日光街道餐歩
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 2009.10.04(日) 日光道中第11回餐歩記(最終回)・・・今市宿~鉢石宿~神橋

 【本日の行程 街道距離8km+寄り道】

 【街道区間 今市宿(小倉町)→鉢石宿→神橋(日光道中終点)】

スタート(9:23)

 自宅からの往路は、日光街道シリーズ初の特急利用で向かう。新宿発7:30の「JR特急日光1号」に乗り、池袋・大宮・栃木・新鹿沼と途中停車しながら、途中「栗橋」で東武線の線路に入る。東武「下今市」駅に9時20分到着。早速常連の村谷氏や特別参加の田幸氏、及び宇都宮在住で2回目参加の飯島氏たちと合流し、シリーズ最多の4人で日光道中最終回を歩き始める。

 ここ数日、天候不良が続く中での谷間の好天日となったが、日頃の心がけに免じてお天道様も晴れ男達一同に敬意を表して下さったものと感謝できるのは、何よりである。

今市宿

 日光街道・例幣使街道・会津西街道が合流する交通の要所「今市市(合併で現在は日光市、(注))」は、その昔は「今村」と言い、今村衆七人を中心とする小さな村だった。それが、東照宮の完成に伴う徳川将軍や例幣使ほかの社参のための日光街道の整備に伴って、瀬川村や近郷からの移住者が増え、日光街道第20宿として宿駅が形成されて市場として賑わうようになったので、「今市」という名にになったという。

(注)この後立ち寄った史跡などに建てられている解説板などには、今市市時代のもの、それを市名だけ日光と訂正(建てた年月と整合性なし)したもの、日光市として建てたものなど、多々ある。


 ここ今市は、幾多の偉業を各地に残し、晩年には日光御神領の開拓事業にも多大な貢献をした「二宮尊徳翁」が業半ばで病に倒れ、70歳で生涯を閉じた所でもあり、街中には「二宮尊徳翁終焉の地 今市宿」などという大きな標柱(今市宿市縁ひろば前)も見掛ける。

 江戸時代から明治の中頃まで、長さ6丁(約650m)の町の出入口には木戸が設けられ、元禄9年(1696)には家数223軒(うち問屋1・年寄8・馬指1・馬役107・歩行役69・水呑軒37)、馬107匹、江戸・日光を結ぶ通信を取り扱う飛脚番2人がいたという。「上町(現・春日町1・2丁目)」、「中町(現・住吉町)」、「下町(現・小倉町1~3丁目)」の3町から成っていた。

 また天保14年(1843)の記録によれば、宿内の町並は東西7丁21間、家数231軒(うち本陣中町に1軒・脇本陣が上町に1軒)、旅篭屋大小21軒、人口1221人(男609・女512)、人馬継問屋が中町にあり、問屋1・年寄6・帳付1・馬指1・肝前6人が勤める宿場町だった。
 例幣使・輪王寺門跡・祭礼奉行をはじめ大名諸侯らの通行のため、日光道中の宿場鉢石・大沢、例幣使街道(壬生通)の板橋、会津西街道の大桑宿へ継立てた人足は延べ1万3000余、馬1万8000余匹に及んだというから凄い。

(参考)歴史民俗資料館・・・日光市平ヶ崎27-1 JR日光線今市駅前・今市図書館横

 最初に、やや寄り道になるが街道を南に通り越して、前回の終着点であるJR日光線の今市駅の北側にある「歴史民俗資料館」に立ち寄ろうかと考えていたが、これは日光街道を歩くのに、日光に関する歴史民俗資料館に立ち寄らない手はあるまいとの判断からだった。
 しかし、開館時刻が10時だった場合には早すぎて無駄足になりかねないため、相談の結果立ち寄らないことにしたのだが、帰宅後調べてみると、9時開館だったので惜しいことをしてしまった。また、事前確認が中途半端だったため、仲間たちにも申し訳ないことをしてしまった。

 この資料館では、日光市内に残る歴史民俗や自然科学に関する資料の収集・保存・展示などを行っており、特に今市や日光杉並木に関する情報は参考になった筈である。(入館無料)
 また、10月25日までの間は、「お触れと高札」と題する企画展がある。江戸幕府や明治新政府が、村や庶民を支配する上での重要な決まり事や禁止事項などを、人目に付く場所に「高札」として板に墨書して掲示していたもので、江戸~明治初期作成の高札や関連文書を見学する筈だった。

蔵助地蔵(9:27)・・・日光市今市743地先

 そんな訳で、先ずは東武線下今市駅の、すぐ西側への細道に入り、墓地の広がる中に参道が右手に延びている「玄樹院」に向かう。その参道入口の左側に、首の欠けた地蔵菩薩「蔵助地蔵」がある。
 この地蔵尊は、長期間土中に埋もれていた関係で詳細が不明だったが、近年移動のため掘り起こした処、隠れていた文字が読めるようになった。それによると、戦国時代の大工・蔵助が造った地蔵で、旧今市町に残されている正式な紀年のある地蔵菩薩像中では、最古のもの(弘治3年=1557)と判明している。
 しかし、経年損傷とはいえ、首無しになったお地蔵様の姿は、単に時の移ろいのみならず、人の心の移ろいすら感じさせ、史跡探訪ウォーカーの一人としては、寂しさ・残念さを禁じ得ない。

報徳二宮神社(9:29)・・・日光市今市743

 その先(西側)に「報徳二宮神社」がある。江戸後期の実践的農政家・二宮金次郎(1787~1856)=二宮尊徳は、この後訪ねるご当地「今市報徳役所」内で生涯を閉じている。前回の歩きでは、彼の貢献した「宝木用水二宮堰」や「石那田堰」の跡を見たが、彼の葬儀は当神社西隣の「如来寺」で行われ、葬列は、報徳役所から如来寺まで続き、大通りを埋めるほどの盛大さだったという。そして、遺体は如来寺境内(現・報徳二宮神社境内)に埋葬され、明治30年11月14日には「報徳二宮神社」鎮座祭が行われて今日に至っている。

 境内右奥には、尊徳翁の遺書の写本や遺品などを収蔵している「二宮神社宝物館報徳文庫」(見学有料)があるほか、その左手には尊徳翁の墓石などがあり、命日にあたる11月17日には、尊徳翁を偲んでその偉大なる業績を称えるべく、全国から参詣者が集まるという。

               
報徳二宮神社 由緒
 御祭神(主神) 二宮尊徳命
 配神     二宮尊行命 富田高慶命
 ご利益    学業成就・経営、商売繁盛・立身出世・五穀豊穣
 例大祭    毎年十一月十七日

 ご祭神二宮尊徳命は江戸時代、天明七年(1787)現神奈川県小田原栢山の中農の家に生まれた。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑財産は流され、両親と死別して一家離散の困窮に陥ったが、二十四才の時独力で一家の再興を果たした。薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージはその頃のものである。
 この経験を元に小田原藩の家老服部家の財政再建を成功させ、武士として登用された尊徳命は、その後下野国桜町(栃木県二宮町)をはじめとする烏山・下館・相馬といった約六百の村や藩の経済復興開発に一生を捧げた。
 晩年の嘉永六年(1853)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九ヵ村の復興に尽力し、安政三年(1856)報徳役所にて七十歳で逝去され、手厚く埋葬された。
 即ち、『栃木県史跡 二宮尊徳の墓』である。葬列は報徳役所のある春日町より続いたという。
 その後、尊徳の終焉の地であるという全国唯一の由緒を持つこの霊地に明治三十一年神社が創建され、今日まで学問・経営の神様として信仰されている。
 尊徳命の建て直しの方法は「報徳仕法」と呼ばれ普遍性を持つことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され弟子たちによって継承された尊徳命の思想は「報徳運動」として実践されている。
                              報徳二宮神社社務所


 社殿右手奥に入っていくと、途中右手に次のような掲示がある。

<その1> 
至誠 勤労 分度 推譲

<その2>
               
二宮尊徳翁遺訓
             交際の道は碁将棋にならえ
翁のことばに、交際は人生に必要なものだが、世間の人は交際の道を知らない。交際の道は、碁将棋の道にのっとるのがよろしい。将棋の道というものは、強い者が駒を落して、相手の力と相応する程度にしてさすのだ。なはだしく差のある場合には、腹金とか歩三兵というまでにはずすのだ、これが交際上必要な理法であって、自分が富んで、才能があり、学問がある場合に、先方が貧しければ富をはずすがよい。先方が才能がないんらば、才をはずすがよい。無芸ならば芸をはずすがよい。無学ならば学をはずすがない。これが将棋をさすときの法であって、このようにしなければ交際はできないのだ。まてた、自分が貧しくて、才能がなくて、無芸無学ならば、碁を打つときのように心得るがよい。先方が富んだ人で、才もあり学もあり芸もあったら、何目も置いて交際するがよい。これが碁の道だ。こういう理法は、碁将棋の道ばかりでなくて、人と人と相対するときの道も、これに従うべきものだ。
                              今市報徳二宮神社


<その3> 
二宮尊徳翁遺訓
翁曰はく
人生れて学ばざれば生まれざるも同じ
学んで道を知らざれば学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば知らざると同じ
故に人たるもの必ず学ばざるべからず
学をなす必ず道を知らざるべからず
道を知るもの必ず行わざるべからず
                              今市報徳二宮神社


<その4> 
二宮尊徳翁遺訓
          水車の回るは半ばは天道にして 半ばは人道なり
 翁曰はく それ人道は譬ふれば水車の如し、その形半分は水流に順ひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中に入れば回らずして流るべし、また水を離るれば回ることあるべからず。それ仏家にいはゆる知識のごとく、世を離れ欲を捨てたるは、譬ふれば水車の水を離れたるがごとし。また凡俗の教義も聞かず義務も知らず、私欲一遍に着するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。ともに社会の用をなさず。故に人道は中庸を尊ぶ、
 水車の中庸はよろしきほどに水中に入りて、半分は水に順ひ、半分は流水にさかのぼりて運転滞ほらざるにあり。人の道もそのごとく、天理に順ひて種を蒔き、天理に逆うて草を取り、欲に従ひて家業に励み、欲を制して義務を思ふべきなり。
                              今市報徳二宮神社

<その5> 
二宮尊徳貧富訓
 遊楽分外に進み勤苦分内に退けば則ち貧賤その中に在り
 遊楽分外に退き勤苦分外に進めば則ち富貴その名に在り
                              今市報徳二宮神社


<その6>
父母の根元は天地の令命に在り
体の根元は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り
父母の富貴は祖先の勤功に在り
吾身の富貴は父母の積善に在り
子孫の富貴は自己の勤労に在り
身命の長養は衣食住の三に在り
衣食住の三は田畑山林に在り
田畑山林は人民の勤耕に在り
今年の衣食は昨年の産業に在り
来年の衣食は今年の艱難に在り
年々歳々報徳を怠る可からず
                                報徳二宮神社

 更に奥に入っていくと、社殿裏手辺りに尊徳翁の像や墓などがある。

         
栃木県指定史跡 二宮尊徳の墓 1基
                              昭和32年8月27日指定
相模国足柄下郡栢山村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、尊徳と称した。
 尊徳は、勤倹力行して藩家老家再興を果たした手腕を買われ、文政4年(1821)に小田原藩主大久保忠真の命を受け、下野国桜町領の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野で過ごすこととなった。
 桜町漁を復興させたことにより、各地で教えを乞われ指導し著しい効果を挙げ、現在でも水路等の成果が各地にのこっている。
 これらの実績により幕府に日光神領89ヶ村の復興を命ぜられ復興開発方法書を書き、嘉永6年(1853)には今市に報徳役所を設置して日光神領復興に全勢力を注いだ。
 しかし、安政3年(1856)に事業半ばで報徳役所において70才で死去した。
 今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の地に埋葬された。
                         栃木県教育委員会・今市市教育委員会


               二
宮尊徳翁の遺言と墓碑の建立
 「我が死応に近きあらん、我を葬るに分を超ゆること勿れ、墓石を建つること勿れ。碑を建つること勿れ、只々土を盛り上げて、その傍に松か杉を一本植え置けば、それにて可なり、必ず我が言に違ふ勿れ。」と遺言されたが、忌明けの安政四年に門人間に墓碑建立の議が起り、是非の意見が区々として容易に決定せず、遂に未亡人の意志を伺って建立し、今日に至っている。

 
石碑に、次のような道歌が刻まれ、横には右手に鍬、左手に書物を持った帯刀姿の座像が建っている。

               二宮尊徳翁道歌
 ちちははも その父母もわが身なり
           我を愛せよ われを敬せよ


 また、境内入り口右手には、小学校の校庭でよく見掛けた薪を背負って書を読みながら歩いているお馴染みの姿の二宮金次郎像も建っている。

如来寺(9:42)・・・日光市今市710

 報徳二宮神社の少し西側に「星顕山光明院如来寺」と号する浄土宗では県内屈指の寺がある。山門に掛かった「星顕山」の草書体扁額が風格を醸し出している。本尊は、平安中期に造られたと伝わる阿弥陀如来坐像である。1700を越える檀信徒を有するという。
 文明年間(1469~87)に、茨城県瓜連の常福寺超誉上人の高弟暁誉上人最勝が開創し、境内には「木造地蔵菩薩立像(車止め地蔵)」、暁誉上人の「五輪塔」(共に市指定文化財)、天正13年(1585)銘の「逆修供養碑」など、数多くの文化財がある。
 文政期(1818~87)には森友村の「来迎寺」(前回立ち寄り済み)をはじめ、数多の末寺を有し、境内には本寺を巡って宝林院・寿仙院・聖衆院・地蔵院などの子院の堂塔があった。

 寛永9年(1632)徳川家光が日光社参にあたり、壮大な御殿を境内に造営して宿所とし、朱印寺領30石を寄進している。以後家光は3度宿泊休憩所にあてたが寛文5年(1665)御殿は残らず寺に下付されたという。
 寛保2年(1743)と宝暦12年(1763)の2度、火災に遭い堂宇や古記録類を焼失しており、現在の建造物のうち本堂は明和2年(1765)、大門が明和7年(1770)、方丈・庫裏が安永8年(1779)など明和以降の再建で、平成の大改修が行われた。

 当寺には徳川歴代将軍の位牌が安置され、安政3年(1856)には報徳役所で没した農政家二宮尊徳の葬儀を営んで境内に埋葬し、位牌と膳部を所蔵するほか、庫裏の山被の大柱や車止め地蔵・庚申猿の言い伝えが有名である。

 境内左手の朱塗りの「観音堂」には「聖観世音」が安置され、下野国33ヶ所第4番礼所として香華が絶えない。本寺の管理下にある朝日町回向庵には戊申役の官修墓地と伝日光円蔵の墓がある。門前右手には「お化け桜」と呼ばれる古木がある。

 先刻訪ねた報徳二宮神社は、当時の元境内にあたり、現在でもその間に広大な墓域ほかを有しているが、往時の寺領の広さは想像を絶する。

<伝説 車止め地蔵>

 市文化財指定の「木造地蔵菩薩像」が如来寺に安置され、「車止め地蔵」と呼ばれている。昔、源頼朝の奥方二位ノ禅尼(北条政子)が、ある夜日光山に因縁の地があるという夢を神のお告げと悟り、早速家来の安達藤九郎盛長を遣わし、日光山に身の丈1.7mの地蔵さんと悶魔大王・供王神を寄進した。盛長は大勢の武士と共に仏像を車に積み、険しい街道を苦労しながら今市に辿りつく。愈々日光近しと一同が喜び宿場の中程に差しかかった時、急に車が動かなくなり車を道の傍らに寄せ「地蔵さんを安橿するのは、この地をおいて他になし」と心に定め一心に念ずると、不思議にも車が動いたので、中町のこの地に「中ノ堂車止め地蔵」として祀った。

 江戸時代になり、日光東照宮が造営され、今市宿は御伝馬駅所になり賑わってきたので、如来寺境内に地蔵院を建て、その地蔵尊を移して本尊として祀った。爾来百数十年経った宝暦の時代に、町中の民家を焼きつくす大火があったが、この時寺には僧侶が住んでおらず駆けつけた人々は燃えさかる火に手の施しようがなかったが、焼け落ちた灰の中に本尊の姿が何事もなかったようにお立ちになっていた。誠に有り難いこととて、以後お地蔵と閣魔大王・供王神が如来寺の本堂に安置されることになったという。

高橋本陣跡・・・日光市今市457鹿沼相互信金今市支店の隣?

 如来寺から真っ直ぐ南下すると街道に出る。その街道南側に「(鹿沼信金今市支店)」があるが、往時の本陣「高橋家」がその横隣辺りだったそうだが、左右共に何の表示も見当たらない。
別説もあるらしいが、いずれにしても何の表示もなく、市の教育委員会でも特定できていないと思われる。

今市町道路元標(9:51)・・・日光市今市

 その先、国道121号線と交差する「春日町」信号の少し手前の左手に「今市町道路元標」と刻まれた古びた石碑があり、道を隔てた向かいの三叉路には、「相の道通り」とのT字路の北東角に「(旧)会津西街道相之道通り」の木識があり、「日光市(神橋)まで8キロ(2里) 会津若松市まで112キロ(28里)」とあるが、設置年代は不明である。
 冒頭でも触れたが、今市は、主要街道と合流・分岐する交通の要衝だったことをあらためて痛感する。

お土産ゲット(9:53)

 その先、「春日町」交差点の南西角に「日光みそのたまり漬け 上澤梅太郎商店」があり、ご当地に詳しい飯島氏の推薦もあって皆土産物を買う。

今市宿市縁ひろば(10:01)

 その先右手の広場に観光案内所や休憩ベンチなどが置かれた広場があり、今市や日光などのマップなどをゲットする。今市は、こうした設備に加えて、街道筋のあちらこちらに公衆トイレも設置され、町歩きの観光客に優しい街おこし策を展開しているようだ。

■浄泉寺(10:10)・・・日光市今市本町1

 「春日町」の信号の先4本目を右折する地点に、「上町の薬師さま 浄泉寺」と記した地元観光協会設置の矢印道標に従って右折すると、先刻立ち寄った如来寺の末寺「浄泉寺」がある。
 元亀3年(1572)の創建で、浄土宗に属し、「上町の薬師さま」で知られている。創建当時は日光上和泉村にあり、「上泉寺」と称したが、慶長年中(1596一1615)慶誉厳長和尚が今市宿に移し、如来寺の末寺として「瑠璃光山清光院浄泉寺」に改められたと言われる。
 慶安4年(1651)、大猷院殿(故・家光)の御宝棺が日光山に向かう途次、この寺で小休止したと言われている。本堂である薬師堂には本尊の薬師如来と、脇侍として運慶作と伝えられる日光・月光・十二神将が祀られている。

 一見うら淋しい佇まいの薬師堂だが、扁額の崩し字は「瑠璃殿」と読める。左手奥に「そば喰稲荷-沢蔵司稲荷神社-」と題した解説板と社殿が建っている。
 沢蔵司稲荷は明治15年に浄泉寺と共に全焼したが、同19年(1886)再建され、仕法は慶応4年(1868)に日光神領仕法廃止や戊辰戦争の戦火の影響などで衰退していったが、大正時代の中頃までは続き、この稲荷は仕法跡として市の文化財に指定された。現代で言う基金方式と言えよう。

            
市指定文化財(史跡)
              沢蔵司(たくぞうす)稲荷仕法の跡
                            昭和四十年三月六日指定
 正一位沢蔵司稲荷大明神御修復料永久増益仕法の遺産である。
   文久二年(1862)二宮弥太郎創設
   五一か年計画(元金一二両、終計一五二両)
 日光神領仕法中の特異な神社仕法である。
 元金を地元住民に貸与し、一割の利子中三分を浄泉寺祈料、金子取扱世話料、檀家世話方雑用に当て、残り七分を繰り入れた複利計算をもって、稲荷維持の永久的計画をたてた。
 仕法六か年後、明治戊辰の戦乱にあい消失したが、安政二年(1855)弥太郎の長子、二宮金之丞をはじめ、世話人白河屋、傘屋等の尽力により数百人の寄進者を刻んだ玉垣がしてある。
 仕法書式は大正年間まで継続し、地元に多大の恩恵を与えた。
              平成八年三月
                            日光市教育委員会


<そば喰稲荷>
 また、薬師堂左側には「そば喰稲荷」と呼ばれる二宮尊徳の子・弥太郎が寄進した「稲荷神社」がある。
              
 そば喰稲荷
                --沢蔵司稲荷神社--
この神社は、信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久2年(注:1862)に寄進したが、戦乱にあい消滅した。その後、弥太郎の子金之丞・延之輔等によって復興した。伝えによると-金之丞の妹に夜泣きする人がいて、そばを献上し、祈願したら直ちに治ったという-以来「そば喰稲荷」い云われるようになった。
 今市は、そばのまちとして全国的にその名を聞くところとなったが、そのルーツはここにある。そばが約150年以前から、この地に存在し神に奉げるものとして尊ばれ、現在まで永い伝統に培われ、守り、愛されて、引継がれている。

 そのほか、境内右手には「聖徳太子堂」と「弁天社」が祀られている。

報徳役所跡・報徳今市振興会館(10:19)・・・日光市春日町5-7-5

 後述の瀧尾神社が西南角にある交差点を南に入った先に「今市小学校」があり、その先を左折した右側に「報徳役所跡」がある。先述のとおり、今市を拠点に、報徳仕法を施し、当地で亡くなった二宮尊徳の役所兼居宅(安政2年<1855>4月竣工)跡である。

 尊徳が志半ばで病没後もこの役所は尊徳流「日光仕法」の中心的役割を演じたが、明治維新と共に日光神領仕法が中止され、弥太郎一家が相馬藩に転居してから住人不在となった。今市報徳役所は、明治4年(1872)に書庫を残して建物が撤去され、跡地は水田になっていた。
 この遺跡跡を、二宮尊徳翁没後100年の記念事業として、昭和30年(1955)に旧今市市の名誉市民、加藤武男氏が寄附した邸宅をここに移築し、報徳今市振興会館として開館したもので、会館は尊徳翁の資料館を兼ねており、二宮尊徳の解説や記念品が展示されている。
 大谷石造りの書庫も復元されたが、この書庫には仕法記録一万冊が所蔵されていたという。当初は、報徳役所の一部として仕法の記録などを収蔵し、建築当時は土蔵造りだったのを、安政6年(1859)、弥太郎の時代に報徳関係書類の収納庫として石造りの防火施設に再建した(間口2間半、奥行2間の2階建て、延べ10坪。木造石屋根、外壁石張りの防火建築。建築費用72両)。

 報徳二宮神社で見た二宮尊徳の晩年の座像と同じ像や、「二宮先生報徳役所趾」碑、昭和24年の震災記念碑などもある。

            
 有形文化財(建造物)
               報徳役所書庫
                              市指定 昭和四十年三月
 旧報徳役所(現報徳今市振興開館敷地)内にある。
 安政六年(1859)建造、木像石屋根石張二階建
  間口 二・五間  奥行 二間
  延坪 一〇坪   当時経費 七三両
 二宮尊徳が、嘉永六年(1853)幕府より日光神領の復興を命ぜられ、安政二年に報徳役所六十坪を建築した時、土蔵書庫三坪が狭小の爲に拡張したのがこの書庫である。石材は、地元の板橋石で、同所の六左衛門が運搬した。大工、左官等延べ四一三人で建築した防火施設である。
 収蔵された十五年間にわたる仕法記録一万巻は、戊辰戦争の時、福島県相馬に非難した。書庫は、明治五年以後転々とし、最後は栃木市の小江沼家に買い取られたが、小江沼家が市に寄贈、百年祭を機にここに復元した。
               平成九年三月
                              日光市教育委員会


(参考)今市御蔵跡・・・日光市春日町

 門柱の基礎に使った石でできた橋だけが残っているという「今市御蔵跡」への立ち寄りは省略したが、この近くにある由である。
宿内での消費米を賄うため、幕府は下野国内の幕府領に納められた年貢米を集め、今市宿の上町(現・春日町付近)に建てた米倉に貯蔵し、米問屋を通じて売り捌いていた。

瀧尾(たきのお)神社(10:25)・・・日光市今市531

 街道に戻る途中、その先の信号の手前左手にある「瀧尾神社」に立ち寄る。
 瀧尾神社は、戊辰戦争の戦火で本殿や記録をすべて焼失してしまい、創建年代など詳細は不明だが、歴史は古く、天応2年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀ったのが始まりとされる。今市の総鎮守で、その「明神鳥居」は、平成七年三月十日付で市の指定文化財になっている。
 境内には今市の地名の由来ともなった六斎市に縁のある「市神様」をはじめ、今市の歴史をさまざまな形で伝えている。例大祭は4月14日に当番町の指揮の下、鳥居前に立てられた大幟の下から屋台を繰り出し、約250人により盛大に氏子町を御神輿が廻る由。
今市宿の西の入口にあたり、曾てはここに「木戸」があった。

 ユニークなのは、鳥居手前左の「天皇陛下御即位十年記念」と刻まれた石の台の上に、三体の社紋入り神像が祀られ、夫々解説の木札が紐で吊されていることである。参拝した人たちに少しでも身近にお参りして戴こうという考えかと思われるが、それにしても、雨ざらしであり???である。
 <右端>
子授安産 病気平癒   大己貴神(大黒さま)
 <中央>
技芸 智恵 福徳 財運 田心姫神(弁天さま)
 <左端>
招福開運 営業繁栄   事代主神(恵比寿さま)

「日光杉並木」の旧道へ(10:30)

 街道の信号のある四叉路に戻り、その先は、直進する国道119号を左に分けて旧日光街道は右斜めへと杉並木のある静かな道に進む。旧道に入ると、直ぐ右手に「杉並木公園」が旧道右側に細長く続いており、風情のある園内を歩くことにする。この「杉並木公園」の先も、日光駅(JR & 東武鉄道)辺りまで部分的に途切れながらも往時の雰囲気を残す「杉並木」が続いていき、我々旧道ウォーカーの心を癒やしてくれる。
 公園入口には「杉並木街道と参詣(瀬川地区)」と題した解説板も建っている。

杉並木公園(10:32)・・・日光市瀬川

 杉並木公園には、水車や古民家などが配され、西端には報徳仕法農家(約30坪)を復元した茅葺き家の建物を利用した蕎麦処や、その隣には天保元年(1830)築の旧江連家(名主)の家(約90坪)も復元されている。
日光杉並木は、日本で唯一「特別史跡」と「特別天然記念物」の二重指定を受けており、平成4年には「世界一長い並木道」としてギネスに認定されたそうだ。
 街道の右手にはかなりの水量が流れる用水路が流れているが、この杉並木公園の中にはその水路の水を分水している「重連水車(2基直列形式)」円筒分水井がある。

<重連水車>(10:32)
               
重連水車
 この水車は直径4m50cm、幅は80cmで、2m離れて同じ大きさの水車がついています。
 1ヶ所に2連の水車を設置することにより、動力を高めることも可能です。
 重連水車としては福岡県の菱野三連水車が有名です。


<今市客館(唐人小屋)跡>(10:34)

 水車の先左手に「唐人小屋跡」があり、「朝鮮通信使今市客館跡」と刻した石碑と解説板が建っている。将軍が宿泊する「御殿」に対し、謙って「小屋」と称したと言われ、実際は立派な建物だったようだ。

               
朝鮮通信使の今市客館跡
 江戸時代、「信(よしみ)」を通わす善隣友好の朝鮮通信使は一二回来日しました。うち、寛永十三年(1636)・同二〇年(1643)・明暦元年(1655)の三回、正使・副使・従事官の三使ら約二〇〇人が日光を訪れました。
 寛永一三年は遊覧でしたが、次の二回は東照宮と大猷院で朝鮮式の参拝をしました。
 一行は春日部(埼玉県)・小山(栃木県)・宇都宮(同)に泊り、四日目の夕方今市客館に着きました。翌日日光へ行き、再びここに宿泊し、同じ道を江戸へ戻りました。道中、異国に憧れる人々が大歓迎しました。
 寛永一三年の正使任絖(インコワン)は、ここを「材木を江戸から運び一万両余の費用で、新設の板屋が百軒近く」、「人馬が多く、麦畑を平坦にして特別にこの館舎を設けた」(『丙子日本日記』)などと書きました。その後の三使の日記も新築の豪華な客館にふれています。
                              今市市

<日本の水車>(10:38)
               
日本の水車
 日本にある水車の形は約90種類ほどあります。その中には木製の水車や鉄製の水車などがありますが、ほとんどの水車が木製水車です。
 揚水や、製粉が主な用途であり、今もなお今市市を始め日本の各地方に残っています。
 ににには大きいものは直径10mから小さなものでは直径が60cmの様々な水車が並び、用途も異なった水車を見ることができます。


 また、世界の水車というのも数基見られた。

<大水車>(10:46)
               
大水車
 この水車は直径が10m、幅は80cmです。日本では、まれに見る巨大な水車です。かつては京都に直径が15mもある名物の大水車があったと伝えられています。
 中近東のシリアには直径20mの巨大な揚水水車があったといわれており、これに次ぐ大きなものとしては中国の黄河畔に直径15mの水車があるそうです。

<円筒分水井>(10:51)
               
今市用水円筒分水井
 杉並木公園の水車の動力源となっているこの分水施設は、昭和29年3月に所野第3発電所の建設に伴い、今市用水の施設の一つとしてつくられたものです。
 発電所で使われた水を直径1.65m延長1004mのヒューム管製のサイホンにより大谷川の地下を横断し、この分水施設まで送水しています。
 ここでは、下流の水田を潤すための農業用水や宇都宮市、今市市などの水道用水を井筒の円周に沿って設けた23のゲートにより適正かつ合理的に配分していて「今市用水円筒分水井」と呼ばれています。


<ポカラ工法>(10:55)

 園内最西端付近には、11時の開店を待つ客が数人並んでいる藁葺きの蕎麦処や、旧江連家の建物の近くに面白い解説板があった。

               
ポカラ工法
 道路と並木敷との高さが違う場合、その段差をなくし道路の下まで杉の根が伸びられるようにするため、畑土に畜産堆肥などを混ぜた土壌を詰めた中空 コンクリートブロック(ポカラ)を埋設する工法。


 それは、前後左右上下に丸い穴の開いた正方体の中空コンクリートブロックを日光杉並木街道の道下に埋め込んだ工法で、いろいろ工夫をしていることに感動した。
 http://kigitachi.ifdef.jp/nikkosugi/pocarakoho.htm のサイトで具体的な説明がされている。

(参考)安達茂七供養塔(今市線香発祥地)・・・日光市今市瀬川

 東武日光線上今市駅の西方500mの杉並木の傍らの墓地に、越後國小千谷出身の安達茂七の供養塔(明治30年造立)があるらしいが、園内を通ったためか見逃してしまった。
 安達茂七は、杉並木の杉を原料とし、豊富な水流を動力とする水車利用により、文久元年(1861)杉線香の製造を開始し、明治30年頃の最盛期には、建物12棟・職人50人を擁したという。後に、安達茂七が材木商に転じた後もその技術は地元に継承され、有力な地場産業として発展した。

瀬川の一里塚(10:58)・・・日光市今市瀬川

 公園から杉並木街道に戻って50m位後戻りした街道北側に、「瀬川の一里塚」がある。日本橋から34里目。現在も左右に塚が残っているようないないような、小さな塚らしきものが見え、解説板が建てられている。

               
一里塚      今市市瀬川
 江戸から日光までの三十六里余(144km)の道筋は日光道中と呼ばれその昔東照宮に詣でるための街道として重要視された。
街道西一里毎に塚を築きその上に樹が植えられ旅人に里程を知らせたものである。この地点は、江戸日本橋から三十四里(1232km)のとこである。

瀬川大日堂(11:02)

 見事な杉並木を更に行くと、すぐ左奥に「瀬川大日堂」があるが、街道から一望した処、少し距離もありそうだしその割には立ち寄りを躊躇わせる感があったので、通り過ぎたが、入口には「大日如来 (今市宿地蔵めぐり)」の標柱が建てられていた。

 この大日堂は、延宝・元禄(1673~1704)頃には既に存在したらしいが、正確な創建年代は不詳である。現在は廃寺となっているが、享保年間(1716~1736)に須海大僧都が中興した天台宗・江戸浅草の正徳院末の行寺宝正山長禅寺が上瀬川にあった。その跡地に大日堂がある。文化2年(1805)の「日光道中分聞延絵図」や「日光道中略記」にも載っている古い大日堂だそうで、村人たちの篤い大日信仰をはじめ、念仏供養・庚申信仰が盛んに行なわれていたことを境内の金石文が偲ばせているという。傍らには、石仏群が静かに佇んでいるようだ。

七本杉伐痕(11:03)

 その先右手に「七本杉伐痕」がある。七本の杉が密着して一株になり、塀のように聳えている。下3m位を残して上部は全て欠けているものの、その巨大さには圧倒される。幅も相当ある。
 明治35年(1902)の大暴風雨と大正3年(1914)頃に風損し、更に残る5本も老朽化して、昭和43年(1968)遂に危険木として伐り倒されたもので、現在では「瀬川の七本杉」の往時の雄姿の一部をとどめるに過ぎないそうだ。

■砲弾打込杉(11:13)・・・日光市十文字

 更に10分ほど歩き、小さな流れを越えると合併前の旧日光市域に入り、右手に「砲弾打込杉」があり、右手にその解説板がある。戊辰戦争の慶応4年(1868)4月29日、日光へ退却する大鳥圭介率いる旧幕府軍と、それを追撃してきた谷干城(たにたてき:注)率いる官軍とが、この地で熾烈な戦闘を繰り広げたが、その時に官軍が放った砲弾の跡が杉の幹に残っている。

               
砲弾打込杉   日光市
 附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当って破裂したあとである。


(注)谷干城
 以後も、佐賀の乱・台湾出兵・神風連の乱・西南戦争などに活躍。のち、学習院長・農商務相・貴族院議員など、政治家として活躍。明治44年歿。


<旧幕府軍陣地跡> ・・・日光市十文字

 この辺りが、大鳥圭介が陣を構えて官軍を迎え撃った応戦跡地の由。砲火の鎮まった翌30日、大軍監・谷干城が戦場視察に出ると、赤い僧衣を纏った2人の男が谷軍監に「旧幕府軍は既に敗走しました。これ以上の戦闘は必要ないと思いますし、東照宮焼失の心配もあります。是非追撃を中止して貰いたい」と懇請し、谷軍監は官軍総督・板垣退助に報告し、その決断により東照宮は戦火から免れた。日光山の神橋手前(金谷ホテル入口)に板垣退助像が建っているのは、これに由来するそうだ。

野口薬師堂・道祖神(11:28)・・・日光市野口

 杉並木を抜ける旧野口村の集落になる。右手に開けた場所があり、その昔ここには出羽國羽黒修験の錫杖頭であった青雲山龍蔵寺(本尊:薬師如来)という寺があったが、資力の乏しい寺のため金属製の釣り鐘を造ることが出来ず、日光廟造営に携わった石工に頼んで石造の釣鐘を造らせたという説と、明和5年(1768)に村人たちが太郎山の月山大権現に銅の釣り鐘を奉納し、同時に地元の山王権現には石の釣鐘を納めた処、竜頭が鐘の重みで壊れてしまった。村人たちは後難をおそれ、この失敗を口にすることを嫌い、薬師堂に放置した侭にしてあるという伝承とがある由。

 その跡に、近年再建された「野口薬師堂」と「道祖神」があり、街道に面してその大きな石の釣鐘が地面に置かれ、我々街道ウォーカーの興趣をそそる。

 寺跡墓地の西に祀られる道祖神について、旧平戸藩主松浦静山が文政4年(1821)から天保にわたり20数年の歳月をかけて記した随筆『甲子夜話』の日光道之記に、小さな神垣の中に男陰の形大小3・4個立ち、三尺大のものも見られたと述べているが、薬師堂の裏手の東武鉄道の線路際の崖っぷちにある覆屋の下には、大小数体の石造の男根や女陰石も祀られているというが、そこまでは見に行かなかった。

 やがて石畳の道になり、雰囲気がまた変わるが、やがて国道119号と合流して、歩道のない危険な道になる。

生岡神社(11:48)・・・日光市七里186-2

 左に、旧七里村の鎮守で、弘法大師が草庵を結び大日如来を祀ったと言われている大日堂だったのが神仏分離令で神社になった「生岡神社」(輪王寺の強飯式に似た少年強飯式が有名)への参道がある。距離もありそうだし、道も草茫々なので通り過ぎた。

並木太郎(11:50)・・・日光市七里

 そこを通り過ぎると、その先右手に「並木太郎」と呼ばれている杉並木中最も巨大かつ端正な雄姿を見せる、街道隋一の大杉が解説板と共にある。大きすぎてカメラには収まりきらない。

             
  並木太郎     日光市七里
 並木の中で一番大きな杉であり周囲五、三五米 樹高三八米 材積三三、五立方米である。
 その姿の美しく端正なことより並木太郎と呼ぶにふさわしい名木である。


銀杏杉(11:58)・・・日光市七里

 その少し先には、「銀杏杉」と呼ばれている木がある。

               
銀杏杉     日光市七里
 杉の根元が銀杏の葉のように広がつており根張りの幅が八米余ある。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりでなく大丈夫というところより別名「人生杉」とも呼ばれている。



明治天皇七里御小休所跡の碑(12:00)・・・日光市七里

 すぐ先の左手に、「明治天皇七里御小休所」の碑がある。明治9年、東北巡幸(6/2~7/21)の帰途の小休所になった所で、立派な木の門が残っている。

(参考)尾立岩・・・日光市七里

 その先左手には「尾立岩」という切り立った岩がある筈だが、特定できなかった。昔、日光の神が宇都宮に遷る時に、蛇体になってこの岩の上に乗り、尾を立て東を指して走ったとの言い伝えがある由。

 その先道は、七里集落を通る。勝道上人が日光山を開いた時、まず生岡の地で17日間の護摩修行をして登山したが、生岡から日光山の神橋までおよそ42町あり、6町を1里としていたので「七里村」と名付けたそうである。

筋違橋(すじかいばし)と地蔵尊(12:15)・・・日光市宝殿

 やがて「筋違橋」に差し掛かる。橋名の由来は、「志度淵川」が道と筋違いに流れていることによる。

 橋の手前左に「地蔵尊」のお堂があり、「麻疹地蔵」と呼ばれている。昔はこの橋の下を潜ると麻疹が軽くてすむと信じられたが、橋下(はしか)と音が通じることからくる俗信らしい。
 また、昔は、橋の袂に、日光参詣者の国所等を改めたという「改所」があったそうだ。

 先刻、触れなかったが、野口から入った日光古道が、志度淵川を渡った所の右手に出る。芭蕉が日光に詣でた後、奥州道中の大田原へ行くために辿った奥の細道の一部である。

異人石(12:19)・・・日光市宝殿

 その先の左手に「異人石」と呼ばれる石があり、その由来が解説されている。

               
異人石     日光市宝殿
 明治の頃杉並木を愛した一人の外国人がいた。その外人は、この石を石屋に頼んで坐わりやすくしてもらい、毎日ここで並木を鑑賞していたので異人石と呼ばれている。


昼食(12:30~12:50)

 折良く見つけた中華店で、昼食を摂ることとし、入店した。いつもなら11時半を目処にしているが、途中、予想以上に史跡などの立ち寄りに時間を要したようだ。

鉢石(はついし)宿

 長い旅路も、愈々右手にJR日光駅が見える所迄来た。駅入口の交差点付近が「鉢石宿」の入口である「木戸」があった所と言われている。
 鉢石宿は、正保元年(1644)に伝馬宿に定められた日光道中最後の宿駅である。「神橋」の東に位置するため、古くから「東町」とも呼ばれ、宿内は「上鉢石」「中鉢石」「下鉢石」に区分される。 日光街道第20宿にあたり、日本橋から142.8km で、本陣2、脇本陣0、旅籠19軒があった。

 「鉢石」の地名由来については、後述する。

龍蔵寺(13:04)・・・日光市御幸町396

 道は、両サイドに土産物屋が並ぶ賑やかな観光都市の体をなしている。道は宇都宮市街以来緩やかな登り坂の一途だったが、きょうはいよいよ日光山が近づき、勾配も以前より急になっているのが判るが、夏の暑さが無い分だけ助かる。
 左手にある「日光消防署」の少し手前の右手に入って行った所に天台宗の寺院「龍蔵寺」がある。 境内右手には、下野坂東第三十二番「観音堂」がある。

 龍蔵寺は、鎌倉幕府に謀反を企てたと誤解され斬首された重慶の墓碑が本堂右手に「重慶阿闇梨塔」と彫られて建っている。またその傍らには、戊辰戦争で戦死した芸州藩士8名の墓がある。
 広い墓地の入口にはそれら「戊辰戦争隊士の墓」の場所を掲示してあるそうだが、パスした。

<(参考1)芸州藩士の八人墓>

 最年少は大村豊次郎(17)、最年長は渡辺他人丞(40)、他の6名は何れも20代の若さだったという。

<(参考2)龍蔵寺下寺十王堂>

街道から南下し、志渡渕川を渡った対岸にある広い墓域の中に、土佐藩断金隊の一員だった「臼井清左衛門墓」がある。断金隊とは、乾退助(後の板垣退助)が甲府入りの際、我こそは武田信玄に仕えた板垣の子孫と称して地元住民に協力させた後、この住民を組織したものである。土佐藩の付属部隊として専ら情報収集に当ったが、隊長はのち阿武隈川で悲劇の死を迎える美正貫一郎である。
 臼井は天然理心流を学び、一度は旧幕府誠忠隊に身を投じたが、のち断金隊が江戸に入ると入隊を志願。誠忠隊に留まり諜報活動を行っている。4月29日今市の土佐本営に大鳥軍の動向を報告、日光に戻る途中で捕らえられ殺された。墓は、美正死後に隊長となった尾崎行正(尾崎行雄の父)が凱旋の帰路に建てた由。

稲荷神社(13:07)・・・日光市稲荷町1丁目(龍蔵寺の北側)

 龍蔵寺の裏通りに「稲荷神社」がある。主祭神は稲倉魂命で、八坂大神(素戔嗚命)・大杉大神(大物主神)を明治時代の合祀により配神として祀っている。
               
正一位 稲荷神社 由緒沿革
 古伝によれば当社は、建保六年(1218)日光山第十六世座主真智坊隆宣に随行して上京した村民が、京都御所鎮護伏見の稲荷大社の御分霊を勧請し、村の鎮守として奉祀したことに始まる。稲荷村は鎌倉時代既に一丁目から四丁目までの家並みが川の両側に整然と建ち並び、この後四四四年間大いに栄えた。しかし、寛文二年(1662)関東地方一帯に連日降り続いた大雨により、稲荷川上流の自然堰が決壊し、濁流が一気に村を襲い、遭難幽者一四八名・被災者九一五名・流失家屋三〇〇軒余の壊滅的な大災害を受け、被災者は幕府の援助等を得て現地に集団移住し、林野を開拓して町の復興に勤め、やがて外山村に避難していた稲荷社を現在地に正遷座したものである。
 祭神(稲荷神)は生命の根元を司り、衣・食・住の全てに関わり、全ての産業を興す等そのご神徳は実に広大無辺である。現社殿は小規模とは言え、江戸期の優れた建造物である。


<西行戻り石>

 境内左手に、「西行戻り石」と呼ばれる大石がある。左横に、昭和32年、日光出身の画家小杉放菴氏と星野理一郎氏が稲荷神社の裏手に草深く隠れていた大石を、稲荷神社氏子一同の協力を得て、社頭に移動し、放菴画伯の揮毫で傍らに歌碑を建てた。歌は、奥州平泉の藤原氏の許へ、歌人西行が大仏再建基金募集のために下った折、ここで詠んだものである。
               
西行法師歌碑
     ながむながむ 散りなむことを きみも思へ
             くろ髪山(注:男体山)に 花さきにけり
 西行法師が日光に来た時、この石の上に少年がいたので、どこへ行くのかと尋ねると、「冬萠(ほ)きて 夏枯れ草を刈りに行く(麦刈り)」と少年が歌で答えたことに驚き、この場で男体山を遙拝して引き返した時の歌である。
 この巨石を「西行戻石」と呼ぶ。

<庚申塔など石造物群>

 境内右手に、およそ20基弱の石造物が並んでおり、その数と戦前とした様に驚いたが、次のような解説板が付せられている。

               
石碑「庚申塔・青面金剛」の復旧について
 当社境内の庚申塔(3)青面金剛(13)弁財天(1)梵字(2)は、元禄二年(1689)~天保一五年(1844)までの凡そ一五五年間に至る間、当町の先人達が篤い思いで建立したと思われる。
 「庚申塔」は、人の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)が、庚申の夜に体内から抜け出して、上帝のもとに至り、その人の罪過を告げるので、この三尸虫が体内から抜け出ないよう、人々は庚申塚(宿)に集まり徹夜するという習俗であり、日光では江戸時代以降昭和初期まで、各地で盛んに行われていた。
 青面金剛は雑仏で道鏡と結びつき、伝戸病(結核)の予防治癒と三尸虫の駆除を祈る。病魔悪鬼を取り除く鬼神で、庚申会の本尊とされ、人を威圧する猿の形相をし、一面六臂が多い。
 当社は寛文二年(1662)の稲荷川大洪水により、稲荷川下流にあった町並みを流失し、水難者約一五〇名を出す壊滅的被害を受け、幕府からの見舞い金を得て、同三年(1663)現在地に移住した人々により、社殿が復旧されたものである。
 戦後境内の整備工事に当たり、この石碑は倒壊事故予防の爲土中に埋め込まれたといわれる。今回当社御鎮座七八〇年祭記念事業の一つとして、旧に復することが氏子役員会で決議され、ここに復旧されたものである。
               平成十年三月十五日  稲荷神社
                             宮司  篠 田 英 夫 記


虚空蔵尊(13:12)・・・日光市稲荷町1丁目(「御幸町」交差点手前の小路を右折し左折)

 その近くに「虚空蔵尊」がある。境内を掃除していた婦人に尋ねると、稲荷神社社殿右奥にはいると裏側の通りに出られ、すぐ傍にある。
 日光開山の勝道上人が明星天子を祀ったのに始まり、寛永17年(1640)に現在地に移転した。元禄5年(1692)建立のお堂は、東照宮のようにきらびやかで、随所に精巧な彫刻が施され、栃木県文化財に指定されている。

              
 虚空蔵尊
・寛永十七年(1640)、神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祀し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀る。
・例年、正月九日~十日に大祭を執行。
・御宮造・本朱塗極彩色の社殿は、栃木県文化財指定。
・境内に太子堂もある。


 また、境内にある高さ18m、目通り幹周2.9m、推定樹齢350年の「しだれ桜」は、高さ約3mで3つに枝分かれしている。幹には空洞があるが、毎年元気にまっすぐ伸びた枝々から鮮やかな花を咲かせている由。そのほか見上げるばかりの大樹も多く、高すぎてカメラには納めきれない。

入江本陣跡・・・日光市御幸町(ごこうまち)

 街道に戻り「御幸町」信号の先100m程の右手にある「そば処魚要」が、往時の「入江本陣跡」だという。往時は、「御宮御菓子屋、本陣兼帯」といわれ日光御用達の菓子屋だったそうだが、往時の面影は全く残っておらず、残念である。

高野本陣跡・・・日光市鉢石町819-1(ゆば屋「さんフィールド」の駐車場の裏)

 もう一つの本陣「高野本陣跡」は、右手のゆば屋「さんフィールド」の店の駐車場の裏にある。屋号が付いた土蔵が辛うじて残っているが、これまた往時の雰囲気は残っていない。

鉢石・・・日光市中鉢石町(日本生命の左脇から北に入った左手)

 鉢石宿の名前の由来となった「鉢石」は、その先右手に数メートル入った所にある。「鉢を伏せたような形状の石」があったので鉢石と名付けた由。古生層の一部を石英斑岩・花崗岩が貫き地表に現れたもので、直径2m程ある。日光市指定文化財になっている鉢石の周囲には柵が設けられ、注連を張るなど神聖視されている。

               
日光市指定文化財 史跡鉢石
                       昭和四十三年三月十六日指定(指定第十五号)
                       所有者管理者 株式会社三ツ山羊羹本舗
 勝道上人が日光山を開山(766)した頃 、この鉢石町一帯にも始めて人家が建ち、上人の命令によるものか、または上人の行跡を讃仰する民間信仰かは不明であるが、「鉢を伏せたような形状」が名の起こりであり、上人の法縁にあやかるものである。
 この附近は中世紀までは「坂本」と呼ばれていたが、日光山の門前町として「鉢石宿」の名称で呼ぶようになったのは、元和から寛永にかけての東照宮造営を契機としてであり、江戸五街道のひとつである日光街道二十三宿駅の最終駅「鉢石宿」である。
 昔より、石の周囲には柵を設け、注連を張って神聖視されて保護の手が加えられてきた。
 日光開山にまつわる民間伝承の古墳として、また、日光における門前町の発達を示すものとして価値が高い史跡である。
               平成十五年四月            日光市教育委員会

名主家跡(13:34)

 その先右手の「杉江理髪店」が往時の名主家で、日光社参などの臨時の休泊所となった杉江太左衛門の子孫にあたる由。隣の酒屋もその地所だったというが、これまた先刻見た二つの本陣跡と同様に、往時の雰囲気は皆無である。

天海上人像(13:37)・・・日光市上鉢石町

 その道を挟んで向かい(街道右手)には「天海上人像」がある。
天海上人は天台宗の本山・比叡山に学んだ密教僧で、天台宗のみならず中国の古い戦いのための占術や神道などについても深い知識を持っていたと言われている。初め武田信玄に仕えていたが、その後徳川家に仕え、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍を補佐した。家康に神号の「東照大権現」を送ったことは特に有名である。

               
天海大僧正(慈眼大師)銅像
 天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫首となる。当時の日光は□□□吉(注:豊臣秀吉?)に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光山に移し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。
 天海は寛永二十年(1643)、一〇八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。


板垣退助像・・・日光市上鉢石町

 左手にある金谷ホテルへの登り口右手に、明治の自由民権運動で知られる「板垣退助像」が洋風スタイルで二刀を手挟んだ腕組み姿で建っている。

               
板垣退助銅像
 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家。
 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。
 明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われる。
 その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和四二年に再建。
 彫刻家、新関国臣の作。


神橋(しんきょう)・・・日光道中終点

 その先左手、日光橋のすぐ上流に赤く塗られた風情ある「神橋」がある。川の水と山・木々の緑をバックにした一幅の絵と言って良かろう。
 ここが昨年11月1日に日本橋を出発以来、漸く辿り着いた日光街道歩きの終着点である。この橋は、渡る手前の石垣のすぐ上に半ば埋もれている「下乗石」と共に国の重要文化財に指定されている。
 寛永13年(1636)の東照宮造営時、以前あった「山菅橋」を架け替えて現在の形の橋にし、名を「神橋」と改めた由である。山菅橋は、天平神護2年(766)、勝道上人が日光山に分け入ろうとして、谷が深く渡れずにいた時、深沙大王が現れ、青赤の二蛇を放って橋としたので、上人は草刈る翁の山菅を蛇体に覆って渡ったという伝説がある。大同8年(808)、上人は、その跡に橋を架け山菅の橋と名付けた。日光二荒山神社の参橋である。

 長さは28m、巾7.4m、高さ10.6mあり、奈良時代末に、神秘的伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として、現・神橋に架け替えられて以降、神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などの参向時にのみ使用され、一般の通行は禁じられて下流の日光橋を通行していたが、現在は有料で神橋も渡らせている・・・と思って、料金300円を支払おうとしたら、ここで結婚式を挙げた新郎新婦さん以外の方は、また戻ってきて戴くことになります」と言われ、断念して右手に平行して架かっている「日光橋」に向かう。よく見ると、橋の先は柵が設けられ、特別な時以外は通り抜けできないようになっている。
 神橋は、跳ね橋形式としては我が国唯一の古橋であり、山口県の錦帯橋や山梨県の猿橋と共に「日本三大奇橋」の一つとして有名であるが残念。もう一回新郎になる訳にもいかないので、諦めざるを得ない。

日光橋

 神橋の直ぐ右手が国道119号の終点「日光橋」である。神橋が、神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向の際のみ使用され、一般人の通行は禁止されていたため、下流にこの「日光橋」が架橋され、一般人の通行する橋となっている。

 橋を渡り終えると、正面が日光山の高台になっており、信号周辺には外人を含め、流石に観光客らしき人でも多い。

杉並木寄進碑(13:46)

 日光橋を渡った所に、大沢宿の手前にもあった松平正綱の「杉並木寄進碑」がある。

 松平正綱が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことを記した石碑は、並木の起点である神橋畔、および、各街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(壬生道)、同大桑(会津西街道)の4ヶ所に建っている。この碑は日光神領の境界に建てられているので、境石と呼ばれている。

太郎杉・蛇王権現祠(13:47)

 有名な「太郎杉」は、左の石段を登って行った右手に、勝道上人に二蛇を与えた深沙大王を祀った「蛇王権現祠」の隣にあり、樹齢550年、樹高43m、目通り幹周5.75mの大木が太郎杉である。昭和30年代の国道拡幅工事に際して、切る・切らぬの大論争を起こしたという。栃木県名木百選に指定されている。

日光火之番八王子千人同心顕彰之燈(13:57)・・・表参道の輪王寺入口付近の端のT字路

 「東照宮 輪王寺 二荒山神社 表参道」の石碑がある登り口から、坂を登る。最近は、登坂時には必ず足のギアを入れ替えることにしている。そうすると、不思議と楽にしかもスピーディに登っていけるのである。
 途中(13:50)左手に「長さか瀧」の石碑があり、側溝を水が流れている。

 漸く登り切ると、広い道の分かれ又中央に、錫杖を右手に持った「日光開山 勝道上人之像」が大岩の上に建っている。その角を寺院が並ぶ通りへと左に曲がって少し行くと、突きあたった公衆電話ボックスの左手に「日光火之番八王子千人同心顕彰之燈」碑がある。塔の上部は常夜燈のようになっており、基台には次のような銘文が刻まれ、同文内容が左に木製解説板として掲示されている。

(銘文)
 
日光は、千二百年前に開かれた天下の霊場であります。日光廟が造営されてのち、承応元年(1652)幕府は武州(東京都)八王子の千人同心に日光火之番を命じました。千人同心は、遠い八王子から、交代でその任につき、父子あい伝えて、明治元年(1868)まで実に二百十余年に及びました。
 その間寒暑をとわず日夜警備につとめましたが、特に貞享元年(1684)の大延焼や、文化九年(1812)の大楽院炎上などの際には、日光奉行に協力し、身を挺してよく守りぬきました。
 また、戊辰の役(1868)には、勤番頭石坂弥次右衛門は帰郷ののち、日光より戦わずして引揚げた責任をとわれ、自刃しました。東照宮、輪王寺、二荒山神社の壮麗な殿堂は、こうして護持されたのであります。
 ここに、千人同心の功績を永く顕彰いたします。
                              題字 徳川家正
                               撰書 菅原栄海
                               撰  佐々木耕郎
                               撰  野口義造


 八王子千人同心は、武田や北条の旧家臣達を中心に八王子で編成され、承応元年(1652)以来「日光火之番」として半年交代で日光の防火と警備を勤めた。切腹した石坂弥次郎右衛門の墓は、八王子の「興岳寺」にある。

<参考>

★八王子千人同心とは・・・


 八王子千人同心は、家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足した江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことで、当初代官頭大久保長安に統括された彼らは、甲斐武田家滅亡後に家康によって庇護された武田遺臣団を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。
 そして、彼らが配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受け、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かった。近藤勇や土方歳三に代表される新選組隊士らも殆どが多摩郡出身者だったことからも頷けるところである。

 甲州街道の宿場・八王子を拠点にしたのは、甲斐方面からの侵攻に備えた甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持だったが、甲斐の天領編入や、徳川体制の強化に伴う国境警備の必要性減退などにより、様々な任務についている。
*承応元年(1652)からは交代制で家康を祀る日光東照宮を警備する「日光勤番」が主な仕事になった。
*明治維新後は、集団で北海道に入植し、苫小牧市の基礎づくりを行っている。

 千人同心は10組・各100人で編成され、各組には「千人同心組頭」が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は200~500石取りの旗本として遇され、同心は御家人として遇され、禄高は10俵1人扶持~30俵1人扶持であった。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場だった。ところが、近年の研究で、武士身分としての実態が伴っていなかったことが判明してきており、例えば、千人同心は苗字の公称が許されず、帯刀も公務中のみに制限され、同心の家族も帯刀は許されず、同心職引退後は帯刀出来なかったという。

 また、江戸時代中期頃からは、株売買による千人同心職の譲渡が盛んになり、八王子に集住していた同心達に代わって、関東近在の農村に散在する富農層が千人同心職を兼帯するようになる。千人同心たちは居住する村落では人別帳に他の農民同様に百姓として記載されており、幕府代官所をはじめとする地方領主達は、かれらを武士とは認めていなかった。このため千人同心たちは度々御家人身分の確認を幕府に願い出るが、幕府は毎回これを却下している。例えば幕府の最高法廷である評定所は、人別帳への記載を巡って争われた苗字一件において、明確に千人同心が正規の御家人身分を有しないとの判決を下しており、今日では武家奉公人相当だったのではないかと考えられている。

<八王子千人同心の生い立ち>

 天正18年(1590)6月の八王子城落城により、家康は江戸入府に際し、甲府との国境である八王子を甲斐・武蔵の国境警備の重要拠点、敵の侵入阻止のための要の砦と考え、甲斐武田家の家臣だった小人頭とその配下250人を、翌7月に八王子城下の治安維持と甲州道の警備のため、落城後間もない八王子城下に配したのが後の八王子千人同心の始まりである。その人数は、翌19年には500人、慶長4年(1599)に至って1,000人に達し、「八王子千人同心」が成立している。
 徳川家康の江戸城築城にあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手門とし、万一江戸城が危機に瀕する非常時には、半蔵門から甲州街道を一気に西進し、八王子から甲府へ落ち延びて再起を図る事を想定していたという。その際の甲州との国境であり、かつ重要逃走路である八王子周辺の多摩地域に、在郷武士団を配置し平時から警備に当たらせていた。

<千人同心の位置づけと居住地>

 千人同心の基本的な性格は、緊急時の対応にあった。基本的任務は八王子城落城後の治安維持、即ち八王子城落城後の人心を安定にあったと考えられるが、実際的には、極めて軍事的に使われている。
 ・天正11年(1583)・・・甲斐国の国境警備を命じられる
 ・天正19年(1591)・・・奥州九戸の乱の平定に駆り出される
 ・文禄元年(1592)・・・朝鮮の役に出兵に出陣
 ・慶長 5年(1600)・・・関ヶ原合戦に出陣し、家康を警護
 ・慶長19年(1614)・・・大坂冬の陣に出陣
 ・元和元年(1615)・・・大坂夏の陣に出陣(大阪城の本隊と直接交戦)
  慶安 5年(1652)・・・日光火の見番を命じられる(詳細後述)
 ・宝永 2年(1705)・・・江戸火消し役を命じられる(同5年まで)・・・これは、宝永年間の富士山大爆発の前後三年間ほど、江戸消防隊が
         
 財政難で三分の一に削減され、その埋め合わせに千人同心が狩出されたもの
 ・寛政12年(1800)・・・千人頭原胤敦、同心の子弟と共に蝦夷地開拓に出発
 ・安政 2年(1855)・・・西洋銃の訓練を命じられる
 ・文久 3年(1863)・・・横浜護衛を命じられる
 ・慶応元年(1865)・・・第二次長州出兵を命じられる

・このほか、伏見城や江戸城の営繕、家光の日光社参時の警護などにも駆り出されている。

 千人同心たちの日常生活についてだが、文禄2年(1593)に千人頭と同心達は現在の千人町の拝領屋敷や周辺の村々に移転しているが、拝領屋敷地の組頭の家は、周辺農家に比して広くはないものの、式台付きの玄関などがあり、格式の高さを示している。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多かったのようだが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の士分だった。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく千人町付近に屋敷を有した。基本的には世襲制だったが、病気・怪我等で公務に従事できなくなった場合は、同心株を他家に譲り渡す場合もあり、多摩や相模まで広がっていった背景を有する。

 士農工商制度の下では、士族身分と農民身分を合わせ持つ、極めて稀な農兵的団体だった。同心たちは御家人として幕府から米を支給されるが、同時に農民として年貢をも納めるという、極めて特異な形態で、我が国における屯田兵の始まりとさえ言われている。従って、八王子千人同心は、任務のない平時には農作業に従事する傍ら剣術の稽古に励んでおり、彼らの間で流行していたのが天然理心流である。新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司たちでなじみ深いかの天然理心流は、江戸時代を通じて三多摩一帯に広がっていた。

<日光の東照宮の警備(火の番)>

 日光には、徳川家康を祀る東照宮、家光を祀る大猷院など徳川幕府の聖域とも言うべき祖廟があり、この日光の火の番が八王子千人同心に命じられたのは、慶安5年(1652)のことだった。千人頭2名ほか1組50人の計100人が、10組に分かれ50日単位で交代制で日光東照宮の火の番屋敷に詰め、山内の見回り、出火の際の消火活動を担当した。寛政3年(1791)からは頭1名・同心50名が半年で交代することになり、承応元年(1652)の初番から慶応4年(1868)戊辰戦争で官軍に明け渡すまで、216年間に1,030回を数えた。しかし、真冬の日光は相当に冷え込むため、その中を火の見櫓に立ち、夜を徹して見回りを行う仕事は決して楽ではなかった。
 その日光往還は、八王子から拝島・箱根ヶ崎経由での3泊4日の行程で、相当厳しい勤務だったが、農民の身分も併せ持ちながらの千人同心達は、武士として取り扱われる優越感らよって支えられていたと言える。

<蝦夷地の警備・開拓>

 八王子千人同心の原半左衛門は、幕府直轄になっていた蝦夷地での交易が、寛政11年(1799)にロシアからの脅威にされされたため、北方の警備・開拓のため八王子同心の移住を願い出ている。寛政12年(1800)4月には第一陣50人が半左衛門に率いられ白糠(シラヌカ、釧路市の西・白糠町)に、弟の新介は勇払(ユウフツ、苫小牧市、現在の市街地の東10km)に着き、農業をしつつ南部藩の警備を補佐することになった。
 彼らの蝦夷行きは、子弟、厄介(家長の世話になっている親族)、困窮者救済が表向きの通説になっているが、それだけの理由で、53歳にもなった半左衛門が千人頭の職を捨ててまで函館奉行の下についたのか、また51歳の弟新介がこれに従ったのか、疑問もなしとしない。ある学者は、当時、続発していた千人同心たちの失敗(間違えて江戸城でこの身分では入室できない部屋に入って降格された者や手続きミスで左遷された者など後を絶たなかった)を補い、一転名誉挽回を期しての提案だったとの説もある。千人同心は、農民身分をも併せ持ちながらも、抑もは名誉を重んじる旗本身分であり、蝦夷地開拓を名誉回復への逆転のチャンスと考えたというのである。
 幕府は移住隊に対し鉄砲の贈呈、道中の警護付与、同行の役人の厳選など、主所の配慮をしており、原半左衛門はいたく感動したと言われている。
 尚、さて、ユウフツ・シラヌカへの移住者は、130人いたが、うち30余人が八王子に帰ることなく、蝦夷地で犠牲者(病死)になっている。白糠での犠牲者は17人で、うち15人が3年目の享和2年(1802)の死去とされている。多くの犠牲者を出したのは、厳しい自然条件への理解や対応の不足もあるが、生活必要品を手当できず、予定していた自給自足の農業も定着することなく、食糧不足を経験することになったためとも言われ、また幕府としても漁場開設努力に比べると、寒冷地農業の技術指導も、それを育てる体制も不十分だったと言われている。なお、文化元年(1804)原半左衛門に箱館奉行支配調役という肩書きを与え、同心を「箱館地役雇」にという形で幕府雇とし、開拓のためよりの一員としての役割を明らかにしたものとされている。
 尚また、八王子市は、この千人同心が取り持つ縁で、昭和48年に苫小牧市と姉妹都市となり、平成12年は勇払原野開拓200周年を記念して、苫小牧市で八王子千人同心慰霊祭が行われている。

<千人同心の文化への功績>

 また、同心達は軍事的な任務が少なくなると幕府の「江戸昌平坂学問所」に通い、様々な学問を習得しており、『桑都日記』を著した塩野適斎や、漢学を学び世界を視野に入れて開国を唱えた松本斗機蔵など、千人同心からは学識に秀でた者が輩出し、地誌の編纂など文化的な面でも業績を残している。

<幕末の千人同心>

 幕末になると、動揺する日本の政情に影響され、千人同心の近辺も俄に騒がしくなっていく。相次ぐ将軍の上洛随行や賊徒追討のための甲州出兵、開港地横浜の警備、長州征討への従軍などの公務が急増していく。それまでの槍に代わり、銃や大砲など西洋式の軍事調練も導入され、慶応元年(1865)9月には幕府陸軍奉行の支配下に組み込まれ、翌2年(1866)10月には幕府の兵制改革により「千人隊」と改称された。
 慶応3年(1867)の大政奉還で徳川幕府は事実上崩壊し、慶応4年(1868)4月、参謀板垣退助率いる東山道鎮撫軍が八王子に到着するや、これを迎え入れ恭順の意を表すると共に、徳川家に対する寛大な処分を願う嘆願書を提出している。千人隊も解体することになり、千人頭は徳川家に従って静岡へ移住、中には新政府に出仕した者もいたが、大多数は「脱武着農」の道を選びんでいる。
 また、日光東照宮の警備に付いていた千人頭石坂弥次衛門は、日光を戦火にかけることなく官軍に引き渡し、八王子に帰って非難を浴び責任をとって切腹している。千人隊も4年6月に解散となった。
 一方、蝦夷地に残った同心達は、同年(1868)10月、新政府に対抗する最後の勢力を率いて渡航してきた榎本武揚の旧幕脱走軍との衝突に巻き込まれる。多くの同心が命を失い、あるいは榎本軍に招じて戦った者は新政府軍に捕えられた。
 現在も、八王子やその周辺には千人同心の子孫が数多く住んでおり、貴重な古文書や資料を伝えているという。


日光奉行所跡(14:05)・・・日光市安川町10-24周辺(西参道の西側、栃木銀行の手前)

 西参道の西側に日光奉行所跡の石碑と解説板が建っているが、かなり広大な敷地を占めていたことが伺われる。日光奉行は慶安5年(1652)に「梶定良」が初めて任命され、以後、途絶えていたが、全国に設置された遠国奉行の一つとして元禄13年(1700)に改めて設置され、奉行所屋敷が完成した。日光奉行は幕府老中の所管に属し、定員2名が1年交替で勤務し、当初は日光廟の警備、営繕、祭事を主な任務としたが、寛政年間以降は日光領の司政、裁判も担当するようになった。明治2年(1869)に日光県が置かれるとその庁舎に充てられ、明治4年(1871)に解体・廃止された。
 現在は、遺構らしきものは何も残っておらず、内容不明だが立派な新しい建物が建っていて、その道路際の植え込みに「史跡 日光奉行所跡」の石柱と木製解説板が建っている。

(参考)日光山輪王寺・・・日光市山内2300

 輪王寺の本堂は、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教形式のお堂で、日光山随一、東日本最大の木造建築部で、現在の建物は正保2年(1645)3代将軍家光によって建て替えられた。

 日光山総本堂(三仏堂)の内陣には、「日光三社権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)」という三体の大仏さま(像高8.5m)と、「東照三社権現本地仏(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)」という掛仏の、2組の三尊仏が本尊として祀られている。

 明治の頃から日光は「輪王寺」・「東照宮」・「二荒山神社」の3カ所が参詣所とされ、各境内は常時賑わってきたが、それ以前は「日光山」として一つに包括された関東の一大霊山だった。
 奈良時代末、勝道上人によって日光山が開かれた。
 鎌倉時代には将軍家の帰依著しく、鎌倉将軍の護持僧として仕える僧侶が輩出する。この頃には神仏習合が進み、三山(男体山・女峰山・太郎山)・三仏(千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音)・三社(新宮・滝尾・本宮)同一視の考えが生まれ、山岳修行修験道(山伏)が盛んになる。
 室町時代には、所領18万石、500に及ぶ僧坊が建ちならび、隆盛を極める。

 江戸時代、天海大僧正(慈眼大師)が住職になり、山王一実神道(天台宗)の教えで「家康公」を東照大権現として日光山に迎え祀る。「輪王寺」の称号が天皇から勅許され、更に慈眼大師(天海大僧正)・3代将軍家光が新たに祀られ、「日光門主」と呼ばれる輪王寺宮法親王(皇族出身の僧侶)が住し、宗門を管領することになり、法親王は14代を数え、幕末に及んだ。
 明治になり、神仏分離の荒波を越え、現在の「輪王寺」がある。

 元々が「神仏習合の地」であったため、現在でもはっきりした境内の境界はなく、輪王寺所管の堂塔は山内一円に散在しており、寺内には10数棟の重文建築物が点在する。

拝観料は、大人900円、二社一寺共通券(東照宮、輪王寺、二荒山神社)大人1,000円。

<黒門>日光山輪王寺の表門。江戸時代初期に天海僧正が創建したもの。重要文化財。

<三仏堂(大本堂)> 山内最大の建物で、阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音を安置する。重要文化財。

<四本龍寺・三重塔>江戸時代の再建。境内は勝道上人が最初に建てた草庵跡と言われる。重要文化財。

<逍遥園>江戸時代の日本式庭園で、近江八景を模して造られている。

<宝物殿>国宝1件、重要文化財48件を含む宝物の中から約100点を展示している。


(参考)日光東照宮・・・日光市山内2301

 元和2年(1616)4月17日、駿府城で75歳の生涯を終えた徳川家康は、自らの遺言により直ちに久能山に神葬され、1年後の元和3年(1617)4月15日、久能山から現在地日光に移されて祀られ、「東照社」として鎮座した。その後正保2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになった。
 現在の陽明門(国宝)など55棟の主な社殿群は、3代将軍家光により、寛永13年(1636)木立の中に金箔や色彩豊かな彫刻を施した絢爛豪華な社殿に造替され、 日光山に神(東照大権現)として祀られた。その総工費は金56万8千両、銀百貫匁、米千石(『日光山東照大権現様御造営御目録』より)を要し、造営の総責任者には秋元但馬守泰朝、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広が当、僅か1年5ヶ月の工期で延人数500万人を投入して完成した。
 また、これらの社殿群は平成11年12月「世界文化遺産」に登録されている。
拝観料は、大人1300円、二社一寺共通券(東照宮、輪王寺、二荒山神社)大人1,000円、東照美術館:大人800円、宝物館:大人500円。

<社殿の概要>
*石鳥居(重文)・・・鎮座翌年の元和4年(1618)、筑前藩主黒田長政が奉納。石材は九州から船で小山まで運んだ後、陸路を人力で日光まで運ばれた。

*五重塔(重文)・・・慶安3年(1648)若狭国小浜藩主酒井忠勝が奉納。文化12年火災に遭ったが、文政元年(1818)に同藩主酒井忠進により再建された。

*表門(重文)・・・東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置され「仁王門」とも呼ばれている。

*三神庫(さんじんこ)(重文)・・・上神庫・中神庫・下神庫の総称で、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められている。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻が施されている。

*神厩舎・三猿(重文)・・・神厩舎は、神馬を繫ぐ厩である。昔から猿が馬を守るとされ、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名。

*御水舎(重文)・・・お参りする前の手洗い・口漱ぎで心身を清めるための建物。水盤は元和4年(1618)佐賀藩主鍋島勝茂が奉納。

*陽明門(国宝)・・・日本を代表する美しい門で、宮中正門の名を戴いたと伝えられる。見ていて飽きない処から「日暮の門」とも呼ばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻が施されている。

*廻廊(国宝)・・・陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られて、いずれも一枚板の透かし彫りに極彩色が施されている。

*唐門(国宝)・・・全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀」など細かい彫刻が施されている。

*御本社(国宝)・・・本殿・石の間・拝殿からなり、東照宮の最重要な所である。例祭のほか、年中の祭典が斎行される。拝殿の左右には、「将軍着座の間」・「法親王着座の間」がある。

*神輿舎(重文)・・・春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる3基の神輿の保管庫。

*祈祷殿(重文)・・・結婚式や初宮などのご祈祷が行われる。

*眠り猫(国宝)・・・左甚五郎作と伝えられる。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、転た寝をしている処から「日光」に因んで彫られたとも言われている。これから奥宮に通じる。

*奥宮(重文)・・・拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神のご墓所である。

*宝物館・美術館・武徳殿(登録有形文化財)・・・客殿・社務所・来客やご祈祷者、祭典奉仕者などを迎える施設として、また、茶会・ミニコンサート等の会場としても広く利用されている。

(参考)日光二荒山(ふたらさん)神社・・・日光市山内2307

 「日光二荒山(ふたらさん)神社」は、奈良時代、勝道上人の開基である。日光市内に3社鎮座しており、男体山山頂の「奥宮」、中禅寺湖北畔の「中宮祠」(日光市中宮祠2484)、山内(市内)の「御本社」で、御祭神には二荒山大神として親子3神を祀っている。
      大己貴命   (おおなむちのみこと)     父
      田心姫命   (たごりひめのみこと)     母
      味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)  子

 古来より、霊峰二荒山(男体山)(標高2,486m)を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様である。
 境内は、日光国立公園の中枢をなす「日光連山」をはじめとし、御神域は、3,400haに及ぶ広大な境内地を有する。
入口付近には唐銅製の灯籠が立っているが、これには、武士がお化けに見えて刀を斬りつけたと伝えられる刀痕が無数に見られ、「化け灯籠」と呼ばれている。
 拝観料は、神苑・化け燈籠大人200円、二社一寺共通券大人1000円。

(参考)輪王寺大猷院・・・日光市山内

 輪王寺大猷院は3代将軍家光の廟所で、大猷院は家光の法名でもある。遺言により東照宮を凌がざるよう、規模、細工など控えめに造営されている。

日光駅へ

 14:05、日光奉行所跡の見学をもって日光街道歩きの歩き納めとし、日光駅方面へと戻る。これまでと異なり、下り坂なので楽々と歩が進む。
 途中1.6km程戻った鉢石宿本陣跡近くの右手「日光郷土センター」前の広場に「標高571m」の表示があったので、かなり登っていたことが判る。恐らく600mは充分越えていただろうと思われる。

 その標高表示の横には、「日光における戊辰戦争」と題した地図入りの詳細な解説板があり、「日光での経緯」「遺跡関係位置図」「戊辰戦争関係の遺跡」などが詳述されている。

 東武日光駅前まで戻り、折良くあった外人経営の店に入って生ビールなどで喉の渇きを癒やし15:35過ぎに散会した。田幸・村谷両氏は東武鉄道で東武浅草経由帰途につくことになり、飯島氏と小生は3度目の土産物の追加買いを行った上でJR日光駅から16:00発の便で宇都宮へ向かい、同地の飯島氏と別れの挨拶を交わし、接続便で宇都宮始発の湘南新宿ラインで家路に向かった。

   -----日光街道終わり-----