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旧水戸街道餐歩記~#4
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 2009.08.16(日) 水戸街道#4 若柴宿~土浦宿 約18.4km+寄り道

 【今日のコース】 JR佐貫駅~若柴宿~牛久宿~荒川沖宿~中村宿~土浦宿~JR土浦駅

スタート

 9:20a.m.集合の案内だったが、第一回目の時と同様に小川・長塚・村谷各氏と小生の4名が共に1便早い8:55a.m.着の便で佐貫駅改札口に集合。8:58には佐貫駅の東口から前回の街道終点である「駅東入口」信号に向かい始める。

大坂

 JR佐貫駅から東進し、「駅東入口」交差点を左折すると、辺りが一面田園風景に変わり、前方に見える竹林のある坂を登ると、その先の高台にある若柴宿に達する。
 その若柴宿入口への登りの坂道は「大坂」と呼ばれており、登りきると、定石どおり街道が左直角に曲がっており、ここから若柴宿が始まる。この若柴宿は高台に立地している関係で坂が多く、その坂一つ一つに例えば延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂、などの名前が付けられているが、地元でも坂名を知る人は次第に少なくっているとか。宿内は下町・仲町・上町と続き、京や江戸とは反対方向にある水戸寄りが上町になっているのが面白い。

八坂神社(9:14)

 その左折点の右角に「八坂神社」があり、地元では「八坂さん」と呼ばれているが、解説板もなにも無い。例によって宿の入口にある神社である。境内の石段を登った先に社殿があるが、平成元年に建て替えられたにしてはかなり貧相な感じである。
 社殿前右手には、「大師尊」、左手には境内社の「三峰神社」があり、右手奥には明治3年銘の「熊野大神」、天保2年(1831)銘の「疱瘡神」のほか、文政や慶応年間の銘など多数の石造物群が建ち並んでおり、社殿裏手は竹林になっている。
 ここは、高台の立地を利用して、戦国時代に若柴城の外城があった所だそうで、遺構なども何ら残っていないが、地元では今でもここを「外城(とじょう)」と呼んでいるとか。因みに若柴城本丸はここから800mほど先の「ふたば文化幼稚園」の裏手だったという。

若柴宿

 藤代宿~若柴宿は一里(約4km)。若柴宿は常陸国への入口にあたる宿場で、現在の龍ケ崎市若柴町付近である。水戸街道は現・常磐線や国道6号線に沿っているが、小貝川の宮和田の渡しを越えた所で牛久沼の低湿地を避け、台地上の若柴へと迂回経路をとっている。現在はこの区間に常磐線佐貫駅が設けられて市街地を形成している。明治以前は牛久沼が今より一回り大きく、周囲は湿地帯のため通行困難で、牛久沼を船で渡る旅人もいたが、大半は若柴宿を迂回して牛久宿へと向かったそうだ。

 宿場は両端に屈曲のあるクランク状の直線部にあり、江戸側(南東側)と水戸側(北西側)の約500mの範囲である。南東側屈曲部には先述の「八坂神社」、北西側屈曲部には「金龍寺」がある。
 台地の西端崖沿い1km程の宿場通りに豪華な門構えの家が建ち並んでいる。町家や旅籠風の格子造りではなく、農家風の佇まいで門構えも夫々個性はあるものの、中を一瞥するといずれも広い庭に各種の花木や庭木で飾られ、母屋は重厚な瓦屋根の入母屋・寄せ棟造りであり、松戸の小金宿を上回る豊かさである。

 明治以後、現在の国道6号が牛久沼東側に開設され、若柴宿は取り残される形になったものの、反面、水戸街道中、最も宿場の面影を残して現在に至っている。明治以降の度重なる火災で宿内の江戸期の建物は大半焼失したものの、明治時代の古建築が比較的残っている。また、資料等も多くが焼失し往時の具体像は殆ど不明のようだが、本陣は隣接の藤代宿・牛久宿との距離がいずれも1里程度と短かかったため置かれず、旅籠数も少なかった。ただ、人馬動員に関する回状などで問屋が2軒あったことが確認されており、人馬は水戸街道の規定通り、25人・25匹が常備されていた。唯一、「星宮神社」(後出)に奉納されている絵馬のみが当時の繁栄ぶりを語っているという。

<若柴宿の大絵馬>

 若柴村の鎮守、「星宮神社」(後出)に奉納された絵馬は縦120cm横150cmの極めて大きい絵馬で、風雨にさらされて表面の状態は良好でなく、文字や絵を総て判断する事が出来ない。現在は龍ヶ崎市歴史民俗資料館に保存されているそうだが、内容は絵の中央部分に槍を担ぐ武士の姿が、左右に荷を載せた馬が数匹描かれ、右下には列をなして歩く人々が描かれているという。宿場の日常を描いたものと考えられているようだが、往時の若柴宿の繁栄ぶりを物語る貴重な資料とされている。

<若柴宿の助郷>

 公用の人馬役として一日当り、人足25人、馬25匹が常置されていたが、17世紀末頃から次第に使用される人馬の数が増え、宿場だけでは人馬を賄い切れなくなり、周辺各村々へ定助郷や加助郷といった助郷役が賦課されるようになった。天保14年(1843)に於ける若柴宿の定助郷村は計16ケ村となっていたという。

 明和元年(1764)の水戸藩主の水戸入府時には、藩士が約千人・馬六百匹の大規模な行列になり、定助郷のほか、近隣の村々が加助郷として動員され、その数57ヵ村に及んだと記録されており、その後の加助郷の範囲として定着したようである。この強制的賦役は、地元村民の大きな負担になり、常に宿場問屋、名主、農民の軋轢要因になった。

<牛久助郷一揆鎮圧の舞台>

 若柴宿の隣に、牛久宿(牛久市)と荒川沖宿(土浦市)がある。文化元年(1804)10月この両宿場町を背景に定助郷、加助郷の制度のために貧窮した農民たちの反乱、世に言う「牛久助郷一揆」が起きるが、この反乱鎮圧の舞台が実はここ若柴宿だった。

<幕府代官、若柴宿にて捜索開始>

-10月24日-
 幕府は騒動取鎮めのため、関東郡代より荻原弥五兵衛・竹垣三右衛門・岡田清助の3代官を派遣、名主弥治兵衛宅に本陣が置かれ、此所に見分出役の太田・鈴木両名を招き、対面の上密談。
-10月25日-
 女化原一揆集会の場所を検分。稲荷地内は踏み荒らされ、焚火の跡は百数十ヶ所も数えら、その後は綿密な内談密議を継続。
-11月朔日-
 固めの援兵達が各藩に引き上げ、徒党の村々では一同安心、厳しい咎めは無いらしいと、それまで隠れていた者も一家に戻ったが、3代官より命令が出され、5手に分かれた同心達はこの夜密かに村々に押し寄せ、主立った百姓25人を召捕り、若柴宿本陣(名主弥治兵衛宅)へ連行。
-11月2日-
 夜になり更に15人を召捕り、若柴宿へ連行。

 斯くして、一揆鎮圧の本陣が若柴宿に置かれ、反乱は鎮圧されたが、若柴宿を知る上での数少ない記録になっている。

<若柴宿の終焉>

 水戸街道は、既述のとおり、牛久沼東岸沿いに新道(現在の国道6号線とほぼ合致)が開通、明治17年の明治天皇牛久行幸の際にこの道は更に改修された。
 明治22年には正岡子規が宮和田の渡しを渡って小通幸谷の観音さんで舟を降り、そのまま牛久沼沿いの新道を通った記録が残っている。子規はその時「寒そうに鳥のうきけり牛久沼」と詠んでいる。既にこの時期には若柴宿迂回ルートよりも、牛久沼沿岸を直進する方が便利かつ一般的だったことを証明している。その後の若柴宿は、本道から外れ、時流からも取り残され、明治の村の姿を多く残して現在に至っている。

金龍寺(9:27)

 八坂神社を直角に左折すると、直進する宿場内の道が金龍寺入口まで続く。その500m程の道筋に往時の旅籠や店が軒を並べていたようだ。現在でも、往時を思わせるようなお屋敷が何軒か左右に残っており、その広い敷地や主屋の豪壮さに感嘆させられる。
 金龍寺は「太田山」と号し、1都9県に亘つて末派寺院150有余を有する曹洞宗の寺院である。
 開基は新田義貞の孫貞氏で、祖父の霊を慰め、その勲功を永遠に伝えるべく、応永14年(1407)上州太田の金山に建立した。開山は曹洞宗の逸材天真自性禅師(高祖道元禅師より7代目)の流れを汲む在室長端禅師(開基貞氏の曽孫)。金龍寺は新田家の菩提寺で、本堂には新田家の仏壇が設けられ、境内左奥には新田家累代の墓所がある。正面左に並んだ4基の五輪塔の一番左が新田義貞の墓だという。

 本堂の左前には「地蔵菩薩像」が建てられ、解説板もある。
               
地蔵菩薩像
 地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、弥勒仏の出現するまでの間、無仏の世界に住して姿を比丘形に現し、一切の衆生を教化救済すると信ぜられている菩薩で、この尊の造像は、八世紀から始っている。すなわち、天平時代の東大寺の講堂には、地蔵菩薩の巨像が安置されていたと伝えられるが、紺にと八世紀の像は残っていない。しかし、九世紀以後は、各時代にわたり、その遺品は多く、いかに地蔵信仰が盛んであったかを示している。また地蔵菩薩は人々の苦を脱せしめ、寿命を延すと説かれている。


 この金龍寺創建から180余年後の天正16年(1588)、新田家の後裔由良国繋が、故あつて金山城から桐生城に移った時、寺も一時桐生に移転したが、翌々年の天正18年(1590)秀吉の小田原城攻めの際、敵北条軍を迎え撃ち抜群の軍功をたてた功により、牛久城主に転封され、その時金龍寺も牛久へ移ってきている。関ヶ原合戦後、山口重政が牛久城主に任ぜられ、金龍寺は寛文6年(1666)現在地(若柴)へ堂塔を建てて移った。

 天保4年(1833)の若柴宿大火で金龍寺も類焼したが、壇信徒の協力で20余年後の安政5年(1858)焼失堂塔の再建をみ、今日に至つている。本堂や茅葺きの庫裡・羅漢堂・上段に龍の彫刻が施した山門等がある。、
 この寺には、入宋した道元禅師が帰朝の折、時の帝から贈られたと云う画聖季竜眼の筆になる「絹本着色十六羅像」十六幅は国の重要文化財に指定されているほか、新田義貞縁の藁干観音、牛小僧縁起(注)にまつわる牛の尻尾で作った弘子など、かずかずの寺宝がある。
 正面の本堂の左手奥には歴代住職の墓と新田家の墓が並んでいる。正門左側は、真新しい六角観音堂と聖観音が建っている。更にその隣に鐘楼がある。先述の「十一面観音堂」(小通の観音様)は当寺の末寺である。
 因みに、当寺の寺号は義貞公の法名「金龍寺殿真山良悟大禅定門」の「金龍寺」をとつたものと伝えられ、なかなか大きな寺で、昔は境内から牛久沼を眼下に望むことができたそうだが、今は木々が視界を遮っている。

(注)牛小僧縁起
昔、金龍寺に食後に必ず寝癖のある智雲なる小坊主がいた。ある日和尚が智雲の部屋を覗くと牛になっており、畜生道に落ちた小坊主は恥ずかしくなって沼に入水しょうとした。それを止めようと住職が牛になった小僧の尻尾を握った処、尾が切れて智雲はその侭湖底に沈んでいった。それまでは大田沼と呼ばれていたが、以後人々は牛を喰う沼、牛久沼と呼ぶようになったという。


星宮神社(9:40)

 金龍寺の手前で街道は右折し、横町を300m程行った左手に、若柴の鎮守「星宮神社」がある。 現社殿は天保12年(1841)再建、平成元年に社殿を修理、拝殿を改築している。社殿の左手奥には「金毘羅大権現」の石柱と石の祠のようなものが5基並んでいる。
               
星宮神社
この社の御祭神、天御中主大神は天地開闢の時に、高天原に最初に現れ給える造化三神の元首で高天原即ち天の真中に坐しまし、神徳遍く宇宙主宰無始無終、全知全能の造物主であらせられます。天の真中とは北斗七星北極星と考えられ星宮神社の名の所以であります。
古老の伝えるところに依りますと延長二年正月十三日肥後ノ国八代郡八代の神社から分霊勧請して祀ったものであると云うことであります。
 明治二年四月 星宮明神を星宮神社と改称
 明治十五年四月 村社となる
 明治四十二年七月 八坂神社を合併
 昭和二十七年七月 宗教法人星宮神社を設立
土浦城主常陸大掾平貞盛はこの神の信仰篤く婁々参詣なされ天慶四年四月十三日には社殿拝殿を建立寄進されたと伝えられています。
(以下略)

 また、本殿手前には山車庫が建ち、往年の山車が保存され、次のように書かれている。
これは祭礼の時に飾り立て囃子方や踊り子も乗せて表の通りを太い綱で引いて賑やかに練り歩いたものであると云う

◇伝説 駒止の石
 本殿左手に自然石の駒止の石と石版に記された解説板があり、「平貞盛の駒止の石」と呼ばれて、境内に残っている。

               
駒止の石
往時平貞盛がこの社の前を通り掛かると馬がこの石を見て動かなくなり石の傍らを見ると洞があり、これは日頃信仰する星大明神であった。
これは神様のお引合わせと懇ろに参詣すると馬は歩き出したと言う。
               平成十年一月吉日
                              星宮神社氏子総代

◇病気快癒祈願
 若柴では病気になると、星宮神社の椎の木に藁の人形を作って杭で埋めて祈ると治ると云われ、更に重病、危篤の際はお百度参りをしたと伝わる。また、境内にある石碑、道緑神様(どうろくじんさん)に祈ると足の病が治ったとか、ものもらいにかかった時は、近所の家に行ってオムスビを貰うと治ったという。

◇鰻を食べない村
 若柴では決して鰻を食べないという。それは若柴の鎮守、星宮神社の神様の使いが、うなぎだからだそうで、ある人が禁を犯し、鰻を食した処、すぐ病気になり三日三晩苦しんだという。この先隣の牛久が「うなぎ」を特産として、国道沿いにうなぎ屋が店を並べているのを、若柴の人たちはどう感じているのだろうか。

 宿場の面影が残るのは星宮神社迄で、この先はのどかな田舎の風景になる。高台のためか水田は無く、落花生畑、芋畑・花畑等が広がっている。若柴宿はこれで終わりである。折からの朝日の日差しが一段と強まり、日傘を差して歩き始めるが、時折ある木陰の涼感がたまらなく嬉しい。

成井(なるい)の一里塚(10:03)

 街道は若柴宿を抜け、見晴らしよい田畑が広がる中を歩き、左に大きく曲がって原新田、成井と続く。やがて信号のある交差点の少し手前右手に「成井の一里塚」の真新しい石塔と解説板が建っている。水戸街道15番目の一里塚である。「永禄四年(1561)には既に存在していたといわれている」と記され、道の両側に僅かに塚の形を留めているが、この一里塚は、平成13年6月22日に牛久市の指定文化財に指定され、石碑は翌14年3月1日に建てられている。

 時間の経過と共に頭上から照りつける熱射や、曲がりくねった登り坂をひっきりなしにスピードを上げて歩道無き田舎道を行き来する車を避けつつ10:15から道端の木陰で小休止する。

 成井を過ぎ、心地よい林に入ったりして、やがて雑木林の枝が覆いかぶさる坂道を左直角に曲がり、10:29にJR常磐線の「銅像山踏切」を越える。更に左右に分かれる坂の左側を降りて、線路に寄り添って走る国道6号を横断して、右への細道に入る。「下町坂下橋」で「根古屋川」を渡るが、橋の欄干に河童の画が描かれている。殆ど車の通らない長閑な道だが、やがて右後方から来る道と合流して正面に見える坂を登っていく。ここが牛久宿の入口で、牛久市街の南西はずれにあたる。

牛久宿

 若柴宿~牛久宿は一里(約4km)。現・牛久市牛久町付近にあった牛久宿には、本陣跡とか旧跡らしいものは殆ど何も残っていない。
 JR牛久駅の手前、牛久沼の北東岸の台地上、国道6号線の西側の「くの字形」の800m程の街道筋が牛久宿で、江戸寄りの下町と水戸寄りの上町で成り立っていた。江戸にも京にも遠い水戸側が上町というのは若柴宿と同様に大変珍しいネーミングと言えよう。天下の副将軍水戸家に敬意を表したためだろうか?

 牛久宿は、水戸街道のほぼ中央に位置する重要な宿駅ながら、次の水戸寄りの荒川沖宿と両宿で継立を行う合宿(宿場任務を共に行う)の形態を採っていた。これは荒川沖宿が牛久宿と同じ牛久藩領であることと、荒川沖村の村高が少なかったため、牛久宿が荒川沖宿の継立任務の一部を担っていたためである。即ち、荒川沖宿では、上りの継立を牛久宿まで行い、下りは、牛久宿の継立が荒川沖宿を経て次の中村宿まで行っていた。そのため、牛久宿の負担は大きく、常設する人馬も、水戸街道の人馬の配置が普通、25人、25疋の常設義務づけに対し、牛久宿のみは50人、50疋だった。規定の2倍の人馬を常備し、水戸藩主お国入り時には、牛久宿が宿館に指定され、そんな時は、隣接の定助郷7か村が牛久宿へ人馬を提供して補ったが、この負担が大変で、文化元年(1804)には女化原の助郷一揆が起きている。これらの業務を担当する問屋場は、公用荷物の継立と助郷の差配が主な仕事で、特に代表格の問屋は責任が大きく、藩の家老や幕府役人との折衝も必要で、村の有力者が勤めるのが常だったため、牛久宿では村の名主、麻屋家が代々仕切っていた。

 現国道6号が、その屈曲部右手を直線的に通っているため、旧道筋は車の流れから取り残されているものの、古建築は殆ど残っていない。6号を左折して北浦坂を登ったあたりから本牛久郵便局手前までが下町、その先牛久小学校辺り迄が上町2町からなる宿場で、往時の町並みは天保12年(1841)調べで軒数124軒、本陣1、文久2年(1862)で問屋場1、旅籠15軒と街道筋では栄えた方の宿場だったという。因みに人口は文化元年(1804)調べで497人と記録されている。なお、本陣は「正源寺」の入口近く(現、JA)にあり、脇本陣はなかったようである。
 更に街道筋の両側には一般の武士や庶民が宿泊する旅籠屋、たとえば大黒屋、河内屋、麻屋、坂本屋など15軒の名だたる旅籠屋が建ち並び、その他、茶店、湯屋、鍛冶屋、足袋屋、質屋、建具屋、大工、桶屋、馬喰など様々な商工業者が立ち並んでいた。

 牛久は、戦国末期には由良氏の居城になったが、古くは岡見氏の居城があった所で、町場はその頃から形成されていた。その町場は当初は「卯宿」とか「鵜宿」と呼ばれて、後に「牛久」になったと言われている。江戸時代には山口氏の牛久藩お膝元として、また水戸街道の中央に位置する重要中継駅として栄えた。

 この牛久宿を有名にしたのが前述の「牛久助郷一揆」である。いわば全国農民一揆の魁け的存在と言え、往時の当地農民の貧窮度合いを物語っている。また筑波山を本拠にした天狗党の面々が大黒屋なる旅籠に逗留した記録も残っている。
 さらに明治に入ると、女化原で行われた近衛砲兵大隊大砲射的演習の視察のため明治天皇の牛久行幸という画期的出来事があった。この時代、明治天皇は精力的に日本各地を行幸されたのは周知の事実であるが、その行在所(宿泊所)跡が牛久町(上町)に今も旧跡として残っている。(後出)

 江戸方面からの宿入口直前のやや緩い坂道を登り切った所に曾て「下惣門」があった。そこから道幅8mほどの道が北に続き、「上惣門」(水戸側入口)迄の約800mが牛久宿だった。因みに現JR牛久駅は上惣門跡から約600m先で、国道6号線に合流した先で右手に見えてくる。
駅路の両出入口に途一杯の萱葺の門を建て、山口領であることを示していたようだ。
 また、「山口」は氏の出身地「周防山口」の地名をとったもので、元々は織田信長の家臣佐久間正勝に仕え、天正12年の小牧長久手の戦で織田信雄に従い徳川家康方につき、徳川氏との繋がりを深め、天正14年(1586)には叔父重勝の養子になり、尾張国東部の星崎1万石の城主となる。その後織田信雄と共に配流の憂き目にあうが、秀忠によって江戸に召され、その家臣になって上総国で5千石を与えられ、関ヶ原の戦後、常陸5千石を加増され、以後、山口氏は代々牛久藩主として幕末まで継承された。

 当時の牛久地方の農村は、過酷な藩の徴収に年貢を納めきれず、耕地を捨てて村を出る農民が多く、荒れ果てた耕地が多かった。それだけに農民たちにとって年貢の負担は大きかったであろう。一方公用人馬の利用頻度は増える一方で、このような状況の中、問屋の麻屋治左衛門は定助郷の少なさを嘆き、数度にわたって助郷村の増加を幕府に願い出た。因みに、元文5年(1740)の取決めによると、牛久宿の定助郷村は7ヶ村、荒川沖宿3ヶ村だった。麻屋治左衛門の要求は認められ、加助郷村が増加されたが、新たに加わった助郷村は牛久宿迄の距離が遠いため、何かと難儀だった。この増助郷が問屋と助郷村の軋轢を生み、牛久一揆という農民の反乱に発展した。

女化騒動(牛久助郷一揆)

 文化元年(1804)10月、女化稲荷を本陣として、近隣信太・河内2郡55カ村の農民ら6千人余が牛久宿の問屋他の役人宅を襲うべく集結した。当時、牛久・荒川沖宿は10ヵ村で人馬継立を行っていたが、問屋主人らは恒常的人馬不足解消のため助郷村数を増やそうと、村人の同意を取らぬ侭に近在60ヵ村の増村を幕府・道中奉行に嘆願した。ただでさえ貧しい村民は助郷課役の重圧に耐えられなくなり、小池村(現阿見町小池)の吉重郎と勇七、桂村(現牛久市桂)の兵右衛門の3人をリーダーとして助郷推進者3名の屋敷を襲撃した。
 幕府は代官を派遣して徹底的な弾圧に乗り出し、農民側は交渉の機会も与えられず、一揆は失敗に終わった。一揆責任者の勇七は獄門、吉重郎と兵右衛門は遠島の裁きとなったが、3人は江戸伝馬町の牢屋で拷問の末に獄死した。19年が過ぎ、牛久宿で打ち壊しを受けた麻屋家が、一揆の首謀者3名の供養のため、道標を兼ねた供養塔を荒川沖の東方、阿見町に建てた。狭い県道48号を南に下った阿見1区南の交差点の一角に道標が露出している。曾ては祠の中にあったのが、今は悲惨な状態になっているそうだ。

水戸の天狗党が泊まった大黒屋

 左手に牛久市第二消防団詰所がある。その角の右手一軒手前に大黒屋があったようだ。水戸の天狗党が泊まったといわれている。

芋銭河童道碑(10:39)

 街道左手の郵便局の横、消防団詰所の左角に「芋銭(うせん)河童碑道」の碑がある。ここを左に1.2kmほど行った所に、「かっぱの碑」と「小川芋銭記念館」がある。小川芋銭は、慶応4年牛久藩士の家に生まれた日本画家で、河童の画が特に有名だ。
 また、「得月院」「牛久藩陣屋跡」等があるらしく、行ってみたい気はやまやまだが、炎天下で実質約20kmを歩かねばならないきょうの行程としては、立ち寄りには遠すぎるので素通りする。

明治天皇行在所碑(10:44)

 本牛久郵便局の先150m位行った左手に長い黒塀を廻らした旧家の飯島家があり、その門前に子爵小笠原長生謹書の「明治天皇牛久行在所」(昭和十年三月建設)と刻まれた立派な石標が建っている。明治17年11月27日から12月10日の14日間、女化原で近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が実施され、明治天皇は、この演習視察のため牛久に行幸され、宿泊された。
 旧水戸街道に対する新道開通が明治15年で、この行幸に際しては道路改修に沿道村民529人が動員されたという。

旧本陣跡

 街道が右斜めに曲がる角の左手一軒手前辺りに牛久宿本陣があったらしいが、跡はJAに替わっていて、往時の面影は全くない。
牛久宿はここ迄で、街道は右斜めへ大きく方向を変え、先で国道6号に合流し、少し先で「牛久駅」西口に達する。

正源寺(10:47)

 その角、赤の矢印の上に正源寺と書かれた案内版に従って左に入った先右手にある。「瑞雲山」の金文字額が懸かった古い山門の佇まいが好い。新しい仁王像も堂々として威厳がある。楼上には格子戸がはまり、なかなか風情がある。この楼上は戦前までは鐘楼で、山門と鐘楼が一体だったそうだ。山門の両側に石造の仁王像が建ち、山門から本堂へ緩やかな傾斜の石畳である。本堂は下った位置にあり山門と違ってモダンな建物である。
 山門の右隣は旧観音堂(現秋葉堂)で山門と旧観音堂は昔の侭のようだ。横には禅寺独特の「不許葷酒入山門」の厳めしい石塔も並び立っている。山門を入ると、これまた禅寺特有の端正な佇まいの風景が広がる。日本特産の落葉高木で推定樹齢400年、樹高17m、幹周3.3mの「市民の木」に指定された「トチノキ」が聳え、その奥には右手に本堂に背を向けるように各菩薩像が9体並び立ち、参詣者を出迎えるかのようだ。

 「正源寺は、本陣の手前の火ノ見櫓の傍へ切れこんだところにあった。山門を入ると石畳の道が傾斜して茅葺屋根の本堂へ通じている」と池波正太郎描くところの鬼平犯科帳・雲龍剣の世界で、剣友・岸井左馬之助が立ち寄ったとされる司馬遼太郎の世界である。

弘法大師堂(11:05)

 その少し行った先で右後方からの国道6号に合流した先左手に、「弘法大師堂」がある。四国遍路を思い出しつつ当然の如く参拝し、本日の旅の無事を祈念する。
 この辺りから旧街道は荒川沖宿まで国道6号(水戸街道)とほぼ重なっている。

昼食(11:14~11:34)

 折良く右手にあった「はなまる・讃岐うどん」の看板に誘導されて入店。久方ぶりにふるさとを思い出す喉越しの良さを存分に味わって再出発する。

薬師寺(11:36)

 牛久市田宮(たぐう)町という珍しい読み名の地で、右手に「ヤオコー牛久店」が見える直ぐ手前左手に「薬師寺」があり立ち寄る。国道に面し、細くて長い石畳の参道の奥に、本堂があり、入口は狭いが境内は結構広い。
 「田宮山薬師寺」と号する真言宗豊山派の寺院である。弘仁七年(816)徳一和尚の開基と伝えられるが、幕末の頃から百年以上も無住で荒廃し、不思議な仏縁により現代に甦ったお寺の由。悲願・心願を祈る「お目覚めの薬師さま」と崇敬され、除夜から正月の参拝は特に賑わうとか。
由良国繁が建立した七観音八薬師の一つである。立派な鐘楼や阿弥陀堂がある。

<鐘楼>
               
開運の鐘 鐘楼堂建立の碑
当山は平安の名僧徳一和尚の開基にして後に常陸八薬師にも数えられ既に千百有余年を経たる古刹と伝えられる。然るに栄枯盛衰は時の流れに随い、或いは興隆し或いは無住の時代を経て今日に至る。昭和二十七年先住秀憲和尚入山し寺門興隆の一助としてやくし幼稚園を創設せるも四十余年の歳月を経るや時流如何とも成し難く、ここに終園の止むなきに至る。
 現住成寛心痛し苦悩するも、夜の霊夢に光明を得て役員総代と相計り当梵鐘堂の建立を決議する。浄財帳に満ちれば梵鐘を京都岩澤の梵鐘に発注し八百貫の大鐘を鋳造す。外郭基壇の石組み造成を高野石材に任せ鐘楼は金剛組に依頼すれば古式床しく美事に完成を遂げて竜頭高く楼に懸げられたり。やくし幼稚園終園の碑を側面に刻し如来の意図は成就され、平成八年十二月八日吉辰を下して落慶の法儀を修す。
(以下略)

<薬師寺の宝篋印塔>
境内にある宝篋印塔の横に面白い解説板を見つけた。
         
 牛久市指定文化財
               薬師寺の宝篋印塔
この石塔は、明和五年(1768)天下泰平・五穀豊穣を祈念して建立されたものである。
江戸幕府は、庶民がみだりに苗字を称することを禁じていた。公称することは禁じられたが、大方は私称をしていたのである。
本塔の基礎に刻まれた、寄進者は、おのおの苗字を称している。この意味で貴重な資料である。
               薬平成三年三月一日
                               牛久市教育委員会


 「田宮町」信号の150m程先、右手に金太楼鮨牛久店がある場所で道はY字に分岐する。国道6号を離れ左に行くのが旧道だが、450m程先で再び国道に合流する。

スジダイ(12:10)

 「学園都市南入口」交差点を過ぎ、「市営猪子(ししこ)住宅入口」交差点右手に立派なスダジイがあり、市民の木に指定されている。木陰が涼しく、殊の外ありがたい。

縛られ地蔵(12:14)

 緩やかな下り坂になり、「猪子町」信号左手の「猪子区民会館」前に木製の覆屋の中に右側に2体の縛られ地蔵とでもいうべき地蔵が、左側に2基の石仏が並んでいる。右手の2体は包帯のような布でぐるぐる巻きにされているが、一体いかなる理由によるものなのだろうか?

 圏央道に続いて「小野川橋」を渡ってすぐ左の看板に水戸偕楽園まで54kmと書かれているのが目に留まる。6号線の表示に先ほど東京から54kmというのを見たので、ちょうど小野川橋辺りが水戸道中の中間点と思われる。

 牛久市東大和田町に入ったが、相変わらず交通量は激しい。歩道がしっかり整備されているので安全は安全だが、車は多く、しかも熱射の連続なので快適な道ではない。

「中根町」信号を過ぎる。所々大きな農家があり、左手には茅葺の屋根の家もある。

 右手にはJR常磐線「ひたち野うしく駅」への「西大通り入口」交差点にさしかかる。右手に常磐線ひたち野うしく駅が見えるが、この駅は、昭和60年つくば万博開催時の臨時駅「万博中央駅」の跡地に、平成10年に開設された。駅近辺はマンションが林立し、道路も広くて立派だ。

名前の異なる一里塚(12:52)

 緩やかな坂を登った牛久市と土浦市の市境にある「東猯穴(ひがしまみあな)入口」信号のすぐ先に一里塚の石標が建っている。国道の両側とも塚が残り、左手は
「土浦市荒川沖の一里塚」、右手は「牛久市中根一里塚」と命名され、同じ一里塚でも名前が異なり、それぞれの市の指定史跡になっていて。解説板も建てられている。江戸時代の呼び名はどうだったのだろうか。
 牛久市中根の一里塚解説板は平成2年築、荒川沖の方のは10年遅れで建てられている。先に建てられた向いの中根一里塚を無視できなかったのか、「
道の向側の『中根一里塚(牛久市)』とともに対になって残されており、貴重なものである。」と、気遣いを見せた表記になっている。

荒川沖宿の旧道へ

 あとはひたすら荒川沖駅を目指すのみだ。1km程先の「荒川沖南」信号のY字路で6号線を左に分け、右の静かな旧道に入っていく。この分岐の右手に「八幡社」がある。
 すぐ先の「荒川橋」で「乙戸(おつと)川」を渡ると、「荒川沖宿」である。常磐線が右手を並進しており、間もなく「荒川沖駅」になる。村谷氏の話によると駅近くに荒川沖の語源の解説碑が建っているらしいが、炎天下で誰も立ち寄りの提案が出ず、パスして通り過ぎる。

荒川沖宿

 牛久宿~荒川沖宿は二里(約7.9km)。現在の茨城県土浦市荒川沖西にあたる。宿場町は南北数百メートルの範囲で広がっていた。小さな宿で、本陣は置かれず、宿場としての役務は隣の牛久宿と分担して行っており、荒川沖宿のみで完結したものではなかった。上りの継立は牛久宿まで行っていたが、下りは牛久宿が荒川沖宿を経て次の中村宿まで行っていた。一応正規の宿ではあったものの、実質的には継ぎの宿、牛久宿の補助的位置づけだったようだが、家並みを見る限りは、荒川沖宿の方が宿場らしい佇まいを残している。
 本陣に代わる代行役は専ら旧家が勤め、公用役人の宿泊には名主兼問屋の「川村家」が、一般客は松屋、おきな屋、佐野屋、二六屋、鶴屋などの旅籠が役割分担していた。また、牛久宿の協力を仰ぎながら、人足4人・伝馬2疋を配備して宿継ぎを行なっていた。

■旧旅籠「佐野屋」

 沿道には旧家が結構残っている。
 * 長い瓦屋根付の板塀囲いの「宇野家」、
 * 郵便局の隣にどっしりした茅葺屋根の「旅籠佐野屋」、
 * すこし離れた「鶴町たばこ店」も立派な茅葺建築である。

 「鶴町」姓はタバコ屋だけでなく、酒屋、歯科医院、皮膚科等にも認められる。「旅籠佐野屋」は、左手「土浦荒川沖局」の手前にある数軒在った往時の旅籠の一つである。郵便局の隣にどっしり建つ茅葺屋根の建物で、ケヤキの重厚な門があるが、建物は壁で隠されてしまっている。

 「学園東大通入口」信号手前で左後方からの国道6号に合流するが、その手前300m位の左手に近辺随一の土地持ちと言われる「鶴町皮膚科クリニック」がある。凄く広大な敷地に居住・診療各スペース部分・駐車場・空き地など、格別広い。診療棟は、洋風の領事館かと見まごう近代的建物である。パターゴルフ場ぐらいなら造れそうだと話ながら通り過ぎる。
 「学園東大通入口」交差点で国道に合流したあと、900m程先の「中村南四」信号でまた右斜めの旧道へと分岐していく。

道標と地蔵尊(13:55)

 旧道に入り、「中村東一丁目」信号の先右手に「日先大神道」と刻まれた大きな石標と、その横に小さな地蔵尊がある。石標には、「従是東境内迄十二丁」「明治五年」と刻まれており、右手1km程先の日先神社への道標になっている。地蔵尊には「右ハいちのや道」と読めるが、左は「うがさき道」しか読めず、推定では竜ヶ崎道と思われる。

原の前一里塚跡

 旧道は「原の前」信号でまた国道6号と交わるが、その手前左手には松の木が並木とまではいかないが数本生えた土手が続いている。そのどこもそのまま正方形に切り取れば一里塚になりそうな景色だが、この辺りに「原の前一里塚」があったそうで、残念ながら今は何も残っていない。

中村宿入口の石仏群(14:05)

 国道6号を斜めに越えると、のどかな道になり、街道が右カーブする辺りの左手墓地脇に石仏群がある。これまた近くにあったものを纏めた感じがするが、一つの角石に刻んだ2基の双体道祖神が珍しく感じられる。また、金比羅大権現や安永5年(1776)銘の十七夜塔などもある。
る。ちょうどこの辺りが「中村宿」の江戸川入口にあたるようだ。ここでは「川村」姓の家があちこちにある。川村牧場、川村商店、川村自動車、川村工務店。川村家は中村宿の本陣を務めた由。暑さに抗してつい休憩タイムがふえるが、ここでもドリンク休憩をとり、結局この日はいつになく水分摂取が多く、ゴールまでに500mlペットボトル5本と500ml缶ビール1本(帰途車中)、計3リットルを摂取する有様となった。

中村宿

 荒川沖宿~中村宿は1里(約3.9km)。 現在の茨城県土浦市中にあたる。宿場町は南西から北東にかけた数百メートルの街道筋に65軒(天保十年=1839)の家並みが並ぶ小規模な宿で、本陣は置かれていた(川村茂右衛門家)が、宿場町だった痕跡は殆ど残っていない。。
 宿の住民はいずれも家計が苦しく、藩から年賦金を借りて返済できない「潰式(つぶししき)」といわれる農民が13軒もあったとされ、その困窮ぶりが窺われる。
 「花室川」に向かって緩やかに下って行くと、右手に「市立東小学校」がある。本陣だった川村家は、その東小学校近くだったという説があるが、何の表示もない。

大聖寺(14:30)

 国道354の左先角のセブンイレブンでトイレ兼アイス休憩で涼をとり、その先の「花室川」に架かる歩道のない「大川橋」を越えかかると、左手かなたに「筑波山」が見え、誰からともなく歓声があがる。いつぞや村谷氏達と登ったことがあるが、調べてみたら約5年前の平成16年10月24日のことだった。
 その先左手に真言宗豊山派の「大聖寺」の看板が見えてくる。「北関東三十六不動尊霊場 第三十一番札所」「真言宗大聖寺」とか、「大聖寺霊園 宗派不問」「新四国八十八箇所ミニ霊場」などの文字を配した大看板である。広い寺域を有し、長い参道を通っていくと、茅葺きの薬医門が美事である。
 寺域には、平成元年に開設された「新四国八十八箇所ミニ霊場」があり、本四国霊場の千分の一の大きさで、舗装された遍路道沿いに配され、一巡約一時間程で巡拝できるという。八十八カ所の霊場を表す各石仏の横には、納札(おさめふだ)を入れるための郵便ポストのようなものが建てられている。納札は90枚セットで500円というから、四国よりはかなり高い。山門手前左手には「75番善通寺」、四脚門を潜った直ぐ右手にはわが故郷の「83番一宮寺」の霊場があるのに気づき、歩いて1200kmの四国遍路をした時のことや故郷一宮のことを懐かしく思い出す。
 ホームページを要約すると以下のとおりである。

「羽黒山今泉院大聖寺」といい、寺歴は平安時代まで遡る。一条天皇の御代、長徳元年(995)醍醐寺成尊僧都が「今泉寺」として現在地より東約500m先の永国の中央、亀井墓地近辺に開山し、応安七年(1374)、十六世祐尊代に、小田城に拠った当地の豪族小田氏の当主、小田孝朝が「小田城四方護寺」(常陸四箇寺・小田四箇寺とも云う)を設けたのを機に大聖寺と改め、寺地も田中荘平塚(現在のつくば市西平塚)に移した。
「小田城四方護寺」は小田城を主軸として扇の如く神郡の普門寺、平塚の大聖寺、岩田の法泉寺、加茂の南円寺と配しており文字通り、小田城の出城の役割を果たしていた。
 神郡 普門寺 寺領一萬二百貫 僧兵五百也
 平塚 大聖寺 寺領  七千貫 僧兵三百也
 岩田 法泉寺 寺領  八千貫 僧兵二百也
 加茂 南円寺 寺領  五千貫 僧兵三百也
当時の平塚大聖寺は小田家と共にあったが、天正十八年(1590)の小田家滅亡の遙か以前の大永六年(1526)には常陸国長国今泉寺大聖院として現在の所在地、永国に戻っていたことが京都・東寺所蔵の「亮恵僧正門弟名帳」に記されている。現在の羽黒山今泉院大聖寺に改名されたのは、この再移転した大永六年から天正四年(1576)迄の間のことである。
 当山は幾度か火災に遭い、江戸期の貞享二年(1685)には堂宇を消失したが、同年、土浦城主松平信興が山門を寄進するなど貞享四年(1687)には再興された。
 やがて土浦藩は土屋家が城主になり、土屋政直以降歴代の城主から寺領を安堵された。延享二年(1745)には門末合わせ百六十ヶ寺を擁する檀林所格の本寺として大名と同格の格式を持つ寺院として栄え、また同年十月には伝法灌頂道場も開設している。
 文久三年(1863)、修復なったばかりの本堂その他の伽藍をまたも消失して明治維新を迎え、歴代住職や檀越の悲願実って本堂が再建されたのは、現住五十八世隆成代の昭和六十年(1985)である。昭和六十二年、北関東三十六不動尊霊場第三十一番札所になり、現在に至っている。

 当寺の華は、貞享2年(1685)、土浦城主松平信興が寄進した茅葺の薬医門(注)で、土浦市指定文化財になっている。薬医門というのは、本柱の後方に控え柱を立て、その上に女梁・男梁を架け、切妻屋根を乗せた門をいう。その奥にも茅葺の四脚門があり、これまた市指定文化財になっている。 その先右手に「大聖寺のカサマツ」(市指定名木・古木)がある。
 昭和六十年落慶の本堂「大聖殿」は、間口11間、奥行10間に1間巾の浜縁を4面に廻し、15坪の向拝が付き、総面積165坪の堂々たるもので、本尊の大聖不動明王 (土浦市指定文化財)ほかが安置されている。また、境内には護摩堂・大師堂・鐘楼・羽黒権現などがある。
そのほか、

 山門手前左奥には、「四国遍路 男厄除坂(四十二階段)」があり、カメラを向けてバックしていたら縄張りがあるのに気づかず足を引っかけて後転してしまい、左肘を擦りむいてしまったが、ついでに脇に挟んでいた日傘の骨まで折れてしまったのは「厄災」だった。まあ、その程度で済んでよかったと思うべきか。

布施道標と布施街道(15:03)

 街道に戻り、再び国道6号(バイパス)を越え、国道354号に「永国」信号で合流する。「天川団地入口」交差点の先500m程の左手のセブンイレブンの先(天川団地入口交差点付近)に「馬頭觀世音」と刻まれた大きな石柱が建っている。
 ここから入る道が「布施街道」で天川・大角豆・谷田部・旧伊奈町の小張・守谷・利根川の布施の七里の渡し・柏の根戸へと続く、享保15年(1730)に開かれた水戸街道のバイパスである。この街道は、途中に伊奈の板橋不動尊・柏の布施弁天等があり、それらへの参詣者や新四国霊場巡りの巡礼者たちの信仰の道でもあり、また谷田部藩主や笠間藩主もよくその道を利用したため、結構布施街道の利用者が多かった。この結果、我孫子・取手・藤代・若柴・牛久・荒川沖・中村等の七宿が寂れ、水戸藩は元文4年(1739)に布施街道を経由せず、本街道を利用するよう通達を発したという。
 今、この分岐には半ば土に埋もれた天保15年(1844)の道標に「右やたべ、おばり、いたばし、みつかいどう」と刻まれ、背後の馬頭観世音の石柱には「水海道、布施、関宿、流山道」とある。

下高津の道標(15:15)

 その先「国立病院入口」信号で国道354号を左に分け、右のS字形の旧道の坂道を下っていく。霞ヶ浦医療センタ-へ行く道の右手に旧家があり、やがて坂を左の方へ下っていくと、途中右手に「下高津の道標」が「水戸街道」と「板東街道」との交差点にある。
 享保18年(1735)東埼の観音講により立てられた旨の説明柱が横に建ち、道標の字も摩滅して読み取り至難だが「右江戸道」、「左なめ川 阿は(安房)道」と読めるようだ。

愛宕神社(15:17)

 その先で、左カーブした所の左手に下高津公民館があるが、その手前に愛宕神社への石段がある。東京・芝の愛宕神社のような石段を登っていくと、茅葺き入母屋造りの社殿があり、なかなか美しい。縁起など詳細は不明だが、祭神は軻遇突知命で、火伏せの神を祀っており、霞ヶ浦を一望できる地にある処から、当神社の御神燈が霞ヶ浦から川口港に入る船にとっては灯台の役目を果たしていたという。また鳥居には、寛延2年(1749)の銘が入っている。
 愛宕神社は、平貞盛によって開かれたとされ、戦国時代になると、菅谷氏が崇敬し、江戸時代になると土屋氏(土浦城主)が崇敬した。当神社には八坂神社も合祀されているため、祇園祭を行い、毎年2台から3台の山車が出るそうだ。

(参考)常福寺

 当初の想定ペースよりも時間的に遅れていたので立ち寄らなかったが、愛宕神社の奥に新義真言宗の寺院「東光山常福寺」がある。
 常福寺は、平安時代初期、最澄の高弟最仙上人の開基といわれる古刹で、国の重要文化財に指定されている「本尊木造薬師如来坐像」がある。中を覗けば鎮座しておられるお姿が拝見できるそうだが、施無畏印に薬壷を持った薬師如来は、平安時代末の作といわれる古い坐像で、温雅な面相や容姿など、藤原仏の特色が見られる由。
 また、境内には400余年の樹齢を持つ「市指定天然記念物 常福寺のイチョウ」がある。常福寺の参道入口に当たる旧水戸街道 が開通した頃(1604年)植栽されたと言われており、樹齢400余年にも拘わらず樹勢が旺盛で、秋の黄葉が素晴らしい由。樹高32m(幹周6m)のこの大イチョウは旧市内のどこからでも望むことができるそうだ。

桜川と銭亀橋(15:18)

 その先の「備前川」に架かる「備前橋」を越え、更に先に霞ヶ浦に流れ込む大きな「桜川」に架かる「銭亀橋」があるのを渡る。この「桜川」は、室町時代の能役者世阿弥(1363~1443)の謡曲にも登場している橋だとか。
 そして、そこに架かる「銭亀橋」は、慶長18年(1613)、東北諸藩に備えた幕府直轄工事として架けられた橋で、城下の洪水禍回避策として付け替えられた水路に架けられた橋で、往時は木製の太鼓橋(長さ約23m・現在はコンクリート橋)で、「土浦八景」の一つに数えられ、
   ゆうたちや 日の暮れ直す 橋の反(そり)
という句があるとか。

土浦宿

 中村宿~土浦宿は一里(約3.9km)。 現在の土浦市大手町・中央1・中央2・城北町付近にあたる。土浦藩土浦城(亀城)の城下町で、水戸街道は土浦城の東側を、複雑な枡形を繰り返しつつ迂回している。土浦宿は、土浦城の東側・南東側の一角で、南西から北東に700メートル程度の範囲で広がっている。本陣は2ヶ所(山口家・大塚家)あったが、いずれも残っていない。
 土浦藩土屋氏の城下町にある土浦宿は、城の南門と北門の中にあった。町方が一緒に城中に入っている「総構え」の城下町だった。町割が行われたのは松平信一が土浦城主(3.5万石)になってからで、その後、西尾(2万石)・朽木(3万石)・土屋(4.5万石)・松平(2.2万石)・土屋(9.5万石)と、代々譜代大名が配され、水戸徳川家と共に仙台伊達藩62万石への監視拠点の意味を有していたという。中でも土屋家2代目土屋政直は歴代藩主中で随一の名君と言われ、5代将軍綱吉政権下などで老中として活躍しているほか、地場産業「土浦醤油」にも力を入れている。

 土浦は、城下町であったのみならず、霞ヶ浦を利した水運拠点である処から、物資集散地としても栄えた。戦災に遭わなかった処から旧街道筋には古建築が残っている。また、短い区間ではあるが、宿場町・城下町らしい景観が保存されている。土浦宿の誕生について曾て当時の土浦信用金庫前の立て看板に次の様な詳しい解説があったらしいが、現在は水戸信用金庫土浦支店に代わっており、取り払われたためか見当たらない。
 水戸街道は水戸路、水戸道中とも呼ばれ、五街道に次ぐ重要な道路として日本橋と水戸を結んでいた。開通は慶長九年(1604)で、このとき中城(注:なかじょう)と東崎(注:とうざき)の二つの集落が結びつけられ、田宿、中城町、本町,仲町、田町、横町、の各町が生まれて土浦宿が誕生。本陣は二ヵ所おかれたが、おおむね本町の山口家と大塚家があたった。この二つの本陣を中心に次第に旅籠、問屋、商人宿、船宿、茶屋、商家が軒をつらね、中城町と呼ばれるこのあたりはとくに当時を偲ばせる古い家並が残っている。

 城下を縦断する旧水戸街道は、桝形のある南門から出口の真鍋までの1.2km、この通りの道幅はおよそ2間(3.6m)。その両側には商家が軒を接していたというから、千住と水戸を別にすれば、水戸街道随一の宿だったと思われる。また、どの家も間口より奥行の長い短冊形の地形だったというから、曾て歩いた日光道中の「幸手宿」の場合と似ている。

一里塚の井戸

 銭亀橋を渡ると、早速旅籠風の旧家など、所々に城下町らしい雰囲気が感じられる。街道「大町」信号の手前、左手鈴村医院の手前に、『この井戸は、日本橋から十八番目の一里塚のかたわらにあった井戸である。』と刻まれた古井戸があって、「蓋がされており、現在では井戸としての機能はなく、日本橋から18番目の一里塚が傍にあった」と聞いていて探したが、見つからなかった。

南大門跡(15:37)

 その先の「大町」信号で、土浦境線という高架道路の下を潜ると、その先左手に「市指定史跡南門の跡」と記された石碑がある。「松平信吉のとき設けられ、桝形、簀子橋とともに水戸街道南口を守る重要な門であった」とある。
 すぐ先で道は右折し、すぐ左折する。こうした城下町特有の枡形である。。ここは、「新編旧水戸街道繁盛記」291ページの城下町土浦平面図によると、江戸側から順に「枡形」、「堀川に架かる簀子橋」、「南門」の順になっている。また、銭亀橋からそこに至る街道左右の各家は、見事に短冊形地形の連なる町並みになっているのが一目できる。

枡形跡

 大町信号のある辺りが南門跡で、すぐ先染谷石材店の所で右折し、すぐ左折する。城下町に多いクランク状の道路で枡形というが、ここで外敵からの攻撃速度を遅らせたり、大名行列の鉢合わせ回避や、宿内に入るにあたっての行列を整えたりした場所である。

等覺寺(15:40)・・・(注)「等」の字は全て草かんむりの字が正当だが、わがパソコンでは表記できない。

 その先右手にある。元和8年(1622)徳川2代将軍秀忠が訪れた眞宗大谷派の名刹で、必見すべきは関東に現存する最古の梵鐘といわれる建永元年(1206)銘の「銅鐘(重要文化財)」で、小田原城を築いた八田知家が極楽寺に寄進し、その後土浦城内に移され、代々時の鐘として用いられていたが、明治17年(1884)に極楽寺ゆかりの等覺寺に移されたという経緯のある貴重なものである。土浦市内宍塚の般若寺、潮来市の長勝寺の鐘と共に、常陸三古鐘に挙げられ、国指定重要文化財になっているので必見ものと言えよう。

 また、境内にある鐘楼が市指定文化財、クロマツが市指定名木古木になっている。クロマツは樹高4.6m、幹周1.33m、あり、
               
等覺寺の指定文化財
寺伝等によれば、等覺寺(浄土真宗)の前身は、常陸藤沢にあった藤沢山三教閣極楽寺。その開基は了信と伝えられる。小田氏十五代氏治(天庵)の弟治算(慶円)によって、慶長十年(1605)現在地に移り、寺号を蓮光山正定聚院等覚寺と改められた。指定文化財には次の二件がある。
               国指定重要文化財 銅鐘
この銅鐘は、市内宍塚般若寺・潮来町長勝寺の鐘とともに常陸三古鐘のひとつに数えられている。総高一三四・九センチメートル、外径七三・八センチメートル。
 建永年間(1206~07)小田氏の祖「築後入道尊念」すなわち八田知家が、極楽寺に寄進したものである。戦国末期、土浦城主菅谷氏に預けられた。その後、土浦城本丸内にあったが、明治十七年等覺寺に返却され、現在にいたっている。銘文の「大将軍」の文字は、知家の主君である源頼朝を指しているものと思われている。
   (銘文)  鋳顕極楽寺鐘
        奉為
        大将軍
        建永
        筑後入道尊念

               等覺寺鐘楼   建造物 昭和四十八年(一九七三)十二月一日 指定
 この鐘楼は、土浦在住の大工金子清吉の手により慶応元年(1865)に建てられ、国指定重要文化財の銅鐘がつるされている。
 上部構造は、礎石に四方転びの円柱を立て、腰貫・虹梁(差し物)・頭貫・台輪・小屋梁で主要軸組を構成している。組物は二手先斗栱を用いている。また、欄間・柱四方の獅子頭・持送りなどに彫刻が施されている。屋根は二軒、扇垂木、入母屋平が正面で、唐破風が付いている。明治十九年(1886)火災によって柿葺き屋根が焼失し、瓦葺きとなっていた。
 平成八年に解体修理が行われ、屋根は瓦葺きのまま、唐破風付きに復元した。元の欄間及び獅子頭等の彫刻は客殿に展示されている。
                    平成九年(一九九七)一月
                                       土浦市教育委員会


古建築物(その1)~山口薬局

 その先突き当たりのT字路左手前に伊勢金という店がある所を右折し、すぐ左折する(2番目の枡形)と「中城通り(旧水戸街道)」に入るが、地名は中央1丁目という味気ない名前。しかし、地元が懸命に復古調の街並み造りをしたせいか、この通りには歴史的な建造物が昔日の佇まいを幾つか残している。
 その一つが、右手にある「山口薬局」で、色違いの角石を積み込んだ石蔵造り、壁はタイル貼り、二階に千本格子がある古い建物である。

古建築物(その2)~吾妻庵総本店

 その先は同じく右手にある明治6年(1873)創業「吾妻庵総本店(蕎麦屋)」で、ここも古い建物である。格子出窓造りの下屋庇屋根には唐破風をのせた豪華な看板がうだつのように立っている。一階には千本格子の窓がある。

古建築物(その3)~矢口酒店

 その隣の「矢口酒店」は 重厚な土蔵造りで、店蔵・袖蔵・元蔵の3蔵からなっている重厚な建物である。特に2階の重厚な窓扉や、壁の風化具合に歳月の重みを感じさせてくれる。天保12年(1841)9月の大火後の建物で、嘉永2年(1849)築、黒瓦屋根と一体になって黒々しい。破風造り総瓦葺き二階建、塗籠造りという防火構造になっており、県内に残っている土蔵造りの商家建築の中では、特に貴重な建物として県の文化財に指定されている。

古建築物(その4)~土浦まちかど蔵、特に大徳

 その先の右手に「土浦まちかど蔵・大徳」その向かい(左手)に「土浦まちかど蔵・野村」、がある。いずれも千本格子の古い家で、共に市の所有で、観光協会により運営されている。

◇土浦まちかど蔵「大徳」土浦市中央1-3-16 TEL029-824-2810

 特に右手の呉服屋の「大徳」は、大きな土蔵に長い石塀、広大な敷地を有し、歴史の重みと風格・偉容を感じさせる。元文5年(1740)生まれの初代緒方徳兵衛が宝暦12 年(1762)土浦で大国屋勘兵衛の店で修業、旧桜橋近くの目抜き通りで大国屋徳兵衛を名乗り呉服太物商を開店。略して「大徳」となった。
 天保13年(1842)築の元蔵ほか、江戸時代末期に建てられた見世蔵(一部明治期に増築)・袖蔵及び向蔵の4棟からなり、現在、土産品の販売・資料の展示等を行なっている。市の観光協会の事務所が置かれ、情報提供サービスが行われている。休館日は年末年始。
現在、この先に大徳呉服店があり、呉服商はそちらで営業している由。

◇土浦まちかど蔵「野村」土浦市中央1-12-5 TEL029-822-0081

 江戸時代後期から明治時代初期に建造された蔵で、江戸時代は砂糖屋だった由。ツェッペリン号の2度に亘る飛来写真(1929 & 2005年)や観光案内、予科練関係の資料展示等のほか、1人単独で米本土に爆弾を落とした藤田信雄兵曹長氏ゆかりの品々も公開している。休館日は年末年始。後ろ側の蔵で喫茶室「蔵」を開いていて、レトロな空間を提供している。
 側道には石碑、石灯籠、常夜燈、ベンチなどを配した小公園を形作りその奥には琴平神社と不動院がある。共に霞ヶ浦の湖上交通の安全を祈願する船主や荷主たちによって信仰されてきた。

(参考)本陣「山口家」跡

 まちかど蔵「大徳」の先の角を右に入ると、左手の旧京成デパート跡の駐車場近くに「イバラキクリニック(歯科)」があり、その辺りが土浦宿に2軒あった本陣の内の1軒、「山口家」だったとのことだが、その跡を示す標識は何もないらしいので立ち寄らないでパスした。
 記録によれば、本町の名主太田甚五兵衛が本陣を兼ねていたが、寛保2年(1742)の火災で類焼したため、延享元年(1744)山口弥左衛門が新たに本陣を仰せつけられた由。

琴平神社・不動院

 土浦まちかど蔵・大徳の前、まちかど蔵「野村」の横にある琴平神社と右手の不動院に行く。その手前に後出の退筆塚がある。「土浦城跡(亀城公園)」にはきょうは立ち寄らない。

 琴平神社(通称こんぴら様)は、小さいながらも歴史的な風格がある。『新治地区神社誌』(茨城県神社庁新治支部、1992年)には、「明和二年(1765)、四国金比羅宮より分霊。現存する記録によると、安永四年(1775)、土浦城下中城町不動院境内に社殿を建立(略)明治二十二年(1889)には敷石及び旗立石等が寄進され、寄進人員は六千余名に及んだ。」とある。
 金比羅様は海・海運の神様なので、霞ヶ浦の舟運による繁栄が背景にあると推察される。神仏混淆の歴史があるとは言え、ここは不動院境内で、そこに神社が創建されるなどは日本の信仰の不思議な側面だろう。
 境内に残る手洗石は、『新治地区神社誌』には「天保十一年(1840)、手洗石建造」とある処から、おそらくその時のものと推察される。

沼尻墨僊(ぼくせん)の寺子屋跡・退筆塚

 その横に「沼尻墨僊の寺子屋跡」の解説板があったそうだが気づかなかった。享和3年(1803)琴平神社境内に沼尻墨僊が寺子屋を開き、県南地方最大の寺子屋になったと記されていた由。
 その横と思われる所に「退筆塚」碑がある。これは、沼尻墨僊七回忌の文久2年(1862)にその遺徳を偲び、中城町の伊勢屋庄三郎ら門人有志が建てたもので、穂先がすり減った筆(退筆)のための供養塔である。「筆塚」というのを何ヵ所かで見たことがあるが、それと同じものと考えて良さそうである。
この他にも旧中城町の由来を記した碑があり、桜橋から移設された遺構の一部が狭い参道の片隅に置かれている。

(参考)土浦城跡(亀城公園)

 不動院を出て北に向かい、突き当たりを左折して30m程先を右折すると、正面に元・土浦城(亀城)のあった公園が見えてくるのだが、きょうは時間的にも遅くなっているのでパスし、次回の楽しみとしたが、簡単に触れると次の通りである。

 周りは堀を巡らした城跡だが本丸は現存せず、土塁と内堀、本丸表門の櫓門、裏門の霞門、東西の櫓などが残る。東櫓の上は小さな資料館で壁の模型などが展示されている。

 土浦城は、古くは平将門が砦を築いたところから始まったと言われるが、明確な記録は時代が1400年代からである。築城は永享年間(1429~40)、若泉三郎とされる。小田氏麾下の信太・菅谷が居城、小田原合戦後は結城秀康の支配になり、次の松平氏が城郭への整備を進め、江戸に近い譜代藩の例で、西尾、朽木、土屋氏へと領主が交替。唯一の建物遺構である太鼓櫓は、慶安に入封した朽木稙綱の築造である。明治に廃城になったが城は平屋で、何重もの堀に囲まれた様が、まるで水に浮かぶ亀を連想させたことから、亀城とも呼ばれたという。威圧的な城山や石垣が無く、平で穏やかな雰囲気を持つ城だったようだ。

 本丸館はもはや無く、現存するのは土塁と内堀、外堀の一部、それに明暦2年(1656)朽木氏が改築した霞門(本丸裏門)、文久2年(1862)築の高麗門、櫓門など)が幾つか残り、東櫓、西櫓が復元されるなど、昔日の面影を伝えているが、天守閣は元々無く、本丸中央に書院造りの館があった。春は桜の名所になり、また、樹齢約500年の見事なスダジイや、高さ16m・目通り幹周約7m・樹齢500年と言われる年代物の「椎」の大樹が立っている。昔、土浦城主菅谷勝貞が叔父の信田範宗を殺害し、その霊を鎮めるために供養塔を建て、その横に植えたのがこの椎だと言われている由。
              
土浦城跡および櫓門
   県指定史跡 第1号
   土浦市中央一丁目
   昭和27年(1952)11月18日 指定
   管理者 土浦市
 土浦城は、一名亀城(きじょう)ともよばれ、平城(ひらじろ)で、幾重にも巡らした濠を固めとする水城(みずじろ)でもあった。城は、城跡に指定されている本丸・二の丸を中心に、三の丸・外丸のほか、武家屋敷や町屋を含み、北門・南門・西門を結ぶ濠で囲む総構えの規模をもつものであった。
 江戸時代の建物としては、本丸表門の櫓門・裏門の霞門、二の丸と外丸の間に移建された旧前川門(高麗門)があり、復元された建物としては、東櫓・西櫓がある。
 戦国時代には、城主は若泉氏、信太氏、菅谷氏と変遷したが、織豊期には結城秀康の支配下に入った。江戸時代の城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変ったが、土屋政直が再び入城して、以後明治維新に至るまで土屋氏(9万5000石)の居城となった。
 明治以後、本丸跡は土浦県庁、新治(にいはり)県庁、新治郡役所、自治会館などに利用されたが、現在は二の丸の一部とともに亀城(きじょう)公園となっている。
                 平成11年(1999)6月
                                土浦市教育委員会/土浦亀城ライオンズクラブ寄贈


 また、傍にある「市立博物館」には、亀城や宿場に関する資料などが展示されている由である。また、敷地内には「土浦領境界石」や「真鍋の道標」があるという。往時は土浦一高前の筑波街道との分岐点にあったが、ここに移設されており、享保17年(1732)の建立で土浦市内最古の道標の由。「右ふちゅう 水戸道」「左きよたき つくば道」とある。梵字入りである。
 なお、「ふちゅう」は常陸国府中、即ち常陸国府のあった石岡市のことである。また、「きよたき」とは、坂東三十三観音霊場の一つ「清滝観音」のことである。

ゴール(16:02)

 本日の街道歩きはここまでとし、16:02に国道125号を南下し始め、次の交差点手前で右手が日生ビル、左手に「イチムラ帽子かばん店」のある先を左に入り込んだ所にある「幸福稲荷」や、郷土の文人高田保像(その先の「土浦高架道」下)を見ながら土浦駅に向かった。桜橋の跡や道路元標を見忘れたが、次回の楽しみということにして、16:20少し前に駅に到着、16:28発上野行きに乗車し、増結車両に悠々着席できて缶ビールで渇いた喉を潤しつつ帰途についた。段々と帰途が遠くなるが、あと3回でこのシリーズも完歩できる予定である。

 猛暑の中での街道歩きだったが、一日の総歩数は41,383歩を数えており、最近(2009年)の街道歩きの中ではよく歩いた一日となった。

     ★2009年1月以降の一日に20,000歩以上歩いた回数-------(注) 8月は 16日現在

        月度 20,000歩 25,000歩 30,000歩 35,000歩 40,000歩 45,000歩
         1    
0     1     2     3     0     0
         2    1     1     2    
0     0     1(48,555歩)
         3    
0     0     0     2     1     0
         4   
0     0     1     1     1     0
         5    1     
0     0     0     1     0
         6   
0     0     0     1     0     0
         7   
0     0     1     2     0     0
         8   
0     1     0     0     1     0