形で小川村の南北それぞれに引かれていた用水も復元されている。

 市指定有形文化財の茅葺民家の南側には屋根まで届く高い「シラカシの生垣」がある。これは入場できないでも表の通から覗き見ることが出来たが、風防目的のみならず田畑で使った火の粉の茅葺屋根への引火防止目的もあったそうだ。このシラカシとイチョウ・サンゴジュを三大防火樹というのだそうだ。イチョウだけは神社仏閣にその目的で植えられていることを知っていたが、シラカシ・サンゴジュについては初知識である。

 延宝2(1674)年頃の「小川村地割図」も掲示されているそうで、これは是非見たかったのだが別の機会に譲りたい。東西方向に三本線があり、真ん中が青梅街道、上・下が「小川用水」になっている。街道沿いに家があり、その後に長方形の田畑が整然と区割りされているそうだ。
 現代の地図で見ても、街道の南北に延々5km程小川用水が続いている様は壮観で、逆に言えば「この用水無くして、新田開発は不可能」だったことが改めて実感できる。

延命寺(14:07)・・・小平市天神町2丁目296

 街道に戻って「天神町1」信号を渡った右手に、先述の「延命寺」がある。寺の裏手が「多摩湖自転車道」で、先述の「小平ふるさと村」と繋がっている。

 「伽羅山」と号する真言宗豊山派の寺で、享保18年(1733)に武蔵国多摩郡中藤(ナカトウ)村(現・武蔵村山市)から移住した野中善右衛門らの農民が中藤村の真福寺の塔頭6ヵ寺のうち延命寺を引寺したのが始まりである。

 本堂ほか、すっきりと再建整備された佇まいは、檀家の裕福さを物語っているような印象を受ける。昭和47年に再建されたという山門も、改修工事中だったため、手前横から境内に入ったが、境内左右に宝暦11年(1761)と正徳2年(1712)建立の大灯籠があり、また境内にある水路が西隣の学校の校庭を二分している。

 改修中の山門前の脇には「庚申塔」があり、陽刻された青面金剛が笑っている。多摩地域でも珍しいものらしく小平市有形民俗文化財になっている。唐破風屋根付角柱型で嘉永3年(1850)の銘である。

          
小平市有形民俗文化財  延命寺庚申塔  昭和六十一年三月 指定
 この庚申塔は、嘉永三年(1850)に造立されたもので、市内に現存する庚申塔の中でも珍しいものです。塔は小松石の唐破風屋根付角柱石で、高さ一.七メートル、正面上段に日輪と月輪があり、青面金剛が魔物の天邪鬼を踏みつけています。その顔は至極柔和で笑っているようにもとれます。また、台座面の三猿は烏帽子をかぶり、狩衣をつけて足をあげ、一匹は左手に扇を持ち右手で口をふさぎ、一匹は手に鈴を持ち右手の扇で顔をおおい、一匹は左手にご幣をかつぎ右手で耳をふさいで、三匹で三番叟を踊っているユーモラスなものです。
 現在小平市には、二十数ヶ所に庚申塔があり、これらは庚申信仰の最も盛んであった享保一五年(1730)から嘉永三年までの一二〇年間に造立されたものです。
               平成十八年三月
                              小平市教育委員会

 左隣には小さな「多摩野神社」がある。

熊野宮(一本榎神社)(14:26)・・・小平市仲町361

 その先の「天神町」交差点までは緩やかな下りで、その先でまた緩やかに登っていく。「天神町」と次の「仲町」交差点の中間で、「熊野宮前」信号を左に続く「熊野宮」への長い参道があり、途中でそれを横切る小川用水路がある。参道左右は民家で、参道の趣は皆無だが、街道入口の大きな鳥居が参道であることを物語っている。

 看板の一本榎は、4代目にもかかわらず、大きすぎてカメラには収まらない。

               
武蔵野乃一本榎  熊野宮  由緒
 当宮は、武蔵国多摩郡殿ヶ谷村鎮座の延喜式内社・阿豆佐味天神社の摂社として、同郡岸村字岸組に奉斎されていた社を、小川村の開拓に着手した小川九郎兵衛と、阿豆佐味天神社の神主で当宮社家の始祖である宮崎主馬が、寛文年間に小川村名主の屋敷内に遷祀し、その後小川新田(現在の仲町、喜平町、学園東町、学園西町と上水本町の一部と上水新町)の開拓を行うのに先立って、その守護神として宮崎主馬が宝永元年(1704)に榎の大樹のもとに祠を建立し遷座したのが縁起である。
 以来この地域の鎮守の社として崇敬を集め、平成十六年(2004)に御鎮座三百年を迎えた。
 往時この一帯は、「逃水の里」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと云われている。
 その当時から重要な街道であった青梅街道と鎌倉街道(現在の府中街道)が、この小平の東西と南北に通じているが、特に青梅街道の田無から箱根ヶ崎までの間には宿場もなく、往還する人々にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようである。
 そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野野の一本榎」と呼ばれていて、両街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたと伝えられている。
 宝永年間の「一本榎」は、既に樹齢数百年を経た老大樹で、その枝は四方の広大なる地域に張り、その投影は百数十間にも及び、盛夏の炎天下にあっても絶えず千古の涼風が吹き通っていたとも伝えられている。
 この初代の榎は、寛保年間(1742〜44)に枯れ木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、末社殿に合祀されている。
 二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正三年九月の暴風雨により倒潰し、現在繁っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木である。
 また、社殿正面には、樹齢約二百五十年から三百年の二本の欅が寄り添って茂っており、「夫婦欅」と呼ばれ夫婦円満の象徴として参拝者に親しまれている。
                           平成十六年五月 熊野宮社務


平安院(14:46)・・・小平市仲町676

 街道に戻って暫らく進み、「小平消防署西」の信号手前の左手に臨済宗円覚寺派の寺院「遠渓山平安院」があり、立ち寄る。

 山門入口の右手に願主・小川弥市郎他が造立した享保2年(1717)銘の「笠付き庚申塔」がある。
 小川新田念仏講・浅見太郎兵衛らが願主になって寛政2年(1790)年に造立した六地蔵もある。

               
平安院
 この寺は、元文4年(1739)、この地小川新田(仲町)に移住した農民の菩提寺として建立されたものである。
 享保9年(1724)5月、幕府の許可を得て開発に着手したこの地は、その後順調に進展し、本寺建立の年には移り住む戸数89戸に達している。
 ここにおいて、本新田の名主小川弥市は、小川寺6代の住職、省宗碩要禅師と図り、この地に寺院の建立を計画、関叔碩三禅師を勧請して開山に迎え、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺の境内にあった寺号を移し、遠渓山平安院と号した。
 開祖関叔碩三禅師は、鎌倉瑞泉寺の住職であったが、隠退して現在の月桂寺の地に、その前身である遠渓山平安院を建立した。元文4年小川寺碩要禅師の懇請をいれ本寺の開山となるや、その年、月桂寺境内にあった平安院の旧堂をこの地に移し、小川新田の農民を檀家としてその基礎をつくった。
 現在の堂宇は移築当時のもので、2百数十年を経過し、建物は小平市の寺院中最古のものである。
 境内に、開祖関叔碩三禅師の法恩に報いるため、昭和27年4月15日、檀家一同で建立した石碑開山塔がある。
  宗派 臨済宗 円覚寺派 小川寺末
  本尊 釈迦如来 脇仏 文殊菩薩 普賢菩薩
  開山 関叔碩三禅師
  開基 省宗碩要禅師
               平成元年1月
                              小平市教育委員会
                              小平郷土研究会


馬継場跡

 平安院のすぐ先から道幅が広がり、旧小川村へと入っていく。

 明暦2年(1656)、小川九郎兵衛の願いで、田無・箱根ヶ崎両宿間(18km)の荒野の道の間に、石灰継立ての宿機能をもつ新田集落が開発されたが、これは、承応3年(1654)の玉川上水と、明暦元年(1655)の野火止用水完成に伴う水不足問題解決という目算に立ってのことだった。

 この辺りから「府中街道」交差点までの約1kmの間、青梅街道の道幅が広くなっている所が往時の「馬継場跡」で、石灰等の継ぎ立てを行うために馬を繋いだ所だという。

 街道右手の「青梅街道駅」の所で、西武多摩湖線の踏切を横切る。

 その先、左右に、屋敷林や蔵のある民家がぽつぽつと目に入る。江戸時代は、このように青梅街道の左右に屋敷林に囲まれた民家が並び、その後ろには畑が広がっていたのだろう。民家の後ろには今でも所々畑が残っている。

青梅街道の解説板(15:08)

 武蔵野線の「新小平駅前」信号の手前右手に「青梅街道」の解説板がある。

               
青梅街道
 慶長8年(1603)徳川家康が、江戸に幕府を開くにおよび、同11年(1606)から開始された江戸城の大改築に重要な資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小木曽から江戸城に運搬するために使われたのがこの青梅街道で、別名成木街道ともいわれた。
 この道は、起点を成木に発し、江戸城の裏木戸、半蔵門まで武蔵野の荒野30数キロメートルを一直線に切り開いてつくられたもので、途中、箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4か所に馬継場が置かれた。
 小川村の開発者小川九郎兵衛が、この地に馬継場を開設したのは明暦3年(1657)で、小川村開発の進展はこの馬継場の開設によるところが多く、正徳3年(1713)の頃には小川村に荷馬158頭が飼育されていたという記録がある。
 小川町2丁目の旧小川6番組から8番組にかけて、今も道幅が広くなっているところが当時の馬継場の跡地である。
 江戸城の改築は、家康・秀忠・家光の3代にわたって行われ、30年の歳月を要したといわれる。幕府御用の石灰輸送は大がかりなもので、大名行列に準じたと伝えられる。
 上り下りの人馬でにぎわったこの街道も、寛政年間(1789〜1801)新河岸側の水運が開けてからは、成木地方の物資は船輸送にかわるようになった。その後は、奥多摩地方の雑穀を四谷・中野方面の問屋に運ぶ交通路として使用された。
 今では面影はほとんどないが、かつてこの街道の両側には新田特有の屋敷森が縁とせり、夏はさわやかな木かげを投げかけ、冬は冷たい北風をさえぎっていたものである。
                              小平市教育委員会
                              小平郷土研究会

ゴール

 ここで、街道距離は約10kmで、立ち寄り距離を含めれば2〜3kmぱ余分に歩いた勘定になるが、先刻から日差しが無くなってきて、3時過ぎになったことでもあり、当初予定では東大和市駅まで歩くつもりだったのを繰り上げ、ここで本日のゴールとすることにした。

 帰路は、武蔵野線であっという間に府中本町に着き、南武線に待たずに飛び乗って分倍河原から京王線に乗り、20分位で自宅最寄り駅に着くことが出来た。

 次回は、来月の第2日曜日に箱根ヶ崎駅近くまでを予定している。
青梅街道餐歩〜第3回
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