2009.04.05(日)  日光道中第六回餐歩記・・・古河駅~小山駅

 JR古河駅に9:12着の新宿湘南ラインで到着。いつも通り先着の村谷氏が、改札口前の観光案内所で既に各種パンフレットをゲットしてくれている。土・日・祝は午前9時(平日は10時)から開いているので助かる。
 前回最終時間帯では殆ど古河市内を見ていないので、簡単に市内見学ルートと立ち寄り場所を打ち合わせの上、早速スタートする。

古河駅前(西口)の万葉歌碑(9:20)

 まずは改札を出て西口に出ると、大きな液晶情報板の下にある自然石の「万葉歌碑」(昭和60年建)がある。碑面には、
       
遭は須(ず)して行かは(ば)惜しけむ麻久良我乃(の)許我(古河)漕く(ぐ)船に君も逢はぬ果(か)も
とあり、傍に解説板が建っている。

               
万葉古河の歌について
 万葉集は日本最古の歌集で、八世紀中頃に成立した。全二〇巻からなり、長歌・旋頭歌・仏足石歌体歌・短歌など四五三六首の歌を収録し、万葉仮名で書かれている。
 そのうち巻一四には、東歌として二三八首が収録されている。東歌はすべて作者不詳で、労働・土俗・性愛の表現には特徴があり、東国の方言的要素を含んでいる。また地名を含む歌が多いのが特徴である。
 その中に、相聞歌として古河(許我)の地名を含む歌が二首載っている。
     まくらがの 許我の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに
          (まくらがの古河の渡りのからかじの音が高いように高い噂が立ったなぁ あの子と共寝をしたわけではないのに)
     逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我漕ぐ船に 君も逢はぬかも
          (あなたと逢わずに行ってしまったら心残りだろう まくらがの古河を漕ぐ渡し舟であなたにお逢いできないものかなあ)
     ※まくらが=「許我」にかかる枕詞
 この二つの歌は、おそらく民謡のように語り歌いつがれていたものであろう。いずれにしても。歌の内容から渡し場であった様子がうかがえ、この古河の地が古くからひらけ、渡良瀬川などの河川や沼を交通路として利用し、河川交通の要所として発展していたことをうかがわせる。

 ここに建つ「万葉古河の歌碑」は、昭和六十年(1985)四月に万葉歌碑建設実行委員会(代表 渡辺武夫氏)を中心に、たくさんのかたがたの浄財によって建設されたもので、書は大久保翠洞氏(古河市出身の篆刻家)の揮毫である。
               平成二十年一月
                              古河市教育委員会


古河城趾へ

 城下町である古河の城跡は何処なんだろうと事前に調べていたら、今は廃城になっており、その後が「古河歴史博物館」などになっているということなので、駅西口をスタートして県道312号を西進し、途中で街道筋の「本町二」交差点に出る道へ左カーブしていく。
 「本町二」交差点を右折するのが日光街道の順路だが、前回見ていない市内旧跡見学のため、逆に左折し、次の信号のすぐ先、左手に共立幼稚園がある角を右折して「肴町通」に入る。心が思わず和む雰囲気や佇まいを持った大変素敵な通りである。
 すぐ右手に肴町の由来を記した立て看板が目に入る。(9:29)

               
肴町の由来
その昔、元和の五年(1619年)に奥平忠昌公が古河城主として移封された時代のことです。
忠昌公は、お城の増築や武家屋敷の拡大のために町家の大移動をはかり、中心部に新しいまちづくりを行いました。後の大工町や壱丁目、石町、江戸町等は皆その時に名付けられたものです。
江戸時代に古河城下を通過する諸大名は、使者を派遣し挨拶をしに参りました。古河藩からは役人が出向いて歓迎の接待をしたものです。その役所のひとつに使者取次所があり、別名を御馳走番所と言いました。現在米銀の在る処がそれで今の中央町二丁目麻原薬局角から中央町三丁目坂長本店の間、道巾三間半、長さ二十二間五尺の通りは、「肴町」と呼ばれるようになりました。
以来、この肴町通りは古河城裏木戸を経て城内に、お米やお茶、お酒をはじめその他の食糧品を供給し、城内との交流の道として栄えて参りました。
今日、食糧品を扱う大きな店の構える通りとなっているのもその縁でありましょうか。歴史の重さが偲ばれます。
                              肴の会


御馳走番所跡(9:29)

 通りの直ぐ左手に「
御馳走番所 肴町 米銀」と墨痕鮮やかに記した板看板を掲げる店、「米銀商店」があり、その左隅に「史蹟 古河藩使者取次所址」の石碑が建っている。左面には次のように記されている。

古河史蹟保存会顧問鷹見久太郎書
本碑ノ西ニ接続セル元肴町約五十坪ノ地内ニ在リテ御馳走番所トモ呼ビ町役人大年寄ノ詰所ニシテ十萬石以下ノ大名城下通行ノ際ハ其取次ヲ行イ藩侯ヨリハ掛(右はトでなく戈)員出張シテ應待セシ役所ニテ明治四年廃藩置縣ト同時ニ廢止セラレタリ本碑ハ地元壹丁目熊木藤兵衛船江豊三郎両氏寄贈ノ資ニ依リ之ヲ建ツト云爾
                              茨城縣古河史蹟保存會長 千賀覺次識
                              仝  古河町壹丁目総代   麻原英次郞書

古河城文書蔵(9:31)

 米銀商店から一軒おいて隣に「坂長商店」という蔵造りの酒屋があるが、この建物は、元古河城の文書蔵を移築したもので、折良く店前に出てこられたご主人とお話しする。右横に解説板が建っている。
                    
国登録有形文化財
                    坂長本店店蔵(旧古河城文庫蔵)・
     袖蔵(旧古河城乾蔵)・主屋・
     文庫蔵(旧質蔵)・中蔵・石蔵
     平成十二年九月二十六日 登録
     古河市中央町三丁目一番三九号
 坂長本店は、古河城下で江戸初期から両替商を始め、江戸末期から酒問屋を営む商家である。大工町の四つ辻に位置するこの敷地には、店蔵・袖蔵・主屋・文庫蔵・中蔵・石蔵などが建てられている。
 通りに面した店蔵と袖蔵は、ともに明治六年(1863)のいわゆる廃城令にともなって払い下げられた古河城の建造物で、店蔵は旧古河城文庫蔵、袖蔵は旧古河城の乾蔵(文久三年創建)を移築したものと伝えられている。また、土蔵造二階建の文庫蔵は、安政五年(1858)の建築で、困窮者救済のためのお助け普請によるものとされている。このほか、江戸期の中蔵(土蔵造二階建)、明治初期の主屋(木造二階建)、大正十一年(1922の石蔵(石造二階建)などがこの敷地のなかに建てられている。とりわけ、文庫蔵と主屋とに囲まれた坪庭は、さながら江戸時代から続く商家の、閑静な趣をなした空間をかもし出している。
 ほぼ正方形の敷地に建てられたこれらの建造物は、それぞれ建築年代に相違があるが、旧古河城下の代表的商家の屋敷構えであり、かつ、旧古河城の数少ない建築遺構と伝えられている
                    平成十二年十一月
                                        古河市教育委員会

 また、ここにも先述の「
肴町の由来」看板が掲示されている。

福法寺・古河城乾門(9:34)

 その先を左折した右手に真宗大谷派の「福法寺」があり、往時の「古河城乾門」が移築されているのを見る。親鸞上人の弟子正順坊が開基のこの寺は、佐倉から移ってきた寺であるが、旧古河城内の二の丸御殿の入口にあった乾門を移築してきて山門にしている。
               
古河市指定文化財・建築物
                    旧古河城乾門
                              昭和四十三年四月一日指定
                              古河市中央町三丁目九番八号
 この門は江戸時代の旧古河城内の二の丸御殿の入り口にあって、乾門と呼ばれてきた門である。これを明治六年(1873)の古河城取り壊しの際、福法寺の檀家が払い下げを受けて同寺に寄進・移築した。
 この門の構造は平唐門と呼ばれる型式で、両側には袖塀がつき、向かって右側に潜戸がある。かつての古河城の姿を現在に伝える数少ない遺構として貴重である。
                    平成二十年一月
                                         古河市教育委員会


鷹見泉石の記念館外塀(9:40)

 更に南進していくと、前回街道筋で立ち寄った、「史跡古河城御茶屋口門址」石標や「御茶屋口と御成道」と題する解説板が建ち、「街の見どころ案内所」が設置されている「陽明堂」の店の角から西に入った道、即ち、歴代将軍の日光社参の折、御茶屋口門から古河城で往路・復路の宿泊のため御成になった道に突き当たるので、そこを右折する。
 すると突然、タイムスリップした世界が正面に現れる。車も殆ど通らず、歩道も趣あるデザインで、街並み造りに意を用いている姿勢が明瞭である。古河藩の家老「鷹見泉石の記念館外塀」だが、思わず感嘆の声をあげカメラを取り出す景色である。

 その先右手の「古河歴史博物館」、次には左にある「鷹見泉石記念館」、その間を西に入って左折した左手にある「長谷観音」等を最初に訪ねることにした。

鷹見泉石記念館(9:41)

 まず最初に「古河歴史博物館」を訪ねる予定だったが入口が見つからないまま「鷹見泉石記念館」前に来たので、そちらに入場する。
 鷹見泉石[天明5年(1785)~ 安政5年(1858)]は、江戸時代の蘭学者で、下総国古河藩の家老だった。名を十郎左衛門忠常と言い、引退後は「泉石」と号した。また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。

 泉石は、古河藩御使番役・鷹見忠徳(250石)の嫡男として古河城下で誕生し、1797年(11歳)から出仕以降、目付、用人上席、番頭格などを経、天保2年(1831)には280石の家老(役高500石)に昇進。譜代大名の土井氏が代々幕府要職にあり、土井利厚・利位父子もまた、寺社奉行や大坂城代、京都所司代、老中などの要職を務めているが、泉石は藩主に近侍して全国各地に同行し、主君を補佐して「土井の鷹見か,鷹見の土井か」と言われる程能力を高評価された。利位が大阪城代であった折には「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたるなど、大きな働きをしている。
 弘化2年(1845)に加増され330石になるが、翌年主家の嗣子問題で不和となり免職、隠居後はもっぱら蘭学に勤しんだ。渡辺崋山とも交友があり、崋山に画いて貰った肖像画が「古河歴史博物館」に残っている。安政5年(1858)、古河長谷町の隠居屋敷(現:古河歴史博物館の鷹見泉石記念館)において享年74歳で死去したが、この記念館は、その最晩年を過ごした家で、建物は寛永10年(1633)に古河藩主が、古河城の櫓を造ったときの余材で建てたといわれるもので、往時の武家屋敷の様子を今に伝えている。鷹見泉石は、市内横山町の「正麟寺(しょうりんじ)」に眠っている。

 鷹見泉石は、対外危機意識の高まる中、幕政に関わる譜代大名の重臣として早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努め、また、川路聖謨、江川太郎左衛門などの幕府要人、渡辺崋山、桂川甫周などの蘭学者、箕作省吾などの地理学者、司馬江漢、谷文晁ら画家、砲術家 高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫、足立左内、潁川君平、中山作三郎ら和蘭通詞、オランダ商館長(カピタン)のスチュルレ(Johan Willem de Sturler)ら、当時の政治、文化、外交の中枢人物たちと広く交流し、洋学界にも大きく寄与している。
 また、文政6年(1823)、江戸・日光を結ぶ街道の距離を簡便かつ宿駅間の距離も一覧できる、謂わば高速道路料金早見表のような「日光駅路里数之表」(距離早見表)を、古河藩きってのプランナーでもあった鷹見泉石が製作しており、その他の作製地図と共に後刻「古河歴史博物館」で見ることが出来た。

                   
 史蹟 鷹見泉石邸
 鷹見泉石 諱ハ忠常 通稱ニ十郎左衛門ト云フ 天明五年六月廿九日古河城内ニ生ル 其家世々土井侯ニ事フ 幼時父ニ従ッテ江戸ニ移ル 藩主土井利位 大坂城代 京都所司代 及ビ老中ナリシ間 家老ノ職に在リテ殊功アリ 性謙虚ニシテ矜ラズ 識古今ヲ貫キ兼テ世界ノ情勢ニ通ジ 尤蘭学ニ精シク 又露語ヲ學ビ 天文 地理 測量ノ術ヲモ修メ 夙ニ海防ニ心ヲ注ギ 蝦夷北蝦夷研究ニ力ヲ盡シタリ 其著ニ邦文和蘭國全圖 蝦夷北蝦夷全圖アリ 米艦浦賀ニ来ッテ
互市ヲ乞フモ 意見書愚意摘要ヲ公ニシ 以テ開港論ヲ高唱セリ
弘化三年古河に移リ 安政五年七月十九日歿ス 享年七十四 城北正麟寺ノ墓域ニ葬ル 大正七年從四位ヲ追贈セラル 此家ハ泉石ガ晩年居住シタル藩邸ニシテ可琴軒ト稱シ 土井利勝ガ古河城三階櫓築造ノ時 其餘材ヲ以テ建テシモノナノト云フ
                    昭和十二年六月           古河史蹟保存會


 邸宅の回りは敷石で回遊できるようになっており、手入れも良く、和風の趣たっぷりの空間である。石灯籠「濡鷺」があり解説プレートがある。

                    
石灯籠 濡鷺
 藩主が古河在城の時に住む二の丸御殿の庭に置かれた「濡鷺」の銘が刻まれた灯籠。明治の廃城に伴い、市内のある有力者が払い下げをうけ今日まで保存。今回、市に寄贈されものである。


長谷観音(9:50)

 朝のウォーキングをしているご婦人に道を尋ね、ついて行ったらそのご婦人も朝参りに立ち寄られた「長谷観音」を訪ねる。桜の花が満開で綺麗な佇まいである。
 境内の解説板には次のように記されている。
                    
(武家時代文化ライン)長谷観音
 明観山観音院長谷寺には、明応年間(1492~1500)に初代古河公方成氏が、鎌倉の長谷寺から勧請した十一面観世音菩薩像があり、通称長谷観音と呼ばれている。
 以来日本三大長谷の一つとして、また、古河城の鬼門仏として累代古河藩主の祈願所であった。
 当時の本堂は、八間四面勾欄付き赤塗りの荘厳な伽藍であったが、明治初年の廃仏毀釈により、まったくの廃寺となってしまった。
                                        古河市


 お詣りの後、本尊を見ようとガラス越しに目をこらしていたら、ご住職が「こちらからの方がよく見えますよ」と脇に誘致してくれ、下記内容の資料も戴けた。

                     
長谷観世音縁起
 日本三大長谷観音の一つである古河長谷観音は今を去る事五百有余年前室町幕府を開いた足利尊氏公の血脉をひく足利成氏公により建立された。足利成氏公は宝徳元年(1449)に室町幕府の命を受け京より関東管領として鎌倉に派遣され鎌倉公方と称されたが、関東豪族上杉氏と敵対したため幕府と対立し康生元年(1455)下総国古河に移り古河公方と称し関東に足利成氏有りとの威厳を誇った。明応二年(1493)足利成氏公六十才の時、青春時代を過ごした鎌倉への望郷の念により、又長谷観音信仰によって、古河城の鬼門の地に鬼門除けとして明観山長谷寺を建立し、鎌倉長谷寺より御丈六尺八寸一分の木造長谷十一面観世音菩薩様を勧請し御安置なされて以来、政氏公=高基公=晴氏公=義氏公と崇敬され、(中略)長谷観音様は、古くより安産、子育虫封じ、開運厄除、出世観音様と言われ、霊験あらたかなることは広く世間に知られ「日本三大長谷観音様」としたしまれております。(中略)大和、鎌倉、古河の長谷観音様は一本の楠によって彫られ、大和の長谷観音様は楠の元木、鎌倉の長谷観音様は中木、古河の長谷観音様は楠の末木によって彫られたと口伝されております。日本三大長谷観音様の所在は次の通りです。
  一、大和国(現在の奈良県)初瀬長谷観音様(楠の元木)
  一、相模国(現在の神奈川県)鎌倉長谷観音様(楠の中木)
  一、下総国(現在の茨城県)古河長谷観音様(楠の末木)


古河歴史博物館・諏訪曲輪跡(10:00)

 次に「古河歴史博物館」へ行こうとしたが、正面入口を錯覚で通り越してしまい、折良く居た人に尋ねて、車いすも通れる脇から3館共通券(歴史博物館・文学館・篆刻美術館)を買って 入場する。
 往時の古河城跡にあり、諏訪曲輪跡(古河城の出城)が2ヵ所残っているが、館内に入る途中に「
史蹟 古河城出城諏訪郭」の石碑が建ち、館内には古河宿や古河城の模型ほか多数がが展示されており、見どころたっぷりである。
 展示テーマは、展示室1が「鷹見泉石と洋学」、展示室2が「古河の歴史」、展示室3が「古河の文人たち」となっているが、少々の持ち時間では到底鑑賞・見学しきれない程の内容と量である。

 鎌倉時代から120年余にわたる古河公方時代を経て、江戸時代に徳川譜代大名の城下町になった古河は、日光・奥州街道の要の地として、代々小笠原・松平・奥平・永井・土井・堀田・本多など、老中格の大名が城主になった城下町である。
 その中心の古河城は、平安時代末期に源頼朝の御家人の下河辺行平(藤原秀郷の子孫)が築城し、康生元年(1455)関東管領の足利成氏が執事上杉氏と争いこの城に来たのが古河公方の始まりで、以来5代にわたり130年余統治した。江戸時代には、寛永10年(1633)に幕府初代大老土井利勝が城主になるなど譜代大名11家が12回にわたって次々と城主になり、その延べ数は28人の藩主が務めている。宝暦12年(1762)には再び土井家が唐津から来て明治を迎えている。

 注目したのは、古河城と城下町の復元模型である。古河城は、西の渡良瀬川、東の百軒堀に囲まれた細長い敷地の中にあった。本丸にあった三階櫓が天守閣の役割を果たしていたようだ。東側に御成門、百間堀を隔てた歴史博物館のある場所が出城で、将軍お成りの際は、日光道中の茶屋口まで出迎えた。武家屋敷もあったようで、一般の武士は通常北側の追手門を利用していた。

 江戸初期の歴代城主は数万石だったが、奥平家の11万石・永井家の7万石を経て城下も拡張整備され、更に土井利勝の16万石時代には本丸に三階櫓が建造され、城下の形が整ったと見られる。
 また、奥羽街道・日光街道の宿場町としても発展し、現在も市内各所に武家屋敷や商家の町割り、由緒ある神社仏閣があり、往時の風格が偲ばれている。
 残念ながら城は、明治7年に始まる大正年間までの渡良瀬川改修工事で、殆ど全て跡形を無くしている。因みに、渡良瀬川は、舟運でよく利用され、城内には藩専用の河岸もあったという。
 その他、古河城は熊沢蕃山の幽閉や、南総里見八犬伝の舞台などでも知られる。南総里見八犬伝の犬塚信乃は、古河城で川に飛び込み、利根川を下って行徳に流れ着いたとか。

古河公方と称した足利成氏

 古河公方の起こりだが、南北朝期の1338年、京都に幕府を開いた将軍足利尊氏が関東地方を治めるべく、子の基氏を鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣した。その後、鎌倉公方4代持氏が京都の将軍家と対立、永享11年(1439)6代将軍義教と一戦を交え、その結果、鎌倉公方が破れ、持氏は自害させられる。その後、生き残った持氏の子成氏が許され鎌倉公方に就任したものの、再び幕府に反旗を翻し、文安2年(1445)鎌倉から古河の地に座を移している。
 爾来130年有余年の間、古河公方と称して東国一円の重要位置を占めてきたが、現在も公方所縁の寺院や史跡が残り、特に古河公方足利氏の古河城の別館であった「公方館跡」や古河公方開基の「徳源院跡」一帯は、「古河総合公園」として自然や史跡探訪の地になっていて、市民に親しまれている。

古河宿

 ついでに、古河宿について簡単に触れておくと、日光街道第9宿で人口3,865人、家数1,105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒 の宿だった。
ところで、古河市内の古河藩領はと言えば、29ヵ村。残りの34ヵ村は、幕府領20ヵ村、壬生藩領4ヵ村、関宿藩領4ヵ村、旗本領3ヵ村、そして関宿・壬生・幕府・旗本領、関宿・峯山藩領、壬生・幕府領の複数支配(相給)村が各1合計3ヵ村というように複雑だったが、共通しているのは、いずれも将軍家が信頼をおく譜代大名・旗本の領地もしくは天領だったことである。

古河文学館

 その北側にある古河文学館に行く。平成10年開館の茨城県内初の文学館である。大正ロマンの香りが漂う洋館で、歴史小説の第一人者である永井路子、推理作家の小林久三、時代小説まで幅広く活躍中の佐江衆一、詩人の粒来哲蔵、粕谷栄市、歌人の沖ななも等、古河ゆかりの作家の作品を中心に数々の貴重な資料を展示している。
展示室1では、「古河ゆかりの文学者たち」、展示室2では「古河の児童文学」、展示室3では「歴史小説家永井路子」をテーマに香り高い展示がなされている。そのほか、単なる作品や肉筆原稿などの展示以外にも、気軽に立ち寄れる「広場」としての空間を提供しており、サロンや講座室、談話コーナーなど新しい芸術文化情報発信基地に相応しい空間設計になっている。後に触れる「永井路子旧宅」は、平成15年開館の文学館の別館としての位置づけになっている由。

雪華模様の道(10:31)

 文学館の後は「古河一小」の東側を北へ進むが、雪華模様がちりばめられた歩道になっている。土井家11代藩主利位は、日本初の雪の結晶の研究者として知られ、天保3年(1832)に「雪華図説」を上梓したが、上下巻合わせて183種が収められているという。そして、この歩道は3種の雪華模様を組み合わせているものだとか。雪華の歩道は「古河一小」の敷地沿いに続き、敷地はずれ、エンジュの木の所まで続いている。歴史博物館、鷹見泉石記念館、文学館を経てこのエンジュの木に至る道は周囲の景観が良く、散策の絶好コースである。市内の旧日光街道もそうだったが、古河の町は町並み景観にいろいろ気を遣っていることがよく判る。
市内の小中学校の校章は、全て雪の結晶をアレンジしたものであるというから驚きだ。

エンジュの木(10:33)

 「古河一小」の東北角に、古河市の名木古木に指定されている「エンジュの木」がある。推定樹齢115年(平成2年現在)、樹高16.5m、幹周2.7mとの解説板があり、元女子校(現一小)開校記念樹の由。木の上を通る電話線などが折角の景観をつや消しにしている。

宗願寺(10:38)

 そのエンジュの木のある所を左折し、小学校の正門前を過ぎたら右手に「足立山野田院宗願寺」がある。宗願寺の創建は建暦2年(1212)親鸞聖人の法弟の一人野田西念房が開山したのが始まりと伝えられ、当初武蔵国足立郡野田にあったが康永元年(1341)に現在地に移ってきた。本堂は小さく感じるが、寺宝の彫刻木造親鸞聖人坐像は親鸞上人(1173~1262)が元仁5年(1224)に「教行信証」を著し真宗を開創した時の像とされ、「一宗開劈御発起御満悦の御真影」とも呼ばれている。昭和39年に茨城県指定重要文化財になっている。また宗願寺は、真宗二十四輩関東札所第七番寺として信仰を広めている。
 折悪しく、本堂では檀家の法事と覚しき仏事が行われていたので、参道途中からの参拝に留めた。

鷹見泉石誕生地碑(10:38)

 その直ぐ向かい側の交差点手前左手に前述の「鷹見泉石生誕之地」碑があり、解説プレートが付されている。
                   
 鷹見泉石
 十郎左衛門忠常といい、泉石は引退後の名である。
 天明五年(1785)六月二十九日、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、当時、四軒町といったこの地に生まれた。十一歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕を振るった。
 とりわけ藩主利位の「大塩の乱」鎮定・京都所司代から老中への昇進と幕政参画など、その影にはつねに泉石の補佐が与って大きかった。
 つとに蘭学を志し、自らも日本初の「新訳和蘭国全図」を出版した。かたわら、学者・文化人と広く交わり、オランダ商館長よりヤン・ヘンドリック・ダップルの蘭名を贈られた。開明的外国通といえる。渡辺崋山筆、国宝「鷹見泉石像」は、よくその姿を伝えている。
 安政五年(1858)七月十六日、古河長谷の屋敷に七十三歳で没した。市内横山町の正麟寺に眠る。
                    平成八年三月吉日           鷹見泉石普及活動事業実行委員会


古河城追手(大手)門(10:44)

 その先の交差点を過ぎ、次の交差点を右折し、左に道が曲がった先の右折道を北に向かうと、左角に「史蹟 古河城追手門址」の石碑が建ち、横に解説板がある。すぐに右の道に入ります。この道はウォーキングトレール事業で整備されたとか、歩きやすいとご好評いただいている道です。ほどなく江戸町通りに出ます。江戸町のいわれは、古河城追手(大手)門前から石町までの、一番賑わいを呈した区画で、江戸を思わせるという意味で江戸町と称したといいます。
                    
古河城追手門跡
 城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍勢(追手)を配置することから、城の正門(表門)のことをを大手門とか追手門と呼んだ。
 当該地の北に位置する東西方面の大通りを境に、北側は武家屋敷となっていて(片町)、南側は城の堀と5間(約9m)ほどの高さの土塁が構築されており、追手門に入るには堀にかかる橋を渡った。堀の水深は二尺(約60cm)、堀幅は七間(約13m)とも十六間(約30m)ともいう。
 門は第一・第二門からなり、その間に枡形(正方形)の空間をもうけた形態であった。まず切妻屋根に
おそらく堅桟張りであったかと思われる扉をもった高麗門(第一の門)を入ると、そこは土塁で囲まれた枡形の空間で、右手にいかにも城門らしく豪壮な造りの第二門があった。その第二の門は櫓門と呼ばれるもので、土塁と土塁の間に渡櫓を渡して、下を門とし、上を櫓(矢倉)とする形式であった。
 門の創建は、慶長年間(1596~1615)の松平(戸田)康長のときであったという。
                    平成十九年一月
                                   古河市教育委員会


古河藩医・川口信任屋敷跡(10:47)

 大手門のある角を西に向かうと左手に藩医だった川口信任の屋敷跡があり、次のような解説板が建てられている。
                    
解剖学者 川口信任屋敷跡
歴代、古河藩土井家の御側医を勤めていた川口家屋敷跡。川口信任を筆頭に、杉田玄白最晩年の弟子として江戸蘭学界に留学、古河で最初の種痘をおこなった信順(1793~1869、号=祐卿・陶斎)や、東京大学医学部の前身である「医学館」教授を任命された信寛(1829~1906、号=杏斎・枕河)など、日本医学史上の逸材を輩出した屋敷といえよう。
とりわけ、信任(1736~1811、号=閑春・宏斎、字=道五)は、明和七年(1770)、京都において、日本最初の脳・眼球・頭部の腑分けをおこなった解剖学者として著名。二年後、信任はみずからの解剖所見に、二十三図にも及ぶ解剖図を付した「解屍篇」を刊行している。医者が手ずから執刀する解剖は、信任のそれよりも早いものが知られていない。
日本における近代医学濫觴の一史跡といってもよいのではなかろうか。菩提寺は本成寺。
                    平成十六年三月
                                   古河市教育委員会

古河藩作事役所跡(10:48)

 その道を突き当たった車止めの先の空き地右手に「史蹟 古河藩作事役所址」の石碑があり、裏面には細かく文章が刻み込まれている。傍らに建っている解説板でその詳細が判明した。
 
(裏面文章)
 此處は古河城観音寺郭の西北隅にして作事役所の在りし所なり。地域千百餘歩。厩舎・作事屋・大部屋・材料置場等ありて、城門内櫓等の建造物を始め家臣の住居、特別の関係ある社寺の建築営繕並びに城池の浚渫、道路、堤塘、橋梁の修理等専ら建築と土木とを掌れる所にして、□員には作業奉行・下目付・杖突等の職□あり、又大部屋には二十餘名の中間を置き常時の作業に當らしめしが明治に至り営繕役所と改稱し同四年廃藩置県と共に廃止せられたり。
 此碑は在京城小杉謹八氏寄贈により之を建つ。
                    昭和九年十月吉辰
                                   茨城県古河史蹟會長 千賀覺次
                                   同會理事       尾上清
その後について
 明治四年、藩はすべて県の名称にかわり古河県となるが、同年十一月十□日印旛県に統合される。明治六年政府は、全国に残存していた百九十八城の内五十五城を陸軍省に帰属させて残し、その他の城は、大蔵省所属とし破壊売却されることになった。翌七年古河城は、建物・石垣・樹木等入札のうえ売却破壊され、その威容は全く消え失せてしまった。
同年七月旧古河藩士族は、士族・子弟の学資補助の財源のため、古河城の城内外(当地も含む)・外堀・練兵場・その外の官有地を、千葉県から無償で払い下げを受けて共有学田とした。しかし政府の教育の普及政策により公立による小学校設立運営がされるに至り学田の財産、所有権の運用等について、士族、町側とに対立が起こり訴訟裁判となり多年争ったがやがて解決した。当作事役所蹟の一部と国有地も含めた一帯が古河公園になる。太平洋戦争の折、旧三国□の空爆破壊を恐れた陸軍は上流地点に架設の木橋を架ける爲、木材の加工場所とし、当地に大勢の兵隊を駐屯させ作業及び防空警戒にあたらせた。
 戦後昭和二十二年九月のカソリン台風は対岸向古河北川辺で堤防の決壊、渡良瀬川では十数ヶ所、利根川の新川堤(大利根地先)破堤では、濁流が埼玉県を南下東京都まで至り大災害になった。国は災害復旧工事にあたり、当地に現地工事事務所を設置し、その任にあ(た)った。当時の敷地には、トロッコ牽引の機関車置き場、建物は事務所、機材倉庫、燃料庫、車両庫等大規模で(あ)った。その後、工事事務所は他に移りもとの公園となった。

 慶長六年(1601)松平康長氏が古河城を拡張し観音寺郭、大手門をつくる。
 歴史は人がつくり、由緒は人が語り繫ぐ、自然は黙して語らず、景観は人が作る。
 現在地  茨城県古河市錦町 古河公園内

頼政神社(10:51)

 道に戻り、右折して北へ行き、「江戸通り」に出る手前左手に石段があり、「頼政神社」がある。
 「頼政神社」は「正一位頼政大明神」と言い、源三位頼政を祀っている。
 頼政神社は、元々は古河城内南端の竜崎郭(頼政郭)にあったが、明治の末、渡良瀬川改修工事で削り取られ、川底になってしまったため、古河城最北端のここ観音寺郭の土塁堤上に遷宮した。その時、神社跡(下が古墳だった~立崎古墳)から豪族の墓所の副葬品と思われる金環、管玉、小玉、矢の根、太刀の断片が発掘され、現在、文化財の指定を受け、社宝として保存している。その立崎古墳は六世紀後半の古河近辺を領有していた豪族の墓所だったのである。

 源三位源頼政は、平家追討に挙兵して宇治で戦ったが、戦は利あらず、治承4年(1180)に宇治で自刃したが、自刃に先立ち、従者に対して「我が首を持ち諸国をまわれ我れ止まらんと思う時、必ず異変が起きよう。その時その場所へ埋めよ」と遺言したという。従者(渡辺競・猪早太)は、諸国を廻って下総国古河まで来て、休息し、再び立たんとしたが、急にその首が重くなり持ち上げられなくなり、不思議に思ったが、遺言どおり、その地に塚を築いて埋葬した。それが頼政郭だと言われている。古河近辺はその頃下河辺行吉が領主だったが、その下河辺行吉は都で頼政に仕えていたので、深い因縁といわねばならない。
 境内の参道右手には元禄9年(1696)銘の太くてどっしりした灯籠が、元禄の貫録を見せている。

 頼政神社の後は「江戸町通り」を東にとって返す。「正定寺」「永井路子旧宅」「街角美術館」「篆刻美術館」等に立ち寄りながら、「本町二」交差点で旧街道に復する予定である。

正定寺(11:00)

 まず、左手の古河を代表する寺院の一つ「正定寺(しょうじょうじ)」に立ち寄る。「歴史博物館」入口信号の手前北側にあり、朱塗りの山門が威容を見せている。古河は寺の多い町で、市内にざっと26ヶ寺ほどある。江戸初期、老中~大老を通算35年間も務めた土井利勝が開基した寺で、土井家歴代の墓所がある。土井家墓所は、当初は東京浅草の誓願寺にあったが、関東大震災後の帝都復興の際、歴代70余霊と共に昭和2年12月に当正定寺に改葬され、その墓所が当寺奥院にある。
 徳川家康のご落胤説もあり、徳川家の公式記録である徳川実紀にも説が紹介されている。それらの由書を刻んだ石碑が本堂前にある。

 高い鐘楼があるが、古河八景の一つとして選んだ先人は、”正定寺の晩鐘”を次のように詠っている。
   “おいさびて ものおもう身に あらなくに など入相の 鐘のさびしさ”
 この鐘桜が建てられた正保2年(1645)頃、鐘楼の盛土をした時、その土を取り去った跡地に池を掘り、弁天堂ができたという。
 本堂内の宝物陳列棚には、土井家関係遺品が数十点展示され、正面には、県指定文化財の絹本著色、土井利勝の肖像画が掲げられている。また、境内、芭蕉塚には、”春もやや景色調う月と梅”と刻まれている。

 阿吽と言えば狛犬だが、ここには赤い門の外に「阿吽の石」があり、赤い門の内側には「南無阿弥陀仏」の文字が反転で書かれ、本堂のガラスに写ると正しく読める仕掛けになっている。後ろからも見つめられていることを意識せよとの教えだとか。

 本堂に向かって右手に古河藩・土井家の江戸下屋敷から移設した表門(黒門)がある。黒門前に、「しょうじょう寺」に因んでか、たぬきの石像があり洒落ている。潜り戸には「とき門」とあり、これは土岐氏という馬術師範が緊急時に馬に乗ったまま潜り抜けたという逸話のある門だとか。
               
古河市指定文化財・建造物
                    旧土井家江戸下屋敷表門(正定寺黒門)
     昭和四十三年四月一日指定
     古河市大手町七番一号
 この門はもと東京の本郷にあった旧古河藩主土井家の下屋敷の表門であったが、昭和八年(1933)に土井家の菩提寺である当正定寺に移築・寄進されたものである。
 江戸時代の大名屋敷に多く用いられた薬医門と呼ばれる型式で、両側に袖塀がつき、向かって左側に潜戸がある。また、屋根瓦には、土井家の家紋である「水車」があしらわれている。
                    平成二十年一月
                                        古河市教育委員会


 また、芭蕉の句碑もあるらしいが、一般の人が入れない中庭にある由。本堂前の右手には、衣冠束帯姿の「土井利勝公御像」「浄土宗元祖法然上人像」がある。

作家永井路子旧宅(11:05)

 右手に行けば「歴史博物館」というその入口交差点の先右手に風情のある江戸末期築の商家風建物が永井女史の旧宅である。この建物は、古河市の名誉市民で歴史小説家・直木賞作家の永井路子氏の旧宅を一部復元保存したものである。先に立ち寄った「古河文学館」の別館としての位置づけになっているこの建物は、1925年東京・本郷生まれの永井氏が3歳の時に古河市に移り住み、結婚までの約20年を過ごした家である。入館料無料、平成15年10月開館で「全建いばらき賞」を受賞している。

 敷地約550㎡、建物約132㎡(土蔵造二階建の店蔵94㎡、木造造瓦葺き平屋建38㎡)で、初代は葉茶屋を開業、4代目が茶のほか陶磁器・砂糖なども扱い質屋も営んでいたという古い商家の趣を多分に残している。入館無料で、奥の和室では「文学館」主宰の「昔話を聞く会」の会場としても使われている。

古河街角美術館

 その先右手にある平成7年3月開館の「古河街角美術館」は、市ゆかりの作家を中心に優れた美術作品鑑賞の場、また、美術分野での市民創作活動発表の場になっており、鉄筋コンクリート造日本瓦葺2階建の1階は常設展示室、2階は貸出用市民ギャラリーになっている。入館料無料(一部企画展を除く)。

篆刻美術館

 そのまた少し先右手にあるのが平成3年春開館の日本初の篆刻専門の美術館である。大正9年建設の3階建て石倉(旧平野家の表蔵棟、裏蔵棟)を改修したもので、展示室も当時の雰囲気を残している。篆刻は書道芸術の一つで、700年ほど前、中国で起こっている。四書・五経・漢詩などから語句を選び篆書という古文字を用いて柔らかい小さな石に刻んで押したものを鑑賞するもので、大変興味深い。
 戴いたパンフレットによれば、7000年前にメソポタミアで発生した図象印章に起源があり、その制度が中国に伝わり漢字と融合し、秦漢時代に政治経済と結びつき、世界に稀な印章制度が築かれ、奈良時代に日本にも導入され、現在に至っている由である。

 館内には、古河出身の故生井子華の遺作をはじめ日本を代表する現代作家、および、中国、日本の歴史的作家の作品が常設展示されており、建物は国の登録有形文化財に指定されている。
 また、ここで習った市内中学生達の作品も奥の裏蔵棟で展示されていたが、「姓」の一字を刻したなかなかの出来映えと見うけた。係の女性に篆刻に使われる石について訪ねた処、種類は例えば「青田石」「寿山石」「巴林石」とか「廣東緑」ほかかなり種類が多いようで、値段もピンキリ、安いのは120円ぐらいのものから上は聞かなかったがかなりのものと思われた。
 漸く駅前からの道との交差点、日光道中に戻った。前回も見たが、左手に「古河城下本陣址」、右手に「古河城下高札場址」の碑がある。

 更に年をとって街道歩きが出来なくなってからならやってみたい興味はあるが、その程度の暇つぶし的興味では、また、書の一部として、文字と言葉に関する知識が必要、かつ美を意識できる感性が要求されるとなれば、やはり無理かと諦めることになる公算大かと心中苦笑を禁じ得ない。

 これで、街道筋から離れた場所での主要立ち寄り希望先は一応クリアーしたが、何と腕時計はもう11:20近くを示している。お昼の心配もしなければならないが、それよりも、きょうのゴール予定「小山宿」への街道歩きは未だ一歩も進んでおらず、ちょっぴり心配になってくるが、とにかく本陣跡などのある「本町二丁目」交差点へと急ぐ。

高札場跡(11:23)

 「本町二丁目」交差点の日光街道を狹んで東側、に「
史蹟 古河城下高札場址」の石碑と解説板が建っている。江戸時代、藩や幕府のお触れ書きである「高札」を建てた所である。
                    
高札場と本陣
 日光街道の宿場町としての古河宿の中心は、もと二丁目とよんだこの辺であった。文化四年(1807)の古地図によると、高札場がこの場所にあり、斜め向かいに本陣と、問屋のうちの一軒があり、またその向かい側に脇本陣が二軒並んで描かれている。
 高札場は、親を大切にとか、商いは正直にとか、キリシタンは禁止だとかいった幕府の法令や犯人の罪状などを掲げたところである。
 本陣と、その補助をする脇本陣は、合戦のとき大将の陣どるところに由来して、大名・旗本を始め幕府機関の高級役人・公卿・僧侶などの宿泊・休憩所で、古河の本陣は百十七・五坪(約四百平方メートル)もあった。どこの宿でも最高の格式を誇っていたが、経営は大変であったといい、古河の脇本陣はのち他家に移っている。
 問屋は、人足二十五人、馬二十五匹を常備し、不足の場合は近村の応援を得たり人馬を雇ったりして、この宿を通行する旅人や荷物の運搬一切をとりしきった宿場役人のことで、他にも三~四軒あって、交代で事にあたっていた。
 街道沿いの宿町は、南から原町、台町、一丁目、二丁目(曲の手二丁目)、横町(野木町)と続き、道巾は五間四尺(約十メートル)ほど、延長十七町五十五間(約千八百五十メートル)余あり、旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だったという。
                    平成元年三月
                                        古河市教育委員会


本陣跡(11:24)

 常陽銀行を右に見て、正面に商店街ジョイパティオがあり左角に足利銀行がある。ジョイパティオ入口の赤い電話ボックスの前にひっそりと「
史迹 古河城下本陣址」の石碑が建っている。ここに、昔諸大名が参勤交代や日光参詣等の途中、古河に泊まる時に宿とした本陣の建物があった所で、日光街道から古河城への入口地点でもあり、城下町古河の重要な辻として、旅人の往来繁華な賑わった所だった。

脇本陣跡

 北に向かい、日光道中は、初めての四叉路を左折して「曲(かね)の手通り」に入るのが、街道筋である。すぐ右手に曾てあった「太田屋旅館」が、旧脇本陣だったというが、今は何の表示もなく正確な位置確認は出来なかった。

神宮寺(11:29)

 左折してすぐ右手に「真龍山心城院神宮寺」がある。真言宗豊山派の当寺は、総本山が奈良県桜井市初瀬の長谷寺とあるから、先に立ち寄った「長谷観音」とは姻戚関係になりそうだ。
 境内には、古河市名木古木指定の「黒松」が聳えている。
                    
神宮寺由来
 この寺は室町時代、後花園天皇の御代即ち文安3年(1446)五月、良宥上人の開基で、元は鎌倉にあり関東公方足利成氏の帰依が深かった。享徳4年(1455)、成氏が、関東管領上杉憲忠と争い、これを謀殺したため幕府の追討を受け古河城に移り古河公方と称したが、この時、成氏の守り本尊である十一面観音菩薩の像を良宥上人が守護して共に古河に来り、古河城中の観音寺曲輪を賜り一宇を建立し心城院と号した。
 後ち成氏の命により、この十一面観音菩薩を雀神社の本地佛、心城院を以って別当祈願所とし、公より法施として寺領七石を賜った。その後元和六年(1620)城主奥平美作守忠昌が城増築の爲町割りをした際現在地に移り、真龍山心城院神宮寺と号した。これは鎌倉神宮寺の旧名によるものである。
慶安元年 (1648)八月、徳川三代将軍家光公より当時十二世住職俊賀の代、改めて朱印七石を賜る。
貞享五年(1688)一月三日、類火に遭い寺宝、縁起等を焼失した。元禄四年(1691)再建され、大正七年(1918)大修繕し現在に至る。

 十一面観音菩薩坐像(茨城県指定有形文化財)は古河の総鎮守雀神社の本地佛として、永く同神社境内の観音堂に安置されてあったが、明治二年(1869)また神宮寺に移された。

               茨城県指定有形文化財・彫刻
                    木造十一面観音菩薩坐像
     昭和六十三年一月二十五日指定
     古河市横山町一丁目一番一一号
 神宮寺の名に、「神宮」という神社の意味があるのは、かつて古河の総鎮守である雀神社を監督する立場の寺であったことからきている。そして、当寺本尊の不動明王とは別にあるこの観音は、雀神社を子にたとえれば、その親にあたるものとして、雀神社境内の観音堂にまつられていたが、明治時代初年の神仏分離政策によりこの神宮寺にもどされてきたものである。
 (中略)
 寺伝によると、古河公方足利成氏の保護を受けた良宥が鎌倉から古河に移したもので、平安時代の定朝の作であるというが、作風からすると室町時代中期以前の作の見本といえるような彫刻であるという。紀年名のないのが惜しまれる。
                    平成二十年一月
                                        茨城県教育委員会
                                        古河市教育委員会


旧日光道中道標(11:32)

 道を挟んで左斜め前の小公園に、文久元年(1861)銘の「日光道中道標」が建っている。常夜塔を上に載せた珍しいタイプの道標で、元は先ほどの交差点にあったらしいが、正面に「左日光道」、右側面に「東筑波山」、左側面に「右江戸衟(みち)」と刻まれた貴重かつ堂々たるものである。

               
古河市指定文化財・有形民俗文化財
                    日光街道古河宿道標
     昭和五十二年四月四日指定
 寛永十三年(1636)に徳川家康をまつる日光東照宮が完成し、江戸と日光を結ぶ日光街道が整備された。その途中にある古河宿は、日光社参の旅人などの往来でひときわ賑わうようになった。
 日光街道は、江戸から古河に至り、二丁目で突き当たり、左が日光道、右が筑波道と分岐するように作られた。その分岐点に、人々の往来の助けにと建てられたのがこの道標である。
 この道標は文久元年(1861)に太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか一一名によって建てられたもので、常夜灯型式の道標として貴重なものである。文字は小山霞外・梧岡・遜堂という父・子・孫三人の書家の揮毫である。
                    平成二十年一月
                                        古河市教育委員会

 その先100mほど歩いて右折するのが街道順路だが、寄り道のため十字路を直進する。

武家屋敷跡(11:35)

 日光道中は、宿に一般的に見られる枡形の原則に従いすぐ右折して「よこまち柳通り」に入るのが道筋だが、四叉路を通り越して西へ寄り道する。左手に「ホテル山水」がある辺りの右手に屋根瓦付きの超長い塀を持つ往時の「武家屋敷跡」が残っており、まるで江戸時代にタイムスリップしたような、時代劇の主人公にでもなったような錯覚に襲われる通りである。

元遊郭街

 11:38元の四差路に戻り左折して北に向かう。この「よこまち柳通り」は、遊郭があった場所らしく、先ほどの「高札場」の解説板にも、古河宿は、「飯盛女(遊女の一種)がことのほか多い町だった」と記していた。格子窓の家屋が見られるよこまち柳通りは、道が車を拒否するようにカーブをつけ、情緒のある街並みを保っている。

 途中、左に「雀神社」への参道が延びていたが、距離がかなりあり、当初から立ち寄りは市内予定だったので、その侭通り過ぎる。「徳星寺」もそう遠くはないが予定外としてパスする。

正麟寺

 暫く進むと、やがて道は右後方からの国道4号に「野木」交差点で合流し、古河宿も終わりになる。と言うより、合流の少し前既に県境があり、栃木県に入っている。
合流までの途中、左手に入り込んだ所に「麟翁山正麟寺」があるが、先刻散々時間を費やしており、残り距離もたっぷりあるので立ち寄るのは止めたが、「鷹見泉石」の墓が実はそこにある。
 小笠原家開基の曹洞宗の寺院であるが、小笠原家は、天正18年(1590)、信濃松本から古河に移り、小笠原右近太夫貞慶が、古河領主になり、父、大膳太夫長時を菩提のために建立された。
 由緒沿革としては、承陽大師道元(建長五年、1253年没)が宋から帰朝(安貞元年、1227年)、寛元二年(1224年)大仏寺(寛元四年永平寺と改称)を開いて以来、その法灯が継承され、現在に至っている。本尊は釈迦牟尼佛である。

塩滑地蔵

 「よこまち柳通り」を行き、左手に「本成寺」(ほんじょうじ)がある所で、道は右後方からの県道261号と交わるが、その信号で左折し、県道261号を北進して次の宿を目指していく。
 途中、右手に「塩滑地蔵菩薩」の石碑がある筈で注意はしていたのだが、先ほどの古河宿内たっぷり見学でお疲れだったせいか見過ごしてしまった。その後は大きな見所もなく県道を歩いて行くと、国道4号合流手前左手に野木神社。手持ち資料によるとこの神社が野木宿の入口らしい。

野木神社(12:00参道入口)

 国道4号合流点の手前左手に野木神社がある。宿の出入口には大体神社があるケースが多いが、この神社が野木宿の入口らしく、いつしか国道合流の少し手前で茨城県から栃木県に入っていることになる。ただ、参道が左斜め向こうに延々と続いており、片道500m位ありそうなのでパスすることにした。
 応神天皇の皇太子・莵道稚郎子命を主祭神とし、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、宗像三女神を祀っている。仁徳天皇の御代、奈良別王が下野国造として下毛野国に赴任した時、莵道稚郎子命の遺骸を奉じて当地に祀ったのが始まると伝えられている。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐成功からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。
 下野国寒川郡七郷の総鎮守とされ、江戸時代には古河藩主土井氏の崇敬を受けて古河藩の鎮守・祈願所とされた。荘重な雰囲気を有する立派な神社で、明治5年に郷社に列している。

 境内には、田村麻呂の手植えと伝えられるイチョウの木(推定樹齢1200年)が現存しているが、出産した女性が、乳の出が良くなるようにと願って、白布に米ぬかを入れて乳房を模したものをこのイチョウに奉納するという民間信仰がある。幹の下部に突起物があり、乳首に見えるそうだ。
 また、陸軍大将乃木希典が、姓と同じ読みであることから特別な神社と考え、何度か当社に参拝し、陣羽織などを奉納しているというが、乃木希典を祭神とする乃木神社とは無関係である。
 本殿には、町指定文化財の黒馬繋馬図絵馬や算額がある由。また境内には、宝暦10年(1760)建の芭蕉句碑がある。「芭蕉翁墳 一匹の はね馬もなし 河千鳥」。芭蕉翁墳というからには、芭蕉の所持品か何かを埋めて供養したものと考えられる。

日光道中 野木宿周辺の松並木(12:01)

 先ほどの合流点に「史蹟 栗橋道」と記した道標があるらしく探したが見当たらず、代わりに野木神社参道入口の先で「日光道中 野木宿周辺の松並木」と題した解説板を発見した。
                    日光道中 野木宿周辺の松並木
 日光道中今市宿を合流点に、日光道中、例幣使道、会津南山通り(西街道)の両側には松並木が植えられている。この松並木は、武蔵国川越城主の松平正綱が、寛永2~3年(1625~6)から約20年の歳月をかけて植えつけ、杉並木を寄進したものである。
 日光道中野木周辺では、杉並木ではなく、松並木が続いていた。(「増補行程記」盛岡市中央公民館蔵)。この松並木は元和8年(1622)古河藩主永井右近大夫直勝が、中田より小山までの街道に植えたともいわれる。(「小山市立博物館紀要3号」)。元和から寛永期(1615~43)までには松並木ができたということになる。
 弘化2年(1845)、山形藩主秋元志朝は上野国館林へ国替えとなり、家臣山田喜大夫は妻音羽(とわ50歳)とともに移動することになった。音羽は、間々田より友沼に向かう付近で、松並木をとおる一行の絵と歌を残している(「道中記」)。
 「暑さがしのぎにくいほどで、松並に風音涼しく吹いて聞こえてくる、『松風を琴のしらべに聞なして 心なぐさむ旅の道野邊』」。進んで野木では、「此辺は皆松並木で 景色がない、・・・それに松なみの間 皆小石を敷いてあるので、足が痛んだが、・・・歩を進め、八ッ半頃であろうか 古河の宿へ着いた」とあり、ずっと松並木が続いていたことがわかる。
 なお、野木宿内では松と杉が植えられていた(「日光道中分間延絵図」東京国立博物館蔵)ようである。
                              野木町教育委員会

野木宿(12:06)

 日本橋から64kmの標識を見る。この辺りは曾ては松並木の街道が続いていたらしく、その解説板もあったが、現在では国道4号という経済優先路の犠牲になってしまい、松並木はおろか、往時の宿場の面影も皆無である。

 左手の民家のブロック塀の角に「野木宿入口 この場所に木戸が設置されていた」の標識があり、曾てこの辺が宿の入口だったことを表している。

 野木宿は、本陣1、脇本陣1、問屋場4、旅籠(中)2、旅籠(小)23軒の宿場で、野木の宿名は、「和妙抄」に出てくる郷村名の「努宣(ぬぎ)」が転訛したものだとか。

本陣跡(12:09)

 本陣は「野木」信号から400m程先の左手、脇本陣はその斜め左向かいにあったらしいが、本陣(熊倉家)跡は民家のブロック塀の外に次のような解説板が建ち、その向かいの脇本陣(本陣と同じく熊倉家)については何の表示もなく不明である。
                    
日光道中野木宿
 江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8km)、間々田宿へ1里27町(約6.9km)あった宿場町である。
 野木村の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592~95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談記」)ようである。更に江戸時代に入ると街道が整備され、2宿を合わせて野木宿となった。慶長7年(1602)には本野木・新野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596~1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。

 宿の規模は、天保14年(1843)では、次の通りである。
 宿の長さ  22町27間  家数 126軒 一里塚 1か所
 宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25匹 高札場 1か所
 宿高 286石 うち囲人馬 5人 5匹 旅篭 大 0軒
 地子免許 3,600坪 本陣 1軒 中 2軒
 人口 527人 脇本陣 1軒 小 23軒
  男 271人 問屋場 4か所
  女 256人 (「日光道中宿村大概帳」)

 野木宿は小さな宿場町だったので、街道が整備され、通行量が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をてすける助郷の村々、23か村が野木宿に割りあてられた。勤め高は合計7,384石余りであった。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。
                                        野木町教育委員会


満願寺(12:11)

 その先左手に「満願寺」を見る。門柱左手に柱2本の屋根付きの「十九夜」塔がある。銘は「元治紀元甲子三月」とあるので、1864年の元治元年と判る。

浄明寺(12:15)

 信号二つ先で愈々宿はずれかと思われる所が新野木への入口で、左手に「清光山浄明寺」があり、ここにも先ほどの満願寺と同様に入口左側に柱2本の屋根付きで嘉永5年(1852)建の「十九夜」の供養塔がある。安産・子育て祈願のための月待供養塔だが、旧暦2月・11月の19日に集まり、19夜月を拝みつつ燈明・線香等をあげ、念仏を唱えた名残である。いわゆる陰暦、月を中心にした当時の生活振りの象徴だが、甲州街道筋などでは殆どが二十三夜塔だったが、この辺りは十九夜塔が多いらしい。この先の野木宿が終わる辺りの左手にある「観音堂」にも十九夜塔があった。

 その十九夜塔の後ろに「□□観音菩薩」と刻まれた風化した石仏塔があり、右手には、したに三猿が陽刻された「青面金剛」と「十九夜供養塔」が建っている。

野木一里塚

交差点向こうの民家の生け垣の中に、江戸から17番目の「一里塚跡」と記された小さな看板があるとのことで注視していたが見つからなかった。

 その先の野木町松原という地名の辺り、道路案内に東京から65km、小山へ12kmとある。古河宿内散策で時間を食ったせいもあるが、まだ、12kmも残っているかと思うと、足のみならず器も気も重くなりそうだ。野木町は広く、どこまでも続く感じで、途中、所々に馬頭観音があるほかは、単調な国道歩きが続く。

道標・石塔(12:24)

 左手歩道の石塀外に古い石の道標「是より大平山」が建ち、脇の電柱横に、「道標 『是より太平に到る』と記されかつては日光への裏道」と記した立て看板がある。例幣使街道の栃木宿太平山に抜ける道らしく、日光道中の裏道になっていたようだ。

 12:26、その先左手の空き地の奥に小さなお堂があり、お堂に向かって左前に石塔が大小5基程並べられ、一番大きい供養塔の左側面には、「下野国都賀郡野木町」と刻まれている。いずれも江戸時代の石塔群である。右前にも二本柱の屋根付きの石造物があった。

昼食(12:28~12:50)

 漸く国道左脇で「佐野らーめん」の幟を見つけ入店。簡単に和風のかつお味つけ麺で腹の虫を癒やし、小山宿へと再出発する。

野木宿と大きく離れたJR野木駅

 「野木町松原」の交差点を13:01に通過する。その先は「友沼」交差点で、ここを右折した東南方面にJR東北本線の野木駅があるが、野木宿とは大分離れている。昭和38年に開設された比較的新しい駅である。宿場からは遠く離れた所にある駅で多分その近くと思われる所に高いマンションが建っている。

法音寺(13:36)

 次の「(野木町)役場入口」信号の300m程先左手に真言宗豊山派の「地蔵山法音寺」がある。応永2年(1395)創建の古刹で、仁王像の厳めしい山門を潜ると裏側には、本堂に向かって右手に多聞天と持国天、左手に廣目天と増長天の各像がある。
 境内には、四国八十八ヶ所御砂踏み霊場や安永9年(1780)建の芭蕉句碑がある。「道ばたのむくげは馬に喰われけり」と刻まれている。芭蕉はこの先間々田宿にも泊まっているが、この句は、その5年前東海道の金谷宿で詠まれたものである。それが何故ここに?
 このほか、境内には二十三夜塔や十九夜塔もある。
 この法音寺の境内から西側一帯は「思川」の左岸河岸段丘上で、戦国時代には小山城主小山氏配下の菅谷氏の「法音寺城」があった所だそうだ。思川流域には祇園城主小山氏の一族や重臣たちの城がいくつも築かれているが、この法音寺城もそのひとつだった。境内西側のゲートボール場が城郭跡で、土塁と空堀が残っている。土塁の高さはそれほどでもないが、空堀は相当の深さを保っている。平地の城館でありながら、これだけの遺構を残しているのに法音寺城に関する情報は殆どないそうだ。
境内参道は両脇にピンクの花が咲き、桜花共々実に綺麗である。右手には何の説明書きもないが馬屋門を大きくしたような立派な門が建っていたが・・・

■友沼八幡神社(13:45)

 法音寺の先の交差点を渡った右手に、友沼村の鎮守「友沼八幡神社」がある。「将軍御休所跡」の解説板が前に建っているが、古河から日光に向かう途中最初の休憩所だった由。筑波山が正面に見える景勝地だったようだ。
                    
友沼八幡神社「将軍御休所跡」
 元和二年(1616)徳川家康が没すると、これを駿河の久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へ改葬した。
 東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
 将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで一九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参から行列の規模も拡大された。
 社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。それとともに昼食・休憩の宿や寺社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた霊もった。
 友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止をした場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
 ところで、近世における八幡神社は「日光道中略記」によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年(1616)に別当満願寺の支配がはじまるから、八幡神社も早くはこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっているとすれば西運庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(1804~17)の宿駅のようすを描いたといわれる「日光道中分間延絵図」では運西庵となっている。
 八幡神社からの眺めはすばらしく、「日光道中略記」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
 肥前国平戸藩主松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
天保十四年(1843)四月、「続徳川実記」によると、一二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所まで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。
                    平成三年三月二十五日
                                        野木町教育委員会


 再び次の「間々田宿」を目指して歩き始めると、長かった野木も終わり、13:52小山市の乙女集落に入る。

網戸(あじと)渡船場道・馬頭観世音(13:55)

 乙女集落に入ってすぐ、友沼八幡神社からなら500m先位の左手にある。「網戸渡船場道」は江戸時代初めからあり、河岸から思川を渡って右岸沿いに北方の網戸へ向かう道である。
 文化10年(1813)銘の道標を兼ねた馬頭観世音の台座には、「これより左 乙女河岸 あじと とみち さのみち」と刻まれている。

 乙女河岸はこれより上流、現在の乙女大橋(県道50号)より少し下流辺りだったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前の上杉討伐の際には物資の陸揚げ場所になり、有名な「小山評定」の後に家康が江戸へ急遽帰陣の折の乗船場にもなった所である。家康の死後は日光東照宮への造営資材の陸揚げ拠点となり、小山宿経由壬生街道で日光へ運ばれた。そこには3軒の河岸問屋があったという。後世の鉄道開通迄は、日光の御用荷物のみならず諸藩のや商人達の荷物、周辺農村からの年貢米積み出しなど、江戸期を通じて重要な河岸として機能し、高瀬舟による水運拠点として利用されていた。

乙女一里塚

その150m程先の左手にある祠(13:58通過)の辺りと思われるが、何の表示もない。日本橋から18番目の一里塚である。
この先、後出の「佛光寺」の手前100m位の所まで、旧道は国道4号の左側にあったが、失われているので国道を進んで行く。

若宮八幡宮(14:01)

 その先左手に若宮(寒沢[かんざわ])八幡宮があり、大日如来坐像が戸外に安置されていたが、平成10年に鳥居の右手に覆屋が建てられ、現在では屋内にある。
                    
大日如来坐像
 宝永六年(1709)に鋳造されたもので、武州江戸湯島渡部九兵衛が施主となり、その父母の供養のため、その生国である下野国都賀郡寒沢の地に安置したと伝えられる。
 かつては背面に光背があったと思われるが現存しない。尊容が整っており当時の人々の信仰がよくうかがえる。
 また、戸外に安置されていることから「濡れ仏様」と呼ばれ、親しまれている。
   指定年月日 昭和四十六年十月五日
   所 在 地 小山市大字乙女九一三番地
   所 有 者 満福寺
                              小山市教育委員会


佛光寺(14:17)

 暫く歩いた先の右手に、山号を「繪唐山」と号し、2代将軍秀忠から10石の寺領を与えられた佛光寺がある。参道を入った右手に地蔵菩薩堂があり、左に大正十一年銘の「十九夜」塔と、文久元年四月銘の「十九夜供養塔」があり、この辺りは「十九夜信仰」が盛んだったことを照明している。

 街道左手には250m程入り込んだ所に「乙女八幡宮」があり、参道には市指定文化財になっている元禄16年(1703)建立の鳥居が2基、正徳元年(1711)の手水石があるが、こちらへの立ち寄りは省略した。。

ま た、その先県道50号線を西(乙女大橋方向)へ400m程行き、市立博物館の北に「馬頭観世音」があるが、これも立ち寄りは省略した。文政6年(1823)造立の道標を兼ねたもので、台座には「右 山川 しもつま もろ川、左 まま田 小山 いうき」と刻まれている由。

乙女不動原瓦窯

 その先、「間々田駅入口」交差点から左折400m程の右手に「乙女不動原瓦窯跡」があるが、これも立ち寄りは略した。奈良時代に日本三戒壇の一つであった下野薬師寺建立に際し、瓦を製造・供給した瓦窯跡で、発掘調査の結果4基の窯跡・灰原・粘土採掘坑などが発掘され、国指定史跡になり、現在は「乙女かわらの里公園」として整備され、南隣には小山市立博物館がある。

間々田宿

 間々田宿は、元和4年(1618)に宿駅になった。本陣1、脇本陣1、旅籠50軒があり、土手向町、上町、中町、下町と四町で構成されていたが、東照宮を敬い日光方面を上町にしていた。
 小山宿谷新田宿と共に奥州諸大名の参勤交代路であると同時に、壬生通りの飯塚宿を含め日光参詣諸大名・旗本達に利用されていた。

小山市立車屋美術館・小川家住宅(14:33)

 突然街道右手に人だかりがしている所があり、立ち止まってみると、何と昨日オーブンしたという「小山市立車屋美術館・小川家住宅」があり、休日のこととていっぱいの人だかりである。
市制55周年記念 小山市立車屋美術館開館記念「小川家コレクション展」が開かれ、入って右手に展示室、左手奥に資料室、左手手前が入母屋・平入りの木造二階建小川家住宅で、車屋というのは小川家の屋号のようだ。窓ガラス越しに沢山の見学者が小川家住宅内を見て回っているのが見えたが、我らは先を急いでいるので早々に退散して、次に向かう。

逢の榎(14:40)

 左手にセブンイレブンを見た次の信号の右手先に、榎があり、石碑には「逢の榎 江戸へ拾八里、日光へ拾八里 古ゝにあ里き」とあり、解説板も建っている。
 ちょうど中間位置にあるため「間の榎」呼ばれていたのがいつしか「逢の榎」に変わり、祖師堂が建てられて縁結びの榎になったという。
 村谷氏と一貫して2人旅を続けているこの街道歩きも、いよいよここから後半に入ると思うと感慨深いものがある。
                    日光街道中間点 逢の榎
 元和三年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、二十一の宿場が設けられました。
 宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
 間々田宿は、翌年には宿駅に指定され、江戸及び日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(約七十二キロ)の中間点に位置していました。
 天保十四年(1843)、間々田宿には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
 また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
 間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間(あい)の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
 この榎は、いつの頃からか「逢の榎」としてよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。

龍昌寺(14:45)

 中に入ると朱色の山門、カラフルな「寝起不動尊」の不動堂、威風堂々の本堂があり、一風変わった印象の寺院である。慶安4年(1651)に徳川家光の遺骸を日光廟に葬送の途中、当寺に遺骸安置所が設けられており、次の様な由来碑が建てられている。

 
徳川三代将軍家光公(大猷院)は、慶安四年(1651)四月二十日示寂、上野寛永寺より同年四月二十四日、御霊棺奉行酒井讃岐守源忠勝以下数百名の行列により、御尊骸を日光山へ送葬途中四月二十六日当山に一夜御宿棺、四月二十八日日光山へ御到着になる。是故にご朱印七石を賜る。
                              平成元年八月      龍昌廿八世 謹立


 また、本堂左手には、「
徳川三代将軍家光公 大猷院殿贈正一位大相國公尊儀 霊棺御一泊之碑」という黒御影石の石碑が建てられている。

 「寝起不動尊」の不動堂には、次の様な額が二つ懸けられている。
                    
お不動様
 詳しくは、大聖不動明王と申し上げ、青黒い忿怒の面相凄く、火焔を背負って大盤石上に立ち、右手に降魔の利剣を立てて握り、左手には悪逆無道を繋縛(しばる)する羂策(丈夫な縄)を持ち、赤或は褐色の袈裟をつけられ、一見洵に恐ろしい感じの荒明王様ではありますが、偉い上位の仏様をお守りする八雲引き受けておられる。普通、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦童子の二童子を従えておられる。

                    寝起不動尊縁起
 当山の寝起不動明王は、むかし水戸城内龍江院に祀られてありましたが、元亀(1570~1572)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に立たれた。然し和尚は老弱であり日毎に衰弱がひどく、当地に辿りつくと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには、「この地こそ我が済度化縁の地なり、人々の病難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と和尚は寝起され、思わず尊像をお拝すると疲労と病が一時に消えて杖も使わずに立ち上がれたという。そこで人々は寝起(ねおこし)不動尊と呼んで、万難消滅、万福生来を祈願してお堂を建てて尊像をお祀りしたといわれる。それ以後三十三年を一期として御開帳祈願が行われている。現在のお堂は延享二年(1745)に建てられたものです。

 なお、江戸時代、当寺の住職が間々田八幡宮の有名な「蛇祭り」を発案した由である。(後記の「間々田八幡宮」の項参照)

問屋場跡(14:56)

 国道4号の東京から72km地点、「間々田」信号の50m先「足利小山信用金庫」の向い(左側)に墨字書きの解説板が建っているが、中身は紹介するに値しない。

本陣・脇本陣跡(14:58)

 その先100m地点に、同じく墨字書きの木製解説板が建てられているが、中身は特記する程のことはない、位置の特定もなされておらず、中途半端な感を免れない。

間々田八幡宮

 街道から400~500m程離れているのでパスしたが、関東の奇習蛇祭り(じゃまつり)で有名の由。例年5月5日(元は旧暦の4月8日)の蛇祭りは栃木県の龍蛇信仰の代表的な祭りで、竹や藁、藤蔓等で作った長さ15~20m程の蛇を子供達が蛇が巻いた(ジャガマイタ)と囃しながら練り歩き、最後に八幡宮の池に蛇と共に飛び込むという。

---「本人がご挨拶に参りました」の拡声器の声でふり返ったら、ご当地を基盤とする民主党の山岡賢次が窓から笑顔を出して手を振ってきたが、43年前に同じ職場にいた我々だとは気づく訳も無かろうが、総選挙近しということか、愛想良く通り過ぎていった。---

浄光院(15:03)

 その先「間々田4」信号の先左手にある。以前は阿弥陀寺と称したといわれている。本堂は安永4年(1775)の再興と伝えられ、境内には観音堂や江戸時代の石造仏などがある

 その250m位先から国道4号は右へ緩やかなカーブとなる。旧日光街道は真っ直ぐな道で数十m程4号線から左に離れていたが、現在は宅地などになってしまっており道がないのでその侭4号線を歩くことになる。

間々田一里塚

 国道右手にある「間々田郵便局」辺りに日本橋から19番目の一里塚があったが、現在は何の痕跡も残っていない。

千駄塚古墳

 15:20、消え失せた旧日光街道は、4号線と別れてから約900m先の「千駄塚」信号交差点で再度合流していたが、そこから200m程先の左側に「千駄塚古墳」の標識があり、左横道の奥にこんもりとした森が見えるのが「千駄塚古墳」だが、立ち寄りはパス。直径約80m、高さ12m程の円墳で、内部は未調査らしい。頂上には「浅間神社」が祀られているとのことである。

消えた旧道変わりに単調な国道&県道歩きで「小山」へ

 単調な道を約600m程歩くと、県道33号と交叉する「栗宮南」交差点となる。この辺になると右手のJR東北線や東北新幹線が近づいてくる。更に進むと、前方に「左4号線黒磯・宇都宮 直進265号線小山市街」標識が現れる。本来の旧日光街道はここでも分岐点の約400m手前から4号線と別れ左側を直進し、右手の県道265号線と並進することになるが、失われた旧道の補完として、その侭4号線から265号線へと「粟宮」信号で分かれて進む。
 4号線と別れ、約800m行った地点で旧日光街道は265号線と合流する形となり、更に進むと直進小山市街の標識と、前方に国道50号線の横断道路が見えてくる。
 国道50号線を越えると、小山市街に入り小山宿に向かうことになる。

小山宿

 小山宿は元和3年(1617)に宿として成立し、北関東の交通の中心として発展した。宿の長さは南北約1.4kmに及び、天満宮(天神町1丁目)辺りから、天翁院の入口(本郷町2丁目)の辺り迄町並みを形成する宿場だった。天保14年(1843)の記録では、人口1,392人、本陣1、脇本陣2、旅籠74軒で、旅籠の数は多かった。
 平安時代には下野国都賀郡の11郷の1つで、宿場町として栄える前は小山氏の本拠地で小山城の城下町であった。小山城は、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷を祖とする小山政光の久安4年(1148)築城に始まり、その後第11代義政が城内に祀っていた祇園神社に因んで「祇園城」と改名した。
 その後小田原北条氏の支配下に入ったが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏滅亡と同時に城を追われ、約450年続いた小山一族の幕が閉じられ祇園城も廃城となった。
 川の時代に入ると、慶長13年(1608)から元和5年(1619)迄に小山藩主本多正純(後に加増され宇都宮藩主になり、失脚)が城下や小山宿を形成した。

 小山市内は、古河市に比べて町が大きいということもあろうが、町の佇まいが殺風景で、宿場町の雰囲気は皆無である。古河が100点なら20点だろう。歩く人間のことは何も配慮されていないとしか言いようがないし、史蹟に対する対応レベルもかなり低いと見たのは我一人か!?

小山一里塚

 日本橋から20番目となる小山一里塚は、左手の小山天神郵便局から更に300m位進んだ右手にある「大塚第三ビル」の場所だったらしいが、何の表示もなく、寂しい限りである。前に「宮本町」バス停がある。

持宝寺(16:22)

 その先の交差点を左折した一本西側の通りの東南角にあるが、名前が思わせぶりなので立ち寄ってみた。宝亀3年(772)、弓削道鏡の開基と伝えられる寺院で、曾ては御殿付近にあったが本多正純による小山城改修により現在地に移転され、享保13年(1728)、8代将軍吉宗が日光社参の時に休息したという。
 元々は、元和8年(1622)将軍秀忠社参の折、日光街道筋に12ヵ所の御殿が社参時の休憩施設として設けられ、ここ小山では「小山御殿」が設けられ利用されたが、古河藩の財政難のため天和2年(1682)に解体され、以降はこの持宝寺が小休所として使用されている。
<参考> http://www.city.oyama.tochigi.jp/cgi-bin/odb-get.exe/0601101-7.pdf?wit_oid=icityv2::Content::4816&wit_ctype=application/pdf&wit_jasminecharset=SHIFTJIS

 境内左手の囲いの中に梵鐘が鎮座しており、横に次の様な解説板がある
                    
工芸品 梵鐘
 (前略)
 寛政四年(1792)に佐野天命鋳物師三木平右衛門藤原光長が鋳造しました。戦前に作られた梵鐘のうち、市内に残っているのはこの一口だけです。
 銘文中に「当寺者人皇四六代孝謙天皇弓削道鏡廟塔」と天皇の名前が刻まれていたため第二次世界大戦中の金属供出をまぬがれたといわれています。
 また、文中には、近郷の寺々や檀家の名字なども多数刻まれており、歴史資料としても貴重です。
   総高  一四三cm    口径  七五cm (以下略)
                                        小山市教育委員会

 物騒な世の中、こんな置き方をしていて盗まれる危険性は感じていないのだろうかと、他人事ながらながら気がもめる保存方法に思えるのだが・・・

脇本陣跡(16:34)

 街道に戻ってさらに北進する。交差点を渡った右先に「塚本耳鼻咽喉科」がある向かい側(街道西側)に「明治天皇御駐輦之碑」と刻まれた古い自然石の碑と、「昭和九年七月建設」と左面に刻んだ「明治天皇小山行在所」の石碑が空き地に建っている。ここが脇本陣の跡らしい。空き地の奥には前面板塀囲いながら、それらしい形の玄関屋根の旧家が見え、その証と見た。

常光寺(16:38)

 その角を東に向かい、駅傍(西口)にある浄土宗の「常光寺」に行く。寺伝によると、応長元年(1311)に念仏堂として開創された寺で、山門を入った左手に鐘楼、右手に六地蔵がある。二十三夜堂は町内の氏神として信仰された。明治22年(1889)から20年間ほど、「小山町役場」が置かれていた由。
 市指定文化財の寛延元年(1748)作の青銅製阿弥陀如来像の台座後部には、戊辰戦争時に大鳥圭介軍の流れ弾が当たったと伝えられる弾痕痕があるのを確認した。傍らの解説文は次の通りである。
                    
阿弥陀如来坐像(彫刻)
 この青銅の坐像は、一般衆生に永遠の救いをもたらすために、寺の入口に安置されたものであったが、明治年間に本堂改築にあたり、二十三夜堂前に移し現在に至っている。
 坐像面相は、やや面長で豊かな両ほほに張りがあり、衣紋の線は比較的深く安定感がある。印相は法界定印で江戸時代の鋳造仏特有のひざの張りが大きく、均整がとれている。背面、並びに八葉の蓮台の正面等に供養する法名が記載されて、当時の阿弥陀信仰の様子を如実に表現している。
なお、戊申の役の際慶応四年(1868)四月十七日に幕府軍の流弾が座像の台座後部に命中し、今もその傷跡をとどめている貴重な歴史資料である。
     指定年月日 昭和五九年四月二日
     所 在 地 小山市中央町三丁目十一番二十八号
     所 有 者 常光寺
                                        小山市教育委員会


 また、大樹の下に下記石碑あり。
                    
頌樹の辞
 凍天の夜半 廿三夜堂突如火焔に包まれ 折柄の寒風に煽られ本堂将に延焼せんとす 時に昭和七年旧正月二十三日なり
 本堂庭前のこの老樹 全身火勢を浴び 繁茂せる青葉は枯縮し樹幹より水液を滴らし業火を障除す 火漸く消火に当り古刹幸に祝融火災を免る 誠に有難きかな 老樹満身創痍となるも 若し茲樹なかりせば 本堂は烏有に帰し回禄の累町家に及びたるべし 老樹春光に再生新緑再び復活したるも 遂に半身に受難の残跡をとゞめ当時の模様を語る 依って我等は老樹に深く感謝の意を表し 頌樹の碑を建立し 後世にその功を顕彰するものなり
                    昭和四十二年八月十六日
                                        常光寺檀徒有志


 表の塀外にも常光寺所有の民俗資料「十王図」十幅とか、民俗資料、彫刻資料等に関する解説板が建っていた。

ゴール

 本日は時間的に遅くなったので、16:50に駅近くの店に入り軽く打ち上げ、18:38発の湘南新宿ラインで帰路についた。 
 次回は小山市内の何ヵ所かの立ち寄りからスタートすることになりそうである。

日光街道餐歩
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