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日光街道餐歩
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 2009.08.02(日)  日光道中第9回餐歩記・・・宇都宮宿〜中徳次郎宿
 
【本日の行程】

   JR宇都宮駅→宇都宮宿→徳次郎宿・徳次郎交差点(中徳次郎バス停)

スタート(9:30)

 宇都宮駅に9:15到着。駅西口から地元の飯島氏&常連の村谷氏と合流。前回の街道歩きゴール地点になった「伝馬町」交差点に行く前に、宿内数ヶ所の寄り道スポットに立ち寄るべく、まず、「田川」に架かる「宮の橋」を渡った先右手の「宝蔵寺」を目指す。きょうは地元の飯島氏が一緒なので、道案内ほか、何かと心強く、事実、いろいろとヘルプして戴いた。

 なお、宇都宮宿は宇都宮城の城下町であると共に、宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町、そして日光街道・奥州街道の宿場町として発展してきた。宿の規模は大きく、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒で、人口は6,356人であった。

宝蔵寺(9:33)・・・宇都宮市大通り4−2−12

 「宝蔵寺」は、「光明山摂取院宝蔵寺」と号する天台宗の寺院で、天安元年(857)に慈覚大師円仁が創建した古刹である。本尊は室町時代中期の明応3年(1494)銘の木造阿弥陀如来像と、南北朝時代の文和3年(1354)銘の木造普賢菩薩像であるが、共に市の有形文化財に指定されている。
 円仁が唐から持ち帰った白檀の木が樹齢約1千年以上で枯れた天保15年(1844)に、その木材で十数体造られたとされる「慈覚大師坐像」のうちの一つもある。

 四脚門を潜った先の境内には、天明8年(1788)創建で、中世以来の建築様式を踏まえ、衣裳的にも優れた価値を有するとされる「不動堂(観音堂)や、戦火で廃寺になった粉河寺(小川島町=現・県庁前付近)から出土した石棺(後述)が置かれている。不動堂は、「北関東三十六不動第十九番目成田不動」で、現本堂は平成16年10月竣工と新しい。

<およりの鐘>

 市文化財に指定されている「およりの鐘」がある。この鐘は、宇都宮氏の滅亡(1597年)に伴って廃寺になった東勝寺(日野町通り北側一帯の地)にあったもので、江戸時代には夕暮れ時になると宇都宮城下に鐘の音を響かせ、「おより(御寝り)の鐘」として親しまれていたという。この梵鐘は、高さが117cm、口径81cmで、鐘の中帯に宇都宮氏の家紋(三つ巴)が20個ほどついており、宇都宮氏第8代当主宇都宮貞綱が建立して、菩提寺の東勝寺に寄進し、東勝寺廃寺の折に宇都宮二荒山神社(荒尾崎)に納められ、のち昭和19年(1944)、都市計画の際に宝蔵寺に移されたと言われる。なお、「おより」の謂われは諸説ある。
   ・およりは「おやすみ」の敬語で、夕暮れになるとお休みの合図として撞いた
   ・鐘の音が一里四方に聞こえた
   ・身分の高い人が宇都宮に「お寄り」になる時に撞いた・・・など

<粉河寺出土の石棺>

 庫裡前の植え込みに置かれている石棺は、明治37年(1904)に県庁前にあった粉河寺跡から出土したもので、中には即身成仏したミイラが納められていたが、第二次世界大戦の戦火で焼失し、現在は石棺のみが残っている。大寺であった粉河寺は、戊辰戦争(1868)や明治24年(1891)の火災で殆どの堂宇を焼失し、同26年(1893)に宝蔵寺に併寺され、焼き残った品々が当寺に移されたという経緯がある。

旧篠原家住宅(9:43)・・・宇都宮市今泉1−4−33

 先刻渡った「宮の橋」を逆に渡り返して左折し、最初の信号の右向こうにある「旧篠原家住宅」に立ち寄る。宇都宮市を代表する旧家の一つ「篠原家」は、江戸時代(18世紀終わり頃)から奥州街道口の現在地で、醤油醸造業や肥料商を営んでいた豪商である。
 現在の旧篠原家住宅は、第二次世界大戦の戦災で明治28年(1895)築の主屋と石蔵3棟を残して醤油醸造蔵や米倉などの建物は焼失したが、黒漆喰や大谷石を使った防火外壁や、商家を特徴づける店先の格子等と共に、1・2階合わせて100坪という規模の大きさが、堂々たる風格を有しており、明治期の豪商の姿を今日によく伝えている。平成8年迄人が住んでいたという。入場料が必要(一般100円)で、国指定の重要文化財になっている。
 宇都宮は陸軍第14師団や中島飛行機の工場があったことから、空襲で被害を受け、殆どが焼けてしまったが、この旧篠原家の建物は幸いにして一部が焼け残った訳である。構造的にも大火のための銅板張りの壁面や、台所で直接火を使わない工夫などをボランティアと思われる人から説明を受けたり、詳しい資料などを戴いた。また、店先には宇都宮の空襲で2,204発(約441t)投下されたという実物の焼夷弾(E46集束焼夷弾)のほか、M69小型焼夷弾ほかが展示されていて、その構造などを知ることが出来たのは予定外の収穫だった。

三峰山神社(9:56)・・・宇都宮市大通り5−3−?

 旧篠原家住宅を後にして、「田川」に架かる「幸橋」を渡ると、右手に細長い狭い敷地に鎮座する「三峰山神社」がある。天保3年(1832)、武州三峰山(火防の神)から分霊して創建されたのが始まりと言われ、扁額には「三峰神社」、門柱には「三峰山神社」と記されている。

 「吾妻鑑」や二荒山神社の社伝によると、文治5年(1189)9月、源頼朝に敗れた奥州藤原氏の一族の生き残りが各所に流されたが、それに連なる分家の樋爪太郎俊衡入道と弟の五郎季衡は、頼朝が奥州攻めの前に宇都宮大明神(二荒山神社)での戦勝祈願に対する勝利のお礼に降人として当地に配されたという。
 三峰山神社に保管されている二つの墓石のいずれかが五郎のものと言われ、宇都宮市では文化財に指定して保護しているとのことである。
 伝説によれば、五郎は故郷恋しさのあまり二荒山神社を抜け出し、3km程逃げた所で追手に捕まって討たれ、その場所が「樋爪坂」と名付けられたが、明治17年(1884)の道路改修時にその坂は消えたという。そして、この樋爪坂近くにあるのが三峰山神社だという。
 また、市内の上三河町には樋爪五郎季衡の末流を刻する墓を持つ一統が栄えているという。

清巌寺(9:59)・・・宇都宮市大通り5−3−14

 そのすぐ先の信号を右折した右手に「芳宮山高照院清巌寺」がある。宗派は浄土宗、本尊は阿弥陀如来である。(後述)
 清巌寺は、鎌倉時代初期に宇都宮氏が建立した寺院を、戦国時代に宇都宮氏の家臣だった清原姓芳賀氏が移築して名前を清巌寺としたのに始まる。
 宇都宮家第5代の当主宇都宮頼綱は、元久2年(1205)幕府から謀反の嫌疑を受けたのを機に熊谷で隠居生活を送っていた当代の英傑・熊谷直実(熊谷蓮生入道)の勧めで法然上人に帰依し、承元2年(1208)に出家して実信房蓮生と号し念仏道に入った。頼綱は京に住み、証空にも師事し、幕府から罪を許された後の建保3年(1215)に市内・宿郷町に当寺の起源となった念仏堂を建立した。頼綱は京の浄土宗光明寺にも念仏堂を建立しており、現在の京都市常盤の西方寺がそれと言われる。
 その後、戦国時代に入ると、宇都宮宗家の譜代の重臣で姻戚関係にもあった芳賀高継が、主家への反骨が災いして自害した兄・芳賀高照の菩提を弔うべく、宿郷町にあった念仏堂を天正元年(1573)に現在地へ移築し、「芳賀氏」の「芳」を採って山号を「芳宮山」、「芳賀高照」の「高照」を採って院号を「高照院」、「清原氏」の「清」を採って「清巌寺」とした。
 慶長3年(1601)、初代の関東郡代・伊奈忠次から寄進を受け、朱印地25石を塙田に有していた。

<木像阿弥陀如来座像>

 本尊の木像阿弥陀如来座像は、螺髪(仏像の頭髪)の粒が大きく、両腕は手首まで衣に覆われ、頬のよく張った堂々たるもので、鎌倉時代末期の作と言われている。この仏像は元は京都の知恩院にあったが、延宝7年(1679)に江戸の西応寺に寄進され、その後の戊辰戦争で清巌寺の本尊が失われたために、明治3年(1870)に西応寺に懇請して寄進を受け、本尊としたという由来がある。

<鉄塔婆(てつとうば)>

 清巌寺境内右手の収蔵庫に保存されている重文の「鉄塔婆」は、高さ3.3m、幅30cm、厚さ6.6cmの長大な鉄製板塔婆である。関東地区に多い板石塔婆(板碑)と同形式だが、材質が鋳鉄製で、かつ長大であることが特色で、木製・石製ならともかく、鉄製でこれ程大きい塔婆は珍しく、国内で他に類例がない。
 塔婆は上部を山形に造り、その下に種子「キリーク」を薄肉に鋳出し、更にその下には来迎形の阿弥陀三尊像を厚肉に表す。下部には四句の偈(げ)に続いて願文が鋳出されている。願文は「夫れ母は四恩の先なり、孝は百行の源なり」という句から始まり、願主の「孝子」(宇都宮8代城主貞綱)が、鎌倉時代末期の正和元年(1312)8月亡母の13回忌供養のために鋳造・奉納したもので、塔婆の上部には阿弥陀を表す梵字や阿弥陀三尊が陽刻され、下部には90字の願文がある。
 鋳造は茶の湯釜の産地として名高い天命(現在の佐野市天明)で行われたと思われ、当初は宇都宮家の菩提寺である東勝寺(現在の宇都宮市日野町一帯)に奉納されたが、慶長2年(1597)、宇都宮氏が改易になり、菩提寺であった東勝寺も廃寺となったためこの鉄塔婆も清巌寺に移された。
国の重要文化財に指定されており、現在は空調の効いたガラス張りの中にあるが、正和元年(1312)造立にしては保存状態が良い。
 この鉄塔婆の見学には、予め電話(028−627−7676)などでお願いしておく必要があるのだが、半開きの外扉を開けると、透明なガラス越しに中の鉄塔婆覗き見ることができた。

<蓮生法師の供養塔>

 また、ここには、宇都宮家5代頼綱(1178〜1259、出家して蓮生法師)の墓がある。頼綱は鎌倉幕府御家人として重要な地位にあったが、元久2年(1205)に謀反の疑いをかけられたため出家して蓮生と名乗った。藤原定家とも親しく、和歌を好んだ蓮生は、京都嵯峨野の小倉山麓に山荘を建て、定家の息子・為家に娘を嫁がせる等交流を深めた。蓮生は山荘の襖に貼る和歌を認めた色紙を定家に依頼したが、これが百人一首の原型だといわれている。蓮生の墓は京都の三鈷寺にあるのでここにある墓は供養塔と思われる。

<子育地蔵尊>

 境内左手にある大きな子育地蔵尊は、正徳4年(1714)9月に清巌寺第9世教円が衆生救済のために造立した古い地蔵尊で、300年近い歴史を持つ青銅製の丈六座像は他に余り類がないが、第二次世界大戦末期の昭和19年12月6日に供出されて以来、大谷石の台座のみが残っていたのを平成7年、供出日と同月同日の12月6日に往時の尊容その侭に復元されたもので、なかなか存在感がある。

<稚児の樹 ヒイラギ>

 昔、二荒山神社例祭(3月15日)の「花の会」に宇都宮家の郎党の子等5人により舞を奉納する習わしがあったが、ある舞いの時、何方からともなく一陣の風の中から天狗が現れ、稚児一人を何処かへ誘引した。暫くして白沢(現岡本地区)で発見されたが既に死亡しており、現在でもその地を「児が坂」と呼んでいる。是を悲しんだ人々が後にヒイラギを墓標としてここに植えて供養したという木が境内左手にあり、以後「花の会」の舞いは稚児4人で舞うようになった由。

生福寺(10:12)・・・宇都宮市仲町2−17

 清巌寺の前を南下し、直ぐを右折して行った右手に、関東88ヵ所第24番霊場で真言宗智山派の「宮應山生福寺(しょうふくじ)」がある。
 寺伝によれば、永享10年(1438)宇都宮等網の開基、清原高盛の祈願所として創建された。以来醍醐光台院末の中本寺として末寺17ヵ寺を有し隆盛したが、文化11年(1814)の災火で堂宇を焼失し、明治37年(1904)に桧材8間4面の本堂が再建されたものの、昭和20年の戦火で伽藍の全てが灰燼に帰し、昭和49年に現本堂(重層コンクリート造り銅葦2階建)を再建している。左手前には昭和51年建立の大師堂もある。
 江戸時代には宇都宮城主の転封の際などに、この生福寺で事務引継が行われた由。

 また、勤皇の志士・菊地教中の墓がある。菊池教中は、文政11年(1828)、宇都宮城下で呉服商を営む菊池淡雅の息として誕生した。父は江戸にも出店し巨富をなしたが、家業を継いだ教中は、業務拡張に精励する傍ら、困窮者や貧しい文人墨客に対し援助を惜しまなかった。安政2年から文久年間(1855〜1864)に、鬼怒川沿岸の岡本、桑島の荒地開墾に尽力し、また、国事多端の折、姉巻子の婿、大橋訥庵に感化されて熱烈な尊王攘夷論者となる。政治的活動に目覚めた教中は、老中安藤信行の暗殺計画にも関与し、宇都宮藩士による一橋慶喜擁立挙兵計画が露見して、逮捕投獄され、文久2年(1862)に一旦出獄したが、間もなく35歳で病没している。法名は義烈院真岸澹如居士である。

<宝篋印塔>
 本堂の前に平成9年7月に修復・再建された造立の宝篋印塔がある。

               
生福寺宝篋印塔
                        平成十年四月二十七日 宇都宮市指定文化財
         総 高 三〇四センチメートル
     銅像部 二二九センチメートル
     笠 幅   七七センチメートル
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」の趣旨によって造られた塔であるが、後には供養塔や墓碑にも用いられた。一般に石製のものが多く、本塔のように青銅製のものは数少ない。
 本塔は、宝暦十三年(1763)に宇都宮藩の御用鋳物師であった戸室将監元蕃によって製作されたもので、バランスのとれた優美な姿をしている。昭和二十年(1945)七月の宇都宮空襲で被災し、笠と相輪が失われてしまったが、平成九年に寺で復元して現在地に安置した。
                                        宇都宮市教育委員会


<蕪村号誕生の地>

 摂津国生まれの俳聖・与謝蕪村が、奥羽遍歴の後寛保3年(1743)に宇都宮寺町に来たり、それまでの俳号「宰鳥」を捨て、同4年「蕪村」として「歳旦帖」を発刊しており、蕪村号誕生の地として碑が境内右手に建てられている。

二荒山神社摂社下之宮(10:24)・・・宇都宮市馬場通り3−1

 二荒山神社は前回立ち寄ったので、二荒山神社の大通りを隔てた向かい側の「パルコ」の隣にある下之宮へと行く。今日は二荒山神社の祭礼日で、宮前の通りは元よりのこと、それに連なる各小路は祭り姿の人たちや山車、屋台などで喧噪だが、ここ下之宮境内もしかりである。
 この下之宮は、宇都宮二荒山神社の摂社であるが、古社地でもあり、パルコの一部のような小さな神社とはいえ、宇都宮二荒山神社について語るには大変重要な神社と言える。
境内の建造物は鳥居・手水舎・社殿だけだが、手水舎の所に下記内容の解説板があり、由緒が記されている。

             
  宇都宮二荒山神社 下之宮
 当神社は二荒山神社の発祥の地(荒尾崎)に創建された神社で「二荒山神社摂社下之宮」と称し御祭神は本社(臼ヶ峰)に鎮斎される二荒山神社と同神「豊城入彦命」をおまつりしております。
 ご由緒は大変古く第十六代仁徳天皇の御代下毛野の国造であった奈良別王が東国治定の功績高い豊城入彦命を御祭神として国社をこの地に建立後世八三八年に峰続きの臼ヶ峰に本社を造営し発祥の聖地を下之宮として永く奉斎してきました。
 下之宮は長い歴史の中で丘陵は道路で分断され、招魂社は護国神社として移設し、およりの鐘は寺領に納め更に小高い丘は削滅しビル陰にて奉祀されてまいりました。
 相生町再開発事業と共に由緒深き聖地に下之宮のご復興をみたものである。


御橋(みはし)(10:27)

 二荒山神社前の「馬場通一」信号を南下し、宇都宮市の繁華街と言われる「オリオン通」を越えた先にある「釜川」に架かった朱色の「御橋」を見に行く。「御橋」は、その南方にあった宇都宮城の大手門から二荒山神社へ向かう道に架けられた橋で、元和5年(1619)に本多正純が大手門を江野町に移す迄、城主しか通れなかったと伝えられている。

 御橋の少し下流に若山牧水の歌2首が刻まれた歌碑があるそうだが、立ち寄りは省略した。

琴平神社(10:28)・・・宇都宮市曲師町4−6

 「御橋」から大通りに戻る途中、直ぐ左手に「御橋金比羅さん」と地元で親しまれている神社がある。江戸中期、宇都宮藩士が不始末をしでかすと、扶持を取り上げられ浪人となるが、これを収容するため曲師町(まげしちょう)に松巌寺が建てられ、その境内に金比羅大権現と稲荷大神を祀ったのが起こりである。傍らを流れる釜川に一間四方、深さ5尺の窟(いわや)が掘られ、そこで修業が行われたという。
 神社に向かって左手には、「昭和8年12月23日皇太子殿下(現天皇陛下)御降誕記念」と「曲師」の文字が文様風に掘られた年代物の手水があり、右手には圧倒されるような大きな燈籠が鎮座していて、地元(曲師町)の信仰の篤さが感じられる。
 神社の一角(右手)に、石の男根が安置された「道陸神(道祖神のこと)」が祀られている。
境内は、いかにも市街地の神社という感じで大変狭く、同じ社殿に琴平神社、稲荷神社、足尾神社、道陸神が祀られている。社殿の左から琴平神社、稲荷神社となり、これらよりも少し引っ込んで一番奥に足尾神社と道陸神が合祀されている。足尾神社は、足の守り神であることから健脚の神としても旅人から信仰されていたようで、道陸神と合祀されたのは自然の成り行きだったのかも。

鏡ヶ池の石碑(10:33)・・・宇都宮市馬場通2丁目

 「バンバ通」と呼ばれているこの通りを更に北へ戻っていくと、大通りに出る一筋手前の変速四叉路を左折した所の右手に「鏡ケ池の石碑」がある。

 宇都宮は、大昔「池辺郷(いけのべごう)」と呼ばれていた。これは二荒山l神社の南側の旧馬場町一帯に大きな池があったためで、源義経を慕って奥州へ向かう途中、二荒山神社に参詣を思いたった静御前がこの池で手を浄めたという。その時、懐の鏡が池の中へすべり落ちて沈んでしまった。後に、ここから鏡が発見され、この池を「鏡が池」と呼ぶようになったという。
 ところがある年、大暴風雨で周囲の丘が崩れ、池は大方埋まって小さな池になり、花屋敷(映画館)の一隅に僅かに影を留めていたが、現在はラパーク長崎屋の南西の壁際に池の由来を記した記念碑が往時を物語るのみになっている。

■史蹟行在所向明館の碑(10:36)・・・宇都宮市馬場通2丁目

 その先を右折した右手奥に「向明児童公園」があり、「史蹟行在所向明館跡入口」の碑が建っている。この公園は、明治天皇行幸の折の行在所(旅先に設けた仮宮)になった「向明館」という建物があった所である。向明館は昭和8年11月に国史蹟に指定され、市が入口に御影石の標識柱を建て、監守員を置いて管理していたが、昭和20年7月12日の宇都宮空襲で焼失して翌年史蹟指定が解除され、昭和31年10月、市の管理する「向明児童公園」として開設され、親しまれている。

 元々、この地は江戸時代の豪商鈴木(津山)久右衛門の邸宅で、明治9年(1876)6月に明治天皇が宇都宮城址での練兵を天覧された折,この鈴木邸が行在所に選ばれた。明治天皇は日本庭園造りの庭園を殊の外お気に入られたようで、その後、明治14年の東京鎮台・仙台鎮台合同大演習の際にも行在所になっている。

本陣跡(10:45)

 前回の歩きの終点である「伝馬町」交差点を目指して緩やかな登り坂の大通りを西進していくと、右手に「高札場跡」の解説標柱があり、10:48その先向かい側に前回見つけられなかった「本陣跡」の解説標柱や、少し入り込んだ所にある元本陣敷地内だった大銀杏の木を見に行く。
 「伝馬町」交差点から南へ50m入った所に曾て青木本陣があり、建坪191坪余、門構え・玄関付きだった由。現在は、市の天然記念物に指定されている樹高33m、樹齢400年の大いちょうが残っていて、前回は見学を割愛していたので、見学に及んだ次第である。

再スタート(10:51)

 以上で前回の歩きの終点である「伝馬町」交差点に到着し、宇都宮小幡郵便局のある角から北ないし北西の徳次郎宿方向へスタートを切る。

古風な建物(10:52)

 「清住町通」に入ると、すぐ右手に大谷石の塀に黒漆喰の重厚な古建物があり、「株式会社上野」の金看板がある。前回触れた本陣の上野家と関係があるのかもしれないと思いつつ歩を進める。

延命院(10:56)・・・宇都宮市泉町4−30(亀の甲坂を下り東へ150m)

 250m程先右手の箕輪酒店の先を右折し、二つ目を右折すると東参道がある「延命院」に行く。
 延命院は、山号を摩尼山と号する真言宗智山派の古刹で、康平6年(1063)藤原宗円が大仏師定朝作の木造地蔵菩薩立像(源義家の持仏・県文化財指定)を比叡山から奉拝して本尊とする天台宗宝錫寺を宇都宮城内に建立したのが始まりで、永正元年(1504)に山城国醍醐寺の僧・良範が歴遊し、寺と地蔵堂を建て、宝珠寺延命院とし真言宗に改宗した。
 その後、1620元和6年(1620)本多正純が宇都宮城拡張と新たな町割によって現在地(当時は西原郷)に移されたが、地蔵堂は安永2年(1773)の大火や戊辰戦争、第二次世界大戦等の戦火にも耐え、享保年間(1716〜1736)の建築物として宇都宮市内最古の木造建築物として市指定有形文化財になっている。

<木像地蔵菩薩立像>

 平安後期の浄土信仰の下で人々に信じられ、鎌倉時代に入って一段と信仰が盛んになった地蔵菩薩が地蔵堂に安置されているが、この仏像は像高175cm、連座高32cmの全身金箔の寄せ木造りで玉眼で、鎌倉時代の代表的彫刻家快慶の作風を伝えた関東では稀に見る傑作と言われ、県重文第一号に指定されている。開帳は縁日である毎月24日におこなわれているが、普段から「延命地蔵大菩薩」の紅・白の幟が参道にはためいている。

<トチノキ>

 「地蔵堂」の裏にある「トチノキ」は天正9年(1582)に宇都宮城から移植されたと言われており、高さ18m、幹周囲3.4mにおよぶ古木は市の天然記念物に指定されているほか、「とちぎの名木100選」にも選ばれている

<蒲生君平先生少年時代修学の寺>

 延命院の西入口には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」の碑がある。林子平や高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」言われた蒲生君平は、明和5年(1768)新石町(現・小幡一丁目)に生まれ、幼少期の安永3年(1774)6才の時に自宅から近いここ延命院の良快和尚から読み書きの手ほどきを受けている。なお、その墓はこの後訪れる予定の「桂林寺」にある。

寶勝寺(11:01)・・・宇都宮市小幡1−3−10

 街道に戻って直ぐ左手に「蓮池山寶勝寺」がある。鎌倉時代、宇都宮景綱が蓮池の底から救い出した阿弥陀如来を安置するため、草庵を建てたのが始まりと言われる時宗の寺院である。街道歩きでいろいろな寺院に立ち寄るが、時宗の寺院というのは少なく、珍しい。
 本堂中央には初めて見る名前の「放光如来」、左手には「日限地蔵尊」、右手にも何やらの金字扁額が夫々掲げられ、きらびやかな堂内を形成している。

 なお、昔この辺りに「木戸」があったそうで、宇都宮宿はこの辺で終わるようだ。

■桂林寺(11:05)・・・宇都宮市清住1−3−37

 街道に戻り、次の信号を右折した所にある桂林寺は、応永3年(1396)に宇都宮家第12代当主宇都宮満綱の開基で建立された曹洞宗の寺院で、山号は松峰山。明治維新の際、宇都宮城の戦いで長州兵と大垣兵が本寺に籠もったため会津兵の焼き討ちに遭ったが、その後再建され、太平洋戦争では7月12日の宇都宮大空襲で市街地の大半が被災する中、戦災を免れている。
た。
 総門を潜って左に曲がって次の山門に行くのだが、その間は大変広大で、禅寺特有の落ち着いた佇まいで、まるで日本庭園のような錯覚に陥りそうだ。
 墓地には、山陵志を著して尊王論の魁けになり、明治天皇から遺業を讃えられた蒲生君平の遺髪が分葬され、矢印看板も立っているが、肝心の墓地内での場所が判りづらく、手分けして探したが見つからず諦めた。戊辰戦争の戦死者の墓もあるらしい。

宝の木(11:39)・・・宇都宮市中戸祭1−10−37

 宇都宮宿内の見所見学を漸く終え、愈々ここから日光道中歩きが始まる。
 1.8km程先左手に150m程入った「国立栃木病院」の守衛室の右横に「宝の木」がある。学名を「コノテカシワ=猿の手柏」と言い、樹高約8m、幹周1.1mで樹齢450年以上と推定されているが、説明されなければ到底そんな古木とは思えない外観である。当地の「宝木町」の地名の発祥となったようだ。

               
宝の木 由来
本木は寛文十年(注:1670)頃、今より約三百五十年前、現在の宝木地区の一部に六軒と呼ばれた集落が有り、ここに広さ一〇〇平方メートル、高さ約四メートルの古墳のような大塚があり、そこに一老木があった。名の知れぬままに当時の住民たちは「宝の木」と呼んでいた。
 明治五年土地区制が施行され、六軒付近の十集落が併合され、この老木「宝の木」の名称に因んでこの地区を宝木村と称した。
 この宝の木は、字細谷の荒井庄一郎氏の所有であったが、明治四十年宝木地区内に宇都宮第十四師団司令部設置の際に司令部の庭木として荒井氏から寄贈移植され現在に至る。

昼食(11:50〜12:40)

 地元飯島氏の案内で、「火山」というラーメン屋に入店。記名して一組待ちだったが、人気店に相応しく、注文後も若干またされたものの、味は絶品メチャうまの熱々ラーメンを食し、村谷氏共々大満足する。

高尾神社(12:49)・・・宇都宮市上戸祭2丁目

 1.1km程先の左手に比較的広い境内に小さな社殿の「高尾神社」があり、境内に小高い「妙吉塚」と白亜の堂宇内に「妙吉子育安産高地蔵尊」がある。妙吉塚は、直径12m、高さ3mの円墳状で、塚の上には「宝篋印塔」が建っている。

桜並木の歩道

 街道はやがて国道119号を越える。交差点の先に「国道119 日光街道 日光32km 宇都宮市上戸祭」の標識があり、そこから素晴らしい桜並木が始まる。真ん中の車道の両脇に桜並木があり、その外側に左右共に一段高くなった歩道がある。先刻から降っていた弱い霧雨も、木々に遮られて洵に塩梅が良い。
 緑に包まれ、旧街道らしい情緒たっぷりの素晴らしい街道に心が和む。看板も地元の協約で茶色の木に白文字の看板に統一され、素晴らしい景観を保っているが、違反看板が時折見受けられるのはお馴染みの光景である。

上戸祭の一里塚(13:06)・・・宇都宮市上戸祭4−8−15(宇都宮文星短大前)

 その先左手の宇都宮文星短大前の並木の外側に、日本橋から28番目の一里塚がある。昭和58年(1983)に一部修復整備されたそうだが、双方共に「一里塚」の大きな石碑が建てられ、東塚は半壊しているように見えたが、歩いている歩道側(西塚)には檜が植えられ、ここから先の一里塚も、日光まで比較的よく修復・保存されているらしい。西塚は昭和58年度に一部修復整備した旨解説板に記されている。

光明寺(13:26)・・・宇都宮市野沢町342

 桜並木が杉並木に変わり、やがてその杉並木も途切れるが、一里塚から1.5km程行くと左手に真言宗智山派の「光明寺」がある。山門が中国風というか、おとぎ話に出てくる竜宮城を思わせるような様式で、人が潜るとお経が流れる厳かな雰囲気になっている。大日如来を本尊とする。
 「関東88ヵ所第23番」、「ぼけ封じ関東33観音第23番」、関東91薬師第57番」、「関東108地蔵第47番」、「下野33観音第19番」の各札所になっている。

 文禄2年(1593)、)宥憲法印により、野沢(静桜の東)の石塚に「玉塔院」を建立したが、万治3年(1660)10月に焼失し、寛文11年(1671)3月山城宇治醍醐光台院より早開法印が来寺、現在の桜田に移転して、「寶珠山玉珠院光明寺」と改めた。
天保4年(1833年)2月に再び焼失し、天保14年(1843)栄明法印が本堂・薬師堂を再建した。その後宝木十ヶ新田近在の子弟のために寺子屋を開き、読み書き、そろばん、農業商業往来、曲尺裏目利用、その他を教えた。
 以後、栄順法印・弁海和尚が継承し、明治20年(1887)まで続けられた。当時の塾生が書いた、床の間天井の落書き「天満宮」が現存する。
 徳川将軍の日光社参時には、境内にお茶場を設けて将軍の休憩所とした。また、玉塔院の境外堂に、源義経を慕い奥州下向の静御前が休憩され、守り本尊(薬師如来)を土中に納めて、塚を築き、携えた桜の杖を挿して武運を祈った。後にこの杖に根が生じ大木となり珍花を咲かせたので、これを「静桜」、「桜本薬師さん」と呼んで信仰を深めた。今の桜は12代目、薬師如来は秘仏として、安置されている。本堂脇の「寳篋印塔」は宝暦7年(1757)に女人講が建てたもので、往来の人々の安全と子供達の健康を願ったものである。

 明治初期の廃寺は免れたが、その後無住職時期に寺有財産の殆どが寺社奉行や、関係者によって私有化され、また戦後の農地解放により、寺有地の殆どが開放になった。建立後150年を経過し老朽化のため昭和46年に庫裏、昭和51年に本堂を再建し、以後、鐘楼門・客殿を建立し、境内を整えて、現在に至っている。
 なお、本堂天井には日本芸術院の豊川蛯子画伯画による6帖大の「飛天」壁画、鐘楼には人間国宝、香取正彦の門弟・鴇田力が鋳造した梵鐘を備えている。
 また、真言宗の中興の祖である興教大師御遠忌を記念した大般若600巻を備えている。境内には「修行大師」、「ぼけ封じ寿正観音立像」、「宝暦の身代地蔵尊」、本堂地下出土の「無縁塔」などが安置されている。

 また、本堂前左手には、摩訶般若波羅密多心経の全文が漫画チックな絵入りで石に刻まれており、親しみやすい雰囲気である。

<立場>

 寺の前には「立場」があったと言われ、徳川将軍の日光社参の時には休息所にもなったという。庄屋を務めた中山家には、正徳5年(1715)に諸侯が小休止した時に支払った休泊料の資料が残っているという。

(参考)静桜(しずかざくら)・・・宇都宮市野沢 亀田さん宅

 街道右手の細道を入って曲がり曲がった亀田さん方の庭先に、奥州に落ちのびた源義経を追う静御前がさした桜の杖が繁って大木になったという伝説のほか、通常より遅く咲くために命名されたという「静桜」があるとのことだが、立ち寄りは省略した。
 なお、亀田さんの家の裏手は竹林になっており、その中に約5mくらいの池がある。この池は「鎧ヶ池」と呼ばれており、義経の死を聞いた静御前が鎧を捨てることによって女としての命を絶ったと言われている。“静御前”、“池”、“鏡”をキーワードにした伝説は少なくともこれで3〜4度目になる。

高谷林(こうやばやし)の一里塚(14:26)・・・宇都宮市下金井町(東北自動車道の手前150m)

 街道は再び杉並木の続く道になる。前方に見える「東北自動車道」の手前右手に「高谷林の一里塚」がある。一部修復されており、東塚には杉の木が、西塚には桜と檜が植えられている。
日本橋から29番目の一里塚である。先刻の上戸祭の一里塚と同様、昭和58年度に一部修復整備されている。

第六号接合井(14:31)

 その先右手で面白いものを発見した。古い煉瓦造りの六角形の建物が石の階段の付いた小高い怩フ上に建てられ、道際に解説プレートがあったので判ったのだが、浄水を送水する上での水圧を調節するための井戸であり、一同珍しいものを発見した気分になる。通常、水圧を上げるための工夫は甲州街道等でも見掛けて感心した記憶があるが、水圧を弱める施設は初めてである。

              
 第六号接合井
 接合井は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロメートル、標高差240メートルある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を弱めるために建設された施設です。
この接合井は、今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30メートル下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。
 これらの接合井は、昭和24年の今市自身により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。

徳次郎(とくじら)宿

 東北自動車道を潜ると「下徳次郎」バス停がある。ここから始まる「徳次郎宿」は日光に近い方から順に上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎に分かれている。最初の頃は上徳次郎宿だけで人馬継立をしていたが、享保年間から合宿になり、上10日を中徳次郎、中10日を上徳次郎、下10日を下徳次郎が分担して継立業務を行うようになったという。

 徳次郎宿の規模は、人口653人(男339、女314)、総戸数168軒、本陣3軒、脇本陣4軒、旅籠72軒だった。地名は奈良時代、日光に勢力を持つ久次郎(くじら)一族が日光二荒山神社御神体を智賀都神社に分霊した。その折、日光の久次郎に対して、外久次郎(そとくじら)と称した事に由来する。のち、新田徳次郎という者が当所に居住したので文字を「徳次郎」と改めたと言われている。

大谷石の道標(14:36)・・・宇都宮市徳次郎町

 その先交差点の真中と思えるような場所、実は左の歩道の右端の植え込みの中だったのだが、「大谷道の道標」がある。「大谷道」「下徳次郎宿」と刻まれており、左の道が大谷観音へ通じる道だったが現在は廃道になっている。
ところで、大谷石が採れる大谷町は、「陸の松島」とも賞賛され、宇都宮市街の北西約7kmに位置しており、大谷資料館や日本最古の磨崖仏と言われる「大谷観音(大谷寺)」などがあるが、歩きでの立ち寄るには遠すぎる。それにしても、大谷石の名は夙に知る所であるが、ご当地だったとは知らなかった。

薬師堂と石仏(14:49)・・・「徳次郎」交差点の250m位手前左手の奥

 遊歩道が右手の富屋小学校まで続いているが、その先は一般道になり、やがて「徳次郎」交差点の250m位手前左手の奥に「薬師堂」が見えてくる。薬師堂の右横には「石造物」が3基あり、右が「馬頭観音」で側面には「右 山道 左 氏家・白沢道」と刻まれ、道標を兼ねたものである。
また、中央は陽刻された「十九夜塔」、左端は宝塔造りの「六面幢六地蔵」であまり見掛けない珍しい形である。残念ながら、薬師堂自体は今はお参りする人もいないのか、哀れな外観になっている。

徳次郎城跡・・・宇都宮市徳次郎町150ほか

 すべて大谷石で建てられた金田家が下徳次郎宿の仮本陣跡で、すぐ先のENEOSの横を右入って真っ直ぐに進むと、雑木林のある所が、金田家が御殿山(みじょうやま)と呼ぶ中世の「徳次郎城跡」で、林の中に幅数メートルの堀跡が残っているそうだが、街道から一瞥するに留めて先に進む。

田中道の道標(14:53)

 大谷石の石塀を巡らした家が多くあり、中には屋根を徳次郎石で葺いた石蔵もある。「徳次郎」交差点の手前左角に「神社 入口道 約5丁 田中道」と刻まれた半ば朽ちかけた小さな石の道標がある。「神社入口道約五丁 田中道」と刻まれている。上の文字が欠けているが、この「神社」とは、後述する「神明宮」のことである。
 この付近には、中徳次郎宿の本陣や問屋場があったという。因みに「徳次郎」交差点の信号には「Tokujiro」との表記があり、行政では「とくじら」とは言わないようだ。

痣(あざ)地蔵堂(14:55)・・・徳次郎交差点の南100mの西側

 「徳次郎」交差点を左折すると、100m程先の右手に斜めに入り込んだ所に「痣地蔵堂」がある。痣(あざ)や疣(いぼ)に困っている人が願を掛けると直ちに治るという霊験あらたかなお地蔵さまだとか。元々は日光街道沿いにあったが、平成6年に新たなお堂がここに造られて移された由。

(参考)神明宮

痣地蔵堂から更に300m程南に行った右側の宇都宮西消防署冨屋分署の先を西に少し入り込んだ所に、奈良時代建立の古社「神明宮」があり、鳥居脇の小さな守り神の2頭の狛犬に願をかけて持ち上げると、軽く上がれば願いが叶うという言い伝えがある由。立ち寄りは省略した。

ゴール(15:00)

「徳次郎」交差点をもって本日の歩き納めとし、本来ならここからバスで宇都宮駅に帰る所だが、飯島氏の御厚意で奥方がわざわざ迎えに来てくれ、同氏宅に村谷氏共々ご招待戴いた。飯島夫人手作りの数々の料理を戴きながら、ビールその他を多々馳走になり、宇都宮駅まで祭の混雑を避けるルートで来るまで見送って戴いた。
 この場を借りて、厚くお礼申し上げる次第である。

長岡百穴古墳(15:18)・・・宇都宮市長岡町550

 当初は行くつもりが無かった所だが、飯島氏が同氏宅への途中、車だから寄りましょうと言ってくれ、立ち寄ることが出来た。事前の想像とは異なり、素晴らしい見応えのあるものだった。
 凝灰岩路頭の斜面に彫り込まれた「長岡百穴古墳」は、縦横各1m、奥行2m程の横穴が計52穴、傾斜南向きに開口する形で掘られた横穴式古墳である。宇都宮市北部の宇都宮丘陵の南部、戸祭山の北西麓で田川と釜川に挟まれた台地上に立地しており、街道からは遠いので歩きではとても立ち寄らない場所にある。
 古墳時代末期のものと推定されており、ほぼ全ての穴の壁面には室町時代から江戸時代にかけて彫られたとみられる地蔵菩薩像や馬頭観音像があり、全部は廻りきれないが、中には、弘法大師が一夜で彫り上げたと伝えられる観音像もあるという。
左の傍らには、「百穴観音堂」があり、謹んで本日の旅の無事を謝した。