日光街道餐歩
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 2009.01.11(日) 日光道中第3回餐歩記・・・南越谷駅~春日部駅

 9:19南越谷駅着の便で着き、新越谷駅下車の村谷氏と南越谷駅南口で待ち合わせ、9:25に150mばかり東方の「新越谷駅入口」信号から日光街道(県道49号)の武蔵野線高架を潜り、北へ歩き始める。きょうも街道名の通り日光には恵まれているが、北風に向かって歩く早朝は風が冷たく感じる。

越ヶ谷宿

 越谷宿は江戸から6里5町(24.1km)・草加から1里21町(6.2km)、人口約4,600人、総家数約1,000件(本陣1・脇本陣4・旅籠52)を有する日光街道で3番目の宿場町だった。
 六斎市の立つ町として鎌倉時代頃から栄えていた越ヶ谷宿は、今の越ヶ谷一丁目から大沢町の東武鉄道線にぶつかる迄で、当時は北越谷の方が栄えていたためか、本陣や脇本陣も北越谷側にあった。ただ、宿は明治32年(1899)の大火で町の殆どを焼失し、往時の面影は残っていない。

観音堂跡

 9:41「瓦曽根ロータリー」信号手前の後述「照蓮院」のすぐ手前右手の空き地の一角にある「観音堂跡」に立ち寄る。金網に囲まれて数基の石造物群や4個の力石、「東勝院奉納相撲由来記碑」、「力石の記碑」などがあり、金網のすぐ外には「窮民救済の碑の解説板」も立っている。
 特筆すべきは、「窮民救済の碑」の解説板である。読んで大いに感動したので、その全文を紹介したい。
               
越谷市指定有形文化財歴史資料 窮民救済の碑
                                   平成六年三月三十日指定
 この石碑は、天保九年(1838)一月、瓦曽根観音堂敷地に稲垣宗輔らが建立した窮民救済の碑である。
 稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏・池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曽根村名主中村彦左衛門重梁の次男である。
 天保五年から七年(1834~36)にかけては、全国的な大冷害により関東地方なども大凶作となり飢饉に瀕した人々が数多く、各地で穀物商などを襲って食糧を奪い取る打ちこわし騒動が頻発していた。
この碑メインディッシュ要約すると、中村彦左衛門は代官久保田十左衛門支配のとき、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金していたが、天明年間の凶作年には、御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え、飢饉より救った。
 重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣家に養子に入った宗輔はこれを受け、文政九年(1826)浅草猿野町会所御貸付所(当時勘定奉行遠山景元)に凶年手当金として百両を預金し、天保七年(1836)の大凶作にはそこから金九二両を下ろし、瓦曽根村の窮民九二名宛に金一両づつ施金してこれを救った、との旨が記されている。
 また、碑文と歌は、宗輔とは弥従兄弟にあたる恩間村の漢学者兼国学者渡辺荒陽(瓺玉斎)によるものである。
                                   平成六年  越谷市教育委員会


照蓮院(9:53)

 その先「瓦曽根ロータリー」で左への旧道に入る分岐の右側にある。
 創建年代は定かでないが、天正19年(1591)に朱印5石を賜った真言宗の古刹で、山門を入ると落ち着いた佇まいが感じられる。
 右手には「層塔」や「六地蔵」があり、本堂手前左には、本堂左脇間の須弥壇上に安置されている「木造地蔵菩薩立像」や「千徳丸供養塔」に関する解説板(内容下記)があり、境内左手が墓地になっている。
               
越谷市指定 記念物 旧跡
               千 徳 丸 供 養 塔
                                   昭和五十年五月二日指定
 瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長慶は、天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居した。千徳丸はまもなく早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝える。寛永十四年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が造立された。これが千徳丸の墓石供養塔であるといわれる。なお、長慶の兄虎康の娘は徳川家康の側室となり、おつまの方と称したが家康の五男武田信吉を生んでいる。
                               平成十五年一月  越谷市教育委員会


 また、「観音堂跡」の項で触れた、瓦曽根村名主中村彦左衛門の墓が一際目立つ形で当寺墓地域にあり、代々の戒名が刻まれた墓誌板が目を惹いた。

御殿場跡

 10:02「瓦曽根ロータリー」を左旧道に入り、暫く進むと10:18「元荒川」に架かる「大沢橋」に差し掛かる。街道はこれを渡るのだが、2箇所ばかり寄り道するべく橋の手前を左折する。最初の信号が「元荒川橋」信号で、先刻「瓦曽根ロータリー」で分かれた新道(県道49号)をそこで越え、川岸沿いの細い道へと更に入っていくと、10:25右手に「越ヶ谷御殿跡」の大きな石碑とその右に石版に銅板を貼り付けた英訳付きの解説プレートが立っている。
                    
越ヶ谷御殿跡
                                   指定日 昭和四十七年十月二十五日
 天下に君臨した徳川家康は、慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越ヶ谷宿を取立てるなど、道中の整備を進めさせました。そして慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越ヶ谷郷の土豪会田出羽資久の敷地内に移し、壮大な御殿を建造しました。これを「越ヶ谷御殿」と称しました。
 家康は、しばしばこの越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩りを重ねていました。ことに慶長十八年(1613)には三度も訪れ、一日に鶴を一九羽も捕捉したとあります。また、二代将軍秀忠も、同じく越ヶ谷御殿を訪れ、一ヶ月にわたり宿泊し鷹狩りに興じました。
 しかし明暦三年(1657)一月の江戸大火で江戸城が全焼したため、急遽越ヶ谷御殿を解体し江戸に運び、江戸城を再建しました。
越谷住民は御殿が江戸へ移されてからも、将軍の別荘があった所として、この地を「御殿」と称し今に至っています。その面積はおよそ六町歩(約六ヘクタール)です。
 現在では御殿の面影を偲ばせるものは残っておりませんが、「御殿町」という地名にその名を残し越谷の人々に語り継がれています。
                         平成十一年三月
                                   越谷市教育委員会


板碑と稲荷神社(10:26)

 その先には一枚石の大きな板碑がある。秩父の緑泥片岩で造られた塔婆の一種で板石塔婆とも呼ばれるものである。高さ155cm、幅56cmで、大きな梵字一文字と建長元年(1249)の銘が入っており、年代の判明するものとしては市内最古のものである。
そのすぐ先に隣接して「稲荷神社」がある。社殿は祠程度だが立派な石造の扁額付き鳥居がある。

久伊豆(ひさいず)神社(10:32~10:56)

 川は右カーブしており、その先の細い道を更に進んでいく。村谷氏は、以前この川縁の道をこれから行く久伊豆神社を含め歩いたことがあるそうだが、当時とは歩く目的が多少異なっていることもあり、当時は気づかなかったものもあるとか。
 「宮前橋」とその先の「新宮前橋」が見えてくるが、手前の朱塗の旧宮前橋を渡ると向こう岸正面に、両横の木に渡して「縄を巻き付けた笠木」の鳥居風のものがある所が入口で、そこから500mぐらい鬱蒼とした樹木の参道が続いている。時節柄緑青々という訳にはいかなすが、境内にはスダジイなどの貴重な原生林もある緑の森である。本殿近くの第三鳥居は伊勢神宮の61回遷宮の際の撤去材を用いているそうだ。
 きょうは、新成人か、振り袖姿の若い女性や、郷里で正月を迎えた地元の人たちなのか、家族連れが大勢参拝に訪れ、正月三が日程ではないにしても大変な人出で参道両側には饅頭・焼きそばほか屋台の店も沢山出ており、久伊豆神社の人気の高さが窺われる。

 越谷の総鎮守にして郷社。祭神は大己貴命(大国主)である。創立年代は社伝では平安末期という古い神社の由。平安時代に越ヶ谷太郎や大相模次郎らの氏神様として建立された神社である。毎年10月には日光街道沿いの8つの町会が主体となっての祭があり、山車が街道を練り歩くそうだ。
 左手の池の手前に江戸後期の国学者平田篤胤の門下が千葉から運んだという埼玉県指定天然記念物の「篤胤遺愛の藤」は樹齢200年、株廻り7m、枝張り東西20m・南北30m、5月上旬の「藤まつり」が有名で近郷近在の人たちで賑わう。時節外れの今も池の畔にある大きな藤棚は見事という外ない。
 この池の左奥のほとりに平田篤胤の仮寓跡とされる松声庵があったが、今はそれを示す木碑のみである。平田篤胤は秋田出身で江戸に出て苦学力行、本居宣長没後の国学四大人に数えられ、尊皇運動にも重大な影響を与えたが、幕府の忌諱に触れ追放された。篤胤が越谷に仮寓したのは江戸払いとなった晩年の事で、神宮寺の秀山和尚を頼っている。
 池の畔を一周していると、「越谷吾山句碑」とその解説板がある。享保二年(1717)越ヶ谷宿新町の名主・会田家で生まれた、後の俳人・国学者越谷吾山は、安永四年(1775)には、諸国の方言を分類、解説した「諸国方言物類称呼」を著し、方言学の祖と称される一方、俳諧の師匠としても法橋の位を授けられている。ここに建てられた句碑は嘉永二年(1849)一月建碑されたもので「出る日の旅のころもやはつかすみ」と刻まれている。
  拝殿左に両足が縛られている狛犬があるらしいが、見どころが多すぎたのか、はたまた人出が多すぎたせいか見忘れてしまったが、家出や悪所通いをする者に対して家族の者が「足止め」といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるという言い伝えによるものだと解説板に書いてあるらしい。
 また、神社名が「くいず」とも読めることから、クイズマニアには有名になっているとか。
余談だが、地図を見ていたら「久伊豆神社」は当地の北西約3kmと約4.5kmの2地点にもあり、それ以外にもあるのかも知れないが、当地における「香取神社」の多さ程ではないだろう。

天嶽寺(10:57)

 元荒川の川辺の久伊豆神社参道入口まで戻る。入口左横からその左手の「天嶽寺」入口まで、「庚申塚」と呼ばれる小高い高台があり、延宝元年(1673)の「文字庚申塔」や元禄8年(1695)の「西面金剛彫像庚申塔」などが数多く並んでいる。
 文明10年(1478)専阿源照開山の浄土宗別格「至登山天嶽寺」の門を潜って境内に入ると、更に先に朱色二階建ての砦門が控えている。古くは小田原北条氏の城砦に用いられたと言われ、北条氏による寄進状を蔵していたとか。天正19年(1591)11月徳川家康から高15石の寺領寄進朱印状が出されており、家康は屡々越ヶ谷宿を訪れているが、秀忠や家光は狩猟のついでに当寺にも立ち寄っており、本堂の屋根瓦などに「葵の御紋」が多く使われているのも興味をひく。
 また、この寺には日本最初の方言研究書を書いた「越谷吾山の墓」や越谷市指定文化財の金仏「釈迦仙の涅槃像(寝仏)」がある。

400年の歴史を刻んだうどん屋(11:13)

 元荒川の北岸沿いの道を街道に戻ると、街道筋の「大沢橋(橋銘標には単に大橋とある)」を渡ったすぐの所に、「温飩屋」がある。街道は大沢商店街となり、駅は「北越谷」に近い。越ヶ谷は鰻でも有名で、この店も「蒲焼」「寿司」もあるようだが、この店は徳川家康が亡くなる前年の元和元年(1615)創業という老舗で、日光街道の歴史の証人でもある。フランスのギメ博物館の創設者エミール・ギメも訪れ、スケッチを残しているそうだ。屋号は、読み方が判らないが部首が「ひとやね」で、その下に「一」更にその下に「力」の字を書いた一文字(というよりマーク)である。
 昼食には少し早いと判断して、立ち寄らずに先へ進む。

本陣跡

 その先左手にある「きどころパン店」が本陣跡だそうだが、何の表示もなく、市の教育委員会の姿勢が疑われる。
 北越谷駅近くになると、山崎脇本陣や深野脇本陣があったというが、その痕跡も全く発見できない。
 元荒川はその名の通り、元の荒川であり、荒川が現在の川筋になったのは、江戸時代初期に関東郡代・伊奈忠治が付替えを行ってからのことである。春日部には元利根川というのもある。ここら辺が越谷宿の中心地。旧家もちらほら残っている。

昼食(11:27~11:45)

 街道を左折し、「北越谷駅」の前にある「ザ・丼(どん)」に立ち寄りカレーうどん等で軽く済ませる。

宮内庁埼玉鴨場

 更に北進し、東武伊勢崎線の高架沿いに歩き、その下を左に潜ると、越ヶ谷宿も終わりを告げ、蛇行してきた元荒川の整備された桜堤が左手に現れる。春はさぞかし桜がきれいだろうと思う。
 その先左手に「宮内庁埼玉鴨場」がある。古くは大名の猟場だったが、大きな門に閉ざされ、我々一般人は原則として中を見ることができないので立ち寄らない。
 皇族・政府高官らが賓客を招いて鴨猟を催すために明治41年(1908)に整備され、総面積は12haに及ぶ。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に内外の賓客の接待の場として使用されているようだが、生け捕りであり、昭和46年頃からは食用には一切していないとか。

しばらくは淡々とした街道歩き

 左後方からの国道4号と交差する「大袋駅入口」信号で国道の左側に出、更に先で右後方からの国道4号と「陸橋入口」信号で合流する。

耕地整理の記念碑

 更に行って千間掘を横切り、春日部市へと入る。すぐ右手に巨大な石碑が囲いの中に見える。何だろうと思っていたら、「新方領耕地整理組合」による耕地整理の記念碑だ。千間掘と一体になったかなり大規模な耕地整理だったのだろうと思うが、堀で遮られていて引き返すのも面倒なので、街道から遠望して終わりにする。

歓喜院・大枝香取神社

 12:58武里駅入口の手前左手に並んである「大枝香取神社」と「歓喜院」に立ち寄る。歓喜院というのも、なかなか縁起が良さそうで、つい立ち寄りたくなる気がする。「蓮華山歓喜院」と号し、真言宗豊山派の古刹で、別名「武里観音」として親しまれているという。
                    
大枝香取神社由緒略記
当社は、下総国一之宮「香取神社」の末社で、祭神は「経津主神(ふつぬしのみこと)」で、昔から現在地の日光街道沿いに鎮座し、古くから「五穀豊穣の神」として崇められていました。創建の年代は詳らかではありません。本殿裏側には、文化11年(1814)の墨書銘がある本殿再建の棟札が三枚打ち付けられています。当社は「武里観音」の名で知られている「歓喜院」の寺鎮守として祀られましたが、村の鎮守でもありました。当社は明治初年の神仏分離政策により、歓喜院から境内を分けて独立しました。そして明治42年(1909)には、神社合祀政策によって、字池の端の村社「浅間神社」(祭神は木花之開耶比売命[このはなさくやひめのみこと])・字屋敷前の無格社「第六天神」(祭神は面足命[おもだるのみこと]惶根命[かしこねのみこと]の2神)・字井堀外の無格社「雷電神社」(祭神は別雷命[わけいずちのみこと])を合祀し、旧大枝村の村社となり大枝全域の鎮守様・氏神様となりました。現在の「拝殿兼覆屋」は、昭和45年に旧位置より南に約10メートル移動して新築したものです。旧社殿は現在の「神楽殿」です。当社の神職は、市内浜川戸の「八幡神社」の宮司が兼務されています。
当社の年中行事は
   ・元旦の初詣で
   ・1月21日の豊作を祈願する祈年祭(きねんさい)       
   ・4月21日の例祭(越谷市南荻島の神楽師による神楽が奉納されます)
   ・7月1日の浅間神社のお祭り「初山」(はつやま)
   ・11月7日の新穀感謝祭
   ・12月31日の古い神札のお焚き上げ
の年6回の他に7月15日の天王講があります。氏子は、大枝の住民で元来の戸数は60戸余りで、現在も氏子として神社に関わっている家は、約100戸です。当社の運営は5人の総代が2年任期で当たり、他に祭事係りの「年番」を氏子が10戸ずつで交替して努めています。
(この標札は、大枝地区四〇〇名余の建設賛同者の浄財により平成十一年十二月に建立しました。)


 この辺りは香取神社が非常に多く集落毎にある感じで、下総国一之宮香取神宮の勢力が伺える。とは言え、境内は殺風景で、神社らしい趣はあまり感じられない。

雷電神社(13:19)

 「建御雷神社」の扁額が懸かった鳥居を潜ると、正面が瓦葺きの本殿、左手に社務所、右奥に「雷電会館」その手前が境内空き地で氏子達が工事をする人たちと何人かで集まっていている。
 本殿の中を参拝後に覗くと「雷電社」とあり、名称がいろいろだ。「建御雷」は「たけみいかづち」と読むらしい。
残念だったのは、鳥居横にあったかなりの樹齢の大木が、哀れにも伐採され、横たわっていたことである。何らかの理由があるのだろうが、惜しい。

備後一里塚跡

 暫く国道歩きが続くが、13:40「備後北」交差点の手前右手で「史跡備後一里塚跡」の碑を見る。春日部なのに備後とは?
因みに「備後」というと現在の広島県東半分の地域をさす地名である。この近隣(道の左手後方武里小学校北)には関東三社稲荷(王子・佐野・備後)のひとつ「備後須賀稲荷神社」がある。建暦元年(1211)土地の領主春日部治部小輔が建立したもので、当時はこの辺りまで海で、須賀の小島で不思議な光を放つ観音像が見つかり、それが弘法大師が唐から招来し備後国に安置した仏像が関東に移る際に難破して行方不明になっていたものとわかり、須賀の島に祀られた。その仏像が備後から来たので地名も備後となったという謂われがあるらしい。現在その仏像は武里小学校近くの「勝林寺(備後西4丁目13-5)」に保管されている。

東陽寺

 春日部市街地に入る。14:14前方が3方向に分かれる「一宮」信号手前右手に八坂神社を見、一番左の道と真ん中の道に挟まれた「東陽寺」に旧道側から朱塗りの山門を潜って立ち寄る。医王山を山号とする曹洞宗の寺で、開基は寛永9年(1632)に入山の熊巌呑藝(ゆうがんどんげ)和尚。
曽良の日記によると「おくのほそ道」の旅の第1日目の宿泊地が粕壁で、その場所が東陽寺だと伝えられ、山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」と彫られた標柱が見られる。
 また、本殿前の境内には、曽良の随行日記中の「廿七日夜 カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」を刻む碑が芭蕉と曽良の旅姿入りで立っている。

粕壁宿

 元和2年(1816)日光街道第4番目の宿として定められた。寛永13(1636)年東照宮が完成し、将軍、大名の参詣で各宿場は賑わいを増す。宿は米穀商、質屋、薬屋、など商屋、農家など159軒で、新町橋側から順に、横町、寺町、上宿、中宿、新宿、三枚橋、新々橋、下宿の8つの字で構成されていた。本陣1、脇本陣1、旅籠45。
 粕壁は江戸初期は葛飾郡糟壁、その後埼玉郡粕壁となり、昭和19年粕壁町と内牧町の合併時に春日部町と改めたそうだ。元々春日部甲斐守実景という者に因むので春日部の字はそれなりに根拠があると言えよう。この両者の使い方は、例えば「春日部市粕壁東一丁目」のような使い方がなされている。

春日部市郷土資料館

 街道より一本左の道にある「春日部市教育センター」内にあり、各種展示がなされていて、春日部市の文化財に対する熱心な姿勢が窺われる。宿に関する各種資料もここで入手できたので、次回当地を出発点とする第四回目の餐歩がより楽しみになってきた。

 時刻は14:54と3時前になり、そろそろ気温も下がり始める時刻になったので、春日部駅前で軽く打ち上げ、新越谷で村谷氏と別れ、武蔵野線経由で帰路についた。、