旧水戸街道餐歩記〜#5
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 2009.09.20(日) 水戸街道#5 土浦宿〜府中宿 約15.0km+寄り道

【今日のコース】 土浦駅---中央2交差点(桜橋親柱・道路元標・高札場跡)---亀城---中央2交差点---大塚本陣跡---真鍋宿−板谷一里塚−中貫宿−本陣跡−千代田−稲吉宿−本陣−千代田一里塚−恋瀬橋−府中宿

スタート

 9:14土浦駅に降り立ち、改札を出ると既に小川・村谷・長塚の各氏が先着しており、早速西口に出て国道125号線を経て、前回の街道歩きの終着点となった「中央二丁目」交差点に出る。
 順路としてはここを右折して行くのだが、前回未了になっている所を数ヶ所立ち寄るため、先ずは左折することとする。

桜橋親柱・道路元標(9:28)

 まず、その交差点の南西角にある明治2年創業の天麩羅「保立本店」の脇に、「土浦町道路元標」と刻まれた45cm程の高さの石標と並んで「市指定史跡桜橋の跡」と記された「桜橋」の親柱と解説標柱がある。
 付け替えられる前の旧桜川はここを流れており、ここに架かっていた橋を「桜橋」と称していた。往時の桜橋は、銭亀橋や簀子橋と共に“三橋”と呼ばれ、慶長18年(1613)の幕府直営工事で完成したそうだが、現在では川が暗渠になり、駅と通ずる広い道になって昔日の面影が皆無になっている。従って、前回渡ってきた「銭亀橋」は、城下町を水害から守るために付け替えられた新しい桜川に架けられた橋だったことになる。

「土浦まちかど資料館・野村」(9:31)

 「中央二」交差点を西(左)に入り、前回通り過ぎた「土浦まちかど資料館・野村」に立ち寄る。ここは、江戸時代後期から明治時代初期に建造された蔵で、江戸時代は砂糖屋だった由。
 まだ早いせいかどうか、誰もおらず館内に恐る恐る入って見学して回った。ツェッペリン号の2度に亘る飛来写真(1929 & 2005年)や実物の縮小模型「GRAF ZEPPELIN LZ 127」を見たが、観光案内、予科練関係の資料展示、1人単独で米本土に爆弾を落とした藤田信雄兵曹長氏ゆかりの品々を公開していると聞いていたものの、目につかなかった。後ろ側の蔵が喫茶室「蔵」になっていて、レトロな空間を提供している。
 東側の細道には前回の餐歩記で触れた「退筆塚」などのほか、小公園風に形作られていて、その奥に琴平神社と不動院があるのは前回見た通りだが、共に霞ヶ浦の湖上交通の安全を祈願する船主や荷主たちによって信仰されてきたものである。

土浦城跡(亀城公園)(9:36)

 それらの間の細道を突っ切った先で左折し、次を右折していくと土浦城址(亀城)の高麗門に辿りつく。傍には故郷の玉藻城の場合と同様に、お定まり?の裁判所の建物群が並んでいる。
 周囲に堀を巡らした城跡だが本丸は現存せず、土塁と内堀、本丸表門の櫓門、裏門の霞門、東西の櫓などが残る。東櫓の上は小さな資料館で壁の模型などが展示されているが有料である。

 土浦城は、古くは平将門が砦を築いたところから始まったと言われるが、明確な記録は時代が1400年代からである。築城は永享年間(1429〜40)、若泉三郎とされる。小田氏麾下の信太・菅谷が居城、小田原合戦後は徳川家康の次男・結城秀康の支配になり、次の松平氏が城郭への整備を進め、江戸に近い譜代藩の例で、西尾、朽木、土屋氏へと領主が交替。唯一の建物遺構である太鼓櫓は、慶安に入封した朽木稙綱の築造である。
 明治になって廃城になったが、城は平屋で、何重もの堀に囲まれた様が、まるで水に浮かぶ亀を連想させたことから、亀城(きじょう)とも呼ばれたという。威圧的な城山や石垣が無く、平で穏やかな雰囲気を持つ城だったようだ。

 本丸館はもはや無く、現存するのは土塁と内堀、外堀の一部、それに明暦2年(1656)朽木氏が改築した霞門(本丸裏門)、文久2年(1862)築の高麗門、櫓門など)が幾つか残り、東櫓、西櫓が復元されるなど、昔日の面影を伝えているが、天守閣は元々無く、本丸中央に書院造りの館があった。春は桜の名所になるようだ。

              
土浦城旧前川口門
                         指定 昭和四十六年(1971)七月十三日
 この門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門である。高麗門は城郭の門として建てられた形式の一つで、この門も、武家屋敷であった多計郭と町屋の間を仕切る「前川口門」であったといわれている。江戸時代末期の建築である。
 明治十八年(1885)に土浦戸長役場(のち町役場)の門として、さらに大正九年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移され、その後、寺の寄贈を受けて、土浦城内の二の丸入口にあたる「二之門」のあったこの位置に、昭和五十六年(1981)移築されたものである。
              平成十四年(2002)三月
                             土浦市教育委員会

              土浦城跡および櫓門
   県指定史跡 第1号
   土浦市中央一丁目
   昭和27年(1952)11月18日 指定
   管理者 土浦市
 土浦城は、一名亀城(きじょう)ともよばれ、平城で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城でもあった。城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、武家屋敷や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模をもつものであった。
 江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移建された旧前川門(高麗門)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。
 戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変ったが、土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。
 明治以後、本丸跡は土浦県庁、新治(にいはり)県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸の一部とともに亀城(きじょう)公園となっている。
              平成11年(1999)6月
                             土浦市教育委員会
                             土浦亀城ライオンズクラブ寄贈
                             土浦亀城ライオンズクラブ寄贈


 また、樹齢500年と目される年代物の「椎」の大樹には圧倒され、歳月の偉大さを感じずにはいられない。昔、土浦城主菅谷勝貞が叔父の信田範宗を殺害し、その霊を鎮めるために供養塔を建て、その横に植えたのがこの椎だと言われている由。

              
県指定文化財 亀城のシイ
      昭和31年(1956)5月25日 指定
 天然記念物のこのシイ(椎)の樹種名は、スダジイ(別名イタジイ・ナガジイ)である。
 スダジイは福島県と新潟県以南の暖地に自生する、ブナ科の常緑高木で、種子は食用になる。
 このシイの胸高周は七メートル、樹高は十六メートル、枝張り二十一メートル、樹齢は約五百年と推定されている。県下のシイの中でも有数の巨樹である。
               平成八年(1996)三月
                              土浦市教育委員会


 「昭和三十四年四月十日植樹皇太子殿下御成婚記念」の“松(左側)”・“柏(右側)”が立っているほか、地元出身の劇作家・演出家として活躍の一方、小説・評論・随筆等にも健筆を振るった「高田保」の句碑が近くに建っている。
     
あの花も この花もみな 春の風

 傍にある「市立博物館」には、亀城や宿場に関する資料などが展示されているそうだが、その敷地内には「土浦領境界石」や「真鍋の道標」がある。往時は土浦一高前の筑波街道との分岐点にあったものがここに移されている。
」「」とあり、梵字入りである。

               
土浦領境界石
 この境界石は、江戸時代に水戸街道に面して土浦領と他領との領界に建てられていたものです。「従是北土浦領」は現在の土浦市中村に、「従是南土浦領」は中貫にあり、それぞれ怩ェ築かれ、その上に設置されていました。
 土屋篤直の書いた“土浦道中絵図”の中にも、この境界石が描かれています。

               土浦城櫓門の礎石
 ここにある6個の石は、土浦城本丸入口にある櫓門の礎石です。昭和62年(1987)の櫓門解体修理の際、発掘調査によって現在の礎石の下から発見されました。おそらくは、明暦2年(1656)と考えられる櫓門建築の時に使われた最初の礎石と思われます。
 石材は、すべて輝石安山岩(伊豆石)です。大きい方の長方形の石は、扉の両側に使われました。どの石にも柱を差し込む「柄穴」があいています。


               
市指定文化財 真鍋の道標
                               昭和46年(1971)7月13日 指定
 この道標は真鍋坂上の水戸街道と筑波街道の分岐点にあった土浦最古の道標である。
 「□享保十七年壬子年(一七三二)土浦□人」
 「□右ふちゅう 水戸道」  
(注)「ふちゅう」は常陸国府中、即ち常陸国府のあった石岡市のこと
 「□左きよたき つくば道」  
(注)「きよたき」は新治村にある坂東三十三観音霊場の一つ「清滝観音」のこと

とある。三面の□は勢至菩薩を表す梵字で、二十三夜の月の主尊であり、この碑はその供養碑でもある。旅人を助ける道しるべを建て、その功徳によって二世(現世と来世)の安楽を願う二十三夜講の人々が建てたものと思われる。

               
土浦城 西櫓
由来
 本建造物は、十七世紀初頭元和六・七年頃城主西尾氏の時代に本丸土塁上に東西の櫓が建立されたとされ、西櫓はその一方の櫓である。
 土浦城は、その後土屋氏の居城として明治の廃藩置県に至るまで幕藩政治における土浦の中心、象徴として存在していた。
 土浦城内の建造物は、明治以降、本丸館を始め多くの建物が火災や移築、取り壊しにより失われ、昭和・戦後に至り、本丸には、太古櫓、霞門、西櫓を残すのみとなった。
 そして、この西櫓も老朽化と昭和二十四年のキテイ台風により、小破し、昭和二十五年に復元を前提として解体された。
 その後、復元を見ず今日に至り土塁上には礎石のみが残され、僅かに往時をしのばせるに過ぎなかったものを、市民の浄財をもとに復元したものである。
               平成四年七月
                                土浦市教育委員会


高札場跡

 「中央二」交差点に戻り、今日の前回続いての街道歩きが始まる。「中央二」交差点を渡った左角(東北角)にある東京三菱UFJ銀行の所が往時の「高札場跡」だということだが、何の表示もない。どうも、前回の水戸信金土浦支店前の水戸街道に関する解説板が無くなっていたり、あるいは元一里塚だったという古井戸が何の表示もなく見当たらなかったりしたことと考え合わせると、立派な「土浦まちかど蔵」か2軒もあったりすることと整合性が無く、土浦市教育委員会のきめ細かな対応に疑問を感じざるを得ないのである。

大塚本陣跡(10:00)

 2軒あったうちの1軒、山口本陣跡は何もなく表示すらないらしいので前回立ち寄らなかったが、もう1軒の大塚本陣跡は辛うじて50m程東の街道右手の3階建の「土浦商工会議所」前の片隅に本陣跡の案内標柱で確認できる。それも、風化して文字が殆ど読み取れないもので、四人で探し回ったあげくやっと発見した次第である。
 土浦宿本陣「大塚家」の跡で代々大塚甚左衛門を襲名し、東崎の名主や宿場の人馬継立を行う問屋を務めていた由。
 その標柱には「湖畔の城下町コース」と記されていて、この先でも随分見掛けた標柱だが、いずれも風化していて読む気にもなれないものだった。

クランク世界を行く

 街道はそのすぐ東側で北に向きを変える。城下町特有の戦略的町割によるクランクである。
 本町(現・中央二丁目)、仲町(現・中央二丁目)、田町(現・城北町)と過ぎ、左側角に鉄板焼き「和泉屋」がある突き当たりをまた左折し、右手角に柳沢洋服店があるT字路を今度は右折すると、道は左カーブしていくが、このように土浦宿は城下町特有のクランクが非常に多い。

月読神社(10:09)

 その途中、和泉屋の手前左手に「月読神社」があるとのことだったが発見できず、その先のクランクを左折した左手に、「旧町名横町」と書かれた案内標識や鳥居があり、先ずは本日最初の参拝をした。先ほど曲がった三叉路からこの先の真鍋口の「馬出し」までの間を「横町」と言い、この辺りがその中央で、この月読神社が「横町の顔」だったようである。

土浦城北門の跡(10:12)

 「新川橋」で真鍋へ抜けるが、橋の手前右手に往時の亀城の「北門(北詰所)」があり、その碑が建っており、次のように記されている。
               
市指定史跡 北門の跡
 北門は松平信吉のとき設けられ S字状の馬出しとともに水戸街道北口を守る重要な門であった 明治六年撤去された


 謂わば、城下の北の出入口であり、前回見た「南門の枡形」と一緒に出来たもので、土塁と堀で厳重に固められ、番所もあったという。残念ながら、明治6年に撤去された際、特徴だったS字形も真っ直ぐな道に付け替えられてしまっている。なお、馬だしというのは、騎馬がすぐ出動可能なようにしてある施設をいう。

 土浦宿もここ迄である。

真鍋宿(10:15)

 「新川橋」の左手の欄干に「ここは真鍋宿通り」の看板がある。橋の先は旧真鍋村で、土浦宿の北方1km程の所に位置した「真鍋宿」があった。現在の茨城県土浦市真鍋3付近で、土浦宿とは極めて近く、間の宿とも土浦宿の一部とも言える。坂下には鹿島街道との追分、坂上には筑波街道との追分があったことから、その2つの追分に挟まれた坂道を中心として栄えたようだ。

常総筑波鉄道跡(10:18)

 左手に見える「茂木歯科」の先の右手に「関東鉄道本社」がある。その手前は、いかにも線路跡といった感じの道が街道と交差するように走っていて、現在は「つくばりんりんロード」と呼ばれるサイクリングロードになっている。往時は「常総筑波鉄道」がJR常磐線土浦駅とJR水戸線岩瀬駅とを結んでいた線路跡で、1987年3月限りで廃線になったが、途中筑波山を通っていたそうなので、「つくばエクスプレス」開通以前の2004.10.24に「筑波山」に登った時、東京駅から乗ったJR高速バスが止まった終点が鉄道駅でもないのに「筑波山駅」というバス停名だったことを思い出したが、恐らくこの線路だったと思われ、何だか懐かしい友人に再会した気分になる。

 街道左手には、曾て「新土浦駅」があり、「岩瀬土浦自転車道(つくばりんりんロード)」と題する大きな掲示板に絵地図が表示されている。右に1.5km行けばJR土浦駅があり、左にはJR水戸線岩瀬駅方面への当時の鉄道路線や筑波山などが描かれていて非常に判りやすい。

 この先は坂道が続き旧商家のような軒の低い家が並んでいる

善応寺と佐久良東雄(さくらあずまお)(10:27)・・・土浦市真鍋2−10−23

 3丁目の真鍋郵便局の先が「真鍋坂下」の十字路で、右に行けば「鹿島街道」で、潮来を経由して「鹿島神宮」へ通じる信仰の道である。その街道沿い左手に「照井山善応寺(真鍋観音)がある。関東八十八ヵ所第三十五番札所、常陸西国三十三札所第九番札所になっている。

               
善応寺
 創建は南北朝以前にさかのぼる 近世になり土浦城主歴代の保護をうけ、観音堂は寛文十年(1670)土屋数直が土浦城の鬼門除けとして寄進したもので、現存の観音堂は文化十一年(1814)の再建である。
 寺内には次のような市指定文化財がある。
  建造物 観音堂(屋根の三ツ石紋は土屋家の家紋)
  書 跡 佐久良東雄書「聖観音」木額
  史 跡 佐久良東雄夫妻の墓 木原老谷の墓 大久保要の墓・照井
  工芸品 石造燈籠
               昭和六十年三月            土浦市教育委員会

 このほか、境内には室町期の灯籠や、延享元年(1744)銘の大きな宝篋印塔がある。
 この観音堂の「聖観音」と記した草書の木額は、この寺の住職で平田篤胤門下の著名な歌人でもあった佐久良東雄の書である。彼は、桜田門外の変で水戸浪士を匿って、捕らえられた江戸伝馬町で絶食死の後、南千住の回向院に埋葬され、後、昭和7年に当寺に転葬されている。佐久良東雄は文化8年(1811)新治郡浦須村の郷士の長男として生まれ、25才で当寺住職、32才で平田の門人となり翌年還俗し、35才で京に上り尊皇運動に参加、安政の大獄が起こると討幕運動に奔走し、万延元年(1860)伝馬町の獄で死去している。

<名水照井の井戸>

 石段の下左手に、年中絶えずに清水が湧き出るという井戸があり、曾ては水戸街道や鹿島街道・鎌倉古街道を通る旅人達の喉を潤した名水だという。地元の人がペットボトル持参で汲みに来るらしい。この水を城内まで木樋で送っていたそうで、土浦における上水道のはしりだとか。

  
 土浦市指定文化財
    史跡 照井の井戸
 古くから水量が豊かで衰えたことがない名泉である
 鎌倉街道にも近く水戸街道ぞいにあるので旅人の憩いの場であったろう
 寛文年間(1661)から土浦城内に水道(樋)を通し歴代藩主がこの井戸を保護してきた
           土浦市民憲章推進協議会
           土浦市文化財愛護の会


真鍋宿通りの古い町並み(10:34)

 真鍋宿は細い旧道にも拘わらず車の通行が多いが、その間隙をぬって古い佇まいの宿風景をカメラに収めた。街道歩きの醍醐味をたっぷり味わえる瞬間である。

ゴシック様式の重文校舎と筑波街道分岐(10:39)

 街道(真鍋四つ角)に戻り、坂下から道が急な登り坂に変わる。道の両側に格子入りの旧家が続き、旧街道の趣が引き続き感じられる。足のギアを入れ替えてぐんぐん坂を登り切ると、「土浦一高前」信号に出る。右が県立土浦第一高校(旧県立土浦中学校本館)で、本館は明治30年県の尋常中学校土浦分校としてスタートし、同33年に独立して県立土浦中学になった名門校の建物である。

 荘重なゴシック様式で国の重要文化財にもなっているが日曜日で職員の姿も無く、断りようもないので外から見るだけだが、フェンスがあって角度的に写真も撮りづらいのが残念である。文献の写真で見るこの建物は、明治37年、若干26歳の駒杵勤冶氏が設計した木造平屋建洋風建築で、氏の設計施工した建物は殆どが重文に指定されているそうだから凄い。旧正門前は筑波街道との分岐点でここに往時は「道標」があったが、今はなく、先刻土浦城内の市立博物館の傍に「真鍋の道標」として移されているのを確認したばかりである。左手の細い道を入ると筑波山神社へ通じているそうだ。

 その先右手の道が旧道で土浦厚生病院の方へ入っていく。

水戸街道松並木(10:53)

 この先三つ目の信号から国道125号を左に分け、右に入る旧道へと入っていく。前を同じ街道歩きと覚しき男女が歩いている後を追いかけるように進んでいくと、急に閑静な歩きやすい旧街道になりほっとする。
 10:52、右手に「市指定史跡水戸街道松並木」と書かれた解説板が建っている所で件の男女に追いついたが、聞くと我々と同じ区間を歩いている老夫婦だった。

               
市指定史跡 水戸街道松並木
                        管理者 土浦市
                        指 定 昭和四十六年(1971)七月十三日
 江戸時代の初め、徳川幕府は全国の主要道路整備の一環として、水戸街道をつくった。水戸街道は五街道に次ぐ重要など迂路の一つであった。
 この街道は、千住から土浦を通り、水戸までの約三十里の長さである。街道筋には一里塚が築かれ、宿場が設けられた。
 街道には、通行人を暑さ寒さから守るために、松が植えられた。現在はわずかにこの板谷地区に残るのみとなった。
               平成十六年(2004)三月
                              土浦市教育委員会


板谷の一里塚(10:58)

 右手にある厚生病院の先、道を登って少し下りになった辺りの街道の両側に「板谷の一里塚」が残っている。東海道などで見慣れた高く盛り上げられた怩ェ道の両側にあるのはこの街道では大変珍しい。円墳形の築山は形も良く、何とも美事である。

            
市指定文化財 史跡 
               板谷の一里塚
                        指 定 昭和四十六年(1971)七月十三日
 一里塚は、慶長七年(1604)に江戸幕府が全国の主要街道の両側に築いたもので、土浦市内を縦貫する水戸街道にも、江戸日本橋を起点として一里ごとに設けられた。柄の上には榎を植えて旅人の憩いの場とし、道のりを測る目安ともなった。一里は三十六町を指し、現在の約四キロメートルに当たる。
 この板谷の一里塚は、日本橋から布川を経て二十里の位置にある。かつて土浦市内には、南から荒川沖、原ノ前、大町、板谷の四ヶ所に一里塚があった。板谷に次いでは千代田の一里塚と稲吉宿に続く。
 現在、水戸街道の一里塚の多くが失われている中で、街道の両側に残る一里塚としてこの史跡は極めて貴重である。
               平成十八年(2006)二月
                              土浦市教育委員会


 11:05、その先左手の新しい道標が、水戸まで44km、東京まで76kmと示している。また、水戸街道松並木に関する解説板がまた街道左手にあるが、こちらの方が10:53に見たものよりも6年程古い設置である。

               
市指定史跡 水戸街道松並木
                        管理者 土浦市
                        指 定 昭和四十六年(1971)七月十三日
 江戸時代の初め、徳川幕府は全国の主要道路整備の一環として、水戸街道をつくった。水戸街道は五街道に次ぐ重要など迂路の一つであった。
 この街道は、千住から土浦を通り、水戸までの約三十里の長さである。街道筋には一里塚が築かれ、宿場が設けられた。
 街道には、通行人を暑さ寒さから守るために、松(クロマツ)が植えられた。現在はわずかにこの板谷地区に残るのみとなった。
               平成十年(1998)三月
                              土浦市教育委員会


6号線越え

 国道6号と交わる手前から跨道橋が前方に向かって伸びている。旧道は前方で2本に分かれ、左側は国道越えで向こう側へ繋がる車一方通行の道で、右側は国道から降りてくる車のこちら方向への一方通行路になっているので、左の跨道で越えるルートを進む。
 国道を越えると、やがて土浦北端の「中貫宿」の落ち着いた街並みに入っていく。

中貫宿

 土浦宿〜中貫宿は1里6町(約4.6km)。 現在の茨城県土浦市中貫にあたる。宿場町は、南北に500メートル程度の短い範囲内にある。本陣が残されているが、宿泊を常とする本陣ではなく、休憩本陣という余り例のないものだった。本陣のほか、問屋兼旅籠の古田屋、旅籠専門の富島屋ほか1軒、馬宿2軒があった。
 土浦藩領最北端の宿場で、特徴としては「荒川沖宿」と同様に片継ぎの宿、即ち、下りの荷物や人のみを稲吉宿へ送り、上りは一つ水戸寄りの「稲吉宿」が中貫を通り越して土浦宿まで送っている。

中貫宿の道

 国道から1本左に離れているため基本的には静かな道だが、バイパスのように車も結構多い。
 中貫は現在の水戸街道6号線の中でも渋滞で有名だそうで、しかも工場地帯が近くにあり、ダンプ等が旧道をバイパス的に利用するせいで、旧道にも拘わらず車が多い区間なので街道ウォーカーは注意を要する。
 ただ、風景的には街道の左右共に寄棟造り、瓦葺き(おそらく昔は茅葺き)の家が多く、立派な門などを備えた農家が並ぶ町並みで、艶消しの交通量とはアンマッチである。

鹿島八坂神社(11:17)

 詳細は不明だが、御祭神は、武甕槌命と素盞嗚命で、社伝によれば創建は延喜元年(901)というからかなり古い。享保9年(1724)12月銘の施主浄念の手水石がある。明治初年の大火で炎上したが、同7年に再建、同15年4月に村社に列格している。大正3年には村内稲荷神社を合祀し、昭和7年に本社再建。同27年10月24日宗教法人設立という歴史を持っている。

 小さな本殿・幣殿、入母屋造りの拝殿(7.5坪)があり、境内の左手には、灯籠・手水石・明神鳥居・忠魂碑・数基の祠・庚申塔などがある。奥にある「中貫のエノキ」の大木が見事で、市の指定名木古木になっている。
 毎年旧暦九月十九日の祭礼には蛇の注連縄が鳥居に飾られるそうだ。

 参拝を終わって街道に戻っていたら、先刻の街道歩きの夫婦ずれが街道を通り過ぎていた。歩きそのものは我々の方が早いが、立ち寄りが多いため結果的に前後しながら歩いているようだ。

中貫宿本陣(11:21)

 本陣は宿の中程左手にある富嶋酒店の向かい側(街道右手)の「本橋家」で左右に長い塀を廻らした高い大きな高麗門を構えている。門内左手に黒瓦葺の土蔵、庭の奥に唐破風造りの玄関式台のある母屋があり、馬小屋、釜屋等もあって本陣建物の特徴がよく残っている。この本陣建物は、天狗党の中貫宿焼討ちに遭い、元治元年(1864)に再建されたもので、当主の本橋氏は農業を営んでおられる由。

 水戸街道で現存する本陣は、このほかには取手宿の「染谷家」と稲吉宿の「坂本家」の2ヵ所しかない。天狗党には、ここ中貫宿のほかにも、土浦の真鍋宿も襲われているし、府中宿(石岡)でも160軒ほど焼き打ちに遭っている。
 なお、中貫には「富島」とか「富嶋」姓の家が多い。

            
市指定文化財 建造物 
               中貫宿本陣
                        指 定 昭和四十六年(1971)七月十三日
 この本陣は、江戸時代に水戸街道を往復する大名が休息するための小休本陣である。
 建物は元治元年(1864)天狗党の焼き打ちで消失後、すぐに再建されたもので、取手宿・稲吉宿の本陣と並ぶ貴重な建物である。
 主屋部分は、正面間口七間半・奥行五間半、寄棟造茅葺平屋建で一部に中二階がある。
 現在、屋根は茅葺きを銅板で覆っているが、主屋の正面に張り出した唐破風造りの二間半の式台付玄関など、本陣建築を今に残している。
(以下、見学についてのお願い事項の記述部分については掲載省略)
               平成十四年(2002)三月
                              土浦市教育委員会


かすみがうら市(11:30)

 やがて「ココス中貫店」が左手にある所で右後方からの国道6号に合流し、少し先から「かすみがうら市」に入る。霞ヶ浦町と千代田町の合併で誕生した市で、ひらがな名にしたのは千代田町への配慮と思われる。
 ここからは、しばらく単調な国道歩きが続く。約2kmぐらいあっただろうか。

昼食(11:40〜12:06)

 国道に合流した先の右手にラーメン店があったので、お得意のサーカス渡りで国道を横切り、入店・昼食とする。セルフサービスの店だったが、板前が一人で孤軍奮闘していた。

陶陶酒の工場

 再びサーカス渡りで国道左側歩道に戻り進んでいく。途中、まむし酒で有名な「陶陶酒」の千代田工場が左手にあり、その入口が陶陶酒サービスセンター(お休み処)になっているので、日曜日でもあり9分どおり諦めていたが、やはり閉まっていて残念。

稲吉宿へ

 ココスのあった中貫の先の国道との合流点から下稲吉宿入口までの国道区間はちょうど2kmあった。陶陶酒の工場の先の下り坂を降りて国道を右に分け、稲吉宿への旧道入口から左方向へと入っていく。

下稲吉の一里塚跡

 左手に小さな道祖神のような石仏があり、その先、ようやく左手に「下稲吉の一里塚跡」の標識が崖のような小高い場所に建っているのが見えるが、それ以外は何も見えず、単に場所を指しているだけである。。

稲吉宿

 稲吉宿は、閑静というよりひっそりしている。下稲吉十字路の手前左手に、大正5年立太子記念の碑がある。そこから少し行った下稲吉十字路付近に宿がある。
 稲吉宿は、中貫宿から30町、府中宿から1里30町の位置にある。宿には本陣・脇本陣があり、本陣「坂本家」の建物は今も立派に保存され、一般の建物よりも一段高い所に建てられている。脇本陣は本陣の真向こうにあったそうだが、現在では撤去されている。
 宿の開設は万治年間(1658〜61)と言われ、本陣、脇本陣、問屋場、旅籠17。本陣、旅籠の建物も現存するなど、旧街道の趣をよく残している。

本陣坂本家(12:35)

 道の右手に本陣の坂本家が現在も立派に保存されている。門・玄関共に堂々たる本陣造りで、周囲の一般民家よりも一段高くなっている。玄関屋根の上部には、領主の本堂氏の定紋笹りんどうが付けられている。その向かい側には脇本陣があったとのことだが、今は現存しない。表札が出ており、現在も所有者が住んでおられる様である。

               
稲吉宿本陣
 本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところで、水戸街道で残っているのは、取手、中貫、稲吉だけである。
 本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣つくりと称して門、玄関、上段の間を設けてあり、玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」がつけられている。ちなみに当時、向側には脇本陣があった。
     千代田町指定文化財(史跡)
               昭和四十六年八月
                              千代田町教育委員会


旅籠皆川屋跡ほか(12:37)

 隣に旅籠皆川屋跡(木村家)の建物がある。

               
木村家住宅
 下稲吉は、稲吉宿と称して江戸時代水戸街道の宿場として栄えたところである。
 当時本陣や十七軒もの旅籠が軒を連ねて、大名一行をはじめ旅人遊客で大分賑わいを呈していたといわれる。
 旅籠「皆川屋」は江戸時代末期の建築で、桁行八軒二階の総瓦葺という堂々たる構えをみせている。広い土間と板縁、上がりはなの階段、勝手、出格子、腰高障子、仕切り戸などが旅籠らしい。
 二階に上がると、客間の壁には墨痕も鮮やかに、遊びすぎて支払に窮した思案の落書きや愛しい女達の名前が記してあるのも面白い。
 旅篭「皆川屋」は水戸街道に残る唯一の旅篭である。
     茨城県指定文化財
               昭和四十九年十一月二十五日
                              かすみがうら市教育委員会


 稲吉宿には大きな家が多く、左手の「坂本家」は敷地内に4軒建っている。右手の千代田七会郵便局横の「畠山家」、その先右手の黒い板塀のある内科小児科の「太田医院」、香取神社前の「宮本家」など、立派な家が結構多い。中貫宿とは異なり、農家風の大きな家は少なく、立派な門構えの豪邸が多い。

香取神社前の道標(12:42)

 左手に長い杉木立の参道の入口がある香取神社の前(街道右手)に「道標」を発見する。
「清水、中貫、真鍋ヲ経テ土浦町ニ至ル」「土田、市川ヲ経テ石岡町ニ至ル」等と刻まれている。

稲荷神社・日本武尊・稲吉の地名由来

 左手の「香取神社」は参道が200m位ありそうで、街道への戻りのショートカット可否が不明な上、特別な鑑賞ポイントもありそうにないので立ち寄りは割愛し、先に進む。
 稲吉という地名は、太古の時代、日本武尊が東征の折、当時は大海だった霞ヶ浦から入江を辿ってこの香取神社の場所に上陸したという。その折、休息用に集めさせた稲藁で作った寝床が大層気に入り、「よい稲だ」と賞めたことから「稲吉」の地名が起こったと伝承されているそうである。

 坂を下って行くと稲吉宿も終わり、のどかな田園風景が広がってくる。

馬頭観音などの石仏

 右手高台に大正元年の馬頭観世音菩薩ともう一基の石仏がある。

上土田地区

 坂道を今度は登って行くと、左手の元千代田町役場がある。現在は合併して「かすみがうら市千代田庁舎」になっているが、そのほか、左手の市消防本部や農業研修センター等が点在する地区を通っていると、クリーニング店向かい側(街道左手)に立派な長屋門のある家(飯沼家)があり、その立派さに感嘆させられる。
 13:06、その先の岩井酒店の向かい、街道右手にある長屋門も立派である。

観音寺

 集落の外れ、県道53号と交叉する信号の手前左手には「厄除不動尊」や「菩提山観音寺」という寺が建ち、山門前には左右に分かれて六地蔵が並んでいる。山門を潜ると本堂は正面だが、左手に小さな堂宇があり、その前に次のような解説板が建てられている。

 
当、真言宗土田観音寺境内には昭和四十六年八月、千代田村教育委員会指定の有形文化財木造「不動明王像」がある。
 この木像は、檀家の鈴木家に代々伝わったもので像高五十センチ、台座九センチの立像。黒の裳裾に大柄な金箔絵が施され、作柄から鎌倉末期のものと推定されている。
 別称「波切不動」とも呼ばれ、特に忿怒の形相、腰の捻り等に特徴があり、貴重な文化財の一つである。なお、安置している新堂宇は、昭和五十九年、当観音寺主催の弘法大師千百五十年祭記念事業に際して、檀家の浄財によって成ったものである。
               平成元年十月八日
                              千代田村教育委員会


下土田地区

 市庁舎の先は下り坂になり、のどかな道だが、案外アップダウンが多い。千代田町は観光農園で有名で、果樹園が多いようだ。
 ここも上土田と同じく立派な家並みが続いているが、豪農らしくもなく一体何で繁栄した地域なのかみんなで疑問を抱きつつ歩いていたが、左右にある果樹園の看板を次々と見て、何となく納得した次第である。
 この先「下土田北」信号で右後方からの国道6号と合流するが、厳密には信号を渡って国道右手の細い側道に入る。その先は千代田石岡I.C.になる。

千代田(西野府)の一里塚とI.C.越え

 「千代田の一里塚」へ行くルートは些かややこしいので、先輩ウォーカーの忠告に従って進むこととした。理由は、千代田石岡I.C.の真ん中に一里塚だけ取り残されているからである。
 すなわち、
(1)「下土田北」信号で、右後方からの国道に合流すると、国道右手の細い側道に入り、暫く進んで川の手前を左折して国道下を潜り、国道左手の側道をそのまま前方へ進む。
(2)潜ってから100m弱で国道6号から左手に見える常磐自動車道I.C.に繋がる誘導道路(連絡道路)の下を潜るように右折し、左方向に上がって行くと、再び国道6号の左手歩道に出る。
(3)その歩道を少し進むと、左に一里塚への石段と標識が立っている。
(4)塚の上には石碑が立っているが、石段の先は道なき道を登ることになる。
(5)帰りは、先ほどの(3)の末尾の場所まで戻り、今度は国道6号と直角に頭上を通る誘導道路の下を通る北東方向への歩道橋でほぼ国道左側を進み
(6)もう一つの誘導道路上を歩道橋でそのまま越え、右に曲がって、先の国道6号の左手歩道につなげる。

・・・という手順だったのだが、(1)から(2)にかけての国道下を潜る場所が判らない侭、一里塚への標識を左手で見るはめになり、やむなく危惧する仲間たちに声を掛け、国道の往復2車線をお得意のサーカス越えで渡ってしまった。

 登りの石段から始まり、最後は登山さながらの急坂を登り切った所に「指定史跡 千代田の一里塚」の真新しい石碑と一本の木に到達(13:36)し、インターチェンジの周囲を見渡した。それにしても、時代の流れは、史跡をこんな所に追いやってしまったかと、つくづく感慨無量の心地だった。

志筑城・志筑藩

 このI.C.の西北の地「中志筑」に往時「志筑城」があった。慶長6年(1601)徳川家康から当地で8,500石を与えられた本堂氏が陣屋を構えていたが、石高の割に大きな仕事を与えられ、内情苦しきがために領民の負担も大きく、屡々農民一揆に遭っていたという。明治維新の折、東征軍助力の功により1万110石の大名に列せられたが3年後に廃藩置県となっており、城跡は「志筑小学校」敷地になり、周囲には土塁が廻らされている由。8千石以上の旗本は全国で6人しかいなかった。

旧道へ

 その先「新治小入口」信号で左前方への旧道に入り、市川の集落を通っていく。集落の外れから、長いゆるやかな旧道を気持ちよく下っていくと、「恋瀬川」の少し手前、左手にJAや旅館奈良があるすぐ先の右折路を右へ曲がり再び6号に合流する。
 その合流箇所に、立派な休憩所ができており、一休みしたが、傍らには立派な解説板が3枚もあり、また、旧恋瀬橋も保存されていて、なかなかの見物である。

<解説板その1>・・・「いにしえの街道を想って」
<解説板その2>・・・「かつての東海道から陸前浜街道、そして一般国道6号へ」
<解説板その3>・・・「恋瀬橋の諸元」
 これら3枚の掲載内容は全て写真に納めたが、長文につき掲載は略す。

旧恋瀬橋

 傍らに保存されている旧恋瀬橋は、昭和十六年十一月の銘が刻まれている。

               
旧恋瀬橋
 本橋は昭和六年に完成をみ、爾来、七十年の永きにわたり一般国道六号の重要な橋のひとつとして、その役目を果たしてきました。
 時は移り、平成十三年、老朽化に伴う新恋瀬橋の建設により、旧橋はその役目を終えました。
 この歴史ある旧恋瀬橋のありし日の面影を永くとどめるため、ここに親柱と欄干の一部を残したものです。
               平成十四年三月吉日


 「恋瀬川」という粋な名前の川に架かる新「恋瀬橋」を14:13に渡り、前方に見えてくるY字分岐(左に上がる355号と右に別れる6号との三叉路)を左の355号へと入って行く。
 するとどうだろう。19日〜21日の三が日は車両通行止めになっていて、一同車道の真ん中を悠々と石岡の市街地へ向かっていく。

府中宿

 間もなく、「国府7丁目」信号で左の落ち着いた雰囲気の府中宿(石岡)の街並みに入る。府中石岡は、別途清水・村谷両氏と共に歩いている「古代東海道ウォーク」(但し、相模国府以西)の終着地でもあり、その意味でも楽しみな所である。

 稲吉宿〜府中宿は1里30町(7.2km)。次の竹原宿へは1里9町(4.9km)である。現在の石岡市国府・府中にあたる。宿場町は、南北に1キロ弱の範囲で広がり、宿場の北端には岩間街道との追分がある。府中は、律令時代における常陸国府所在地(現代の県庁所在地)であり、総社、国府跡、国分寺・国分尼寺跡など、国府に共通な史跡の全てを揃え持つ古い町である。平安時代、この地に勢力を伸ばしたのは桓武平氏の一族だった平将門の叔父、平国香だが、将門は天慶2年(939)国香を倒し常陸の国府を攻略した(天慶の乱)。また、常陸国府中藩(石岡藩)の城下町でもあり、水戸街道は国府や陣屋の東側を通っていた。

 常陸府中の町は今から1300年前の天平時代(奈良時代)の国分寺建設時期から始まっているが、市街は度々大火に見舞われ、街道筋には江戸時代の建築物は殆ど残っていないが、昭和4年3月14日の大火後の復興で建てられた建築などが独特の景観を見せている。この時の火災では中心部約600戸が焼失し、3千人が焼け出されている。この火災時には、消防隊は元よりだが、土浦航空隊・水戸工兵隊まで出動したが前記大災害になった由。
 府中藩は石高2万石の城下町。初代藩主頼隆は家康の孫(水戸徳川家の初代頼房の五男)・水戸黄門の義弟ということもあり、参勤交代は免ぜられ江戸小石川の上屋敷にいることが多かった。このため、家臣も約200人程度しかおらず、府中と長沼に陣屋があっただけで、郡奉行・代官・吟味役・買物役らが住み込んでいた。しかし、往時の本陣も町並みも焼失を繰り返したためその遺構を見ることはできないが、「石岡小学校」の敷地内に陣屋門が保存されている。文政11年(1828)江戸小石川の藩邸が類焼し、新築の際その余材を当地に搬入して建てたもので、元は市民会館前にあったが交通事情で現在地に移されている。
本陣の所在は常陽銀行石岡支店近のヴィオレというパン屋の辺りだったと記録に残されているだけである。なお、「石岡」の名前は明治期以降のものである。

超ビッグな石岡祭り

 街道を北へ突き当たってクランクを右折すると、先ほど分岐した「中町通り」に合流し、左折する。すると、どうだろう。ここからが府中宿場の中心街だが、行く手に神輿や人だかりが見え、歩き行く程に人出も笛太鼓の音色も喧噪になり、本格的な「石岡祭り」の渦中に巻き込まれる。
 時刻は14:20過ぎだが、これからが盛り上がる時間帯らしい。
 通りの右手にある小さな神社がしつらえられ、「常陸國總社宮」の木製社号が取り付けられた建物に向かって、善男善女達が行列でなにやら順番を待っている横を通り抜け、更に人混みの渦中へと中町通を進んでいく。

<石岡のお祭り>

 歴史に富む府中の名を更に高めているのが「石岡のおまつり」(常陸國總社宮大祭)である。毎年9月14日から16日の3日間に行われる総社の例祭だが、営業上敬老の日にからむ3連休に開催されるようで、今年(平成21年度)の場合は9月19日〜21日開催で、千葉県「佐原の大祭」、埼玉県「川越まつり」と共に「関東三大祭り」の一つとして名高い。今日がその中日ということで、ある意味でラッキー、ある意味でアンラッキーな巡り合わせとなってしまった。

 「石岡のおまつり」は正式には「常陸國總社宮大祭」と言い、天下泰平・国家安穏・萬民豊楽・五穀豊穣等を願う祭礼である。格式高い神輿をはじめ、絢爛豪華な山車や勇壮な幌獅子など40数台が市中心部を巡行し、期間中の3日間で約40万人もの見物客が訪れるという。
 この「石岡のおまつり」は、1年交代による年番町を中心に行われている。年番町は,おまつり終了時に次の年番に引き継ぐ迄の1年間、神社への奉仕に努める役目を負い、この年番制度は明治35年から始まって現在に至っている。
 この明治35年から始まった制度は、当時の石岡町の守木・大小路・土橋・金丸・守横・富田・仲之内・宮下・青木・幸・國分・若松・泉・中・香丸・木之地の16町内が各年毎に交代でその年のおまつりの年番になり、年番になった町内には「御仮殿」が設けられ、その年の中心的な役割を果たすことになっている。(木之地は昭和27年に辞退し、現在は15町内になっている)。平成21年の年番は森木町になっている。

 この祭りの中心が「常陸国総社宮」だが、今回は立ち寄りを省略し、「常陸国府跡」「常陸国分寺跡」「常陸国分尼寺跡」「府中城跡」「石岡城跡(外城)」「茨城廃寺跡」等と共に、いずれ来る予定の「古代東海道ウォーク」の際に立ち寄り若しくは参拝予定だが、「総社宮」について簡単に触れておく。

<総社宮とは>

 往時、各国に国府が置かれた時代,国府は政治・文化の中心地として重要な所で、国府の長官として国司と呼ばれる者が配置された。その重要任務の一つに国内の神社管理と祭事の運営とがあり、国司が新たに就任すると、国内の各神社を訪れて神々を参拝する「神拝」という行事がありったが、この「神拝」を簡略にするために国内各神社の神々を一同に集めて祀った所が「總社」である。
 常陸国の場合、総社宮は天平年間の創建と言われ、天神地祇の六柱が祀られているという。六柱の祭神とは、
   ・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)    ・素盞嗚尊(すさのおのみこと)
   ・瓊々忤尊(ににぎのみこと)     ・大国主尊(おおくにぬしのみこと)
   ・大宮比賣尊(おおみやひめのみこと) ・布留大神(ふるのおおかみ)
で、それぞれ東・西・南・北・天・地として国の全部を網羅し、国内の全ての神々を表している。
そして、境内には十二の末社があり、常陸国の主な祭神が全てここに祀られている由。

 祭りに気を取られている内に立ち寄りを忘れる所だったが、左手の守木町郵便局を過ぎ、その先のNTT石岡の場所を確認してから、その手前を左折して「清涼寺」へ行く。

清涼寺

 街道入口の標石は「清涼禅寺」、山門には「市中禅林」の扁額が揚げられているが、事前の想像とは大きく異なる外観で、墓地がやたらと目立つ感じの寺である。

 ここ府中の町や寺院は天正18年(1590)に大掾氏が佐竹氏に攻められ、府中城消失の際、殆どが消失している。清涼寺は大掾高幹が元徳2年(1330)に尼寺が原(現・府中小学校横の国分尼寺の地)に建立したものを文明12年(1480)ごろ現在地に移したもの。府中城落城(1590)時に焼失し、その後府中城主になった佐竹(南)義尚が菩提寺として文禄元年(1592)に再建した。徳川家康による秋田転封の折、南義尚は秋田の湯沢に移され、清涼寺も湯沢に移った。佐竹氏が秋田(出羽)に移封されたのが慶長7年(1602)なので、当地で清涼寺を菩提寺とた期間は約10年間だった。このため石岡の中では数少ない佐竹氏ゆかりの場所になっている。禅寺の入口戸には、佐竹氏の家紋(「月丸扇(日の丸扇)」)が見られる。

 現在の清涼寺は曹洞宗の禅寺で「興国山清涼寺」号し、文亀元年(1501)に曹洞宗に改宗して、大本山永平寺開山道元禅師十六世法孫寒室永旭大和尚を請して清凉寺開山としている。
 左隣には先刻仲町通りから見えた「国府公園」が広がっている。

 境内にある「勇壮之碑」は、明治30年代、日本最大かつ最速の新鋭船として欧州航路についていた6,172tの常陸丸遭難碑である。明治37年の日露開戦と同時に陸軍御用船となり、同年6月15日、1,063人の承平を乗せて中国へ向かう途中、ロシアの軍艦砲撃により沈没、千人以上が最期を遂げたが、その中に当地石岡の関係者も含まれていたという、悲しい歴史の爪痕である。

 清涼寺の横、裏手は沢山の墓があり、旧府中藩縁のものも多く置かれ「府中藩最後の家老岡部為綱の墓」もある。裏手の墓地から旧府中城を望むと、現在はすぐ目前にスーパーが建てられ、その先に旧府中城の土塁跡と思われる茂みが確認できる。
 なお、南隣に「国府公園」があるが、歴史的には何の意味もないようでパスした。

               
曹洞宗格地興国山清凉寺
   本尊:虚空蔵菩薩
   創建:文亀元年(1501年)10月
   開山:寒室永旭大和尚(文亀6年10月18日寂)
   開基:佐竹左エ門義尚(清凉寺殿無外徹公大禅定門)
   本寺:常陸太田市耕山寺
   末寺:北浦金仙寺(当山二世淳室宗朴大和尚)
  (下寺):石岡平福寺(当山三世笑山芳ァ大和尚)

宝物
 釈迦如来涅槃画・大般若経六百巻
縁起
 創立年代は元徳二年(1330)で最初は尼寺ケ原に有り国分尼寺の一大伽藍の一つであった。
 開基は大掾十郎高幹(興国寺殿凉峰浄清大禅定門)であったが文明12年(1480)に現在地に移転した。
 文亀元年曹洞宗に改宗して、大本山永平寺開山道元禅師十六世法孫寒室永旭大和尚を請して清凉寺開山とした。
 所が天正18年(1590)12月佐竹義宣公は一族の伯父義尚を府中に配置し府中城に攻めいった。
 その時大掾清幹は防ぎきれなく清凉寺は焼失した。
 文禄元年(1592)佐竹義尚が清凉寺を再建し中興開基となった。
 山門に「市中禅林」の扁額が揚げてあるが、これは昔地方の雲水(修行僧)が集まって修行した僧堂をあらわしている。


 茨城廃寺の礎石がこの寺の庭にある。

     
          市指定文化財(昭和55年6月27日指定) 茨城廃寺礎石(考古資料)
 この礎石は、円柱座造出をもつ古い形式で、茨城廃寺の主要建造物の土台石に使用されていたものである。
 茨城廃寺跡は、石岡市貝地二丁目に所在する古代寺院跡である。昭和54年から三次にわたる発掘調査により、約一町半四方の寺域の中に金堂・塔・講堂などの遺構が確認され、8世紀初期の寺院跡であることが明らかにされた。
 また、発掘調査により出土した遺物の中に「茨木寺」「茨寺」の墨書銘のある土器が発見され、この寺は茨木寺とよばれていたことがわかる。
 この礎石は、寺院廃絶後ここに運び込まれたものであろうが、古代寺院を知る資料として貴重なものである。
               昭和60年2月
                              石岡市教育委員会
                              石岡市文化財保護審議会


<茨城廃寺とは>

 先刻通過した「石岡守木町局」の交差点を東進し、県道118号(高浜街道)を行くと国道6号と「貝地」信号で交差し、最初の右折路を右折すれば左手先に「月天宮」があるが、右折せずに直進し(方向は東南へカーブしている)、左手に「木間怎a[タース」右手に「原田商店」がある信号(貝地のT字路と言われる場所)があるこの交差点のすぐ右脇にある細い道(小さな車は通れるが、大型車は無理)を進んだすぐ先に「茨城廃寺跡」の看板がある。
 ただ、今日は祭りでありとても立ち寄りは困難である。
 畑と住宅などになっているその先の道を曲がって竹やぶなどの脇道を進むと坂を下った所に「小目代公民館」と小さな神社がある。そこが「茨城廃寺跡」で、市指定有形文化財「茨城廃寺の礎石」が残っている。茨城廃寺の礎石はこの他、「清涼寺」の庭にも残されている。そして、「清涼寺」へと左折する「中町通り」の電柱に「市指定文化財 茨城廃寺礎石(清涼寺)」の横看板が取り付けられているのを発見している(14:38)。

 律令時代の常陸国は11郡に分かれ、石岡地方は茨城郡と呼ばれていた。各郡毎に郡衛が置かれ、それぞれ寺院も存在したという。茨城廃寺跡は昭和54年から3次に亘る発掘調査でその規模が明らかにされた。建立時期は国分寺に先行する8世紀初期と考えられ、伽藍配置は、塔と金堂が東西に並び、北に講堂が位置している法隆寺式で約1町半四方の規模を有していたことが明らかになっている。発掘された土器の中には「茨木寺(ウバラキデラ)」「茨寺」の墨書銘があり寺院名が記されているケースは当時の寺院の中では全国的にも数少なく、非常に貴重なものとされている。国分寺・国分尼寺が建立される前の寺院は茨城郡ではここだけである。

 茨城廃寺跡と高浜街道の反対側に地元ロータリークラブが立てた茨城廃寺の五重塔の露盤が置かれている。茨城廃寺の五重塔十の基壇は東西12.2m、南北11.5mであり、釘など一切用いない五重塔には塔の最頂部に露盤という心柱を通した石材の重さで重心をつけていた。ここに置かれている露盤は当時のものを再現したものと思われる。

 この寺の名前は「ばらき」または「うばらき」である。茨城県の名前の発祥の地としての有力候補地でもある。高浜街道沿いのスーパーの前の道路沿いに「茨城県の茨城の地名発祥の地」という解説板があり、殆ど字がかすれ読み取り難いが、常陸風土記に書かれている内容を紹介している。即ち、香島郡(かしまのこおり)に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命(くろさかのみこと)が住居穴を茨(うばら)をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。このことから茨城の名がついたとの内容である。

金毘羅神社(14:40)・・・石岡市国府6丁目2番

 清涼寺のすぐ先左手にある。
 平安時代中期、平高望王が国府に着任以来、平氏縁の神社として崇敬され、江戸時代の石岡(府中平村)が浜街道として賑わっていた当時、海の守り神として銚子から平潟へかけ海浜関係者の崇敬による講中等で賑わった。明治以降も「笠間の稲荷か、石岡の金刀比羅さまか」と言われ、毎月10日は「月の十日はこんぴら様よ、さあさ行きましょ、お祭りに」と大勢の人が集まった。

 しかし昭和4年(1929)の石岡の大火で社殿が消失、翌5年に伊勢大神宮古殿舎の御賜材を使って再建したが、これも平成12年(2000)2月に不慮の火災で社殿を焼失、2005年7月から2年かけて2007年9月の石岡のお祭りに合せて新社殿が完成している。新社殿は、木曽桧を使い、屋根の重厚な曲線や木彫りの彫刻、はめ込まれた彫金の上には金箔が施された。また、車いす用のスロープが付き障害者や高齢者にも配慮した造りになっている。

               
国府平の森 金刀比羅神社
                            所在地 石岡市国府六丁目二番
 祭神は大物主神。大物主神は、山と森の木という自然の生命を御神体として鎮座することを特徴とする日本最古の歴史を有する神である。当神社の古称である「森」「森木」「守木」は、神社・神木・神垣の意味があり、古来から由緒ある神域であったことを伝えている。また常陸大掾一族、府中藩主松平家によって手厚い保護を受けるなど多大な崇敬を寄せられていた。
 文化10年(1827)、讃岐国象頭山(香川県琴平山)の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の御分霊を勧請して、「こんぴら信仰」のよりどころとして多くの人々の参詣を集めている。

◇大掾氏との関わり
 当神社は古くから「森」あるいは「森の社」といい、桓武天皇の曾孫平高望王が常陸大掾という官職を得て国府に着任して以来、常陸大掾平氏ゆかりの神社となった。鎌倉時代の古記録である「總社文書」には平氏の歴代の子女が祭主となって神役に勤仕していたとある。

◇エピソード〜大掾氏族が守る社
 ここ金刀比羅神社の地は古くから「森の地」といわれ、森木殿があり、森木寺や八大寺という寺院が付属していた。しかし天正16年(1590)、戦乱と兵火の中に巻き込まれ、森は壊滅し、長年にりたる当地を支配した常陸平氏も滅亡した。その後、平氏の後裔である別当八大院によって神社が復興され、大掾氏族の信仰を守り伝えている。
               平成二十一年二月       石岡市教育委員会


丁子屋・「まち蔵藍」(14:44)

 NTT石岡近辺は旧家然とした古風な家や洋館が多く、その先左手にある染物屋の「丁子屋」も昭和4年の大火を免れた現存する唯一の建物で、黒瓦・土蔵造り・木造2階建て、江戸時代末期築の染物屋である。現在は石岡市が借り受け、観光施設「まち蔵藍」として利用され、ひな祭りシーズンには雛段飾りや吊し雛などの見学者も多く訪れる。間口は広くないが奥行の長い地形の商家で、右起左行の横看板が歴史を如実に物語っている。大火以前の土蔵も残り、いずれも石岡市登録文化財に指定されている。

昭和初期の古い町並み

 その先右手には、昭和4年の大火直後に建てられた古い建物が結構多く見られる。
◎「福島砂糖店」(右手)〜昭和6年築。土蔵造りだが土壁漆喰ではなく、コンクリート黒塗りという珍しい造り。袖の出入口から奥の倉庫に向かってトロッコのレールが延び、各店とも奥が深い。
◎「久松商店」(右手)〜昭和5年築。当初は化粧品・雑貨。現在は喫茶店として営業中。
◎「十七屋履物店」(右手)〜昭和5年築、木造2階建の「看板建築」で壁面は銅版やモルタル・タイル張り
◎「きそば東京庵」(右手)〜昭和7年築、
◎「すがや化粧品店」(左手)
◎「森戸文四郎商店」(左手)など

旧遊郭街と水戸天狗党

 広い駅前通り「八間通り」の一筋南が「金丸通り」で、その通りの南側にある「鈴之宮稲荷神社」の隣に「紀州屋」をはじめ八軒の妓楼があり、藩から許され「新地八軒」と呼ばれる遊郭を形成していたという。その中で特に紀州屋の女将いく子は天狗党の若者の面倒を見たことで知られる由。
 天狗党というのは、水戸街道筋の各地で特に有名だった名前で、大抵は豪商を襲い略奪、放火を繰り返す、極めて迷惑な存在で、江戸時代末期、水戸の下級藩士を中心に結成された尊皇攘夷派の急進改革派グループである。保守門閥派と激しく対立し、元治元年(1864)年、攘夷延期を不満として武田耕雲斎・藤田小四郎を主導者とする一派がここ紀州屋に集結、筑波山において挙兵した。結局は幕府軍に追われ、加賀藩に降伏し、武田耕雲斎以下350余名が敦賀で斬刑に処せられている。


本陣跡 ・・・石岡市国府3−1−14

 街道右手で、石岡駅へと右折する手前角にセントラルビル、その手前に関東つくば銀行石岡支店、更に手前に順に水酉酒店、ヴィオレ(パン屋)と並んでいるが、そのヴィオレのある場所が曾ての石岡宿本陣矢口家のあった場所である。
 古地図には「水戸殿御殿守」とあり、その前の道を西へ入ると陣屋があった。矢口家は明治3年に焼失している。
 店の後ろの家の表札が「矢口」で、現在矢口家には家宝として徳川斉昭の直筆が残っている由。

 ただ、今日はこの辺りは最も混雑していて、ゆっくり確認することはおろか、通ることすら大変である。

観光案内所

 本陣跡の直ぐ先「国府三丁目」交差点で右折すると石岡駅に通ずる右角に市の観光案内所があったので、後日の為に諸資料をゲットし、本日の街道歩きを終了して、そこを右折して一層んざつの度を増す山車行列に逆らう形で石岡駅に向かい、駅の観光案内所にも立ち寄り、若干の追加資料をゲットする。

ゴール(15:10)

 漸く石岡駅に着き、駅前は打ち上げ場所を探すどころの騒ぎではなく、待機している山車群や人ででいっぱいなので、駅の売店で缶ビールなどを買い込み、15:31発の列車で帰途についた。

 小川氏持参の茹でたての落花生が麦酒の味を一層引き立ててくれ、乾いた胃の腑の満足感を弥が上にも高めてくれた。深謝!