旧水戸街道餐歩記〜#6
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 2009.10.18(日) 水戸街道#6 府中宿〜奥谷バス停 約18.7km+寄り道

はじめに

 今回は、小川・長塚両氏との3人旅である。常連の村谷氏は別予定があるため、既に単独で歩き済みの旨連絡を貰っている。
 きょうの歩きは、
   1. ゴール地点を「奥谷(オクノヤ)バス停」迄とし、
   2. 同バス停15:55発の石岡駅行きバスにて石岡駅に帰着する
という絶対条件を大前提として、
   3. 立ち寄り予定先と中間各地点毎の到着・滞在・出立予定時刻を予め想定しておき、
   4. 多少の想定外の事態にも充分対処し得る余裕を持たせる
ことを大前提に企画した。
 何故かならば、バスの本数が少なく、それ以前の便は13:30発、後は16:40発だからである。
 このため、各地点毎の区間距離を地図から推計し、所定の歩行スピード(m/分)を想定の上、途中地点毎のタイムチェックを行うこととした。

 その結果、きょうの歩行距離は、街道距離18.7km + その他距離1.1km = 合計 19.8kmと推定した。

スタート(9:38)

 全員が9:31着の便で石岡駅に集合。次回のスタートに備え、予め「奥ノ谷」迄乗車するバス乗り場の場所を観光案内所で確認の上、9:38石岡駅をスタートする。駅から街道筋までは緩やかな登り坂になっていることにはじめて気づいたが、前回、石岡駅に向かった時は、関東三大祭りの一つ「石岡祭り」の真っ最中で、このストリートも人混みでいっぱいだったため気づかなかったし、市内の史跡見学も殆どできなかったのである。

 市内については、別途催行中の古代東海道歩きのゴール地点として、石岡の町を訪ねる予定だが、次の宿に向かう前に、許容時間から割り出して、近間の所だけでも立ち寄ろうと予定したのが、石岡駅西口から街道筋(国道355号線)の交差点を経由して行ける「常陸国分寺」である。
 当初考えていたのは、常陸国総社宮、石岡小学校に残る陣屋門跡(府中城跡)・常陸国衙跡、常陸国分寺跡、更には国分尼寺跡などだが、時間の関係で「常陸国分寺跡」のみに限定した次第で、あとは次の機会に譲ることにした。

常陸国分寺(9:50)・・・石岡市府中5−1

 石岡駅から「御幸通り」を西進し、水戸街道に出て信号を右折し、「本町通り」から続く「香丸通り」を北進し、次の国分寺の信号を左折して直ぐ右への露地を入ると、突き当たりが往時の常陸国分寺跡である。
 路地を入った両側には蔵造りの建物が並び、古寺の門前に相応しい佇まいである。青柳新兵衛商店・青柳鉄店・指南青柳道場と、青柳一族の建物は白壁・黒漆喰・赤レンガ・大谷石と、バラエティーに富んだ蔵造りである。

               
国指定特別史跡 常陸国分寺跡
                     所   在   地 石岡市府中五丁目一番
                     特別史跡指定年月日 昭和二十七年三月二十九日
 国分寺・国分尼寺は、天平十三年(741)聖武天皇の勅命により、鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院である。
 国分寺は、金光明四天王護国之寺といい、金字金光明最勝王経一部を安置した七重塔を設け、常住の僧二十名と、最勝王経一〇部を置いた。寺院の財政は、封戸五〇戸、水田一〇町によってまかなわれた。
 常陸国分寺跡は、昭和五十二年の発掘調査により、現本堂西側に鐘楼基壇(鐘つき堂の基礎)が発見され、次いで、昭和五十六年から二次にわたる発掘調査では、各伽藍(主要建造物)の基壇の規模が明らかにされた。特に、金堂跡については、現在残されている基壇の約四倍の規模をもつことが明らかになり、大建造物を有する寺院であった。
 近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の一が、寺域東側に推定されている。寺域は、東西約二七〇メートル、南北約二四〇メートルの規模を持っていた。
 常陸国分寺跡発掘調査で出土した遺物は、瓦が主体であるが、その中でも、創建瓦(復弁十葉蓮華文軒丸瓦)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の紋様であることが注目される。これは、国分寺建立に際し、当寺の政府が瓦工の派遣などを含む、技術指導をしたことを物語っている。

 少し離れている国分尼寺が「法華滅罪之寺」である。そして、東大寺と法華寺が、それぞれ国の「総国分寺」、「総国分尼寺」とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられていた。

 常陸国では現石岡市に置かれていたが、平安中期の天慶2年(939)、平将門の乱で常陸国府が焼かれた時、国分寺も被災した。そして、戦国時代の天正18年(1590)には佐竹氏に攻められ府中城の大掾氏との戦火に遭い、堂塔は殆ど焼失してしまった。元禄時代に本堂が再建されたものの、これも明治41年の大火で焼失しており、現本堂は国分寺跡に明治43年に筑波から移設したものである。
 従って、金堂、七重塔、中門(仁王門)など往時の伽藍跡は、礎石位置を示す石碑が残るのみで、当時の姿を偲ぶものはない。往時の国分寺は中門から金堂に回廊が配置され、北への中心線に金堂、講堂が列び、七重塔が東に離れて位置する伽藍配置になっていた。現在、講堂跡が現国分寺の敷地内の片隅にひっそり残されている。

 国分寺は護国之寺、即ち大和朝廷を守る祈願の寺であり、一般寺院と異なり庶民は中に入れなかったそうだが、にも拘わらず蝦夷や新羅系民族などにより一時消失したこともあり、近くの千手院などの擁護で復興したという。
 現在の寺は真言宗国分寺という普通の寺である。なお、国分尼寺は少し西北方向の所にあり、時間的に立ち寄り困難である。

<七重塔の心礎(境内に後に移されたもの)>

 七重塔の元の所在地は不明らしいが、国分寺の東の国分町台地東端に伽藍御堂とよばれる地区があり、かって礎石が存在したことからこの地区に塔があったとする説がある。昭和52年の調査で現本堂の西側に南北約16m、東西約10mの建物の掘り込み跡が発見されたが、その位置は金堂跡と講堂跡の中央西側にあたり、堅牢な版築が見られることから鐘楼跡と考えられている。

 昭和27年1月4日、石岡駅から水戸街道に通じる産業道路(120m、幅員11m)開設の第1期工事が着工されたが、途中2500貫の大石が工事の進行を妨げ取り払うこととなった。ところがこの石が常陸国分寺の七重塔の塔芯礎であることが確認され、町観光協会により3月中旬から国分寺境内に運ばれた。運搬は重さが10トン以上になるために、泉町の大通りにレールとコロを敷き神楽山というロープ巻き取り機を使い人力で運ぶなど、1日200mで6日がかりの大作業となった。この礎石は佐竹氏に攻められ消失した天正18年以降国分寺の金子源兵衛氏宅に置かれ、更に明治後期に浜平右衛門氏の別荘に庭石として移されたものだと言われ、「世に出る路傍の石 国分寺七重塔心礎 道路開設で発見」と当時の新聞記事に載った由。

<市指定有形文化財:旧千手院山門>

               
市指定有形文化財 旧千手院山門
                     所   在   地 石岡市府中五丁目1番
                     特別史跡指定年月日 昭和五十三年九月十一日
 千手院は、弘仁九年(818)、行基大僧正の弟子行円上人によって開基され、建長四年(1253)の第一一世心宥上人が没するまで続いたと伝えられる。その後の記録は残されていないが、天正元年(1573)には、京都東寺宝菩提院の禅我大僧正の弟子朝賀上人によって中興されたといわれる。
 近世の千手院は、府中における大寺のひとつで、「新編常陸国誌」にも、千手院、本寺東寺宝菩提院、朱印地十石、菩提山来高寺と号す。末寺2ヶ寺門徒二十一ヶ寺、又門徒二ヶ寺あり、と記されている。これら千手院末の寺院は、その大部分が府中の町にあり、人々の信仰を集めたが、明治初年にはそのほとんどが廃寺となっている。
 また、千手院も大正八年(1919)三月、国分寺と合併して廃寺となり、現在ではこの山門が残るのみである。
               昭和六十年三月
                              石岡市教育委員会
                              石岡市文化財保護審議会

<市指定有形文化財:都々一坊扇歌堂>

               
市指定有形文化財 都々一坊扇歌堂(建造物)
                     所   在   地 石岡市府中五丁目1番
                     特別史跡指定年月日 昭和五十三年九月十一日
 都々一坊扇歌は、文化元年(1804)医者岡玄策の子として久慈郡磯部村(常陸太田市磯部)に生まれ、幼名を子之松、のちに福次郎と改めた。要衝の折、病により失明同様となったが、芸の道を志し、二〇歳のとき江戸に出て、船遊亭扇橋の弟子となった。その後、寄席芸人としての修行が続き、天保九年(1838)一枚看板をゆるされ、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して、新しく「都々逸節」を作り都々一坊扇歌と名のった。
 扇歌は、高座にあって聴衆からのナゾかけを即座に解いてしまう頭の回転の早さが、江戸庶民の評判になったというが、当時の政治や社会を批判したため、江戸追放の身となった。その発端となったのは「上は金 下は杭なし吾妻橋」の一句であった。
 江戸を追放された扇歌は、姉の嫁ぎ先府中香丸町の酒井長五郎の旅宿に身を寄せ嘉永五年(1852)四十八歳で没した。
 昭和八年、都々一坊扇歌を記念し、町内有志の呼びかけにより扇歌堂が建立された。
               平成二十年十一月       石岡市教育委員会


−−−都々一坊扇歌のその他の作品例−−−

 ・親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
 ・たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
 ・白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡
 ・諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
 ・ (辞世の歌) 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな

竹原宿へと発進(10:01)

 先刻の街道筋の交差点に戻り、東南角に塚本寝具店がある角を東進するのが旧水戸街道(県道52号)で、JR線を陸橋で越えると石岡のメインストリートともお別れだ。10:06、陸橋の上からは右手に石岡駅が見える。線路を越えると、街道は西行きから東北方向へと左カーブする。

石岡の一里塚 (10:09)・・・石岡市泉町2108

 次の信号の先右手に「石岡勤労青少年ホーム」「仝勤労者体育センター」等があり、その街道左右に大きな塚「石岡の一里塚」が現れる。残念ながら右側の榎は、台風による倒壊で二代目に変わっているが、左側(西側)の木は堂々と聳えている。

               
「二代目榎木」
 平成十四年七月、台風の影響により残念ながら、一里塚のシンボルである榎木が倒木しました。当寺の榎木は、推定樹齢四〇〇年、高さ約二〇メートル、幹回り約四.二メートルの大木でした。
 平成二十年三月、一里塚裾野付近に育っていた苗木を移植しました。二代目の榎木として将来、初代と同じ大木に成長することを願います。
 また、県指定史跡「石岡の一里塚」は地元の子供会の協力により除草作業を行っています。大切な文化財を将来の子供達へ残していきましょう。
               平成二十一年九月
                              石岡市教育委員会

 ここから先は見事な杉並木があったらしいが、地名も「杉並」とか「杉の井」の名が残り、バス停名では「並木東」・「杉並木前」などがある。

行里川旧道(10:34)

 1.5〜1.6km程先の左手にある関鉄観光バス石岡営業センターのすぐ先で、県道52号を右に分け、左の細い坂道を下っていく。行里川(なめりかわ)という集落である。

 あまり車の通らない静かな通りで、左手には竹藪のある「鷲ノ宮神社」や重厚な長屋門の旧家などがある長閑な旧道を行く。長屋門だけで一棟のアパート程もあり、とても普通の民家とは思えない門構えは、さぞかし由緒ある名主クラスの旧家かと想像する。

 旧道に入って約600〜700mで先刻分かれた県道を横切り、地図には「園部川」とある「花野井川」に架かる「竹原橋」を渡ると、隣の小美玉市(おみたまし、旧美野里町)に入る。花野井とか、美野里とか、地名に相応しい美しい田園の里を、川をボトムにして、道は竹原神社を右に見ながら坂を登って竹原宿へと入って行く。

竹原神社(10:57)

 宿の入口にお定まりのように神社が存在する。右手に供養塔群があり、銘は風化で判読困難である。神社は長い石段を上がった所にある。

 境内右手に神輿の収納蔵と神輿に関する解説板が建っている。

             
美野里町(注:現・小美玉市)指定文化財
               竹原神社神輿
                              昭和六十一年七月十七日指定
                              竹原字上町二二九七番地
 この神輿は、毎年七月二十二、三日に行なわれる竹原区のアワアワ祗園に、みろく・ささらと共に町内を渡御するものである。
 総欅造りで、本体の高さ一・三七メートル、胴幅四〇センチ、重量一七二・四キロ、色彩は殆んどなく欅生地の美しさを活かし、屋根は黒漆仕上げ、特に胴部の彫刻は見事である。
 石岡総社宮の神輿より小型であるが造り方も全く同じであり美術工芸品としても価値高いものである。
               平成三年九月
                              美野里町教育委員会


 竹原神社前を通り過ぎると、「竹原」信号で久しぶりに国道6号に合流し左折する。この辺りは往時の「竹原宿」のあった所である。

竹原宿

 国道6号合流地点の正面には、「冨田本家」という表札の豪邸がある。
 府中宿〜竹原宿は1里9町(4.9km)。江戸初期の旧水戸街道は、行里川から現在のコースよりも東側を通っており、その後に街道が付け変えられた。竹原に宿が置かれたのは元和年間(1615〜24)である。町並みも小さく本陣は置かれず、竹原上クに問屋場が2ヵ所、竹原新田に1ヵ所置かれ、問屋役人が宿継ぎ業務を行っていた。旅籠は13軒あったのが判っているが、江戸末期には妓楼が6軒程あったという。
 古地図によると、上クと新田は「まがりめ」という屋号の家の所(竹原交差点で国道合流地点)で北へ45度曲がっており、両集落がカギ形につながっていた。小さい宿だったため、ここもご多分に漏れず助ク制度に苦しみ、度々窮乏を訴えた記録が残っている由。
 
 宿の町並みは落ち着いているが、史跡らしいものは見当たらない。家の配置は往時と大差なさそうだが、街道左手は新しい建物が多く和風で大きな建物。右手のマーケットは問屋跡の由、左に曲がった国道沿い右手にある大きな屋敷は薬医門を備えた堂々たる構えの「木村接骨院」で、元庄屋の屋敷跡の由。

石仏・道標(11:26)

 「中野谷中央」バス停の少し手前の左手に、覆屋があり、左から馬頭観世音、地蔵尊、地蔵菩薩と三体の石造物がある。地蔵菩薩文字塔は道標を兼ねている。

北辰一刀流故大貫先生政成之碑(11:29)

 この国道6号に入って竹原下ク、中野谷と進んできたが、暫く先の左手に「北辰一刀流故大貫先生政成之碑」という大きな碑が建っており、裏に弟子と思われる多勢の名前が刻まれている。

街道沿いの石造物、殊に女人講の石造

 少し先右手にお地蔵さんがある。

 「大曲南」バス停先にある電柱には、早くも「堅倉」の地名が現れる。「堅倉」はこの先の「片倉宿」の「片倉」の現代表示であるが、四国歩き遍路の時もそうだったが、こうしたバス停や電柱の地名表示は、歩く者にとって大変心強い現在位置確認のための貴重な情報なのである。

 「大曲三叉路」信号の左手前に「女人講」の大正3年銘の母子像の石仏がある。子安信仰と思われるが、その先の「大曲」バス停の手前左手にも同様の女人講の大正3年銘の石仏があり、地元特有のいわれでもあるのだろうかと思う。この先にも赤子を抱いた女人像を陽刻した石造を何度も見ることになるが、これまでいろいろな街道歩きをしてきた経験から言って、当地方の特色と言えそうだ。往時において、いかに出産や育児が大変なものであったかがうかがわれる貴重な民俗遺産と言えよう。

桜並木

 右カーブする「大曲三差路」(信号)辺りから左手に桜並木が続いている。歩道を覆い尽くすような感じで桜の季節には大変見事だろうが、国道歩きもこうなると楽しい。4月には桜祭りも開かれると小美玉市のHPに出ていた。

昼食(12:00〜12:29)

 11:56に「片倉中央信号」を過ぎた辺りから、街道左右にちらほらと飲食店の看板があり、左手の日本蕎麦屋に入店。全員冷たい手打ちの天ざるに舌鼓を打ち再出発する。

片倉宿 

 「片倉中央信号」の先700m程の右手に「金馬車美野里店」のあるY字路の分岐「堅倉三叉路」を左の旧道に入ると、間もなく美野里町の中心、堅倉に入る。堅倉は昔片倉と書いたが、左手にある明治乳業の工場先から「片倉宿」が始まる。宿入口には右手に「子安神社」があり、更に行くと昭和31年に堅倉村と竹原村が合併してできた旧美野里町の中心地に入り、現・小美玉市役所やJA・商工会館等が右手にある。

 竹原宿〜片倉宿は1里3町(4.3km)。片倉宿〜小幡宿は1里5町(4.5km)ある。
 本陣はなく、脇本陣が1軒あった。曾ては片倉宿で、現在は「堅倉」と表記している。往時の片倉宿には、旅籠屋が10軒あって賑わっていたという。
 古地図によれば、宿入口付近に一里塚があり、「まがりめ」という家の所で右へ大きくカーブすると、右手に「長嶋屋」「油屋」「名主」「亀屋」「脇本陣」「岩松殿」「郷土屋敷」「問屋平野屋」と並び、左手には「漢方医」「和泉屋」「加藤殿」「本多殿」「若桝屋」「里家」と並び、「角屋」という旅館の所で旧水戸街道は左へ90度曲がり、その先に旅籠取締の家や「巴屋」「枡村屋」といった家がある。確かに、単なる豪勢さだけでなく格式をも感じさせる一角である。

◎加藤家復旧門(「加藤殿」)(12:47)

 平成4年再築の大きな門の傍に次のような由来が記されている。現在は門が残るのみで奥は空き地、持ち主は現在埼玉県に住んでおられる由。

               
復旧門の由来
 当門は、水戸徳川藩士加藤本家より、加藤伊衛門の代に水戸から分家して当地常陸国東茨城郡堅倉に郷士として土着したとき、母屋と一緒に建てたものでありましたが、幕末に藩主の世継問題に端を発した天狗党の乱が起り、元治元年(1864年)当時の加藤家は名主職を勤めていた関係もあり、反乱軍天狗党のために母屋と共に門も全て焼打ちに遭い、その際門の前柱二本のみが焼け残りました。門柱上部の黒い部分が焼け跡です。その為当時の祖先の苦労を偲び又戦乱(内乱)の歴史を後世に残すべく、焼残った二本の前柱をそのまヽ使用してここに復旧を完了いたしました。
               平成四年九月
                              建主 加藤謙二

◎角屋(12:51)

 建物健在で、「かど家」の看板がある。黒瓦木造二階建てで、2階には手すりがあり勾欄から旅籠の風情を漂わせている。入口には格子戸と、昔の商人宿の雰囲気充分である。現在は近くの国道6号沿いで「旅館かと家」として営業中であり、「左折100m」の看板が建っている。

◎酒屋一本槍

 右手にある。営業している雰囲気は感じられないが、元名主だった所らしい。一本槍という文字が半分隠れているが見事な漆喰細工である

◎本多殿の屋敷

 左手の加藤家の先隣で、門構えの大変立派な屋敷で圧倒されそうである。お屋敷街を通っているような錯覚に襲われる。

◎平本米穀店

 「角屋」を左折した先左手にある。ここも旅籠のような建物で、奥行きが長い。

 その先は「巴橋」で「巴川」を渡り、「小岩戸」信号で国道6号を横切って小幡宿方向へと進んでいくことになる。

石船神社の欅(12:58)

 「巴川」を越えた先の街道右手、美野里町消防団第5分団車庫の隣に村社「石船神社」がある。
 左手には、とてもカメラに収まりきれない巨樹の欅が聳えている。また、境内には、覆屋の中に4基の石造物があり。いずれも女人講のものと思われる。

               
天然記念物 石舟神社の欅
                             昭和五十一年三月二十五日指定
                             小岩戸字宮地一二七〇番地
 この欅は、巴川中流の北東部に面する小岩戸台地の名勝の地、石船神社境内の御神木のひとつとなっている。
石船神社の祭神は、建国に功績のあった鳥石楠船命を奉齋したといわれている。
 この巨木は樹齢およそ五百年と推定され、今なお樹勢旺盛にて、高さ約二十メートル、目通り六・五メートル、根回り約十八メートルで、特に根張りは見事なものである。
 「欅」は、昭和五十年十月十八日に美野里町の「町木」として制定されているが、この欅は、町木を象徴するに値する巨樹である。
               昭和五十五年十月
                              美野里町教育委員会

 「巴川」は、今でこそ舟影がないが、江戸時代には北浦の鉾田から水路が開け橋の袂には河岸があったので、水運の神としての名残と考えられている。

西郷地小学校跡

 「小岩戸」信号で国道6号と交叉し、暫く行くと右手「伊藤忠フレッシュ茨城センター」を過ぎた先の「黒川」を「山中橋」で渡った先右手に、西郷地小学校が開校された場所が跡地として残っており、その解説板が建っている。

 同校はここにあった天台宗小幡法円寺末山中山東光院広諦寺本堂を校舎として、明治十年五月に開校したが、同十九年に堅倉小学校に合併し、校舎は明治末期の火災で焼失したため、遺構は見られないが、校印が地元の石田樟氏によって所蔵されている由である。

山中薬師本堂・仁王像

 また、その先には、木々の合間に鮮やかな朱塗りの「山中薬師本堂」がある。境内には石仏群があり、中には元禄5年(1692)銘の古いものもある。

               
美野里町指定文化財
               山中薬師本堂
                              昭和六十一年七月十七日指定
                              西郷地字山中三番地の二
 この本堂の建築年代は不詳であるが、建築様式は水戸吉田町の薬王院と類似している所が多い。昭和十二年に円柱等の修理、昭和二十三年茅葺き屋根をセメント瓦に葺替え、平成三年銅板に葺替えているので、風格的に往時の貫禄からは薄らいでいるといわれている。
 桁行三間、梁間三間の方形造り、円柱十二本、内陣も円柱、組物をのせ正面に菊花紋、内部全体の天上は格天井づくりである。
 山中薬師は眼病に霊験があるということで眼病を患う人の参詣者も多い。

               仁王像
 仁王像は、もと小幡法円寺の末寺山中広諦寺の山門に安置されていたものである。
 明治末期、火災のため広諦寺と山門は燃失、幸いにして仁王像は二躰とも搬出し難を免れた。阿形一八三センチ、吽形一九〇センチ、桧材寄木づくりで江戸時代末期の作と思われる。胸部、頭部共に扁平型で仁王像に見られる力強さ迫力等に欠けるところもあるが、美野里町唯一の仁王像として貴重である。
               平成三年九月
                              美野里町教育委員会

愛宕神社

 すぐ先で、「茨城町」という県を代表するような標識を見る。坂を登り小幡宿に入る手前で、左手の「渡辺石材興業」右手の「矢沢木材店」のある交差点手前を左に入った所に鬱蒼とした竹林に囲まれた「愛宕神社」が祀られている。
 結構長い杉並木の参道があり、その外は広い竹林に囲まれている。参道の各所に「お不動様」や「弁天様」「観音様」「八坂神社」「皇体神宮」などが祀られ、石段の下左手には「蝶の飛ぶば可利野中の日陰加那 芭蕉」という芭蕉の句碑もある。
 正面の高い急な石段の上に愛宕神社のお社が建っているが、当神社は火之迦具土命を祀る火防(ひぶせ)の神様である。本尊は江戸時代中期に盗難に遭った後、発見されたとか。

小幡宿
 
 県道181号を横切ると左手に天台宗の「法円寺」があるが、ここが小幡宿の入口で、ここから500m位が中心だったらしい。
 小幡宿は水戸藩の藩領地で問屋が1軒あるのみの長閑な感じのする小さな宿である。曾ては並木があったのか、並木という地名がある。
 宿には史跡らしいものは何も無く、御殿のような大きな豪農風の家が屋敷が結構建ち並んでいる。ただ、ここでは見慣れた薬医門や長屋門は影をひそめ、門には屋根が無く左右の塀の端に柱が建てられただけという特徴が感じられる。

法円寺(14:01)

 宿の入口左手に建っており、長い参道の奥にあるが、曾ては水戸家の宿所になっていた由。幾度か火災に遭い、現本堂は昭和40年代の再建である。本尊の木造阿弥陀如来像は、昭和四十六年四月に茨城町指定文化財になっている。境内には県の巨樹名木に指定されているツゲの木がある。
 また、伝教大師の『
己を忘れて 他を利するは 慈悲の極なり』の石碑がある。


道標(14:17)

 暫く先の右手に上野合郵便局があり、その先が変則的な十字路になっていて、右手に石仏群が何基かある。矢印のある「小幡城跡」という案内標識があり、石仏群の中の「聖徳大神」は、道標を兼ねており、「右磯濱、湊」「左 長岡 下市」と刻まれ、それぞれ里程も記されている。

青竜大権現(14:26)

 道はやがて左カーブし、「寛政川」を「界田橋」で渡った先、国道合流直前の旧道左手に「青竜大権現」がある。長い石段があり、各氏に諮った結果パスした。

千貫桜碑(14:32)

 その先「小幡」信号で左後方からの国道6号に合流し、右へ向かう。右手にある「茨城東高」の向かい側(街道左手)に「千貫桜碑」がある。

              
義公観賞の桜
               千 貫 桜
 かつてこの地に桜の巨樹があり、義公(水戸光圀公)が終日めでて「千貫の価値がある」と賞賛したといわれている。現在は枯死したが、この地を千貫桜と称し、往時のよすがをしのんでいる。
                              茨城町教育委員会

 この記念碑は光圀・斉昭両公の遺跡でもある『千貫櫻』を後世に伝えようと、当地の戸長・県議等を務めた秋葉茂氏の発起により明治31年に建てられている。
 右横には、小幡の花見に来た時に詠んだ「
春風も こころしてふけ 散るは憂し さかぬはつらし 花の木のもと」[(常山詠草)巻四]という光圀公の歌碑がある。

 そして、その横には、道の両側に桜の古木が美事に並んだ桜並木の通りがあり、開花時期の美事さが想像できる。

小幡北山埴輪遺跡公園(14:48)

 その先右手に「小幡北山埴輪遺跡公園」があり、小休憩する。だだっ広い公園だが、昭和28年(1953)に開墾作業中、人物埴輪・円筒埴輪・馬の埴輪などが出土し、昭和62年には偶然、埴輪製作遺跡が発見された。6世紀中頃〜7世紀前半の遺跡と考えられ、その数59基と全国一の由で、国の指定史跡になっている。
 園内には、町内(前田)の上ノ山古墳や県内の前方後円墳を参考に復元した前方後円墳があり、町内の人達が体験学習等で製作した埴輪の類が上に置かれていた。

               
国指定史跡
               小幡北山埴輪製作遺跡
 小幡北山埴輪製作遺跡は、埴輪という焼物をつくっていた工場の跡です。材料の粘土を掘った跡、埴輪の形をつくったり、保管しておいた建物の跡、埴輪を焼いた窯の跡がみつかっています。窯の数は五十九基と全国で一番多く、平成四年(1992)国の指定史跡になりました。
 埴輪は人物や馬、円筒形などいろいろな種類があります。町内からはこの遺跡でつくったと思われるいろいろな埴輪が出ています。前田にある上ノ山古墳から出てきた埴輪もここでつくられたものです。
                              茨城町教育委員会


奥谷バス停(15:23)

 この先「奥谷バス停」目指して国道6号を行き、途中右手の旧道(県道18号)にそれて暫く行くと、「奥谷坂上」信号、「御霊神社」(左手)を過ぎた先、県道の43号(左折方向)16号(右折方向)と交わる「奥谷」交差点のすぐ先右手が石岡駅行きの「奥谷バス停」になっている。到着は15:23で、約30分のゆとりを持って到着することが出来た。15時55分発石岡駅行き関東鉄道バスの到着まで付近を散策し、バス停前の和菓子店で妻への土産をゲットした。

 ところで、JR常磐線は石岡あたりから左へ大きく迂回し、岩間・友部を経て水戸に繋がっている。これまでの殆どの行程が常磐線沿いだった旧水戸街道は、地盤上の理由からか、反対運動でもあったのか理由は不明だが、石岡以遠は街道とJR線とが大きく離れているので、今日の帰途と次回の往路はバス便に頼るしかなく、これまでの街道歩きで初めてのバス利用になった。

帰途

 約5分遅れで到着したバスはガラガラで、その時間分遅れて16:35に石岡駅に到着したので、17:01発に乗るまでの間、駅の売店で買った缶ビールで喉の渇きを癒やしたが、自宅に帰ったのは19:40と、久々に遅い帰宅になった。

 あと1回で、水戸街道歩きもゴールとなる。