青梅街道の由来

 ・・・「蚕糸の森公園」前の解説板から抜粋・・・

 青梅街道は慶長11(1606)年、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡上成木村・北小曽木村(現・青梅市)算出の石灰を産地たる運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く最盛期には年間二万俵以上にも達したといわれます。

 道中には、中野・田無・小川・箱根ヶ崎・藤橋など、継送りのための宿駅もおかれ、区内の田端・成宗・馬端・和田の四箇村は中の宿の定助郷(江戸時代、宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、一か月十日間の伝馬継立を行っていました。

 江戸中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州裏街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。御嶽参詣の道中を記した天保五年(1834)刊行の「御嶽菅笠」は、「荻久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝えています。

 維新後、本道の重要性はさらに高まり、明治時代には乗合馬車が走り、大正十年には淀橋~荻窪間に西武電車が開通しました。西武電車は戦後都電となり、昭和三十九に年廃止されました。

 この道は、最終的には青梅から大菩薩峠を経由して、甲府の東にある酒折村(現・甲府市酒折)で甲州街道と再び合流するため、「甲州裏街道」とも呼ばれた。道程で甲州街道よりも二里短く、しかも関所がないため、庶民の旅客にも多く利用された。

 この餐歩シリーズでは、現・新宿三丁目の甲州街道殿追分から青梅までを対象として歩いてみる予定である。その先は、部分的になるが、「奥多摩むかしみち」や、あるいは大菩薩峠など、ほんの僅かながら歩いていることをもって、取り敢えず現時点では今シリーズの対象外としておく。但し、将来気が変わってその先を一人餐歩するかも・・・との予感が全くないという訳ではない。

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青梅街道餐歩~はじめに