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旧水戸街道餐歩記〜#7
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 2009.11.15(日) 水戸街道#7 奥谷バス停〜水戸 約12km+寄り道

<街道距離>

   奥谷−小鶴−長岡−吉沢−吉田−銷魂橋−水戸市・本町 12km (除・寄り道)

水戸街道歩き最終区間スタート

 きょうは愈々水戸街道歩きの最終回である。次第に自宅から遠くなることもあって、早めの時間帯に決着を付けようとの事前の申し合わせに基づいて、定例メンバー4人全員が常磐線「石岡駅」8:15到着の便で参集した。コンビニなどで買い物の上、駅西口にあるバス停3番乗り場から8:40発の水戸駅行きバスに乗車する。
 前回の街道歩き終着点である「奥谷」停留所に到着し、9:13、直ちに本日の、そして今シリーズ最終着地点の水戸市本町に向かって県道18号を歩き始める。

 「涸沼(ひぬま)川」を「高橋」で渡り、「小鶴」Y字路(信号)で県道を右に分け、左の旧道に入ると緩やかな「くの字」を描く「小鶴」集落に入る。小鶴は水戸街道の宿場町ではないが、個性的な佇まいを見せる魅力的な町である。

佐久間米店(9:24)

 「小鶴」集落は、300m程先で左後方からの道と合流し、「はせがわ歯科医院」の先で先刻別れた県道18号と再合流する迄の間、距離としては短いが、途中右手にある「佐久間米店」の建物が特徴的である。主屋は2階建ながら威風堂々たる建物で、左手にある蔵には庇看板を取り付けた亀甲模様の白壁と2階の唐破風のような庇や飾り窓があって見事である。

こどもや・中多屋旅館(9:25)

 その先隣に昭和3年築の古い洋館建の「こどもや」(おもちゃ屋)がある。ほのぼのとした大きな平仮名の看板が雰囲気にピッタリである。

 同じく、そのすぐ先の「中多屋旅館」も由緒ありそうな佇まいの建物である。

フルーツのヤスムラ

  その先で小さな橋を渡ると左からの道に合流し、右斜め前方へと進んでいくが、ちょっと先左手の「フルーツのヤスムラ」は、横長い茅葺屋根の建物を有しており「フルーツ」の言葉とアンマッチなおかしみを感じる。

諏訪神社(9:33)・・・東茨城郡茨城町小鶴1860

 その先左手の高台に、村社の諏訪神社がある。街道からはやや距離があるが、本日最初の神社でもあり参拝のため立ち寄る。格別な解説板などはなく、由来も不明だが。鳥居が二つあり、奥の階段を登ると真新しい社殿がある。最近の再築と思われる。

如意輪寺(9:39)・・・東茨城郡茨城町小鶴1771 

 その先右手には「稲荷神社」があり、また先左手に天台宗の「龍谿山如意輪寺」がある。常陸の国第六番霊場という。参道入口には赤茶色になった古い歌碑があり、「重ねてもここに小鶴の如意輪寺 みきりの松をしるべにはして 常陸國第六番霊場龍谿山西楽院如意輪寺」と刻んである。

 結構大きな寺で、壁に花灯窓を配し山門が後ろの控柱に小屋根を乗せた高麗門になっている。水戸十ヶ寺の一つとされる天台宗の古刹だそうだが、由来書などが無く詳細不明だが、本尊は如意輪観音像で、徳川光圀の寄進と言われている。本堂の建築は比較的新しそうだが、入母屋造りの端正な社殿である。

高岡神社(9:54)・・・東茨城郡茨城町長岡3−2

 その先「はせがわ歯科医院」の先で右後方からの県道18号と合流し、「涸沼前川」に架かる「長岡橋」を渡ると、すぐ右手に茨城長岡郵便局がある。涸沼前川はすぐ先で涸沼川に合流している。ここからまた右の旧道(県道180号)に入って行くと、右手に「高岡神社」がある。

 坂を上がったこの辺りが長岡宿の中心だったようだ。住宅街で商店は少なく、武家屋敷のような白壁塀をめぐらせた「水野家」の前に高岡神社がある。高岡神社は長徳元年(995)創建という歴史ある神社で、社殿は平成4年に改築されている。落ち着いた感じのする参道がある。

長岡宿

 長岡宿は水戸街道最後の宿場で、小幡宿から1里5町(4.5km)、ゴールの水戸本町までは2里8町(8.7km)ある。宿の中程には水戸藩の御殿があった。安政6年(1859)に水戸藩攘夷派数百人が集結し(長岡屯集と呼ぶ)、中心人物が桜田門外の変に関係した。近年まで松並木が残っていたといわれる。

長岡宿の町並み

 9:57、高岡神社の斜め向かいにある、左手の蔵の白壁の漆喰細工の模様がとても素晴らしい。白地にテトラポット型の紺の紋様が入った珍しい図柄で、今まで白壁の紋様に感心・感動払った経験もないが、これには惹きつけられた。水戸街道ならではの特色ではないかと思ったりする。

 その先にも、広い敷地に立派な土壁瓦屋根の塀に囲まれた豪邸があり、改めて感心させられる。

木村家住宅(9:58)・・・東茨城郡茨城町長岡229

 その先右手には長岡宿の脇本陣で、問屋(人や荷輸送)や庄屋を勤めていたという木村家が保存されている。安政4年(1857)の長岡宿の大火で消失し、現在の建物はその後建てられたもので、その後の改築はなく、鉋による仕上げ、総茅葺き屋根の建物が時代を感じさせる。最近茅葺屋根が補修された感じである。町指定史跡の標柱も建っている。

旅籠中えびす跡(10:02)・・・「総合衣料センターみくらや(吉沢家)」

  街道左手にある長岡小学校入口のすぐ先に「総合衣料センターみくらや(吉沢家)」という洋品店があるが、ここが曾ての旅籠「中えびす」跡である。「新編旧水戸街道繁盛記(山本鉱太郎著)」には本陣跡と書かれているが、これは間違いである。

 こここそ桜田門外の変を引き起こした尊攘改革派の水戸浪士らが屯集した旅籠だったのだ。店内には入らなかったが、檜柱には刀痕があり、集結した水戸浪士が意気余って斬りつけた「勇み刀」跡だそうで、狂気的血気ぶりが窺えるという。
 また、なぜか大リーグでも活躍した城島選手の福岡当時のミットとプロテクターがあるらしい。

<楠公社(水戸浪士の毛塚)>

 ここに至る途中、立ち寄らなかったが、先刻の街道途中の長岡坂下の変則十字路から東(右)に伸びる県道106号を500m程行った左手の長岡団地の丘に、楠正成を祀った「楠公社」があり、「水戸浪士毛塚」がある。水戸脱藩浪士ほかが水戸からの最初の宿である長岡宿の旅篭「中夷屋(現・みくらや)」に陣取り気勢をあげた。桜田門外の変決行の3ヵ月前のことである。この時同志らは髪を切って付近の地中に埋め、大老井伊直弼襲撃結盟の證とした。明治時代になり、長岡の住民が埋められた髪を掘って埋め替え、そこに塚と社を建て大楠公にあやかり「楠公社」として祀り、今日に到っているという。
 殺人という暴力で事を解決するテロ集団も、地元ではヒーロー扱いと見える。こうした身びいき感覚が自国を神国や偉大なる国家と錯覚した旧帝国陸軍やナチスの狂気に繋がるのだろうと思うと、あらためて平和・人権・人命の大切さを感じずにはいられない。

(株)柏屋肥料店(10:06)

 その先左手に、黒板塀・大きな屋根瓦、黒で統一された重厚な古い木造の旅籠風の建物がある。肥料・種籾など農業関係の販売店のようだが、なかなか歴史を感じさせてくれる建物である。

見事なシラカシの生垣(10:08)

 右手にシラカシの高い生垣が道路とは直角方向に横長の長方形で立っている。きちんと刈り取られているのも見事だが、驚いたのは何と根元が一本しかない。たった一本の木でよくぞここまで横長、しかも背丈も高い生垣ができるとは感動ものである。
 このシラカシは、サンゴジュ、イチョウと共にに三大防火樹の一つで、寺社等で大きなイチョウが多いのは非常に引火しにくい性質を利用した先人の知恵であることを知っているだけに、あらためて感動の思いで見つめ直したものである。
 そう言えば、長岡宿でよくシラカシの生垣を見かけたが、おそらく長岡宿の大火(安政4年)の教訓かと思われる。

一路水戸へ、そしてインターチェンジ越え

 左手に赤い鳥居の「八塚稲荷神社」があり、その先右手に「長岡公園」がある。長岡交差点の右手に大きな欅が二本あり、その200m程先には右手に馬頭観世音碑が二基あるが、うち一基は倒れてしまっている。

 その後旧道は左後方からの国道6号に合流し、しばらくの間一路淡々と進んでいく。「矢頭南」信号を過ぎ、矢頭で「北関東自動車道」の「茨城町東I.C.」を歩道橋で越えて行く。 バリヤフリー感覚皆無のルートで、体の不自由な人たちのことは無視された箇所である。しかも地図で見る限りは国道左歩道を進んだ方が近道に見えるが、それでは2度も歩道橋を渡る必要があり、右の歩道からだと1回ですむので、右側歩道から渡る。

 その先の「水戸市」の表示板を見て水戸市に入り、左手にレストラン「ココス水戸東野店」のある「東野町」Y字路で国道6号を右に分け、左斜め前への旧道(県道180号)で元吉田の方に入る。左の「茨城県自動車学校」の先の「吉沢」交差点(Y字路)は右斜めの元吉田町へと進む。自動車学校の向こうに茨城県庁の新しい建物が見える。

熱田神宮(10:50)

 少し行った右手に「熱田神社」がある。水戸街道筋では始めて出逢う「熱田」神社であるが由来は判らない。相談の結果パスしたが、境内には神仏混淆の名残か石仏類があって、天明2年(1782)の母が子供を抱いている像の「子母神」というのがあるそうだ。

吉田一里塚(11:14)

 「一里塚下西」バス停のすぐ先右手に「吉田一里塚」がある。推定樹齢100年と書かれたお定まりのエノキ(水戸市保存樹木)が立ち、左脇には六地蔵の祠がある。塚の右側には阿天利神社の石碑、左側にはまだ新しい「史蹟一里塚」の大きな石柱碑が建っている。石柱の説明文には触れていなかったが、これが29番目になる最後の一里塚の筈である。

昼食(11:22〜11:52)

 「吉田小南」信号を越えた左手に、普段は500円だそうだが土日限定で300円というラーメンの店を見つけ入店・昼食。

 ラーメン店の前は、この後通過する枡形地点にあった吉田小学校が移転してきているが、日曜日のせいか廃校になったのでは?と思うほど静かだった。

珍しい観音(11:55)

 国道50号水戸バイパスと交叉する大きな交差点を越えると左手に「金山稲荷神社」、右手に吉田小学校がある。その少し先にY字路で分岐するが、分岐に「牛馬頭観世音」と刻まれた石標を発見する。馬頭観音とか牛頭観音はよく見かけたが、いわば両者合併型のものは初めてだ。

連続する枡形

 やや右方向へ曲がっていくバス通り(県道180号)を右に分け、直進する細めの道へ行くと、2度ばかりカギ型に曲がって行くようになっている。
 11:59、一つ目枡形のすぐ先、右手に「明治6年創立 吉田小学校誕生の地」という標柱がある。先ほど通り過ぎた吉田小学校の発祥の地である。
 二つ目の枡形で県道235号と交叉し、その先2本目の左折路(右手に「横山建具店」)の四叉路を左折すると、正面に茅葺き、朱塗りの山門が見え、薬王院への参道になっているので立ち寄る。

薬王院(12:11)

 12:09、左手に「桓武帝勅願所吉田薬王院 水戸市下市竹隅町 大正元年十二月建」と刻まれた白御影石の門柱を見、銀杏並木の参道を行くと、朱塗り・茅葺きの豪壮な八脚寄せ棟造りの山門「仁王門」がある。
 裄行き6.8m、梁間約6.4mあり、低い基壇の上に建ち、正面には連子窓を設け、その中に仁王像(木造金剛力士像)が安置され、門扉はない。貞享年間(1684〜1688)の建立と推定され、県指定文化財になっている。

 参道は広くないが、仁王門を潜った先は広い寺域があり、重文指定の本堂が正面に威風堂々控えている。

 薬王院は、この先訪問予定の「吉田神社」の神宮寺で、寺伝によれば、第50代桓武天皇勅願により天台宗の宗祖・伝教大師(最澄)が大同2年(807)に創建し、時の領主達から手厚く保護されてきたが、大永7年(1527)に旧堂が焼失し、現本堂は享禄2年(1529)領主江戸通泰によって再建、更に貞享3年(1686)光圀公が大修理したという。昭和43年に解体修理・復元され、中には杉材一本造りの薬師如来坐像や檜寄せ木造りの十二神将が安置されている。

 本堂は全体的に唐様で享禄2年(1529)建立の入母屋造り・銅板葺き、正面7間(18.3m)・側面5間(13.5m)の堂々たる建物で、室町期の建造物としての規模は「関東随一」で国指定重要文化財になっている。

 門内右手に高さ2.4mの市指定文化財の「五輪塔」がある。水戸初代藩主徳川頼房の次男松平亀千代丸が四歳で早逝したのを供養したものだが、天保14年に遺骨を常陸太田の瑞龍山に改葬され、五輪塔は土中に埋められたが、昭和46年、境内の杉の木を伐っていた折偶然土中から発見され、復元されている。
 また、本堂前のイチョウは、推定樹齢500年。推定樹齢150年のクスノキも見事な大木ぶりで周囲を圧している感がある。

吉田古墳(12:45)

 薬王院北側の「市立千波中学校」の西側を西に入った所の北側には、この地方の豪族の墓と言われ、国指定文化財になっている横穴式石室の「吉田古墳」があり、奥の壁一面に装飾が施されているというので、薬王院からショートカットしょうとしたが出来ず、街道を進んだ先で左折また左折し、探し回ったあげく、漸く右手に入った所で発見したが、外見は感動的なものではない。

 水戸市街地と相対する吉田の台地上に存在する1辺約8m、高さ約1.6mの小規模な方墳で、内部主体は南に開口する全長約3mの軟質凝灰岩の板状の石で構築した横穴式石室だそうだが、柵内にあるため近づいての確認はできない。

 大正3年4月に発掘され、金環・鉄鏃・直刀・勾玉等が発見されると共に石室の奥壁には線刻で靱・刀子・鉾等武具を主体とした壁画を施す特異な古墳として注目され、装飾古墳の研究上高い学術的価値を有するという。古墳の営造年代は主体部形式や出土遺物から6世紀後半〜7世紀前半の飛鳥時代終末期と言われる。大正11年(1922)に国指定文化財(史跡)に指定されている。

吉田神社(12:59)

 旧道に戻り、北800m程の突き当たりの丘(朝日山)の上に立つ神社が吉田神社で、さほど高くはないが、石段を登った境内からの見晴らしが良い。鳥居脇に鳥居の高さの3分の2程ありそうな文化12年(1815)の巨大燈籠があり、思わず目を見張る。石段を上った途中にあるケヤキの大木も推定樹齢300年とあり、とてつもなく太い幹は迫力充分である。

 石段を登った左側に日本武尊御遺蹟の碑が建っている。祭神は日本武尊で、景行天皇40年、日本武尊は東夷鎮定の折、当地・三角山(翌朝、朝日が昇るのをご覧になったので、朝日山とも呼ばれている)で休息をされ、その地に社殿を造営したのが当社の起りである。当社は、鹿島神宮に次いで、式年遷宮が行われていた大社で、常陸国の三宮にあたり、「常陸第三宮」の扁額が懸かっている。本殿は昭和20年の空襲で焼失し、再建されている。因みに常陸国の一宮は鹿島神宮で、二宮は那珂市の静神社である。もちろん常陸国の総社宮は石岡市にある。

 なお、境内末社として、国見神社・早歳神社・飯神社・水戸神社・稲荷神社・住吉神社・吉田天満宮・松尾神社・八幡宮・大国主事代主神社・疱瘡守護神社・多賀神社・土師神社・皇太神宮がある。

金刀比羅神社(13:15)

 街道に戻り、県道180号を右に分け左の道に入って100m程先を右前方に曲がって行くと、左手に金刀比羅神社があるので立ち寄る。何と狛犬ならぬ狛兎なのである。思わず中山道浦和宿手前の「調(つき)神社」を思い出したが、これで二度目でびっくり。というのが、2008.11.23に調神社に行った際、狛犬の代わりに兎の口から手洗い・口濯ぎの水が流れ落ちるのを見ているからである。

銷魂(たまげ)橋(13:18)

 その角で「備前堀」に突き当たると、堀沿いに右折し、すぐの信号で左折して堀を渡り終えたらすぐ堀の北側を堀沿いに手100m程東進すると「備前堀」に架かる「銷魂橋」に突き当たる。
 江戸へ向かう旅人と、見送る人たちがここで共に別離を惜しんだ場所である。

 橋の西側に「江戸街道起点」、右手に「高札場跡」の碑がある。「江戸街道起点」の碑には、「水戸〜江戸間二十九里十九町」「江戸街道または水戸街道と呼ばれた。その起点は江戸は日本橋、水戸はこの地点で、宿駅は十九箇所、行程は通常二泊三日であった。」「ここで共に別れを惜しんだので銷魂橋と呼ばれた。」と記されている。この文面からは水戸街道としての終点を意味しているが、多くの資料ではここではなくもう少し先の「本町」が終点になっているので、引き続き歩いていく。即ち、江戸に向かう旅人はここで別れを惜しんだが、江戸からやってきた疲れた旅人はここでわらじを脱いだわけではない。もう数百メートル、宿場の中心地であった旧本4町目(現本町2丁目)辺りまで歩いたのである。

 「高札場跡」は、往時人通りの多い場所だったことを示している。当然近くには問屋場や本陣があった筈だが、その跡が全く不明だというから驚きである。35万石の天下の副将軍様の膝元だのに、2軒の問屋場と本陣があった記録こそあるものの、どの家がそうだったのか判らないという、わかりにくい話である。
 なお、「江戸街道」という言い方だが、江戸から見れば「水戸街道」であり、水戸側から言えば江戸へ行く道だから「江戸街道」となるのが自然の道理であり、例えば「青梅街道」においても青梅に近くなると同様に青梅街道のことを「江戸街道」という言い方がなされている。

備前堀

 備前堀は、伊奈備前守忠次が江戸時代初期の慶長15年(1610)に千波湖の水を引いて農業用水とし、あわせて千波湖の溢水を防いだ歴史的な用水堀であり、国道51号線沿いに涸沼川まで流下している延長12qの農業用水路である。工事を担当した伊奈備前守忠次の名に因んで「備前堀」(or伊奈堀)と呼ばれているが、特有の治水・土木を「伊奈流」と称し、後の徳川幕府の工事の基本になったという。

 伊奈忠次は関八州の行政、司法を司り、関東各地にその業績と名前を残しているが、忠次・忠治父子の墓は中山道鴻巣宿の勝願寺にあり、2009.01.25に訪ねている。

ハミングロード(13:22)

 銷魂橋から先ほどの一つ西側の橋まで戻り、そこを北へ右折して「常陽銀行下市支店」がある本町信号(三叉路)を右折し、「ハミングロード513」に入る。その角には「旧本一町目 江戸へ三十里」と書かれた新しい石標がある。

 また、支店名の「下市」だが、水戸の城下町は城や武家屋敷の多い高台を「上市(うわいち)」、城から見下ろされるこの辺りの低地を「下市(しもいち)」と言い、下市が賑やかな商人町だった。「・・・513」の513は全長513mの意味らしい。街おこしの一環だろうが残念ながら活性化の試みは成功しているとは言い難い。

 この通りは、曲線を加えた道路の形状・歩道の舗装・彫刻や石標・アーチなど、いろいろ工夫された近代的な商店街になっている。この辺りが水戸宿があった所で本陣、脇本陣、問屋場、旅籠などがあって大いに賑わった。
 左手角に「旧本三町目 常陸山橋」と書かれた石標がある。案内石碑はよく整備されているが、曾ての趣は殆どと言って良い程無い。

竜頭共用栓碑(13:28)

 その先左手に「竜頭共用栓」と書かれた解説板と、竜頭から水が出る装置がある。
 水戸藩初代藩主頼房は寛永4年(1627)吉田村の溜池から取水事業を行ったが、降雨時は濁って飲料水に不自由していたため、光圀が藩主就任の寛文2年(1662)に町奉行望月恒隆に命じ、調査に当たった平賀保秀は笠原不動谷の湧水を水源と決め、逆川に沿って千波湖南岸より藤柄町まで岩樋を使い、備前堀銷魂橋を銅樋(ドウヒ)で渡して細谷まで約10kmの水道工事を永田勘衛門をして翌年完成させた。

 笠原水源は300有余年を経て、なお涸れることなき偉大な遺産であり、この竜頭栓は、明治時代の清水道の大改修により町角に数十基設置され、多くの人々が利用した。平成元年市制施行100周年を機に、水戸市水道の発祥の地に復元し、先人の英知と水の保全を後世に伝えている。

 竜の頭にあるセンサーに触れると水が出てくる仕掛けになっており、なかなか興味深い。

井幸茶輔(13:30)

 その先同じく左手にある。黒い建物が辛うじて昔の面影を残している。

浜街道起点碑(13:32)

 イオンの裏を通過、「茨城県信用組合」のある交差点に到着する。交差点の右手角に「旧本四町目 陸前浜街道起点」と記された碑が建っている。ここを終点として水戸街道歩き旅の終了とする。

 2009.11.15、午後1時32分。かくして全7回に亘った旧水戸街道歩きは無事完了した。あとは、仲間たちと水戸城址などを見学しょうということにして、三の丸へと向かった。

 なお、ここは水戸街道終着点であると同時に、ここを起点とする諸街道の起点でもあった。即ち、奥州相馬方面への「岩城街道(岩城相馬街道)」や「棚倉街道」「南郷街道」「茂木(もてぎ)街道」「結城街道」「瀬戸井街道」「飯沼街道」等々である。

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水戸城址・本丸跡

 「石垣橋」で「桜川」、更には、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線・JR常磐線の線路を渡って左折する。約350m程先で頭上を横断する国道51号線の手前で、通学路になっている長い階段を右上に登っていくと、その国道に合流する。その先で今度はJR水郡線を眼下に見ながら越えて右折し、100m程先右手に「本城橋」があり、渡ると県立水戸一高正門に達する。

 「本城橋」の下は往時の城の堀跡で、その底を先刻越えたJR水郡線が通っている。橋を渡ると今は水戸一高の校門だが、そこには昔「橋詰門(薬医門)」が建っていた。その門は明治以後、三の丸の水戸京成ホテル付近にあった官選知事安田定則の屋敷門として移築されていたが、その後その屋敷が富豪(小山田氏)に買い取られ「小山田邸の開かずの大門」と呼ばれていたという。更にその後昭和19年には、八幡町の祇園寺の門として移築され、その後水戸市に寄贈されて、昭和56年(1981)に水戸一高の敷地の現在地に戻ってきたという運命を有している。現存する藩政時代唯一の水戸城の建造物である。安土桃山時代の様式のため佐竹氏時代の築造とされる。

 茨城県立水戸第一高校の門前には、「
県立水戸一高関係者及び史跡見学者以外の方の通行はご遠慮下さい」という学校長名の看板が建っており、我々のような史跡見学者の入場に配慮してくれているのを確認して、学校内に入る。

 水戸城址について概説すると、
本丸跡が、水戸一高(その東側にある一段低い所が東二の丸跡で同校グラウンド)、
本丸の西側にある二の丸跡が、水戸三高・水戸二中・茨城大学附属小、同附属幼稚園
更に西側にある三の丸跡が、弘道館・県立図書館・三の丸小
などとなっているので、ざっと探訪してみたい。

 水戸一高(水戸市三の丸3−10−1)の橋詰門を入ると、城郭時代の土塁に沿ってカギ型に右へ曲る。その土塁は削られて低くなったのか、それとも通路面が高くなったのか、余り高さを感じないが、敷地を取り巻く土塁は結構きちんと残っているようだ。

               
水 戸 城
 水戸城は、建久四年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾に任ぜられたのに始まる。以後、馬場大掾氏は九代約二四〇年間、下の丸(現本校運動場)の辺りに居館を構えた。次いで那珂道辰の子孫、河和田城主江戸道房が大掾満幹の留守に水戸城を占拠、それ以来七代、一六五年間、江戸氏が支配した。当時は内城、宿城と浄光寺の三つの曲輪より成っていた。
 天正一八年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討伐、本拠とした。佐竹氏の時代は、慶長七年(1602)儀宣の秋田移封まで僅かに一三年、この間、内城を古実城と称して本丸化し、宿城を二の丸(現水戸三高・水戸二中・茨大付属小)とするなど曲輪を整えた。城の出入口も東側から西側に移し、橋詰門を建て、また二の丸に大手門などを造った。
 一七世紀初め、甲府の武田信吉や徳川頼宣が一時封ぜられたが慶長一四年(1609)、家康の十一子頼房が城主となり、その後、徳川氏は江戸定府ながら光圀(第二代)、斉昭(第九代)を経て昭武(第十一代)まで約二六〇年間、三五万石の水戸領を治めた。明治四年(1871)廃城。徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓があった。
 本校の前身茨城県尋常中学校がこの地、本丸の城址に新築、移転したのは明治二九年(1896)九月、後に水戸中学校となり、昭和二〇年(1945)空襲で全焼、同二三年に現在の水戸第一高校となる。空堀と土塁の一部と復元された橋詰門が城址の名残をとどめている。
               昭和五十六年四月一日
                              茨城県立水戸第一高等学校



               
茨城県指定有形文化財 建造物第六十六号
               旧水戸城薬医門一棟
                              昭和五十八年三月十八日指定
 この城門は、旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、形式は正面の柱の間が三つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門、2つの脇扉がついている。
 薬医門とは、扉を支えている本柱とその後ろにある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を、中心からずらす形式で、側面の姿は対称形ではない。正面から見ると、軒が深いため門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので、多くつくられた。
 建立の時期は、構造や技法からみて安土・桃山期と推定される。建物の各部分に用いてある木材の大きさの割合、すなわち木割は太く、屋根面の相交わる部分に用いてある木材(棟木)は見えるようになっている化粧棟木で、棟木を支えるとともに装飾となっている板蟇股は雄大、また化粧垂木の端の反り増しの技法、柱の上にあって軒桁を支えている横木(実肘木)やえぐって局面にした板蟇股の部分(繰形)の形状などからみると、おそらく佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれたものといえよう。
 城門のあった位置には諸説があるが、城門の風格からみて橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられる。永らく城外に移されていたが、昭和四十五年四月十七日、水戸市指定建造物となる。昭和五十六年九月、この城門にふさわしい旧本丸の入口に近いこの場所に移築、復元した。その際、部分補修をするとともに、切妻造の屋根をもとの茅葺にかえて銅板葺とした。
                              茨城県教育委員会

水戸城跡通り

 本城橋を渡り返して、「水戸城跡通」を西北西に進むと、左右に何ヵ所か、解説板などがある。

          水戸市指定記念物
               天然記念物 水戸城跡の大シイ
                              二株
                             指定年月日 平成十年八月五日
 水戸城旧城郭の中に位置するこの大シイは、戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約四百年と推定される。
 二株のうち、一株は根回り四・一メートル、目通り三・三メートル、樹高十八・六メートルで、もう一方は根回り六・八メートル、目通り四・三メートル、樹高二十・〇メートルである。
 一般にシイノキ(椎の木)と呼ばれる植物には二種類あり、ツブラジイとスジダイに分類され、ツブラジイは葉が薄く小型で果実は球形で小さいのに対し、スジダイは、葉が大きく、葉質が厚く、果実は長いので区別される。ツブラジイは、主として関東南部以西、四国、九州の内陸部に分布し、スジダイは、福島県、新潟県以南の主として沿岸地域に自生しているが、この大シイは二株いずれもスジダイである。
 茨城県のスジダイは、日本列島の北限に近い地域であることから、各地で天然記念物に指定されているが、一般には四方に枝を広げ、傘状になっている巨木がその対象である。それらの指定物と比較した場合、樹高においてはこの大シイは優れているが、四方に枝を張るような樹冠にはなっていない。しかし、樹木の活力は現在でも旺盛であり、他の地域のものと比較して幹囲・樹高ともに大きく、大木と言える。


               祠 堂 跡
 この地は、朱舜水の祠堂があった所で、朱舜水の没後江戸駒込邸内に建てられたが、正徳二年(1712)城下の田見小路に移し、その後城内に祀られた。


               水戸城三階櫓跡
水戸城は、徳川頼房が寛永2年(1625)に大整備を行った際、この二の丸に広い殿館に付属して三階の物見を南崖近くに建てた。はじめは質朴なものであったが、明和元年(1764)12月の葛西で殿館とともに全焼し、ほどなく再建した時、屋根を瓦葺として天守閣らしく鯱を飾り三階櫓と呼んだ。明治5年(1872)の火災では残ったが、昭和20年(1945)8月の戦災で消失した。


               茨城県指定史跡
               水戸城跡(塁及び濠)
                        指定年月日 昭和四十二年十一月二十四日
 水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現水戸一高)に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えたのである。
 十五世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学付属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張して約百六十余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。こうして五十四万余石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成と組んで家康に抗したため、慶長七年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か一三年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長十四年(1609)に第十一子頼房が藩主(二十五万石、第三代綱條の時から三十五万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第二代光圀以来尊皇の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。
                              水戸市教育委員会


               御 製 碑
 昭和天皇が、終戦直後の戦災状況を視察するため、昭和二十一年十一月十八・十九両日水戸に行幸されたときに、県庁屋上から市街をみわたされて
   「たのもしく
       よはあけそめぬ
           水戸の町
    うつつちのおとも
         たかくきこえて」
と復興ぶりのお歌をお詠みになられた。
 陛下は、翌二十二年の新年御歌会において、「あけぼの」と題され、水戸で詠まれたお歌をご披露になられた。
 このため水戸市では、大水戸市復興祭および市制七十周年の両行事を記念して、同三十四年巳と駅前広場に御製の碑を建てた。その後、水戸駅北口再開発事業における駅前広場改造に伴い、平成二年に現在地に移設したものである。
 なお、「御製」とは、天皇陛下が作られた詩文や和歌のことをいう。
                              水 戸 市


大手橋・大手門跡

 やがて、眼下を県道232号線が水戸駅から北進してくる上を「大手橋」で渡る。
この下の通も往時の堀跡で、大手橋は今はコンクリートだが、昔の木橋の欄干についていた擬宝珠が彰考館徳川博物館に残っている。文禄5年(慶長元年、1596)と刻まれているので佐竹氏時代の架橋である。
 大手門は明治に入って取り壊されたが、これも扉に慶長6年(1601)とあり、佐竹氏時代末期の築造である。

               
大 手 橋
 佐竹氏の城郭拡張によって二の丸・三の丸が築かれた時、慶長元年(1596)にこの堀に掛けられた橋で、徳川初代藩主頼房が修築してから大手橋と称せられた。明治元年(1868)10月佐幕派が弘道館を占拠した時は、この橋をはさんで主力軍との間に内戦が起った。橋は何度か修築され、昭和10年(1935)コンクリート造りとなった。


               大手門跡
 大手橋に接してここにあった二階造りの大手門は、佐竹義宣が慶長6年(1601)に建てたものであったが、徳川氏の代になっても水戸城の入口の門で、前に下乗の札、うしろに番所があった。楼上では太鼓、または鐘を打って知らせたこともあったが、明治初年にとりこわされた。

弘道館周辺と水戸城の堀

 大手橋を渡ると三の丸跡で、現在は弘道館公園になっているが、往時は重臣たちの屋敷が配置されていた。天保12年(1841)、そこに徳川斉昭が藩校である弘道館を解説した。
 正門・正庁・至善堂だけは開設当初のまま残っており国指定文化財となっている。
 正庁の南側には武館・天文方などがあったが、これらは明治元年(1868)10月、水戸藩内抗争の最後をかざる弘道館の戦いで焼失し、現在は三の丸小学校の敷地となっている。
 正庁の北側には文館があったが、これも弘道館の戦いで焼け、現在は梅林になっている。
 東側の公園内には鹿島神社・孔子廟・八卦堂などがある。これらは弘道館の戦いでは無事だったが昭和20年の空襲で焼け、その後再建したものである。
 その更に西にある旧県庁舎と県立図書館は曾ては訓練場だった。その西側には土塁と空堀が残っている。また、弘道館と道路をはさんだ北側、検察庁があるあたりに附家老・中山氏の屋敷があったという。

               
弘道館周辺と水戸城の堀
 この地は那珂川と千波湖に挟まれた台地の東端に位置します。平安時代末期に馬場資幹がここに館を築いたのが水戸城の始まりです。15世紀前半に江戸氏が、16世紀末に佐竹氏が、慶長14年(1609)に水戸藩初代藩主徳川頼房が移り、城郭を拡大しました。現在も残る土塁と濠は県指定史跡です。
 弘道館は第9代藩主徳川斉昭が天保12年(1841)に創設した藩校です。文武両道を講じ、当時の藩校としては珍しい医学や天文学も教育しました。正庁・至善堂・正門は国指定文化財です。


               徳川慶喜向学の地碑       山内光雲書
 幕政を朝廷に奉還して明治維新の端を開いた最後の将軍徳川慶喜は、水戸藩第九代藩主斉昭の第七子として天保八年(1837)江戸の水戸藩邸で生まれた。その翌年から一橋家を相続する十一歳までは水戸に移され父の膝下で厳しい養育を受けた。殊に五歳の時この弘道館が開かれると、ねねねね尊皇攘夷の精神で学問武藝に励み、その才知を磨いたのであった。


               水戸城と弘道館
水戸城は、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替の後、慶長14年(1609)、徳川頼房が下妻から水戸に封ぜられ、寛永2年(1625)1月11日より始まった「城内御作事」(「水戸温古録草稿」)により大修築と城下町の整備拡張が行われている。水戸城の構造は、那珂川と千波湖の間に伸びる洪積台地の先端を、南北に切り割りして連郭式にしている。外郭を含めた城の規模は、南北0.1キロメートル〜1.9キロメートル、東西約3.2キロメートルで、この範囲の中を堀と土塁で囲む聡構えを完成させている。徳川時代に御殿を本丸から二の丸に移したのは、御三家の威光に相応しい御殿を建築するためであり、敷地の広さ、出入口の利便性などからこの場所が選地されたようである。御殿のある二の丸の東に位置する本丸、下の丸は武器蔵や火薬蔵がおかれていたようである。大手門の西に位置する三の丸は、武家屋敷であったが、九代藩主斉昭のときに藩校弘道館が置かれた。藩校弘道館は、天保12年(1841)8月1日、三の丸に仮開館し、安政4年(1857)5月9日に本開館式が挙行されている。敷地面積は17万8400uで、正庁、至善堂、文館(居学寮・講習寮・寄宿寮・句読寮・講習別局・教職直書などの総称)、武館、歌学局、兵学局、音楽局、諸礼きょんく、天文数学所、医学館、鹿島神社、孔子廟、八卦堂、学制警鐘などが設置され、調練場・馬場もあった。15歳から40歳までの藩士子弟を教育の対象とし、身分年齢に応じて毎月出席すべき日数を定めていた。


               特別史跡 旧弘道館正門
 天保十二年(1841)の弘道館創立時に建てられた正門です。
 本瓦葺き四脚門という建築様式で、屋根瓦には葵の紋があります。
 藩主の来館や諸儀式を行うときのみ開門しました。
 門柱や扉などにみられる傷跡は明治元年(1868)におきた弘道館の戦いと呼ばれる藩内抗争の銃撃戦でできた弾痕です。
 正門及び正門南一〇.〇メートル、来た一一.四メートルの附塀は、重要文化財に指定されています。


               弘 道 館
 弘道館は水戸藩第九代新種徳川斉昭(烈公)寛政十二年(1800)−万延元年(1860)が、自らの発意により天保十二年(1841)創設した藩の学校です。
 当時は、正庁、至善堂を中心として文館、武館、医学館、天文台等が配置され、梅林の中には鹿島神社、孔子廟、八卦堂、学制警鐘(鐘楼)等があり、総合大学のような威容を示していました。
 明治元年(1868)、藩内に争乱があり、その際の兵火によって文館、武館、医学館等を失い、その後宏大な敷地も県庁、三の丸小学校用地として割愛され、規模は縮小されました。
 昭和二十年(1945)の戦災によって残存していた鹿島神社、孔子廟、八卦堂も焼失しましたが、正門、正庁、至善堂、学制警鐘は、奇跡的に災禍をまぬがれました。
 昭和二十八年(1953)から、八卦堂、孔子廟の復元、正庁、至善堂の修理等を行い、弘道館公園として現在に至っています。
 明治四年(1871)藩校としては閉鎖されましたが、同八年公園となり大正十一年(1922)史跡、昭和二十七年(1952)特別史跡、旧弘道館として国の指定を受け、昭和三十九年(1964)正庁、至善堂及び正門が国の重要文化財に指定されています。
                              茨城県


水戸駅へ

 水戸城跡外観の後は、三の丸交差点、銀杏坂交差点を経由して14:25に水戸駅に着き、缶ビールなどを買って14:31発の列車に飛び乗った。帰宅したのは17:50だったが、これで7回に亘った同行諸氏との楽しい水戸街道歩きが終わった。次は「日光御成道」シリーズへと入る旨の約束もでき、引き続き大いなる楽しみである。