中原街道餐歩~第5回
Top Page
Back
Top Page
Top Page
Next
 第5回餐歩 2009.01.06(火) 桜ヶ丘~寒川(14.9km+寄り道0.8km)  
 
■第五回目の餐歩発進

 都合で当初予定を一日早めてのきょう、小田急江ノ島線桜ヶ丘駅の西口から中原街道に出て、歩き始める。時刻は9:33、本年初の街道餐歩の始まりである。その先「新道下」交差点から道が下りになる。ここから下るのなら、「新道上」でも良さそうな気がしないでもないが、その先の「新道下大橋」は、下に別の道と川がある珍しい橋で、ここまで来て、道が下りだった理由が判るというものだ。下を流れているのは「引地川」で、その先からは当然ながら登り坂になる。引地川の左手左岸は桜並木が林立し、その時節には見物だろうと思わせる。

■厚木飛行場と旧中原街道・現中原街道

 「代官一丁目」交差点は二又になっており、中原街道は左に曲っているが、直進する道もあり、旧中原街道は元々直進だったのを、右手先に見える厚木飛行場で分断されたものと確信されるので、9:44直進ルートをとることにした。厚木飛行場は言うまでもなく、第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥がパイプを加えながら降りてきたあの写真でも有名だが、あれからもう63年経ったのかと思うと感無量である。
 大半の車両は現中原街道を通ると見え、こちらの旧道は通行車両も甚だ少ない静かな通りだが、突然耳をつんざくような超々轟音が地域一帯を覆い、度肝を抜かれる。騒音なんてものじゃない、超弩級の轟音の二乗という表現の方が近いだろう。道路の左側が歩道で、右側は有刺鉄線による鉄条網のフェンスで画されている。フェンスのすぐ向こう側には基地内道路がよく見える。フェンス内側の木々の合間から真白き富士の雄姿や大山が美しい山容を朝日に照らされて見え、超弩級轟音と相容れない。

 途中左手に「大円寺」があり、本日最初の霊地として参拝しょうとしたが、一元客ならぬ一元参拝者を寄せ付ける雰囲気ではないので、通り過ぎる。

 旧道と思われるこの道も、「代官二」から「代官三」にかけては飛行場敷地との関係から左カーブを余儀なくされており、木々が少なくなって超広大な飛行場内が一眸できる脇道を通ることになるが、「代官三」信号で元の道に合流するまでの間に、とても絶えられないような戦闘機・軍用機の発着音が一帯を圧し、基地周辺地域住民各位のご苦労を心の奥底から痛感した次第である。9:59左後方からの現中原街道(県道45号)に合流し西進する。

 この、「代官3」~「綾瀬大橋入口」間の街道右手は、引き続き「WARNING警告 米国海軍管理区域」の標識が金網に掛けられているが、道を隔てた反対側がこれまた広大な空き地(国有地らしい)になっていて、大勢の老若男性達が望遠カメラを据え付けて米軍飛行場方向に向かってシャッターチャンスをうかがっている。どうやら超音速ジェット戦闘機の発進の瞬間を狙っている感じだ。道際にいた男性に訊いたところ、この騒音は季節毎の風向変化でエリア毎の騒音被害度が変わるそうだが、いずれにしても、一日たりともここでは住みたくない地帯だと心底から痛感した。

■直線的旧道を推定

 街道はやがて大和市から綾瀬市へと入る。10:10その先の「綾瀬大橋入口」交差点で左折し、地形から推定するに、「代官一」から「代官二」にきた旧道は、現在の厚木飛行場の中を横切って「綾瀬大橋入口」まで直線的に繋がっていたと確信される。そこからは緩やかな下り道になり、「蓼川」を「蓼川橋歩道橋」で渡ると再び登り坂に変わる。きょうも、前回同様、アップダウン豊かな街道歩きになりそうで、カロリー消費を副目的とするわが身には歓迎すべきコース設定と言える。
 余談だが、正月太りの危機を無事乗り越え、漸く大台切り間近?となった今年は、前年同様街道餐歩をメインとしたカロリー消費をモットーとしなければならない。
 10:18「廻り坂」信号を越えた所でウインドブレーカーを脱ぎ、ザックに収納する。朝の予報では少々風があり体感温度は寒い筈だったが、体はハイピッチの歩きで汗ばんできている。

■庚申塔ほか(10:29)

 「深谷原」信号の200m程先右手ガソリンスタンド前(道路左手)の墓地横の凹フェンス囲いの外に榊の石造物が鎮座している。
 向かって左端は、再建された地蔵らしいが、造立年月などは風化のため読み取れない。側面には「天下泰平 相州高座郡」とある。
 真ん中のは、「堅牢大地神」。側面には「慶應三丁卯年八月社日」「相州高座郡深谷村」とある。これまで、いろいろな旧街道を歩いて沢山の石造物を見てきたが「社日」という言葉は初めてだったので、帰宅後調べてみたら、「『社』は産土神の意。雑節の一。春分・秋分に最も近い戊の日。春は春社と言い、地神を祀って豊作を祈る。秋は秋社と言い、収穫を感謝する祭を行う。しゃじつ」とあり、判ったような判らないような複雑な心境である。
 右端のは、「庚申塔」で、側面には「文化十一年(1814) 南大山道」「西あつぎ 小江戸道」と刻まれ、反対側にはやはり「相州高座郡深谷村」と刻まれている。

■大法寺(10:36)

 その先「深谷」信号手前右手に「大法寺」があり、立ち寄る。本尊は大曼荼羅。落ち着いた雰囲気を持つ寺で山号は「法鏡山」、日蓮宗の寺院で髭題目の石塔や日蓮上人の像が建っている。
 文永8年(1271)9月 、鎌倉から佐渡へ配流になる日蓮上人は一旦佐渡の守護代本間重連の依知館(現厚木市)へ移されたが、その際に淡島明神堂(びわみ堂)で休息されたと伝えられている。日蓮上人の没後、その因縁から応永2年(1395)日叡上人が大法寺を開山したという由来の寺院である。

■堅牢大地神と庚申塔

 大法寺の少し先の「深谷交番前」信号を渡った左角に、「庚申塔」や「堅牢大地神」など計6基の珍しい石碑がフェンスに囲まれて並んでいる。
 向かって左端は、判断不能な石造物で、側面に「宝暦九(1759)己卯天 深谷村」とある。
 その右は、「堅牢大地神」で、側面に「文政二年(1819)卯稔 青陽吉日」とあり、「青陽」の意味が不明。
 次は「庚申塔」で、「萬延元(1860)申年九月吉日」とある。
 4基目が比較的新しい「献燈」

 以上4基と直角に敷地右手奥側に「耕地整理記念碑」(大正12年3月)と、入口側に「不動明王像」(側面は、新道地神講中)(平成13年5月吉日)の新しい2基である。

■条里制跡

 「新道橋」で「比留川」を渡ると登り坂に変わる。左手にエムケイチーズという会社、右手向こうには綾瀬市役所が見えるが、この右手一帯は「大山街道」餐歩時に見た「海老名耕地」の条里制跡と同様、実にきれいな碁盤の目道路になっている。ただ、海老名のそれが東西南北の碁盤目状であるのに対し、こちらのは北東から南西、北西から南東の縦横道路になっている。一区画毎の面積も海老名のそれと地図で見る限り近似している。この形は、この先左手の新幹線南側にも同方向状態で見られる。自然発生的にこのような正確な碁盤の目状の道が広域に亘って出来る訳がないからである。

■淡々と「街道をゆく」

 左右に畑を見ながら行くが、左側の歩道は無くなり、右の平坦な歩道を歩く。「綾瀬市吉岡」交差点を過ぎ、左手に「佐川急便研修センター」、右手に「綾瀬浄水場」がある。この辺は尾根道になっており、左右の建物の間から見える奥側が、街道を頂点にして低くなっており、信号名は「女坂」、集落名(左)は「目坂谷」だ。大山がよく見える。

■サイホウ塚

 11:16「女坂」信号を渡った右手角に「サイホウ塚」があり、「南無妙法蓮華経為佐要坊塚」とある。ここから藤沢市へ入る市境である。信号先は二又分岐で、街道は左前方に進むが、「女坂」からは若干登りになり、右手にまた「大山」が見えてくる。あの大山への街道(矢倉沢往還)を歩ききったことを思い出してしまう。その先の「松葉」バス停を11:21通過。ここからやや下り道に変わる。左右は相変わらず畑である。

■昼食

 すぐ先右手に「うどん・そば」の幟が見えたので歩道右手に移り立ち寄る。「食事処つかさ」で11:26~11:42食事休憩。「けんちんうどん」があったので「時間かかりますか?」と訊ねたら「お急ぎですか?」と聞き返され、「ええ、まあ」と応えたら超特急でやってくれた。小品1品、デザート付きで味と値段(600円)に満足し再出発する。

■中将姫の祠

 すぐ先の新幹線高架橋の手前で街道を右手に離れ、突き当たりの道標に従い右折、さらにその先で道標に従って左の農道を入っていくと、急な山道のような下り坂になり、降りていくと、途中右手に真っ赤な幟が林立するお堂がある。「中将姫」を祀ってあり、解説板もあるが風化のため殆ど読み取れない。(11:49)
 中将姫は、奈良時代、藤原豊成の娘として生まれ、母と5歳で死別後、継母に虐められ、この地に身を隠したという悲しい伝説を持っている。近くには中将姫に縁のある「寿昌寺」があるらしいが、道順の訊ねようもなく立ち寄る。
 また、最近神崎橋を渡った所に「川の駅」という休憩ポイントができており、中将姫に関する由来の解説板も立てられているそうだが、これまたおおよその場所は判っても、現在位置との関係や道順が不明なので立ち寄りは諦め、街道に戻った。
 なお、中将姫については、藤沢市教育委員会の下記ホームページに詳しく掲載されている。
   http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kyobun-c/data16388.shtml?print=true&css=
 11:55街道に戻ると、南進する車両が長蛇の列。新幹線のガード下を潜るのに長蛇はあるまいと思ったが、ガード下で耐震補強工事をしていて片側交替通行になっているための渋滞と判明したが、ガード下を潜った先は逆に北進する長蛇の渋滞車列と30分ぐらい延々つき合わされる羽目になった。

■双体道祖神ほか

 「曹洞宗護寶山寿昌寺入口」の看板のある右手角に比較的新しい「双体道祖神」がある。再建された者で寄進者名の碑も並立している。その角を数m入った右手のフェンス囲いの奥に祠があり、地蔵が祀られている。少し前までは双体道祖神の横に、古い経年劣化の「五輪塔」がばらばら状態で置かれていたらしいが、撤去されたのか見あたらなかった。
ここからは次の「用田辻」手前の「親用田辻」まで少々登り坂になる。

■道標と不動明王?・道祖神

 12:08「用田」信号(「用田辻バス停」)先の右角に「道標」と「不動明王?のような碑」があったらしいが、撤去されたのか見あたらない。

■直線道路

 用田辻から先は、一直線のまっすぐな道が続いている。古代の道というのはまっすぐだそうだが、この直線道路は「中原」「宮原」「宮原中央」を経て「獺郷(おそごう)」交差点(12:30通過)まで続き、そこから先は緩やかに左右にくねりながら下って行く。

■庚申塔

 12:51「小谷(こやと)」を過ぎ、右手に日産工機の広大な敷地を見ながら「公民館入口」信号手前左に、ぽつんと小さな庚申塔(13:02)がある。寛政十戊午(1798)三月の造立である。

■寒川駅でゴール

 右手にJR相模線寒川駅がある。踏切手前をきょうのゴールとし、右の細道を入り、北口から駅に入場して相模線で八王子経由で帰路についた。
第一回目の古代東海道歩きの道ももう近くだ。