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日光街道餐歩
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 2009.09.06(日)  日光道中第10回餐歩記・・・中徳次郎宿〜今市宿
 
【本日の行程 街道距離18km】

宇都宮駅バスターミナル8番乗り場9:30==(関東バス日光東照宮行き)==10:06中徳次郎バス停10:06→石那田堰→今市市→杉並木寄進碑→大沢宿→追分地蔵→16:02JR今市駅前

スタート(10:06)

 自宅を6:20に出発、新宿発7:24の湘南新宿ライン宇都宮行きに乗り、堅い座席で忍従すること約2時間、9:15に宇都宮駅に到着したが、途中8:28には、既に宇都宮駅先着済みの村谷氏から車中にメールが入り、待合室で待っているとのことで、びっくり。
 JR宇都宮駅西口のバスターミナルG番乗り場から村谷氏と共に、関東バスの9:30発日光東照宮行きの便に乗車する。10:06に前回の徒歩終着点だった「中徳次郎」交差点の少し手前のバス停「中徳次郎」で降り、前回の続きである「徳次郎(とくじら)」宿の街道を歩き始める。
 参考までに記しておくと、バス停で34番目、バス代は610円だった。

旧旅籠池田家

 信号を渡ると右手に宇都宮駅方面行きの「中徳次郎」バス停があり、その先右手に長い石塀に囲まれた脇に2階建ての古い建物が見える。どうやらこれが元旅籠だった池田家の建物らしいが、、僅かながら往時の面影を残す歴史的建造物として貴重な佇まいであるが、門の表札は異姓になっている。
 天保14年(1843)の宿村大概帳によると、徳次郎宿には上・中・下各宿合わせて72軒あったことになっており、それらが跡形皆無に近い状態になっているから「光陰矢の如し」とは言え不思議と言わざるを得ない。
 街道左手に、大谷石造りの家がある。蔵は幾つか見かけたが、主屋ごと大谷石というのは些か珍しい。

智賀都(ちかつ)神社(10:17)・・・宇都宮市徳次郎町2478

 700m程先の右手、笠木の下に島木のついた明神鳥居の奥に赤屋根・赤階段付きの趣ある「智賀都神社」がある。
 この社は、宝亀9年(778)に「日光三社(日光二荒山神社祭神)」の分霊を「千勝森(ちかつのもり)」に勧請し、その森の名から命名された神社である。「徳次郎六ヵ郷」の鎮守として信仰され、江戸時代には徳川家の崇敬社になり、社領の寄進なども行われ庇護された。元郷社である。

 主祭神の大己貴命のほか、田心姫命と味高彦根命を祀る社殿は、明治21年に改築され今日に至っている。3年に一度(7月の第4土曜日)、五穀豊穣祈願の例祭の「附祭り」があり、宇都宮市指定有形文化財で大変珍しい「彫刻屋台」が、6台も登場して日光街道を練り歩くという。

 樹齢700年と言われる2本の大ケヤキが、明神鳥居の両脇に威風堂々と聳え立ち、県の天然記念物や「とちぎ名木百選」に指定されている。左の幹の下部が補修されてはいるが、実に堂々たる存在感を示しており、富屋地区の宝物として「富屋小学校」の校歌にも歌われているそうである。

               
徳次郎智賀都神社祭礼付祭屋台
                      宇都宮市指定文化財(平成元年12月20日指定)
 智賀都神社は、徳次郎六か郷(西根・門前・田中・上町・下町・中町)の鎮守で、毎年7月31日、8月1日に宵祭、例大祭が行われる。屋台の奉納は、付祭として8月1日、日没とともに行われるが、現在は3年に一度となっている。
屋台は、江戸時代末から明治時代にかけて作られた彫刻屋台である。彫刻は冨田(現・大平町)に住んでいた磯邊敬信や後藤正秀、大出常吉らの手によるものである。


 この彫刻屋台は、6台も登場して日光街道を練り歩くらしい。
 大ケヤキについては、栃木県知事書の「長壽乃夫婦欅」の石塔や解説板が横に建てられている。

               
栃木県指定天然記念物
               け や き  二 本
   所 有 者 智賀都神社
   指定年月日 昭和29年9月7日
   樹   高 二本とも 40m
   目通し周囲 東の株8.0m 西の株7.3m
   枝 張 り 東の株 東西26m、南北44m
         西の株 東西22m、南北37m
   推定樹齢  約700年
 けやきはニレ科の落葉高木で、本州各地の平地から山地に自生する。普通は風景樹として、また将来の建築材として民家や神社仏閣境内に植えられることが多い。
 このけやきの西側の株は天に向い、東側の株は天を受けるように枝を広げている。
                         栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会


徳次郎六本杉(10:23)

 今日は街道独特の並木の日陰を楽々歩けるだろうと考えた事前の予想が正反対に覆り、松並木などの欠落部分が予想以上に大きく、暑さ対策を怠ってきた身には日差しが厳しく、大変な一日になりそうである。
 智賀都神社のすぐ先に「六本杉」というバス停があり、道路の真ん中の中央分離帯のように「徳次郎六本杉」の標札と六本の杉が建っている。バス停名にもなる程有名だったのだろうが、道の真ん中にあるの恐らく道路の拡幅による結果だろうと確信した。その先は桜並木になる。

宝木用水二宮堰(徳次郎新堀堰)(10:38)・・・宇都宮市大網町

 鬱蒼とした樹木の茂る智賀都神社神社の裏手を流れていた「二宮用水」が、その先で街道右手に迫ってくるので立ち寄る。。
 「宇都宮市大網町」と記された古い石碑や、「にのみやぜき公園350m」の看板を見て、右手にくねくねと曲がりながら入って行くと、左手の眼下にあり、降りていく。
 「田川」から二宮堰で取水し、徳次郎・宝木経由で宇都宮市の中心部に達しているそうだが、かの二宮尊徳の設計によるもので、安政6年(1859)に完成している。これは、田川の水位が低いため堰に水を溜めて取水し、灌漑用水にしたものだが、今では田川の水位引き上げ工事によって堰の役目は終わっている。同じような堰はこのすぐ先の「石那田」にもあった。
 若い女性が二人、四阿の横でビニールシートを広げて休憩していたので挨拶を交わし、傍らの解説板の内容をカメラに収める。(内容は以下のとおり)

               
二宮堰について
 新堀(宝木)用水は、この二宮堰を始まりとして徳次郎、宝木地区を経て、宇都宮市の中心部を流れている川で、宇都宮市民にとって大変関わりの深い川です。
 この新堀は江戸時代末期に、二宮金次郎(後の尊徳)、その弟子吉良八郎と村の人々の協力によって造られた人口の川です。
 第一期工事(徳次郎新堀という)は徳次郎地区を潤しただけで宝木地区は土地が高いため、台地に水を引き上げることが出来ませんでした。そこで宝木用水は、地区の人々が台地に水を引くため、自分たちで資金を集め、二宮金次郎の設計、弟子の吉良八郎の指導によって、第二期工事として完成されたものです。
 この二宮堰は田川から新堀、宝木用水へ水を引き込むという、とても大切な役割をはたしているところで、当時の面影がうかがえる場所でもあります。
 先人たちの思いがこめられたこの歴史ある川を私たちも大切にして行きましょう。

               二宮堰ができるまで
江戸時代
1823 佐藤伝平が田川からの分水の設計をし工事を始めたが中止。
1825 徳次郎の領民が、宇都宮藩に願い出て、田川から分水し、姿川まで通水することに成功したが、堀が崩れて流れがとまる。
1827 再び願い出て、改修したが又土手が崩れて流れがとまる。
1853 宇都宮領(徳次郎)が幕府領になったのを機に所管である真岡代官所に新堀開削を願い出る。二里宮金次郎により徳次郎新堀が完成する。   然し、宝木地区は土地が高いため水を引けない。
1856 二宮金次郎、宝木地区の開削の設計をする。翌年死亡したため工事を中止する。
1859 宝木地区の村民は費用を調達し、吉良八郎の監督により六月に完成する。

石那田の一里塚(10:57)・・・宇都宮市石那田町六本木(「船生街道入口」交差点の先右手)

 元の街道に戻り、10:50に上徳次郎バス停を通過すると、また並木道になり、右手に日本橋から30里となる「石那田の一里塚」が右手の塚だけ残っており、柵に囲まれた怩フ上には樹木の代わりに石標が建てられている。別名「六本木の一里塚」とも呼ばれている。
 解説板があったが、文字が殆ど読み取れないほど薄くなっている。ごく基本的なことしか記されていなかったのは確かだが・・・

 そのすぐ先の左手には、四角形の大きな石碑があり、「日光街道植樹記念碑 栃木縣知事横川信夫書」と刻まれている。

石仏(10:58)・・・宇都宮市石那田町六本木

 そのすぐ先左手には、一段高くなった歩道上の覆屋の中に、天保11年(1840)の銘があり「日光道中分間延絵図」にも登場するという「十九夜塔の如意輪観音」があるほか、傍らに2基の石仏がある。

石那田堰(11:09)・・・宇都宮市石那田町

 暫らく歩き、「石那田堰」への案内標識に従って右に入ると、先刻の二宮堰と同様に田川に堰があり、現在の堰は河川改修工事で往時のものではないが取水口がある。石那田地区基盤整備事業のために大堰を移築したという徳次郎用水組合建立の「移築記念碑」、小学校などでよく見かけた、薪を背負い読書しながら歩くお馴染みの「二宮金次郎像」、「大堰竣工記念碑」、小さな「祠」等が岸の手前の雑草の中に建っている。
 二宮堰より7年早い嘉永5年(1852)に、同じ二宮尊徳の指導の下にこの堰が設けられた。その水は、上徳次郎の南で日光道中を横切り、上・中・下徳次郎及び西根・田中・門前の計六郷の田畑を潤すと共に、飲料水をも供給したため、「六郷用水」とも呼ばれる由。

[報徳記 巻之八 【3】先生野州石那田村の堰を堅築す]

 野州河内郡石那田村は公料にして、隣村徳次郎村は宇都宮領なり。某年(に至つて徳次郎村も公料となる。同村の用水は石那田村の地に於て川を堰き水を引き以て田に潅げり。石那田村用水も亦此の堰より分水す。
 年々用水足らずして互いに争ひ、徳次郎村へ順水せしむる時は石那田より之を破り水を引き、徳次郎より又石那田の用水を塞ぎ、四五月の節に至つては、毎夜之が為に家々安眠することを得ず。両村仇讐の思ひをなし争論止まず。
加之(しかのみならず)一邑(いふ)中に於て互に水を争ひ、或は他の用水を塞ぎ己の田に注ぎ、彼又来て之を破り、近隣怨恨忿怒を懷き、家業を怠り衰弱困苦に陥り、平年飢渇を免れず、而して訴訟争論甚し。
 県令之を憂ひ屡々此の堰を見分すといへども、一邑(いふ)をして便ならしむる時は、一村稼穡(かしょく)の道を失ふ。是を以て至当の処置を下すこと能はず。
 県令先生に問ふて曰く、両村をして争論を止め、平穏に帰せしむるの道あらんか。
 先生曰く、両村の患ひ其の本(もと)田水の不足に在り。苟くも田水余りあるときは制せずと雖も必ず平穏に帰せん。豈惟(たゞ)平穏のみならん。両邑の廃衰も亦是に由つて再興す可し と。令大いに悦びて此の事を先生に委)す。

 是に於て先生徳次郎石那田に至りて水理を熟見し、堰の高低を量り、邑の父老を招き古来の事を尋問し、深く思慮を廻らし両全の道を施さんとし、両村の民を諭して曰く、
数年水を争ひ隣村と敵讐の如くなるは、汝等の心に於て豈快しとせんや。我今此の用水をして十分ならしむるの道あり。然れども我が処置に任ぜずんば成す事あたはず。汝等之を欲するか、又従来の如く互に相争ふを欲するか。若し汝等永安の道を求め、互に十分の水を得て兄弟の如く交わらんことを欲せば大幸なるべし。若し我が処置に従はず、是の如くにして年を経ば、連年衰廃に帰し終に両村の亡滅に至らんこと疑ひなし。故に官我をして此の憂ひを除かしめんとす。汝等の心に於て如何。
 両村の民答へて曰く、積年用水足らずして耕耘の力を尽すことを得ず。是を以て是の如く困窮に陥りたり。水を争ひ忿恨を懷く者何ぞ某等の欲する所ならんや。然りと雖も争はざれば忽ち一滴の水をも得ず。直ちに飢亡に及ばんことを歎き、已むことを得ずして多年の争論に及べり。今両村をして用水十分ならしむるの道を成し玉はゞ、何の幸か之に如かんや。然れども旧来此の如きの堰にして一方の田地を利せんとすれば忽ち一方の田地水を得る所なく、積年両全の道を得ること能(はず。若し術あらば願くは之を施し玉ふべし。素より願ふ所なりと云ふ。退いて互に其の成すべからざるを嘲りたり。

 元来石那田の田面は土地至つて卑下なり。唯分水口の傍の田地三反歩、高地にして水利に便ならず。故に堰高からざれば此の田に灌ぐことあたはず。堰の高きが爲に屡々破れて保たず。是を以て徳次郎村年々渇水に及べり。且石那田の地に水を引く時は、土地卑下なるが故に忽ち水落て、徳次郎村に至らず。其の難場なること斯の如し。
 先生此の事実を以て県令に達し、然る後土功を起こし自ら指揮して力を尽せり。先づ堰を立つるに石枠を三段に据ゑ、如何なる洪水といへども破損の憂ひなからしめ、次に徳次郎用水口に石の水門を据ゑ、出水の節といへども流水限りありて用水路破壊の害なからしめ、次に石那田の分水口をも石垣を以てし、分水限りあらしめ、高地の田地三反歩の土を他に運搬して之を卑下ならしむること或は三尺より二尺一尺に及べり。故に旧来の堰の高さを減ずること三尺にして、順水せしむ。
 数日にして全く功を成す。是に於(て用水両邑に余りあり。下流他村に潤澤す。両村男女共に先生の深智を感じ、永世不朽の宝を得たりと大いに悦び、年来の争論忿心一時に解散せり。是より後水余り有りて稼穡(かしょく)の道に力を尽すことを得。
人心(じんしん)平和にして貧困の憂ひを免る。又徳次郎村古来の用水路廃棄するあり。是をも再興す。長(ながさ)千有余間渇水の邑十分の田水を得、積年の憂患)を去り永安の道を得せしむ。
人皆感歎止まず。

或(あるひと)問て曰く、両村用水足らずして、貧苦のみならず争奪の心盛んにして、更に推譲の道を知らず。鶏犬相闘ふが如し。先生一度手を下すに及びて積恨頓(とみ)に消し、互に分水口に板を施し、水をして己が邑に多く至らざらしめんとす。何ぞ人情の向背是の如く速かなるや。
 先生曰く、凡そ人心の道心を害する者困窮より甚しきはなし。飢渇の憂ひ旦夕にあり。何を以て良心を存することを得ん。
両村の民素より暴なるに非ず。困苦の為に相争ふに至れり。困苦の本水の足らざるにあり、今其の本を優(ゆた)かにす。是れ教へを待たずして相和する所以なり。
然して多年水の足らざるを憂ふるもの誠に川流の不足なるにはあらず。水の大いに費ゆるが故なり。其の費ゆるところを塞ぎ、之を田地に注ぐのみ。源水の増加するにあらずして両村水に飽くものは、只費水を止むるが故なり。何ぞ水而已(みづのみ)ならんや。百姓貧窮に苦しむ者も又猶(なほ)是の如し。天下の米財空乏なるには非ず。米財あまりありといへども、大小各其の分を忘れ財を費やすが故に、常に貧困を免れず。一旦其の分度を明らかにして其の無用の散財を止むる時は、米財余りありて富優に至ること、一度此の堰を堅築して用水十分なるが如し。万物の理一にして別なるにあらず。只其の処置に依て或は富盛となり或は衰貧となること、推して知るべし と諭(さと)せり。或人先生の深智を感ず。

昼食(11:15〜11:35)

 街道に戻った所(街道右手)にスパゲッティー専門店があり、ここまで歩いてきた感じでは、この先他に食事の出来そうな店がない可能性が高いと判断し、時間的にも11:15で早朝からの出発でもあり、入店する。固めにゆでられた細麺で、流石に専門店だけのことはあると感ずる旨味だった。
 結果的に、11時開店のこの店にタイミング良く入れ、この先では食事処が見つからず、コンビニもほとんど無く、大正解だった。

石灘の大橋・・・宇都宮市石那田町

 暑さに並行しつつ歩いていくが、道の両側に時節柄か、「リンゴ狩り」とか「リンゴ直売」の看板や店が結構目立つ。
 右後方からの「田川」を「田川大橋」という大して大きくない橋で渡る。往時の橋は、「石灘の大橋」と言われ、幅が2間半あった由だが、架け替えられた現在の橋は昔より当然大きい。
 石那田地区は、昔は、山・畑共に石ころが多く、耕作に難儀したため「石灘」と表すことが多かったという。
 その先から歩道部分が車道よりも段々高くなり、バスより高い所を歩いたりする。この道中、並木道は気持ちが良いが並木道に入ってから何故か歩道部分が高くなっていて、アップダウンするので歩きにくい感じがする。

石那田八坂神社(11:44)・・・宇都宮市石那田町

 少し先の左手に「石那田八坂神社」があり、殺風景な佇まいだが立ち寄る。社も歴史を感ずるものではなく、境内特有の木々も見当たらないが、道路際に建つ一枚の看板(解説板)が目を惹く。

               
石那田八坂神社天王祭付祭屋台
                     宇都宮市指定文化財 (昭和49年3月1日指定)
 天王祭は、疫病除けとして行われる牛頭天王の祭で、石那田八坂神社では、7月17日から24日まで行われる。付祭は24日の夜に行われ、猿田彦(天狗)となった仲内地区の方を先頭に、神輿・6地区(桑原、六本木、原坪、岡坪、仲根、坊村)の屋台が御仮屋から神社へと繰り出される。
 屋台は、江戸時代末から明治時代にかけて作られた彫刻屋台である。彫刻は冨田(現・大平町)に住んでいた磯邊敬信や後藤正秀、神山政五郎らの手によるものである。


・・・ということで、先に立ち寄った「智賀都神社」やその「祭礼付祭屋台」と、「6基」「彫刻者名」「付祭」という共通項がある。

歩道歩きあれこれ

 この辺りから登り坂になっているが気持ちのいい並木道が続く。左手のりんご畑等もを見ながら暫らく歩くと、「松木」という地名があり、そこからは桜並木から杉並木に変わる。
 また、歩道はここまでは左手にしかなかったが、この先からは所々右手にも歩道が現れ、木陰歩きをしたい我らを喜ばせる。街道が西行きなので、左側の歩道歩きでは折角の並木が歩行者の日陰になってくれないのだが、右側の歩道を歩けば並木の北側を歩くことになり大分涼しさが違うのである。人間とは勝手なものだが、もし冬季に歩いていたら喜んで左側の歩道を歩いたことだろうと思うと、苦笑を禁じ得ない。

お願い地蔵(うらない仏)(12:18)・・・宇都宮市上小池町

 左手のお堂の中に「うらない仏」と言われる大谷石で出来たお地蔵があるが、かなり風化しており、真っ赤なお帽子や涎掛けで格好がついている。木板に墨書の解説板がある。

               
地蔵尊の由来
 この石佛は享保十五年(1730)八代将軍吉宗公時代疫病が流行し住民が苦しんだ時、地域の人々により石佛が作られ、人の体の悪い所と佛の同じ所に赤い布を付け、お願いすると不思議に治ったと云う。それ以来、この地蔵を「お願い地蔵」と呼ぶ。

 前には3個のまんじゅう型の自然石が置かれ、そのいずれかを持ち上げて軽く感ずるなら願いが叶うと言われている由で、別名「占い地蔵」と呼ばれているようだ。

新渡神社(12:25)・・・宇都宮市上小池町499

 次の信号の先右手に、石の不動尊をご神体とする「新渡神社」がある。稲荷鳥居(台輪鳥居)を潜り杉の木立が聳える参道奥に行くと、境内の所々に真っ赤な彼岸花が咲いており、今年初めてのお目見えだなと思う。境内左奥には、「二十六夜塔」や石の祠が数基建ち並び、境内左手前には「上小池公民館」、右手前はゲートボール場になっていて、ベンチなども置かれているが、ご老体達の姿はなく、本日はお休み日らしい。

上小池の一里塚・・・宇都宮市上小池町(新渡神社の西)

 その先の左手に、直径約3m、高さ1.8m程の怩ェ残る「上小池の一里塚跡」がある筈だが何の表示もなく見落としたらしい。往時は松の木が植えられていて江戸から31番目の一里塚だというが、意識していたのに素通りしてしまったようである。

杉並木寄進碑・・・日光市山口450

 その少し先から市域が変わり、12:36に愈々「日光市(旧・今市市)」に入る。見るべきものもなく黙々と歩いていくと、12:57「山口」の信号の先で旧道は、バイパス(国道)を左に分けて直進して行く。車が激減し、気持ちのいい杉並木道になる。

 13:00、すぐ左手に、古い石碑や昭和42年3月建立の「特別史跡 特別天然記念物 日光杉並木街道」という高い石碑、木製「並木寄進碑」解説板などがある。

               
並木寄進碑
                              今市市(注:現・日光市)山口
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。
並木の起点となる神橋畔、および各街道の切れる今市市山口[日光街道]、同小倉[例幣使街道]、同大桑[会津西街道]の四ヶ所に建っている。
 この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている。


 杉並木は、徳川家譜代の家臣松平正綱・信綱(正綱の甥で養子=「知恵伊豆」)父子が慶安元年(1648、家康の33回忌)から20余年かけて紀州熊野から取り寄せた20万本余の杉苗を、日光道中・壬生道・会津西街道の三街道の両側に延長37kmに亘って植樹したものである。

車道と高低差のある歩道

 今日歩いている並木道は先述の通り車道部分が低く、左右(概ね左側、所々右側にも)の並木の外側の一段高い所にそれぞれ歩道がある。言わば車道部分が切り通し状になっており、その理由は、人が暴漢に狙われるのを防ぐために昔から高低差があり、昔は今よりも高低差が大きかったらしく、車道に路盤を入れるために昔よりむしろ車道部分が今は高くなっているそうだが、この理由については村谷氏共々疑問無しとしないところである。

大沢宿

 その先「大沢」の信号でバイパスと合流し、再び国道119号線を歩くようになる。大沢宿入口で南東に分かれて進む道は、「鹿沼道」である。大沢は、建久年間(1190〜99)、源頼朝が当地に狩猟に来た時、広大な荒地だったのを見て4人の従者をして居住・開拓させたのが始まりだと言われている。その頼朝のご恩に因み、恩沢と称したのが後に大沢(おおたく)、更に大沢(おおさわ)になったという。

 大沢宿は、元和元年(1617)に日光東照宮が造営された後、江戸から日光街道第19番目の宿となり、今市宿・徳次郎宿まで夫々2里(約8km)地点にあり、天保5年(1833)には飯盛女を置くことも許可されるなど大いに賑わったが、度重なる大火により現在では往時の宿場の面影を感じさせるものは殆ど無い。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒の規模だった。

王子神社(13:22)・・・日光市大沢町120

 大沢の町中を行き、右手にある細い道を入り込んだ先の左手に、樹齢200年の大銀杏が聳える「王子神社」がある。
 大きな石版に由緒が刻まれている。

               
今市市大沢町鎮座往時神社由緒
 当大沢ハ紀元千八百五十三年建久四年今ヲ去ルコト八百年前源頼朝東国巡検ノ際当地ノ荒野タルヲ見従臣宮本、安西、大島、高橋ニ命ジ開拓セシムコレ即今日ノ大沢ナリ
 王子神社ハ紀元千八百六十三年人皇八十三代土御門天皇ノ御字今ヲ去ルコト七百九十年前正治二年正月七日頼朝ノ近臣大橋太郎登晃ノ途中大沢ニ足ヲ留メ村民ヲ集メテ曰ク当地ハ日光ノ附近ナレバ豫テ頼朝公ノ祈願シ給フ豊城入彦命ト以王及頼朝公ノ三神ヲ勤請合祀シ王子大権現ト唱へ鎮守トシテ尊敬スベシト云ワレタルニ因ル。
と由緒書にある。
 その後長い歳月当大沢の守護神として尊崇されてきたが、先の太平洋戦争後は神殿の改修も思うにまかせず老朽化する神殿に関係者は等しく心を痛めていたが、今回奉賀会を中心に大沢町一丸となって拝殿を新築することとなり、町民と当神社を崇敬する人々の汗の決勝による浄財をもって拝殿新築に至ったものである。
 ご神徳いよいよ高く、国の彌栄と大沢町に住む人々の益々の多幸を乞い願い祈念碑を建立する。
               平成五年十一月吉日    撰文 宮司増渕元一郎

               天然記念物
               王子神社の大いちょう
   樹 高 三五・五メートル
   目通り  三・四メートル
 王子神社は旧大沢宿の鎮守であり、鎌倉時代にさかのぼる古い創建伝承をつたえている。
 しかし、旧大沢宿は、日光東照宮の成立、日光街道の整備後に開かれた宿駅なので、宿駅の整備ののちに社殿も整えられたものと思われ、この木もその頃植えられたものであろう。推定樹齢約二〇〇年というのも、このことを示している。
 この木は雌株の巨樹で、毎年多数の銀杏(ぎんなん)を生ずる。
               昭和五十年十月
                              日光市教育委員会


龍蔵寺(13:28)・・・日光市大沢町831−3

 王子神社前を更に右に200m程くねくねと行った所に「大澤山竜蔵寺」がある。ここは、4代将軍家綱の日光社参時に、後述する「大沢御殿」に代わって装束衣帯所・休息所になり、以後、8代吉宗、10代家治、12代家慶も利用した。この寺は、江戸時代は街道筋の「大沢小学校」の場所にあったものが、明治初年頃にここに移されているため、山門もなく門柱であり、そんな由来のある寺という佇まいは皆無だが、「六尺藤」が有名とのことで立ち寄る。

 参道の左手に市の天然記念物に指定されている「六尺藤」がある。樹齢は100年、太さ約1mで、200uもの枝を広げ、最盛期には花穂が6尺(約1.8m)にもなることから、この名がつけられた由。境内の近くには湧水を水源とする用水路もあり、水生生物などが見られる。なお、当地の杉線香生産量は全国の半分を占めている。落ち着いた佇まいの雰囲気のある寺である。

               
天然記念物 六 尺 藤
     太さ・本回り 260cm          樹齢 枝の部分 約70年
     高さ     180cm          台木の部分   100年以上
     枝張り    約200u(14m×12m)
 この藤は、明治36年(1903年)頃、龍蔵寺第34代住職(久松豊明氏)が山藤を植えたもので、それを台木にして昭和2年(1927年)に花穂の長い藤を接木したものである。
 台木が太かったため、2か所に接木しそれぞれが2芽を伸ばし、現在4本の太い枝が伸びている。花期は5月中旬。
               平成5年3月          日光市教育委員会

               六尺ノ豊明藤
コレハ昭和弐年春ツイデ作ッタモノデス 住職豊明がツイタモノデスカラソレデ豊明藤トシタモノデス


大沢の古杉・・・日光市大沢町

 街道に戻ると、左手に「大沢小学校」があり、ここに龍蔵寺があったことを確認する。町並みは往時の宿の面影を全く留めていない。
 また杉並木が始まり、左手に「大沢の古杉」と呼ばれる古い杉が数本ある。松平正綱が東照宮に並木杉を植栽寄進する以前から存在したと言われている。
 またここは、戊辰戦争の時、大沢の斎藤縫蔵と板橋の由五郎が幕府軍の間諜を働いたとして処刑された所でもある由。

 13:38、木製の矢印形看板で「日光杉並木街道 (←)保護地域  普通地域(→)」の標柱を発見したが、13:50にその先では「(←)保護地域 特別保護地域(→)」も発見したし、地域によってこの3段階が頻繁にランク変更していることに気づいた。

八坂の枝喰い杉(13:42)・・・日光市大沢町

 その向かい側(街道右手)にある「八坂神社」の鳥居前に「八坂の枝喰い杉」と言われているものがあるというので中止してみた。それは、2本の杉の根部が癒着した二叉杉で、一方の幹から分岐した杉が、接触していた他の幹の生長と共に癒着したもので、恰も別の木の枝を喰い込んでいるような形をしているということだったが、それらしきものはどうやら樹勢が尽きて切り取られたと思われ、その残骸と目されるものが1m程の高さで鳥居前に残っていた。

大沢の四本杉・・・日光市大沢町

 そのすぐ先の左手には、「大沢の四本杉」がある。4本の杉が四角形の各点からほぼ同じ大きさで生長し、均整のとれた箱型の樹相をなしている。

大沢御殿跡・・・日光市大沢町

 「大室入口」信号の200m程先の右手に「大沢御殿跡」の解説板があるということだったが、左側を歩いていたためか見当たらなかった。撤去されたのか、見落としたのか判らない。
 3代将軍家光の日光社参に際して、幕府が元和3年(1617)に3代将軍家光の日光社参時の将軍休息所・装束衣帯所として造営したもので、土塁・井戸などの跡がある。その後、一度取り払い、寛文年中(1661〜73)に再度造営し、享保の時代(1716〜36)前に再び取り払われたというのだが・・・

大沢の一里塚(別名:水無の一里塚)(13:58)・・・日光市大沢町

 大沢御殿跡から暫く先に日本橋から32里目の「大沢の一里塚跡」がある。左右とも塚があり、右の塚にのみ2本の大杉が生えている。「水無」という地名をとって「水無の一里塚」とも呼ばれる。これは、名主清兵衛宅に梨の古木があり、水気の多い梨がなるので水梨と呼んだところから水梨村と唱え、いつのころからか水無と書くようになったという説と、曾てこの辺は水利が悪く、畑地ばかりだったという説がある。

 その先左手で、遊歩道が途切れた角に「延命地蔵堂」が供養塔数基と共に祀られている。

旧道と森友並木太郎

 暫く歩くと、やがて道は、国道を左に分け、車が殆ど通らない旧道に入る。ほんのすぐ先右手に「森友並木太郎」と呼ばれている杉があるらしいのだが、いずれも立派な巨木ばかりで、特定するのが難しい。恐らくコレだろうと目される巨樹はあったが・・・
 この辺りの杉の大木には人名を書いた名札が架けられている。杉並木保存事業のオーナー制度で管理費を捻出しているらしい。“これぞ日光杉並木”という感じの風情のある道が暫らく続いている。
なお、「森友」の地名は源頼朝or義経?の家来の森高哉がこの地を多くの仲間と開墾し、「開墾を共にして友をつくる」の意から命名されたらしい。

来迎寺(14:55)・・・日光市森友1116

 やがて人工的な国道と合流して「下森友」のバス停の先の交差点は、右奥州道、左板橋道で、その先の右手に「盛朝山来迎寺」がある。隣にはレトロな公民館がある。来迎寺は、永正14年(1517)開基の寺で、阿弥陀如来を本尊としている。
明治元年7月26日、旧幕府軍に兵糧を提供したため斬首された森友村名主・斎藤嘉平の墓がある。 少し先の民家のフェンス塀の中に「夜燈道標」が置かれていた。

桜杉・・・日光市森友

 「森友」信号で再び国道を左に分け、旧道は右を行く。また鬱蒼とした杉並木が続いている。車は一通で前方からのみだが殆ど通らないので気持ちよく歩ける。
 暫らく歩いていくと、左手に人の背丈ぐらいの位置にある杉の大木の割れ目から山桜の木が出ている珍しい杉(「桜杉」と呼ばれている)があるらしいが、距離が長い鬱蒼とした旧道では風景に変化が無く、どうも見逃したらしい。それは、杉の割れ目に桜の種が落ち、杉の体内を通って地面に根を下ろし芽を吹いたものとされているようだが・・・
 昭和61年に建設省が“日本の道百選”を選定した時には、日光・会津・例幣使街道の松並木総数は13,738本だったそうだが、中でも、愛称をもって呼ばれている何本かがあり、この「桜杉」やこの先にある「並木ホテル」と呼ばれる杉が旅情を感じさせてくれる代表格と言えよう。

並木ホテル=七本桜の一里塚(15:24)・・・日光市今市

 その先の右手に日本橋から33里の「七本桜の一里塚跡」がある。右手の塚上の大杉の根元は、恰も甲州道中笹子峠越えの時に見た「矢立の杉」を思い出すような、大人4人程が入れる空洞なっており、「並木ホテル」の愛称で親しまれているという。昔この辺りに7本の桜があったために「七本桜の一里塚」と呼ばれている由。

               (
特別史跡 特別天然記念物)
               日光杉並木街道の一里塚
                              今市市(注:現日光市)七本桜
 江戸から日光までの三十六里余(144km)の街道は、「日光道中」と呼ばれ、その昔東照宮に詣でるための街道として栄えた。
 街道には一里ごとに怩築き祖真上に大樹が植えられて旅人に里程を知らせたが、この杉並木区間では一里塚に杉が植えられているのが特色である。
 特にこの塚上の杉は根元がくさって空洞が出来、大人が四人位入れるところから「並木ホテル」と呼ばれている。


和尚塚・・・日光市今市(右手小林歯科とゼネラル石油の間)

 高架になっている東武日光線を潜った先、日光市役所前バス停近くの国道脇に「和尚塚(無名戦士墓)」があるということだったが、並進する旧道を通ったため所在確認が出来なかった。
 元々2百年以上前、行き倒れの僧を祀った所だそうだが、戊辰戦争の時の無名戦士の墓になったという。旧幕府軍兵士は賊軍とされ、今市攻防戦での会津藩士戦死者は約100名とも言われ、多くの遺体が野晒しにされたが、見かねた地元民たちが、主に東木戸方面の遺体を集めてこの地に埋葬したもので、氏名不明の旧幕府軍兵20数名が葬られている由である。また、下木戸に晒された首級(16とも27とも)を葬ったとも言われている由。

追分地蔵尊(15:51)・・・日光市今市117

 遂に来た。静かで快適な日光道中の旧道は、やがて左手の国道119号と信号で合流し、更にそこで左後方からの「日光壬生道(R121)」と合流、更に「会津街道(県道62号)」〜県道229号と交差する変則六叉路、かつ、重要ポイント箇所になっている。その国道119号と壬生道の合流点に「追分地蔵尊」があり、「例幣使杉並木街道」の標柱も建っている。そちらを見通すと日光街道以上に素晴らしそうな杉並木の佇まいが見通せて、思わずそちらも歩きたくなってくる。
 「楡木宿」迄は壬生道と例幣使街道が重なり、例幣使街道は、中山道と倉賀野でつながる。壬生道は楡木を経由して小山の喜沢追分で日光街道と合流(分岐)している。

 「追分地蔵」は高さ2m程あり、石造で座像のお地蔵としては北関東随一の大きさで、市文化財に指定されている。この地蔵は、弘法大師が日光含満ヶ淵に建てたが洪水で流され、大谷川の砂原に埋まっていたのを近くの人が大石と思い、楔を打ち込んだ処、赤い血が出たという言い伝えがあり、今も背に窪みがあるとのことである。最初は、今市宿の「如来寺」(次回立ち寄り予定)に安置され、寛永2年(1625)にここ「追分」に移されたという。
毎年8月23日に行われる「二十三夜祭」と9月24日に行われる「千灯供養祭」には大勢の参拝者が訪れる由。

 広い境内には、この他「くさ地蔵尊」「二十三夜尊」「子育地蔵」「安産地蔵」などもあり、予期以上の霊地である。

               
石造地蔵菩薩座像(通称追分け地蔵)
 蓮台を含めて下から仰ぎ見る姿はまことに壮大、丸彫り石地蔵の座像としては、東日本有数の巨像である。
 製作年代は明らかでないが、八代将軍徳川吉宗の日光社参のとき、すでに現在地にあったと記録されている。おそらく、街道の成立による今市街整備の時期と、この地蔵のまつられた年代とは、密接な関係があろう。
 地蔵の手印は、ふつう錫杖と宝珠であるが、これは密教系の胎蔵界大日如来の法界定印という手印を結んでいる。あるいは製作当時の信仰形態・製作事情を暗示しているのであろうか。
               昭和五十二年十月
                              日光市教育委員会
                           寄贈 今市ロータリークラブ


ゴール
                         
 その先の「小倉町」交差点を左折するとJR今市駅方面、右折すると東武日光線今市駅方面だが、帰路はJR利用ということで、綺麗に整備された広い通りを駅へ向かうが、街の外れに当たるのか寂しい活気のない通りである。駅周辺には渇いた喉を癒せそうな店も皆無である。東武の下今市駅の方が大分活気がありそうだ。

 駅到着が16:02、ホームに上がると、標高393.63mという表示があり、前回の途中から杉並木を延々と僅かばかりの勾配ながら延々と上ってきた街道は、400m近い所まで来ていたことを知らされた。
 16:07発宇都宮行きに乗車し、妻に帰宅予定時刻をメールする。車内は始発駅からの客で座席は隙間が皆無に近い。しかも単線なので日光行き電車と駅で待ち合わせもあり、距離の割に時間が掛かる。16:45宇都宮駅で下車し、16:57発の湘南新宿ラインに乗り換える前に駅中で缶ビールを買い、列車最後尾の車両のボックス席に二人で陣取り、喉を癒しつつ帰途についた。

 次回は、最終回だが前回同行の飯島氏も参加される筈だし、更にもう一人増える可能性もあるので賑やかな街道歩き&完歩記念の打ち上げになりそうだ。