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日光街道餐歩
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2009.03.01(日) 日光道中第5回餐歩記・・・幸手駅~古河駅 

 幸手駅に9:24到着。ホームから見渡す周辺の景観は、いかにも田舎に来たという感のするのどかな雰囲気だ。東武日光線の開業は昭和4年(1929)だそうで、駅は旧宿場町の西南外れに設置されており、しかも市自体が県内40市中で人口最少(2008/10/1現在推計53,666人)というから無理もなかろう。身支度を調え、先着お馴染みの村谷氏がゲットしてくれた地元の観光資料を手に、同駅東口を9:30にスタートする。やや曇りがちではあるが風が無く、まずは有り難い。

ハッピーハンド(9:35)

 「幸手駅入口」信号で前回の街道終点に戻り、左折していくのが順路だが、直進して「東二丁目」信号方向への左側歩道に長さ約100m余にわたって「ハッピーハンド」なる手形のモニュメントが幾つも設置されている。「幸せの手→幸手→ハッピーハンド」という発想で、その年一番幸せだった人が市民投票で選ばれ、その手形が展示されているのだが、対象は市民ではなく、スポーツ選手や芸能人・宇宙飛行士ら、有名人ばかりである。
 モニュメントの一等最初には、その趣旨や経過が「手形」デザインと共に記されている。
             
ハッピーハンド 幸せの手まちづくり
 幸手は「幸せの手」、英語で“ハッピーハンド”です。
 幸手という地名は、慶長四年(1599)には一般的に使われていたことが確認されています。また、「幸」の字が全国3,232市町村名中に使われているのは、北海道枝幸町、愛知県幸田町、そして埼玉県幸手市の三市町のみです。
 この名称を誇りとして、昭和63年(1988)に幸手市商工会青年部が「手から手へ幸せを伝えたい」をキャッチフレーズに、幸手の地名をモチーフにしたシンボルマークを作成、社団法人幸手青年会議所がその年日本一幸せだと思われる男女を市民投票で選び、手形を寄贈願いモニュメントにしました。
 時移りて常に人々が求める幸せの末長かれとの願いをこめ、幸手という素敵な地名を先人より賜ったことを感謝しながら、幸せの手(ハッピーハンド)事業を通じて、素晴らしい地域づくりを目指して、幸手市、社団法人幸手青年会議所とともに邁進いたします。
                              1997年3月        幸手市商工会

 サインが上手すぎて読めないのも数点あったが、読めたのは次のような人たちだった。
<スポーツ選手>小谷実可子・鈴木大地・中畑清・野茂英雄・若花田・有森裕子・中山雅史・田村亮子・尾崎将司・福原愛・井上康生・高橋尚子・伊達公子・岡崎明美・原田雅彦・岡野雅行
<芸能人>宮沢りえ・えなりかずき
<宇宙飛行士>毛利衛・向井千秋

幸手宿

 本陣1軒、旅籠27軒、家数962軒、人口3,937人の幸手宿は、日光街道と御成街道とが合流し、更には筑波道が分岐する地点の宿場町として賑わった宿であったというが、脇本陣はなく、旅籠数もそう多くはない。しかし、人口は前後の宿に比して2倍以上であり、非常に多い。
 南から右馬之助町・久喜町・仲町・荒宿の四ヵ町から構成され、街道に面する敷地・建物の形状は、間口幅に対して奥行のある江戸時代の「短冊型地割」が今に継承されているのが特徴である。見逃してしまったのだが、街道筋「中一丁目(南)」信号手前左手の「永文商店」には奥まった店奥から店表への荷運び用レールが引かれトロッコも現役で残っているそうだが、こうした特殊な地割ならではの特徴と言えよう。

 当地には、日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、「田宮の雷電神社」(この後立ち寄る)に農業神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の地名はその「薩手」に由来すると伝えられている。また、雷電の神体を田の中の社に祭っていたことから「田宮」という地名だったのを元禄の頃、「幸手」に改名したという説もある。幸手の名称に関しては、慶長4年(1599)、当地にあてた手紙に「幸手領幸手町」とあり、400有余年前には一般的に使われていたらしい。

伝統の旅籠「朝萬(あさよろず)」旅館(9:46)

 その先左手にある文政2年(1819)創業の老舗旅館で、近代的な建物に改築済みの現在も旅館業を営んでいる。入館は遠慮したが、玄関の欄間には明治初期の宿泊者の宿泊札が掛けられ、それらの中には明治天皇行幸の折に随行した板垣退助や伊藤博文などの明治政府高官の札もあるほか、往時の『宿札』も沢山残っているそうだ。また、「怪談牡丹灯篭」取材のために来た三遊亭円朝も泊まっているとか。明治時代は木造3階建で、現在は超現代風建物に改築され、看板の「SINCE 1819」が印象的だったが、裏口には昔風の門も残っているとか。

問屋場跡・本陣跡(9:50)

 街道を暫く更に先に進むと三差路の右手先角に「中央商店街ポケットパーク」と記した横アーチ型看板のある小公園がある。ここが往時の幸手宿の「問屋場跡」で、詳しい解説板がある。
               
幸手宿 問屋場跡
 幸手宿は、江戸日本橋を起点に日光道中六番目の宿駅であり、また日光御成道との合流地点として知られています。
 幸手は、古代より欧州へ通じる道筋の古い集落でしたが、元和三年(1617)日光東照宮社殿の竣工を期に、幕府がその参道道として整備した宿駅です。
 ここは幸手宿問屋場跡です。近くには本陣(大名宿)があり、商店・旅篭屋・茶屋などが軒を連ね賑った所です。
問屋場は、公用私用を問わず旅人の世話・荷物の運搬、その他街道に関わる一切の事務を管理する役所です。この屋敷は街道に面し、間口六間一尺(一間は約一、八メートル)、奥行三十三間半、五畝一八歩(一六八坪)で、ここに問屋場・人足溜・馬小屋などの建物がありました。
 幸手宿の問屋場役は、問屋四人、年寄八人、帖付四人、馬指四人、見習一人、月行事四人の総勢二十五人で、年間休むことなく交替しながら業務を続け、人足二十五人と馬二十五頭の常駐が義務づけられた重責でした。参勤交代の大名行列の通過や、幸手宿商人が月々行う六斉市の二・七の日には、問屋場は特に混雑したものと思われます。
 問屋場脇の道は昔は狭い二間幅の道でした。今でも問屋場横丁と呼び親しまれ、昔日の問屋場が偲ばれています。
                          一九八七年三月    幸手市商工会

本陣跡(9:52)

 街道左手の鰻屋の前脇に、ここが幸手宿の「本陣」だった「知久家跡」だと解説しており、その右斜め方向に本陣があったらしい。商店、旅籠屋、茶屋などが周辺に集まり、賑わった宿の中心地だった。
               
幸手宿本陣 知久家跡
                                        幸手市中-八-十六
 知久家は、本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。
 明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約三十九m、奥行約八十mで、約千坪ありました。
                                        幸手市教育委員会

 現在は「中一丁目」三差路の左手前角にある“「義語屋」という割烹がその本陣跡”だという説があるが、その角までは約100mなので、間口39間(約70m)とニアイコールではある。

幸宮(さちのみや)神社(10:02)

 後記「雷電神社」に行くつもりが、左折点を道一本早まってしまい、偶然ナイススポットに立ち寄れたのが、知る人ぞ知る幸手のパワースポットにして総鎮守の「幸宮神社」である。
                    
幸宮神社本殿の彫刻
                                        幸手市中四-十一-三十
 幸宮神社は、創建から四百年以上の歴史を持つ古社で、幸手宿の総鎮守として信仰されてきました。
 現在の本殿は、棟札によると文久三(1863)年に再建されたもので、総欅の流れ造りです。正面扉の両脇に昇り龍・下り龍が刻まれ、本殿の周りには獅子・鳳凰・天邪鬼・鷹・松などが彫刻されています。獅子は左右一対になっており、阿吽の形をとります。
 また、田起こしから収穫まで、稲作の様子を順を追って描いた四季農耕の彫刻も見事です。
                                        幸手市教育委員会


田宮の雷電神社(10:11)

 街道に戻り、「荒宿」信号を左折して200m程入り、更に左折して50m程南下すると、「幸手宿」の項で触れた「田宮の雷電神社」がある。
                    
田宮の雷電神社
                                        幸手市中四-二十一-十
 中世の幸手は田宮庄または田宮町といい、その中心がこの神社で、日本武尊の伝説も残されている、幸手で最も古い神社の一つです。田の中に金色の雷神が落ち、これを祀り田の中の宮、田宮としました。
 雷神は、水との関係が深く、特に農家の人の信仰を集めました。
また社の裏には瘤神社・疣権現・疱瘡宮と書かれた石が建てられていて、皮膚病に悩んだ人々の、素朴な信仰の姿も見ることができます。
 この神社は、明治以前は幸手宿の総鎮守でした。
                                        幸手市教育委員会

・・・ということで、またまた「総鎮守」が登場してきた。なお、前記解説板文中の「疣権現」の石塔には、実際には「疣大権現」と「大」の字が入っていた。また、その左手の塚上には「御嶽山」、その周囲斜面には、猿田彦大神・稲荷大明神ほか数多くの石造物が並び、回遊して参拝できる感じだった。

聖福寺(しょうふくじ)(10:19)

 街道に戻る途中、次の訪問予定先「聖福寺」境内横の幼稚園入口から境内に入って参拝したが、由緒ある聖福寺がある。
                    
聖 福 寺
                                        所在地 幸手市北一丁目九番二十七号
 聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり観音像は運慶作と伝えられている。
 徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が十八回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の御紋の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎の作といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状により十石を賜ったことがわかる。
 境内の左手に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。
 その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人たちがこの碑を建てたものという。
 もう一つは、「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑の碑文は儒者で折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。
            昭和六十三年三月
                                         埼玉県
                                         幸手市

 将軍や例幣使休憩時の昼食メニューも残っているとか。
また、市指定文化財の山門は、菊の紋章入りの唐破風(からはふ)四脚門で、将軍と例幣使以外は通行できなかったそうだが、我らは隙間を潜ってそこから外に出て街道筋に戻った。その門に向かって左手には「御殿所勅使門」の石塔が威厳そのものといった風情で建っている。
                    
聖福寺勅使門
                                         幸手市北一-九-二十七
 この唐破風の四脚門は建造後、約三百五十年の歴史を有します。扉には菊の紋様が刻まれており、勅使門と呼ばれています。かつては将軍一行や例幣使(天皇が祭礼に送る使者)が来たときしか、開くことはありませんでした。
 ここ聖福寺は、日光東照宮に参詣した歴代将軍の休憩所であり、また東照宮例祭に臨席した例幣使も休憩をとりました。この勅使門は修理の手も加えられていますが、日光道中の宿場として栄えた幸手の隆盛をしのばせるものです。
                                         幸手市教育委員会


 また、街道筋に戻る参道左手には、解説板が埋め込まれた芭蕉と曽良の句碑がある。
          
幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
          松杉をはさみ揃ゆる寺の門 曽良
 江戸時代、門前の通りの二項か移動は、将軍の日光社参をはじめ、さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向かう文人、芸術家も多くあったことであろう。
 「奥の細道」の旅を終えた俳人松尾芭蕉は、四年後の元禄六年九月十三日、江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、欧州の旅を思いおこし、同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。
 時を経て、昭和六十二年四月十日付の新聞紙上、埼玉の俳人鈴木太一郎氏は、右二句を紹介しながら、芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を、聖福寺の勅使門として間違いなかろう
説を示された。平成十三年、日光街道四百年を迎え、同十四年、山門の改修工事が成り、併せてこの句碑を建立し往時をしのぶものとする。
                    平成十五年 秋彼岸
                                         聖福寺第二十八世 静誉康隆
   石碑の書体は、「芭蕉袖草紙」の原本を拡大複写して刻んだものである。

「幸手の一里塚」跡(10:23)

 その先の二叉路で街道はクランク状に右斜め先へとカーブするが、そのカーブする右路傍に「幸手の一里塚」跡の解説板があり、内容は月並みだが、ここにも街道両側に塚があったと記してある。

正福寺(10:24)

 右折する前に、そこを直進して「正福寺」に突き当たると、寛政12年(1800)銘の道標が出迎えてくれる。碑面には「馬頭観世音供養」と刻まれ、側面に「左 日光道中」「右 ごんげんどうがし」とある。これはその先にある利根川の「権現堂河岸」をいう。
 「正福寺」は直前に立ち寄った「聖福寺」と同音異字でおなじく「しょうふくじ」という。
 境内は古木も多く、実に落ち着いた佇まいで、近代的な建物の本堂にも拘わらず、歴史を感じさせる趣ある風情がたっぷり漂っている寺院である。
                    
正 福 寺
                                        所在地 幸手市北一丁目十番三号
 正福寺は、香水山揚池院正福寺と称する真言宗智山派の寺で、本尊は不動明王である。
 当山は、江戸時代学問の研究や弟子を養成する常法談林であり、当時この寺は四十九ヶ寺の末寺をもっていた。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜わっている。
 境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手町の有志二十一名が金品を出しあって、難民の救済にあたった。この善行が時の郡代伊奈忠尊の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。
 また、樹齢四五〇年、根まわり五メートルもある槇の大木があり、県の天然記念物に指定されていたが、惜しくも枯れてしまった。
 寺には、多くの古文書や仏像・書画が保存されており、境内には日光道中の道しるべもあり有名である。
                    昭和六十三年三月
                                        埼玉県
                                        幸手市

 なお、上記顕彰碑は山門を入って右手にあり、その撰文は江戸の儒者・松村延年である。

権現堂堤

 街道に戻り、右斜めに進んで次の信号のある二叉路で左の道へ行く。幸手宿ここで終わりになり、ここからは単調な歩きが暫く続くことになるが、いつの間にか雲が払われ、暖かさで暑ささえ感じるようになる。
 10:50「内国府間(うちごうま)」信号で右後方からの国道4号に合流し、その先「内国府間北」信号に達すると、右手前方から右手にかけて一面権現堂堤の桜木が壮観な舞台を披露してくれる。桜花爛漫の季節とも鳴れば、絶好の花見スポットになること請け合いの壮観な眺めである。やがて、「外国府間」の更に先の「行幸橋」で国道左手歩道から右手に渡ると「中川」から「行幸湖」につながる旧称「権現堂川」の右岸堤(権現堂堤)上に碑が数基見えてくる。河川改修の長い歴史の中で曾ての権現堂川は堰き止められ調整池と化しており、幻の川となった名残の権現堂川の堤が幸手の春のシンボルになっているのである。

明治天皇行幸記念碑など

 行幸橋と明治天皇行幸を記念した「行幸堤之」碑やその解説板、「明治天皇権現堂堤御野立所」などがあり、「行幸堤之」碑の下欄には行幸堤建設功労者の名前が末代までの名誉とばかり、ぎっしりと刻されている。
                   
 行幸堤之碑
 権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の気運が起こり、明治八年六月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光街道に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道四号線がその上を通っています)。
 明治九年六月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
 人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
 明治二十二年の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
 また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成十二年~十七年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。

 なお、この少し奥には「巡礼の碑」といい、享和二年(1802)人身御供になって堤の難工事を成功に導いた巡礼母娘を供養する碑があり、市の史跡に指定されているらしいが、パスした。

土手下の旧道

 橋を渡り終わるとすぐ先で、国道から離れ、左下の細い旧道に入る。この旧道は、厳密には国道になっている土手(権現堂堤)の直下の道で、国道と左手の東武鉄道日光線路との間にある細いのどかな道である。車も人通りも殆ど無い静かな田舎道を進むと、やがて正面が二又に分かれるが、そこに「外国府間(そとごうま)の道標」がある。

外国府間の道標(11:08)

 地蔵像のような陽刻の下正面に「右つくば道」と刻された、石の道標があり、横には解説板も建っている。
                    
日光街道の道しるべ
                                        幸手市外国府間六二六
 この道しるべは、安永四年(1775)日光街道と筑波道の分れる所に建てられたものです。
 昔の旅人にとって、この道しるべは街道を歩く際のたよりになったもので、大切なものです。
 この道しるべには、「左日光道」「右つくば道」「東かわつま前ばやし」と刻まれています。かわつまは、現在の茨城県五霞村字川妻、また前ばやしは、茨城県総和町前林のことで、筑波へ行く道順です。
 この道が日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていたのです。
                                        幸手市教育委員会

 この道標を見ていたら、近隣と覚しき暇そうな老男性が話しかけてきたが、そんなのどかな雰囲気の道である。この細い旧道はこの先栗橋宿で利根川を渡る所まで延々と高み(権現堂堤)上を通る国道にくっついたり離れたりしながらそれと並進していく。
 時折、国道に上がってみるが、国道は進行右手側にしか歩道が無く、旧道のある左側には、眼下に旧道があるためか歩道がないので、引き続き旧道を歩いていく。

雷電宮・権現宮(11:15)

 左手に、扁額に神社名が併記された「雷電宮・権現宮」の鳥居のある境内が見えてくる。右側に石造物が4基並び、一番手前から順に「?」「西国秩父坂東供養塔」「十九夜(女人講)」「3猿入りの正面金剛」である。街道歩きを随分やっているが、十九夜塔は初めて見た。紀年は「弘化二年(1845)十一月」だった。

 江戸時代には、子宝や安産を祈願するため、陰暦十九日の夜に若妻たちが集り、供物を供え念仏を唱えながら月の出を待つと云う行事(十九夜講)が盛んに行われていたらしいが、二十三夜塔や二十二夜塔以外の「十九夜塔」を実際に見たのは初めての体験である。
 弘化二年(1845)と言えば、明治維新から遡ること僅かに23年前だから、その時代にここに住んでいた女性達の思い伝わる感じさえする。庚申塔といい十九夜塔といい、昔は事ある毎に集落で寄り合いを持ち、運命共同体としての結束を図っていたのだろう。

 境内奥には、真新しい黒御影に刻した「雷電社湯殿社合殿竣工記念碑」があったが、平成13年の不審火による焼失に対する14年4月再建記念の碑だった。

 右手にある「外国府間」信号が右手の国道に見え、そこから旧道の上を道が横切っている下をトンネルで抜け、先へ進む。
 その先で、右手の国道に上がる階段があるが無視して通り過ぎ、その先で右の国道に合流し、またすぐ離れる。
 更にまた、その先で国道に合流して、すぐ離れる箇所がある。
 先ほどと同様に、国道の「小右衛門南」信号が見える所から旧道上を横切る道をトンネルで抜けると「栗橋町」へと入る
 その先にも、国道に登る階段や、国道を潜るトンネルが右手に見えるが通りすぎると、国道にくっついてまた少し離れて、国道と共に左カーブしていく。

小右衛門一里塚・弁財天祠堂(11:34)

 さらに進むと左手に、江戸から14番目となる「小右衛門(こうえもん)一里塚」木碑があり、解説板も建っている。
 塚の上には弁財天祠堂があるが、この弁天堂は、元は堤の上にあったものが国道4号線工事のために現在地に移されたものだと解説されているが、外見、特に屋根などは無惨な状態で、地域住民達から浮き上がった存在になっているように思われる。
 そろそろ空腹を覚えてきたが、それらしき店はコンビニ共々皆無の寂しい旧道である。

会津見送り稲荷神社(12:09)

 左折すれば「東武日光線南栗橋駅」まで約1.5kmという標識を見て直進し、東北新幹線を潜ったすぐ先の国道「小右衛門北」信号の少し先でまた旧道は左先にカーブし、「栗橋」信号手前でまた国道に合流するが、手前右手に、名物だった栗餅屋の柿沼家があり、庭横に「会津見送り稲荷神社」がある。
                   
 栗橋町指定文化財 会津見送り稲荷
                                        昭和五十三年三月二十九日指定
 江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩主江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるためこの街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現われて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
 また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困りはてたすえ、死を決意した時、この老人が現われ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
 のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。
                                        栗橋町教育委員会

 なお、本尊は、女性らしき人物が狐に跨っているという風変わりなものだとか言われるが、外からは見えなかった。

栗橋宿へ

 12:14に、この先で国道4号に出て、「栗橋」交差点で交わる国道125号線を越えて、その先で国道4号を離れて直角に左折、すぐ右折し、日光道中7番目の宿・栗橋宿へと入っていく。
 利根川の船渡し(房川渡し)の町として賑わった宿場で、関東の北側に対する江戸警備の要所として、また入り鉄砲などへの警戒から、日光街道で唯一関所が設けられていたところである。
 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、家数404軒、人口1741人だった。

 「栗橋宿」と次の「中田宿」はおよそ1.8kmと短く、利根川を挟んで2つの宿が隣接している。次項の焙烙地蔵から2~300m程先右手の「顕正寺」には、この栗橋宿を開いた名主・池田鴨之助の墓がある。池田鴨之助は幕府の命を受けて当地を開拓し、宿場に指定されてからは、代々本陣を務めてきた。詳細は後述。

焙烙地蔵(12:21)

 右折した旧道の右手にある。栗橋宿は日光道中で唯一関所があった所であり、関所破りの重罪人を火あぶりの刑に処した場所にあるとも言われているが、そうではなく、単に処刑された人を供養するために建てられたものだ、という両説があるようだ。
                    
栗橋町指定文化財 焙烙地蔵
                                        昭和五十三年三月二十九日指定
 むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取り締まっていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火ぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
 こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見うけられる。
 また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。
                                        栗橋町教育委員会

 「エボ」とは、「疣」の意味だと察するが、茨城県人の「い」と「え」の発音のまか不思議は先刻承知済みなれど、お役人の起案したこうした公文書にもそれが現れているのだとしたら、これはオタカラモノかも知れないと思ったりするのだが・・・

宿場通り

 街道は現代風の町並みが続いているが、古い寺(浄信寺・深廣寺)や落ち着いた佇まいの家並みも残っており、街道筋の面影が残っていて、落ち着いた雰囲気がある。やがて商店が建ち並ぶ宿場の中心になっても、素朴な宿場風景は変わらない。
 旧街道右手を並行する国道の右手には、栗橋宿を開いた池田鴨之助が開基という常薫寺があるが、向こう側なのでパスし、旧道右手の池田鴨之助の墓がある「顕正寺」とその前(左手)の浄信寺の先左手の「深廣寺」に立ち寄る。

顕正寺(12:25)
                    
栗橋町指定文化財 阿弥陀如来像
                                         昭和五十三年三月二十九日指定
 幡谷次郎左衛門尉信勝は水戸城より三十キロ南の地に城郭を構えて居住していたかが、出家して親鸞聖人の弟子となり唯信と名を改め同所に光念寺を建立し、十字の名号を本尊としていたが、同寺はやがて兵火にかかり焼失してしまった。
 その後下総国古河領中田神田村藤の森に聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来の木像を安置したお堂があったので、ここに引移り、これを本尊として寺号を幡谷山破邪院顕正寺と称した。十六代善了の時栗橋町の開発者池田鴨之助の招請によって慶長十九年(1614)寺基と阿弥陀如来像とをこの地に移した。
 その尊像は現在の中央本尊とは別に厨子に安置してある。立派な作で、仏像研究家も優作であるとの賛辞をおくっている。
                                         栗橋町教育委員会


                    
池田鴨之介の墓
                                        栗橋町指定史跡 平成三年五月十四日指定
 池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
 また、下総国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より顕正寺を移したといわれています。
 慶安元年(1648)十二月九日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
 池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、興四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。
 子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました。
          平成十九年三月                       栗橋町教育委員会


                    
真宗大谷派 顕正寺由来
 開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主、幡谷次郎信勝である。
 信勝は、亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。
 時は一二一四年(鎌倉期)宗祖親鸞聖人越後より稲田に移りて念仏の教えを説き広めるに出会い、聞法を重ね随喜して弟子となり法名を唯信「ゆいしん」と賜り、光念寺を念仏の道場として布教に努めた。
 下って天正十八年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、光念寺も兵火により焼失してしまった。
 難を逃れ、下総国中田(現・古河市中田)の阿弥陀如来堂に引き移り、ここを幡谷山破邪院顕正寺と改めた。
 十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の「菩提寺に」との招請により、寺基を慶長十四年(1614)この地に移し法義を継承して今日に到っている。
  法名碑は十六代善了より記した。


深廣寺(じんこうじ)(12:32)

 顕正寺の真ん前には「浄信寺」があり、そのすぐ先左手に100m程参道を入ると「深廣寺」があり立ち寄る。浄土宗の寺院で「無涯山単信院深廣寺」と称する。高さ2間にも及ぶ六角の石造名号塔が21基もL字型に整列しているのが壮観で、探訪・参拝すること数百には達する寺院境内において、こういうものを見たのは初めてである。配列図面付きで解説板が建っている。
 また、当寺二代住職だった単信上人(乗蓮社性誉上人単信演説内和尚)のことを記した、「単信上人像」と題する解説板も本堂前にあった。
                    
六角名号塔
                                 栗橋町指定有形文化財 昭和五十三年三月二十九日指定
 六角名号塔は、総高約三六〇センチ、一面の幅約五〇センチ、六面からなる石塔で「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。
 この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、承応三年~明暦二年(1654~1657)の間に千人供養塔を二十基建立、その後明和三年(1766)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立したものです。
 配置は左の図(注:掲載略)のとおりです。①から⑳千人供養塔、㉑が三千人供養塔です。なお、基礎部右側面の地名の表記が、承応三年七月までが「新栗橋」(①~⑧)、同年八月からは「栗橋」となっています。
          平成十八年三月                       栗橋町教育委員会


和菓子「静」と「とうりゃんせ」

 宿場通りの「栗橋町東三丁目」信号の先右手にある和菓子店「志ほや」では、「静最中」「とうりゃんせ」等、街道縁の名の菓子を作っている。
 「静」とは、奥州平泉にいる義経の後を追った静御前がここで義経の死を知り、この地の高柳寺(義経の叔父が住職、後に光了寺と改称)で義経の菩提を弔いながら22歳の短い生涯を終えたことに由来しており、栗橋駅の前には、今でも静御前の墓がある。なお、高柳寺(改め、光了寺)はその後、利根川を渡った古河(中田宿)に移っている。(詳細は次項で詳説)
 また、「とうりゃんせ」は、往時、街道に馬を繋げて馬子達が土間で饅頭を食している間、馬には店で出た小豆かすと藁を混ぜた飼い葉を与えていたが、馬はその味を覚えていて、この店の前で立ち止まったことに由来してのネーミングだとか。
 土産に買い求めようかと店内を覗いてみたが、もう一つ感じるものが無く中止にした。

静御前の墓

 次の「駅入口」信号を左折して「JR栗橋駅」前(東口)にある「静女墓所」に向かう。ここがかつての高柳寺境内で広い一角が静女を祈念するエリアとして解説板も付され保存されている。碑面には「静女之墳」と刻んである。幕府医官・多紀元簡の「日光駅程見聞雑記」によれば、これは享和3年(1803)5月に関東郡代・中川飛騨守忠英によって建てられたもので、墓碑が建つ以前は杉の巨木があり静女の墓の目印になっていた。その後、昭和4年(1929)には義経の招魂碑が、昭和6年(1931)には頼朝に殺された男児の供養塔が建てられ、生前には遂に出会うことのできなかった一家が、栗橋の地で共に眠りについている。

 静女は、磯禅師(母)の娘で、京の白拍子だったが源義経の妾となる。文治元年(1185)、兄頼朝により義経が京を追われた時、静女も吉野に同行したが捕らえられ、鎌倉に護送される。翌2年、頼朝は静女を鶴岡八幡宮に呼び出しその舞を見物したが、義経を恋い慕った歌や舞に激怒し、両者の険悪の度が高まる。既に解任していた静女は文治2年7月、預けられていた安達新三郎宅で男児を産むが、頼朝はこれを由比ヶ浜に捨てさせる。この後静女は京都に返され、以後静女は歴史に登場しなくなり、いろいろな伝説が生まれる。
 文治4年(1188)に義経追討令が発せられ、翌5年4月30日の藤原泰衡によって衣川で襲撃を受け、もはや退路無しと見て妻(22)・娘(4)を害し、次いで自刃する。(吾妻鏡) これを信じなければいろいろな「生き延び」伝説に繋がる。

 巷間の伝説になるが・・・
 義経恋しさに、文治5(1189)年1月、奥州平泉へ向かった静女は、同年5月,下河辺荘高野(埼玉県杉戸町)に着くが、栗橋関所(当時は五霞町元栗橋にあった)の警戒が厳重なことを知り、八甫(同鷲宮町)を経て、義経の叔父が住職を勤める高柳寺(同栗橋町)に一泊し、更に北を目指して下総国下辺見(古河市)に辿り着く。
 ここで旅人から義経が既に討ち取られたことを聞かされ、静女は、奥州に行って義経を弔うか、それとも諦めて京に戻るか、迷った末に京に戻ろうと決めるが(一度は栃木県宇都宮市まで行ったという説もある)、愛する人の死に既に生きる望みを失っていた静女は、慣れぬ旅の疲れもあり病に伏してしまう。高柳寺で剃髪し尼になるが,数ヵ月後の同年9月15日、「九郎ぬし(義経様)・・・」の言葉を最後に 22歳で死去した・・・

 ここは今でも毎年、彼女の命日である9月15日の「静御前墓前祭」では追善供養が営まれ、10月第3土曜日の「静御前まつり」では、義経と静御前、そして白拍子などによる華やかなパレードが開催されているそうである。
 また春になれば、墓前の桜の木が花を咲かせ、これは「静桜(しずかざくら)」という珍しい品種で、4月20日頃に八重と一重の花が混じったように見える花をつける。原木は宇都宮市野沢にあり、義経の死を知った静が彼を弔うために植えたものだと伝えられている。

昼食(13:05~13:26)

 静女の墓を見終わってから、栗橋駅前で食事処を物色し、蕎麦屋に入店して「鴨之介」にあやかって鴨汁蕎麦を食した。

本陣跡(13:42)

 日光道中に戻り、再び栗橋宿を歩いていく。僅かながらも古い家並みが残り、各家には往時の「屋号」も表示され、宿場まちの佇まいが感じられる。宿はずれの右手にある本陣跡を探し当て立ち寄る。栗橋宿の開発者池田鴨之助の子孫池田由右衛門が本陣を勤めた。本陣の特徴である奥まった家の表札は「池田」となっており、向かって右手に解説板が建っている。
                    
本陣と池田鴨之介
                                        所在地 栗橋町大字栗橋三四三二~一
 池田鴨之介は、下総国葛飾郡小手指の栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞村)に、天正七年(1579)八月に生まれている。
 慶長十九年(1614)鴨之介が三十五歳のとき、徳川幕府の命により並木五良平と共に当地に移り、新田開発を行っている。その時、両名と一緒に下総国栗橋村から移り住んだ民家は四十五戸であったという。
 その後、当地は次第に街並みも整い、元和元年(1615)には元栗橋に対し新栗橋と称するようになった。池田家は元和八年(1622)徳川に代将軍秀忠が家康を祀る日光山東照宮に始めて参社の折、本陣となり以後、明治三年(1870)本陣の制度が廃止されるまで代々本陣を勤めている。
 池田家の墓は、鴨之介の古い石碑と共に顕正寺にある。
          昭和六十三年三月
                                        埼玉県
                                        栗橋町


八坂神社(13:44)

                    
栗橋町総鎮守 八坂神社 縁起
     御祭神 素盞鳴命
慶長年中利根川洪水ノトキ水溢ヲ防カントシテ村民等堤上ニ登リ居タリシニ渺々たる水波ノ中ニ鯉魚ト泥亀トアマタ囲ミ神鯉ト覚ホシキモノ流レ来レリ引キ上ケ見ルニ全ク御神像ニテ元栗橋ノ天王ナルコト集ヘル村民等モ見認得タリシカバ衆庶皆奇異ノ思ヒヲナシカカル乱流ノ何ニ傾覆ノ
患ヒモナク鯉魚泥亀ノ類囲テ當所ニ流レ来ル事ハ之レ神霊ノ然ラシムルトコロトナシ則爰ニ勧請ス
元和年中當地開墾栗橋宿ト称シ奥羽日光両街道ト定メラレ衆庶集マル為鎮守神社益々殷賑ス
                                                   新編武蔵風土記
               平成二年御大典記念
                                        栗橋町氏子一同
                                        宮司 染谷晴(火古)?
                                        彫刻 酒井鉱治


 関所が置かれていた栗橋宿の鎮守は素戔鳴尊、牛頭天王、豊受姫命を祭神とする「牛頭天王社」だったが、明治維新後に「八坂神社」と改称された。この神社は栗橋駅の北東約1.2km、利根川近くに鎮座している。社殿正面の扁額は「天王社」となっている。

 特に珍しいのが、一般の社なら狛犬のある場所に飛躍する鯉の彫刻が置かれていることで、それには「除災の鯉」(本殿に向かって右手)と「招福の鯉」(同左手)と掲げられてある。阿吽でちゃんと口の開き方にも差がある。この地方がいかに水と縁が深いかがわかるというものだ。浦和の調神社(つきじんじゃ)に、狛犬代わりに兎の口から手洗い・口濯ぎの水が流れ落ちる狛兔があったが、こちらのは狛鯉で、街道筋にはいろいろ面白い物があるもので、大変珍しい。

 また、この八坂神社境内の本殿左右には境内社が以下の如く多数あり、樹齢300年以上のケヤキもあって県の「ふるさとの森」に指定されている。
                    
栗橋町八坂神社社叢ふるさとの森
                                        昭和六十一年三月二十五日指定
 身近な森が、姿を消しつつある中で、貴重な森を私達の手で守り、次代に伝えようと、この者叢が「ふるさとの森」に指定されました。
 当社は、慶長年間の頃より鎮守の神社として祭られ、寛保二年(1742)に本殿は復興されております。利根川のすぐほとりにあり、春には桜の花が境内にあふれ、市街地の中にあって、町民にとって貴重な憩いの場となっています。境内には、樹齢三〇〇年のケヤキをはじめ、五十年以上の木が生育しています。
                    昭和六十二年三月
                                          埼玉県

 境内社は、本殿に向かって右手、奥から順に
     *稲荷神社
     *(同じく)稲荷神社
     *日吉神社・山王社(解説板有り)
     *浅間大神(石碑)
     *御嶽山神社
     *水神社・大杉大明神

 また、本殿に向かって左手、奥から順に
     *ご神木(解説板有り)
     *秋葉神社(石碑)
     *皇太神宮(解説板有り)
     *八幡神社(解説板有り)

 栗橋町には毎年晩春から初秋にかけて、利根川をハクレンが遡上してくる。ハクレンは戦時中に食料として中国から国内に輸入・放流された魚類だが、食用としては日本人の味覚に合うものではなかった。ハクレンは産卵の為に霞ヶ浦から川を遡り、日本で唯一利根川の栗橋町流域で大ジャンプを起こす。原因には諸説あるが、どれも定かではない。2004年度は何らかの原因でハクレンが大量に死滅し、遂には栗橋でジャンプが確認されなかったという事態が起きたという。「除災の鯉」「招福の鯉」は、おそらくそのハクレンのジャンプする姿を象徴したものとも考えられる。

栗橋関所跡碑

 街道に戻って、「栗橋関所跡」が国道の土手下にある。現在は大正13年建立の石碑が利根川堤防上にあり、関所の模型が総合文化会館イリスに展示されているそうだ。
 この後、「関所番士屋敷跡むを探したが、見つからなかった。土手道の新道に出て、利根川に架かった二本の橋の左手(上流側)を渡る。車は一方通行になっている。
                    
栗橋関所跡『房川渡し中田・関所』
                                   埼玉県指定旧跡 昭和三十六年九月一日指定
 江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。
 栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで、「房川渡(ぼうせんわたし)中田・関所」と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
 関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲で勤めた。
 関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の 発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。
                    【房川渡の由来】
 往古、奥州街道は、下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋村)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の乗船場を『房川渡・栗橋』と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで、街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ『房川渡・中田』と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺という法華坊があり、『坊前の渡し』と呼んだことから、坊前が房川と記され、川と渡しの名になった。
                              昭和六十年七月
                                        埼玉県教育委員会
                                        栗橋町教育委員会

 この解説板には将軍の日光参詣のときに特別に設置された船橋の絵がある。川に51艘の船を並べ、その上に板を渡して橋としたもので、3ヶ月かけて造っても、将軍の日光社参時だけの船橋で、用済み後はすぐ取り壊されたそうだ。
 また、関所には当時、番士は4人、2組に分かれ5日毎に交代で勤務し、関所の規模は約680㎡の番所があった。これは箱根の関所とほぼ同規模で、幕府が北からの警護に力を入れていたことがわかる。

 現在では、当然「利根川橋」で渡るが相当長い。車は多いが、歩道が広いので苦にならない。橋の中間付近に「茨城県古河市」の標識(14:06)があり、カメラに収める。遂に僅かな区間ではあるが茨城県に入り、更に先で栃木県へと入っていく訳だ。

中田宿

 「利根川」を「利根川橋」で渡り、最初の信号で川沿いに左折し、往時の船着き場後から北進する真っ直ぐな一本道の旧道へと右折すると、往時の下総国の中田宿、日光道中第8番目の宿場だが、利根川の河川改修によって、現在は土手の下に移動した中田宿二世である。
 以前の中田宿の殆どは現在の利根川の河原と堤の下となり、ゴルフの練習場にしている風景も見られた。
 なお、中田~古河地域は、現在は茨城県になっているが、以前は下総国(千葉県)だった。明治8年に、下総の内、利根川の北側地域が茨城県に編入されたためである。また、この中田宿は田山花袋の「田舎教師」の舞台となった遊郭があった所でもある由。
                    
中 田 宿
 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上井坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継き立て業務も毎月を十五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたる、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保十四年(1843)の調査では、栗橋宿四〇四軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。
     平成十九年一月
                                        古河市教育委員会


鶴峯(つるがみね)八幡神社(14:23)

 旧道は、利根川橋を渡って北進する道を行くと、左手に鶴峯八幡がある。当社には、古河市無形文化財に指定されている「永代太々神楽(えいたいだいだいかぐら)」が伝承されており、境内左手に神楽殿がある。境内右側には神輿の保管庫があり、外からガラス越しに覗き見ることができる。
                     
鶴峯八幡神社の由緒
 鶴峯八幡神社の祭神は、誉田別命、経津主命の二神である。創立は養和元年(1181)八月であり、香取宮と天福二年(1234)九月合社相殿となる。
 当社は治承四年(1180)九月源頼朝が奥羽征討の折此の地に立寄り、軍利守護を祈願したところ、武運が開け御神徳を感じその宿願により、相模国鶴岡八幡宮の分霊を上伊坂(現在の中田)に勧請した。頼朝の侍従で鶴岡八幡宮の詞官高橋摂津守の次男鴨次郎吉元を初代官主と定め、後社名が鶴峯八幡神社となる。その時四町の地を以って境内地となし、その上、神領五百石上伊坂、下伊坂、松永、間鎌の地)を寄付せられ、周囲の村々氏子の人々の信仰を集めた。明治四十二年二月小中田香取宮を本殿火とリグウニ合霊し、稲荷社は、境内社丸山稲荷社へ合霊する。後明治四十四年九月、利根川河川改修時、河川敷地に当たるため、現在の中田大道西の地に移転鎮座する。その時、紅葉稲荷社を境内地丸山稲荷社に合霊する。


光了寺(14:29)

 その先、左手に真宗大谷派の「厳松山光了寺(栗橋から移転・改名前は高柳寺)」が見えてくる。門前左手には「祖師聖人並静女𦾔跡」の石標が建ち、右手には解説板があるが、文字が風化で部分的に読み取りがたい。

 元々は栗橋にあった静御前縁の高柳寺が、度重なる洪水や利根川東遷に伴い対岸の古河市中田に移転し、寺名を「光了寺」と改めた。ここには静御前遺品の舞衣や手鏡、そして義経が曾て叔父の住職に託した鞍などが伝えられている(拝観は予約制なので見られない)。特に有名なのが舞衣で,これは静が15歳のとき,京都神泉苑での雨乞いの舞で見事に雨を降らせたことから,後白河法皇から賜ったものと伝えられている。
 古河に移転後の今も、光了寺の境内は静御前が最期の時を過ごした地に相応しい落ち着いた佇まいを残している。
 元々は天台宗の寺だったが、約780年ほど前、親鸞上人の教えに随喜し、住職が改宗して弟子になり、後に東本願寺(真宗大谷派)を名乗った。真宗大谷派は、浄土真宗本願寺派と同じく宗祖を親鸞とし、教如が慶長7年烏丸に寺地を得て本願寺を創建、その第12世となり、それから次第相承し、現在に至っている。 なお、この辺りは真宗大谷派が多い。

松並木

 延々と歩いていると、若木を植えた松並木が街道両側の広い歩道にあり、感心すると共に、町並み保持に熱意のある地元に感謝したくなる。

熊沢蕃山(はんざん)墓と一里塚(15:23)

 更にまた歩いていると、右手にある「古河第二高校」の南西角の校庭内(歩道からは高台のフェンス内)に熊沢蕃山の墓と一里塚があるのを村谷氏が見つける。招請は事前に予習したつもりだったが、どういう訳か全くのノーマークだった。
 墓石には、「贈正四位 熊澤蕃山先生墓所 勝鹿村大堤鮭延寺墓地 右へ約五町踏切ヲ越シテ又右ヘ 紀元二千六百年九月十八日 先生二百五十年祭 爲記念 茨城県立古河高等女学校同窓会 木村伊之助」と刻んである。
 一里塚は校庭内に塚を造り比較的若木ながら3本ほどの木と白い木標が建てられているが、文字は「一里塚□□・・・道中」と遠すぎて殆ど読み取れない。

御茶屋口と御成道(15:39)

 これまた村谷氏の事前チェックで判ったのだが、街道左手で「史跡古河城御茶屋口門址」の石標と「御茶屋口と御成道」と題する解説板が建ち、傍に「街の見どころ案内所」があり、老男性が市内見どころ各スポットの解説文を掲載した小冊子(@¥100)を勧めてきた。案内所内に入って話を聞くと、市の予算がないとかで、観光案内ボランティア業もいろいろご苦労があるらしい。案内所の中には、徳川時代各藩の城番付(禄高一覧)とか、江戸城登城時の詰め部屋名一覧などが貼ってあり、これも例えば@¥600とか有料らしい。
 全く事前にノーマークだったが、古河城に関することも少しは判ってきた。「古河城」は、現在の茨城県古河市(下総国)の渡良瀬川東岸にあったが、戊辰戦争では、藩内の意見を勤皇派に統一して戦火を避けたものの、明治6年(1873)発布の「廃城令」によって廃城処分となり、建造物はすべて破却され、堀なども渡良瀬川関連工事で全て取り壊された。
                    
御茶屋口と御成道
 「御茶屋口」、旧日光街道に面するこの口の名前は、かつてこの地に存在したとされる「御茶屋」に由来している。それは日光社参(徳川将軍が神君徳川家康を祀る日光山へ参詣する行事のこと)に伴い将軍の休憩所として設けられたとされるが、江戸初期のごくわずかな期間に存在したと推定されるこの建造物について、今のところ、記録として残る略図以外にその詳細はわからない。
 ところで、徳川将軍の日光社参は江戸時代を通じて一九回おこなわれているが、古河城は、道中における将軍の宿城となることが通例であった。将軍の古河入城に利用された「御成」の入り口がこの御茶屋口である。
 そして、「御茶屋口」から続く将軍御成の道は、諏訪郭(現歴史博物館)を北側に迂回、その後、幅一八〇メートルに及ぶ「百間堀」を渡す「御成道」を経由して城内に至る。杉並木で飾られた「御成道」と城内との接点には、石垣で堅牢に守られていた「御成門」が将軍をお迎えした。[御成道推定図参照~転載略]
 なお、将軍休憩の御殿というべき「御茶屋」破却後、その場所の一角には、「御茶屋口番所」が置かれている。これは、古河城下を通行する格式の高い大名や幕府閣僚たちの挨拶に応対する役人の詰め所であり、明治維新を迎えるまで存続した。
                      平成二十年一月                 古河市教育委員会

 なお、通りには常夜灯型の案内標や交差する通りの名を刻んだ石標なども随所に設置され、古河市が「旧日光街道」を貴重な歴史遺産として対応している姿勢が感じられ、街道ウォーカーの一人として嬉しい限りである。

ゴール(16:00)

 本日はここまで、およそ16.5kmの街道距離+寄り道推定2.5km程度だった。「JR古河駅」に向かい、駅前で軽く打ち上げて帰途についた。