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 第4回餐歩 2008.11.09(日) 中山〜桜ヶ丘(11.8km+寄り道1.0km) 

 八王子経由の横浜線で、前回のゴール地「中山駅」に9:26に降り立ち、身支度万端整えて、9:30に同駅を出発。今回の街道起点(=前回の終着点)である中原街道「宮ノ下」交差点に9:40到着し、スタートを切る。ちょっと前までと異なり、空気は確実に晩秋、否、初冬の天候で、総曇り、最高気温予報14度という11月下旬から12月上旬並の天候なので、きょうは初めてウインドブレーカーを着込んでの街道餐歩である。

■僅かに残った「旧道」からスタート

 「宮の下」交差点からは、旧道が新道の左側で湾曲した形で僅か200m程度の区間だけ県道45号を離れるが、すぐ先の「寺山町」交差点で県道に合流する。

■すぐに「石像物4体」

 旧道に入ったすぐ先左手の、祠の中に4体の石像物が安置されている。向かって左端は風化の激しい石の角柱様で、種類は全く判断不能。その次が「慶應二年」(1866)と刻まれた「道祖神」、次が「寛保元辛酉」(1741)銘入りの「地蔵尊」、右端はこれまた風化が進みよく判らないが、右手に剣を持っているような石像物である。合掌黙祷して本日の旅の安全を祈願する。

■旧鎌倉街道を横切る

 9:47、前回の最後に見た長泉寺脇から繋がる往時からの鎌倉街道が、今通ってきた中原街道旧道と一緒に「寺山町」交差点で交わり、きょうの進路である前方右に対して左前方へと延びているのを視認する。
 その先横断歩道橋付近の右手が、県立「四季の森公園」だが、入口はもっと先だし、立ち寄りは予定外だ。すぐにだらだらした登り坂が始まるが、朝の冷気にはお誂え向きで大歓迎である。登り坂が「元気会横浜病院」の先の「境」バス停辺りから下りに転じ、その先の「長坂」信号で街道は緑区から旭区へと変わる。ただ、区境にも拘わらず、ここにはその区名表示がなく、手抜き看板になっている。登り坂で身体が温まりすぎて熱くなってきたので、ウインドブレーカーを脱ぎ、携帯していた折畳式ザックに入れ、背負う。

■きょうは坂のアップダウンが多い区間

「境」バス停手前の左側は「長坂台公園」がある。大勢の若者や少年少女達がテニスその他で汗を流しており、見ていて気持ちが良い。「ひかりが丘団地入口」信号辺りが坂のボトムになり、再び登り道になるが、左手に上白根病院がある辺りからまた下り始めるなど、きょうは最後まで格別登り下りの坂の多いコースになる。実はこれが、地球のしわしわが全部ここに集まったかと思うほどのアップダウンの始まりだったのである。

■僅かな距離だが丹念に旧道へ

 「動物園入口」交差点から先は、距離的には僅かな区間だが、左に曲がり込む旧道へと進む。この旧道も登り坂だが、新道の県道45号よりは見た目では傾斜角が少ない。最後の方では急傾斜になるが、今朝のひんやりした空気の中では歓迎できる坂道と言える。登り切ると左手が緑道になっており、いい雰囲気であり、「川井鶴ヶ峰導水路」を埋め立てた緑道になっている。

■新道に合流し、都岡の石仏群へ

 10:20「横浜旭陵高校前」信号で新道に合流すると、ここがサミットになっていて、再び緩やかな下り坂の道になる。「都岡(つおか)辻」信号手前の道路反対側(右手)に「都筑郡役所跡碑」が見えるので、信号を渡って民家塀外のそれを見る。明治11年12月2日開庁」とあり、かなり古い。その少し街道をバックしたアパート前の躑躅の生垣前に「庚申塔」「日蓮報恩塔」があるので、そこまで引き返す。「日蓮報恩塔」は「文政九年」と刻まれ、携帯している山川出版社版「文化財の見方−歴史散歩の手引」によれば、「1826年」だと判る。最後に見る「庚申塔」は、指差し矢印の刻まれた「道標」を兼ねているが、左面は「左江戸ミち」右面は「右かな川」とあり、どう考えても理屈に合わない。恐らく、往時の場所から庚申塔のある(あるいは日蓮報恩塔と共に)ここに移転して、纏められたものと判断する。

■帷子川と御殿橋

 立体歩道橋で街道を横切る国道16号を越え、街道左手の都岡小学校のすぐ先、「御殿橋」で「帷子(かたびら)川」を渡る。当然ながら、ここは街道の坂のボトムである。解説板によれば、天正18年(1590)家康が江戸入府に際してこの橋を渡ったとか、家康が中原御殿に向かう際、この先右手にある下川井御殿を休息場所にしたことなどから御殿橋と呼ばれるようになった等とある。その「下川井御殿」は、次の信号を右折した左手の、小高い山の上の森の中にあったらしいが、案内板もなく確認不能なのでパス。

■地蔵尊&三嶌神社

 また登り坂になり、街道右手に比較的新しそうなコンクリート製の祠の中に地蔵のような物が遠目に見えるが、交通事故でなくなった人の供養塔だろうと勝手に判断して通り過ぎたが、その先左手で「三嶌神社参道」と刻んだ案内石碑に気づき、先ほどの地蔵のようなものが予め立ち寄ろうと予定していた地蔵尊であることに気づき、「三嶌神社」参拝後に道を右に渡って若干引き返して立ち寄ることにし、まずは左に少々入り込んだ「三嶌神社」に立ち寄る。近隣の男性達と覚しき老人達が何人かたき火をしている横を通り、参拝。拝殿奥で後ろ姿からして女性と覚しき巫女(or神官?)が祝詞をあげているような姿勢で座っていた。街道に戻り、押しボタン式の信号を横断して少し引き返し、基台に三猿を刻した「地蔵尊」に合掌黙祷する。「宝永四年」(1707)と刻まれている。

■下川合インターから長い旧道へ

 その先、左手「ディサービスセンター真珠の詩」辺りがサミットで、R16保土ヶ谷バイパスの下川井インター辺りがボトムだ。インターを過ぎ、信号からガイド地図に沿って左斜めの旧道に入っていくべく信号待ちの際当たりを付けようとしたが、その道がこからは全く見えない。角は大きな高い石垣になっていて、変だなあと思いつつ傍まで行くと、何と石段が見える。数えてみると39段あったが、登り切ってみても林から資材置き場のような、およそ旧街道の雰囲気が全くなく、その先も味気のない廃墟と化した工場か資材置き場のような雰囲気だったが、地図で判断する限りこの道しか考えられないのでどんどん進んでいく。漸く、正当ルートらしいと確信が持てたが、有るはずの「一里塚跡」の解説板は見あたらず、「旭区グリーンロード・ニュータウン並木道ルート」の案内地図掲示板を見た時だ。その先の右手で、11:08にお目当ての「岩船地蔵尊」を発見してほっとする。享保9年(1724)の銘が刻まれて、地蔵尊の左奥には、古い解説板が横たえられていたので、取り出して写真を撮ろうとしたが、風化で字が相当読み取れなくなっていたので諦める。。

 更に歩いて行くと、右手に水道局の「矢指配水池」があり、その先右手は、こんもりとした森が続く。「矢指市民の森」と、それに続く「追分市民の森」である。中は遊歩道になっており、市民の憩いの場になっているらしいが、どんどん街道を進む。左手は工場やその社宅アパートらしき町並から戸建ての真新しい閑静な住宅街へと様相を変え、やがて下り道から登り返すと、サミットになった新道の「西部病院入口」信号に合流する。

■11:21「西部病院入口」で新道合流

 下川井インターからの旧道から、「西部病院入口」でようやく県道に合流し、ほっとする。ここから旭区に入る。その暫く先、相模鉄道の線路、更に「二ツ上橋」交差点をおよそ150m程もあろうか、長い地下道で越えると、11:32である。

■二ツ上橋そばの石碑群

 11:36「二ツ上橋」信号通過。ここは「瀬谷柏尾道路(県道401)」で、右は目黒方面、左は戸塚方面と表示されている。それを越えた左角に、「二つ橋地名由来の碑」、「道標」2、「石橋供養塔」、「歌碑」が纏められている。二ツ橋は、境川の上流と下流に架かる二つの橋を併せた呼称である。江戸時代、二つ橋から瀬谷・北新までの間に、中原街道の瀬谷駅が設けられ、東方3里の佐江戸、西方4里の用田に人馬の継立てがなされていたという。石碑の一部を紹介すると、

★二つ橋地名由来の碑

 
    相模野の流れもわかぬ川水を 掛けならべたる二ツ橋かな
               道光親王 文明十六年甲辰年十一月詠(注1484年)
     しみじみと清き流れの清水川 かけ渡したる二ツ橋かな
               徳川家康 慶長十八癸丑年十二月詠(注1613年)
 二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳らかでないが二首ともにこのあたりの清らかなたゝずまいにふれて詠まれたものでその昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。
                 二ツ橋学舎後
 こゝより東方百米(二ツ橋町三百十五番地)にある二ツ橋学舎後は、文久三年(1863)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武相二州に亘って学業の実を挙げその子孫から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えられています。
                     昭和六十二年十一月吉日
                                  瀬谷区役所


★徳川家康歌碑

     
志美く(注:2字分の長さ/繰り返し略字)登 清き流れの清水川 かけわ太し多留 ふたつ者しかな
                 徳川家康公詠まれたるものと伝えられ二ツ橋町名の源となる  小太郎記

★道標
       
右 八王子往来   左 神奈川往来

■昼食

 また登り坂になり、坂を登り詰めたところが、「南谷」。信号先の左手に蕎麦屋を発見。11:50だったので入店し、熱々のけんちん蕎麦で胃袋を満足させ、12:07再出発する。ここから先しばらくはほぼ平坦な道になる。左手には市営の南台ハイツがあり、街路樹が良い。「南台交番」前の交差点からは、また下り道になり、その先の信号辺りから先、またまた登り坂に変わっていく。そのボトムは「相沢川」を暗渠にした遊歩道になっており、「相沢川ウォーク」の看板が架かっている。

■「椰の木の碑」

 左手に「椰(なぎ)の木の碑」がある筈で、江戸時代の寛文年間(1661〜1673)に島津久利が当地に薩摩から取り寄せた椰の木の苗を植え、育成。大きく育った椰の木を1844年の江戸城での大火に際して伐採し、中原街道を急送して復興に役立てたと伝えられているそうだが、うっかりしていて見逃した。

■「地神の碑」

 「瀬谷第二小前」信号がサミットで、その先環状4号線を「下瀬谷二」信号で越えると、すぐ先の「北新入口」信号手前の左手に「地神塔」がある。天保10年(1839)と刻まれている。その右横には双体道祖神ともう一基詳細不明の石像もある。全く僅かだが、雲の流れのせいかポツリと小さな雨が感じられ気温も涼しいので道脇でウインドブレーカーを着用する。

■「中原街道瀬谷宿問屋場跡」と「宗川寺」

 先の信号を右に渡り、「地神の碑」斜め向かい(右手)の日蓮宗「白東山宗川寺」に12:34立ち寄る。「横浜瀬谷八福神」の「福禄寿」とある。門前右手に「中原街道瀬谷宿問屋場跡」の解説板があり、「北新入口」信号を右に入った辺りに、瀬谷宿問屋場があったとある。「中原街道五宿」の一つで、「中宿」といわれ、西は用田、東は佐江戸に人馬継立てをしていた。宗川寺は、寛永2年(1625)創建の寺院で、山門を入った所に、「夫婦銀杏」と言われる二本の銀杏の名木がある。写真を撮ったが、大きすぎて納めきれない。

         
 中原街道瀬谷問屋場跡
 宗川寺は寛永二乙丑年(一六二五年)富士重須本門寺第十二世日賢上人開山、開基は石川宗川である。
 山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。
 中原街道瀬谷問屋場は天正六戌寅年(一五七八年)小田原北条氏の関東経営の駅寺として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち、徳川家康の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸−平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代二七〇年にわたって、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果した。(これより東方八〇米、桧林がその跡である。)
               昭和五十四年三月
                         瀬谷区役所


■境川・新道大橋・国境

 そこから境川にかけて道は下っていく。境川は、江戸時代、中原街道の開通とともに開発されたと考えられている。江戸の繁栄とともに、街道の改修が実施された際、旧来の道に対し新道の呼称が定着し、今でも橋の両岸の字名として新道等の地名が残っている。少し先の「新道大橋」が「境川」に架かる橋で、ここまでが瀬谷区、ここから先が大和市になる。昔の言い方をすれば、この境川が相模国と武蔵国の国境になっていた。「境」の命名がそれに由来していることは、街道歩きの際に各地で見かけたと同様である。

 新道大橋を渡ったすぐ右手に「和菓子司 松埜」があったので立ち寄り、孫への土産を買う。きょうの終着予定点である小田急江ノ島線の「桜ヶ丘駅」はほど近いので荷物も苦にならない。

 新道大橋を越えるとすぐに、「いなや大坂」と呼ばれる急勾配の登り坂が待ち受けており、本日最後の踏ん張り所かと思わず苦笑してしまう。でも、なかなか想い出に残りそうな趣のある坂である。次の信号がサミットである。

■「左馬神社」「巡礼街道」

 その坂を登り切ると、左に入る小道があり、「左馬神社」が左手にある。左馬神社の横に「巡礼街道」の標識がある。見ると、何と坂東33観音札所を巡る街道になっている。位置的には南が鎌倉方面になるので納得できる。「左馬神社」は、左馬頭義朝を祭神とし、宝暦14年(1764)に建立されている。境内には「タブの木」(御神木)や銀杏等の巨木があり、歴史を感じさせる。鳥居の左手には「庚申塔」があり、うち一基は安永8年(1779)造立の庚申塔で、「右ほしのや道」と刻まれている。道標を兼ねているのだ。

■「金刀比羅神社」「道標兼庚申塔」

 R467と交差する「桜ヶ丘」交差点には、往時「道標兼庚申塔」があったが、上和田の「金刀比羅神社」境内に移転されているらしいので、交差点を右折し、最初の信号を左に曲がった右手の金刀比羅神社に行ってみる。12:58だ。少し小雨っぽい感じになってきたが、ゴールはすぐ先だし、全く問題ない程度のものである。うら寂しい境内の左奥にその庚申塔があり、「八王子ミち」「大山ミち」と刻まれている。その前の石燈籠は片方が割れて倒れたままになっており、無住の神社のようだ。宝永7年(1710)造立の道標兼庚申塔だが、道路の拡幅工事などによって、こうした道標や庚申塔・石仏などの歴史的石造物が、持って行き場所に困ったあげく、神社仏閣の境内に移転しているケースが多いが、移転してでも保存されているのはまだ良い方で、大山街道筋のある所では、個人が祠を建てて保存していたのを思い出す。神社では、今日一日の旅の無事と天候とに謝意を表する。

■「桜株十一面観音」

 「桜ヶ丘」信号から小田急線の踏切迄は、歩道が無くなるが、緑色のカラー帯があり危険は感じない。その踏切を渡った左手に「桜株十一面観音」があるが、悲しい由来のある観音だ。実は、昭和11年10月、瀬谷村の秋祭りと運動会見学の帰途、村人の乗ったオート三輪がここで江ノ島行の電車と衝突し、11名が即死するという大惨事が起こっている。亡くなった人たちを悼み、交通安全を祈願する地元有志が浄財を募ってこの十一面観音を建立したという。

 線路沿いの細い道を右折して「桜ヶ丘駅」に向かい、13:10に到着して本日の餐歩を了し、一駅先で快速急行、新百合ヶ丘で急行をほとんど待ち時間亡く快調に乗り継いで、登戸・分倍河原経由経由での帰途についた。
中原街道餐歩〜第4回
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