日光街道餐歩
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2008.11.01(土) 日光道中第1回餐歩記・・・日本橋〜梅島駅

10:00日本橋:元標広場での待ち合わせ予定だったが、14日から3泊4日での東海道旅の往路新幹線指定券を買うべく早めに東京駅に着いたので、以前家内と一度見たことはあるが、「常盤橋御門跡」へ行き、数枚写真を撮る。姫路から来たという中年男性がレンタサイクルで皇居周辺地図を片手に“一日で回れますかねぇ”と問いかけてくる。訊けば、中山道・東海道・山陽道なども歩いた強者だったが、街道歩きの話などをして別れ、「一石橋」袂の「迷い子しらせ石」なども再見学してから「日本橋」へ向かう。

既に村谷氏は到着済みで、傍には団体客が記念撮影している見慣れた風景が眼に飛び込む。元標広場で互いにスタート記念の写真を撮り合い、9:52に日光道中(途中、宇都宮までは奥州道中と同じ)餐歩の第一歩を踏み出す。

先日の中山道餐歩一回目で立ち寄り済みの「三浦按針屋敷跡」は当然割愛し、三越前で右折。この辺りには旧街道を思わせるものは何も残っておらず、むしろ閑散とした裏道的雰囲気である。大分以前かららしいが、地下道を無料ホテルと心得た自由人たちの段ボール製ベッドなどを横目に、国道四号(昭和通)頭上を通る高速道の下のそれを潜り越え、右手のホテルギンモント前の植栽に「日光街道標識」があるとの事前情報に基づき2人で捜すが、撤去されたのか見当たらない。

小伝馬町江戸牢屋敷と刑場・・・大安楽寺と十思公園

小伝馬町信号から本日最初の寄り道スポットに行くべく、街道を左に離れる。江戸通を渡った所に、江戸時代の歴史を刻んだ目玉スポット「大安楽寺」と区立「十思(じっし)公園」があり、立ち寄る。ここは曾て「小伝馬町江戸牢屋敷」のあった場所で、時代小説でもお馴染みの場所だ。小伝馬町江戸牢屋敷は、江戸期における日本最大の牢屋敷で、2600坪といわれる敷地では、慶長年間から明治までの270年の間に10万人以上の囚人が処刑されたと言われている。安政の大獄では、吉田松陰や橋本左内等がここで処刑され、十思公園には吉田松陰終焉の地の碑が建っている。

最初に立ち寄った「新高野山大安楽寺−準別格本山」は、「弘法大師」と書いた大赤提灯に目が止まり、四国遍路経験者同志として敬意を表するべく立ち寄ったが、ここが牢屋敷の中でも斬首刑を行っていた処刑場跡に建てられたものであることに気づき、驚嘆する。しかも、帰宅後、その名前が、寺を造る際に費用を寄進した「大倉喜八郎(ホテルオークラ等)」と「安田善次郎(安田財閥)」の「大」「安」に因んでの「大・安・楽寺」命名と知り、二重の驚きとなる。

その先右手の「十思(じっし)公園」には「石町時の鐘」「吉田松陰先生終焉の地」「江戸伝馬町牢屋敷跡」についての「江戸史跡保存協賛會」の昭和29年11月作成・平成2年3月再作成の「由来板」があり、園内左奥に「時の鐘」、右奥に「松蔭関連の歌碑」等がある。

石町時の鐘

江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間の近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚四文ずつを商業地區の大町小町横町計四百十ヶ町から集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町、浅草、本所、横川町、上野芝切通、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聴いたことでろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京都に寄進した。

吉田松陰先生終焉の地

吉田松陰先生は天保元年(西暦一八三〇年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の次男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しょうとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松蔭は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌に述べている。しかし幕府の役人を動かすことは出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書き上げたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」十月念五日 二十一回猛士 と記してある。松蔭はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松蔭魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松蔭は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。

★江戸伝馬町牢屋敷跡

伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷獄舎が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御□場死刑場役は有名な山田浅右ェ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこゝで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。

約150年の歳月を隔てた今、なお強烈な電圧をわれらに与える松蔭先生の余韻が鮮烈に残る中、街道に戻ってさらに進み、「横山町問屋街」にさしかかると、先ほど感じた雰囲気は一変する。歩道はおろか車道にまで商品や段ボールを積み並べ、商魂逞しい元気街が延々と続く。漸くその町並を抜けると、清洲橋通を経て江戸通に合流し、街道は浅草橋に達する。巨大な交差点は複雑な地下道を経由しなければ渡れない。

郡代屋敷跡・・・神田川に架かる「浅草橋」の南西側に「郡代屋敷跡」の解説板がある。

 
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642)に関東諸代官の統括を命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688〜1704)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊那氏が世襲しました。
 その役宅は、江戸城の常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
 寛政四年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
                  平成二十年三月
                              中央区教育委員会


郡代と代官の相違点

ついでながら、郡代と代官について触れると、幕府の領地は、大名に預けたり、旗本に分割した所もあったが、過半は直轄領として郡代や代官が支配した。この両者の職務はほぼ同内容だが、郡代は十万石以上、代官は五万石以上の支配という差がある。官位で言えば郡代が従六位相当の布衣(ほい)、代官は三百俵から五百俵の平旗本である。役高は役職の重要度として現れるが、郡代は四百俵、代官は半分以下の百五十俵である。
幕府の郡代は関東・飛騨・西国(九州)・美濃の四ヶ所で四人、代官は直轄地の各地に四十人から五十人いた。郡代も代官も勘定奉行の支配下にある。原則として、勘定奉行→郡代→村役人か、勘定奉行→代官→村役人であった。郡代が代官を支配した、勘定奉行→郡代→代官→村役人もないことはないが、前記が原則である。諸藩にも幕府の職制をまねて代官がいた。また三千石以上の大旗本も現地の用人を代官と言わせている。
代官には世襲と一代限りがあり、京の小堀氏、近江大津の石原氏、同信楽(しがらぎ)の多羅尾(たらお)氏、伊豆韮山(にらやま)の江川氏、肥前長崎の高木氏は世襲で、これを「代々代官」、それ以外は一代代官で、はじめ五万石の支配所が授けられ、成績次第で六万石、七万石と累進、十万石支配になることもあるものの、代官が出世して郡代になることはまずない。

神田川・旧浅草橋・浅草見附跡

浅草橋の上から神田川を見ると、沢山の観光船が両岸にぎっしりと係留されていて、何十年か前に職場の仲間たちと船遊びしたことを思い出す。右手は両国橋に通じ、隅田川河畔はあの粋の町「柳橋」だ。橋の北側には「浅草見附跡」がある。
見附とは、外敵の侵攻・侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、「なぜ、ここなのか」と一瞬思ったが、江戸城には全部で36の見附があったことを思い出し納得する。

                    旧町名由来案内
          旧浅草橋
 浅草橋という町は昭和九(1934)年に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
 江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから気づかれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。


街道は国道6号(江戸通)を総武本線と交差して北上し、「須賀橋交番前」信号で警官に確認の上、右折・寄り道する。

第六天榊神社と浅草文庫碑

以前、2007.01.08東京都ウォーキング協会主催の「下町八社」ウォーキング大会に初参加の際、鷲神社から始まる三番目の立ち寄り神社として参拝したことがあるが、その時は他の参加者に負けじと急ぎ足で歩くのに必死で、ゆっくりとした参拝や由来などを確認する余裕が全く無かったが、きょうは神仏に敬虔なる仲閧ニの歩き旅なので、ゆっくりと参拝出来る。

第六天榊神社の縁起には
「景行天皇御字四十年 紹命を奉じ日本武尊東国鎮座の神宮として御創祀 祭神第六天榊大神」とある。この縁起は上野の五條天神の縁起と似ている。五條天神縁起によると、「第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀」だという。第六天というのは、仏の世界で欲界という天上にいる天魔王のことらしい。

第六天神社は享保4年(1719)に、それまでの森田町(現蔵前3丁目)から、茅町1丁目東側(現柳橋1丁目)に移された。明治2年に社号を榊神社に改称した。神仏分離思想が風靡していたことから、「第六天」とは仏教界の名称で忌まわしいとの思いがあったようである。現在の蔵前一丁目に移転してきたのは震災後の昭和三年で、それまではここには浅草文庫があった処である。

        浅草文庫跡

 浅草文庫は明治7年(1874)7月に創立された官立の図書館である。翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は十一万余冊とも十三万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆跡と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
 明治十四年五月に閉鎖。跡地は翌十五年に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正十三、当時の東京工業高校は目黒区大岡山に移転。
 昭和三年に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて、浅草文庫が位置していたところである。高さ四メートルの碑はこの文教の旧地を記念して、昭和十五年十一月建立された。
                平成十三年三月
                       台東区教育委員会


再び街道に戻り、「蔵前一丁目」を右折し、寄り道スポットに向かう。目的は、片道850m程の大層な寄り道になるが、我ら両名にとって縁の「旧安田庭園」にこの機会に立ち寄りたかったのと、その途中、隅田川に架かる「蔵前橋」の手前左右に見所がある為である。

先ず、橋手前右手の見所は、「首尾の松」である。解説板に次のように記してある。

          首尾の松
この碑から約百メートル川下に当たる、浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。
 その由来については次のような諸説がある。

一、寛永年間(1624〜43)に隅田川が氾濫したとき、ねね三代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、裂中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

二、吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。

三、首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、ちかくにあった松を「首尾の松」と称したという。

 初代「首尾の松」は、安永年間(1772〜80)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(1854-59)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したが、これも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和三十七年十二月、これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が、地元関係者とともに、この橋際に碑を建設した。現在の松は七代目といわれている。
                 平成十一年三月
                           台東区教育委員会

傍に、「蔵前橋」と題した石碑もあり、次のように刻まれている。

          
蔵前橋
 蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが、地名にもなったのである。
 この御米蔵は、元和年間に大川端を埋め立てて建てられたが盛時には、数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって、米が集積されたのである。
 近代になって、政府関係などの倉庫となり、その中には浅草文庫という書庫などもあった。
 蔵前の地は、札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通(つう)あふれた土地柄となってきた。近代においても、大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。
 大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が昭和二年(1927年)に完成して、今日に至っている。
             昭和五十八年三月
                        東京都


強い風に帽子が吹き飛ばされるのを防ぎつつ橋を渡り、右折して川沿いの堤防道を400m程行った所で、道を隔てて交差点の角に入口のある「旧安田庭園」に入る。この辺りを何回も通ったことがあるという村谷氏も、ここは立ち寄ったことがない由で、ニーズは合致している。

 
       (旧安田庭園)沿革
 この地は元禄4年(1701)、後の常陸笠間藩五万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は宗資が築造したと伝えられている。中央に「心」の字をかたどり、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉回遊式庭園である。
 明治になって旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年(1891)安田財閥の創始者安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、家屋及び庭園は大正11年(1922)、東京市に寄付された。
 大正12年(1923)9月1日の関東大震災により、壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事を行い、旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名した。唱和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として初めて一般に公開された。
 昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に名園といわれた往時の姿に復元した。
 平成8年(1996)、明治時代の代表的な庭園として、東京都の「名勝」に指定された。その後、施設の老朽化が著しくなったので、貴重な文化財庭園を後世に残すため、墨田区では平成17年(2005)に「旧安田庭園整備保存管理計画」を策定した。この計画に基づき、貴重な文化財である旧安田庭園を保護し、さらなる活用に努めている。


庭園内を飛び石伝いに一回り巡ったが、老若男女達が園内で秋日和を楽しんでいて、庭園の美しさと共に心の安堵するひとときであった。

浅草御蔵跡碑

元の橋に戻って街道に向かったが、首尾の松の道路反対側にある「浅草御蔵跡碑」は、横断箇所が無く、道のこちら側から碑を見るにとどまった。

街道に戻り、「蔵前一」信号から北上すると、左手に「駒形どぜう」が見えてくる。既に待ち客が板前姿の店員に名前などを申告して順番待ちしているのが道のこちらから見え、カメラを向けてしまった。日光街道探訪で初めて出会った古い建物かも・・・と思いつつ、浅草通との交差点に出る。すぐ右手が「駒形橋」で、その袂に「駒形堂」や公衆トイレもある。村谷氏も何度か通ったことがあるらしいが、朱塗りの駒形堂が由緒のあるものだとは思っていなかったそうで、彼も立ち寄るのはきょうが始めてとのことである。

駒形堂

駒形橋西詰交差点の北側に建つ駒形堂の敷地内には、「ここは浅草寺本尊垂迹の霊地として、駒形堂を中心に十町余の川筋での魚介殺生を禁じる」趣旨の次のような解説板や、大きな「郷土資料 浅草観音戒殺碑」が立っている。

        
   郷土資料 浅草観音戒殺碑
 総高百八十三・五センチ。元禄五年(1692)浅草寺本尊が垂迹した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は聖天岸にいたる一〇町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄六年三月浅草寺第四世宣存が願主となり建立したものである。
 駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑もいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦九年(1759)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現存の碑が当初のものであるか、再建のものであるかし詳らかではないが、昭和二年(1927)五月に土中から発見、同八年修補再建されたものである。
              昭和四十六年十月一日 建設
                        東京都教育委員会

           ご本尊ご示現の聖地 駒形堂
 駒形堂は、浅草寺のご本尊の聖観世音菩薩さまが、およそ千四百年前、隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。
 昔、この辺りは船着き場で、渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、ふねで浅草寺参詣に訪れた人々は、まずこの地に上陸して駒形堂にお参りして、観音堂へと向かった。
 このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔も、この地を行き交う人々をお守り下さっている。
 現在のお堂は、平成十五年に再建されたもの。
 今もこの地はご本尊ご示現の聖地として、人々の篤い信仰に支えられ、毎月の十九日の馬頭観音さまのご縁日には、多くの参詣者で賑わう。
                        金龍山 浅草寺


駒形橋西詰の駒形堂からは国道6号を直進せず、左(真北)の雷門方向へ向かう。雷門にたどり着くまでの間に日光街道一つ目の一里塚(浅草一里塚)があったそうだが、現在は跡形もなくその場所も定かでない。雷門周辺は、予想通り大勢の外人観光客も円高をものともせず屯している。近くの喜多方ラーメン店で軽く昼食を済ませ、雷門前信号で右折して吾妻橋信号で再び国道6号に戻る。このように鍵型に曲がって雷門前を通るのが本来の旧日光街道(奥州街道)なのだが、国道事務所で貰ったガイド地図では直進する表示になっていて、他のガイド本に従って鍵型に雷門経由のルートをとったが、どう考えてもこのルートが正しい。ここで、漸く4km程歩いた計算になる。

ふと、正面を見ると立派な金色に輝く☆△※を掲げたビルが見え、テレビか何かで見た記憶が蘇るが、村谷氏がアサヒビールの本社ビルだと解説してくれ、納得する。金色のソレを見ながら東武浅草駅前から国道6号線を北上する。

待乳山聖天

日光街道は言問橋西交差点で国道6号線と別れ、都道464号線(吉野通り)を北上していく。すぐ右手の交番で待乳山聖天への参道入口を確認し、先右手に入り込むと、銀杏の芳香?が歓待してくれる。地面あちこちに落下する銀杏を避けながら参拝する。

待乳山聖天は601年創建と伝えられ、供物として大根を供える「大根まつり」で知られる一風変わった寺で毘沙門天をお祀りしている。古い縁起によれば、推古天皇3(595)年9月20日、突然この地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられている。この不思議な降起は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」ご出現のおめでたい先触れであった。それから6年後、天候不順に人々は悩まされていたとき、大聖歓喜天がご出現になり、人々を苦しみから救われたという。以来、尊信が集まり、平安時代の天安元 (857)年、慈覚大師が東国巡拝の折、当山にこもって21日間の浴油修行をされ、国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられる。
当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示している。


以前から耳学問・目学問だけだったので、一度来てみたかった所だが、参詣客は多くない。「鬼平犯科帳」や「剣客商売」ほか、時代小説の著名作家“池波正太郎”は、ここ浅草句聖天町で生まれたそうで、誕生の地として解説板が立っている。また、境内には先般の東海道歩きの時に名古屋の熱田神宮境内で見た「信長塀」を想起させる「築地塀」が立っている。江戸期の名残を留める貴重な文化財であり、広重の錦絵にも描かれている旨の解説板が立っていた。また、「銅造宝篋印塔」とその解説板もある。

待乳山聖天を離れると、町並や雰囲気が少々変わってくる。近くには山谷堀公園や、新撰組の沖田総司終焉の地、また、招き猫発祥の地と言われる今戸神社もあるが、ここも前述ウォーキング大会で参拝済み箇所なので、立ち寄りは省略する。
一泊二千数百円の安宿や、伊藤園の「おーいお茶(500ml)」等が100円で買える自販機があったり、真っ昼間から露天屋台で酒を楽しむ元紳士たちが余暇?を楽しむ?店があったりと、独特の雰囲気を持つ一帯を進み、「明治通」を「泪橋」信号で越える。

泪橋

東海道歩きの時にも、鈴ヶ森刑場に引かれる罪人を見送ったという泪橋があったが、ここは、この先の小塚原刑場に送られる罪人達との別れの場だった所である。しかし、往時の橋は残っておらず、地名だけが残っている。

泪橋交差点の先は、複雑な立体交差橋を上り下りして渡らなければ、常磐線や日比谷線の線路を越えられない。車は地下道だが人は複雑そうな歩道橋を渡らねばならない。立体歩道橋を通っていたら、左前方下に多くの墓が見える墓地が視野に入ってくる。

千住回向院・小塚原刑場跡

千住回向院は、入るといきなり墓地であり、名前だけで想像していた寺院とは雰囲気が全く違う。向かって左側が一般の墓地らしく、右側が我々が自由に立ち入り回向できる刑死者たちの墓地域である。小塚原刑場で処刑された人々や牢死者が埋葬されており、一番奥まった右に橋本左内、左に吉田松陰や頼三樹三郎、右手前方向に鼠小僧次郎吉、高橋お伝など、歴史・講談でお馴染みの人物の墓があり、謹んで合掌・黙祷する。

             荒川区指定記念物(史跡)  小塚原の刑場跡
 小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町
千住宿の間の町並が途切れている場所に位置していました。
 小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして、回向院下屋敷(現回向院)れらの供養を担っていました。
 明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となりました。また、「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するために建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えています。(平成18年1月13日指定)
                    平成20年3月 荒川区教育委員会

 また、回向院入口には、「村越吉展ちゃん誘拐事件」での犠牲者を弔う「吉展地蔵尊」が建っており、遙か以前のことだか痛ましい出来事を思い出し、一瞬胸が痛んだ。

小塚原刑場跡・首切地蔵

刑場跡は何処だろうと、少々引き返して小塚原刑場跡を探し当てる。民家のブロック塀に大きな横長の木製解説板が取り付けられていたが、風化して少々読みづらい箇所もある。隣の延命寺には大きな首切地蔵が鎮座している。刑死者の菩提を弔うべく寛保元年(1741)に建立されたものである。「南無妙法蓮華経」の見慣れた髭題目石もある。

都道464号に戻る。なぜか「コツ通」と地図に表記されているが、どういう由来なのだろうと思って調べてみたら、「山谷通」とも呼ばれ、かつては両側に畑が広がり、富士山を望むこともできたというが、「コツ」の名の由来は、『小塚原(こつかっぱら)を略した』『小塚原刑場にあった火葬場に因んで骨(こつ)と付けられた』などの説がある由。

南千住商店街を抜けると都道464号は現・日光街道である国道4号と合流し、千住大橋で隅田川を渡った後、日光街道最初の宿場町「千住宿」へと向かうことになり、今日のゴールも大分近くなってきたが、水分摂取を控えめにしていたせいか、喉が渇きを覚え、先ほど買った\100の「おーいお茶」が超美味である。

素盞雄神社

国道4号に合流した左手に「素盞雄神社」があり、境内に芭蕉の奥の細道旅立ちの句碑もあるので立ち寄る。本殿横に「千住おおはし」の模型があり、石版には「千寿といふ所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて 幻のちまたに離別のなみだをそゝぐ」「行はるや 鳥啼魚の 目はなみだ」など、芭蕉旅立ちの様子が句と共に刻まれている。
元禄2年(1689年)3月27日、芭蕉は深川から舟で隅田川を遡り、千住大橋の北側あたりに上陸して旅に出たとされているが、「奥の細道」では正に今回の日光街道から奥州街道へと旅をしており、ここで巨匠の旅の始まりを確認しておいたので、我らの旅も先行きが楽しみな気がするが・・・

 
小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内でも最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
 石を神として尊崇する信仰は全国各地に見られるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(795)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は。「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
 宝暦年間(1751〜64)頃まで行われていたという千住大橋綱曳はその年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳時記」(天保九年)にその雄壮な様が描かれている。
                           荒川区教育委員会

千住大橋の碑

風に飛ばされないように、帽子を手で押さえながら千住大橋を渉ると、橋の北側には「千住大橋の碑」が石に刻まれてあり、「おくのほそ道行程図」も巨大地図で建っている。橋を渡る時、左岸左手岸壁部分に芭蕉らの旅姿が大きく描かれていたので降りてみたところ、いろいろな掲示が岸壁一面に掲示してあり、驚いた。千住大橋を描いたの浮世絵もあった。下記はその一部である。

その1.芭蕉と門下・河合曾良の旅姿絵と下記文
     
おくのほそ道旅立ちの地
     千じゅと云所にて
     舟をがれば、前途三千里の
     おもひ胸にふさがりて、
     幻のちまたに離別の泪をそゝく


その2.千住の大橋と荒川の言い伝え(木製解説板・内容紹介は略)
     大橋と大亀
     大橋と大緋鯉

その3.千住の橋戸河岸(以下の内容で一項一枚の木製解説板あり。内容紹介は略)
     橋戸河岸で陸揚げされた産物
     河川のうつりかわり
     潮待茶屋
     千住節(川越舟唄)
     川蒸気の登場
     千住の大橋 架橋と変遷
     明治四十三年 下町の大水害・・・三枚の写真付き

その4.全国の河川の番付表(内容詳記は略)
     東大関は、山城・加茂川、西大関は遠州・大井川

その5.全国の橋の番付表(内容詳記は略)
     東大関は、岡崎・矢矧橋、西大関は岩国・錦帯橋

千住大橋は、家康の江戸入府の4年後に架けられたが、それから約半世紀の間は、隅田川における唯一の橋だったとも言われており、その間における「千住宿」の繁栄ぶりが大いに偲ばれる。

千住宿の「やっちゃば」と「千住宿歴史プチテラス」

町並だけからすると、足立市場入口交差点脇から、「千住宿」の町並が始まった感じで、地元の「千住宿」保存への力の入れ具合がよく判る。先だっての中山道歩きの時の「板橋宿」もそうだったが、江戸四宿の一つとして、内藤新宿以外の三つは全て「熱心」である。左右の家々の前には、木造墨字書きの往時の屋号などの看板や説明板がそれぞれ掛けられ、元やっちゃばの南詰から始まるこの通りは、実に退屈しない興趣深い町歩きになる。

まず、芭蕉の旅姿(新しい石像)がいきなり眼に飛び込んでくる。「千住宿 奥の細道プチテラス」の木造横看板が横下に見えるが、少し先の左手にも「千住宿歴史プチテラス」なる建物があり、そこでは係の女性からお茶や旨いお団子のお接待までして戴いたが、地元の熱心さが痛感される。

現在は北千住駅の駅前商店街になっている千住宿は、江戸から二里八丁(8.7km)、人口約1万人、総家数約2400件(本陣×1・脇本陣×1・旅籠55)を有する日光街道(及び奥州・水戸・佐倉道)で最初の宿場町になる。当初は隅田川の北側が千住宿だったようだが、その後、人口増などで隅田川以南の小塚原周辺も千住宿に取り込まれていったらしい。

やっちゃ場通り

江戸時代、この通りで毎朝、野菜や魚を売る市が開かれ、ヤッチャヤッチャのセリの掛け声から呼ばれた。やっちゃ場の北詰まで行くと「源長寺」があり、その辺りから仲町商店街に入ると、通りの雰囲気がぐっと変わってくるのも面白い。

千住宿本陣跡・・・街道左手

千住宿本陣は一箇所だけだったそうだが、敷地361坪、建坪120坪だったという記録があり、地図看板で見ると町の一角が全て本陣だったほどの凄さにびっくりさせられた。

千住宿高札場跡・・・右手

その先右手にあり、木製の解説板がある。

横山家住宅と千住絵馬屋・吉田家

賑やかな宿場通りを進むと、右手に旧家「横山家住宅」がある。伝馬屋敷の面影を残す商家で、往時の屋号は「松屋」と言い、地漉紙問屋を営んでいた。幕末、敗走する上野彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕があると説明板にある。

その向かいが「千住絵馬屋・吉田家」で、解説板も立っている。

          
千住絵馬屋・吉田家
 吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く絵馬屋は都内にはほとんど見かけなくなって、希少な存在となった。
 唐代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい彩りの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
 絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、三十数種ある。
 これらの代表的絵馬が、現在吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民族資料である。
               平成四年三月
                        東京都足立区教育委員会


家の前の透明ガラス戸から中が透かして見え、面白い。

水戸街道分岐点

そのうちに挑戦することになるのかどうか、目下の処は全くその気はないが、右折するとここから水戸街道という分岐点に道標がある。水戸街道の先は本来水戸まで続くのだが、道は荒川で分断されるのでダイレクトには行けず、川の向うは小菅駅から行くことになるそうだ。

名倉医院

その先で、右に寄り道すると、右手の奥まった一角に古風な長屋門のある名倉医院がある。全く知らなかったことだが、江戸時代から「名倉接骨医」の名は高く、骨接ぎと言えば「名倉」、武備心流整骨法の本家本元で、関東近辺から荷車で運ばれた何百人ものけが人が列をなしていた由。病室がなかったため、近隣には金町屋、万屋、大原屋、柳屋、成田屋などの旅籠があったという。
余談だが、この翌日、村谷氏達と武蔵大和駅から秋津駅まで、空堀川河畔をウォーキングした際、「名倉」なる接骨院が途中にあり、早速この話を思い出したものだ。

今日のゴール「梅島駅」

元の街道に戻り、渡し船ならぬ現代の橋「千住新橋」で荒川を渡る。荒川は以前は荒川放水路と言って大正から昭和にかけ人工的に掘った川で、北区の岩淵水門で隅田川と分岐している。それにしても人力でこんな大きな川を掘るとは凄いものだ。

首都高中央環状線沿いに左折し、「川田橋」信号から右の街道旧道に入る。ここからは、見るべきものは無いが、段々と町並が賑やかになってくると、駅が近づいてきたとの確信が持ててくる。

3時頃、予定の梅島駅に着いたので、駅前の中華店で軽く打ち上げ、梅島15:48発の東武伊勢崎線で北千住へ出、ここで村谷氏と別れて千代田線に乗り換え、新御茶ノ水下車。中央線・京王線経由で17時半過ぎには帰宅できた。

きょうは、小伝馬町江戸牢屋敷跡や刑場跡、また小塚原刑場跡など、ディープなスポットに2ヶ所も立ち寄ったが、人権軽視の時代に無念の刑を執行された人々も多かったろう事を考えると、それらの人々の霊に合掌・黙祷を捧げることが出来た点において、格別意義ある一日だったように思われる。                                      合 掌
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