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中原街道餐歩〜第2回
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 第2回餐歩 2008.09.09(火)五反田〜武蔵中原(10.1km+寄り道2.5km)

 きょうは、陰暦なら「重陽の節句」にあたる日だが、太陽暦では「菊の節句」とも云われる別名とはほど遠い暑さの中、10時ちょうどにJR五反田駅に到着。前回(8月3日)の街道歩き終点である駅東口の国道1号東北100m地点(南南西への中原街道旧道入口)を10:02にスタートする。きょうは久方ぶりの秋らしい抜けるような青空で、湿度も低く快適な暑さになりそうだが、幸いにして日陰側を選んで歩くとまだ涼やかそうである。

 間もなく山手線・埼京線のガードを潜る。その先、「目黒川」に架かる「大崎橋」や「山手通(環6)」を越え、「中原口」信号で10:15に右後方から合流する国道1号を歩道橋で国道の右側に渡る。首都高目黒線高架手前の信号で右斜め先の「旧中原街道」に再び進入すると、すぐ登り坂になり、次の十字路で平になる。

■子別れ地蔵−−−少し先右手角、10:20−−−

 右への「桐ヶ谷通」の片隅に「子別れ地蔵」が地元信仰者の寄進と思われる赤・白・青のマフラー姿で佇み、後ろ横に民間の寄進による説明板も立っている。子に先立たれた親が亡骸を見送った桐ヶ谷斎場への道筋に祀った享保12(1727)年建造の地蔵菩薩が、哀れを誘う。右手の桐ヶ谷通へと曲がれば350m程先に桐ヶ谷斎場や桐ヶ谷寺があるだけに、現実感があり過ぎ、合掌黙祷なしには通り過ぎ難い。

■旧中原街道供養塔群(一)−−−すぐ先左手−−−

 その十字路を渡ると、左手、荏原1-15-10の民家に隠れるように、庇に覆われた「品川区指定有形民俗文化財 旧中原街道供養塔群(一)」があり、説明板も立っている。曾ては現在地の北方100mの辻にあったものを昭和38年の区画整理時に当地に移されたと記してある。地蔵菩薩の立像2基と馬頭観世音、聖観音立像が安置されており、四基の供養塔のうち中央の石造地蔵菩薩は高さ1.9mの大きさで、造立年代は江戸時代中期と推定され、謹んで合掌黙祷する。もう一基の地蔵菩薩は延享3(1746)年の寒念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は元文元(1736)年造立、その前の聖観音は石造墓碑で貞享年間(1684-87)のものである。デジカメを向けていると、地元の方と思われるご婦人がお参りに見え、会釈して次に進む。

■品川用水

 右手、荏原第一中学校校庭東を何と「品川用水」が通っていた。ここでは全く判っていなかったが、次項の「旧中原街道供養塔群(二)」での掲示物で知ったのである。品川用水は、武蔵境で玉川上水から分水した仙川用水から更に寛文9(1669)年に再分水したものだが、ここまでの距離の長さ、延伸工事の大変さに感慨も一入である。水路開削の地域別必要度や経路の高低差、土質・岩盤等による開削工事の難易度、莫大な工費負担など、どれ一つとっても大変なものばかりで、ずぶの素人としては恐れ入ってしまう。

■−−−荏原第一中学校のしばらく先、左手−−−

 道は、ずーっと先の「平塚橋」で(新)中原街道と合流することになるが、そのやや直前、道がカーブする手前の左(荏原2-9-18)に「戸越地蔵尊」と書かれたやや広め(6坪ぐらい?)の庇の中に、(一)と同様、「品川区指定有形民俗文化財 旧中原街道供養塔群(二)」がある。
 造立年代不明の大きな子育て地蔵、寛文6(1666)年の長文の銘入りで下方に三猿を陽刻した庚申塔、延宝元(1673)年の願文のない庚申塔、宝暦4(1754)年造立の青面金剛立像を半肉彫した庚申塔、風化甚だしく銘文不明の供養塔、髭題目が刻まれた寛文2(1662年銘の板碑のように薄い石造墓碑など計6基が安置され、往時の民間信仰を今に伝えている。その庇を貫くように銀杏の大木が立ち、下方は乳房のような形をしていて「子育て銀杏」と呼ばれているそうだが、「恵みあり 乳房銀杏と江戸乃水」と書いた木札がしめ縄と共に付けられている。こういった遺跡はこれまでもよく見かけたが、ここのは、その数のみならず、地元の人たちの「扱い」という点でも群を抜いたレベルに感じられ、ちょっとした圧巻ものに思われた。

−−−平塚橋手前で旧道が国道1号に合流、暗渠化した品川用水を跨ぐ「平塚橋」を越え、右手のバーミアン先を右に入った左手−−−

■平塚の碑

 バーミヤンの建物の南側階段に貼り付けられた「平塚の碑」と書かれた小さなプレートの矢印に沿って右に入り、左手の路地奥に朱塗りの鳥居が立ち、その奥に碑があり、説明板も立っている。永保3(1083)年の「後三年の役」に出役し、兄・源義家を助けて戦った新羅三郎源義光が、出羽からの帰途この辺りで野営した際、盗賊の夜襲で多くの将兵を失い、平塚村の人たちが手厚く葬り慰霊の塚を築いたというもの。戦いで勝利した軍が盗賊に負けるとは意外な話だが、どんな状況だったのだろう?

■旗の台

 旗の台は東急池上線と東急大井町線が旗の台駅で交錯する交通至便な所だが、地名としての「旗岡(ハタガオカ)」あるいは「旗の台」というのは、平安時代、源頼信が下総の平忠常の反乱を平定に赴く際(1030年)、この辺、荏原郡の中央の高台に陣を張り、軍馬を勢揃いさせ、源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したと言われることから、あるいはまた、源義家の奥州征伐の際に源氏の白旗が立てられたため、とも言われている。近くには、「旗岡八幡神社・法蓮寺」や「旗の台稲荷神社」がある。

−−−「昭和大学病院前」信号から左の旧道へ入り、先で右折して暗渠の立会川を直角に渡る−−−
−−−ちょっとした寄り道だが、途中で左折し、東急池上線踏切を越え、「荏原町駅」近くの寺社に立ち寄る。−−−

■法蓮寺・荏原七福神

 日蓮宗の寺院で、境内左手に荏原七福神(恵比寿)がある。詳しくは、次項参照

■旗岡八幡神社

 13世紀、当地の領主になった荏原左衛門義宗(1231〜85)が、自らの居館を寺とした、前記「法蓮寺」の境内に、曽祖父といわれる源頼信(968〜1048)から受け継いだ八幡大神(誉田別命/ホンダワケノミコト)の神像を祀り、この地域の鎮守としたのが始まりと言われている。
 江戸時代には、源氏縁の神社ということで、将軍家はじめ武士階級に尊崇され、2代将軍秀忠が祈願所としたほか、将軍家や他の大名家から多くの寄進を受けた。とくに弓術者の信仰が厚く、毎年2月15日には、各地から集まった武士たちによる弓の競射が行われたという。今も続く「甘酒祭り」は、この競射後に甘酒がふるまわれたことに由来する由である。戦災で社殿等を焼失し、現社殿は昭和39(1964)年の再建だが、境内左手の絵馬堂だけは焼け残り、江戸期に奉納されたものも含め、多くの絵馬が掲げられている。現在は、恐らく神仏分離令の関係だろうが、その「法蓮寺」と当神社は隣に並存している。

−−−元に戻って、左折し、「旗の台」信号で国道に合流し左折すると、立会川からの登り坂に−−−
−−−「トチノ木」並木が美しい通りを行き、左手のセブンイレブンで昼食用お握りなどを購入−−−

■洗足池−−−環七の長原陸橋を過ぎて暫らく行った右手、図書館脇から入る。公園のベンチで昼食(12:00-12:42)−−−

 ◇道標を兼ねた馬頭観世音供養塔
 図書館との間の庭園をぬって池の畔を進むと、「大田区文化財 馬頭観世音供養塔」がある。「北 堀之内碑文谷」「東 江戸中延」などと書かれ、道標を兼ねている。恐らく移設されてきたものだろう。

 ◇名称由来など
 当地の古地名は「千束」(センゾク)で、その名は平安末期の文献にもある。由来としては仏教用語の千僧供料(センソウクリョウ)の寺領の免田で、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある由。後年、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池の畔で休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となったようだ。また、洗足池の近くには「小池」というもう一つの池があり、これに対して洗足池を「大池」とも呼ぶ。

 ◇御袈裟懸松(洗足池)
 池の右手(東)を行くと、「妙福寺」があり、「日蓮上人袈裟掛けの松(3代目)」とその「 由来」の解説板が門前に立っている。それによると、弘安5(1282)年9月、湯治のために日蓮上人が身延山から常陸国へ向かう折、池上本門寺を訪れる前にここ千束池畔で休息し、傍らの松に袈裟を掛けて池で足を清めたと伝えられる。この言い伝えから「袈裟掛けの松」とか、「洗足池」とか称されるようになった、とある。

 ◇勝海舟夫妻の墓所
 池の右手奥には、勝海舟夫妻の墓所がある。幕末、勝は江戸総攻撃中止と江戸城無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が本陣をおいた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝は、好きになったこの池のほとりに邸宅「千束軒」を構えて住んだが、戦災で焼失し、今はない。西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。その近くには西郷隆盛の死を悼んだ漢詩を勝海舟が建碑し、更に留魂祠をも建てている。これは西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもので、大正2(1913)年の荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建されたものである。

 ◇弁財天−−−池の北部、細道で繋がった中島にある−−−

 ◇千束八幡神社−−−池の西部−−−
 「旗挙げ八幡」とも呼ばれる千束八幡神社は、洗足池の西畔に鎮座し、品陀和気之命(応神天皇)を祭神とする。貞観2(860)年に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請された。10世紀前半の平将門の乱の際に鎮守副将軍として派遣された藤原忠方は、その後に千束八幡を氏神としてこの地に残り、池上姓を名乗ったという。また、11世紀前半の後三年の役では、奥州討伐へ向かう源義家が戦勝を祈願したとここにも伝えられている。

 ◇名馬池月之像
 千束八幡神社前には「名馬池月之像」が立っている。源頼朝が石橋山で敗れて安房に逃れ、1180年(治承4年)、安房国から再び鎌倉へ向かう途中、この地に宿営し、兵の参集を待っていると、池に映る月のような姿のたくましい野生馬がどこからともなく現われ、その馬体の白い斑点があたかも池に映る月影のようだったので「池月」と命名された由。頼朝軍はこれを吉兆とし、旗を差し上げ大いに喜んだという。本堂横に赤目で歯をむく池月を描いた大きな絵馬が奉納されており、さらに境内には池月の像が置かれている。後に宇治川の先陣争いで佐々木高綱を乗せ、梶原景季の乗る磨墨を制して一番乗りの功名を立てたことはあまりにも有名だ。

 ◇池月橋−−−その南側−−−
 小島を持つ入江を塞ぐように架かった橋で、名馬池月の名を冠した風流な名前の橋である。

 ◇メタコセイアの木・・・9本が聳えていて、なかなかの景観

■中原街道改修碑

 池と街道との間に立っている。昔はこの近辺は急坂が多くて、交通の難所だったため、地元の有志たちが中心になって大正6(1917)年から12(1923)年にかけて大改修工事が行われたとあるが、字は読みづらい。

■道標を兼ねた庚申供養塔−−−緩やかに坂を登って行き、「大岡山駅(右手)入口信号」手前右手−−−

 側面に「従是九品佛道」と刻まれ、中原街道から九品仏i至る道標を兼ねている。街道から離れるが雪ヶ谷八幡神社の「出世石」を見に行った。 (この神社で稽古をしていた若者(大鵬)が出世し大横綱となった) 街道を横切る呑川に「石橋供養塔」が建っている。 (地元の人が石橋の安奉を祈って建立)
・その少し先にある大田区指定文化財「庚申供養塔」は、道標を兼ね、「従是九品佛道」と書かれている。九品佛といえば世田谷区九品仏にある浄真寺のことだ。

■呑川の石橋供養塔−−−街道を横切る呑川に架かる「石川橋」の手前右手−−−

 大田区指定文化財になっている。安永3(1774)に雪ヶ谷村の住人が、石橋の安泰を祈って建てた供養塔そうである。呑川は、清流復活事業により清流が蘇っている。

−−−「田園調布警察前」から環八の田園調布陸橋を潜って左の旧道へ入る−−−

■桜坂・おいと坂

 ここから沼部駅までの間、しばらく旧道が続く。300m程行くと、13:23、「さくら坂上」(信号)となり、道はそこから急坂を下り始める。昔は沼部大坂と呼ばれ、農産物を運ぶ荷車は一人で登れなかった程の急坂だったそうだが、大正時代に切り通しの緩やかな坂に改修し道の両側に桜が植えられた。車道部分のみが左右に対して切り通しになっており、次の「さくら坂」信号まで車道の両サイドの遙かに高い位置に専用歩道が通っている。このため、旧道にこだわる街道ウォーカーとしては下の車道を行かねばならない。自分も当然車道を行くが、旧道なので車の往来は非常に少なく、危険性は感じない。両側は名前の通りの「桜並木」で、その時節は素晴らしいことだろう。福山雅治で有名になった「桜坂」である。下り坂になる理由は、もちろん行く手が多摩川だからである。左手の上り坂は「おいと坂」と言い、案内板によると、北条時頼が行脚で中原に来た時に病を得たが、井戸水を使ったところ全快した。その井戸は沼部に一つ、中原に一つあったが中原の井戸を沼部に移し、雌井(めい)、雄井(おい)と称した。おいと坂は、すなわち雄井戸坂のことだろうと書かれている。

■有慶山東光院の板碑、地蔵尊(13:30)

 坂を下ると右手の東光院の前で地蔵尊に出逢う。東光院には室町期の板碑があるそうだが、境内には見つからなかった。ここは、玉川八十八ヶ所霊場第五十五番札所である。境内には弘法大師像や地蔵菩薩像、鎮魂と基台に刻まれた観音像なども林立している。

■六郷用水跡−−−東光寺の南西の角−−−(13:36-13:41)

 六郷領の灌漑目的で、江戸時代初期、幕府代官小泉次太夫により開削された農業用水路で、大山街道を歩いた時に既にお馴染みになっているものだ。慶長2(1597)の測量開始から14年の歳月をかけた一大土木工事だった。 多摩郡和泉村(現狛江市和泉)で多摩川から取水した六郷用水が、世田谷領を経て、六郷領に入り、矢口村の南北分水で北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに分けられた。玉川上水より半世紀も早くこのような大規模工事が行われているのは本当に凄いと思う。中原街道新道に向かって六郷用水遊歩道が整備されていたが旧道でないのでパスし、木陰のベンチで休憩する。傍には、「ジャバラ」と呼ばれる揚水用の足踏み水車の模型もある。

−−−東急多摩川線沼部駅脇の踏切を越え、多摩川土手に出て北進−−−

■多摩川の渡しと丸子橋

 先日の大山街道歩きの時は、多摩川を二子玉川から「二子橋」で渡ったが、きょうは「丸子橋」で渡る。その前に昔の渡し場付近を見ておこうと、多摩川川縁の「多摩川丸子橋緑地」に降りてみる。「説明板」も建てられ、鎌倉期の文書にこの付近が「丸子荘」と記載されているとか、文明18(1486)年の「廻国雑記」にも書かれているとか記されている。
 昭和初期までは中原街道に多摩川を渡る橋はなく、「丸子の渡し」と呼ばれる渡し舟が機能していた。丸子橋は、丸子の渡しがあった場所とほぼ同じ位置に、昭和10(1935)年に完成している。完成当初は片側一車線の橋で、その後老朽化や交通量増大に対応して、平成12(2000)年5月に片側2車線の新しい現在の橋に架け替えられている。なお、2002年には丸子橋北詰付近にアザラシの「タマちゃん」が現われ、マスコミで取り上げられたり、大勢の見物客で賑わった。また、テレビドラマ等のロケ地としてもよく使用されているようだ。

 位置的には河口から13km地点にあり、鉄道橋や高速道を除けば上流側の二子橋と下流側のガス橋の中間にあたる。橋の中程が東京都と神奈川県の都県境だが、橋の管理は東京都が担当しているとか。現在の丸子橋は広い歩道のある橋で、アーチが二つある。延長405.6メートル、幅員25.0メートルの片側2車線道路で、中原街道が上を通っている。近接して上流側に東急東横線・東急目黒線の東横線多摩川鉄橋、下流側に東海道新幹線の新幹線橋梁の二つの鉄道専用橋があり、丸子橋はこの二つの橋にはさまれる形で架かっている。かながわの橋100選にも選ばれている。

 橋の中程からこの街道旅は神奈川エリアへと入っていく。先の道筋から見て多摩川左岸側の旧渡船場からのルートを自然な形で繋ぐとすると、橋を渡り終えたらすぐに土手沿い道へと左折し、その先の「児童交通公園」信号を右折するのが自然だ。そうすると200m程で丸子橋からの幹線道路と直線的・自然的に合流するからだ。この合流地点が、左折=「綱島街道」、直進=「中原街道」の分岐点でもある。すぐ先の東急のガードをくぐった先の「丸子通2」交差点を左折すると東急東横線新丸子駅だが、もう少し頑張って直進し、南武線「武蔵中原駅」まで歩かないと帰路の効率が良くない。

■ 旧名主安藤家長屋門

 突然江戸時代を感じる街道の佇まいや古い建物が現れる。まず最初が街道右手の「青木家」。小杉陣屋町一丁目に入ると、右手に「旧名主家の長屋門」が残っており、その先の「石橋醤油店」も同様だ。旧名主の安藤家の立派な長屋門は代官から賜ったもので、先祖は後北条氏の家臣、江戸時代は名主の代表格・割元名主だったという。長屋門の内側左右には太政官の高札がかかっている。また、大山街道歩きの時にもそうだったが、川崎市はこうした旧街道に案内看板をよく整備しており、ここにも判りやすい地図入りの「川崎歴史ガイド 中原街道ルート案内」が示され、このあと行く予定の旧蹟の地図が示されているのが有り難い。その横には、「中原街道 右東京十粁 左平塚五十粁」の石標がある。

■石橋醤油店−−−その先の右手−−−

 明治3年の創業で当時の醸造工場が奥に古い建物で残っている。案内板には、「「キッコー文山」の商標で石橋醤油店が醤油づくりを中原の地で始めたのは明治三年。昭和二十四年に操業を終えるまで、ここには大樽を据えた醸造工場や蔵が建ちならび活況を呈した」とある。

−−−そのさきにルート図入りの案内板があり、右折−−−

■小杉御殿跡・小杉陣屋跡−−−正面に西明寺参道が見える街道左折点の右手−−−

 「小杉御殿表門跡」で街道は左折しすぐ右折して行くことになる。宿場や城下町でよくある「枡形」だが、ここでは「カギの道」と言うそうだ。その曲がり角右手が徳川将軍立ち寄りの「小杉御殿跡」だが、今は何も残っらず、「御主殿稲荷」があるのみだ。小杉は、街道4宿中の一つで寛文13(1673)年に宿駅になっているが、小杉の最盛期は小杉御殿のあった江戸初期である。。2代将軍秀忠が中原御殿と同様に、慶長13(1608)年当地に御殿を建て、家康、秀忠、家光の三代に亘る将軍が鷹狩り等に際してこの御殿で休息し、また街道を通る西国の一部大名も利用したといわれる。しかし、東海道の整備に伴い、小杉御殿の存在意義は次第に薄れ、万治3(1660)年までに建物はすべて移築されている。
 近くの「小杉陣屋跡」にも立ち寄るが、ここにも祠があった。用水工事に貢献した代官小泉次大夫がここに陣屋を設け、慶長2(1597)年から14年の歳月をかけて、多摩川右岸に稲毛・川崎の二ヶ領用水、左岸に前回見た六郷用水を完成させており、当地名「小杉陣屋町」の由来になっている。

■小杉駅供養塔・油屋の庚申塔

 街道を左直角に折れ、直ぐに右に折れる「カギ」道近くの西明寺交差点バス停後ろに「小杉駅供養塔」が隠れるように立っているとのことで捜したが見つからない。なお、供養塔の左面には「武州***小杉駅」と刻まれているそうで、小杉が宿駅であったかの如き感もあるが、実態は街道四ヵ所に設けられた荷物受け渡しの「継立場」だったらしく、現地で通称的に「駅」と称したものと思われる。

 カギ道を抜け、狭い街道を車に注意しながら進むと、14:47、左の道角に天保14(1843)年銘の「庚申様」が祀られており、昔から「油屋」の屋号を持つ小林家の角にあったので「油屋の庚申塔」と呼ばれていたそうだが、その小林家は今はないようだ。台座には、東江戸道、西大山道、南大師道と刻まれ、道標になっている。昔はここから府中街道にも繋がっていた。すぐ先の「小杉十字路」交差点で府中街道と交わる。

■二ヵ領用水・泉澤寺−−−府中街道を越えてすぐ先−−−

 小杉十字路の先、大山街道歩きでも既にお馴染みの「二ヶ領用水」本流を「神地(ゴウジ)橋」で渡ると、右手に泉沢寺がある。足利氏の一族である武蔵国世田谷領主・吉良頼高が、菩提寺として東京世田谷区烏山町に、文明元(1469)年創建し、その後、天文18(1549)に火災で焼失し、翌年現在地に再建している。曾ては寺の周囲に「構堀(カマエホリ)」と呼ばれる約1.8mの水堀があり、現在は、寺の裏手を流れる「二ヶ領用水」に姿を変えて痕跡を残している。これは、寺を現在地に再建の際、吉良氏がその領土を南下させるべく、拠点として要塞化した名残りであるとされている

■武蔵中原駅へ

 その先、南武線武蔵中原駅の近くに「南武線の歴史」の案内板があるのを見つける。昭和2(1927)年に川崎と登戸間で開通したのが始まりだそうだ。貨物輸送用が重視されたので、駅はその頃の町はずれだったという。
 街道が駅横を通り、かつ帰途ルートとして最適な武蔵中原駅を今日のゴール地点としていたが、漸く15:10に到着した。今日の餐歩のメインディッシュは「洗足池公園」・「桜坂」・「中原御殿近辺」あたりか。日傘をフル活用しての晴天下での10.1km+寄り道2.5kmは、正直易しくはなかったが、カラッとした暑さと気侭なマイペースのひとり歩きも「また楽しからずや」だった。