Top Page
日光街道餐歩
Back
Next
 2009.02.08(日) 日光道中第4回餐歩記・・・春日部〜幸手駅

 初回以来お馴染みの同行者村谷氏が既に先着し、改札口で待ってくれている東武伊勢崎線春日部駅に9:11降り立ち、身支度を済ませて9:16駅東口を出発。前回最終段階で立ち寄った「春日部市郷土資料館」でゲットした資料を、今日の粕壁宿散策では二人ともフル活用の予定である。

粕壁宿

 春日部は中世に「春日部氏」を名乗って当地に住み着いた武士団が台頭。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて、春日部重行(?〜1336)が後醍醐天皇に従い功を立てた。
 粕壁宿は、元和2年(1816)に日光街道第4番目の宿として定められた。寛永13(1636)年には東照宮が完成し、将軍、諸大名の参詣で街道筋の各宿場は一層賑わいを増す。江戸と結ぶ舟運として古利根川が重要な役割を果たし、米・麦の集散地として大いに賑わい、宿は米穀商、質屋、薬屋、など商屋、農家など159軒で、「新町橋」側から順に、横町、寺町、上宿、中宿、新宿、三枚橋、新々田、下宿の8つの字で構成されていた。本陣1、脇本陣1、旅籠45である。

 粕壁は、南北朝時代は「春日部」、戦国時代は「糟ヶ邊・糟壁」、江戸初期は葛飾郡糟壁、その後江戸中期頃以降は「柏壁・糟ヶ辺・粕壁」、その後埼玉郡粕壁となり、昭和19年粕壁町と内牧町の合併時に「春日部町」と改めている。元々春日部甲斐守実景という者に因むので春日部の字はそれなりに根拠があると言える。ただ、春日部市内の地名表記では、例えば「春日部市粕壁東一丁目」のような使い方が現在もなされている。

粕壁神明社(9:20)

 春日部駅前から一本左側の「神明通り」を少し北に入った右手にあり、神社の正面は南向きで、無人の社である。境内内には、「三峯神社」もある。
 本殿は小ぶりだが、フェンスの隙間から裏側に回ってみると社殿右手奥に石造物が5基並んでおり、最右手が歌碑らしいが判読不能、次が最も高く、地上2.3m位の「散留當ひこ乃碑」(猿田彦)で、碑正面に「散留當ひこ乃碑」、南面には「弘化三年(1846)丙午三月庚申立」とある。中央が文化3年(1806)銘の「猿田彦大神」、そして文化14年(1817)の「青面金剛」と続き、最後のものは判読不能だった。また、境内には、解説板が建てられている。
               
粕壁神明社
当社の御祭神は天照大神です。
天明年間(1781〜89)に地元の豪族九法四郎兵衛が竹藪の土中から厨子に入った神体と鏡が出てきたので祠を建てて祀ったのが当社の始まりであるという。
当社は、七月二十一日の例祭と十二月十四日の新穀感謝祭の年2回の祭が行われる。例祭は、かつて伝染病が怖れられていたころ、「疫病封じ」としてはじめられたという。新穀感謝祭は、明治以降は商売繁盛を願う祭となり、「春日部のお酉様」として大宮氷川神社の「十日市」に続く酉の市で、福熊手を売る露店が並び、多くの参詣者が訪れる。
当社は、元来は個人持ちの社であったが、やがて宿場の守り神として多くの人々の信仰を集めるようになった。氏子は、現在、上町、春日町、仲町の三町内で、ほかに「神明講」の人々も、年2回の祭典に参列している。
                                   粕壁神明社


粕壁宿歴史探訪マップ

 この後、街道をバックして、先述の前回ゲット資料「粕壁宿歴史探訪マップ」に基づき、宿内の史跡探訪を始めるが、本陣・脇本陣その他の史跡の場所はマップの上ではほぼ判っても、現地には何の表示もなく、立派な「春日部市郷土資料館」やこんなに素晴らしい資料との落差が大きく、アンバランスに感じられる。

脇本陣跡・・・三枚橋からやや南東の左手(現地に表示なし)

 幕末期の嘉永2年(1849)からは、本陣も勤めている。なお、粕壁宿は、江戸後期には火災などにより3回も本陣が変わっており、その点では特異な宿と言える。

小沢本陣跡・・・大きな「ロビンソン」の向い(左手)で少し先(現地に表示なし)

 見川本陣の後を受け、文化6年(1809)〜嘉永2年(1849)の間、本陣を勤めた。

関根名主家跡・・・その先右手(現地に表示なし)

 近世中期までの名主家のひとつで、近世では関根姓を名乗っている由。

碇神社(9:51)

 その先を右折して突き当たった古利根川河畔は往時の船着場だった所で、川沿いに右折した右手の草地の中にある小さな祠が「碇神社」である。鎌倉・室町時代には古利根川を上下する船の発着場だったので碇山と言われた所らしいが、寛元元年(1243)にお稲荷様を祀って碇神社とした由。ただ、昔は江戸と結ぶ大動脈だった水運も、鉄道や道路のなどの発達で船運の発着場としての存在加地が薄れ、この神社も顧みられなくなっていったと思われる。
 祠は先ほどの粕壁神明社と同様に小さいが、社前の「犬樟(イヌグス)」は存在感充分な大木で、解説板もある。
               
埼玉県指定天然記念物 碇神社のイヌグス
                         指定年月日 昭和三十年十一月一日
                         所在地   春日部市粕壁東二丁目六一二四ー三
                         所有者    多田キヨ
           現状 高さ  一二メートル
           根回り周囲 九.四八メートル
           目通り周囲 四.四メートル
 この木は、中部以南の主として海岸地に多く自生している暖地性常緑高木です。
 学名をタブノキといい、老樹の材に巻雲状の美しい模様の現れたものは、タマグスと呼ばれます。
 イヌグスという名は、クスに似ているがクすではなく、木質が劣っているところから、頭に犬の字をつけてこう呼んだものです。
 昔、粕壁宿は、米麦の集散地で、船運が盛んでした。帆掛船は、利根川を上り下りし、イヌグスのあるこのあたりは船着場でした。根方に祭られている祠を、碇神社と呼ぶ習わしも、そのようなところからきたものといわれています。
 碇神社のイヌグスは、樹齢六〇〇年といわれていますが、樹勢は極めて良く、イヌグスのうちでは巨木に属します。
                         昭和五十年三月二十五日
                                        埼玉県教育委員会
                                        春日部市教育委員会

関根本陣跡・・・街道に戻ってその先右手(現地に表示なし)

 近世中期の本陣で、関根助右衛門家。??〜宝暦4年(1754)の間、本陣を務めている。

田村本店(9:56)・・・その先右手

 蔵造りの老舗・田村本店の前の歩道に道標が建っているが、元は田村家の裏庭にあったもので、旧宿場通りを整備の際、表通りに移された由。天保5年(1835)銘で、「西南いハつき、北日光、東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれている。

多田名主家跡・・・その先左手の「春日部仲町郵便局」の裏手(現地に表示なし)

 近世後期の名主の一人で、時期は不詳だが、一時期は本陣も務めたとか。

追分道標(10:00)・・・街道に戻って右手先

 元は、「追分」(粕壁3-8-36山田半六商店前)にあったもので、天保五年二月銘があり、三つの面に「北日光」「西南いワつき」「東江戸」と刻まれている。

田村荒物店の蔵(10:01)・・・その先の角を右折した右手

 春日部駅からの道が日光道中と交わる右手前(南東)角に、「田村荒物店」があり、奥行きのある立派な土蔵が幾つも古利根川まで連なっている。先刻、前に道標のあった「田村本家」の分家である。
 昔は古利根川の水運が盛んだったが、駅から続く道路の整備の際に敷地を提供したり土蔵の一部を移設したりしているらしい。

粕壁宿の解説板(10:02)

 田村荒物店の角の信号を渡った右手に粕壁宿の解説板がある。
               日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳六年(1716年)に五街道の名称についての御触が出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和二年(1616年)に日光道中千住宿より数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永十三年(1636年)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わり頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「向屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋側より、横町、寺町、上宿、中宿、新宿、三枚橋、新々田、下宿の8つの字に分かれていました。


山中観音堂(10:04)・・・街道の少し先を左折してすぐ左(高いビルの左隣)

 近世後期の江戸談林系の俳諧師増田眠牛ゆかりのお堂で、都市計画に伴う道路事情により元の位置からは少し北に移っており、元の位置も判っている。増田眠牛は、六部姿で笈を背負って粕壁宿に逗留し没したと伝えられ、山中観音堂には辞世の句を刻んだ墓石も堂宇左手残っているが、句は判読不能である。
               
山中観音堂の由来
 山中観音は、もとは粕壁の山中というところに祀られ、多くの人々に親しまれていました。
 観音様の由来は、江戸時代の俳諧師増田眠牛によります。当時、眠牛は千手観音を背負ってこの地方を行脚していました。そして、粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになり、伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、眠牛はこの地で一生を終えました。眠牛を慕う人々は、その観音堂の境内に墓標を建て、千手観音を祀って信仰しました。大正時代までは、縁日に人々が集まり講を開いていました。
                               平成五年四月吉日

問屋場跡・・・街道のその先右手(現地に表示なし)

見川名主家跡・・・その斜め先前(左手)(現地に表示なし)

 近世後期名主の一人で、関根助右衛門の後、宝暦4年(1754)〜文化6年(1809)の間、本陣を務めた。

鍾馗様のある古商家(10:09)

 少し先の右手に、屋根上の台座に鍾馗様のある店がある。慶長年間(1596〜1615)創業の永嶋庄兵衛商店である。鍾馗様は中山道上尾宿にもあったのを思い出す。

高札場跡・・・その先の「新町橋西」信号の右向こう角(現地に表示なし)

 現在では交差点になっているが、江戸時代には三差路だったという。近くの新築マンション見学者のための案内人が角に立っていたが、もの凄い北風が吹きっさらしで、きょうの前途がやや心配になってくる。

山田商店

 「新町橋西」信号の角左先には、享保(1716〜36)頃から営業を続ける老舗「山田商店」が、幕末期の築で黒と赤を基調とした年代を感じさせる建物で残っている筈だったが、その角地から先の最勝院方向への大きな区画一体がビルに変わっており。さしもの歴史的建物は、また一つ消滅してしまっていた。この角「新町橋西」信号を右に行くのが日光道中で、直進して突き当りの最勝院前を左折すると岩槻方向になる。

最勝院(10:14)・・・その直進した先正面

 寄り道で直進した突き当たりが最勝院である。門には、丸を二つ重ねた春日部家の紋がある。因みにこの紋は、春日部市章にも取り入れられている。
山門を入ると左手には祠があり、その前の参道沿いに10基の石仏が配されている。
                    最勝院
                                   所在地 春日部市粕壁三三八
 最勝院は新義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。 最勝院のあるこの附近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて、最勝院のほか、妙楽院、成就院、王蔵院、普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を遺している。
 最勝院の本堂西側の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。
 春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどにより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任ぜられたが、のちに足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったとものといわれている。
 明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十二年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興行、各種の武道大会等にも利用された。
 また、明治二十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。
                     昭和六十一年三月
                                         埼玉県
                                         春日部市

上喜蔵河岸跡(現地に表示なし)

 「新町橋西」信号まで戻って北へと左折し、古利根川に架かる「新町橋」に向かうと、橋を渡る手前左手が「上喜蔵河岸跡」だが、現在は埋め立てられてしまい、僅かに往時の石積みが残っているらしいものの橋の袂からは全く見えない。

新町橋

 古利根川を渡る現在の「新町橋」は、江戸時代には「大橋」とか「粕壁大橋」などと呼ばれていた「板橋」であった。川幅はなかなかの者であるが、風がきつい。橋を渡ると、次の十字路(分岐)を左折し、道なりに北上するのが日光街道である。

小淵追分の道しるべ

 その角にあるのが、宝暦4年(1754)の銘のある庚申塔を兼ねた道標であり、正面に「青面金剛」像、左側面に「左日光道」と刻んである。この辺りの「小渕(こぶち)」という地名は、小淵恵三元首相の出身地だそうだ。

八丁目八坂香取稲荷神社(10:26)・・・左折してすぐの右手細道に入り込んだ所

 境内には、春日部市保存樹木の立派なイチョウの樹が並んでおり、向かって右手には、拝殿に近い順に三峯山大権現、弁財天、姥子稲荷大明神、天満宮などが並んでいる。また、八丁目の農家に生まれ、明治時代に和算家として活躍した栗原傳三郎直保が奉納した算額(前述の郷土資料館に展示)がある由。
                   
 八坂香取稲荷合社
 当地は、古利根川左岸の自然堤防上にあり、江戸幕府が置かれるまでは、この古利根川が国境とされ下総国に属していた。そのため、当社は永亨元年(1429)に下総国一宮香取神宮を勧請したと伝えられている。なお、八丁目の由来は、中世の荘を預かる役人の給与として、年貢等が免除された八丁の田を八丁免と称したことによる。
 社蔵の棟札や嘉永三年(1850)の『鎮守香取大明神来(ママ)暦』によると、永禄元年(1558)に別当を務めていた真言宗神林山仲蔵院住職秀宥により再建されている。その後、当地が武蔵国葛飾郡となった頃より、相殿に八幡大菩薩を勧請し、共に当村の鎮守土産神として祀った。更に享保十九年(1734)、京都の神祗管領吉田兼雄から香取大明神に正一位を受け、その折の幣帛筥が今も残されている。
 現在の社号にある八坂と稲荷については、末社として祀られたもので、八坂社は寛文十一年(1671)六月十五日に新町橋際東のよし葭の生える川中で、牛頭天王の像が魚の網に掛かって見つかり、これを祀ったもので、今もこの地に祠が残されている。また稲荷社は、元禄十四年に勧請したものである。江戸期までは、当社は別当仲蔵院境内に鎮座する形になっていたが、明治になって境内が独立した。明治三十六年に上地林の境内編入に合わせて、三社が合殿とされた。更に同四十五年には、字樋籠(五丁田)の香取社と同境内社が合祀された。
年間の祭事は、元旦祭・2月15日の春祭り・7月15日の夏祭り・11月28日の秋祭りの4回で、元旦祭を除き、近年は祭日前後の日曜日に行っている。
 元旦祭は、新年を祝って、境内でみこし神輿が担がれる。これは昭和60年ごろから始められたもので、午前0時から祭典が執行され、神輿の担ぎ手となる若い衆の安全を祈願してお祓いがあり、その後「宮入り」と称して境内で威勢よく神輿が担がれる。この行事を始めてからは、見物を兼ねて初詣に訪れる参拝者が、年を追うごとに増え、参拝者には甘酒やおでんなどが振る舞われる。
 春祭りは、稲荷神社の祭礼で、豊作を祈るもので。祭典後、拝殿で、新旧当番が古式にのっとり交替する弓取式がある。これは、新当番長が手に的を持ち、旧当番長が弓に矢をつがえて射るもので、めでたく的を射て、当番の交替が完了したことになる。
 夏祭りは、八坂神社の祭礼で天王様とも呼ばれ、悪病除けを祈るものである。氏子6町内の神輿の渡御があり、元旦祭の折の神輿もこれを用いている。隣接する粕壁の天王様と同日の祭りであることから、それぞれの渡御にぐぶ供奉していた双方の若連がけんか喧嘩に及び、一時中断していたが、昭和48年から復活している。
 秋祭りは、香取神社の祭りで、幟を立て、収穫の感謝を込めて祭典が執行される。

仲蔵院(10:27)

 前掲の八丁目八坂香取稲荷神社の別当寺だった所で、神社の隣にある。真言宗智山派の寺院で「神林山」と号する。永禄元年(1558)正月に秀宥大和上の開基で、本尊は正観音菩薩像・十一面観世音菩薩(秘仏)である。
 本堂は宝永年間(1704〜11)に庫裡共々焼失して以来仮室だったが、文化12年(1815)9月、時の住職傳應大和上が再建を発願し、成田山に一大浄業を祈願して完成した建物が現本堂伽藍である。
 境内には修業大師像(弘法大師1150年御遠忌記念)や興教大師像のほか、青面金剛などの石仏3体が安置された堂や、石碑6基などがある。

小淵一里塚・庚申塔(10:37)

 元の街道に戻って暫く行くと右へも行ける三叉路があり、その右角に昭和45年8月銘の新しい「史跡小淵一里塚跡」碑があり、向かってその右には天保3年・壬辰・小渕村などと側面に刻された古い庚申塔がある。

小淵追分の道標

 その先には、右斜め前方が関宿(せきやど)道、左斜め前方が日光道中という追分があり、この分かれ又に小淵追分の道標がある。
 関宿は久世氏の城下町。道標は、大小二つあり、庚申塔を兼ねた大きい方のは宝暦4年(1754)11月の銘、正面に「青面金剛」、横に「左日光道」とある。小さい方は宝永6年(1709)建立で、正面に「左方あふしう道」とあり、右横は一部欠けているが「右方せきやど道」と判読できる。文字の読み取りに気を取られ、その写真を撮るのを失念していたことが帰宅後に判明した。

小渕山観音院

 やがて街道は国道4号線と合流し、暫く進むと左手に朱塗りの見事な楼門が出迎えてくれる。観音院のその山門(楼門・仁王門)には、「本山 修験祈祷 小淵山観音院」と墨書された木看板が付けられ、山門を入った左手に解説板があり、その左足元に芭蕉句碑がある。
 この山門は、元禄年間(1688〜1704)に建てられたもので、元禄2年の建立とも伝えられ、二階部分に回廊が巡る三間一戸の入母屋形式で、市内で最古の楼門である。
 なお、当院にも、「おくのほそ道」の旅の第1日目の宿泊先とする言い伝えがあるそうだが・江戸を早朝に出立した旅人の多くが夕方粕壁宿に到着したそうだから、あり得る話ではある。
 また、境内には修験道の開祖役の行者を神変大菩薩として祀った堂もある。
                    
小渕山観音院
                                   所在地 春日部市大字小淵一六三四番地
 小渕山観音院は、新編武蔵風土記稿の小渕村、観音院の項に「本山派修験、京都聖護院末、安永2年(1773)正年行事職を許さる。小渕山観音院正賢寺と号す。本尊正観音、応永二年(1369)住持玄通が書し縁起有に拠ば、古き像なるべし。中興開山は尊慶と云、年代を知らず。」と記されている由緒ある古刹である。
 この寺は、この地方の観音信仰の霊場としても有名で、家内安全、商売繁盛のほか、いぼ、こぶ、あざにご利益があるといわれている。毎年八月十日には、この日参拝すると四萬六千日分のご利益が授けられると言われる四萬六千日祭があり、県内の山伏が参集して護摩修行を行い、近隣の善男善女が枝豆を奉納し参拝する祭礼がある。
 また、三月には、かつて馬寄せ祭があり、農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつけて安全を祈願する祭りがあった。本堂内には、木造の白馬が安置されている。
 本尊「正観音像」には、その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度はもとの寺へ戻したが、その後洪水でまたもこの寺に漂着したのでお堂を建てて安置したものといわれる伝説がある。
本堂の格天井には花鳥の彩色が施され、格縁ごとに大勢の粕壁宿の商店主の名が記されており、外壁には、多数の絵馬のほか、八丁目の和算士栗原伝三郎が奉納した算額が掲げられている。
 また、寺には、「毛のいへば 唇さむし 秋の風」と詠まれた芭蕉の句碑、市内唯一の楼門(仁王門)、七体の円空仏などがある。楼門は昭和四十七年に春日部市指定の有形文化財に指定されている。
                        昭和六十一年三月
                                          埼玉県
                                          春日部市

◇「県指定有形文化財」
               
     小渕観音院円空仏群
                               埼玉県立博物館寄託(平成14年3月22日指定)
 円空仏は、竪に割った丸木を鉈1本で制作したという木彫仏で、素朴さ、力強さ、優しさに特徴があり、「円空彫り」、「鉈彫り」とも呼ばれ.る。市内最多の7躯の円空仏が伝わる小渕観音院は、市内唯一の修験寺院で、修行僧円空が長期滞在し、造仏した可能性があるという。特に194cmを測る聖観音菩薩立像は作例のうち最大級で、さらには全国でも確認例がない蔵王権現立像も含まれている。

◇観音院の正しいお詣りのしかた
                    
観音院の正しいお詣りのしかた
当院は近隣唯一の神仏習合の祈願所です
一、まず大鰐口を鳴らします
二、階段を上がりお賽銭をして 二拍 合掌いたします
  合掌の時に願いごとをお唱え下さい
三、回廊を左から回ります 天井の唐獅子十八体が清浄にいたします
四、正面に戻り再び二拍 合掌してご参拝が終わります
                                             小淵山観音院

ということで、青天の霹靂、二拍するのが正しいとのことで、ビックリ大勉強になった一瞬だった。

杉戸町の北緯36度線(11:09)

 観音院からは北西からの強い季節風に逆らいながら、時々は一瞬風に押し戻されそうになるのを「カロリー消費に最適?」と前向きな二人は気合いを込めて国道左手の広い歩道を進んでいく。
 程なく道は杉戸町に入る。北緯36度線が通っている所で、それを記念する地球儀が左手歩道上にあり、「すきすきすぎーと36」のノリのいいキャッチコピーが頭上を横切っている。左歩道だけが弓なりに曲がり、車道との間がパーキングになっている。大きな地球儀のモニュメントやSUGITO MAPが広い歩道上にある。
面白いと思ったのは、地球上の北緯36度線上にある都市名や地名がマップ及び地球儀モニュメントに表示されていたことである。
 すなわち、中国のチンタオ(青島)、アメリカのナッシュビル・ラスベガス・グランドキャニオン、イランのテヘラン、海峡ではジブラルタル、海では地中海、山脈ではカラコルム等である。
 この杉戸町は杉林が多かったことから、いつしか『杉の渡』と言われ、それが『杉戸』になったらしい。

大作桃塢(おおさくとうう)の生家(11:17)

 その先左手に大作園という造園業を営んでいるらしい民家の塀際に解説板があり、風化で不鮮明だったが写真にとって持ち帰り判読してみた。
                    
大作桃塢の生家
 大作桃塢は天保十二年(1841)本郷村のこの地に生まれた。その名□□□で字名を邦造とした。十二歳になると百間村(宮代町)の西光院において山□□□に漢詩を学んだ。さらに江戸に出て新井□□について学問を修め本郷村に帰って来た。
 そして、父に大作有隣の寺子屋である文蔚堂を引き継いで弟子達に漢学を教えた。そこでの教育方法は、各人の学力や興味に応じて、四書五経・史書・詩文等の□□、素読を中心に、くり返し読ませ□□したり、詩作をさせたりした。
 明治以降になっても「豊秋教舎教舎」として引き続き教え、教えを受けた人は千人を超えるほどであった。桃塢は、昭和二年(1927)、八十七歳で亡くなった。
                                   杉戸町教育委員会


庚申塔を兼ねた道標(11:25)

 風に逆らっての国道歩きはまだ続く。観音院からではおよそ4km程歩いて宮代町のY字路で国道4号線と分かれて左の旧道に入ると、左手の古利根川と接する辺りに真新しい代わりに厳かさを感じない「九品寺」があり、道路際の一角に道標を兼ねた庚申塔がある。
 先刻見た小淵の「追分の道標」と同種同型で、正面が「青面金剛」、右面に「右江戸」、左面に「左日光」とある。向きは明らかに逆なので移動したとしか思えない。横に「日光街道の道しるべ」と題する解説板がある。
                    
日光街道の道しるべ
 この道しるべは、天明四年(1784)堤根村の農民四十二人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この道路の向かい側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人々が見ながら旅を続けたと思われる。
 この石塔は、庚申の夜、青面金剛に疫病の予防治療と人間のカラダにあって、人を短命にするという三尸(さんし)を除いて、長生きができるように祈る庚申信仰を表す庚申塔であり、道しるべを兼ねたものである。
 なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。
                                   杉戸町教育委員会


昼食(11:32〜11:50)

 少し先の「堤根(南)」信号で再び国道4号と合流するが、国道沿いの右手に「山田うどん」の看板が見えたので飛びこみ、熱々麺で体を温める。

三本木一里塚(12:10)

 再び国道を歩き、12:04「堤根」信号で再び左への旧道に分かれると、その先右手の民家の葉塀の中に植栽を凹型に切り込んだ箇所があり、「三本木一里塚」の解説板が見える。明治時代中期までは榎の植わった塚が両側にあったそうだ。
                    
三本木一里塚
 ここの日光街道一里塚は、江戸に向かって左側が堤根村地内、右側が清地村地内で、大きさが縦・横ともに約九メートル、怩フ上に榎が植えられていた。しかし、明治時代なかば以降には、交通の発達などによって取り払われてしまった。なお、江戸に向かっての次の一里塚は、小渕村(春日部市)に、日光に向かっては、茨島村(杉戸町)にあって、いずれも榎が植えられていた。
こうしたいちりづかができるまでには、まず慶長五年(1600)徳川家康が江戸を中心に、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道をととのえた。その後、慶長九年(1604)主な街道に、道のりを表す目じるしとして、日本橋から一里(約四キロメートル)ごとに怩築いて旅行者の目安とした。
                                   杉戸町教育委員会


近津神社(12:22)

 その先右手にある。予定外だったので立ち寄らなかったが、解説板があった。なお、平成13年5月に不審火で焼失し、その後再建されたようだ。
                    
近津神社
   祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふつぬしのみこと) 岐ノ命(くなとのみこと)
   祭儀 (略)
 当社の創建年代は不詳であるが、貞享元年(1684)には本社を建立しているのでそれ以前と思われる。安政五年(1858)に社殿を再建した。
 明治六年に村社となり、大正八年指定神社となった。関東大震災により拝殿が全潰したが、昭和四年再建した。
 本殿の彫刻は近郷近在の神社に類をみないすばらしいものである。なお、境内には稲荷、天神、金山、厳島、浅間、雷電、三峯の諸社が祀られている。
                                   杉戸町教育委員会


杉戸宿

 「堤根」信号から約3km、道は次第に賑やかさを増し、やがて「杉戸宿」の中心へと入っていく。江戸期以前の奥州街道というのは、いわゆる鎌倉街道として今の杉戸の外れから北西方面、古利根川に面した下高野辺りを通っていたそうだが、江戸期以降の杉戸宿は、一面の水田だった所に付近の民家を集めて宿を開いた所である。従って低地であり、古利根川の氾濫による浸水被害がある。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠46軒、家数365軒、人口1663人の記録がある。

明治天皇御小休所阯碑(12:28)

 杉戸駅につながる「本陣跡地前」交差点の右手前角の「中央三井信託銀行杉戸支店」前に、自然石で造った「明治天皇御休所阯」の碑がある。明治9年(1876)6月3日の奥羽御巡幸時、この場所にあった郡役所で5分間休息された記念として、建てられたものである。
この碑には、
「明治天皇明治九年奥羽御巡幸ノ際六月三日此ノ地ニ御辰憩シ給ハル乃チ碑ヲ樹テテ之ヲ不朽ニ伝ヘントス」と刻まれており、この題字は、西郷隆盛の甥・西郷従徳の手によって書かれたものである。

本陣跡・脇本陣跡(12:35)

 次の三叉路手前右手に本陣跡(長瀬家)と覚しき古い表門と大きな松の木があり、奥の家は建て替えられたものである。往時の建物は明治初年の大火で焼失しているが、焼失前の本陣建坪は166.5坪(約550u)あったというからかなり大きい。その先の左手にある古い趣の家が脇本陣のうちの一軒、小林氏宅だそうだ。

宝性院(12:42)

 その先の右へ「くの字」型に曲がった先の左手に参道が延びる「宝性院」がある。入口に「第十五番 奥の細道関東三十三ヵ所霊場」とあるが、帰宅後インターネットで検索してもヒットしなかった。また、「弘法大師 新四国八十八箇所霊場 第七十七番 杉戸山 宝性院」の標木もある。住職の商売熱心の故か? 宝性院は永享10年(1438)創建で、古河公方の家臣で幸手城主一色氏の縁の寺だそうで、江戸時代は寺子屋、明治期には学制により杉戸学校が置かれていたという。

 本堂には、三つの額が懸かっていて、中央の大きい「不動」は「武田侍従信之謹書」とあり、向かって左には「菅谷山」、右には「成田山」の額がある。また、境内右手には、七福神の毘沙門天王の像がある。
                    
杉戸学校
 明治五年(1872)八月、太政官より近代的教育法規である「学制」が出されると、同七年四月、ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉松村の児童を教育するために杉戸学校が設立された。児童数は、男一一七人、女三五人、教員は五人であった。(同九年調べ)
 同十年三月には、杉戸町下町(現在の杉戸一丁目付近)の鈴木彰氏宅内に校舎を新築し鶏鳴学校と改称した。しかし、同十三年三月清地村が組合から分離したために、杉戸宿と倉松村は鶏鳴学校を閉鎖し、再び宝性院を仮校舎として杉戸学校を開設した。やがて児童数の増加にともなって、施設・設備が不足し同三十四年十一月、内田地内に校舎を新築し移転した。このように、初期の初等教育においては、寺院を借用するものが多かった。
                                   杉戸町教育委員会


                    
杉戸山宝性院
                                        宗派 真言宗智山派
                                        本尊 大日如来(胎蔵界)
 当山は、杉戸宿の中央に位置していた。不動堂は弘化三年(1846)に再建されたものである。
 由来は、永禄三年(1561)幸手城主一色宮内大輔義直が亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、「安産不動明王」を安置し不動寺と号した。その後、安政四年春(1858)成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
 元和二年(1616)教識大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、寺号を宝性院と改めた。
 当時の伽藍は、大正十二年(1923)の関東大震災により大破したため弘法大師一一〇〇年遠忌記念事業として昭和九年現在の本堂は再建された。
                                   杉戸町教育委員会


往時の洪水跡(12:50)

 宝性院の先で、電柱に昭和22年のカスリーン台風時における「実績浸水深」というのが電柱に青テープで表示されていた。ここでは0.3mだったが、古利根川の氾濫で、昔はこの一帯は随分被害があったようだ。この青テープによる浸水どの表示は、この先でも随分見掛けた。
 12:54時点に見た電柱では0.5m、14:11時点で見たその先では1.2mと、想像外の水位まで浸水被害があったことを示しており、自然の力の大きさを改めて痛感すると共に、これは当地にとって末永く伝えられてしかるべき情報だと思った。

大島有隣恭倹舎(13:16)

 暫く歩き、「大島」交差点を右折すると13:14「心学の道」という太い石標が歩道の植え込みに数本建っている。「心学」というのは、京都の石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、中沢道二が江戸に伝え広めたもので、神道・儒教・仏教を総合した庶民教育のことである。杉戸町下高野にある「永福寺」には距離が離れているので立ち寄らないが、後出の大島有隣・関口保宣・藤城吉右衛門等の墓がある。

 交差点から150m程行った左手の赤鳥居のある稲荷神社があり、由来などを記した解説板もあったが、先ほどの「大作桃塢の生家」のそれよりも更にひどく風化が進んでいて、殆ど解読不能だった。

 その右手に「心学の道」に象徴された「大島有隣恭倹舎」(木造)が建っており、その前に石に解説プレートが埋め込まれた立派な説明碑がある。
                    
埼玉県指定史跡大島有隣遺跡 
                                        北葛飾郡杉戸町大島一一七.二四七
                                        昭和六年三月三十一日指定
 大島有隣は、諱を義、通稱幸右衛門といい、宝暦五年(1755)十二月四日、この地(旧葛飾郡大島村)に生まれた。
 天明元年(1781)、有隣二十七才の時、同郷の関口保宣と共に江戸に出て、参前舎で、当時の心学の大家中沢道二の教えをうけ、天明五年(1785)、関口保宣、藤城吉右衛門と共に「恭倹舎」を建立し、農民や町民に心学を講説した。
 寛政四年(1792)、有隣は再び江戸に出て参前舎で学び、やがて参前舎の主宰に推薦され、諸大名、旗本等に進講し、夜は町人の家に出かけ、時を惜しんで心学の教化につとめたが、天保七年(1836)十月、八十二才で病没した。
 この恭倹舎は、病没するまでの五十余年間地元の人々に心学を説いた建物である。
                         昭和五十年十二月十五日
                                        埼玉県教育委員会
                                        杉戸町教育委員会

日光御成街道が左から合流(13:55)

 かなり以前から左手を走っていた東武伊勢崎線は、東武動物公園(杉戸宿)を過ぎた先から日光線が右に分岐し、日光街道はその東武日光線の右側を通っている。杉戸高野台駅前を過ぎた辺りで杉戸町から幸手市域に入り、やがて国道を右に分けた少し先で日光線の左側へと越え、次第に民家が多くなってきて、道は「追分」に達する。

 ここで、左からの「日光御成街道」が合流してくるが、他の五街道が全て「日本橋」起点であるのに対し、御成街道は「江戸城大手門」を起点にしている。御成街道は本郷追分で中山道と分かれ、王子・岩淵・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経てここ「幸手」で日光道中と合流する将軍家日光社参時の特設コースで、いずれそちらも歩いてみたいと思っているが、同行の村谷氏も大いに食指を動かしているので、いずれ二人の先の楽しみになること必定と言えよう。
 なぜ日光道中と別に御成街道ができたかというと、御成街道は比較的高い場所を通っており、洪水などの影響を受けにくかったことから設定されたとされている。将軍家の権威にかけても日程の変更は絶対に許されなかった証である。
 追分は、現在、5差路のようになっており、道標も残っていないが、日光道中における一つの重要地点と言える。

太子堂(14:01)

 追分を右折すると、あいにく道路工事中だったが合間を抜けてすぐ右手の「太子堂」に立ち寄る。堂の扉を開けて中も見たが、聖徳太子像が祀られている。解説板もなく、なぜここで聖徳太子なのかは判らない。

神宮寺(14:04)

 左手には「神宮寺」がある。国交省北首都国道寺務所発行(編著者:埼玉新聞社)の「日光街道道中絵図」には追分からすぐ北に入った地点を表記していたので真っ先にそちらに向かったが見つからなかった。諦めて先述の太子堂へ行ったのだが、何と「絵図」の表記ミスで実際の「神宮寺」は太子堂の先の左手に入った場所にあった。
 参道を入ると右側には沢山の古い石仏・墓石がぎっしりと置かれ、無縁仏と思われた。
                    
神 宮 寺
                                         幸手市南二−三−十九
 鷹尾山誓願院神宮寺と称し、浄土宗の寺で、本尊は薬師如来です。
 源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名がつけられたといわれています。薬師如来像と脇の十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作といわれています。
 中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、一村寺領であったこともありました。
                              幸手市教育委員会


洪水時の水位と幸手市の地理的特徴

 太子堂の先にも昭和22年の洪水の浸水位置が青テープ(以前は赤テープだったようだが以後巻き直されたものと思われる)で電柱に巻かれていたが、ここ神宮寺の先(14:11)では1.2mと胸の辺りまであり、この先幸手宿の町中では更に水位が上がって人間の背丈程になっていた。さてこそ凄いものである。
 幸手市の地形は大部分が低地で、縄文時代(約12,000年〜2,200年前)は海の底だったという。
この辺については、市のホームページに詳記されている。http://www.city.satte.saitama.jp/syoukai/rekisi/rekisi_index.htm

神明神社・たにし不動尊・高札場跡(14:16)

 すぐ先で今度は進行方向の左から右へと東武日光線を横切るが、その先の「倉松川」に架かる「志手橋」で右後方からの道と合流して左斜め先へと道が曲がっていく。日光道中はここを左にカーブした所から「幸手(さって)宿」に入る。すぐ先右手に「神明神社」がある。
 境内には、後記両不動尊のほか、「今宮大杉神社」「稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮」の木札が懸かったお堂や、石塔3基(水神宮・庚申塔・<不明>)もある。
                    
神明神社とたにし不動尊
                                        幸手市中二−一−五
 神明神社は、宝暦五年(1755)に伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社です。
 境内には成田・菅谷両不動尊があり、菅谷不動尊はたにし不動尊ともいわれています。眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。江戸時代には、ここに高札場(現在の掲示板)がありました。
 また、その他に大杉神社の神輿や大正十二年の関東大震災の記念碑等があります。
                               幸手市教育委員会

 その解説版の後ろには石の台座が置かれ、漢字の「不」の字のような記号が彫られた、「几号水準点」がある。これまでも何ヵ所かで見たことがあるが、明治期になって高低測量(水準測量)が開始され、この測量で用いられた標石である。
                    
几号高低標(英国式水準点)
                                        幸手市中二−一−五
 この案内板の後ろの石は、以前神社に奉納された燈篭の基礎の部分で、長い年月の間に上部が壊れたために脇に置かれていたものです。
 その側面に「不」の記号が刻まれていますが、これは、「几号高低標」といいます。
 明治七年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・塩竃(宮城県)間の水準測量を行った際に神社の鳥居や燈篭等に設置されたもので、横線は測量に用いる平板を表し、下の部分は三脚を表しています。
                               幸手市教育委員会


幸手宿

 本陣1軒、旅籠27軒、家数962軒、人口3,937人の幸手宿は、日光街道と御成街道との合流(分岐)地点、さらには筑波道が分岐する宿場町として賑わった宿であったというが、脇本陣はなく、旅籠数も多くない。しかし、人口は前後の宿に比して2倍以上であり、非常に多い。
 日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の地名はその「薩手」に由来すると伝えられている。また、雷電の神体を田の中の社に祭っていたことから「田宮」という地名だったのを元禄の頃、「幸手」に改名したという説もある。幸手の名称に関しては、慶長4年(1599)、当地にあてた手紙に「幸手領幸手町」とあり、約400年前には一般的に使われるようになったと考えられている。

明治天皇行在所跡碑(14:25)

 その先で「幸手駅入口」信号の手前左に「明治天皇幸手行在所」跡の碑がある。
                    
明治天皇行在所跡
 明治天皇は、明治九年六月奥羽巡幸の際、十四年七月、同十月山形・秋田・北海道の巡幸の際、二十九年十月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通られ、明治九年には元本陣の知久家に、あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。
 この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、指定説明を記した説明板(台・屋根部分は復元したもの)、現在は効力を失っていますが、当時は史跡名勝天然記念物保存法による指定標識、の三点が移設され、保存されることになりました。
                              幸手市教育委員会

 上記文中にある「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑の左下には、「元帥伯爵東郷平八郎謹書」と「花押」が共に刻まれており、明治武人の教養の高さを改めて思い知らされる。
 また、文中の「指定説明を記した説明板」は墨字跡が歳月の経過により浮き出ており、墨色も見えにくく判読困難だが、その内容を別の解説板で表示してある。
                    
明治天皇行在所説明板
 説明板の文面は次のとおりです。(台・屋根部分は復元)
                       説  明
明治十四年山形秋田両縣及北海道巡幸の際七月三十一日 同御巡行の砌十月十日行在所となり 明治二十九年十月近衛師團小機動演習天覧の為埼玉縣下行幸の際 同月二十日より二十二日行在所となりたる處にしてよく舊規模を存せり
                       注  意
一、火気に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せざること
                              昭和十年十一月二日
                                               文部省
                              幸手市教育委員会


一色稲荷大明神(14:33)

 今朝出発時点でのゴール予定地点は、東武日光線南栗橋駅の更に先の「JR栗橋駅」だったが、寒風とはいえないものの向かい風が強く、歩きにくい上に、そろそろ気温も下がり始める頃なので、相談の上、ここ幸手駅で歩き納めにすることにし、「幸手駅入口」信号を左折して駅方向へ向かう。途中左手に「一色稲荷大明神」があり、赤地に白抜きの「正一位一色稲荷大明神」の幟旗や、鳥居に懸かった額が目立つ。
                    
一色館跡と陣屋稲荷
 幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋という地名が残っているが、ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝は天文年間(1532〜55)に足利晴氏、義氏にしたがい、のち田宮庄(幸手庄)に住したという。直朝の子の義直も幸手庄に父とともに住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて五一六〇石余の領地を与えられている。
 現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。ただ館跡と思われる位置から巽(南東)の方向に祀られている稲荷陣屋は、別名一色稲荷とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。
 今でも地元の人々の信仰を集めており、毎月二十二日の縁日と、初午祭などの祭りが行われている。
                              昭和六十二年三月
                                             埼玉県
                                             幸手市

ゴールイン(14:42)

 一色稲荷のすぐ右隣の御菓子舗(十万石幸手店)で家族への土産を買い、14:57幸手発の電車に乗ったつもりが1便早い電車に乗ってしまい、途中、今朝の出発駅となった春日部駅で普通に乗換え新越谷駅で下車。同駅前でいつぞやとは異なる穴場の店を発見し、二人で軽く打ち上げ、次回15日の中山道歩きでの再会を約して別れ、武蔵野線経由で帰路についた。
 車内放送によれば、強風の影響で現在5分遅れで、更にこの先の一部区間で若干減速運転になる可能性が・・・とのことだった。