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中原街道餐歩~はじめに
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 中原街道の由来

 中原街道は、武蔵・相模両国を結ぶ古街道として、少なくとも中世には存在していたようだが、成り立ち等の詳細はよくわかっていない。一部分は延喜式で定められた東海道(江戸期のものとは別ルート)だったというが、それ以前からとも言われる。また、鎌倉街道の下ツ道の一部でもあった。

 小田原北条氏の時代に本格的な整備をしている。狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたため、直線区間が比較的多く、「横浜市旭区の今宿南町、清来寺の裏山」「上川井の大貫谷」「三ツ境駅裏側」などは、狼煙をあげた場所として記録にも残っているそうだ。

 1590年の徳川家康の江戸入府に際してもこの街道が利用されており、その後の東海道整備までは江戸との主要な街道だった。家康の死後、久能山から日光東照宮への遺骨分骨の際にもこの街道が利用されている。

 このように、東海道の整備までは中原街道が主要道で、将軍の駿府との往復や鷹狩時などにも利用された。慶長13(1608)年には小杉(現・川崎市中原区小杉御殿町)と中原(神奈川県平塚市中原)に御殿が設けられ、将軍の鷹狩時の休息・宿泊等の場所に使われたほか、幕府代官の陣屋も併設され、地方支配の拠点機能も有した。

 幹線として東海道の整備進捗に伴い、順次中原街道の交通量は減り、主街道としての位置を東海道に譲ったが、江戸~平塚間をほぼ一直線に繋ぐ脇往還として、沿道近在の農産物運搬や旅人の最短ルートとして利用され、大名行列に逢う煩わしさを嫌う庶民や商人らが利用している。特に、沿道特産品の中でも中原で醸造した「酢」の江戸への輸送路として利用されたことから「御酢街道」とも言われた。かの赤穂浪士も、東海道を避け、中原街道を通って江戸入りしたようだ。なお、小杉御殿は明暦元(1655)年に、中原御殿もその2年後には引き払われ、江戸と食糧・資源等の供給地との流通路としての役割が一層高まっていく。

 当初の街道東起点は江戸城桜田門だったが、江戸城拡張に伴い虎ノ門起点へと変わっている。同様に、西起点(終点)も平塚市中原の中原御殿だったのが、東海道整備に伴い、現・大磯町化粧坂一里塚へと変わっていった。 現在の中原街道も、江戸期とは多少ルートが異なるものの、主要地方道としての利用価値は高い。

 また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った1604年の整備以降である。中原街道は、相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていた。品川区内では東五反田の桜田通から西五反田・平塚橋・旗の台を通り、大田区に入って洗足池方向に向い、丸子の渡し(現・丸子橋付近)で多摩川を渡る道筋である。現在は広い道幅だが江戸時代の道幅は3間(約5.4m)程だった。往時の道筋は、現在でも西五反田六丁目から荏原二丁目にかけてと、旗の台二丁目付近にその一部が残っている。

 なお、中原街道は、脇街道だったため宿駅は置かれず、輸送荷物等の受渡しのための「継立場」が小杉(川崎市中原区)、佐江戸(横浜市都筑区)、瀬谷(横浜市瀬谷区)、用田(藤沢市)の4か村に置かれていた。このほか、上大崎村(現・品川区内)にも置かれていた記録があるというが、臨時的なものだったようだ。

 また、2008年5月25日には、「第8回 中原街道時代まつり」というのが行われている。
     日時 5月25日10時〜
     場所 川崎市市民ミュージアム (川崎市中原区等々力1-2・JR南武線武蔵小杉駅からバス)
     主催 中原街道時代まつり実行委員会(中原区区民協働推進事業)
     内容 徳川将軍が鷹狩り時に利用した中原街道を再現するまつり。当時を偲ぶ、諏訪流放鷹術の実演
        や花魁道中など、楽しいイベントや、江戸小物店、茶席など


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