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日光街道餐歩
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 2009.06.07(日)  日光道中第七回餐歩記・・・小山駅〜石橋駅
 
本日の行程
  小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿

 JR小山駅に8:59到着。現地集合したものの、天候不良のために協議の上中止にした5月24日と同様に、赤羽乗換での快速ラビット利用である。トイレで身支度を済ませ、いつも通り先着の村谷氏と出逢って、西口に出る。一階隅の「観光案内所」は不熱心な小山市教育委員会の精神を受け継いだか、働き時の日曜日にも拘わらず、前回同様休館状態である。先着の村谷氏の話では、一つ先の小金井駅には観光案内所があるとの情報なので、立ち寄りを予定して出発する。時に9:05である。
 きょうの予定は、小山宿内旧跡回りに始まり、日光道中新田宿・小金井宿・石橋宿と歩き、JR石橋駅迄をゴール予定にしている。片道2km程の大いなる立ち寄りも考えており、その場合は合計20〜21km程度にはなりそうだが、昨日までと異なり酷暑予想の今日は成り行き柔軟ということになりそうな予感もする。

小山宿について(復習)

 小山宿は元和3年(1617)に宿として成立し、北関東の交通の中心として発展した。宿の長さは南北約1.4kmに及び、天満宮(天神町1丁目)辺りから、天翁院の入口(本郷町2丁目)辺り迄町並みを形成する宿場だったという。天保14年(1843)の記録では、人口1,392人、本陣1、脇本陣2、旅籠74軒で、旅籠の数は多かった。
 平安時代には下野国都賀郡の11郷の1つで、宿場町として栄える前は小山氏が本拠地で、小山城の城下町だった。小山城は、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷を祖とする小山政光の久安4年(1148)に築城したのに始まり、その後第11代義政が城内に祀っていた祇園神社に因んで「祇園城」と改名している。
 その後小田原北条氏の支配下に入ったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏滅亡と同時に城を追われ、約450年続いた小山一族の幕が閉じられ、祇園城も廃城になった。
 徳川時代に入ると、慶長13年(1608)から元和5年(1619)迄の間、小山藩主はかの本多正純(後に加増され宇都宮藩主になり、失脚)が城下や小山宿を改造・形成している。

 小山市内は、古河市に比べて町が大きいということもあろうが、町の佇まいが殺風景で、宿場町の雰囲気は皆無である。古河が100点なら20点だろう。歩く人間のことは何も配慮されていないとしか言いようがないし、史蹟に対する対応レベル、往時の小山宿たる文化遺産への対応ども他の宿に比し相対的にかなり低い。意識無き所行動無しの典型と見た。

本陣跡・控本陣跡

 先ずは駅西口から西進し、旧日光街道(県道265号)に出て左折した右手にある駐車場辺りが「小川本陣跡」だったそうだが、予想通り何の表示もなされていない。小山市の教育委員会は古河市のそれに比べて大分劣っていることを先ずは再確認する。およそ、旧宿場としての自覚がないらしく、市や観光協会のホームページを覗いても一目瞭然である。
 中央町の左手「山木屋呉服店」が「控本陣」の跡で、本陣や脇本陣がふさがっていた場合の控えの本陣だったというが、これまたご同様である。

問屋場跡

 本陣跡とは道を挟んだ反対側(東側)の、常陽銀行小山支店のある場所が「問屋場跡」だそうだが、『宿村大概帳』には問屋4人、年寄4人、帳付2人、馬差2人と記載されている由。ここにも何の表示もなされていない。

脇本陣跡・明治天皇行在所跡(9:11)

 街道を南下すると、前回立ち寄った「明治天皇行在所跡」碑が西側にあり、その空き地奥の板塀で囲われた向こうに唐破風の風格ある立派な玄関が見える「脇本陣若松家の玄関」を見た先を、西へ曲がって国道4号方向へと進む。
 行在所跡碑の前に「小山宿通り」と記された標柱があるが、この辺りは宿場の中心地だったろうに往時の面影は殆どない。曾ては高札場もこの辺にあったとおもわれるが・・・

須賀神社(9:17)

 国道4号に出て左折し、右折1本目に参道がある。
 本殿まで200m程の参道がある。須賀神社は、元々は小山城内にあったが、前回立ち寄った「持宝寺」と同様、本多正純による城改修時にここに移転させられており、国指定重要美術品の「蓬莱鏡」ほか、多数の文化財が保存されている由。

須賀神社略記

◎御社名

 須賀神社と称す。祇園社・牛頭天王(ゴズテンノー)・天王さまとも称す。

◎御祭神
 素戔嗚命 病魔退散、交通安全、厄除開運、農耕・殖産の神と仰がれる
大己貴命 大国主神とも称し、縁結び、招福、商売繁盛の神と仰がれる
誉田別命 八幡神とも称し、学芸、武道、勝利の神と仰がれる

◎御由緒
 当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素戔嗚命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(940)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創紀した。
当初は字北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(1159〜60)に当地に遷座された。以来、小山六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城氏小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。
徳川家康公は、慶長五年(1600)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社領を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、家光公の命により、日光東照宮造営職人の奉製になる朱神輿(アカミコシ)が、当神社に奉納された。
 昭和初期には、本殿、神輿殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工して、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。
 平成二年四月に創建一〇五〇年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊造営事業に着手し、同八年五月に竣工した。その後引き続き、社殿、末社、神輿殿、手水舎等の屋根銅板板葺替工事、並びに、境内森林に檜苗木一千本を植栽し、境内施設整備をした。
 参詣者は、小山六十六郷は勿論、県内外から広く厚い崇敬をうけている。
境内には、小山の伝説で有名な「七ツ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公碑、小山朝政公碑、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木晴雄翁碑、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、檜、欅、椿、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が棲息している。

◎境内末社
 天満宮   菅原道真命
 三峯神社  伊弉諾命・伊弉冊命
 八雲神社  奇稲田姫命
 蘇民神社  蘇民将来命
 神明社   天照大神
 足尾神社  国常立命
 工租神社  聖徳太子命
 稲荷神社  倉稲魂命
 浅間神社  木花咲耶姫命
 小御嶽神社 磐長姫命
 水神社   罔象女命

小山市指定文化財(有形文化財−建造物)
須賀神社鳥居

 須賀神社は牛頭天王社・祇園社とも称され、祇園城主小山氏や小山の町衆たちから、広く崇敬を集めてきた。
 承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立されたこの鳥居には、天下泰平・国土安全・庄内豊穣・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれている。
 鳥居は、神社の参道に建てられて神域を示すもので、元来は木造であるが、平安時代からは石造も現れる。
 この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、小山市に現存する最古の石造鳥居であり、規模も比較的大きい。
 県内では指定文化財となっている日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ古さを誇る、近世前期の貴重な鳥居である。当初は参道に建立されたが、道路拡張のため現在地に移された。
柱間三.三四m、中心高四.一〇m
指定年月日 平成十二年十二月二十日
所 在 地 小山市宮本町一丁目
所有(管理)者 須賀神社
小山市教育委員会

七ツ石(夜泣き石)
 伝説によると、もと小山城内にあった七ツの庭石が、落城したことによって結城の城内に接収され、夜中になると、あわれげに泣いたという。
 そこで、結城の城主は、早速に小山城の鎮守の神と仰がれた当神社の境内に運ばせ、それからは石が泣かなくなったという。


 その近くには、境内社と思われる「祓戸神社」があり、風格のある木製の鳥居がある。
また、本殿に向かって右手の覆屋の中に、高さ一間弱の太い樅の木の切り株が保存されているが、実に見応えがある。

御 神 木
 この御神木は樅で、樹齢は八〇〇年。もとからこの処に高く聳えたっていたが、社殿の方向に傾いていたため、大正十二年に五メートルの高さに切り落とし更に昭和十一年に現在の姿に切り覆屋を建てた


宮本町の愛宕神社(9:30)

 須賀神社の北隣の「妙建寺」の北側にある。最初は、勝手な事前の想像とかけ離れた「祠」程度のものだったので違うと思ったが、大ケヤキや後記の句碑があり、愛宕神社であることを確信した。
 境内の大ケヤキは、樹齢600年余とされ、カメラに収めきれない。
 また、境内奥には芭蕉の門下生・宝井其角の句碑がある。遊里からの朝帰り時の句と解されているが橋の場所は不明で、句碑の建造年もわかっていないという。
    
 “ ほととぎす 一二の橋の 夜明かな ”

愛宕神社のケヤキ(天然記念物)
 ケヤキはニレ科の落葉高木で本州の各地に分布している。ケヤキの名はケヤケキ木、すなわち目立つ木の意味を持つという。それほどの大木となる。
 このケヤキは、小山義政が康暦元年(1379)、領内の五穀豊穣と領民の家内安全を祈願して愛宕神社を勧請したとき、御神木として植えたとの言い伝えがあり、樹齢六百年余と推定される。稀にみる古木である。
 現在の樹形は大正二年(1913)の大火により樹冠が類焼、これが原因で樹幹上部を欠いている。
 樹高二十四・目通り約七メートル・枝張り東西約二十五・南北二十一メートル
指定年月日 昭和四十七年一二月一八日
所 在 地 小山市宮本町一丁目一番七号
所 有 者 愛宕神社
小山市教育委員会

佐野栃木道庚申塔

 愛宕神社の北西角に、寛政12年(1800)銘の道標を兼ねた庚申塔が建っているのだが、、立ち寄りを忘れてしまって後で気づく。小山駅近くにある常光寺の参道入口から、西方にある小山第一小学校へ続く道が曾ての「佐野・栃木道」で、「左 佐野道 右 栃木道」と刻まれているそうだが・・・

伝・小山評定所跡、小山御殿跡(9:35)

 その北側の小山市役所中庭に「小山評定跡由来」の石碑があり、「史跡 小山評定跡」と刻まれた石柱がある。実際に評定が行われた場所はもう少し先の丘の上で、市の敷地らしいが「小山御殿広場」の木標が建っている由。

小山評定跡由来
 
慶長五年(1600)七月二十四日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。
 この時、石田三成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌二十五日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。
 軍議は、三間四方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、誉田忠勝、本多正信、井伊直政や福島正則、山内一豊、黒田長政、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。
 同年九月十五日、関ヶ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です。


 一方、中山道を進んだ秀忠の徳川主力部隊は、小山から離脱した真田父子の上田城攻略に手間取り、関ヶ原合戦に遅参しているが、一説には徳川主力軍温存のための秘策だったとの見方もある。

 「小山御殿」は徳川将軍家が日光社参時に立ち寄る休憩所、宿泊所として設けられた日光街道筋12ヵ所の御殿の内の一つとして建てられたが、御殿の造りは厳重で、周囲に水堀を巡らし、土塁は二重、番所は16ヵ所という厳戒ぶりだったという。
 日光社参は4代将軍家綱の寛文3年(1633)の社参以降、幕府財政難を主因として8代吉宗の享保13年(1728)まで中断したが、その間に小山御殿は大風等で建物が壊れ、天和2年(1682)、古河藩によって解体された。「小山評定」の吉例によりここに築かれたらしいが、小山御殿は、現在の小山御殿広場から市役所の敷地に至る大きさだったものの、現在は見るべき遺構が何も残されていない。御殿の背後は「思川」が流れ、自然の断崖になっているため、防御性が高かったと思われる。なお、北西側には祇園城太鼓曲輪の空掘・土橋が良好な状態で残されているらしい。

国史跡小山氏城跡公有化事業(9:38)

 市役所の北側の県道を左折して「思川」方向(西)に向かうと、すぐ左手の公園入口に「国史跡小山氏城跡公有化事業」の立看板が立っている。

国史跡小山氏城跡公有化事業
 国史跡小山氏城跡(祇園城)は、平成3年3月に国史跡に指定されました。祇園城は、中世にこの地域を納めた小山氏の居城跡でありました。
 この区画は、祇園城跡の範囲でありますが、市教育委員会では、この区画の史跡指定地を平成14年度から平成21年度で公有化しています。
 この区画は、同時に、徳川将軍家が日光社参の際の休憩・宿泊所として「小山御殿」を設置した場所で、市内に現在も残っている「御殿町」の町区にその名残を今なお留めています。
 当区画は、平成15年度に公募により「小山御殿広場」と愛称が付けられました。
 市は、公有化にあわせ「祇園城跡整備委員会」を設置し、公有化に合わせ、史跡整備調査を実施しています。
      問い合わせ先 小山市教育委員会文化振興課 п@0285(22)9668


 また、「小山御殿広場」と題する御殿の図面入りの解説板も建てられ、「小山氏と祇園城跡」「祇園城関係年表」「小山城絵図」「小山御殿」「小山御殿復元図」「小山後定推定位置図」等が記されている。

小山城趾(祇園城跡)(9:45)

 その先、小山市役所北側の県道263号を信号で北側へ渡り、西にある「思川」方向に300m程歩くと、「思川」左岸崖上に複郭式平城である「祇園城跡」が公園になっている。空濠には、朱塗りの橋も架けられ、風雅な佇まいと雰囲気を醸し出している。

史跡 祇園城跡
 平安時代に藤原秀郷が築いたという伝承もありますが、正確な築城年代は不明で、記録に見えるのは14世紀後半のころからです。この城を築いたとき、城守りの神として祇園社(現在の須賀神社)をまつったことから、祇園城と呼ばれるようになったと伝えられています。
 西に思川をひかえた丘陵を利用して築かれ、築城されたころは現在の城山公園程度の規模と思われ、小山氏の本拠となったのは15世紀になってからのことでしょう。戦国の動乱にさいして、小山氏は越後の上杉氏や小田原の北条氏といった有力な戦国大名に攻略され、天正3年(1575)北条氏照によって祇園城は陥落、小山秀綱は追放されました。その後、氏照が大規模に拡張・整備を行ったと思われます。
 やがて北条氏も滅亡し、江戸幕府成立後本多正純が3万石で城主となり、最終的な縄張りを完成させ、東西約400m、南北約700mにおよぶ城郭となりました。この正純も元和5年(1619)宇都宮へ転封となり、祇園城は廃城となりました。
平成3年3月12日 国指定
小山市教育委員会

小山市 小山城址案内
指定史跡
築城年代 応永から寛正(1460〜65)ころ
築城者 第二次 小山氏(持政のころ拡張)
面積   三五、五一三.三八u(市指定部分)
 小山城(祇園城ともいわれる)は小山駅の西方五〇〇m、思川東岸の台地上にある南北に長く西側は思川の侵蝕によって切りたった崖になっていて、天然の要害をうまく利用している。東側は宅地造成が進んで旧状を失っているが、台地の部分には中世の名城の面影がよく残っており、史跡として保存が計られ、城山公園の名で市民に親しまれている。
 縄張りとしては幅一〇m以上の空堀と土塁で仕切られた郭が並び、天翁院の北側の塁濠が城の北限を示している。南は思水荘の一帯に及んでいるが、南隅の線は明瞭ではない。
 小山氏は関東有数の豪族領主として知られ初代政光以来鎌倉幕府内で勢威を張ってきたが、第十一代義政にいたって関東管領足利氏満に叛したため滅亡した。やがて、室町幕府の配慮により、同族結城氏から基光の次男泰朝が小山に入って第二次小山氏の祖となった。
 泰朝はおそらくこの城址の一郭に居を卜したと考えられるが、場所不明。その後第三代持政のとき、時勢にかんがみて大いに拡張整備された模様である。動乱の戦国時代の末期、第九代(注)政種は小田原の後北条氏に加担したため豊臣秀吉の怒りに触れ、没収追放の身となり、天正十八年(1590)七月第二次小山氏も亡びた。天翁院には、小山氏の墓地があり、多数の板碑(市指定文化財)が保管されている。 (昭和五十六年三月)

(注)原文は「第九に」と記されているが、記載ミスと思われる。


 天正3年(1575)の小田原北条氏による攻撃で陥落した後、江戸時代に入って家康の重臣本多正純が城主として入封するや直ちに持宝寺や須賀神社など寺社を移転させ、城郭のみならず、小山宿野町割に至るまで大規模に拡張・改変・整備している。

 街道筋に戻る前に、その北の「天翁院」や、その東の「興法寺」、「法性院」などに立ち寄るべく、国道4号に出て天翁院へ足をのばす。

天翁院(10:00)

 小山祗園城跡の北方一角にある。下野の国司兼守護職にあった一大豪族・小山氏の菩提寺として知られた曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来である。久寿2年(1155)、小山政光の開基と伝えられ、当初は北山(小山市中久喜)に「祇園山万年寺」創建されたが、文明4年(1472)に小山高朝が培芝正悦を中興開山の師として招聘し、現在地に移建している。本多正純による城改修時に移転したと考えられているらしい。院号の「天翁院」は、小山高朝の法名「天翁考運」に因んでおり、小山氏代々の墓がある。
参道はそれらしき雰囲気があったが、本堂は真新しく建て替えられており、寺院としての佇まいとは縁遠い。

 天翁院には天然記念物に指定されているコウヤマキがあり、解説板も建っている。樹高約27m、目通り約3m、枝張り東西・南北各8mで防火樹として社寺に多く植えられる樹木で、当寺のコウヤマキは文化8年(1808)の野火により類焼した本堂と現本堂の間に植えられたものだとか。

法性院・倶利伽羅不動尊(10:11)

 国道に出ると、「本郷」交差点の左折ヵ所で先頭部が大破した乗用車と横転している乗用車の傍にパトカーや救急車が来て搬送や事故現場保存・交通整理などにあたっていた。

 法性院は、曾ては日光街道筋にあったらしく、創建年代は宝永年間(1704〜11)と伝えられるほか不詳である。
 山門に向かって左側に文政3年(1820)銘の「倶利伽羅不動尊」があり、市内「乙女河岸」の石工の作品として貴重なものだとか。
「倶利伽羅竜王」が利剣に絡み、その利剣を剣先から呑み込もうとしている姿で、今まで知らなかったが、結構随所にあるらしい。この龍は黒龍と言って、不動明王が右手に持つ利剣の象徴(=不動明王の化身)とも言われ、倶利伽羅竜王(倶利伽羅不動尊)と呼ばれ、不動明王が衆生の煩悩や邪悪を火炎で焼き尽くす極限の形相を現しているとされている。

 龍の絵を彫り込んだ刺青を「倶利伽羅紋紋」(クリカラモンモン)と言うが、実はこの龍に由来した言い方だったとは知らなかった。思わぬ所で語源を知ることが出来るものだ。
形としては、太い縦長の剣先を飲み込むように龍が巻き付いているタイプと、石塔や石版の表面にその姿を陽刻したタイプに大別できるらしい。

興法寺(10:14)

 その先に立派な木の門があったので、興法寺の山門と早とちりして入っていこうとしたが、奥は民家でどうやら個人宅だった。すぐ先の細道に「興法寺」への道標があり左折していくと、東から西への表参道に出る前の右手に地蔵尊がある。この地蔵尊の左脇には、戊辰戦争時の弾痕といわれる窪みが残っているというので探したら、なるほど、立像の左腰下辺りに窪みが認められた。
 この寺もまた、本多正純による城改修時に現在地に移転しており、本多正純から9石、三代将軍家光からも同様に寺領を与えられたという。

 参拝後、正門を通って旧日光街道筋に戻ろうとしたら、本堂を瀬にして右手に「十三層塔」と「十三層塔の由来」碑がある。

十三層塔の由来
 この塔はかつては数百年間浅草の観音様で有名な浅草寺山内に安置されておりました。ゆえあって古河市須藤家の大庭園に移されておりましたが、今般小山市半田伊沢造園様のご寄進により当山境内に安置されました。ここに釈尊四代仏跡の品々を基壇に納入し深く祈念いたします。
  この塔をお参りするには
南無大恩教主釈迦牟尼如来 三遍お唱えください。
   平成二年六月十一日
    当山五拾八世 俊憲代

 当寺の山門も、格調ある立派なもので、その外側に当寺の由来書きがある。

興法寺の縁起
 天台宗、徳王山妙楽院と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、嘉祥二年(千三十七年前)(注:849年)慈覚大師円仁(天台宗三世・壬生出身)が都賀郡室の八島に下向の際、小山荘に一宇を建立して妙楽院と号したのが始まり。その後、天慶三年(注:940)に藤原秀郷が小山城を築城すると、城内に移転して徳王山妙楽院興法寺と号したという。(旧県史四)亦一説には、小山城主の帰依を受けた天台僧興海の中興開山と伝えられる。慶安二年(注:1649)八月、徳川家光から朱印で九石のの寺領が寄進され、寺中山林竹木諸役なども免除された。(稲葉郷興法寺領朱印状現存)
天和三年(注:1683)火災のため堂宇を焼失、貞享四年(注:1687)覚栄法師によって再建された。第五十七世貫首日光輪王寺宮門跡公弁法親王(後西院帝第六皇子)がしばしば休泊した所として知られ、元禄八年には阿弥陀三尊厨子、比叡山中興の慈恵大師良源像厨子、当山施餓鬼会本尊地蔵菩薩像厨子、門額などを寄進したといわれる。
 また、天和三年(注:1683)焼失後の再建も公弁法親王の助力によるものと伝える。かつて七月二十二日〜二十三日に聖霊会(法界大施餓鬼会)があり、老若の参詣が多かった。
 文化五年(注:1808)にも類焼したが、明治十八年滋湛法印が堂宇を再建、山門は焼失を免がれた。
 寺宝としては、阿弥陀来三尊金銅佛(鎌倉期県文化財)・絹本著色羅漢図(元・鎌倉期県文化財)・同不動明王像(南北朝期県文化財)・同文殊菩薩像(室町期県文化財)・同涅槃図(室町期県文化財)・同如意輪観音像(江戸期県文化財)・同千手観音像(江戸期県文化財)。
(角川日本地名大辞典・栃木県より)

愛宕神社(本郷町)(10:22)

 拝殿前の狛犬は天明5年(1785)の奉納で、市内最古の狛犬だとか。境内には、江戸時代の領主であった遠山閑翠(三郎右衛門)の碑がある。

観音堂の地蔵尊兼道標

 大体、小山市中心地の見所回りを終え、いよいよ次なる新田宿に向けて街道を歩き出す。今日は晴天に恵まれすぎて最高気温予想も30度ぐらいになりそうだが、目下のところは微風もあり、空気もカラッとしているようなので、まずまずである。
その先、消え失せた旧道(県道265号)の右手を北進していくと、左手に「観音堂」があり、「天寮院跡の地蔵尊」と言われるものがある。

 これは、曾ては後述の「喜沢の追分」(ここから約700m北の分岐)にあったと言われている。享保3年(1718)造立の地蔵尊兼道標が明治初年の道路改修工事に際し、旧日光街道の直ぐ西側にあたるここに何故移されたのか理解しがたい。側面に「右へ奥州海道 左へ日光海道」と刻んであり、道標を兼ねていたようだ。また、海辺を通らない「日光海道」を「日光道中」に改めるよう「触れ」を出したのが正徳6年(1716)であり、それ迄の「海道」表現を改めるべしとの幕命が当地には不徹底だったように思われる。

日枝神社

 街道に戻って進むと、その少し先左手を並進している国道4号沿いに日枝神社があるが、立ち寄りは略し、旧日光街道の右手のバス停のベンチで小休止する。

 日枝神社には、樹齢400年という小山市指定文化財の大欅が3本ある長い参道で国道を横切って行けば、社殿右奥に「右奥州 左日光」と記された「男體山」と刻んだ道標を兼ねた石塔があるとのこと。これは明治45年(1912)迄は「喜沢の追分」にあったもので、何度も倒れたためこの境内に移されたようだ。本殿奥には、「小山城の支城跡」と言われる土塁が残っているらしい。

喜沢の追分(11:00)

 日光道中に戻ると、すぐ先の五字路の左二本の別れ股に、「喜沢の追分」がある。一番左の北西に斜めに進むのが「日光壬生道」で、将来のために要マークした地点である。「左壬生道 右宇都宮道」と書かれた道標を兼ねた供養塔などがある。その道を650m程行くと「一里塚」や「旧道跡」を見ることが出来るらしいが、きょうのテーマではない。
 追分には、天明5年銘の「道標を兼ねた供養塔」があり、往時はここに茶屋や立場がある交通の要衝だったという。将軍の日光社参の際には当然警護の要所にもなった所である。

 実はこの追分は左右への道とは別に、左斜め前方へ進むのが「壬生通」、ほぼ直進する道が「国道4号に250m程先で合流する連絡路」、右斜め前方への細い道を入っていくのが「進むべき旧日光道中」である。

(注)「壬生通」
 倉賀野宿から今市宿に至る「日光例幣使街道」の途中の「楡木宿」で例幣使街道に合流する。「日光西街道」とも呼ばれ、日光街道経由よりも近かったので日光参りの人たちが多く利用していた由。この喜沢の追分から壬生通に入ると、飯塚宿・壬生宿を通って楡木宿で合流する。


喜沢の一里塚跡(11:11)

 あまり車の通らない道を700m程行くと、左に「喜沢の一里塚跡」がある。街道の左側だが、江戸から数えて21番目になる一里塚跡が何とほぼ原形をとどめた丘上に木と共にある。と言っても、右怩ヘ9割方消失済みで、左怩フみが雑木林の中に保存されている。一里塚跡を示す表示は何ももなく、探しながら歩くと判りづらい。重ねて、小山市教育委員会の猛省を促したい。

 その先は右後方から接近してきた東北本線を少しの間越えて線路右手を行くのが旧道だが、鉄道によって消失しているため、左側の線路伝いの細い道を暫く進み、結局追分から2.3km 程先で左に入って左後方からの国道4号に合流する。

昼食(11:25〜11:55)

 「羽川」信号の左先に食事処「さかなや」を見つけ入店して、昼食。この後、羽川(はねかわ)の地名は随所で見られた。

新田宿

 新田宿は、天保14年(1843)の記録で人口244人、家数59軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒という、日光街道随一の小さな宿場だった。宿内の町並みも3町余(約400m)しかなかったという。
 その昔は芋柄新田とか、大町新田・大町村等と呼ばれていたが、宿駅に指定されてからは「新田宿」となった。明治6年(1873)からは羽川宿と改称され、現在は小山市羽川(はねかわ)になっている。

青木本陣(12:09)

 二つ先の信号の先左手に、風格のある木の四脚門が建っており、その手前にある新しい門横に「青木」の表札があるのが「青木本陣家」で、ここが宿場の中央付近だったようだ。往時の宿場の佇まいを残す唯一のものだろう。

羽川薬師堂・幕府代官陣屋跡(12:14)

 その180m程先左手に赤い堂宇の「薬師堂」があり、左手前には屋根付きの覆屋に初めて目にする「雨引観世音」と「十九夜塔」が各1基安置されている。右側の墓地には、此の街道の少し先にある「橿原神社」建立にも関わった中里遜斎の「遜斎中里先生・室高橋氏の墓」がある。
薬師堂の南側には、曾てこの地域の天領を支配した幕府代官の陣屋があった由だが、現在は何もない。

羽川薬師堂由来
 江戸中期、大町新田宿と称していた羽川には金剛乗院多宝山慈眼寺の末寺の玉性院という寺があり、慈眼寺から役僧権大僧都覧清師を招き、中興第一世とした。
 覧清師は玉性院の復興に努め、あわせて宿内の安寧と住民の「除病安楽」を願い、御堂を建立し、御本尊として「薬師瑠璃光如来像」を奉祀したのが、この薬師堂の由来である。
 薬師如来は大医王尊とも呼ばれ、人々の心身の苦悩や病気をとり除き、健康で安楽に暮らせますようにという人々の願いを叶えてくださるありがたい如来である。
 昭和59年、羽川連合自治会新・旧役員および墓地所有者の方々の多額の浄財御奉納により、薬師如来御本尊像並びに御堂の修復がなされ、昭和60年3月「落慶式」が盛大に挙行され今日に至っている。
 春・秋の彼岸の中日には御堂の御開扉がなされ御本尊薬師如来像を拝むことができる。
 ご真言は、「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」とお唱えください。   合掌
    慈眼寺住職 上野照法
    奉納企画者 柏崎英雄

橿原神社(12:19)

 その先右手のJR線路傍に、鳥居や参道に立ち並ぶ朱塗りの燈台の奥に向かって一礼して通り過ぎたが、「橿原神社」がある。当神社は、江戸時代は「星宮」と称していたが、明治時代になってから「橿原神社」と改称されている。これは、明治5年(1872)に神武天皇を鎮座崇敬したい旨の村役人の願いにより柏原神社になったと言われており、参道が2本残っているのがその証明になっているそうだが、もう一方の参道の先には何も見当たらない由。

失われた旧道と、新田宿北口の石仏群

 橿原神社から街道に戻り、100m弱先の右手にガソリンスタンドがあり、左手に銅市金属がある所を左に入ると、すぐ右の細い水路の横の道が日光道中であるが、間もなく先で途絶えているらしいので引き続き国道を歩いた。その旧道を行けば、倉庫を隔てて左手に石仏・石碑があり、「左おざく道」と刻まれた道標を兼ねた寛政年間の観音菩薩があるらしい。また、その右側にも、道標を兼ねた宝暦2年(1752)銘の「六十六部供養塔」があり、「左おざく こくぶんじみち」と記されているという。

 旧道はその先も暫らくは水路沿いの細い農道があるそうだが、やがて消失する。但し、往時の旧道巾は並木部分も含めると20m程あったというから驚きだ。我々は国道を暫らく続ける。

国分寺の町へ

 旧下都賀郡国分寺町に入る。その東側の南河内町、北側の石橋町の3町が合併して出来た「下野市」が現在の自治体名称である。すぐ先で右手を並進するJR線の「小金井駅入口」交差点を右折して駅横にある「観光案内所オアシスポッポ館」へ向かう。今朝ほど村谷氏が言っていた所で、市役所の出先機関らしいコーナーと併存する形で観光パンフレットがずらり取り揃えられている。3町合併記念にできた建物なのかどうかは知らないが、小山市と違って、力の入れようが感じられる。

小金井一里塚(13:02)

 国道に戻り、その先左手に見える大木が「小金井一里塚」だが、旧道がここで途切れていて直進できない。江戸から数えて22番目の一里塚だが、左右2つの塚がそっくり残っており、その間は、昔の道幅の侭という珍しい遺跡である。日光道中の一里塚の中で唯一国史跡に指定されている立派なもので、当初は五間四方の方怩セったがいつしか角が取れて円怩ノなっている。カメラに収めようとしたらかなり離れないと全貌が収まらない巨木の一里塚で、旧街道歩きの中でもめったにお目にかかれない価値ある歴史遺産である。

小金井一里塚
大正十一年三月八日指定
 この二つの怩フ間を通っている道が江戸時代の五街道の一つ、日光街道です。江戸幕府が五街道の整備に着手したのは慶長九年(1604)で、栃木県令三島通庸が今の国道四号を作ったのが明治十七年(1884)ですから、この日光街道は約二八〇年もの間、東北地方への主要道路として使われていたのです。(中略)
 怩ヘ五間(約九・一メートル)四方の四角形に築かれ、榎が植えられましたが、今ではすっかり変形して丸塚となり、何代目かの榎と、いつの時代に生えたのか、榎と櫟(くぬぎ)の巨木が同居しています。(後略)
平成二年(1990)建立
国分寺町教育委員会


小金井宿

 天保14年(1843)の記録で、人口767人、家数165軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒であるが、宿駅になったのは遅く、天和元年(1681)で、宿内は日光側を上として上宿・中宿・下宿の3構成になっていた。
 宿の西、磯宮辺りに「小金井」と呼ばれる井戸があり、宿名の語源になっている。徳川将軍社参時の御膳水に使われたと言われている。現在は運動公園になっているようで、井戸や磯宮の位置は特定不可能らしいが、離れてもいるので立ち寄らない。

領主陣屋跡(13:12)

 一里塚から500m程先の右手に、「菅井菓子舗」がある。ここは、曾て佐倉藩の出張陣屋と言われる「領主陣屋跡」があった所で、菅井家は陣屋と直接の関係はないものの、陣屋の代官(出役)を務めも明治以降もこの地に居住した大槻氏の位牌を今も祀っているそうだ。

慈眼寺(13:15)

 その先左手に真言宗智山派の「慈眼寺」がある。入口左右には、近隣から集められたと思われる石造物が林立している。
 建久7年(1196)、上野国の豪族新田義兼(義貞6代の祖)創建の古刹である。本堂南側には歴代将軍の日光社参時の御休処である御成御殿があったと言い、本堂の屋根瓦や参道両側の燈台には葵の御紋がある。慶安2年(1649)の日光社参時、連日の雨で、住職が晴天を不動尊に祈願した処たちまち晴れたので、日乞いの不動と言う由。
 境内には明治初年の火災で焼け残った江戸期建造の建物で、堂内に弘法大師作と言われる千手観音菩薩・延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置された「観音堂」や鐘楼が現存しているが、本堂は昭和52年再建の鉄筋コンクリート造り瓦葺である。

金井神社(13:23)

 慈眼寺のすぐ先左手に、注連縄が掛かった鳥居のある「金井神社」がある。参拝は略させて貰ったが、本殿は、一間社三方入母屋造りという建築様式で、壁面には、天保〜嘉永期(1830〜1854)作と推定される壮麗な彫刻が施されているそうだ。
祭神は国土開拓の祖神である磐裂命、根裂命。金井村字余又の地にあったが、宝暦4年(1754)に現在地に遷座し、古くから小金井宿の鎮守として信仰されてきた由。

小金井宿旧本陣跡(13:24)

 その先左手に、新田宿にあった青木本陣家と同様、「小金井宿大越本陣跡」の門が確認できるが、解説板などはなく、門内には古い家も残っているらしいがよく判らない。この旧本陣には、明治22年(1889)に国分寺村が発足した当時、村役場が置かれていた由。
 本陣跡の向かいに、旧呉服屋の蔵造り店舗らしい建物があるが、現在営業中かは不明である。

蓮行寺(れんぎょうじ)(13:30)

 その先の「小金井北」信号を右折した先に「蓮行寺」がある。徳川将軍の日光社参の際には、宇都宮城主がこの寺で出迎えていたという。元徳元年(1329)に日秀上人開基で、一説には日行上人創建説もある。

薬師堂(13:39)

 街道に戻って300m程行った右手に「薬師堂」がある。現在は横に上町公民館が建てられているが、境内には歴代住職の墓石と思われる「卵塔(らんとう)」や地蔵などが見受けられる。この薬師堂の御本尊は奈良時代の僧「行基」の作とも言われている由。

立ち寄りを中止にした「龍光寺」「薬師寺」

 右手の「自治医大駅」入口交差点の先の「笹原」交差点を右折して「龍光寺」「薬師寺」への立ち寄りを考えていたが、折柄の照るつける炎天の熱射に抗しきれず、相談の結果中止した。今日の最高気温は東京多摩で28度、当地方は30度だったことが帰宅後のテレビニュースで判ったが、国道や歩道から燃え上がるような熱地獄は、到底百葉箱のそれとは異なり、暑さ慣れしていない身体には大いなる負担である。
 そんな訳で、残念ながら立ち寄りを中止したが、事前の予習内容を下記しておく。

■龍興寺

 「笹原」信号を右折して約2km東進し、「薬師寺4丁目」交差点を右折し、その先の信号を左折すると突き当たりに「龍興寺」がある。

 「龍興寺」は、天武天皇が皇后の病気平癒祈願のため、勅願により白鳳8(680)年祚蓮上人が建立した「下野薬師寺」(後述)の別院で、直末三十七ヶ寺の本寺である。
 「日本三戒壇(注)」を開いた鑑真和尚(688〜763)(注)は、天平宝字5年(761)、唐の楊州龍興寺の舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を「生雲山龍興寺」と名づけた。元亀元年(1570)に北条氏政の兵火に遭って龍興寺は焼失し、現本堂は安政7年(1860)3月3日再建されたものである。
 境内左手に「道鏡塚」がある。「弓削道鏡」は、孝謙天皇(称徳天皇)の信任が厚く、僧侶としては初の太政大臣禅師になったが、天皇の崩御後宇佐八幡宮神託事件(注)により左遷され、宝亀元年(770)年8月、下野薬師寺別当職として着任し、2年後の宝亀3年(772)年4月7日にこの地で歿している。

(注)鑑真
 日本から2人の僧が僧になるための儀式である「受戒伝律」の師を求めて大陸に派遣され、9年間探した末、揚州の大明寺で鑑真とめぐり逢い来日を懇請する。以来、渡航失敗5回、その間に鑑真は失明するが6回目、天平勝宝5年(67才)にして漸く来日した。聖武天皇は鑑真が解説した回団員で受戒を受け、以後鑑真は日本律宗の開祖として教導に専念し、天平宝字7年(76才)で没し、自ら建てた奈良の唐招提寺に葬られた。この龍興寺にも供養塔があり、幕府医官の多紀元簡が訪ね「・・・祥雲山戒壇院龍興寺という真言宗の寺あり。鑑真大和尚・天平宝字五年五月五日と鐫りたる幅一尺に高さ二尺斗り、石笠のある石塔あり。」とある。

(注)宇佐八幡宮神託事件
 天平宝字八年(764)に大臣禅師、翌天平神護元年(765)には称徳女帝によって太政大臣禅師(人臣としての最高位)に任ぜられ、更に翌年には法王位(天皇と同格)に上った弓削道鏡は、神護景雲三年(769)、「道鏡が皇位につけば天下泰平となる」という宇佐八幡宮の神託が、和気清麻呂によって否定され、宝亀元年(770)、称徳女帝逝去後、道鏡の勢力は急転凋落し、下野薬師寺の別当(事務官)に左遷され、2年後に当地で没した。

下野薬師寺跡(安国寺)

 下野薬師寺は、7世紀末頃、天武天皇の御代(672〜685)当地方を治めていた豪族、下毛野朝臣古麻呂によって創建されたと考えられている。奈良県の東大に寺・福岡県の筑紫観世音寺と共に「天下の三戒壇」と呼ばれた格式ある寺で、国指定史跡になっている。
仏教の日本への伝来は538年であるが、当初伝わった戒律は不完全なものだった。当時、出家は税を免除されており、税逃れのために出家し、得度を受けない私度僧が多く、出家と雖も修行もせず堕落した僧が多かった。このため、唐から鑑真が招かれ、戒律が伝えられ、その戒律を厳守できる者のみが僧として認められることになり、仏教界の規律が確立していった。

 鑑真は754年に東大寺で戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なったが、これが最初の戒壇で、その後、東大寺に戒壇院を建立、筑紫国太宰府の観世音寺、下野国の薬師寺に戒壇を築いた。これを「天下の三戒壇」と称した。
 以降、僧になるには、このいずれかの戒壇で授戒し、戒牒を受けることが必須になり、各国の国分寺が僧を管理することになったが、822年、最澄の死後、延暦寺に戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇と呼ばれることもあるが、当時の中国の仏教界では延暦寺の大乗戒壇を、戒壇として認めておらず、従って延暦寺で受戒した僧は、中国では僧侶として認められなかった。また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺に戒壇設置を認められたことに東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院が反発し、両者の対立の原因の一つになっていった。

 大乗戒壇は権力闘争の原因にもなり、天台宗の山門寺門の争いが有名になる。また、戒壇で授戒を受けた僧侶の中にも修行もせず堕落した僧侶も多くなった。鎌倉時代の叡尊は元々真言僧であったが、後に鑑真が伝えた律宗を学んで両者を統合した真言律宗を起こし、三戒壇や延暦寺の戒壇は実態を失って授戒を行うに値しないと批判して、戒律に則って結界を築き正しい手順に従って儀式を行えば授戒は成立すると唱え、自ら仲間と共に東大寺において改めて授戒を行い、更に西大寺に独自の戒壇を創設していく。続いて、延暦寺の僧・円観も比叡山を離れ独自の戒壇を置くようになる。このように、以後は、南都や延暦寺と対立する形で成立した鎌倉新仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていったが、その一方で、東大寺や延暦寺の戒壇も由緒あるものとして尊重され、江戸時代の終わりまで授戒が行われていた。

 下毛野朝臣古麻呂は、天武天皇・持統天皇らに仕え、また藤原不比等からの信任も厚く、大宝律令制定の主要メンバーだったため、そのような中央政権とのパイプの太さは、下野薬師寺の重要度を高めていった。古麻呂は、和銅2年(709)、式部卿正四位下の高位で死去する。その翌年、都は藤原京から奈良の平城京へ移り、律令国家の制定と共に国を仏教の力で治める「鎮護国家」確立が推進され、それに伴って、都をはじめ地方でも寺院が整備されていく。下野薬師寺も、下毛野朝臣古麻呂の功労から国によって整備され、東国における仏教施策の一翼を担う、重要寺院として位置づけられるようになった。

 しかし、下野薬師寺は9世紀中頃大火に見舞われ、伽藍の中心部が焼失してしまう。また、国家仏教の衰退・天台宗など新興宗派が勃興、独自の戒壇設置等に伴って、従来の「三戒壇」の地位もゆらぎ、次第にその役目が失われていった。その後、廃寺となりかけた下野薬師寺を、鎌倉時代に慈猛上人が復興。14世紀南北朝時代には、足利尊氏が戦死者を弔うため全国に安国寺建立を発願し、その時、下野薬師寺が「安国寺」に改称されたと言われている。しかし戦国動乱の時代、元亀元年(1570)11月、下野薬師寺は小田原北条氏と結城多賀谷氏の戦火で焼け落ちたと『薬師寺縁起』が伝えており、寺の貴重な記録もその時失われている。 現在の本堂は明治38年()の再建で、真言宗の寺院になっている。

 昭和41年(1966)からの発掘調査で、外郭施設(板塀)の規模が東西約250m、南北約350m、瓦葺回廊の規模が東西約110m、南北約102mにも及ぶことが判明している。従来の調査では、回廊の中心部に金堂があったとされていたが、最近の調査で創建当初の塔だったことが判明している。また、回廊の東にある塔は、創建時の塔焼失後、この場所に9世紀代に再建されたことも判ってきたという。その他、回廊内には、規模の異なる基壇建物が存在することが明らかになり、下野薬師寺の伽藍配置が一塔三堂形式である可能性も考えられている。現在、伽藍跡には安国寺六角堂の一部が残っている。

 現在は「ふるさと歴史の広場」として整備され、寺の南西部に当たる堀跡と回廊部が復元され、北西角には往時の技術を忠実に再現した建物も復元されている。

下野薬師寺歴史館

 その公園の南西部に隣接して「下野薬師寺歴史館」がある。ここでは、下野薬師寺の歴史や戒壇などについての解説が行われ、発掘調査で見つかった出土品や、復元模型、古文書・絵図などが展示されている。(入場無料)


夕顔橋の石仏群

 以上の三ヵ所については、機会があれば?是非行ってみたい。
自治医大駅から先は、左手に旧道があるが、見るべきものもないので引き続き引く堂4号を進む。北進して行くと、国道352号と交わる「下石橋北」信号の手前左側に、10体程の「夕顔橋の石仏群」がある。

愛宕神社(14:55)

 「本町」信号を過ぎると、左手に「愛宕神社」がある。宿の出入口付近には神社があるのが一般的だが、当社は江戸側からの「石橋宿」入口に相当するということになる。
 天平宝字3年(759)創建という大変な古社だそうだが、規模・外観共に往時のそれとは一変しているらしく、時勢の変化を感じさせる佇まいである。
 境内には天照大神・八坂大神・素戔嗚尊・熊野大神の4社が祀られている。この神社の境内は「愛宕山古墳」と言われているらしい。

本陣跡(14:57)と脇本陣跡(14:58)

 その先の信号手前右手の「伊沢写真館」が脇本陣跡で、100m程先の同じく右手にある「伊澤茶舗」が本陣跡だそうだが、いずれも往時の面影は残っておらず、また何の表示もなされていない。

ゴール(15:00)

 すぐ先の「石橋」信号を右折すると「JR石橋駅」なので、本日はここまでとし、近くのラーメン屋で、軽く喉の渇きを癒やし、石橋駅発16:10上野行きの列車にて帰途についた。次回はここから宇都宮宿を目指すことになる。