日光街道餐歩
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 2009.07.05(日)  日光道中第8回餐歩記・・・石橋駅〜宇都宮駅

 時節柄、危惧された天気も晴れ男たちに敬意を表してくれ、梅雨の谷間の薄曇り時々晴れという願ってもない天気のきょう、前回同様の往路便に乗り、9:14に石橋駅に到着。いつもながら先着の村谷氏と朝の挨拶を交わし、9:17には早速、駅西口からスタートする。

石橋宿

 「石橋」の地名の由来は定かではない。今は無き「池上明神」前に、当時としては珍しい石橋が架かっていたのに端を発するとの説がある。
 江戸時代、日光街道の宿場町として栄えた「石橋宿」は、天保14年(1843)の記録で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒という小規模な宿だった。本陣・脇本陣を務めた伊澤家の祖先は、多功宗朝(宇都宮国総の一族)に仕えた旧家で、多功氏没落後に石橋に帰農したと言われている。近辺には「児山城跡」や「多功城趾」があり、中世に当地で勢威を誇った多功氏の興亡史を垣間見ることもできるらしいが、立ち寄り予定はない。
 石橋宿のあった栃木県下都賀郡石橋町は、2006年1月、隣の国分寺町、河内郡南河内町と合併し「下野市」になっている。明治時代には、廃藩置県で日光県〜栃木県となり、仮県庁舎がご当地に置かれたこともあるという。

グリムの里、石橋町

 石橋駅前(西口)にグリム童話のおとぎの国を連想させるモニュメントがある。駅前商店街に並ぶおしゃれな街灯、時計台に描かれた赤ずきんと狼、歩道橋にはハメルンの笛吹、ブラウニングの詩・・・ドイツ、ヘッセン州ディーツヘルツタール(元々はシュタインブリュッケン、日本語で石橋、後に合併によりディーツヘルツタールとなる)を姉妹都市に持つ石橋町は、グリム兄弟がヘッセン州出身であることから「世界に誇るグリムの里づくり」を推進している。

開雲寺(9:22〜9:32)

 日光街道(R4)に出て右折すると、すぐ右手に「開雲寺」があるので、参拝して本日の旅の無事を祈願する。山門手前左手には明治9年の奥州御巡行を記念した「明治天皇御駐輦之處」碑がある。
 境内に入ると、3代将軍家光の日光社参時に設けられたという御殿跡の塀に丸い銃眼や縦長長方形の矢狭間が各一個ずつ残っており、城郭の趣があると言いたい処だが、改修されたためか塀は新しく、歴史感には乏しい。
 本堂前に掛かった白幕には、寺紋の三つ葉葵が使われ、「三体地蔵尊」碑や「徳川三代将軍手植之槙」の切り株跡が山門を入った左手に残り、日光道中第2回(2008.12.07)の梅島の「国土安穏寺」で、やはり家光お手植えの松があったことを思い出す。徳川将軍の日光社参時の休憩場所になった寺院である。

 また、寺宝としては、南北朝期の作で、五劫思惟の阿弥陀如来という極めて稀なお姿の県指定有形文化財「本尊阿弥陀如来座像(秘仏、年1回8月11日の施餓鬼会法要の日に拝観可能)」や、宝暦8年(1758)銘で乳の無い珍しい形のため、第二次世界大戦中における供出を免れたという「梵鐘」(市指定文化財)をはじめ、三ツ葉葵御紋入り道中茶釜、3代将軍家光公による日野大納言宛の書状、元禄3年(1690)の開雲寺境内図など、多数があるという。

                   
開雲寺略縁起
 開雲寺は西暦781年、下野薬師寺戒壇院第五世・恵雲律師によって、現在上墓地のある塔ノ下に、中国より請来の薬師如来を御本尊として「瑠璃光院東光寺」として開山された。 境内は東北南の三面には濠を巡らし七堂伽藍の大山であった。
 西暦1502年、宇都宮左少将成綱朝臣が多功岩見守満朝に命じて、東光寺を現在地に移し、伽藍を再興、澄海上人を請じて、阿弥陀如来を御本尊として安置し、「円明山開雲寺」と改称した。
 江戸時代を迎え、西暦1604年には徳川将軍より寺領七石並びに寺中竹木免除の朱印を賜わり、日光廟造営後、徳川将軍家の日光東照宮参拝道中の休泊所となる。
 西暦1649年、宇都宮城主奥平忠昌が将軍の休泊所として御殿所を構築し、西暦1664年に寺に寄与し、以後「御殿所開雲寺」と称する。さらに忠昌は西暦1671年、石燈篭一基を寄進し、この燈篭は山門を通り左手に現存する。また、この当時を物語る絵図面も残っており、開雲寺の興隆を偲ぶことができる。
 しかし、江戸時代も末期を迎え世相不穏の中、開雲寺も西暦1850年には類焼によって殿堂を焼失、さらに再建の最中、西暦1854年に失火、再び殿堂を焼失してしまった。翌年には仮の建物を建築したが、以後開雲寺は、第三十五世俊明の代、1971年に本堂が、そして西暦1987年に書院・記念堂・庫裡が落慶するまでの一世紀以上にわたり仮住まいを続けることになる。
 明治に入ると、元年より、真岡県・日光県等が統合され栃木県となるまでの約四年間、開雲寺に仮庁舎がおかれ、また西暦1876年、明治天皇の奥羽御巡幸に際しては開雲寺において御休憩されるなど、近代化の流れの中でも重要な役割を果たしてきた。

石橋あやめ園(9:43)

 日光街道を少し行った先の右手に、個人経営・入場無料の「石橋あやめ園」がある。季節により異なるが、ジャーマンアイリス(3万株)を筆頭に、「あやめ」、「すかし百合」、「花菖蒲」、「アストロメラス」などが、あるいは時期をずらして咲き誇り、花ファンの立ち寄り処になっているようだ。今咲いている状況を見て、球根を予約するというシステムになっているらしい。

 入口がやや判りづらいが、民家の敷地のような所を右折して200m程行く必要があるので、途中で入場をせず引き返したが、水生植物が育つ池の中央にある赤い橋から菖蒲などを鑑賞できるそうだ。この石橋あやめ園は、新幹線の直ぐ脇の湿地帯にあり、国道4号を走る限りこのような自然の園の存在は気づかないだろう。あやめ園で名を売っていたが、園内はジャーマンアイリス園の標柱も立ち、時節により種々の花が楽しめるようだ。

兜形の中華料理屋「家康本陣」(10:02)

 9:55に「下古山」交差点を過ぎると、その先右手に下野警察署(旧石橋警察署)があり、更に進むと左側に巨大な兜の構造物が突然現われる。これは「家康本陣」という韓国家庭料理の店のPRで、経営者は関西の人だったかと想像されるが、近寄ってよく見ると明らかに張りぼてながら、街道筋では存在感がある。店は閉店になっていて売りに出されているようだった。

鞘堂地蔵(10:07)

 その先の右手の奥にある。この北東にある「茂原」は、中世において度々合戦場になった所だそうで、1380年(北朝の康暦2年、南朝の天授6年)、下野の両雄と言われた宇都宮基綱と小山義政とか壮絶な戦いを繰り広げた「小山・宇都宮合戦」において、宇都宮基綱ら一族三百余騎が悉く討死した。その時の戦死者の刀の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建ててお地蔵を安置したのがこの「鞘堂地蔵」であるという。この辺りの集落名「鞘堂」は、このお堂の名に由来している。なぜか安産の霊験があるらしい。ベンチが設けられており、ドリンク休憩する。

星宮神社(10:14)

 更にその先の左側には、鞘堂新田の鎮守「星宮神社」がある。小さな本殿だが、後ろに鬱蒼とした木が繁り、石の祠が点在している。

追分(わかさり)

 そこから少し行った先の右手の駐車場の先に、右に入る道がある。ここは道標こそ無いが、ここから多功天満宮や、前回立ち寄りを諦めた薬師寺跡、龍興寺を経て結城へ至る「結城道」との追分になっており、地元では「わかさり」と呼んで(読んで)いるそうだ。

茂原正観音道標識(10:30)

 「北関東自動車道」を潜って暫く行くと、「宇都宮市」に入る。その先右手に「茂原正観音道」という比較的新しい石標(平成12年造)が建っている。観音さまはここから約1.5kmも離れたところにあり、遠過ぎるのでその侭通り過ぎる。10:37その先左手に「陸上自衛隊宇都宮駐屯地」がある。

雀宮宿

 程なく「雀宮宿」に入る。雀宮宿は宇都宮市の南の入口に位置しており、日光街道が開設された時に新たに設けられた宿場だと言われている。慶安元年(1648)の記録によれば、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠が38軒という、比較的小規模な宿場だったようだ。

 「雀宮」の地名の由来については諸説あるようで、、次のホームページに詳しく掲載されている。
  http://www2.ucatv.ne.jp/~suzume22/chimeinoyurai%20sozai/chimei%20no%20yurai.htm

本陣跡(10:59)

 左手の大和田病院とベビー用品西松屋の境界の一角に、元は小倉家だった「雀宮本陣跡」の標柱が寂しそうに建っている。

脇本陣跡(11:01)

 右折すればJR雀宮駅への入口となる「雀宮駅前」交差点の手前右手にある「芦谷家」が、脇本陣跡である。風格のある門構えや、白壁黒板囲いの長い塀のあるお屋敷に往時の面影を残している。

雀宮神社(11:06)

 その先右手に女性が神官の「雀宮神社」があり、神社の前には、日本橋から100kmの標識がある。江戸日本橋からちょうど25里(約100km)、日光から10里(約40km)地点にあるこの神社は、長徳3年(997)の創建と言われ、社殿は600年を経過し、二荒山神社より古いというから凄い。
 祀られている祭神は、三神(皇族の御諸別王と素戔嗚尊、もう一体は不詳)で、御諸別王は景行天皇により、雀宮周辺に本拠を置いて東国を統治する総大将として派遣され、日本書紀には「早くより善政を得たり」と記され、人望があったという。皇族である御諸別王を祭神として祀っているため、正徳3年(1713)、時の帝(東山天皇)から金文字で御真筆の「雀宮」の勅額を下賜され、この額を社殿に掲げたため、将軍家を始め諸大名は神社を通りかかると、乗り物から下乗して参拝したと伝えられる。

 雀宮神社の創建は、源氏の守護神と伝えられる、八幡太郎源義家が奥州征伐に際して戦勝祈願をし、帰ってきてから社殿を造営したと伝えられている。また、徳川家においても、江戸時代、2代将軍秀忠・3代将軍家光は、日光社参に際して雀宮神社に立ち寄り、天下泰平を祈願し、以後毎年銀3枚を納めたという。

 このほか、宇都宮一族の始祖宗円が城の築造に際して、安泰祈願のため、東に青竜、西に白虎、南に朱雀、北に玄武を配し、この雀宮神社は「朱雀」として位置づけられ、宇都宮家の信仰も篤く、城主が度々遠乗りをして参詣に訪れたそうである。
 また、宇都宮の祭の際には、重さ1tもある当神社の神輿が練り歩くそうだが、その神輿が折良く社殿右手前に出ており、多人数でその重い神輿を担ぐ太い担ぎ棒が4本もあるのが見える。参道には提灯が沢山吊り下げられており、祭りが近いものと思われた。

昼食(11:13〜11:40)

 その先右手のファミレスで早めの昼食を摂る。

江曽島の一里塚

 12:05「台新田」信号通過。その先で国道121号線と交差して行くと、左手に陸上自衛隊北宇都宮駐屯地があり、その辺りから道の両サイドに延々と自動車販売店が続く。国産から外車まで、殆どのメーカーが揃っている道筋を延々と歩いていくと、右手のJR線路が接近してきた所に曾て「江曽島の一里塚」があった。
 江戸から26番目に当たり、現在は撤去されていて恊ユは無い。バス停名や交差点名に「一里」という名が残っているが、この他、「ICHIRI」、「すりばちらーめん一里店」、「一里踏切」、「Ichiriya」(スーパー)、「平尾内科小児科一里診療所」、「一里」(電柱)などの看板が目に入る。現実の一里塚が残っている場所でも、これだけ「一里」の名が使われているのは無かったように思う。

久しぶりの旧道

 12:26「川田入口」で、宇都宮在住の飯島氏に電話する。現職時代の同期生で、きょう久方ぶりに逢えることになっているのだが、同行する村谷氏とも旧知の仲なので、打ち上げに付き合って貰うことになっているのだが、当初の予定よりも大分早く歩行が進んでおり、その連絡のためである。

 「西原」の信号で、きょう歩いてきた国道4号が右カーブして行くのを見送り、旧日光街道は直進する「東京街道」へと入っていく。その先でJR日光線を橋で越えていくと、12:47その先の「不動前」Y字路の分岐に「不動堂」があり、東京街道を右に分けて左斜め前方へと進む。不動堂には高さ約50cmの不動明王が安置されており、江戸時代には江戸方面から来る旅人にとって宇都宮に入る目印になっていた。「不動前」という集落名の由来になった不動明王を参拝していくと、今度は東武宇都宮線の小さなガードを潜る。

 ところで、この不動前の分岐だが、旧奥州街道は、ここから右手北東に向かっていたのを初期の宇都宮城主本多正純が西側を通り、北上、右折する道に付け替えたという。因みに、その本多正純は、家光暗殺を狙った釣天井事件首謀者として僅か2年10ヶ月で奥州に配流されたが、事実は闇の中にあるようで、家康の娘加納殿(亀姫)による密告説ほか、官僚の謀略説などいろいろあるようだ。

宇都宮宿

 宇都宮宿は、東武宇都宮線の小さなガード下辺りに昔木戸があり、ここから宿が始まり、「桂林寺」のある新田町(現清住)にあったもう一方の木戸で終わる。
宇都宮宿は古くから古奥州街道の宿場町として発展し、将軍の日光参詣の宿泊場所にもなった宇都宮城の城下町であると共に、日光街道第17番目の宿場町で、かつ下野国「一の宮」と言われる「二荒山(ふたあらやま)神社」の門前町として発展してきた。

 五街道としての日光街道・奥州街道の分岐点のみならず、栃木・鹿沼・茂木・水戸北・真岡などの各脇街道の始点にもなる等、文化・産業・交通の要衝として北関東の大宿場町の役割を果たしてきた。

蒲生君平勅旌碑(ちょくせいのひ)(12:57)

 ガードを潜ったすぐ先の右手に、明治2年建の蒲生君平勅旌碑がある。「勅旌」というのは、勅命による表彰の意である。明治新政府は勤皇家を顕彰し、栄誉を追贈したが、このケースも明治2年(1869)12月の明治天皇の勅命により宇都宮藩知事の戸田忠友(最後の宇都宮藩主)が奉行となって、蒲生君平の遺功を追賞する碑を宇都宮宿の入口であるここに建てたものである。
 明和5年(1768)に宇都宮の新石町(現・小幡一丁目)で油屋の子として生まれたが、祖先は元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓の福田を遠祖の蒲生姓に名乗り変えした蒲生君平は、林子平、高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」と呼ばれた。蒲生君平は、本居宣長の薫陶を受けた学者・尊王家として知られ、著書の天皇陵の研究書である「山陵志」は、歴代天皇の御陵が降灰していることを非常に悲しみ、それらを調査して寛政12年(1800)に畿内の山陵を調査した古墳研究の画期的な書と言われ、幕末の尊皇運動に大きな影響を与えた。文化10年(1813)江戸で没し、墓は東京・谷中の臨江寺にある。「前方後円墳」という呼称の名付け親でもあるという。
大正15年に「蒲生神社」が市内塙田五丁目に建てられている。

台陽寺(13:00)

 その先左手の、慶長10年(1605)創建の「台陽寺」に立ち寄る。曹洞宗の寺院で「西原山」と号する。入口を入った右手には「子育て地蔵」がある。この一帯には往時数多くの寺が配置され、宇都宮城下の入口の防衛線としての役割を果たしたが、現在ではこの寺が残るのみである。宇都宮藩士たちの墓がある。禅宗の寺院らしく、清潔感のある佇まいの寺である。
 慶応4年(1868=明治元年)4月19日、宇都宮城攻防戦で、旧幕府軍と官軍に味方した宇都宮藩兵は、現在の旭中学校付近で白兵戦を展開した。家老の藤田左京の一隊にいた天野某ら数名が戦死。この戦いで宇都宮藩は10名の戦死者を出したが、その一人に山本松三郎がいた。その松三郎の兄元吉の子が文豪の山本有三である。
 境内右手に「子安地蔵尊」があり、解説板が建てられている。往時の宇都宮城主戸田氏の守り地蔵尊で、大正9年3月に現在地に移されたが、古来子育て・安産の尊として崇められているという。

熱木(ねぎ)不動尊(13:10)

 その先200m程先の左手の公民館の奥に「熱木不動尊」がある。今井著には「贄木」とあるが、ここには熱木という字が使われていた。初代下野国司宇都宮宗円が天皇の命を受けて奥州の賊徒征伐に遠征の時、戦勝祈願のため造成した3体の不動尊の内の一体だという。
 鳥居は木造の手造りと言われ、前後の支え木とボルト締めで組立てられているのが珍しい。
 参拝した時、お堂には「公民館」とか「老人クラブ」などの看板も見え、内部で地元の人たちによる会議が開かれていたのにはびっくりした。参拝する方も、される方も面食らう一幕である。

一向寺(13:18)

 その先左手の一向寺に行く。建治2年(1276)宇都宮景綱が開基した時宗の古刹である。昭和25年8月29日に国指定の重要文化財に指定されている本尊の銅像「汗かき阿弥陀如来像(座像)」は、第12代城主宇都宮満綱が願主となって応永12年(1405)に西隣にあった長楽寺の本尊として造られたもので、明治2年(1869)長楽寺が廃寺になったため、本尊は一向寺に移された。

 この仏像には、衣全面に340人を越える寄進者の名前などの文字が刻まれ、その数は1105字という。作者は、宇都宮を中心に活躍していた鋳物師の秦景重で、鎌倉時代の作風を残した仏像である。この仏像には、この世に異変が起こる前になると、汗をかくという伝説が残され、「汗かき阿弥陀」の名で親しまれている。五十里(いかり)洪水や関東大震災の前日にも汗をかいたという。日曜日には午後3時迄なら拝観できるので、我々も折柄訪ねてきたおばちゃま達と共にそのラッキー組に入る。

 また、山門を入ったすぐ左側に、幕末から明治時代にかけて、宇都宮を中心に活躍した画家菊地愛山(きくちあいざん)の墓がある。解説板によると、愛山は文政2年(1819)、茂破町(もやぶりちょう、現・大寛(だいかん)2丁目付近)に生まれ、明治39年(1906)に88歳で亡くなる直前まで絵を描き続けた。人物や花鳥などの描写に優れた画才を発揮し、嘉永年間(1848〜54)の日光東照宮修復の時には、師の鈴木梅渓を助けたという。「釈迦三尊十六羅漢像」(一向寺蔵)、「延命地蔵菩薩縁日著色絵図額」(延命院蔵)をはじめとして、多くの作品が県や市の文化財に指定されている。

報恩寺(13:26)

 そのすぐ北西に臨済宗妙心寺派の「松嶺山報恩寺」がある。寛永16年(1639)に奥平家昌の正室・仙遊院(本多忠勝の娘)が開山した寺院と言われているが、しかし、家昌の正室は1611年(慶長16年)に、また家昌自身も1614年(慶長19年)に没しており、創建年の1639年(寛永16年)と食い違う。1639年には、家昌を継いだ後、幼少のため一時古河に所替えとなっていた奥平忠昌が、後継の本多正純を継いで宇都宮藩主になっていた。
 江戸時代初期の山門は、風情ある茅葺きの唐門で、創建当時の侭の状態と言われ、宇都宮市に残る最古の木造建築物と推定されているが、公的認証(客観的・中立的な証明)はない。
 ここには、宇都宮氏の墓碑とされる古い大五輪塔があるが、その由来は不詳である。報恩寺は創建当時は市内松が峯にあったが、その後伊賀町西原(現在地)に移された。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)では、寺域に近い六道の辻が主戦場となり、その戦火で本堂を焼失している。現在の本堂はその後再建されたものである。

 また、報恩寺には戊辰戦争で戦死した官軍兵士を手厚く葬った官修墓地があり、「戊辰薩藩戦死者墓(大正4年建)」や長州大垣諸藩の「戦死烈士之墓(明治元年建)」などがある。中でも23名の戦死者名が刻まれている「薩摩藩戦死者墓」は、大正6年(1917)建立、銘は第6代内閣総理大臣の松方正義の筆よる。県信緝の撰による「戊辰役戦士記」、薩摩・長州・大垣藩の戦死者を祀る「戦死烈士之墓」は寺域にもかかわらず鳥居を持つ構造で、桐野利秋や野津七次の寄進灯籠がある。長州や大垣藩士の墓や、宇都宮藩士墓もある。
 「官軍七首級之墓」墓石側面と傍らの碑から、宇都宮藩士斎田権兵衛・田中伍太夫・彦坂新太郎と佐賀藩四士の首級墓であること、田中については6月26日の藤原の戦いで戦死し、後年首のない遺骸が送り届けられ埋葬されている。佐賀藩士の姓名は不明。墓は明治5年に建てられ、明治26年に改葬された。

光琳寺

 その先更に「清映山光琳寺」に行く。何とここには、境内入って左手前に東軍の桑名藩士の墓と、西軍の因幡藩士・山国隊士の墓が向かい合って建っており、大変珍しい光景と言える。「山国隊士」というのは、京都府京北町の山国隊のことで、農民が組織した山国隊というのがあったらしい。
 なお、境内には貞享5年(1688)鋳造の梵鐘がある。

宇都宮城跡

 一向寺に着いた時に飯島氏から電話が架かってきて、宇都宮城跡の門で待っているとのことだったので、急ぎ足で宇都宮市役所の前を通り過ぎて右折し、「宇都宮城(公園)」に行き、数年ぶりの対面をする。相変わらず若々しくダンディな氏の案内で復元された城跡を見学する。
 天慶3年(940)年に藤原秀郷が居館を建てたのが始めとも言われているが、実際の築城は、康平6年(1063)に比叡山座主の藤原宗円が宇都宮の守護職として着任・居住してからで、子孫が宇都宮氏を称した。

 中世(鎌倉時代から戦国時代)の城主宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力な御家人であると共に、京都とも強い繋がりを持ち、5代頼綱(蓮生・れんしょう)は百人一首の成立にも深く関わったという。日本中が戦乱に巻き込まれた南北朝時代から戦国時代においては、外敵の攻撃に備えて、宇都宮城は堀と土塁を幾重にも廻らせた守備に堅い城になっていったが、慶長2年(1597)、22代国綱が豊臣秀吉の怒りに触れ、約500年間支配してきた宇都宮氏は所領を没収され、お家は断絶する。

 以後、城主は、浅野、蒲生、奥平、本多(正純)、奥平、松平、戸田、松平、戸田各氏と徳川家譜代大名たちの居城と代わり、明治に至っている。中でも本多正純は、前任地の小山城主時代と同様、城郭並びに城下町の大改造整備を行い、今日の宇都宮の中心市街地の骨格を造り上げた。
 徳川将軍の日光社参時には、宇都宮城は将軍の宿泊場所となり、本丸には将軍のための御成御殿が建てられた。日光社参は幕府の威信をかけた大事業であり、城も城下町も大変賑わい「関東7名城」の一つとも言われたが、1868年(慶応4年・明治元年)における戊辰戦争で官軍に味方して落城し、建造物の大半が灰燼に帰したほか、堀も次第に埋められ、往時の面影を偲ぶものは殆ど無くなった。
 現在は、平成18年以降に後記の通り一部分ながら復元され、一体は公園として整備されている。

<再建された建造物>

 清明台・・・・・木造2層、本瓦葺 、大きさ:約5.9m×6.9m、高さ:約10m・壁:土壁白漆喰塗り
       1階部分のみ内部見学できるので、案内して貰う。
 富士見櫓・・・木造2層、本瓦葺、大きさ:約5.9m×7.9m、高さ:約10m、壁:土壁白漆喰塗り
       1階部分のみ内部見学できる。
 土塀・・・・・・延長:約160m、高さ:約2.6m、壁:土壁白漆喰塗り
 土塁・・・・・・高さ:約10m、幅:約20m、延長:約230m
 堀・・・・・・・・幅:約11mから26m

<展示施設>・・・午前9時〜午後7時(年末年始は休館)

 清明館歴史展示室・・・「宇都宮城址公園清明館」(入場有料)、宇都宮市の歴史と文化財の案内など
 宇都宮城ものしり館・・宇都宮城の歴史に関する案内
 まちあるき情報館・・・市内の観光案内やまちあるきに役立つ情報

六道の辻・戊辰役戦士墓(14:30)

 3人で再び元の位置に戻り、その西にある「六道の辻(六道口)」と呼ばれる複雑な交差点傍の、「戊辰役戦士墓」を見に行く。こちらは、旧幕府軍の戦死者を祀っている。官軍に対し、負けたがために賊軍と言われた旧幕府軍の墓(明治7年建)である。若き頃だったが、自分も永岡慶之助著の「会津藩始末記―敗者の明治維新―」を読んだことがあるが、時代に翻弄され、事志に反して賊軍にされ会津藩関係者の苦悩が滲み出た読み応えのある作品だったことを思い出す。即ち、不本意にも戊辰戦争で朝敵にされた会津人は、明治・大正期は無論のこと、昭和期になっても政府の過酷な差別を受けた会津人の歴史への怨念を描いたもので、容保の守護職拝命から、若松城落城や以後の斗南移封まで、会津藩の波瀾万丈の歴史を描いた、勝者・薩長側告発の維新史である。

<戊辰之役戦死墓>
 会津の飯寺で宇都宮藩兵の戸田三男隊に捕われた長岡藩の山本帯刀は、死を覚悟し、自らの愛刀と部下の持っていた軍用金を集め、戸田に渡し「これを貴藩に提供す、相当の費用に当てられんこと」と嘆願し従容として死に就いた。 戸田は帰藩後、有志の賛同を得て旧幕府軍戦死者の墓地を整理して建碑。(山本の愛刀は二荒山神社から護国神社に移管され、現存する) 碑文によると、『六道口において官軍と幕府軍との間で大激戦があり、付近には多数の死体が散乱していた。官軍の戦死者は報恩寺に葬られて立派な墓碑が建立されたが、幕府軍は賊の名をもって呼ばれた。 その幕府軍の戦死者は土地の人々により仮埋葬されたまま、供養もされずにいたが、明治7年宇都宮藩士戸田三男等各士族と付近の住民によって墓碑が建立された』とある。

六道閻魔堂(14:33)

 その北西に「六道閻魔堂」がある。六本の道が集まっていたことを仏教の六道になぞらえ、先刻訪れた「光琳寺」の住職がお堂を建てたものである。
 「日本参体之壱 六道厄除閻魔法王略縁起」という風化で読みづらくなった解説板や、新しい解説碑が建っている。
               六道閻魔堂
この辺りは、江戸時代に壬生や佐野、楡木などから宇都宮の城下へ向かう六本の道が集まっていたので、仏教でいう六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六世界)になぞらえて、六道と呼ばれていました。
 元禄14年(1701)、光琳寺の専誉上人はお堂を建て、高さ2.4mほどの閻魔大王を祀りましたが、明治初めの戊辰戦争で焼けてしまいました。現在のお堂は、明治39年(1906)に建て直したものです。

蒲生君平生誕の地

 日光街道に戻って北へ進む。通りの名は「不動通」から「蓬莱大黒通」の次「材木町通」と名前が代わる。裁判所に突き当たって右折すると、JR宇都宮駅への「大通り」になり、すぐ左手に「蒲生君平生誕の地」碑がある筈だったが、通り過ぎてしまったので、次回立ち寄ることにする。

 蒲生君平は、明和5年(1768)に宇都宮新石町の油商兼農業を営む福田又右衛門正栄の四男として生まれた。13才の時に祖母の清から先祖が会津92万石の藩主「蒲生氏郷」の流れを引く元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)であると教えられ、自分は学者で身を立てようと考えたという。生家は残っておらず、その敷地には現在町名改め小幡町一丁目の小野瀬ビルが建ち、そのビルの裏手西北隅の元生家のあった所に『蒲生君平先生誕生之地』と刻まれた高さ1.5m程の石柱が建って僅かに往時の跡を留めている。

 これは昭和5年10月30日教育勅語渙発40年を記念して、下野史談会と新石町一同の手になったもので、大通りに面して建っていたものをビル建設に先立って移したものである。
 石柱表の字は、当時の市長石田仁太郎氏の揮亳になる。平成2年4月4日ビル建設と同時に所有者小野瀬フクさんは自費を投じてビル玄関前の壁に蒲生先生の誕生の地であることと偉業を讃えるパネルの碑を取り付けた。パネルには蒲生先生の画像、略歴、年譜などが金属パネルに記されたものである。この計画に当たって小野瀬さんは『先生の偉業を広く知って貰えばと発案、市の文化財保護審議副委員長等のアドバイスを受けた。この地に住む者として当然』と語っている。夜間も上部からの照明でライトアップされ、表を通る人の目に触れ、先生の偉業を知るのに役立つと思われる。

(参考)蒲生神社・・・宇都宮市塙田5−1−19

 二荒山神社の北方にあり、立ち寄り対象とはしないが、「蒲生君平」を祀っている。鳥居の東側には、明治時代の第12代横綱陣幕久五郎が、初代横綱で宇都宮出身の明石志賀之助を讃えて建てた日下開山初代横綱明石志賀之助碑がある由。

追分(日光街道と奥州街道の分岐点)(14:46)

その少し先、伝馬町小幡郵便局の先で左(北)へ向かう「清住町通り」が日光街道、東へ直進する「大通り」が奥州街道にあたり、大いなる意義を有する「追分」である。即ち、日本橋出立以来、ここまでは日光街道=奥州街道だった訳で「日光街道と奥州街道の追分」と記された標柱が建っている。本日の街道歩きはここをもってゴールとなり、次回は、この追分=「伝馬町交差点」から北上してスタートすることになる。
 真東にあるJR宇都宮駅は、距離が少々あり、しかも一見して明らかに下り坂になっているのが面白い。途中、「宇都宮二荒山神社」に案内して貰うことにする。

本陣跡

 追分のすぐ先に、往時の本陣が2軒あったが、東に向かって蒲生君平生誕の地から直線で60m位先の左に上野本陣があり、大通りの歩道に本陣跡の標柱が建っているとのことだったが、標柱は撤去されたのか見当たらない。この本陣跡は、200坪近い大きな建物だったという。

 また、「伝馬町」交差点から南へ50m入った所には青木本陣があったという。建坪191坪余、門構え・玄関付きだった由。現在は、市の天然記念物に指定されている樹高33m、樹齢400年の大いちょうが残っているらしいが、大通りの向こう側でもあり、往時の建物が残っている訳でもないので割愛した。

 問屋場兼貫目改所もこの辺りにあったという。貫目改所は、日光道中では千住宿にあったが、それ以外ではここ宇都宮宿のみだった由である。

 なお、別説だがその100m程先の左手にあるみずほ銀行辺りが石塚本陣跡だったというが、何の表示もなく、案内標柱もない。宇都宮宿の本陣は2軒だったというから、時代により交代があったのかも知れない。あるいは脇本陣だったのだろうか?

二荒山神社 ・・・宇都宮市馬場通り1−1−1

 下野國一之宮・元國幣中社で「二荒さん」の愛称で親しまれている「宇都宮二荒山神社」は、約1600年前の創建と言われ、古くは「宇都宮大明神」と呼ばれていた。正式名は「二荒山(ふたあらやま)神社」だが、日光の「二荒山(ふたらさん)神社」との区別上、鎮座地名を冠している。この両社は祭神も名称の由来も異なり、全く別神社と言われるが、日光社は下毛野氏の氏寺であり東大寺(大和国)や観世音寺(筑紫国)と並ぶ戒壇であった「下野薬師寺」の修行僧だった勝道上人を開祖とする傍ら、当社の座主は宇都宮氏がなる迄は下毛野氏の姻戚者だったと言われており、両社とも古代関東地方の文化の中心地であった下野国の豪族であり国造である下毛野氏に所縁の深い神社であると言える。
 延喜式神名帳に「下野国河内郡 二荒山神社」として記載され名神大社に列し、神階は正一位まで進み、下野国一之宮になったとされるが、これらは日光の二荒山神社のこととする説もあり、現在は両社が共に式内名神大社・下野国一之宮を称している。

 御祭神の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、第十代崇神天皇の第一皇子で、毛野國(栃木県、群馬県)を拓いた郷土の祖神、総氏神様として篤い信仰を受けている。また、御祭神は武徳にも優れていたため、古くから武将の信仰殊の外篤く、藤原秀郷、源頼義・義家、源頼朝、徳川家康などが当社に戦勝を祈願し、神領・宝物の寄進や社殿改築などを行っている。主祭神については時代により彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説があるようだ。
 また、崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)の北に鎮座する三輪山(大神神社)の御神体である大物主命とその子事代主命を相殿に祀っている。

 宇都宮は、当社の門前町として発展し、宇都宮の地名も当社に由来するが、一宮の訛り説、遷座による「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」説ほか諸説ある。

 当社々家の宇都宮氏は、摂関家藤原北家道兼流藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社座主だった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係になり土着したのが始まりで、当時の毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘って関東地方で存在感を持った名家である。庶流に常陸国守護の小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配していた紀清両党とも姻戚関係にあった。

 当初の鎮座地は現在地から大通りを隔てた南側「二荒山神社摂社下之宮」付近(荒尾崎)だったが、承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰(明神山)に遷座している。現在の「下之宮」は次回立ち寄り予定だが、地区再開発のため平成7年(1995)に移転・創建されたもので、前の広場はイベントスペースなどに利用され市民の憩いの場になっているという。なお、神社の南方にある宇都宮城が、東または南に設けるのが通例の正門が北側(神社方向)だったことからも、同神社の存在感が窺える。社殿は度々の戦火で焼失し、その都度再建され、現在の建物は宇都宮戦争で新政府軍の砲弾等によって破壊・焼失した後、その後、明治政府によって再建され、明治16年(1883)国幣中社に昇格している。正面の石垣には江戸末期の弘化3年(1846)正月の銘が入っている。飯島氏の話によると、高台(山)のうえにあるため、宇都宮城と間違えられ、官軍に最初に攻撃されたとか。

 ところで、豊城入彦命は武徳にも優れ、藤原秀郷、源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康など著名な武将らも戦勝祈願し、種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられている。平将門の乱にあっては、藤原秀郷がこの神社で授かった霊剣をもって将門を討った言われる。また平家物語によると、屋島の合戦にあって那須与一は平家船上の扇の的を射る際に「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈ったという。

 大通りに面した正面の鳥居から続く参道の先の、石段を途中まで登った中段両脇に境内社末社が鎮座している。階段最上段の門を潜ると、正面に本殿、その奥に拝殿があり、本殿左奥には宇都宮の名所七木七水八河原の一つである「明神の井」や「初辰稲荷神社」、右奥に「須賀神社」が祀られている。さらに本殿西脇には「女体宮」が祀られている。境内東側には祭事の神楽を行う神楽殿がある。本殿右手には、馬腹に蒼いの御紋をつけた馬像や、名木「塩釜桜」がある。
 社殿左手の「二荒山会館」には、国の重要美術品である「鉄の狛犬」と「星兜」が展示されている。

<末社>
・女体宮(三穂津姫命)              ・松尾神社(大山咋神・中津嶋姫命)
・荒神社(素戔嗚命)               ・水神社(罔象女神)
・剣宮(素戔嗚命)                ・菅原神社(菅原道真)
・十二社(国常立神から草葺不合神までの12神)  ・須賀神社(素戔嗚命)
・市神社(大市姫命)               ・十社宮(下野国内の式内社の神)
・初辰稲荷神社(倉稲魂命)

ゴール

 以上で本日の歩きと見学は全て終わり、飯島氏の案内で宇都宮駅近くでご当地名物の宇都宮餃子を食しながら、渇いた喉を生ビールなどで癒やしながら暫し歓談し、次回の歩きには飯島氏も参加してくれるとの嬉しい約束を交わして散会した。
 思いの外早く歩き終わったため、帰途便は、宇都宮発16:37の快速ラビットに間に合い、19時過ぎに帰宅できたが、久方ぶりの歩きで、しかも旧友の飯島氏とも逢えたため、大変有意義な一日だった。