中原街道餐歩〜第3回
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 第3回餐歩 2008.10.12(日) 武蔵中原〜中山(14.1km+寄り道1.0km)

−−−8:57、武蔵中原駅をスタートし、南武線高架を潜って二つ目の信号を右折−−−

■大戸神社−−−折良く、きょうは祭礼日で町内の人出雲霞のごとく多し−−−

 この大戸神社は、永正11(1514)年、信濃国戸隠神社を勧請し、下小田中村の守護神にしたといわれている。まず参拝すべく本殿前に進むと、なんと、狛犬の姿がが面白い。折良く傍を通りかかった神主にお聞きしたところ、日露戦争の戦勝記念に砲弾を抱えた狛犬が造られたので、「砲弾狛犬」と呼ばれているそうで、大変珍しい。よく見ると、なるほど小さくそのような解説文字が刻まれている。
 この神社には「大戸神社祭囃子」というのが伝承され、折しも本日ただいま、祭礼当日とて、それを披露すべく本殿前でかけ声勇ましく大御輿も出発し始めるグッドタイミングで、運の良さに感激する。この祭囃子は、幕末から明治初頭にかけ、江戸の神社祭礼で獅子舞を踊っていた下小田中村の内藤仲七氏が村の若者に囃子技芸を伝授したものだそうで、明治13年に村の鎮守大戸神社の遷宮式で演じたのが始まりとされている。
 比較的大型の御輿を男女20人ぐらいいただろうか、元気の良いかけ声で左右交互に揺らしながら出立する風景は圧巻である。参拝を済ませ、中原街道に出たら、はっぴ姿の女性2人に先導された祭りの列が、人・人・人、太鼓、御輿と続いて進む。“こいつぁ、朝から縁起がいいやぁ!”

 −−−9:24、暗渠化し、今や遊歩道になっている「巌川橋」の信号で川崎市中原区から高津区への区境を越える。
      「Kawasaki City ****** Ward」など と横文字でも併記されている−−−

■千年(チトセ)の旧道に入る−−−「千年」交差点から右斜めに別れ行く旧道−−−

 左に時々現れる新道を左に見ながら静かな、だが比較的急坂の旧道に入ると、やがて影向寺バス停付近に出る。この辺りがサミットになっていて、ここから先ほどの新道を横断して反対側の左手の旧道に入り、下っていくと暫く先で再び右の新道に戻る。
「千年」という町名は、江戸時代に清沢村と岩川村が明治8(1975)年に合併で「千歳村」になったのが始まりだ。この辺り左方向には、「子母口貝塚」とか、「橘樹(タチバナ)神社」など、右手には「影向(ヨウゴウ)寺」など、本来なら立ち寄りたい所もあるが、いずれも立ち寄るにはちょっと距離がありそうなので割愛し、今時の街道ウォーカーをして喜ばせる「金木犀の芳香」を浴びながら能満寺信号を過ぎていく。

 「野川」交差点は「尻手黒川道路」との交差箇所で、左へ行けば川崎方面である。すぐ先で、矢上川に架かる野川橋を9:45に渡るなだらかな上り坂を行く。9:50、「山崎」バス停付近がサミットで今度は下り坂だ。これから先も、きょうの街道歩きは結構登り・下りの坂が多い。
 9:52、久末信号通過。右折すれば「鷺沼駅」方面であるが、街道は直進する。信号の直ぐ先で横浜市都筑区へ入る。第三京浜道路を右手に見ながら並行していたが、10:03にその高架を潜る。

■鎌田堂(左手)−−−下りの道中坂左手−−−

 数段の石段を登ると、右の道路側を背面にして6地蔵が並んでいる。地蔵の下部に名前が刻まれているが珍しいので記録しておいたが、右から順に「鶴亀地蔵」「陀羅尼地蔵」「法印地蔵」「宝性地蔵」「地持地蔵」「法性地蔵」とあり、初めて知る名前である。その奥左手には街道方向に向いてお堂がある。その昔、源義朝に仕え、保元・平治の乱で活躍した鎌田兵衛正清の舘がこのお堂の後ろにあったため、鎌田堂と呼ばれている由。鎌田正清は、義朝と共に尾張の長田忠正の屋敷で殺されている。ここは、安政年間に念仏道場として繁栄し、「道場坂」という名を残したが、現在では「道中坂」という呼び名になっている。
 お堂左側の石碑に、由来が記されている。

 
堂の背後に鎌田兵衛正清の舘ありし故 土人 鎌田堂と云う 二間に三間なり 印子の観音を安置しありしが奪われ 霊元天皇 寛文十三年現在の石地蔵建立さる 寛永の頃 佛誉常心止住 以来安政の頃迄念佛道場として繁栄 道場坂の名を残す 尚子育地蔵 諸願成就の地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり 因りて堂の再建に際し此の碑及び堂標を造立して記念とす
               昭和五十六年三月吉日
                    観音寺檀徒 五十四名
                      
   信徒 七十五名

■旧道

 「道中坂下」信号から、精米ハウスのある裏側(右斜め前)の旧道に入って行く。かなりの急坂である。さらにその先「向坂(ムカイザカ)」で元の幹線と合流し、すぐまた右斜めの旧道に入ると今度は下り坂になる。新道直進の道もできているが、旧道にこだわるべく、静かな右の在来道を通る。新道開通前は、この旧道もバスは通る、車も頻繁で、歩道もなく歩行者にとっては油断の出来ない道だったようだ。

■のちめ不動尊−−−旧道右手の石垣を切り通した20段ぐらいの石段上の高台−−−

 文久2(1864)年、「のちめ」の住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀った。当初は山の上に祀られたが、天災のため、現在の場所に移されている。その間、地元の城山講中が、改築補修や仏像・仏具の修繕等を行なったと言われ、現在でも人々の尊崇甚だ厚いとみえ、お堂の手入れも充分なされているのが判る。伝えられる霊験としては、本堂左側にお釈迦様のお弟子さんのお賓頭様が祀られており、この像をなぜて、病気の場所をなぜると治ると伝わっている由。また、約80余年前、当地で疫病が蔓延し多勢の人が亡くなったが、この講中からは不動明様のご加護で死者が出なかったとの言い伝えもある由。毎年7月27日(前夜祭)には地域の人たちが集まり、一年の無事と幸せを祈願しているそうだ。

 左手の「のちめ不動尊由緒」という立派な石碑には、次のように記されている。

 この不動尊は今から約百三十年前の文久二年(1864年)のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀り、七世代にわたり地域の守り神として護持されて来ました。
昔は山の上に鎮座されていましたが、天才の為現在の場所に安置されました。この間数回の改築補修がなされましたが、平成元年暮れ□□□・城山講中全員の発意により再建することになりました。
平成三年三月多額の浄財をいただき造成工事、本堂の建設、仏像仏具の修復等予定通り順調に進み同年十月下旬落慶法要を行いました。
 霊験あらたかなお不動様のお顔は怒りの相を現して右手に降摩の剣と左手には、ひもなわを持って火炎を背にして石の上に立っており悪魔煩悩(心や身体をなやます一切のまよい)を降服させて下さいます。また本堂左側にはお釈迦様のお弟子さんのお賓頭様が祀られております。この像をなぜて病気の場所をなぜると病気が治ると言い伝えられています。今から約八十数年前(明治末期から大正初期)この地域に疫病が蔓延し多くの人々が亡くなりましたが、この講中からはお不動様の御加護により死者がなかったと言い伝えられています。毎年七月二十七日(前夜祭)には地域の住民が全員集まり一年の無事と幸せを祈願しています。崇敬者の皆様に末永くお不動様のごかごがりますよう御祈念いたします。
平成六年十二月吉日建之

 10:32、「宮の下」で新道と合流し、「中川中学校前」「清林寺前」信号を過ぎ、「大棚」の「まからずや商店」向かい側にある筈の嘉永4(1851)年の「馬頭観世音菩薩」を捜したが、撤去された感があり、見つからなかった。この先、両側いずれも拡幅された歩道は未舗装状態で、一部舗装工事中。

■最乗寺−−−早渕川に架かる勝田橋(かちだばし)を渡り、その先は二股で、右に入った先の右手−−−

 10:51到着の浄土真宗本願寺派(西本願寺)の勝田山最乗寺は、今から約500年前に当地で開創され、樹齢600年の大イチョウ(高さ約35m・横浜市名木古木指定)やハクモクレン(同指定)の大樹を本堂前に、寛政7(1795)年建立の大きな堂宇が威風堂々と立っている。また、枝垂れ梅の大木もあるが、その時期でないのが残念である。

■杉山神社−−−その先坂道上の石段の上、11:01到着−−−

 
祭神

  杉山神社  五十猛命 日本武尊

  内日枝神社 大己貴命
  内稲荷明神 倉稲魂命

  内八幡太神 應神天皇
  内稲荷明神 倉稲魂命

  内神明太神 大日霊貴尊
  内稲荷明神 倉稲魂命

 (御由緒)

 當社は新編武蔵風土記稿に、村の乾(北西)の方にあり、本社一間半に二間、拝殿三間に二間、本社に作りそえて東に向かへり、神躰は不動、木の立像にて、長八寸なるを安置す。又八幡稲荷を合殿に置り例祭は年々八月二十一日、村の鎮守にて、村民の持なり。當社の勧請は得へされど應永の鰐口を社前に掛く。かかるものあれば古社なるよし。山工稲荷合社。村の中央にて乾の方に向ふ村民の持。大神宮稲荷合社。村の東にあり、村民の持。
 天保九戌年八月十七日社殿を造営弘化三丙午年九月鳥居建立明治六年十二月村社に列せられる。明治廿四年九月狛犬明治廿七年九月石坂を新築。明治四十四年一月二日無格社日枝神社(山王権現)神明社(神明太神)を合祀。大正十五年丙寅年十月十日日本殿幣殿拝殿を改築同年十月十九日神饌幣帛料供進神社に列せられる。昭和二年二月石坂五段を新築。昭和二十七年十月十九日神楽殿を改築。昭和二十八年八月十三日登記宗教法人杉山神社と改む。昭和四十六年十二月社殿屋根葺替。昭和五十五年百十月裏参道完成。今日に至る。氏子数七拾弐戸なり。當地区は横浜市六大事業の一環として港北ニュータウン造成開発が進み町内三箇所の灌漑用水池も姿を消す事となり、その内谷池を市より払い下げを得水利組合の所有地として仮換地指定を受ける。昭和六十三年勝田会館建設のため所有地を処分し建築資金に充当。相当額の残余有神社護符と将来地域の発展をふまえ最良再建の期と考え、水利組合氏子中満場一致の賛同を得、平成二年三月建設委員会発足、社殿の運営稲荷明神の建立社務所の新築境内の諸整備を進め竣工なる。誠に慶賀の至り茲に謹んで御遷宮祭を奉祝す。

 なぜか、地図を見ていて感じたのが都筑区には杉山神社が多そうだということで、調べてみたら、後記のとおり都筑区のみならず横浜市北部の各区に多かった。(杉山大神=1、杉山社=5を含む)
 都筑区=6、緑区=6、保土ヶ谷区=6、港北区=5、青葉区4、神奈川区=3、南区=2、西区=1、鶴見区=1その他=o
 また、隣の川崎市では高津区・幸区・多摩区に各1社だけで、ほかは葉山町に1社と、横浜北部の特徴のようだ。なぜだろう? なお、東京の町田市に5社、稲城市にも1社あった。
 実際には、合祀や分祀に伴う改名、その他があり、実態はもっと多かったというのが正確な表現だろう。新編武蔵風土記稿には「72」という数になっており、いかに有為転変の激しい変化が長い歳月の間にあったかが判る。
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===== 以下は、ネットで見つけたサイトから勝手に要約させて貰った杉山神社に関する詳細である =====

<杉山神社について>

 杉山神社という名前の社は、青葉区、緑区、都筑区、港北区など横浜市北部を中心に数多くある。当然、「杉山神社とは?」とか、「数多い杉山神社の本祠は何処か?」、「本来の御祭神は何か?」など、郷土史家間でも未解決の疑問がある。以下は、従来発表されている諸説をまとめたものだ。

@杉山神社とは

 杉山神社は都筑郡唯一の式内社である。「式内社」とは延喜式の神名帳に登載された神社をいう。延喜式とは、延喜5(905)年に朝廷の詔命のもと編纂が始まった法典のこと。実際の延喜式施行は康保4(967)年なので、62年間に亘って編纂・修訂がされたことになり、その数は50巻にのぼる。その延喜式の神名帳に記載された神社数は全国で2,861社あり、それらは、当時の国家公認神社、由緒正しい社ということになる。当時の都は京なので、式内社は京及びその周辺が当然ながら多くなり、都から遠隔の都筑郡では唯一、杉山神社だけが式内社とされた。
 参考までに、都筑郡とは、7世紀の律令制度における武蔵国都筑郡のことで、現代では、横浜市都筑区、青葉区、緑区と、港北区、保土ケ谷区、旭区、川崎市麻生区の一部を加えた地域に相当する。また、武蔵国は22郡あり、都筑郡の他は、豊島郡、葛飾郡、荏原郡、橘樹郡、久良岐郡、多摩郡、新座郡、足立郡、入間郡、高麗郡、比企郡、横見郡、埼玉郡、大里郡、男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、那賀郡、児玉郡、賀美郡、秩父郡である。都筑郡の近隣は、橘樹郡(横浜市・鶴見区、神奈川区、保土ケ谷区、港北区一帯)、久良岐郡(南区、中区、磯子区、金沢区と、港南区、西区の一部)になる。

A杉山神社と忌部氏

 式内社として公認されたにもかかわらず、杉山神社のルーツについては確固たる定説がない。理由は、由緒らしい由緒が何処にも残っていないからである。参考になる資料のひとつとしては、センター南駅前の都筑中央公園の中にある杉山神社には「勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル」とある。つまり、白鳳3(674)年に忌部勝麻呂が、由布津主命を奉って枌山神社としたというのである。斉主は、その勝麻呂の弟である義麻呂が就き、以降、歴代の斉主は、忌部義麻呂という名を引き継いでいる。なお、枌山は「すぎやま」と読み、椙山も同様に「すぎやま」と読む。
 ここに出てくる忌部氏は、太玉命を遠祖に持ち、大和時代から神事に関わってきた有力氏族である。祭官として力を持つ忌部氏は、その一族も全国に広がっている。忌部氏の一派、阿波忌部氏は東国に進出した氏族である。千葉県館山市にある安房神社は阿波忌部氏が建立した神社だが、安房神社の安房は阿波忌部氏の出身地:阿波の名である。
 東国で勢力を有した忌部氏のひとり忌部勝麻呂が杉山神社を建立したというのが、杉山神社の由緒のひとつの説になっている。なお、忌部氏は、その後、朝廷で同じく神事に関わってきた中臣氏(=藤原氏)との勢力争いに負け、中央の政界から遠のいてしまう。ために、式内社でありながら、杉山神社が由緒も祭神も判らなくなってしまったことが、忌部氏の衰退と関わっているのでは?との意見もある。

B杉山神社の数

 杉山神社は何故こんなにあるのか。答えは簡単で、式台社としての杉山神社だから、格式があり霊験あらたかなるが故に、各村でそんな神様をお迎えしたいと、分祀や勧請を懇請され、数が増えたと思われる。氷川神社や住吉神社が全国に数あるのと同ケースと言えよう。記録にあるものでは、江戸時代編纂の「新編武蔵風土記稿(1810〜1830年・全266巻)」では、都筑郡に24社、橘樹郡に37社、久良岐郡に5社、南多摩郡に6社と、計72社が分布したとある。現在で言えば、横浜市内50社、川崎市内16社、東京都(町田市・稲城市)に6社となり、地理的分布は、主に鶴見川とその支流(早淵川、矢上川、大熊川、恩田川、奈良川など)に集中していて、多摩川を渡った先には1社もないという特徴がある。ただ、その後の廃社や、他神社との合祀(神社の合併)などにより、現存では全部の確認は不可能である。また、由緒書が殆ど残っておらず、記録からの調べもできないのが実態である。

                  72社  合祀(現在別名) 分祀(現在別名) 確証無(現在別名) 現在名=杉山神社
神奈川県 横浜市        50    14                      2               34
       川崎市        15    11           1                           3
       三浦郡葉山町  
  1                                            1
東京都   町田市      
  5                                           5
       稲城市         1                                  
         1
                   72    25           1           2               44

C杉山神社の本祠はどこか

 では、延喜式に記された杉山神社は、現在のどの杉山神社なのか。これも史家の間で論争されるところである。先述のとおり、由緒書などが残っていない実情では、確たる証拠がない侭である。例え、由緒書などがあっても、それは、ここの杉山神社はこうだと伝わっているということを、近年になって記しているだけで、説得力に乏しいものばかりだ。更に言えば、明治39年(1906)年発布の神社合祀令で、神社の由緒が一層判らづらくなった。神社合祀令は、具体的には一村一社限りにせよという政府命令で、企業のM&Aのように合併・吸収が頻発した。現在、杉山神社本祠の有力候補になっているのが、新吉田、茅ヶ崎中央、中川、勝田、西八朔、星川、鶴見(鶴見神社)である。因みに、歴史用語では本祠候補神社のことを「論社」という。なお、旧地名で大棚にあったとされる中川の杉山神社は、土地区画整理で昭和58(1983)年に移転済みなので、例え本祠であっても現存していないことになる。

D御祭神は誰か

 通常、御祭神は、祖を同じくする神社なら、概ね同じ神様をお祀りしているのが普通だが、杉山神社の御祭神は統一性がない。大雑把に言えば、五十猛命(イソタケルノミコト)と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が半々に奉られている。また、大己貴命(オオナムチノミコト)や素盞嗚命(スサノオノミコト)が合祀されている場合も見られる。日本書紀によれば五十猛命は素盞嗚命の子で、大己貴命は素盞嗚命の子、古事記では素盞嗚命の六世の孫とされている。大己貴命は、大国主神、大物主神、大國魂大神と同一神である。
 一方、日本武尊は第12代景行天皇の子とされている。神話の世界では、日本は大和朝廷民族がそれ以前に勢力を誇っていた民族を倒して成立したことになっている。まつろわぬ神々と呼ばれる非征服民族が国つ神、そして、征服民族が天つ神として、後に神格化されるわけである。この分類で言うと、素盞嗚命・五十猛命・大己貴命は国つ神であり、天照大神・日本武尊は天つ神となる。同じ神社でありながら、これが真っ二つに別れるというのは不思議なことである。もっとも、天つ神と国つ神を御祭神とすることは珍しくない。主に、被征服者の国つ神を祭って、その国つ神を鎮めるために天つ神を一緒にするというのが、主たる理由である。しかし、五十猛命だけとか、日本武尊だけを奉っていたりというのが、これ程二分されているのは非常なレアケースともいえる。

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−−−その先で、港北ニュータウン開発による旧道断絶(消滅)のため、11:07に県道45号へ−−−

■関家住宅−−−その先右手高みに突然、豪壮な旧家が出現し、道端の案内板に目がとまる。−−−

 
関家住宅(国指定重要文化財) 横浜市都筑区勝田町1220番地

 関家は「新編武蔵風土記稿」にも載る旧家で、もと後北条氏に仕えた地侍と伝え、江戸時代には代々名主を勤めたといいます。小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構え、主屋を中心として南に表門(長屋門)、東西に土蔵・書院を配し、右後方の小高みに墓地や鎮守があります。
 主屋は桁行18.1m、梁間9.1m、入母屋造、茅葺。住宅としての規模も大きく、平面は整形四間取で土間が広く、構造は上屋・下屋からなり、梁組は比較的細い曲材で構成されています。17世紀前半を降ることはないであろうと考えられ、東日本で最古の一つに数えられる貴重な民家です。(昭和41年指定)
 書院は主屋の南面西端に張り出す形で接続し、使用材料、部屋の構えなどから判断して18世紀前半の建築と思われます。(昭和53年指定)
 主屋・書院については、平成17年に完了した保存修理で建築当初の規模・形式に復元整備しました。
 表門は、10.6m、梁間5.5m、寄棟造、茅葺で、19世紀中頃に建てられたものです。当初は、平屋建であったものを明治24年に養蚕を行うために二階建に改造したものです。(昭和53 年指定)
 なお、現在関家住宅は生活されている建物ですので、常時公開はしておりません。
 公開の日時については、「弘報こはま」などでご案内いたします。
          平成18年3月
                    横浜市教育委員会文化財課
                         電話 045-671-3284


■圖書 正一位稲荷大明神−−−その先右手高台、柵で入門拒絶?−−−
−−−「茅ヶ崎中学入口」信号を過ぎると、左右共に港北ニュータウンの高層の町並−−−
−−−11:25市営地下鉄を潜り「向島」信号右折、「大野原」信号左折で途絶えた道の先が南西に続く−−−
−−−その先、登って、11:40東方原信号・東方公園入口信号が続くと、漸くサミットで、そこから下り坂に入り「星谷」がボトムになり、再び登りに転ずる−−−
−−−食事処が見つからず、その信号手前右手のローソンで11:45〜11:50パン食−−−
−−−この辺りから、石仏・石造物が沢山続く−−−

■11:59、祠に入った庚申塔発見−−−星ヶ谷の先、「原庭」バス停の右手−−−

 「正徳4年」(注:1714年)と刻まれている。約300年の風雪に耐え、延べ何人の旅人達の往来を見てきたのだろう。

■12:01、祠に入った馬頭観世音−−−そのすぐ先左手−−−

 古い馬頭観世音の前に、重なるように新しい文字の馬頭観世音が立っていて、古い方は前の新しい石造の真裏で間隔があまり無く、全く字が読めない。

■12:04、お地蔵様−−−「開戸」(カイド)の左手大分先。赤い着物を着ている。

■12:07、文化3(1805)年の庚申塔、その先すぐ、御伊勢大神宮の祠−−−その先右手高台−−−

■12:12、元禄16(1703)年と文化2(1804)年の庚申塔−−−左手、信号手前空き地の祠の中−−−

 元禄期のものは、三猿がお地蔵様を支えた形で珍しい。

−−−滝ヶ谷戸バス停付近から、右手に以下が続く−−−

■12:15、庚申塔4基−−−右手の滝ヶ谷戸バス停前−−−

−−−低地の滝ヶ谷戸バス停付近を横切る小川から登り坂、都田西小学校前から下り坂−−−

■12:18、山王神社−−−「山王前信号、「弁天前」バス停の手前左手の高台−−−

■12:21、庚申塔2体〜小さな神社の祠−−−山王前信号付近の右手−−−

■12:28、子育て地蔵−−−「佐江戸」交差点の先右手−−−

■帰命山無量寺−−−その先、「佐江戸」信号の先右手の坂の上右手−−−

 佐江戸という地名は、来る途中の道路標識での行き先の中にあったが、以前は「西土」と書いていたのが、江戸の左に当たるので「佐江戸」になったとか。佐江戸は、江戸時代、馬の継ぎ立てをした「継立場」四ヵ所の内の一つという要衝の地だった所だが、今はそんな史実があったとは思えない。真言宗 高野山派の寺で、本堂の傍には大きな修行大師像が立ち、その足下には1〜88の各四国霊場札所名や足形を刻んだ石が敷かれており、どうやら、お砂踏み霊場になっているようだ。

■杉山神社−−−無量寺の横で更に高台−−−

 
除地、一段許、村の中央中原道にあり、上屋一間四尺に二間、神体は束帯の像にて長さ一尺許、彫刻もいとつほくにして甚古物のさまに見ゆ、例祭八月十七日、村内三給の鎮守にて、社前に鳥居をたつ、 東漸寺の持なり

 また出てきた「杉山神社」である。高い石段の上り口に「震災復興の碑」がある。大正12年9月1日関東大震災の爪跡は、ここにも残っている。杉山神社は無量寺より高い位置にあり、見晴らしがいい。

■二十三夜塔と双体道祖神−−−街道に戻って左手−−−

 双体道祖神は、この辺りではあまり見かけていないので珍しい。

■街道辻の地蔵尊2体−−−その先「地蔵尊前」信号を右折した右手−−−

 1体には、「延宝八」の年号が読める。1680年だから、結構古い。つい先ほどまでは、右折する前の右手にあったが、今はそこには祠のみが残置され、「中原街道拡幅により移設 平成十九年八月七日 上講中」の表示付きで移設されている。。

−−−12:59、その先「落合橋」で「鶴見川」を渡るとて、鶴見区に入る−−−

■庚申塔2体−−−右手にあるバーミヤンの先右−−−

 2体の内、左側のは、大きなひびが入っていて、破片が横に落ちている。かなりの古さに感じられる。

−−−13:09、横浜線線路を「中山橋」で越え、「宮ノ下」交差点右折で「JR中山駅」方向へ−−−

■杉山神社−−−100m程先の右手−−−

 案内板によれば、「白鳳時代に天武天皇の命で武蔵の国杉山の岡に祀られた」とある。素戔嗚尊の子「五十猛命」を御祭神とする。由来などの記録は残っていないようだが、慶応元年に再建されたという記録があるらしい。計画道路の工事がらみで比較的最近建て直された新しい神社らしいが、イチョウの大木がある。賽銭箱はなく、隣に天満宮の小さな祠がある。

■長泉寺−−−その西隣り−−−

 長泉寺は高野山真言宗の寺院で、ここには屋根つきの大香炉と鐘があるが、賽銭箱はない。目の前のバス通りの交通量が多く静寂さはないが感じのいい寺ではある。境内右手に大砲と弾が飾られ、太平洋戦争がらみの忠魂碑が建っている。

■鎌倉街道−−−長泉寺の西側の塀に面した道筋−−−

 その塀沿いの道は、「鎌倉街道」である。道幅は1.5m程度で広くはない。寺の前の道を横切って南へ延びており、「寺山町」の信号で次回の行程になる中原街道を横切っている。

−−−13:30に「JR横浜線中山駅」南口ににゴールインし、八王子経由で帰路についた−−−