中原街道餐歩~第1回
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 第1回餐歩 2008.08.03(日) 虎ノ門~~五反田(街道約7km+寄り道約3km)

 8:40に、地下鉄虎ノ門駅⑧番出口から地上に出る。本当は③番出口の方が近いのだが、⑧番から出ると、すぐ出口後方に「虎のブロンズ像」がある。昭和27年に有志「虎ノ門會」が建て、解説文が石版に彫られている。 「虎ノ門」は江戸城の外堀を渡る36門の一つで、動物名のついた名前は他にはない。なお、この36は厳密な門の数ではなく、全方位というような意味で、数でいうなら門は100以上あったし、重要な門で言えば36もない。敢えて数えてみると一応次のようになるそうだ。

 
浅草橋・筋違(スジカイ、現在消滅)・小石川・牛込・市ケ谷・四谷・食違・赤坂・虎ノ門・新シ橋(門無し)・幸橋・山下・芝口新橋・数奇屋橋・鍛冶橋・呉服橋・常盤橋・神田橋・一ツ橋・雉子橋・竹橋・清水・田安・麹町(半蔵)・外桜田・日比谷・不明(アカズ=馬場先)・和田倉・西ノ丸大手・坂下・蓮池・南大手(内桜田・桔梗)・大手・平川・不浄・北拮橋。

 なお見附は「敵を見つける所」の意である。この中で1番大きかったのは大山街道の起点になった赤坂見附門、1番小さかったのは山下門だったそうな。

 国道1号線の表示がある「桜田通」を南南西へ歩き始める。ややもすれば、「国道1号=東海道」と錯覚しそうだが、東海道のスタートは国道15号線(「中央通」~「第一京浜」)からである。

先ずは、江戸期の旧道からスタート

 8:42に虎ノ門駅③番出口からスタートする。スタート地点の「虎ノ門交差点」からすぐ国道1号に入るのではなく、往時の中原街道は、交差点西南角のみずほ銀行と、その西隣(右手)の三井ビルとの間の道を入り、次の信号で左折して桜田通に出るのが往時の順路なので、そのルートでスタートし、先ずは左手の「金刀比羅宮」に参拝する。

金刀比羅宮

 8:43に着いた金刀比羅宮は、わが故郷“讃岐”の象徴の一つであり、ここが本日第一番目の立ち寄り地とは幸先良い。よく見ると、桜田通(国道1号)側にも鳥居や参道があり、両方から出入りできるようになっている。5~6人の街道ウォーカーがここを集合場所にでもしているのか、ベンチで打ち合わせしている。

 ◇拝殿・幣殿・本殿


   東京都選定歴史的建造物
   虎ノ門金刀比羅宮
   所在地 港区虎ノ門一丁目2番7号
   設計者 伊東忠太
   建築年 昭和26年(1951)

 讃岐丸亀藩主の京極高和が領地・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に廷内社として勧請、その後延宝7年(1679)に現在の地虎ノ門に移る。こんぴら人気が高まった文化年間に京極家では毎月差10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。
 社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、幣殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家、伊東忠太の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。
 なお、幣殿の奥の本殿は、昭和58年(1983)に復興されたもので鉄筋コンクリート造、銅板葺きとなっている。
                      東京都生活文化局


 ◇銅鳥居

 この銅鳥居は、虎門外の讃岐丸亀半京極家(約五万石の大名)の江戸屋敷に勧請された金毘羅宮(現金刀比羅宮)の鳥居です。文政四年(1821)年十月に奉納された明神型鳥居で、「金刀比羅大神」の扁額が掲げられています。円柱(左)には青竜・玄武、(右には)朱雀、白虎の霊鳥・霊獣が飾られ、下部には奉納関係者の名前が刻まれています。願主・世話人の多くは芝地域の商人と職人でしたが、江戸市中の地名・人名もみられます。

 江戸では諸藩邸内の神仏を一般に公開し、賽銭収入も期待されていたようです。江戸庶民の信仰を反映したこの派手な鳥居は、当時の人々の宗教的・文化的活動の実態を示す貴重なものです
                平成十三年十月二十三日指定 港区教育委員会

 ◇百度石・・・元治元甲子年(1864))と刻されたもの

乃木邸跡の碑

 虎ノ門一丁目信号で桜田通に戻り、暫く進むと、左手のセブンイレブン前の植え込みに明治の軍神「乃木希典」の大きな石碑と解説石板が立っている。乃木希典は、嘉永2(1849)年、現・東京都港区において長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男として、現・六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷で生誕している。幼少期に事故で左目を失明していたとのことだが、これは全く知らなかった。

 ◇石碑・・・「
野木将軍由縁地  小笠原長生書

 ◇解説石板

 
野木将軍緣故の地
 この地は乃木将軍が明治十一年歩兵聯隊長に補せられ間もなく居宅を購い同年八月静子夫人を迎えて新居を構え翌十二年八月長男勝典氏誕生同年冬新坂町へ移転まで住まれたゆかりの地である
                             昭和三十六年九月吉日
                              乃木神社宮司 高山貴謹識


愛宕神社

 虎ノ門三丁目信号を左に入り、愛宕一丁目信号右折で愛宕下通に出、かの「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎で一挙に有名になった愛宕山の石段下へ向かう。寛永11(1634)年、将軍家菩提寺である芝増上寺参詣の帰途、ここ愛宕神社下を通りかかった将軍家光が、折しも春で愛宕山に源平の梅が咲き誇っているのを見て、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」との命を発する。居合わせた四国丸亀藩家臣の曲垣平九郎が卓越した乗馬術をもってこの大命に応え、家光公から「日本一の馬術の名人」と讃えられる。勇名は瞬く間に全国に轟き、この石段は以後「出世の石段」と呼ばれるようになったと講談で言われる、有名な石段である。曲垣平九郎が手折った梅の木は、「将軍梅」として境内の一角に残されている。

 ここから、標高26mの洪積層の丘陵地である愛宕山の山頂にある愛宕神社へと登る。石段の右手にも斜め前方への石段がある。エレベーターもあるそうだが、その場所を知らないし、以前来た時は愛宕トンネル側から山道?を登り、この正面石段からへっぴり腰で降りた記憶があるので、きょうはその逆コースのつもりで臨んだ。この男坂は石段数86段・40度の急勾配で、見上げれば確かに垂直に近い迫力がある。石段両側には、真新しい石柱が立ち、寄進者達の名前が刻されているが、たまたま目を向けた位置にワインで有名な田崎真也の名があった。
 近年、曲垣平九郎と同様に騎乗での登降段に成功した2人のうちの一人(大正14年:岩木利夫氏)は、上りは1分足らずだったのに、下りは45分もかかった由。神社では、馬での男坂登降段成功者の絵や写真を見ることができるそうだ。神社参拝後、案内板を見ると、勝海舟が西郷隆盛を案内した場所とある。また、ここは万延元年に水戸浪士たちがご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討った、世に言う「桜田門外の変」の集結場所でもあった。

 肝心の神社由来だが、愛宕神社は慶長8(1603)年、徳川家康が幕府を開くに当たり、江戸の防火・防災の守り神として将軍の命により創建された。主祭神は、火産霊命(ホムスビノミコト・火の神)で、ほかに、罔象女命(ミズハノメノミコト・水の神)、大山祇命(オオヤミズミノミコト・山の神)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト・武徳の神)を正面社殿に祀っている。また、境内には末社として、太郎坊社(猿田彦神)、福寿稲荷神社(宇迦御魂神)、大黒天神祠(大国主命)、弁財天社(市杵島姫命)、恵比寿神祠(事代主命)があるほか、徳川家康が信仰し、天下獲りの祈願をかけた勝軍地蔵菩薩(勝運・出世)(行基作)、巳年・辰年の守り本尊の普賢大菩薩、天神社(学業)などを祀っている。

 下りは、以前の登り道から逆に・・・と思ったが、記憶が薄れている。適当な所から、ここだろうと思って木段を下りていったら、最後まで木段で、しかもエレベータが見える。降りた場所はどうやら愛宕山トンネルの西側のつもりが東側だったようで、携行した地図コピーをもとに何とか桜田通りへ戻ったが、無駄な時間を費やした。ここ数日よりも気温が上がる予報のきょう、早くも太陽がじりじりと照りつけてくる。先日、街道歩き用に買った晴雨兼用傘で何とか日差しを防ぐが、大量の発汗が始まる。

雁木坂(ガンギザカ)

 9:32、麻布台一丁目信号からほんの少し右の「雁木坂」に入り、すぐ左折して元の桜田通・飯倉交差点手前に出てくる短い旧道がある。旧道に入って左折地点で前方を見たら、登りの石段があり、9:34、その下に標柱が見えたのでそこまで行ってみると、「雁木坂」とあり、側面には
「がんぎざか 階段になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角(注:図示)に組まれていたから等ともいい、当て字で岩岐坂とも書く」とある。
 先ほどの左折地点からの旧道は登り坂で、国道1号の飯倉交差点に戻ると、そこからは土器坂という下り坂になる。

土器坂(カワラケザカ)---下り---

 東京タワーのすぐ脇を通る、なかなか勇壮な景観の坂である。麻布の坂の典型で、坂上に行くほど傾斜がきつくなる。土器坂は赤羽橋交差点から飯倉交差点までを南北に結ぶ桜田通にある坂で、現在の東麻布一丁目、麻布台二丁目、芝公園四丁目に位置する。旧町名では全域が麻布飯倉町に含まれ、坂上から二丁目、三丁目、四丁目、坂下が五丁目となる。坂名の由来は、飯倉町三丁目、四丁目一帯の里俗「土器町」から採られた。一帯に土器師が多く住んだためという。
 また、 渡辺綱がここで買い求めた馬が河原毛(黄褐色から亜麻色・灰色等の淡色系の毛色)で名馬だったからという説もあるらしい。

赤羽接遇所跡---東麻布一丁目信号から右に入り、すぐ左折したら右手---

 比較的小さな、と言っても公衆トイレもある「飯倉公園」が、幕末期における「赤羽接遇所跡」のあった場所で、9:41に着く。赤羽接遇所は、安政6(1859)年、外国人のために設けられた宿舎兼応接所で、黒の表門、高い黒板塀で囲まれ、内部は間口10間、奥行き20間のものと、間口・奥行き、各10間のものとの2棟の木造平屋屋敷から成っていた。幕末に訪れた プロシャの使節オイレンブルグはここを宿舎にして日普修好条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在するなど、幕末期における外国人応接の舞台だった。
 外国人が常に居るという点において、攘夷家が襲撃機会を狙う場所にもなり、ヒュースケンという外国人がこの赤坂接遇所からの帰途、襲撃に遭い被害者になっているという。
 園内には、「麻布地区旧町名由来板」があり、下部には「昭和20年代の港区地図」と「現代(平成18年)の港区地図」が併載されていて面白い。前述の乃木将軍が転居していった「新坂町」が現在の乃木坂近辺であることが一目瞭然だ。

芝増上寺---街道に戻って「赤羽橋信号」から左後方「東京タワー下」の東側一帯---

 先ほどの飯倉交差点からは、赤羽橋信号まで、道が南南東向きになっている。「土器坂(カワラケザカ)」を下ると赤羽橋交差点に達するが、ここで左に寄り道して、浄土宗大本山芝増上寺へと向かう。会社時代の元上司の告別式でも数度行っているが、折角の機会なのでじっくりと観てみたいのだ。裏手から入り、東側の正門に向かう。残念ながら、メインの大殿は大がかりな改修工事中だった。また、「ハサミの日」の供養が行われていたが、毎年8月3日をその日として行われ、境内には山野愛子願主の「聖鋏観音像」も建っていた。境内に茂る木々の間から蝉の大合唱が一層暑さを感じさせるが、日陰は涼風離、街中を歩く時とはやや違う。

 開山から600有余年、室町期の明徳4(1393)年、浄土宗第八祖聖聡(ショウソウ)上人が、武蔵國豊島郷貝塚(現・千代田区平河町から麹町にかけた地)で開山。以来、戦国期にかけて浄土宗の東国の中枢として発展してきた。

 天正18(1590)年、江戸入府の家康が時の住職存応(ゾンノウ)上人に深く帰依し、徳川家菩提寺として増上寺を選んだ。慶長3(1598)年には、現在地・芝に移転。幕府発足後は、家康公の手厚い保護により寺運は隆盛していく。三解脱門(サンゲダツモン)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進等が相次ぎ、朝廷からも存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(ジョウシエ)が勅許されている。

 家康公は元和2年(1616年)増上寺で葬儀を行うよう遺言して75歳で歿したが、増上寺には、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、6将軍の墓所がここにある。墓所には各公の正室並びに側室の墓もあるが、その中には家茂公の正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮も含まれている。

江戸時代、増上寺は徳川家菩提寺として隆盛の極みに達した。全国浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八壇林(ダンリン)の筆頭、主座を務める等、京都の浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めた。壇林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には常時3千人もの修行僧がおり、また、その寺領は一万余石、25万坪の境内には、坊中寺院48、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれている。

 明治期は増上寺にとって苦難の時代となる。明治6(1873)年と42(1909)年の二度に渡って大火に遭い、大殿他貴重な堂宇が焼失。また、芝の公園地指定に伴い、境内が半減、一時期には新政府の命令で神官養成機関が置かれる事態も生じたが、明治8(1875)年には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(ダンノツ)(檀徒)を迎え入れ、復興の兆しも見えはじめる。大正期には焼失した大殿も再建され、その他堂宇の整備・復興も着々と進展していく。

こうした、明治・大正期の増上寺復興を一瞬で無に帰せしめたのが、昭和20年の空襲で、終戦後の昭和27年には漸く仮本堂を設置、また昭和46年から4年の歳月と35億円の巨費を投じて、壮麗な新大殿が建立された。

 平成元年4月には開山酉誉上人550年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建、現在、焼失を免れた三解脱門や黒門など数多の古建造物をはじめ、鐘楼、経蔵、そして安国殿と再建成った大殿、慈雲閣が、16,000坪の境内に立ち並んでいる。

 ◇大殿
 昭和49年、伝統的寺院建築様式に現代建築の枠を結集して再建。本堂の本尊阿弥陀如来(室町期作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人像が祀られる。浄土宗大本山としての根本道場をはじめ、あらゆる儀式法要が行える斬新な企画で設計されている。

 ◇安国殿
 伝・恵心僧都作の秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られる。黒本尊は家康公尊崇深く、そのご加護で度重なる災難を除け、戦に勝利し得たとされる霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除の仏様として江戸期以来、人々の尊崇を集めている。

 ◇三解脱門(三門)
 増上寺の表の顔、都内最古の建築物で東日本最大級を誇り、当山の中門(表門は大門)、正式名を三解脱門という。元和8(1622)年、家康の助成で、幕府大工頭・中井正清以下による建立。江戸初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」から解脱する門の意。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗造。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

 ◇徳川将軍家墓所
 
この門は旧国宝で「鋳抜門」と呼ばれ、元文昭院殿霊廟(六代将軍 家宣公)の宝塔前『中門』であったもの。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている(青銅製)。規模・荘厳さ共に日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。

 増上寺は上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川家の菩提寺で、ここに埋葬されているのは、前述6将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮(十四代家茂公夫人)ら5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。 旧徳川家霊廟は御霊屋とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に立ち並んでいた。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも戦前国宝に指定されていたが、昭和20年3月10日に北廟68棟被災、5月25日に南廟28棟被災と、二度にわたる空襲直撃で殆どが焼失し、僅かに残った建物もその指定を解除された。

 焼失した御霊屋群は暫時荒廃にまかされていたが、昭和33年から文化財保護委員会が中心になっての学術調査が行なわれ、のち土葬の御遺体は桐ヶ谷で荼毘に付され、南北に配していた墓所は一か所に纏められ現在地に改葬された。調査によれば、細部では各将軍若干異なるものの、構造的には、地中深い部分に頑丈な石室を設けて遺体を安置し、二枚の巨石で蓋をして、その上に基檀と宝塔を安置していた由。

 ◇天井絵
「光摂殿」内にある百八畳敷の大広間。その部屋には日本画家120名が四季折々の草花をテーマに丹精込めて描いた天井絵が嵌めこまれている。斯くも多くの画家による天井絵は大変貴重で、豪華である。

 ◇経蔵
 家康公の助成で建立された経蔵は、内部中央に八角形の輪蔵を配する、九間半四面、土蔵造りの典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されている。中に収蔵の宋版、元版、高麗版の各大蔵経は、家康公が増上寺に寄進したもので、国の重要文化財に指定されている。(現在は後方の収蔵庫に移管)
 
 ◇黒門
 御成門交差点付近の芝公園・みなと図書館・御成門小学校一帯にあった増上寺方丈の表門であった旧方丈門。三代将軍家光の寄進・建立とされ、慶安年間(1648~52)の建立とされている。明治時代に増上寺方丈が北海道開拓使となり、その後海軍施設と芝公園になった折、鐘楼堂脇に移築したものを、昭和55年に当山通用門として日比谷通り沿いに移築したもの。

 ◇鐘楼堂
 寛永10(1633)年の建立で、現鐘楼堂は戦後の再建によるもの。鐘楼堂に収蔵の大梵鐘は、延宝元(1673)年に品川御殿山で椎名伊代守によって鋳造されたもので、高さ一丈(約3m)、重さ四千貫(約15t)の大梵鐘。四代将軍家綱の命により奥方の簪など多くの寄付を集めて江戸で初めて造られた鐘である。その巨大さの故に7回の鋳造を経て完成し、江戸三大名鐘の一つに数えられている。朝と夕べ、6度ずつ響く鐘の音は、時報のみならず、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いとされている。江戸時代の川柳に「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」、「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、江戸っ子鐘と親しまれていた。

 ◇大門
 当山の総門・表門に当たり、地名の由来になっている門。現在の門は国道の通行整備のため、昭和12年に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものだが、旧大門は慶長3(1598)年に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転の際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたもの。その旧大門は大正12(1923)年の関東大震災で倒壊しかかったため、両国・回向院に移築されたが昭和20年の空襲で焼失している。

 ◇貞恭庵
 十四代家茂公正室、皇女和宮様縁の茶室。昭和55年に移築・改修し、一般にも利用されるようになった。

 ◇千躰子育地蔵尊~壮観な眺めだった。
 子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音に因み、子供の無事成長、健康を願い昭和50年から順次奉安されている。

 ◇め組供養碑
 享保元(1716)年建立。増上寺門前の町火消しで有名な「め組」の殉難者・物故者の供養のために建てられた。(増上寺山内は寺社奉行・大名火消しだった)

 ◇熊野(ユヤ)神社
 元和10(1624)年、当寺第13世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、当山では「ユヤ」権現として親しまれています。

 ◇水盤舎
 元・清揚院殿霊廟(甲府宰相綱重・三代家光公三男)のもので、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れたものを、現在地に移築したもの。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつである。

 以上の外、境内には次のようなものが見られた。

*タイムカプセル埋没標・・・宗祖法然上人御降誕850年慶讃記念(昭和57年)

*大樹「グラント松」・・・米国第18代大統領グラント将軍の明治12年7月来日時増上寺参詣記念植樹

*聖観世音菩薩像・・・ホテルニュージャパン犠牲者慰霊

*佛足石・・・明治14年5月建石。側面に仏像・経文・由来などが刻まれている。

*ブッシュ槇(コウヤマキ)・・・米国第41代ブッシュ大統領が、副大統領として昭和57年4月来日時増上寺参詣記念植樹

芝東照宮---折角の機会なので、増上寺の南隣りの「東照宮」にも参拝する---

 増上寺境内の家康公を祀る廟は、一般に安国殿と称されたが、これは、家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」によるもの。 安国殿の御神体は、慶長6(1601)年正月、60歳を迎えた家康公が自ら命じて彫刻された等身大の寿像で、公は生前、駿府城において自らこの像の祭儀を行っていた。死に臨んで公は、折から駿府城に見舞いに参上した増上寺の僧侶(観智国師たち三高僧)に「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん。」と仰せになり、この像を同寺をに祀るよう遺言していたもので、安国殿の創建の時に造営奉行であった土居大炊助利勝(後の大老・土井大炊頭利勝)の手により駿府から護り送られたもの。祭祀は江戸時代を通じて別当の安立院が奉仕した。

  その後、寛永10(1633)年には安国殿を造営し旧安国殿は開山堂となったが、寛永18(1641)年には家光によって三度目の造営がなされ、敷地も丸山の東下の地に移された。規模は壮大で、惣門は駿府城から移したもの、鳥居は筑前国(福岡県)福岡藩主の黒田侍従右衛門佐忠之が奉納。拝殿、唐門、透塀をめぐらした中に、五間四方の本殿があり、内外部とも漆塗・極彩色の豪壮・華麗なものだった。なお、増上寺は徳川家の菩提寺だった関係から、寛永10年には、二代将軍秀忠の霊廟が境内に創建されたほか、その後も計6人の将軍の霊廟も造営され、江戸時代を通じて将軍の参詣は数多く行われていた。

  安国殿は明治初期の神仏分離のため、増上寺から分かれて「東照宮」を称し、御神像を本殿に安置・奉斎した。明治6(1873)年には郷社に列し、社殿は、寛永18年の造替当時のものが維持されており、本殿は大正4(1915)年旧国宝に指定され、昭和5(1930)年天然記念物に指定された神域内の公孫樹と共に、伽藍の美を誇っていたが、昭和20(1945)年5月20日の戦火で、御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて社殿は悉く焼失した。戦後、昭和36(1961)年、氏子・崇敬者により復興奉賛会が結成され、一方、寿像は、同38(1963)年東京都重要文化財に指定され、仮還宮の後昭和44(1969)年8月17日、遂に神殿の完成を見て今日に至っている。

 本殿前には、高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根本周囲約8.3mの天然記念物「芝東照宮の公孫樹」の大木が立ち、狭い境内内ではカメラのフレームに入りきらない。寛永18(1641)年の東照宮再建に際して、三代将軍家光が植えたと伝えられている。

渡邊綱伝説の道

 10:35、赤羽橋交差点に戻り、「古川」と書かれた橋を渡るが、下のどぶ川っぽい臭いが近代的な街並みにそぐわない。真南に転じた街道の右手、三田国際ビル前のカラー舗装の広い歩道を進み、三田一丁目交差点にさしかかる。ここを右に行ったら「綱の手引き坂」と呼ばれる「渡邊綱伝説」がらみの坂である。
 綱坂(ツナザカ)は、港区三田二丁目にある坂。三田綱坂(ミタツナザカ)、渡辺坂(ワタナベザカ)とも呼ばれる。平安時代の武将、渡辺綱がこの付近で生まれたという伝説があり、それが坂の名の由来となっている(史実については諸説ある)。この坂の付近には渡辺綱に纏わるものが多く、また、この付近はかつて三田綱町(現在の三田二丁目)と呼ばれ、現在でもビル名等に「三田綱町」の名が残っている。

 ◇綱の手引き坂(ツナノテビキザカ)
 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人で大江山や羅生門の鬼退治などで有名な、渡辺綱にまつわる坂の名である。桜田通の三田1信号から三井倶楽部前あたりまでの約300m。勾配は6%ぐらい。この坂を登りきって少し進むとオーストラリア大使館で、そこから日向坂の下りになる。

 ◇綱坂(ツナザカ)
 渡辺綱がこのあたりで生まれたという伝説に因む名で、慶應義塾大の西側を南北に走る通りの坂の名である。桜田通の三田2信号の西、三田4信号で北へ曲がるとその先に綱坂が始まる。勾配は5~6%程度のやや細い坂。

手付け最中「学問のすゝめ」---慶大前信号手前右側---

 右手、春日神社の先、慶應大学前にさしかかると、正門横に和菓子屋があり、慶應大学に因んだ菓子、「学問のすゝめ」がある。文銭堂本舗の手付け最中 「学問のすゝめ」だ。 慶應の学生が帰省土産に買って行くかどうか知らないが、皮と餡が別になっており、添付のヘラで餡を乗せて挟んで食べるという風変わりなアイディアは、パリパリ感が良さそうでもあり、珍しがり屋の孫への土産に買おうかなと一瞬は思った。だがしかし、この炎天下で数時間携行して問題有りや無しや不安だし、地図帳、ガイド本、デジカメ、筆記具、日傘、滴り落ちる汗拭きタオルを交互に使いこなさなければならない身として土産品携行は負担も大きく、残念だが諦める。

---「三田三丁目」信号を右折しすぐ左折。国道1号とは「三田二」でお別れ済み---

聖坂・潮見坂

 聖坂を登っていく。この坂は、台地上を行く古代中世の通行路で、海岸の低地帯を行く東海道に平行している。中世の東海道と言われ、坂の名は、高野聖が開いたとも、聖商人の宿があったからとも言われている。すぐ右手から潮見坂が下りてくる。そこに「阿含宗関東別院」という変わった宗派の建物があったので、帰宅後に調べてみたら、釈迦直説の経典、「阿含経」に依処する仏教一宗派として、現管長・桐山靖雄氏が1978年創建の新興仏教の関東本部施設のようだった。

亀塚稲荷神社

 10:39、聖坂を登っていく途中の右手に「亀塚稲荷神社」の小さな祠があり、境内には港区で最古と言われる「弥陀種子板碑」がある。関東地方に見られる中世の弥陀信仰を記した供養石碑で、5基ある。うち3基は鎌倉中期から室町前期にかけての、文永3(1266)年、正和2(1313)年、延文6(1361)年の建立年が読み取れるが、あとの2基は風化し過ぎていて、解読できない。

済海寺---東急アネックスの先左手---

 11:03、境内に入るとすぐ右手に「都旧跡 最初のフランス公使宿館跡」の石標や説明板がある。安政5(1858)年9月締結の日仏修好通商条約により、翌安政6(1859)年8月にフランス公使宿館となり、初代臨時公使ど・ベルクールらがここに駐在した。明治3(1870)年に公使館が引払いになるまで、宿館として使用されたのは、書院・庫裏の全部で、慶応2(1866)年に玄関・門・門番所などが増築されたが、明治年間にその敷地の一部が分割された。現在の本堂敷地と西隣の富山県東京出張所敷地が、曾てのフランス公使宿館跡にあたる。

 寺は、正式には周光山長寿院済海寺と言い、元和7(1621)年、念無上人による開創の浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。江戸三十三箇所観音霊場第26番札所になっており、札所本尊は亀塚正観世音菩薩である。寺院建物は、今やその雰囲気微塵もなく、近代的な建物になっていて、「参拝の方はブザーを押して下さい」の表示が、一般参拝者を完全に拒絶している感じだ。観音堂の建物も、表示がなければ物置と見間違えない真新しいが安っぽいもので、「千社札厳禁」の表示だけがやけに目立っている。二度と行きたくない寺院(?がつくが)だ。

■亀塚公園・華頂宮邸跡・古奥州街道沿い

 済海寺の先左手の「亀塚公園」前に案内板。それによれば、西側の道路は「古奥州街道」で、江戸開府前の主要道路だった由。平安時代の「更級日記」に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469~87)には太田道灌が斥候を置いたと伝えられている。江戸期には、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熈がこれらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えている。その説明板に従い、木段を上って石碑を見たが、「亀山碑」の文字はともかく、細かい文字は殆ど読み取れない。「亀塚霊神祠跡」の石碑もある。

幽霊坂---その先で街道から右手に入る道---

 「幽霊坂」だ。この辺りが尾根道の高台なので、それと交わる左右の道は低地すなわち下り坂になっている。木標が建っており、「ゆうれいざか 坂の両側に寺院が並び、もの寂しい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七ヵ所ほどもある」と解説されている。

「三田台公園」に伊皿子貝塚と竪穴住居の復元模型---次の信号手前左側---

 その先左手の「三田台公園」に「伊皿子貝塚」と「竪穴住居の復元模型」がある。

 
この貝塚は第一京浜国道の西側に連なる標高約11mの高輪台地上にありました。この土地は、戦前は三井家の敷地でしたが、昭和52年、この地に電々公社(現NTT)の社屋が建設されることになり、昭和53年7月より約1年半をかけて発掘調査が行われました。遺跡からは、江戸時代の犬猫の供養墓、平安時代古墳時代の竪穴住居跡、弥生時代中期の方形周溝墓、縄文時代後期の貝塚と竪穴住居跡が、順番に重なり合って発見されました。貝塚は、従来縄文時代前期のものとされていましたが、調査の結果、後期(堀之内式期)のものであることが確認されました。遺跡からの出土品(港区指定文化財)と貝層断面は区立港郷土資料館に展示、保存されています。また、「三田台公園」には、住居跡と貝層の断面が復元、展示されています。
                       (港区教育委員会:「港区文化財のしおり」より)


 圧巻は、伊皿子貝塚のガラス張り内の断層展示だ。「人類の歴史」をまざまざと感じる一瞬である。竪穴住居の復元模型は、この種の展示の類型で物珍しさは無い。以前、「人見街道」を歩いた時に見た「出山横穴墓群8号墓」の方が、墓で、かつ人骨(模型)だったので、よりインパクトがあったのかもしれない。

 また、この公園には、明治維新後は「華頂宮邸」があった。華頂宮(カチョウノミヤ)は、慶応4(1868)年に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって創設された宮家だが、大正13(1924)年に断絶し、屋敷跡は児童公園(亀塚公園)として開放され、華頂侯爵家が宮家の祭祀を承継している。また、鎌倉市には昭和4(1929)年建設の華頂博信侯爵邸があり、平成8(1996)年に鎌倉市が土地・建物を取得、通称「旧華頂宮邸」として庭園部分を一般公開している由。
 公園内には、華頂宮邸庭園内にあった井戸が、大正12年の関東大震災時に大変役立ったため、震災・火災時の非常用井戸として港区がポンプを設置しており、井戸脇にその解説板が立っている。また、飯倉公園(赤羽接遇所跡)と同様に、「港区旧町名由来板」も立っている。

「歯科医学教育発祥之地」碑---信号手前左角---

 東京歯科大学によって設置されている。明治23年、高山紀齋がわが国最初の歯科医学校「高山医学院」を設立した。現在の東京歯科大学の前身である。明治5(1872)年、私費で渡米・勉学した高山紀齋が 明治11年帰国後銀座で開業。明治23(1890)年に芝区伊皿子町(現港区)に高山歯科医学院を創立し、学院長に就任して近代歯科医学教育の基礎を築いている。この学院には、世界的細菌学者野口英世も教壇に立っている。

---次の「伊皿子」信号は、右=魚藍坂(ギョランザカ)、左=伊皿子坂(イサラゴザカ)---

魚籃坂から魚籃寺へ

 国道一号線の「魚籃坂下」交差点への下り(麻布側からは登り)が「魚籃坂」、頂上から泉岳寺方向の海側に降りる坂を「伊皿子坂」という。魚籃坂という名の由来は、街道から右手の国道1号方向への下り坂中腹に「魚籃寺」があるところから名付けられた。

 「三田山水月院魚籃寺」と称し、江戸三十三箇所観音霊場の第25番札所でもある。浄土宗で寺名は、本尊が「魚籃観世音菩薩」(頭髪を唐様の髷に結った乙女姿の観音像)であることに由来している。中国の唐時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹籠入りの魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて造形されたもの。元和3(1617)年頃に豊前国中津の円応寺に称誉が建立した塔頭である魚籃院を前身とし、創建は承応元(1652)年に称誉が現在地に観音堂を建て、本尊をここに移したことに始まる。古くから大漁祈願、海上・交通・旅行安全や安産、家内安全、合格祈願に参詣が絶えない。また、「四天王」を祀り、阿弥陀様、観音菩薩・勢至菩薩を御安置。他水子地蔵尊や願掛け身代り地蔵の「塩地蔵」も尊信されている。

 境内奥の「塩地蔵」は三基立っており、その前にビニール袋入りの塩が山盛りにされており、初めて見る風景だ。江戸の昔から願かけ地蔵として知られ、祈願し、願いが叶った時には塩を供えるため、塩地蔵はいつも大量の塩に囲まれている。元来、塩はお清めとして用いられることから、病気回復を祈願するようになった。また山門横の六地蔵や境内の水子地蔵には手作りの赤い帽子や涎掛けが着せられ、地域の人々に大切にされている。山門入口の、赤い服を着せられた六地蔵はほほえましいが、その後ろには「魚籃観音」の木標が立っており、???だ。

 もう一つの???は、赤塗りの山門に架かった「西方三十三所観世音二十番魚籃寺」の看板である。西方三十三所というのは初めて見聞きする名前なので調べてみたら、確かにあったが、その一覧の「二十番」は「三田浄閑寺」となっており、魚籃寺ではない。更に調べていくと、三ノ輪の浄閑寺の旧地が現魚籃寺のあるこの場所にあたり、浄閑寺移転後に魚籃寺となったということが判った。

旧細川邸跡の「シイの大木」から高松宮邸

 魚籃坂から更に国道1号方向に坂を下り、魚籃坂下信号に出る直前に左手に入る道でUターンする形で再び急坂を登り、二つ目を右折すると突き当たりに高松中学の校庭を見下ろす学校北東角段丘に、町圧巻の巨木が四囲を睥睨している。「旧細川家邸跡」の「シイの木」である。時に11:39。暫しその巨大な幹の太さに度肝を抜かれ言葉もない感じだ。細川邸は、大石内蔵助ら17名の赤穂義士が切腹した場所でもあり、是非立ち寄りたかった所だが、その一角とはいえ、凄い物を見せて貰ったという間隔は、甲州街道歩きで笹子峠で見た「矢立の杉」に匹敵する。
 シイの木は以前かなり痛んでいたそうで、昭和56年に外科治療が行われているが、外見的には随分回復した感がある。このまま、いつまでも元気でいて欲しいものだ。東京都指定天然記念物になっており、幹周8.13m、樹高10.8m、幹周8.5m、樹齢は300年以上である。高さの割に太いのでインパクトが非常に強い。
 左手に「高松宮邸」の鬱蒼とした邸内を高い鉄条網入りの塀越しに見ながら、街道に戻る。

伊皿子坂

 坂名の由来は、明国人「伊皿子」(インベイス)居住説のほか、大仏(オサラギ)の訛り説、「いいさらふ」(意味不明)の変化説などいろいろあるようだ。左前方の泉岳寺からは登り坂になり、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せたそうだ。

---泉岳寺への立寄り予定は、時間的・距離的・経験的理由から割愛---

承教寺---中原街道沿いの「高輪二丁目郵便局」先左折---

 承教寺の表門脇に「二本榎の碑」とその説明板がある。この先、高輪警察署前交差点手前の高輪消防署二本榎出張所の辺りにあった上行寺の山門前に街道の目印として二本の榎が植えられていたという。小高い丘陵地帯のこの地は、高輪手と呼ばれ、二本榎は、そのまま二本榎(にほえのき)という地名になった由(現・住所表示は港区高輪2丁目)。この二本榎という地名は高輪プリンスの西側まで延びた「二本榎通」に残されている。その横には、なんとも愛嬌のある狛犬が歓迎してくれる。また、芝生の敷かれた寺の境内というのが大変珍しい。たた゜、この寺も一般参詣者の目から見るともうひとつ立ち寄って良かったという感のしない寺院だ。

 承教寺は、正安元(1299)年創立の古刹で開山は一乗院日円。芝西の久保で創建し承応2(1653)年3月現在地に移転している。池上本門寺末頭・触頭として江戸役寺になるが、延享2(1745)年に大火で類焼被害に遭っている。山門・仁王門・鐘楼のみは焼失を免れ現存している。現本堂は天明元(1781)年の建立。明治維新後、管長新居日薩は大教院後の大檀林(立正大学の前身)を当山に明治37年まで置いている。16世寂遠院日通は池上本門寺20世へ。30世信是院日謙は池上本門寺33世へ。32世慈明院日洋は池上本門寺41世へ。釈迦如来像の作者は「英一蝶」である。

 本堂左手にその「英一蝶」の墓がある。一蝶は、伊勢亀山藩の侍医の子として大阪の藩邸で生まれ15歳で父と共に江戸へ出て狩野安信に学んでいる。一蝶は熱心な法華宗の信者だったが、「朝妻舟」という絵で将軍綱吉の放縦な生活を風刺したため、幕府の忌諱に触れ三宅島遠島に処せられてしまう。12年後58歳で赦免されてから英一蝶と改名し、以降は、江戸で73歳で没するまで、狩野派に土佐派を取り入れた風俗画で再び人気を得、旺盛な製作活動を展開し、機知に富んだ構図やスピード感あふれる筆使いなど、大いに称讃されたと言われている。

格好の位置にある消防署

 承教寺先の交差点にある高輪消防署二本榎出張所は、丸い望楼があり、左手からの桂坂を上りきった場所は、高いビルのない往時なら、白金(西側)・高輪(東側)両地区を同時に望観できる絶好の場所に立地しているが、
今や火の見櫓から目視で火災を発見する時代でもないから、やむを得ないとは思うが、○×△建物コンテストなら有力入賞候補になりそうに思える。

高野山東京別院

 弘法大師開祖の真言宗総本山である高野山は、四国88ヵ所歩き遍路を満願して奥の院まで参拝した2002年春に謹んで参拝済みだが、先祖からの浄土真宗から真言宗に改宗した者として、その高野山の東京別院の傍を通るからには絶対に立ち寄らなければならない。

 当院は、江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年~1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創された。明暦元(1655)年には幕府から芝二本榎に土地を下賜され、延宝元(1673)年、高野山江戸在番所高野寺としてスタートしている。霊場としては、御府内八十八箇所の第 1番札所であると共に、江戸三十三箇所 第29番札所(札所本尊:聖観世音菩薩)、関東八十八箇所の特別霊場となっている。

 ◇関東八十八箇所の特別霊場

 四国の八十八ヵ所が関東からは遠隔の地で、全ての人がその巡拝の願いを全うするのは難しい処から、四国霊場のお砂を関東の八十八の名刹に勧請し、「関東八十八ヵ所霊場」を開創したもの。関東八十八ヵ所霊場会では、平成17年11月1日に前述・高野山東京別院において、高野山真言宗管長資延敏雄座主を大導師に迎え、「関東八十八ヵ所霊場創立十周年記念慶讃法要」を厳修している。境内には、四国八十八ヵ所のお砂を納めたであろう模擬霊場のようなものがある。
 また、本堂右奥には「御府内八十八ヵ所 奉順拝六百度納札供養塔」もある。

---時刻も正午を少しまわったので、通りがかりの蕎麦屋で昼食。渇いた喉に麦酒が超旨い---

光福寺のゆうれい地蔵---その先左手---

 開運山光福寺の門前の掲示板に、「言葉」
「普照一切」 (観無量壽経)
  意志を超えた仏の計いを知ると、力まずに生きられる。・・・とある。

 12:32、門を入ると、右手に沢山の石仏が並んでいる。本堂の左奥に「開運稲荷大明神」の幟とお稲荷さんが、その右横には「光福寺の子安地蔵(ゆうれい地蔵)」がある。この辺りは江戸時代、いくつかの寺があり、門前町として栄えていたが、二本榎にある一軒の飴屋に毎晩赤ん坊を連れた若い女性が飴を買いに来、雨でも傘をさしていないので不思議に思った飴屋の主人が、ある日母子の後をそうっとつけたところ、この地蔵の前で消えた。それを寺の住職に話し、次に親子が飴を買いに来た時急いで住職と二人でついていくとやはりこの地蔵の所で親子は消えてしまった。そこで住職はここ光福寺に安置し毎日この地蔵を供養したところ、それからその親子は現れなくなったという。この地蔵は品川沖から上がり、死んだ母親に代わって子どもを育てたという言い伝えがあり、「子安地蔵」として境内に祀られている。昔からよくある飴買い幽霊の伝承話と結びつきゆうれい地蔵と呼ばれるようになったのは、地蔵がまるで岩から浮き出てきたような、そして、足元が細く痩せた形をした地蔵で、ちょっと不気味な姿に見えるからだろう。

---高輪三丁目信号を右折、国道一号線に出て左折(五反田駅手前150mの左折点迄約650m国道歩き)---
---途中、コンビニで冷たいアイス休憩をして外に出たら、一瞬進路が左右混乱したがすぐ判明---
---道は五反田駅に向かって下り坂。地図で見れば目黒川に向かっており当然の地形---

袖ヶ崎神社

 12:50、暑さボケのせいか、僅かばかりの麦酒のせいか、次の雉子神社だと勘違いして立ち寄る。狭い境内に思わず「これが将軍家光の立ち寄り地とは?」と思ったが、ここを出て間違ったことに気づいた。御由緒書きも掲示されていたが、「三代将軍家光公を初め伊達家・細川豊前守等多数諸侯の崇敬あり」と書かれており、家光と無関係ではなかった。面白かったのは、本殿左手にあった小さな6稲荷さん?の前で猫が三匹も仲良く昼寝をしていたことだ。思わずカメラのシャッターを押してしまった。

雉子神社---街道左手---

 12:59、ビルの間に挟さまれるように建っている「雉子神社」は、鳥居から石段を登って、コンクリートの大屋根の下にある変わった造りだ。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、天手力雄命(アメノタチカラオノミコト)、大山祗命(オオヤマツミノミコト)を御祭神とし、社号は古くは「荏原宮」と言い、文明年中には大鳥明神、山神の社とも称していた。徳川三代将軍家光が当地で鷹狩りの折、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣で、誠に奇瑞であるとして、「以後雉子宮と称すべし」との言葉があった。以来、神威愈々赫々として江戸社寺名所にその名を連ねた由。入口にある銀杏の木は樹齢150~200年と推定され、品川区の指定天然記念物になっている。
 本殿左には、末社の「三住神社」が林立する幟の奥にあり、大国主命など3神を祀っている。

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 今日の歩行予定は距離的には大いに歩きたいのだが、見どころが結構多く、じっくり見たい気もあるので、敢えて五反田を第一ゴール地点と仮想定しておき、ゆっくりと史跡を探訪したいのと同時に、心の奥底には欲張りな本音として、時間的に可能なようなら17.1km先の南武線武蔵中原駅まで歩きたいという変則的二段構えというか、ある意味いい加減な予定でのスタートだった。

 しかし、見所たっぷり過ぎてもう13時過ぎだし、これから更に気温が上がることを想定すると、「街道は逃げない」という言い訳が鎌首をもたげ、久々の歩きで足の疲れも少々覚えているし、年のことも考え、この辺でひとまずゴールとすることにし、JR五反田駅手前100mで左前方の旧道へ入り、山手線・埼京線のガードを潜るべき所を直進して、13:08にJR五反田駅にゴールインし、渋谷・明大前経由で帰路についた。


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