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中原街道餐歩~第6回(最終回)
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  2009.01.28(水) 寒川~中原御殿~平塚駅(11.9km+寄り道他5.1km)  
 
 午前中は曇りがちながら午後は薄日が差し、風も穏やか・・・との予報に意を強くし、9:53登戸・厚木経由でJR相模原線寒川駅に22日振りに到着し、駅で諸資料をゲットの上、9:53に出発する。

寒川駅北口をスタート(9:53)

 1月6日以来、今月はこの街道は2回目だが、同時に最終回でもある。当寒川の地はやや風があり、東京での予報は若干裏切られた感じだある。
 前回、「小谷(こやと)」信号手前の二股を左に行って寒川駅に達したが、いろいろ勘案すると、右に行くルートも捨て難いため、きょうの最終回コースが街道自体としてはこれまでの回に比して距離的に短く、10km程度(除・寄り道)であることを幸いに、もう一つのルートをも合わせて歩くことにした。

梶原景時を称える歌碑(9:59)

 まず、前回歩いた道をバックし、すぐの「岡田」信号を越えた先左手(西側)のビルの前で、前回発見できなかった「梶原景時を称える歌碑」を発見し、朝イチからのラッキーさを喜ぶ。前回発見できなかった理由は、もう少し先(北)の筈との誤った思い込みがあり、しかも反対側の歩道を歩いたためだったと気づく。
歌碑は、黒御影?に楽譜(一部)入りで次のようなものだった。
     
鎌倉本體の武士 あぁ梶原景時公  作詞構成 山上はるお
                     作曲 平井治男
       台地揺るがす鬨の陣 鳿の岩屋に公と会う 
       源氏の再興祈りつつ あぁ頼朝公に傅きて
       謳う景時公・・・誇りあり
          比希なる知略あり 雄々しき一族仕えたり
          鎌倉幕府の基なす あぁ文武の偉才果敢なくも
          偲ぶ景時公・・・夢の跡
             咽ぶ悲運の武士よ一宮館を後にして
             目指すは京都と進めども あぁ梶原山の露と消ゆ
             今も景時公・・・語り継ぐ

 なぜ「梶原景時」なのかについては、この先の「館跡」や「解説板」で明らかになる。

安楽寺(10:06)

 その先の信号を左折し、200m程先の真言宗「安楽寺」に寄り道する。参道左には不動明王ほかの石仏が4体、そしてまた3体と並び、安楽寺本尊である大日如来像に関する解説板も建っている。それによれば、
「大日如来は、古くは寒川神社の別当であったと伝えられる安楽寺の本尊です。穏和な全体感、浅めでおとなしい彫技などの特徴から、平安時代の作と考えられています。寒川町最古の仏像です」とある。この本尊は、寒川町指定重要文化財第12号(昭和61年6月20日指定)である。

 真新しい本堂の前には履き物が数十人分きちんと並び、法要でも営んでいるような様子だった。参拝後、境内を見渡すと緑の木々が日本庭園風に整然として清々しい佇まいである。
 安楽寺は大塚山と号し、高野山高室院末。養老2年(718)開創と伝えられ、寒川町最古の寺院である。江戸時代には寒川のみならず、海老名、藤沢市に及ぶ末寺18ヶ寺を支配していた真言宗の古刹だというから凄い。明治37年に末寺の等覚寺(本尊地蔵)・観護寺(本尊不動)、明治40年に宝塔院(本尊地蔵)、また東福寺(下大曲)を合併し現在に至っているそうだ。

もう一つ?の中原街道へ

 街道に戻り、緩やかな坂道を朝の冷気と弱い北風に逆らいつつ登って「小谷」信号先の分岐まで戻り、10:27に西南方向への細道ルートに入る。広い道路に合流したら「日産工機」の北西側のフェンス沿いの道を迂回するように進み、「寒川小学校前」バス停手前で左の細道に入り、「小学校前」交差点を越え「岡田西」信号を左折して寒川駅北口に戻るコースである。
 寒川駅北口から街道(県道45号)に出て、漸く前回の終点兼今回の起点に立ち、相模線踏切を渡って、「中瀬」信号の次の「景観寺前」信号を右折する。すぐ右角に「景観寺」があるが、右折する前の左側にも墓地が見え、往時の景観寺の寺領が街道(県道45号)で分断されていることが判った。

景観寺(11:03)

 比較的新しいお堂で、寺様は先刻の安楽寺に比してかなり小ぶりである。天台宗の寺院で、山号は窪田山、開山は行基。創建年代は天平宝字元年(757)との伝承だが、寺容が整ったのは、天文5年(1536)頃と考えられているらしい。新編相模国風土記稿には「窪田山と号す。天台宗大住郡一之沢浄発願寺末 本尊十一面観音。鐘明和七年(1770)八月鋳造」とある。
 本尊の十一面観世音菩薩立像は室町時代の作と推定され、ヒイラギ材の素木を用いた雅やかな作風である。寒川町指定重要文化財第1号 (昭和45年11月20日指定)になっており、像高は105.3cm、尊顔は面幅の狭い瓜実型で、上品かつ秀麗。尊体もすっきりと表現され、仏衣表現・衣文線とも巧緻で精彩があり都風の特色が濃厚な尊像と評価されている。また境内には、「宝篋印塔」・「念仏一万日回向塔」・「準四国八十八ヶ寺巡りの弘法大師坐像」・「六十六部供養塔(寛保3年-1743)」等がある。

 境内西側の小高い台地の上には鐘楼堂があり、明和7年(1770)鋳造の鐘があったが、戦時中末期の昭和18年5月に供出され、以来50数年間無鐘状態が続いていた。漸く、平成12年12月に現在の金文字が四面に輝く立派な梵鐘が完成し、その存在を輝かせているが、梵鐘四面には「南無阿弥陀佛」「南無薬師如来」「十一面観世音菩薩」「南無釈迦牟尼佛」の金字が陽刻されている。

 鐘楼のすぐ左側には神社があり、その前には祠や石仏・庚申塔などが並んでいたが、神社名や由来などは不詳である。

一之宮八幡宮(11:11)

 その先の右手「八幡大社」の扁額が懸かった鳥居から奥に参道が続いている。祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)以下八柱の神である。
             
宗教法人 八幡大神  由緒沿革
元禄十年(1697)八月の創立と伝えるが、平安時代の和名抄に「佐牟河波伊知乃三夜牟良」
(寒川一ノ宮村の意か)と記されていたことから、古くより奉祀されていたと推定される。爾来武門・上下の崇敬を受け、明治元年の神仏分離令により妙光寺持より村持となり、社格制度制定により同六年村社に列せられる。更に村内の数社を合祀し、社殿を再興、屋台三基(町文化財指定)を奉製し神賑行事に備える。大正十二年関東大震災により建物一切倒壊するが、同十五年本殿他を再建す。昭和二十年の終戦により宗教法人となる。同四十五年屋台保存殿を新築、同五十八年十二月社殿の屋根葺替並改築。神楽殿、社務所の新築に着手し、氏子崇敬者の浄財により同五十九年六月完成し、本遷座祭並奉祝祭を斉行す。

 新編相模国風土記稿にも「若宮八幡宮妙光寺持」とあり、「梶原景時」が一之宮に館を構え、鬼門除の神社として創建されたという説もあるようだ。明治11年12月に「琴平社」、「天神社」と境内社である「荒神社」、「稲荷社」の2社が合祀されている。
 境内には、「地神塔」・「二十三夜供養塔」・「道祖神」(2体)・「玉垣建設碑」・「大震災記念碑」などがあるほか、右手に次のような碑と、解説板がある。
 (記念碑)        
創立三十周年祈念碑
                     相州一ノ宮屋台ばやし保存會
             とんとこ とんとん
               とことん とろすく
                     平成十七年八月吉日


 (解説板)        
一之宮八幡大神屋台神賑行事
                      寒川町指定重要文化財第三号
                      昭和五十一年七月一日指定
八幡大神の例祭の宵宮(前日の夜)に行われる神賑行事で、一之宮の東・西・北の三町から出発し、太鼓、笛、鉦等による囃子にのって松戸橋に集合して、三基揃って巡幸しながら宮入りする。
 製作は愛川町半原で、明治時代の初期に始まったと伝えられている。
                              寒川町教育委員会


妙光寺(11:18)

 そのすぐ先右手にある。街道から参道にはいると石の門が両側に立ち、その右前に「明和五年(1768)戊子三月」と「日蓮大菩薩五百年忌供養賓塔」と刻まれた髭題目の石塔が立つ日蓮宗の寺院である。
 新編相模国風土記稿に「如日山と号す。日蓮宗鎌倉妙本寺末、本尊三宝諸尊を置く。開山は唯常院と云ふ」とある。木造日蓮上人坐像がある。
 境内の文化財として、前記「題目塔」や「高安善塚石塔」があるほか、「日蓮大商人尊像」「日蓮大商人御幼児 善日麿之像」。

伝梶原七士の墓(11:29)

 その先左手に「濱降祭駐輿記」と刻まれた大きな石碑の建つ空き地があり、駐車場のようになっている所を矢印看板に従って奥まで入り右に入った所に、「箙(えびら)の梅」と題した石碑が建ち、赤銅に彫られた梶原景時の武者絵と次のような解説文が黒御影に彫られた石版を埋め込まれている。

梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「麿墨」共に武名をあげる。同年二月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙に挿し
     かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん
と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。
 八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。
               平成二十年五月
                              梶原公顕彰会二十周年記念事業


 その碑のすぐ奥に、「伝 梶原七士の墓」と解説板がある。
               
伝 梶原七士の墓
 この五輪塔は正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一之宮を出発、上洛の途中清水で討ち死にしてしまったので一之宮の留守居役であった家族、家臣らが弔ったという説や、景時父子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害した。それを祀ったものともいわれている。
 なお、後ろの水路は当時の内堀の名残である。
                              寒川町教育委員会


「梶原景時」解説板(11:36)

 街道に戻り、その先左手で梶原景時に関する大きな解説板を発見する。東京・駒込の「萬福寺」蔵の「梶原景時公像」や「一宮館址案内図」ほかと共に、「梶原氏の足跡(年表)」と詳細な解説文が載っている。

 梶原景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
 治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、八月二十四日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝との出合いでした。
 翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめさまざまな重職に携わりました。
 頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀反の疑いを将軍頼家に讒言したとの理由で御家人六六名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、十二月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
 正治二年(1200)一月二十日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に甲斐源氏の武田有義を将軍に擁立し再起を図ろうと、一宮館をあとに京都に向け出立します。その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡県清水市)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
 幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。


天満宮(梶原景時館址)(11:40)

 その先の交差点(「一之宮小入口」信号)の手前左手の一角にある。当初想像していたより小規模だが、往時の地所の広さは先刻の地図で理解できている。まず鳥居があり、その右横には「相模国一之宮」、即ち「寒川神社」への道標があるが、寒川神社は既に古代東海道歩きの第一回目に立ち寄っているので今回は関係ない。

 鳥居を入った右手に「梶原景時館跡」と書かれた碑がある。
                    
梶原景時館跡
 梶原景時は治承四年(1180年)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救った。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献した。その後、一之宮庄を所領し、この地に館を構えた。図に示すとおり館の規模は広大で、現在も当時の堀のなごりを留めている。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したものと思われる。
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将であった。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199年)十一月、鎌倉を去り、一族郎党を率いて一之宮の館に引き揚げた。その後、景時は再起を期し、上洛するため翌正治二年(1200)正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発した。一行は駿河(清水市郊外)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げた。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(犬山市)に引き揚げたと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創建したともいわれている。
                              寒川町教育委員会


 なお、天満宮には、「梶原景時館址」の碑(昭和12年5月)・「天満宮遺跡碑」(大正4年1月)・「天満宮造立碑」(延宝5年(1677)6月)・「従是一之宮明神乃道」道標(文政九9年(1826)土地改良で現在地に移転)などがある。

消え失せた?車地蔵

 寄り道するべく「一之宮小入口」信号を北へ右折する。相模線に出るまでの途中に「車地蔵」があるという情報に基づいて、延々行ってみたが、結局予想どおり見つからなかった。拡幅された道路工事との兼ね合いで取り壊されたものと判断し、再び交差点に戻り、交差点の北西角にあった蕎麦屋でメチャうまの「鴨せいろ」で昼食タイム(12:00~12:15とした。
 「車地蔵」というのはこれまでの幾多の街道歩きでは残念ながら未だ見たことが亡く残念だが、一般には参詣者がお堂の柱に取り付けられた地蔵車(後生車ともいう)を回すことにより、自分の子や孫の時代に幸せが車に乗ってやってくるという「三界ハ輪廻ノ如シ」という仏教の教えに従ったものだそうな。霊験あらたかな子育地蔵として江戸時代には講を組織し、参詣する人も多かったそうであるが、この近くに往時あったらしい地蔵堂は、「車に乗った地蔵」で、小田原城主大森実朝の孫菊地泰次が慶長2年(1597)3月建立し、安産子育地蔵として祀ったと伝えられているもので、お堂の柱に車がついている訳ではないらしいが、いずれにしても残念である。

一之宮宿場(12:16)

 「一之宮小入口」信号を西に渡った右手、即ち一之宮小学校前は、昔「一之宮宿場」というのがあったそうだが、現在では何の痕跡も無く、「あ、そうだったのか」で終わりである。

古代東海道と交わる八角広場(12:25)

 元に戻って左側にしかない歩道を直進すると信号があり「三角広場」を挟む分岐に達する。右に進路を取るが、すぐ先で右折するのが「第一回目の古代東海道歩き」で通った懐かしいルートであるが、逆に左手に入った所にある八角広場に立ち寄る。街道を横断する遊歩道のような道(「一之宮緑道」)は、曾ての鉄道線路跡を緑道にしたもので、昭和59年まで使用されていたそうだ。
 また、緑道の終着点であるこの八角公園は、曾ての西相模線の西寒川駅であり、朝夕工場地帯で働く人の玄関駅だった。工場の縮小や他の交通機関への切り替えで、昭和59年に西寒川線が廃線になり、駅は公園に、線路は緑道となったという次第である。貨物運搬用の貨車や線路が一部だが園内に残されており、
 「旧国鉄寒川駅 相模海軍工廠跡」の石碑も建っている。

田村不動堂(12:29)

 その先で「目久尻川」手前を右カーブする右角にある。新編相模国風土記稿に「不動堂 村民持。大山道にあり古は相模川向にあり、今其所を元不動堂と唱ふ、大住郡田村に属す」とある。このため、田村不動堂と称されている。
 本尊は、もちろん不動明王で、像高69cmの江戸時代の作。台座が道しるべになっており、天明6年(1786)に江戸浅草の大黒屋が造立したもので、「右大山道 左江戸道」と刻まれている。その脇には、可愛い「双体道祖神」もある。
解説板が2枚建っており、下記のように記されている。
                    
大山街道
江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、江戸から大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発達したが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や江の島を訪れてのコース~東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる~この道であった。
                    一之宮不動堂
案内の不動尊は、かつて大山詣で縁の不動尊であった。
                              寒川町教育委員会


                    
河原不動尊
本尊は、不動明王坐像と二体の眷属(お供の仏像)からなる不動三尊像です。不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦三年(1753)に江戸芝口(東京港区)の初音屋平吉が修理した。との「胎内納札名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制咜迦童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。
お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したものです。このようにこの不動尊は、江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった、目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。
「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守っり続けて来たことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」とも記されていますが、評価は定かではありません。
                   平成十九年十二月
                               (一之宮河原地区住民による)不動尊維持管理会


 その曲がり角まで来ると、霊峰大山の雄姿が午後になって薄日の出始めた空の向こうに見えてくる。
 なお、第1回目の古代東海道歩きの際に見た「さがみ縦貫道路(圏央道)」の工事は、その後も遅々としており、この不動尊当たりの南側は橋脚上に高速道が乗っかっているが、ここから北側は橋脚のみしかなく、前途遼遠の感がある。

神川橋と田村の渡し(12:52)

 その先で左手の「目久尻川」を渡り、街道の上を横切る圏央道(相模縦貫道路)の橋脚下を過ぎると「相模川」が視界に入ってくる。12:42「神川橋東側」信号から橋を渡り始める。前方に見える大山が実に綺麗である。橋の手すりの柱には、「大山街道」「田村の渡し」「大山参り」「至大山」などのプレートが取り付けられ、往時の大山参詣者達が『いよいよ』の感を弥が上にも高めたものと思われる。橋の半ばで平塚市域に入る。
 この橋が架かるまでの間、東側の一之宮村と西側の現平塚市の神田村を行き来するために「渡し」が利用されていた。外河原と呼ばれるこの辺りが「田村の渡し」のあった場所である。
広い歩道のある「神川橋」で「相模川」を渡り、すぐ左手の土手を少し南に進むと、12:52右手に自然石でできた大きな「田村の渡場跡」の碑や解説板、歌碑などがある。傍に立つ解説板には、「田村」の地名の由来が、坂上田村麻呂が陸奥に向かう途中に立ち寄ったからとある。
(解説板)                
田村の渡し場
 田村の渡しは、中原街道と大山街道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。
 渡し場のある田村は、この往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する場で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。
 渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。
 また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。
                         平成十三年(2001)三月
                                          平塚市


(歌碑)     
阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら こえげにけむ ここの渡しに    中村清四郎

(石碑)                
田村と田村の渡し場
田村の地は 古くから 坂上田村麻呂に由縁の地と伝え 箱根路につづく 陸奥への海辺に沿ったところに 相模川の渡し場があった 鎌倉時代には 三浦平六義村の田村の館があり 鎌倉武士が しばしば往来したことは 史書にあきらかである また 江戸時代には関東の霊域大山釈尊社への 参詣道として繁昌した
田村の渡し場は 大住郡田村 高座郡一之宮村 同田端村の三村が管理し 渡し舟・馬舟など四艘を常置していた
明治初年の記録に「川幅五百二十二間(約九三九米) 水深六十間(約一〇八米) 深さ三尺(約〇.九米)より一丈(約三.〇三米)」もみえている。
渡し場から 西方諸山岳の眺望の絶佳は 最も著名で 詩歌の作品が多くのこっている
                    昭和四十八年三月二十一日
                                   平塚市観光協会
                                   平塚市田村部落長 落合桔次


八坂神社(八阪神社)(12:54)

 土手下に降り、神川橋下を潜って左折した右手にある。田村の鎮守社で、予想していたよりも大きな神社である。社殿に懸かる扁額は「八阪神社」、鳥居その他の解説板などには「八坂神社」の字が使われ、どちらが本当なのかよく判らない。その鳥居は、「両部鳥居」と言う、四脚の控柱(稚児柱)を付けた型の鳥居である。
 また、次に眼に入ったのが、自然石の移設記念碑で、次のような碑文内容だった。
               
八坂神社社殿等移設記念碑
 神川橋架替工事に伴い八坂神社社殿、末社(四社)、鳥居、神楽殿、狛犬、石燈篭等、移設
                              平成二年五月吉日 氏子中


 「八坂神社」は『新編相模国風土記稿』には、「牛頭天王社」と記されており、明治2年(1869)に現社名に改められている。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神で、仏教と共に日本に伝来してきた神である。
 境内には、市の保全樹木(56~57号)に指定されている「むくのきけやき」が2本聳え、向かって左奥には「神輿殿」と「田村ばやしの碑」がある。
 ご当地「田村」には独特のリズムを有する祭囃子が伝えられており、市の無形重要文化財に指定されている。田村囃子の源流は、鎌倉時代「田村の館」に住んでいた三浦平六義村が京都から楽人雅楽を招いたときの里太鼓にあると言われ、江戸時代になって八坂神社祭典の屋台曳行の囃子になっていったと伝えられている。「田村ばやしの碑」は昭和57年(1982)に建てられ、その練習場も設けられている。

三浦義村田村の館跡(13:03)

 その三浦平六義村の「三浦義村田村ノ館の跡」碑が「八坂神社入口」交差点を左に入って2~3分先の左手にある公園と市営宮ノ前住宅の脇に、高さ70cm位の煉瓦塀囲みの中に建っている。鉄門を開けて中に入ると次のような碑文が読み取れる。
               
三浦義村田村ノ館の跡
 この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の田村ノ館の跡である 承久元年(1219)七月鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を行った 東鏡によると頼経将軍は数回来泊している 安貞二年(1228)七月廿三日もそのひとつである この時は執権北条泰時連署北条時房等鎌倉の将星多数が扈従し三日間にわたり田村の秋興を満喫した 館は田村の渡しにつらなる古街道に面し 大手を北にもっていたと思われる 義村は延応元年(1239)十二月に死している この館はそれに前後して廃されたものとおもう 
                承久元年より七百四十年 昭和三十四年春建            平塚市長戸川貞雄撰
                                                真洲田中真治書


 また、前面の煉瓦塀には黒御影のプレートが取り付けられ、次のように記されている。
                    

この附近一帯は三浦平六義村氏の館跡と伝えられています。市はここに昭和三五~三七年に木造平屋建九五戸を建設しました。その当時田村の皆様は由緒ある館跡地が永遠に消えることを憂慮されこの敷地の一部でも後世に伝えたいと「由縁の碑」及び館跡地の一部二八一平方米(八五坪)を市に寄附され、市は田村館跡地として管理してきましたがその後昭和五六~五八年に木造住宅を中層耐火構造住宅に建て替えした時、この事業に伴い寄附当時の位置から北側に若干移設し現在のように整備したものです。
                          平成元年四月吉日      平塚市


---(参考)---
◇三浦義村 鎌倉初期の武将。義澄の子。源頼朝に仕えて戦功をたて、将軍実朝の時、幕府の元老。和田義盛の挙兵に際して北条方に味方し、北条氏の信任が厚かった。(―~1239)(広辞苑)

◇九条頼経 鎌倉幕府の第四代将軍(在職 1226~1244)。道家の子。二歳で鎌倉に迎えられ、のち将軍となったが、北条氏により職を子の頼嗣に譲らされた。藤原頼経。(1218~1256)(広辞苑)

◇北条泰時 鎌倉幕府の執権。通称、江馬太郎。義時の長子。承久の乱が起るや叔父時房と共に京都に攻め上り、鎮撫の後、六波羅探題。父の没後、執権となり、御成敗式目の制定をはじめその治世に見るべきものあり、公武双方から後代まで名政治家として評価された。(1183~1242)(広辞苑)

十王堂跡(13:15)

 街道に戻り、その先の「旧田村十字路」交差点を左折するのが中原街道だが、交差点右手前角に「十王堂跡碑」と「左大山みち」の道標がある。「田村の辻」と呼ばれた場所である。
後ろの電話ボックスの左脇に次のような解説板があり、往時の合戦による死者供養のためにお堂が建てられた旨記されている。
                    
田村十王堂
 江戸時代にはかつてこの田村十字路に十王堂が建てられていた。伝承によると、天文六年(1537)小田原の北条氏が河越の上杉氏を攻撃する際相模川で合戦があり、多くの戦死者を出した。
 この戦死者を妙楽寺の住職が集めて、篤く弔い後生のため十王堂一宇を建てたといわれる。
                                        田村自治会
                                        平塚市観光協会


 なお、旧田村十字路交差点を右に行った辺りが田村宿のあった場所だそうだが、何もその面影は無さそうなので順路に従って四差路を左折する。

田村駒返し跡の碑(13:25)

 しばらく行った先に「駒返橋」バス停がある四差路の右向こう角にある。家康が鷹狩に来た時、大雨の後で道がひどく悪かったため田村の人々が畳を出して通行の便宜を図ったので家康は田村の人たちの苦労をおもんばかって、馬を返したと言う伝説が残っている所である。傍に赤いトタン屋根の祠があり、「道祖神」や「石仏」などがあり、その右横に「田村こまかへ橋(木偏に髙) 駒返橋 跡」の石碑、「庚申供養塔」があり、解説板がある。
               
田村駒返橋(こまがえしばし)跡
ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発声したものと思われる。
 古歌に 「ふるさとをたちいでる幾月ぞ 夕月あおぐ駒返の橋」
 天正一八年(1590)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康のもっとも好んだ狩場となった。たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので、田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労を思んばかって、ここから馬を返したという伝説がある。
                                    平塚市観光協会


妙楽寺(13:28)

 その角を右折するとすぐ先右手に見事な桜並木の参道があり、奥に風変わりな形の山門が目に入る。参道入口右手には、水準点の木標が建ち、「標高八米四九一」と表示されている。
 二階建ての見事な山門には右起左行書きで「江北禅林」の大木板が掲げられている。祥雲山と号し、由緒ある臨済宗の古刹で、鎌倉建長寺末、本尊は千手観音である。
 開基は足利尊氏の子で鎌倉公方の左馬頭基氏、開山は有名な夢窓国師の弟子、義堂周信で、それらの名を刻んだ自然石の石標「臨済宗建長寺派 祥雲山妙楽禅寺」が建っている。応永11年(1404)11月、足利左兵衛督満兼が祈願所としており、文禄3年(1594)には徳川家康から寺領十石の朱印状を賜っている。
 また、足利尊氏などからの古文書4通が寺宝として残っている由。驚いたのは、本堂屋根修復時の「本堂鬼瓦」が記念として山門左手に2つ置かれており、その大きさから、往時の壮大な堂宇の姿を窺い知ることができる。試しに台座の上に乗って我が身長をメジャー代わりに目測してみたら、1間ぐらいは充分な高さの鬼瓦で、横幅はその倍ぐらいあるから超弩級というべきであろう。
 妙楽寺の右後ろの丘に、半増坊が明治時代に建てられ、関東大震災で全壊するまで、3月17日のお祭りには芝居などがあって多くの参詣者で賑わったらしい。あいにく本堂前は工事が入っていて参拝もできなかったが白木も新しい、最近建て替えられたような本堂だった。

田村一里塚跡(13:45)

 妙楽寺から暫く歩いた先の二股になった分岐点に道標を兼ねた「一里塚跡」の碑と解説板がある。一里塚跡碑には、「南 中原道 北 奥州道」とあり、この分岐をを右に行く細い道が中原街道で、この細い道は、少し先で国道129号(八王子街道)と合流する。戦後の耕地整理の影響で、平塚市内の中原街道旧道は殆ど道が残っていない。そんな中で、この先旧道がいくつか残されている部分があるという。その一つが諏訪神社から南西に伸びる道なので、国道途中右手にある「安楽亭」手前の「四之宮林町」信号を右折して「諏訪神社」へ向かう。
 なお、一里塚碑の横には地蔵尊らしい石仏を祀った祠があり、「神様のお賽銭、又お供え物を持ち運ばないで下さい」との注意書きがあったのには驚いた。

諏訪神社(14:03)

 国道「四之宮林町」を右折(西進)し、諏訪神社に向かう。諏訪神社は、こじんまりとした神社で特記することはない。

旧道

 旧道はこの神社手前を南西に伸びる道(石垣の上にブロックの塀が両側にある通り)を行く。細くて、旧道らしい雰囲気はあるが、すぐに東西の道とぶつかって消滅する。その角に「嘉永三年」(1850)の庚申供養塔がある。脇に建てられた板に「旧江戸中原御殿街道 用田 田村 真土」と書かれているが、石塔からは何も読み取れない。

 庚申供養塔の前を右折し、二つ目の角を左折すると「真土神社」の北側を通る小道に出て右折する。真土神社は、面白いことに北西方向を向いており、従って北西方向からの参道が南東へ通じている。従って、旧道は、真土神社の西側で北西側から来る参道にぶつかるが、14:13その合流地点に、「古道中原街道」の自然石碑と次のような解説板がある。
                    
古道中原街道
 古来より真土を斜めに縦断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り、真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。
 家康は、関東移封のときや、その後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど、好んでこの道を用いた。
 その後、江戸が政治の中心になるにしたがい、東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ、脇街道となっていった。
 しかし、この道は起伏が少なく江戸への最短距離であったため、急ぎ旅の者や物産輸送におおいに利用された。いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは、真土地区であるといわれている。この道で展開されたロマンや役割を大切に伝えていきたいものである。
                                    平塚市観光協会


真土神社(14:14)

 小高い見晴らしのよい場所ではあるが、小さい神社だ。インターネットで調べてみると、真土神社は古い砂丘列上に建てられている。平塚八幡宮や中原日枝神社、真土神社などでは今も高まりが認められ、砂丘の名残りをとどめている。こうした砂丘と砂州からなる微高地は平塚海岸から北へ5km離れた平塚市横内まで認められる。平塚市域で大規模で標高の高い砂丘は中原日枝神社から真土神社にかけての列である。この列には、かつて高さ20mにもなる真土大塚山古墳があった。確かに、地図で見ると真土神社の西北500m地点に「大塚山古墳」が表示されている。
 真土神社が、何故北西向きなのか判らないが、ちょうど、霊峰「大山」に向いており、それに敬意を表したものとも考えられる。
 創建年代は不明で、祭神は建御名方命をはじめ10柱あり、真土地域内の各地に鎮座していた諏訪神社、白山神社、本宮神社、神明神社、八坂神社、稲荷神社、御嶽神社の各祭神を明治年間に一社に合祀し、真土の総鎮守とした経緯がある。
 なお、境内左には鐘楼もあり、近所の小学女児が梵鐘を撞いて遊んでいた。

分断された旧道

 参拝を終わり、「古道中原街道」の碑の場所から10m程北西に進むと、途中二股を左に入り、道なりに左カーブして行くと交通量のある南北のバス通りにぶつかり、「むらた歯科クリニック」が道向こうに見える。バス通りに出て左折し、100m程南にある2つ目の交差点を西へと右折する。更に200m程進むと左斜め(南東)に向かう小道が見える。この北田歯科医院前を通る小道もわずかに残る中原街道の名残であり、この斜めの道を北東から南西に向かって歩く。
 斜めの旧道はすぐ東西の道にぶつかり、右折して西に向かう。右手に広い敷地の三菱樹脂の工場がある。

立ち寄り(14:42)

 三菱樹脂の南西角から一つ南側の交差点の北西角(西友前)に「東中原E遺跡第4地点」の解説板のある跡地(「SEIYU」前の記念小公園「いこいの広場」)がある。古代東海道の遺構が発見された記念碑や解説板がある箇所で、既に第一回目の古代東海道歩きの際に立ち寄り済みなのだが、その当日迂闊にもカメラにミニSD記憶媒体を挿入しないまま来て、写真が撮れなかったためにあらためて立ち寄った次第であり、あらためて撮影記録をとる。

大野畑地跡

 元の街道に戻り、西進して南北に延びる県道606号線を越える。その先の大野中学バス停付近は、曾ては「大野畑地」と呼ばれる広大な畑地が広がっていたそうだ。
 大野中学バス停から先は、旧道は南西方向に向かっていた筈だが、再び途切れているので、できるだけその近くの道を通って、県道61号の西側にある「日枝神社」方向へと向かう。

日枝神社

 『新編相模国風土記稿』の中原上宿、中原下宿の項に「山王社」の記述がある。その山王社が明治初年、日枝神社に改称され現在に至っているという次第で、県道61号に突き当たった道向こうの角にあるが、入口が反対側なのが見えないのと、当初予定時刻を大幅に過ぎていたため、通り過ぎることにした。
 神社自体は中原下宿に鎮座しているが両宿の鎮守である。伝承では、古くは字御殿地にあったが、寛永17年(1640)12月、徳川家康が鷹狩りなどに訪れた「中原御殿」の鬼門鎮護のため、現在地に移されたと言われ、境内には家康をまつる東照大権現社も鎮座している由。

中原上宿遺跡(15:05)

 日枝神社に突き当たって、左折して県道を行く。右手に「中原上宿遺跡」と刻んだ石版が歩道右手の植え込みの中にあり、予定外の新発見となる。
                    
中原上宿遺跡
 この道路は、昭和45年から昭和56年にかけて主要地方道平塚・伊勢原線の新道として建設されたものです。゛に際して附近一帯に遺跡のあることがわかり、発掘調査が行われました。
 発掘にあたった「中原上宿遺跡調査団」の調査によりますと、沖積低地における古代集落の解明に役立つ弥生時代の住居址、奈良平安時代の住居跡群や、大型の井戸址の存在が確認されました。
 この発掘調査により、古代の相模国に住んだ人びとの生活がかなりわかるようになりましたので、この成果を後に伝えるために記念碑を建てたものです。


中原御殿

 県道61号線の「中原二丁目中央」信号を右折(西進)し、二つ目交差点左手に交番がある所(三叉路)を右折すると、通称「御縁場」と称される通りの突き当たりに「中原小学校」があり、ここが「中原御殿跡」である。突き当たりに「相州中原御殿之碑」と書かれた大きな解説文付き石碑と、その右に解説板がある。
 それによれば、徳川家康が江戸・駿府間の往復や鷹狩りなどの折に宿泊した場所で、「雲雀野御殿」とも呼ばれていたという。正面が東側だったというから、正に今立っている地点である。中原御殿が造られたのは慶長元年(1596)と言われているが諸説あるらしい。明暦3年(1657)には引き払われ、その跡地には、松や檜が植えられ、東照宮が祀られている。
この中原街道には、既に途中に「小杉御殿」があったが、この「中原御殿」が中原街道西端の御殿ということになる。

(石碑)                 
相州中原御殿之碑
                                              徳川宗敬 題額
この地は 慶長年間 江戸に幕府を開いた徳川家康公が 旅のやどりとして造営した相模国大住郡 中原御殿の跡である 御殿はまたの名を雲雀野御殿ともいい 家康公が鷹狩り 江戸と駿府往來の途次に宿泊した 文献によると文禄元年(1592)肥前国名護屋陣に赴くさい 中原に止宿したのを始めとし 係わりは深井ものがある
中原は 御殿の勝地にとどまらず この地方に与えた影響は大きい 江戸時代初期の大住郡の行政 中原御林 中原街道など 皆この地より発したという
明暦三年(1657) 六十有余の歳月を経た御殿は 惜しくもお引き払いとなり中原を去った
ここに 近世初頭の光彩を放つ著名史跡を末永く顕彰するため 建碑したのである
                      平成元年五月吉祥日
                                 平塚市長 石川京一 撰
                                 平塚市文化財保護委員 高瀬慎吾 書


(解説板)                
中原御殿
 徳川家康が鷹狩りなどの折りに宿泊所とした中原御殿が、中原小学校を含む一帯にありました。御殿の規模は東西七八間(約141m)、南北五六間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし、東側を表としていました。
 御殿が造られたのは、慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説があります。寛永十九年(1642)に修復されますが、明暦三年(1657)には引き払われました。
 その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」(平塚市指定重要文化財)の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。
                      平成十三年(2001)三月
                                               平塚市


 又、それらの左手には、「中原宿高札場跡」の木碑が建ち、側面に「左 大手道(中原御殿)」と記されている。その横には解説板もある。
                    
中原宿高札場跡
 中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向かう大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。
 高札場とは幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のことです。
 「中原御宮記」(長谷川雪堤画)を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられる部分には屋根がついていました。


善徳寺(15:25)

 高札場跡の碑を左に行きすぐ左折して暫く行くと、その先の右手にある。中原御殿の隣接地にあるこの寺は、茅葺の三門(山門)が珍しい。これは、明暦3年(1657)に中原御殿が引き払われた際、その裏門(冠木門)を移築したものである。その前に解説板がある。
                    
善徳寺と三門
 善徳寺は、浄土宗に属し南原山永琳院という。開山の善徳徹巌は俗名を大館玄誉(草冠あり)といい久しくここに庵室を構えていたがのち一宇を建立し天正二年(1574)正月没したと言われている。
 この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移築したものであると昔からいい伝えているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。


 三門を入って右手に市保存樹木指定の「いちょう」の大木があり、左側にもかえでだろうか、2本の大木が聳えている。
 善徳寺は『新編相模国風土記稿』には、「南原山永琳院と号す。浄土宗。芝増上寺末。開山善徳徹厳、俗称大館玄誉(草冠あり)、甲州の人。中興開山忍怒。本尊阿弥陀」とある。この善徳寺には、「絹本着色 (浄土宗開祖)法然上人像 一幅」があり、室町時代前期の作として平塚市指定重要文化財になっており、市教育委員会によるその解説板も建っている。

遂に中原街道ゴール

 15:30、善徳寺を最終立ち寄り先として、帰路につく。少し戻って右折して南下し、「河原」バス停のある所で左折してJR平塚駅方向への斜め道を速歩する。普通ならバスかタクシーで行くのが当たり前にして充分な距離だが、街道ウォーカーとしては、時刻が予定より遅めにも拘わらず速歩でどんどん歩く。途中で右折して国道1号を立体歩道橋で越え、歩くこと40分。16:10に平塚駅に着き、16:13発東京行きに乗車、藤沢駅で降り、運良く16:35発小田急線快速急行に乗ってすいすいと帰路についた。

中原街道完歩

 これをもって、20.08.03東京・虎ノ門を出発以来、終始ひとり歩きで、都合6回に分けて歩いた「中原街道」餐歩も、遂にゴールを迎えた。
 江戸時代後期の中原街道は、この西約1キロほど行った所にある「化粧坂一里塚跡」が終点だという説もあるらしいが、へりくつを言えば既に東海道餐歩時に、当然そこまで歩いているので、中原街道は、これをもって完全踏破したことにしたが、帰宅後のイッパイはまた格別であった。