日光街道餐歩
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 2008.12.07(日) 日光道中第2回餐歩記・・・梅島駅~南越谷駅

 東武伊勢崎線梅島駅→JR武蔵野線南越谷駅(東武伊勢崎線新越谷駅)約12.7km+寄り道約2km=合計約14.7km

 前回(第1回)の終着点である、東武伊勢崎線「梅島駅」を9:15に村谷氏と2人で出発する。幸いにして「日光燦々」、快晴に恵まれ朝の冷気を和らげてくれる。前回、荒川を北に越えて以来、感覚的には埼玉県だが、実はまだ都内(足立区)で、遙か4.3km先の「毛長川」を渡らないと、埼玉県には入らない。

御成橋と国土安穏寺

 環七を「島根」信号で越え、9:30に左手の「将軍家御成橋 御成道松並木跡」(側面:為 嶋根旧蹟千住堀顕彰建之)の標柱や、「南無妙法蓮華経」の髭題目の下に「長久山廿三世 日進 安穏寺」と刻んだ石塔を見て左折すると、9:32「国土安穏寺」という風変わりなネーミングの寺に達する。

 一般通行の出来ない朱塗りの山門には「天下長久山」が掲額され、扉には金色輝く葵の御紋が旭日に燦然と輝いている。境内には、「第三代将軍徳川家光公御手植之松」があり、国重文「五街道分間延絵図」に画かれている樹木である旨記されている。また、その奥には、美事な古木:「保存樹林すじだい」が威容を誇り、本堂屋根上にも葵御紋、またこれまで目にしたことのないような美事な金文字の髭題目塔など、見応えのある寺である。

 当寺は、二代将軍秀忠や三代の家光らが日光社参や鷹狩りに際して立ち寄った徳川家縁の寺院で、応永17年(1410)日蓮縁の日通聖人が開いたと伝えられる古刹である。開基は室町時代後半の足立の領主の一人であった千葉氏一族の千葉太郎満胤。寛永元年(1624)に徳川家祈願所・位牌安置所になり、当寺に使用が許可された葵紋が瓦や門に輝いているという訳である。

島根鷲(シマネワシ)神社(9:48)---その先の「島根鷲神社」信号の左手---
                    鷲 神 社
     祭神 日本武尊(福徳鎮護の神・開運子育鷲大明神)
     相殿 誉田別命(安産宝授の神)
        国常立命(国土主宰の神・みそぎ祓の神)
     末社 三峯社
 鷲神社は、旧利根川水系に多く祭られているが、当社は文保二年(1318)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝える。
 島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ッ家などの全部または一部を含む大村であった。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二柱の神を合祀し、三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。
 社殿は氏子中の寄進により、昭和三十一年九月再建され、境内の整備も行われた。祭礼時に神楽殿で奉納される島根ばやし、島根神社神楽は、昭和五十七年十二月、同六十三年十一月にそれぞれ区登録無形民俗文化財とした。また、境内にある享和二年(1802)の明神型石造鳥居は、昭和六十年十一月区登録有形文化財とした。
                    平成五年三月

八幡神社と炎天寺---その先左で片道500m程あるが面白そうなので寄り道---

 炎天寺の山号は「幡勝山成就院」、真言宗豊山派の寺である。あいにく、本堂は大々的な補修工事中で、全く見えなかったが、そう広くない境内なのに、見どころたっぷりの印象深い寺である。
               炎天寺(えんてんじ)
 天喜年間(1053~1057)、源頼義・義家父子が奥州の安部一族征討のおり、当寺付近で苦戦し、、石清水八幡宮に祈願し勝利を収めたので、八幡社ならびに本寺を建立したという。その縁起は八幡社の応神祠碑(亀田鵬斎・その子綾瀬撰書)に詳述されている。
堂内には、本尊阿弥陀如来のほか、薬師如来・不動明王像が祀られ、境内には庚申供養塔・阿弥陀如来・馬頭観音・五輪塔・六地蔵・わらべ地蔵・おこり神など当時の人々の哀感をたぐる各種石造物が数多くみられる。
 また江戸後期の俳人小林一茶が、「蝉鳴くや六月村の炎天寺」「むら雨や六月村の炎天寺」など数句を当地でよんだといわれており、池のほとりに一茶関係の祈念碑がある。この由縁から、例年十一月二十三日、本寺で「一茶まつり」を催し、当日は一茶行列・一茶法要忌・献茶式・全国小中学生俳句大会などが盛大に行なわれている。近年は全国数百校から十五万句以上の投句があるという。
               昭和六十三年二月
                         東京都足立区教育委員会

炎天寺の歴史

<暑いものづくし>

 六月村の炎天寺、住職が土用坊で、おかみさんがお夏さん。弟子が温気坊で寺男が藪蚊蚤平。村の名主さんが夏左衛門・・・という暑いものづくしの小咄が伝わっている。

<六月のたたかい>
 平安時代の後期(天喜四年、1056年)京都から東海道、そして奥州街道(今は国道四号線)を岩手県へむかって進んでいた源頼義とその子の八幡太郎義家が指揮する軍隊を野武士の一団がその進路をふさぎ合戦となってしまった。真夏(旧暦の六月)炎天のさ中を歩いてきた軍隊は疲れ切っていて、よく戦えず、戦況はきわめて悪く進展してしまった。そこで義家は遙か京都の石清水八幡宮に祈願、兵士らの心をひきしめて戦いを勝利にみつ(原文のまま)びくことができた。よろこんだ義家は寺の隣りに八幡神社を建立、村の名を六月、寺の名を、源氏の白旗が勝ったので幡勝山、祈願がかなったので成就院、炎天のさ中だったので炎天寺と改めたという前九年の役のエピソードが伝わっている。

<やせ蛙・・・小林一茶>
 江戸時代後期の俳人・小林一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、竹塚の作家・竹翁東子などと寺のあたりをよく歩き、つぎの俳句をのこしている。
     蝉鳴くや六月村の炎天寺   文化十三年九月(1816年)ー境内に句碑ありー
     むら雨や六月村の炎天寺   文化十四年六月(1817年)
また、武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる、四月二十日なりけりという前書の句はあまりにも有名である。(一茶手記“しだら”に誌さる)
     やせ蛙負けるな一茶是にあり  文化十三年四月(1816年)ー境内に句碑ありー

<一茶以外の句碑など>
     敷きたまへ花のむしろを菩薩たち   寶  圓(墓)
     蝉声降りしきれ寺領に子どもらに    楠本憲吉
     日漏れては急ぐ落葉や炎天寺    石田波郷
     黄銀杏の一茶まつりの子にあまねし   吉本忠之
     施餓鬼会の背に極楽の余り風    石鍋静穂

<こども俳句一茶まつり>
 一茶をまつる一茶まつりが毎年十一月廿三日におこなわれ、とくにメイン行事の全国小中学生俳句大会には北海道から沖縄までの山間や海辺そして都会の小中学校、さらには遠く海外の日本人学校ら毎年二十数万句の作品がよせられている。また入賞全作品をあつめた「俳句のひろば」が毎年発行されている。

<まつってあるほとけさま>
 炎天寺の本尊さまは、西方浄土のほとけ阿弥陀如来である。脇仏として弘法大師がおつくりになったと伝えられている薬師如来、鎌倉時代の不動明王が、平成十八年より聖観世音菩薩がまつられている。境内には六地蔵、子育地蔵、弘法大師の銅像がある。なお炎天寺が所属している宗派は真言宗豊山派で総本山は奈良の長谷寺である。

<いろいろな行事>
(以下略)


 右に境内でつながる八幡神社は、炎天寺のすぐ右横にあるが、「義家旗掛けの松」がある。立ち寄らなかったが、東武伊勢崎線竹ノ塚駅の東北700m位の線路西側にも「白旗塚史跡公園」というのがあり、源頼義・義家父子が自分たちの目印として「白旗」を立てたと言われている推定5~6世紀頃の古墳がある由。

西光院(10:17)---炎天寺のすぐ近く公園の先---
               西 光 寺
 本院の開基は、河内与平衛胤盛(寛永8年・1631年没)である。河内氏は、天正十八年(1590)小田原北条氏の没落後、この地竹塚村に土着し、のち徳川家に仕え、その一家は代々当村の名主を勤めていた。
 本堂前にある金剛界大日如来座像(銅造)は、智拳印を結び、宝冠をいただき、整然とした美しい顔立ちをしたものである。中央の蓮弁に、元禄十二年(1699)九月、河内喜衛門・同久蔵・母かく・河内久左衛門などの名が、左右蓮弁には、近隣の村々の寄進者名が数多く彫られている。
 境内にある河内先生追慕之碑は、河内武胤、通称久蔵(慶応四年、1868年没)の門人が明治十七年に建てたもので、隷書の大家中根半嶺の書である。門前には、新四国八十八箇所と荒綾八十八箇所札所の標石がある。また、明治十二年には、寺内で公立正矯小学校が開校された。
               平成元年一月
                          東京都足立区教育委員会

 山号を「正入山」と言い、通称「大仏寺」、真言宗豊山派の寺院である。参道の右に弘法さん、大日如来坐像(屋外)が並ぶ。この如来像は1699年の建立で、以前は堂内に安置されていたものを昭和の代にここ屋外に移したために、戦災に遭わずにすんだ由。今は本堂が鉄筋コンクリート造になっており、戦火にあった証拠である。

常楽寺(10:24)---西光院のすぐ近く---

 当寺は真言宗豊山派の寺で観林山常楽寺いう古い寺で、寛永年間(1624~1643)河内与平衛によって中興されたと伝えられている。
 本尊は聖観音坐像で江戸中期のものと思われる。他に弘法大師・興教大師・閻魔の座像・六地蔵、文久二年(1862)の十三仏画等がある。
 墓地には、足立が生んだ江戸の文人、竹塚東子(とうし)の墓がある。東子は実名を谷古宇四郎左衛門といい、寛政・享和・文化にかけて著作活動をした文人である。
 東子は山東京伝の門人で、俳諧を越ヶ谷の会田吾山に学び、狂歌・落語・活花等もよくした風流人でもあった。出世作に寛政二年(1790)刊の「田舎談義」があり、文化元年(1804)刊の「敵討名誉一文字」以降は敵討ものを主とした。文化十二年(1815)十一月十三日没、法名は喬雲醍醐居士という。
               平成元年十二月
                         東京都足立区教育委員会

 また、本堂の扉のいた部分に「卍」の文字が浮き彫りされているのが印象的である。

万福寺(10:30)---常楽寺の隣---
               萬 福 寺
 本寺は、真言宗豊山派で、慈照山大悲院万福寺と号す。文明十年(1478)の板碑墓石があり、草創の古さを知ることができる。明和・寛政のころが、中興期でもあったようである。
 昭和三十五年に、諸堂を再建し、境内や墓域とも美しく整備された。荒綾八十八か所」の第四十六番札所にあたる。
 本尊は十一面観音像である。両脇に、弘法大師・興教大師の木造の座像があり、それぞれ厨子に納められている。そのまえに木造不動明王の立像が安置され、いずれも江戸中期の作と思われる。
 なお、当寺に、明治九年(1876)四月公立竹嶋小学校(同十二年二月正矯小学校と改名)が設けられ、竹塚・島根・栗原各村の子どもたちを教え、村民の開明に尽した。
                平成二年十月
                         東京都足立区教育委員会


保木間(ほきま)氷川神社(10:53)---街道に戻り、「竹の塚五」信号のすぐ先右折の左手---

 保木間地区の鎮守。当地は千葉氏の陣屋跡で妙見社が祀られていたという。妙見菩薩は中世期に当地で勢力を張った千葉一族の守り神で、千葉一族の氏神とされる千葉神社(千葉市)は今も妙見菩薩と同一視されている由。菩薩は仏さまだが、神仏混淆時代にはよくあることで、後に天神様をまつる菅原神社、江戸には近くの伊興・氷川神社に合祀。明治5年に当地で氷川神社になっている。本殿裏手に富士塚があり、鳥居には「榛名神社」。富士は富士でも榛名富士か? 氷川神社の前を通る道は江戸時代の「流山道」。日光街道がこの保木間で分かれ、東の成田山、西へ向かうと西新井大師に続く道で、「成田道」とか「大師道」とも呼ばれた信仰の道だったようだ。神社の入口に、この地で名演説をし、「保木間の誓い」をしたことを顕彰する田中正造碑がある。

寶積院---氷川神社の右隣---

 ここも真言宗豊山派の寺院で、山号は「北斗山」。本堂に向かって左手の弘法大師像の前に足形の仏足石のようなものがあり、
「この下に長谷寺及び高野山のお砂を納めました。この上で拝むことは長谷寺及び高野山参拝と同じ功徳があります。」と彫ってあるので、御砂踏み霊場などと同様に踏んで参拝する。

五街道都内完歩(11:23)・・・毛長川のすぐ先=都県境

 国道4号と交差し、11:23に「毛長川(けなががわ)」で「水神橋」を渡る。このすぐ先で、都内からいよいよ埼玉県(草加市)に入る訳だが、これをもって、東海道・甲州道中・中山道・日光(&奥州)道中の東京都内道路を歩き終わり、いわば「五街道都内完歩」をしたことになるので、自己満足をする。因みに、これまでの過程を整理してみたら、次のようだった。( * 印は、全区間完歩済みの街道)

   <五街道での都内完歩日>
     H.17.07.10 東海道・・・・・・・・・・六郷橋(多摩川)~神奈川県へ
     H.20.02.01*甲州道中・・・・・・・・・小仏峠~神奈川県へ
     H.20.11.23 中山道・・・・・・・・・・戸田橋(荒川)~埼玉県へ
     H.20.12.07 日光&奥州道中・・・・・・水神橋(毛長川)~埼玉県へ
   <五街道以外での都内完歩日>
     H.20.07.03 *人見街道・・・・・・・・・(全道都内)
     H.20.08.07 *大山街道(矢倉沢往還)・・・町田市南西端(R246)~神奈川県へ
     H.20.09.09 中原街道・・・・・・・・・丸子橋(多摩川)~神奈川県へ

富士浅間神社(瀬崎浅間神社)(11:30)---その先、「谷塚」信号右手---

 富士浅間神社は木花開耶姫命を祭る。
 神社がいつ創始されたかは明らかでないが、新編武蔵風土記稿には「浅間神社村の産神とす。善福寺持」とあり、善福寺は瀬崎町の歴史によれば「寛永四年(1627)の開基にして浅間神社は焔魔堂附近にありたるを明暦年間(1655~1657)現在に移動したものである」と記載している。
 現本堂は天保十三年(1842)に再建したことが本殿内にある擬宝珠銘から明らかである。
 富士山は古くから霊山として崇拝の対象となり、室町時代には参詣としての登山の風が完全に成立し、江戸時代になると富士講が組織され、先達を中心にして一団となって登山する信者が多くなった。
 本殿の建物は、間口二メートル三二、奥行三メートル六〇の流れ造の一間社で、前面に軒唐破風、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し善美を尽くしたものである。これは当時この地方に繁栄した布晒業者と地元の方が協力し、この地の富士講の面目にかけて造営したものと思われる。
 この本殿造営の天保ごろは県内でも写実化した彫刻の盛期でもあり、一般に外観を主に、いわゆる見る社殿としての傾向が強くなり、この建物も例外ではない。
 現在ではこのような豊富な彫刻を配した建物は少なく、特にこの地域での宮彫彫刻を研究する上からも重要なものである。
草加市教育委員会


 江戸時代、長谷川角行や身禄行者らの指導者が現れ、関東一円に広がったと言われる「富士講」や地元布晒業者たちによって造営された神社であることがわかる。道を隔てた北側右手には、同社の別当寺である「善福寺」がある。

(注)別当寺とは、江戸時代以前の神仏混淆が許されていた頃、神社に付属して置かれた寺をいい、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(or社僧)と呼んだことから、別当のいる寺を別当寺と称した。神宮寺、神護寺、宮寺なども同義語である。明治期に発布された神仏分離令や廃仏毀釈・神社統合令などの変革の中で、これら別当寺は、独立・統廃合・廃止されていった。

 この境内には、面白いものがある。
               浅間神社手洗石の行程測量几号
慶応元(1865)年銘のある手洗石に刻まれている「不」の記号は、「行程測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。
内務省地理寮が明治九(1876)年八月から一年間、イギリスの測量技師の指導のもと、東京・塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在の瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。
当時、記号を表示する標石は主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、三、九五三メートル。測量の基点となったのは霊巌島(現在の中央区新川)で、この平均潮位を零メートルとしました。
その後、明治一七年に測量部門は、ドイツ仕込みの陸軍参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。
以後、手洗石も明治末と昭和七年に移動し、記号にも剥落がみられますが、測量史上の貴重な歴史資料といえます。
                         草加市教育委員会

---街道左手の谷塚駅前通りに入り、「そば茶屋大むら」で昼食(11:40~12:06)---

火焙り地蔵(12:15)---浅間神社から暫く行った先右手の交差点角---
               武州足立郡谷古田領瀬崎村地蔵堂縁起
当、地蔵尊は、電設によれば昔、千住掃部宿の孝行娘が瀬崎の大尽の家で奉公をしていた。ところが、母親の大病を知っても帰宅を許されず、思い悩みその家に放火、その罪で火焙りの刑となった。
村人は娘を哀れみ地蔵堂を建立し供養したという。しかし、これを裏付る資料はなく史実は不明である。
 なお、江戸後半の文化三年(1806)に完成し「日光道中分限延絵図」に、この地蔵堂が描かれている。それに、ここの石仏には、明和元年(1764)の供養塔・安永五年(1776)の光背村地蔵尊・弘化五年(1848)に近隣十四ヶ村の信徒によって造立された馬頭観音が有るが本尊には刻銘は無い。ところで、この地蔵尊は北方から邪神が当村に入るのを防ぐ境神でもある。
                         文責  浅 古 倉 政
 尚、当堂は、昭和七年より始まった旧国道の拡幅と今般の新県道用地で二度移動した。

---12:22街道は左斜め前への旧道(市役所通り)に入る。草加煎餅の店が増えてくる---

浅古家の地蔵堂(12:25)---左手の草加市役所の入口に建つ小堂---

 草加市役所は、昔の豪商・草加16人衆の一人で、最高実力者といわれる「大和屋」浅古半兵衛の本宅跡で、市役所入口には浅古家の本宅角にあった屋敷神の祠が残っている。市役所の横にも浅古姓の古い立派なお屋敷があるが、この辺りは浅古姓が多く、地元の有力者だったことが判る。地蔵には寛文七年(1667)の銘があるそうだが、木の扉があり中は覗けなかった。

浅古正三家

 市役所の先左手に、由緒ありそうな家がある。明治末期築の建物だそうで、広い敷地内の梅の古木が市の保存樹に指定されているそうだが、浅古姓の豪邸が目立つ。

■草加駅前(アコス広場)の「せんべい像」(12:35)

街道左手の草加駅前の駅に向かって左手に、等身大で、せんべいを食べる「アコちゃん」のブロンズ像が、テーブルを前にしたベンチに座っており、微笑ましい。せんべいを焼く「おせんさん」の像も駅に向かって右側あるらしいが、元の街道に戻る。

旧商家「藤城家」(12:41)---街道に戻って右手---

 そんな町並の中で、堅牢な土蔵造りの元米屋さん(藤城家)を発見する。震災後の建物だそうだが、住まい・店舗・石蔵・中庭がある、今や貴重な存在である。

明治天皇草加行在所跡・大川家分家跡(12:52)

 明治14年(1881)明治天皇東北・北海道巡幸の折、行在所にもなった大川家の当時の立派な屋敷の写真が後述の歴史民俗資料館にあるが、この屋敷はその大川家の分家で昭和15年(1940)に土間を歯科医院に改造、今大川歯科医院になっている。場所は街道筋にある草加住吉郵便局の奥、つまり一筋東の県道49号沿いだった。「明治天皇草加行在所」と書いた昭和9年11月3日建立の石碑が立っている。最初は少し手前から入って判らず、地元の人に訊いたりして、若干手間取ったが、流石に豪壮なお屋敷だったことが窺え、先ほど見た浅古家のお屋敷と言い、上には上があることをあらためて感じさせられる。

草加宿と草加煎餅

 元々は、千住宿から越谷宿まで4里15町余もある長丁場だったが、小田原北条家の家臣だった大川図書(?~1619)という人が天正18年(1590)の小田原落城後当地に隠棲し、幕府に願い出てこの地を開発、草加宿を形成したという。農耕の奨励、新田開発、寺院建立など、宿場形成に多大な貢献をしている。人口約3,600人、総家数約700軒(本陣1・脇本陣1・旅籠67)を有する日光街道で2番目の宿場規模を有する町である。大川図書が元々沼地だったのを埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたと言われている。この結果、往時の日光街道草加宿は、現在の市役所通り・草加中央銀座・住吉・六丁目という4つの商店街になって繋がっている。

 しかしながら、草加宿は明治3年に起こった火災で、江戸時代からの建物は残っておらず、従って曾ての宿場らしい趣は殆どなく、何軒かの趣ある造りの家もあるにはあるものの、すべて明治以降の建築であり、往時の面影は求め難い。草加煎餅で有名だが、電柱ほか、草加煎餅の看板がそこら中に目立ち、煎餅屋の数は数え切れない程で、百軒以上あるとか。


大川図書の屋敷跡と歴史民俗資料館(13:03)---左手の市立草加小学校が立っている所---

 草加宿を開いた大川図書の屋敷跡が小学校になっている。その西端に大正15年(1926)築の県内初の鉄筋コンクリート造りで誕生した小学校旧校舎を利用した市立の「歴史民俗資料館」があり、入場(無料)する。1F~2Fの旧各教室にいろいろ展示されているが、草加宿の由来も記されている。また、驚いたのは、草加宿の命名者が二代将軍徳川秀忠だという新知識も得た。
 「今様草加宿ガイドマップ」「草加市文化財マップ」「埼玉県東南部5市1町広域ガイドマップ」「草加市立歴史民俗資料館」など、素晴らしい資料も戴けた。

「三」並びの道路元標

 再び旧道に戻る。明治44年の道路元標で、「千住町へ弐里拾七町五拾三間三尺、越ヶ谷宿へ壱里三拾三町三拾三間三尺」と記されているのがあるという情報に基づき捜してみたが、残念ながら発見できなかった。三の5つ並びは、敢えて語呂の良い場所を選んだのだろうが、それにしても珍しそうなものだけに悔しい。帰宅後、草加市立歴史民俗資料館で戴いたマップで所在地が確認できたので、悔しいが「よし」とせねばなるまい。

おせん茶屋跡(13:29)---その先左手の東福寺の参道の向かい---

 草加宿の茶店のおせん婆さんが、日によっては売れ残った団子を、夕方前の川へ捨てていたのを見た通りすがりの武者修行の侍が「捨てるのは勿体ない。つぶして乾かし焼餅として売った方がよいと教え、それを実行したら旅人から喜ばれ、ここから現在の草加煎餅が始まったという。ただ、単なる伝承であり、文献にある訳ではない。

東福寺(13:32)---その先左手---

 草加宿の祖・大川図書が慶長11年(1606)に創建し、僧賢宥が開山した寺で、同氏の墓もここにある。正式には「松壽山不動院東福寺」という。鐘楼・本堂・山門は立派な彫刻が施されて、市の指定文化財になっている。江戸落語中興の祖「石井宋淑」の供養塔もここにある。東福寺の山門は桟瓦葺きの豪華な四脚門である。四脚門は四足門とも言われ、本柱(円柱)の前後に控柱(角柱)が四本立つことから四脚門と言われる。

おせん公園・おせん茶屋(13:42)

「伝右(でんう)川」に架かる橋の先左手にある。伝右川は以前はよく氾濫し、松原団地辺りは床上浸水したが、改修により落ち着いた。曾て役場や消防署のあった場所が小公園になり、煎餅の考案者といわれる茶屋の「おせんさん」に因んで「おせん公園」と名付けられ、トイレ完備の休息所になっている。「草加せんべい発祥の地」と刻まれた大きな石碑がある。

 また、道の右手広場には「河合曽良像」が立ち、造立寄進者名が銘板になっている。(13:44)

札場河岸跡(13:46)---右からの道(県道49号、旧4号線)と合流し、伝右川を渡つた右手の綾瀬川沿い---

 「伝右川」に架かる橋は、新しいが彫刻があり情緒がある。渡った所にある「望楼」は展望台まで登れるらしい。右手の綾瀬川は江戸に通じる重要な水路で、米、塩などの物資を運んだ「札場河岸跡」が公園になってある。所有者の屋号が「札場」だったことから命名された公園の由。明治32年の東武鉄道敷設に伴って舟運が衰退、遂には廃絶され、今では「札場河岸公園」になり、「芭蕉旅姿像」や「正岡子規句碑」「高浜虚子句碑」等がある。

甚左衛門堰(13:47))

 少し右に寄り道すると、潅漑用に開削された伝右川の水位調整目的で造られ指定文化財にもなっている煉瓦造の水門「甚左衛門堰」がある。明治27年から約90年間使用された二連アーチ式の煉瓦造り水門で、建設当時の姿を保ち、長平面と小口面を交互に並べる組み方が特徴的である。

日本の道百選:日光街道の松並木・・・草加松原(千本松原)

 旧道に戻る。望楼前に「芭蕉の銅像」がある。「日本の道百選日光街道」と刻んだ大きな石碑がある。その先歩道橋は、太鼓橋を模した造りで、なかなか情緒がある。松尾芭蕉とは無関係の観光用ネーミングだが、「矢立橋」と称し、国道右側の「日本の道100選」の見事な松並木道にぴったり似合う良い風情である。その右側の綾瀬川は江戸時代掘られた水路で水質ワーストワンの川だったが、水勢遅々としてよどみがちな水面は、大いに改善を要する三流河川である。これでもまだ以前よりは随分良くなったとか。
 1.6km程続く松並木は、関東郡代伊奈半右衛門が綾瀬川改修の際に植えたもの。街道右手の綾瀬川沿いに続くもので実に見事である。われわれ街道ウォーカーにとって何よりの馳走である。流石に日本の道百選に選ばれただけのことはあると思う。それだけに綾瀬川の水流をどうにかしてほしいものである。
綾瀬川に架かるハープ橋を過ぎ、今度は「百代橋」(14:00)を過ぎ、どんどん歩く。橋の手前左手には、コロンビア大学名誉教授で日本文学研究者の「ドナルド・キーン記念植樹 奥の細道国際シンポジューム」の木碑があった。橋を渡った左手には「松尾芭蕉文学碑」もある。

芭蕉のタイル画(14:13)

 草加松原遊歩道を綾瀬川沿いに行き、東京外環道路とぶつかる。日光街道はそれとぶつかる少し手前で県道49号を左に分け、外環道を潜るが、潜った先左に日光街道を旅する芭蕉と弟子の曽良を描いた2枚のタイル画がある。
江戸時代の旅人は、男なら一日十里が標準的だったようだが、芭蕉は元禄2年3月27日に江戸深川の自宅を出発し、その日に草加の宿に泊まった訳だから、年齢から考えても大変な健脚家だったようだ。

茶屋通り・蒲生の一里塚(14:23)

 松並木が途絶えると、桜並木に変わる。ここは「茶屋通り」と呼ばれていたが、昔、高瀬舟が綾瀬川を往来していた頃、「藤助河岸」(後述)に集まる商人達をもてなす茶屋が並んでいたり、蒲生大橋手前に立場があったことからこの名が付いた由。
 「蒲生大橋」を渡ると右手に「蒲生の一里塚」。これは埼玉県内の日光街道で現存する唯一の一里塚の由。今でも大きなムクエノキが黄色に輝く銀杏の木の奥に聳え、遠目に見てもそれとわかる。一里塚は、本来「塚」というぐらいだから周囲より高くなっている筈だが、川岸でしかも橋の傍なので盛り土された周囲に比べ、残念ながら堤防より低い位置になっている点は一里塚らしさに欠けると言えなくもない。

 文化年間(1804~1818)の幕府編纂「五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで布達の小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されているそうで、この一里塚が街道の東西に一基ずつあったことがわかるが、今では東側の一基だけが絵図にがかれ対置に残っている。

 塚の横には安政4年(1857)造立の道標と供養塔がある。

 なお、埼玉県内における日光街道の宿としては、ここから始まる「越ヶ谷宿」が最大規模だった由で、家康や秀忠も度々鷹狩りに訪れており、そうした際の休息場は、現在でも「御殿町」の地名(元荒川の蛇行する内側一帯)で残っている。

藤助河岸(14:25)

 綾瀬川と出羽堀の合流地点にあった河岸で、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、この河岸で高瀬船に積み替えられ、東武鉄道越谷駅が開業する大正9年(1920)迄は東京への輸送基地として栄えていた。河岸の前の家には「藤助酒店(日本盛)」の看板があり、この後少し行った右手には「藤助薬局」というのもあった。
               「藤助河岸跡」
 綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃とみられている。当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝八年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。
 明治に入り政府は河川や用悪水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の堆積で大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。この中で、陸羽道中(旧日光道中)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正二年(1913)には資本金五万円の武陽水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、舟の大半を大正十二年の関東震災で失うまでは、年間一万八千駄、着荷は二万駄に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。
 なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助十八代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。
               平成五年
                         越谷市教育委員会


ぎょうだいさま(14:36)---越谷市に入り、一里塚から暫く行った先左手---

 「ぎょうじゃさま」あるいは「おかまさま」とも呼ばれている「砂利道供養塔」である。幕府直轄道路だった日光街道の道普請は、主として親藩が受け持っていたが、この塔は道普請完了を記念して造立されたものだそうで、格子戸の中なので見えなかったが宝暦3年(1753)の銘がある由。板戸の前には大小の草鞋が数足ぶら下げられている。

清蔵院

 更に行くと、県道49号に合流するが、その右手に清蔵院がある。
          越谷市指定 有形文化財 歴史資料
               清蔵院の山門
 この山門は、屋根など部分的に改造されているが、その棟札により寛永十五年(1638)関西の工匠による建立であるのが確認される。ことに、欄間に掲げられている龍の彫刻はじめ虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴なようしきをかがわせている。
 なお、この山門の龍は巷間の伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を抜けだして畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったという。おそらくこの山門の建立者は、日光東照宮造営に動員された工匠の一人で、日光への往返に世話になった因縁から、東照宮竣工(寛永13年)後再び国元から蒲生に来てこの山門を建立したものであろう。
 越谷では数少ない江戸時代初期の建造物として、また日光東照宮造営にまつわる伝説を残す歴史的資料として貴重なものである。
               平成十五年一月
 
                                  越谷市教育委員会
 確かに、左甚五郎作なら国宝級だろうし、少々扱いがお粗末過ぎはしないかと思う。

本日のゴールへ

 やがて左からの県道49号と合流し、後はひたすら越ヶ谷宿へと行くのみ。武蔵野線のガードまで1.5km、ガードを越え、更に1.1km行けば、左手に入る旧道が越ヶ谷宿入口だし、450m先を左に入れば越ヶ谷駅だが、武蔵野線を利用したい小生は、武蔵野線の南越谷駅が好都合だし、村谷氏は隣接する新越谷駅から帰路につけるので、ここを本日のゴールにすることにして、武蔵野線ガード下の食彩屋「一源南越谷店」で軽く打ち上げ、散会した。